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2009-07-18

コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー


「はじめて読むドラッカー【自己実現編】」と表紙にある。ドラッカー入門という位置づけの抄録。しかしながら単なる抜粋の寄せ集めではなく、ドラッカー思想のエッセンスが結実している。


 ただし、やはりと言うか、案の定と言うか、思想のドライブ感に欠ける。うねるような勢い、高鳴るリズム、沈思と昂奮のせめぎ合い、といったものが感じられなかった。


 もう一つ。上田惇生の訳がよくないと思う。略歴に経団連会長秘書、ものつくり大学教授とあることからもわかるように、所詮権力側の人物だ。悪人だと決めつけているわけではないが、コントロールする側にとって都合のいい考えが盛り込まれている可能性がある。また、ドラッカーの著作を翻訳する際は、思想的背景や価値観の根拠といったものを補強する必要があると私は思う。その意味で、民間の――できればベンチャー企業の――ビジネスパーソンによる新訳に期待したい。


「翻訳」とは一種のフィルターである。それゆえ、「翻訳された情報」はバイアスが掛かっている。だから、文にとらわれて義や意を見失えば、著者を知ることはできない。翻訳の信頼性を私が判断する基準は「腑に落ちるか否か」という一点である。ドラッカーの場合だと、部分的には痺れるテキストもあるのだが、全体的には肚(はら)にストンと落ちてこない。


 それでも、十分示唆に富んでいる。例えば、「コミュニケーションの第一原理」として次のように書いている――


 仏教の禅僧、イスラム教のスーフィ教徒、タルムードのラビなどの公案に、「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」との問いがある。今日われわれは、答えがノーであることを知っている。たしかに、音波は発生する。だが、誰かが音を耳にしないかぎり、音はしない。音は知覚されることによって、音となる。ここにいう音こそ、コミュニケーションである。神秘家たちも知っていた。「誰も聞かなければ、音はない」と答えた。

 このむかしからの答えが、今日重要な意味をもつ。この答えは、コミュニケーションの内容を発する人間、すなわちコミュニケーターではない。彼は発するだけである。聞く者がいなければ、コミュニケーションは成立しない。意味のない音波があるだけである。これがコミュニケーションについての第一の原理である。


【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー/上田惇生編訳(ダイヤモンド社、2000年)】


 私が10代の頃、この問いを友人のシンマチから聞いた覚えがある。よもや、禅の公案だとは思わなかった。シンマチは確か「木の枝が折れた音」と言っていた。私は少し考えてから「する」と答えたように記憶している。シンマチはしてやったりという表情になった。ただし、あいつからの説明に納得した憶えがない。


 実はこの問いがずっと心に引っ掛かっていた。実に四半世紀も引き摺っていたことになる。


 ドラッカーはこの問いから、コミュニケーションは受け手がいることで初めて成立すると主張している。この前段では、組織における上意下達型コミュニケーションに対して警鐘を鳴らしている。そして、「大工と話す時は、大工の言葉を使わなければならない」というソクラテスの言葉(※プラトン著『パイドン』)も紹介されている。


 ドラッカーの主張は正しいと思う。しかし、私がどうしても腑に落ちないのはその前提である。この問いに限らず禅の公案が胡散臭いのは、思考を揺るがすところに問いの目的があるからだ。このため、「答えはどうでもよく、お前の先入観がグラグラすればオッケー」といったあざとい印象を受けてしまう。問いに切実さがない。真剣さを欠いている。仏教の智慧とは、決して頓知ではないはずだ。


「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」――するに決まっているよ。鳥や虫達が確実に聞いているはずだ。あるいはその音波がバタフライ効果を生むかも知れない。関連性・相互性の思想に「仏教の縁起」があるが、縁起という思想は“人間の認識”という範疇にとどまるものではない。


 もっと簡単に私の考えを述べよう。「無人の山中」を想像した途端、そこに私自身が存在している。つまり、私の脳内において木が倒れる音が発生するのだ。認識・知覚というレベルを推し進めれば、バーチャルであろうと、認知症であろうと、幻聴・幻覚であろうと、本人にとっては「存在する」ことになってしまう。なぜなら、存在の本質は情報であるからだ。また反対に、実際に存在する放射能や超音波を我々が知覚することはできない。


 ドラッカーが説いているのは、企業組織におけるコミュニケーションである。私が首をかしげてしまうのは、苦悩に喘ぐ人々の声が社会に届いていない現実があるためだ。教育委員会の認識によれば、いつだって「いじめの事実はない」ことになる。この一点において、ドラッカーのコミュニケーション論は人間の本質を探るものではなく、有機的な会社組織のあり方を論じたものであると考えるべきなのだろう。


 人間同士のコミュニケーションの前提は、情報の有益性にあるのではなく、互いを人間として見つめる視座に存在する。今時ときたら、互いを貶(おとし)め合うような、マイナスコミュニケーションが多すぎる。


 尚、最後に付言しておくと、こうした考えに至ったのは、「小林秀雄は真っ当なことを言ってるのに、好きになれないのは何故だろう」というhengsu氏からのブックマークコメントの影響が大きい。記して感謝申し上げる。

プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))

2009-06-19

人生の逆境を跳ね返し、泣きながら全力疾走する乙女/『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子

 山口絵理子は「マザー・ハウス」というバッグメーカーの社長である。バングラデシュのジュート(麻)を使用したバッグは、すべて現地工場で製造されている。


 小学校に上がって直ぐいじめに遭う。中学では非行少女に。そして高校時代は柔道選手として埼玉県で優勝。一念発起をして偏差値40の工業高校から慶應大学に進学。在学中に米州開発銀行で働く機会を得て念願の夢がかなった。だがそこは、貧しい国の現場からあまりにも懸け離れていた。ある日のこと、山口はインターネットで検索した。「アジア 最貧国」と。出てきたのは「バングラデシュ」という国名だった。1週間後、山口はバングラデシュ行きの航空券を手配した。


 山口絵理子は逆境に膝を屈することがない。だが、山口はよく泣く。そして泣きながら全力疾走するのだ。


 彼女の生きざまは高校時代の柔道によく現れている。埼玉県内の強豪である埼玉栄高校を打倒するために、男子の強豪である工業高校へ山口は入学する。女子柔道部がないにもかかわらずだ。監督はバルセロナ五輪の代表を古賀稔彦(としひこ)と争ったこともある元全日本チャンピオンだ――


 そんな不安を振り切るために練習量を多くしていった。

 私は、高校の朝練の前に自宅の前にある公園で一人練習をはじめた。

 そして朝と午後の部活が終わってからは学校の1階から5階までを逆立ちで上がるというトレーニングを5往復毎日実践した。

 それから電車で30分かけて町の道場に直行し、また2時間練習をし、それからまた家に帰り一人打ち込み、筋トレをする、三食の前にはいつもプロテインという、今思えばゾッとするような日々を365日、休みなく続けた。

 私の部屋は、そこら中「目指せ、日本一!」「打倒 埼玉栄!」などと書かれた汚い壁紙でいっぱいだった。

 そして、毎日つけている柔道日記は、悔し涙でどのページもはっきりと見えなくなっていた。それでも、勝つことはできなかった。

 夏の合宿があった。猛暑の中、私はいつものとおり稽古をした。

 監督が久しぶりに柔道着になって私の名前を呼んだ。

「やるぞ!」

 私はこの監督との稽古で、通算10回も絞め落とされたのだった。「絞め落とされる」とは、簡単に言えば頚動脈を絞められて、意識を失う状態が10回もあったということである。

 私はその稽古中、唇は真っ青になり、青あざのある顔面は鼻水と涙でぐちゃぐちゃになり、どうしようもなくこの場にいるのが怖く耐えられなくなり、脱走を試みた。

 自分でもどういった精神状態だったかは正確に覚えていないが、私は柔道着のまま全力で走った。

「もうやだ!」

 走る、走る。

「家に帰るんだ! もう柔道なんてやりたくない!」

 後ろから、巨漢の先輩が追いかけてくる。

 担ぎあげられた。監督の前に連れて行かれ、「てめぇ! 逃げ出す奴がいるか!」

 と思いっきり殴られた。

 私はプッチンと切れ、思いっきり監督の腹をパンチした。監督は思いっきり私をまた殴った。私は全力で殴り返した。

 そんな死闘の末、合宿は終わり、私はもう「やめたい」と本気で思った。人の何倍も練習しているのに、全然勝てない。

 練習でこんな目にあって、そして周りからは白い目で見られ、心も体もボロボロだった。

 私は泣きながら、部屋に飾ってある「目指せ、日本一!」の壁紙を破り捨て、柔道着を段ボール箱にしまい、柔道をやめる決心をした。


【『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子(講談社、2007年)以下同】


 私も運動部だったので、彼女の練習量がどれほど凄まじいかがよく理解できる。吐くゲロすら残っていない状況だ。育ち盛りとはいえ、これほどの練習をしてしまえば、今尚深刻なダメージが残っていることだろう。監督を「殴り返した」ことから、ぎりぎりまで追い詰められた彼女の様子が見てとれる。


 高校生の山口は泣き明かし、泣き通す――


 1週間くらい部屋に閉じこもったままで、ずっと泣いていた。

 7冊以上たまった柔道日記を見た。そこには、

「絶対にあきらめない。絶対にあきらめない。あきらめたらそこで何かも終わってしまうから」

 と書かれていた。

 袖がちぎれて半そで状態になっているボロボロのミズノの柔道着を、段ボール箱から出してみた。

 柔道着の裏には、秘密で私がマジックで書いた「必勝」という汚い字が見える。その柔道着を見て、今までの辛い猛練習が頭いっぱいに広がった。

 雑巾みたいに、毎日投げられ続けた日々。それでも私は、いつも立ち上がって向かっていった。

 投げられても、投げられても、「来い!」って言って私は巨漢に立ち向かっていったはず。

 次の日、朝練に向かった。

 また地獄のような練習がはじまった。

 ずっと練習に参加していなかった私を白い目で見る先輩たち。

 練習ではいじめられた。壁にわざとたたきつけられ、引きずり回され、また絞め落とされ、私は吐いた。耳はつぶれてしまったが、それでも頭にぐるぐるテーピングを巻きつけ練習を続けた。

 ある日、膝の靭帯(じんたい)を3本も切断し歩けなくなった。

 病院に行ったらお医者さんが言った。

「手術をしないと30歳になったとき、確実に歩けなくなる」


 勝てなかった山口だったが、3年生の時に埼玉県で優勝。全国大会で7位に輝いた。もう少し手を伸ばせばオリンピックが見える位置まで上り詰めていた。しかし、柔道をやり切った彼女は別の道を選ぶ。


 そんじょそこいらの成功物語を自慢気に語るビジネス書ではない。心清らかな乙女の見事な半生記だ。10代、20代の女性は必読のこと。30過ぎの男どもは、本書を読んで己の姿を恥じよ。

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

2009-05-10

ティッピング・ポイント/『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル

 ネットワーク理論の秀逸な教科書本。ティップ(tip)は「傾く」で、ティッピング・ポイントは「大きな転換点」という意味。防波堤が決壊するイメージ、といえばわかりやすいだろう。


 何かが流行する現象――商品、言葉、文化、病気など――には必ずティッピング・ポイントが存在する。その意味でSB文庫(※ソフトバンクね)のタイトルは、飛鳥新社版(2001年)『なぜあの商品は急に売れ出したのか 口コミ感染の法則』を踏襲しており、本書の価値を単なるビジネス書に貶(おとし)める愚行を犯している。


 ティッピング・ポイントの特徴は次の通り――


 感染とは、換言すればあらゆる種類の事象に備わっている予期せぬ特性のことであり、伝染病的変化というものを理解し、診断するうえでは、まずこのことを念頭に置いておく必要がある。

 伝染病の第二の原理――小さな変化がなんらかのかたちで大きな結果をもたらすということ――もまたたいへん重要だ。


【『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル/高橋啓訳(ソフトバンク クリエイティブ、2007年/旧題『ティッピング・ポイント』飛鳥新社、2000年)以下同】


 これら三つの特徴――第一は感染的だということ、第二は小さな原因が大きな結果をもたらすこと、第三は変化が徐々にではなく劇的に生じるということは、小学校での麻疹(はしか)の蔓延や冬のインフルエンザの伝染の仕方と同じ原理に基づいている。この三つの特徴のうち、第三の特徴――すなわち感染の勢いはある劇的な瞬間に上昇したり下降したりすることがありうるという考え――がもっとも重要である。というのも、この第三の特徴こそが最初の二つの特徴を意味あるものにし、現代における変革がなぜこのようなかたちで生じるのか、その理解を深めてくれるものだからである。

 なんらかの感染現象において、すべてが一気に変化する劇的な瞬間を、本書ではティッピング・ポイントと呼んでいる。


 先月から、豚インフルエンザ(※食肉業界からの圧力は私に及んでいない)の世界的な感染が懸念されているが、感染症(エピデミック)がアウトブレイク(感染爆発)して世界中に広がることをパンデミックという。現在、WHO基準ではフェーズ5だが、これがフェーズ6になるとパンデミック期となる。ここでいうアウトブレイクがティッピング・ポイントに該当する。


 そういや、「百匹目の猿」という話がありましたな。今、調べたところ、ライアル・ワトソンによるインチキ話だったことを知った。くそっ、筆を折られた思いがする。

 結局のところ、隣の家で風呂を沸かしても、私のところの風呂は熱くはならないって話だな。とすると、ティッピング・ポイントの鍵は情報の伝播(でんぱ)ということに落ち着きそうだ。


 文明の発達は、人や物の移動、そして情報伝達のスピードを加速させた。グローバリゼーションによって、アメリカのインチキ債券(※サブプライムローンね)が世界各国の経済にダメージを食らわせた。文字通り「世界は一つ」だ。風が吹けば桶屋が儲かり、米国が戦争をすると日本が儲かるってな仕組みだ。


 よくよく考えてみると、文明の発達とは権力保持のための武器だったのかも知れない。我々が受け取る大半の情報は新聞・テレビ・ラジオによるもので、まず自分で確認することがない。各社が発信する情報を鵜呑みにした上で、職場の同僚や友人と情報交換をしているのだ。メディアは大脳だ。そして国民が末梢神経。


 最も恐ろしいことは、高度に情報化された社会が権力者によってコントロールしやすいという事実である。人間という動物は実のところ、情報の真偽にはとんと関心がない。いつだって嘘の情報を信じることができる。歴史上の虐殺は正義の名の下に行われてきたが、いずれも権力者がでっち上げた正義であった。


 人類全体にとって、よりよいティッピング・ポイントを望むのであれば、我々は「正義を疑う」ことから始めなければならない。今日は母の日。カーネーションを贈る風習は、平和に献身したミセス・ジャービスの葬儀で娘のアンナが白いカーネーションを参列者に配ったことに由来している。だが、これもまた商業主義によって捻じ曲げられてしまった。「乗せられる」人々が多いほど、悪しきティッピング・ポイントはなくならない。

急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則 (SB文庫 ク 2-1)

2009-05-03

ファシズム全体主義を徹底的に糾弾する一書/『ドラッカー名著集 9 「経済人」の終わり』P・F・ドラッカー


 ドラッカーの処女作である。書き始めたのはヒトラーがドイツ首相となった直後のこと(1933年2月)。ドラッカーは23歳だった。書き上げた後も原稿を温めていた。ドラッカーの予測は次々と的中した。こうして1939年(昭和14年)に刊行されベストセラーとなった。イギリスのウィンストン・チャーチルが最初に書評を書き「タイムズ」で激賞。後に首相となったチャーチルはイギリス軍士官学校の卒業生に与える支給品の中に本書を加えるよう指示した。


 本書は、第二次世界大戦に先駆けて発行された。翌1940年にはパリが陥落。連合国側ではイギリスが最後の砦となった。ということは、20代の無名の青年がファシズム全体主義を徹底的に完膚なきまでに打ちのめした本書によって、連合国側の大義名分を力強く支えた可能性がある。「正義によって立て、汝の力二倍せん」(ブラウニング)。


 正直言って歯が立たなかった。何度か読み直すことが必要だ。世界大恐慌から第二次世界大戦という混乱の中からファシズム全体主義は生まれた。そして今再び、世界が経済的なダメージを受けている。70年後の今こそ本書は読まれるべき傑作である。


 本書は政治の書である。

 したがって、学者の第三者的態度をとるつもりも、メディアの公平性を主張するつもりもない。本書には明確な政治目的がある。自由を脅かす専制に対抗し、自由を守る意思を固めることである。しかも本書は、ヨーロッパの伝統とファシズム全体主義との間にはいかなる妥協もありえないとする。


【『ドラッカー名著集 9 「経済人」の終わり』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉訳(ダイヤモンド社、2007年/岩根忠訳、東洋経済新報社、1958年)以下同】


 ドラッカーは烈々たる決意を披瀝している。彼は19歳の時、ナチスが台頭するドイツにいた。若く澄んだ瞳でファシズムが産声(うぶごえ)を上げる様子を見つめていた。それどころか、ドラッカーは同僚記者からナチス入党を勧められた。編集長という好条件つきで。その直後にドラッカーはドイツを脱出する。そのころ既にナチスを批判する記事を彼は書いていた。


 なぜ民主主義諸国は自らの信条のすべてを脅かす重大な脅威を抑制できないのか。臆病だからではない。ファシズム全体主義との闘いのためにスペインで命を捧げた数千の労働者、追悼の歌さえないドイツとイタリアの無名の地下運動家など、英雄的行為は確かに存在した。勇気がファシズム全体主義を止められるものならば、それはとうの昔に止められていたはずだった。

 ファシズム全体主義の脅威に対する闘いが実を結んでいない原因は、われわれが何と戦っているかを知らないからである。われわれはファシズム全体主義の症状は知っているが、その原因と意味を知らない。ファシズム全体主義と闘う反ファシズム陣営は、自らがつくり出した幻影と闘っているにすぎない。

 この無知が原因となって、民主主義国の中に、ファシズム全体主義の過激さは一過性のものにすぎないとの見方が生まれ、さらにはファシズム全体主義そのものも永続しないとの錯覚が生まれている。そしてこの両者が相まって民主主義勢力を弱体化している。したがってファシズム全体主義の原因の分析こそ緊急の課題である。


「知は力」「学は光」というが、これほど骨太の知性を私は見たことがない。ドラッカーはファシズム全体主義と同様に、マルクス経済主義もこてんぱんにこき下ろしている。


 ドラッカーは徹底して「社会」を見つめた。歴史や世界を「人々の動き」から読み解こうとした。ファシズム全体主義の目的は“体制の維持”であり、そこに“社会の発展性”は欠落している。目的地は不問に付され、ただ“走ること”が求められる。


 ドラッカーはヨーロッパ史をひもとき、宗教に言及し、抑圧された大衆がイデオロギーに翻弄される様相を炙(あぶ)り出す。戦後、50年を経たとしても、これほどの書物を著すことのできる人物がいるだろうか? それを開戦前に、しかも20代の青年が著したのだ。


 ドラッカーによれば、13世紀には「宗教人」なる概念の崩壊があり、16世紀には「知性人」なる概念の崩壊があったとしている。そして、20世紀から21世紀にかけて「経済人」なる概念が崩壊しつつある。新しい時代は、情報を価値にできる人=知恵人が求められているように私は思う。


 追伸――表紙は金縁にしておきながら、中身は紙質の悪い紙を使用していて、「名著集」に相応しくない。ダイヤモンド社のあざとさが丸出しだ。本の作りからいえば、1500円でも高いと思う。それと、引用文でもないのに段落下げをする意味が理解できない。

ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり

2009-04-14

世界大恐慌 ドラッカー19歳/『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生


 そろそろピーター・F・ドラッカーを読もうと思い立ったのだが、いずれの内容も重量級と察して本書を選んだ。正解だった。上田惇生は、ドラッカー作品の大半の翻訳を手掛け、ドラッカー本人とも親交があったという。やや礼賛が勝ちすぎていて鼻につくがこれは仕方がないだろう。


 ドラッカーは、“マネジメント”という概念を生んだ人物である。私は勝手に、「長谷川慶太郎を10倍くらい偉くした人」程度にしか思っていなかった。違っていた。「私が間違っていました」と100回書こうかと思った。


 ドラッカーは「文明の観察者」であった。彼は徹底して、政治と経済に影響を与え、そして影響を被る“人間”を見つめた。更に理論と体系化の価値を重んじながらも、それらに捉われることがなかった。


 当然といえば当然だったが、港町ハンブルグでの生活に耐えられなくなったドラッカーは、ドイツの金融センター、フランクフルトへ転居し、大学も名門フランクフルト大学に籍を移した。仕事も英語が話せることでアメリカ系の証券会社に転職した。しかも半年ほどして景気上昇を確信する論文を書き経済誌に掲載された。

 ところが、最新の理論モデルとデータを駆使したその論文が出た直後、あの株式大暴落、世界大恐慌が起こった。1929年、ドラッカー19歳のときだった。それ以来、彼は理論による予測とくに数学モデルを使う予測は一切やめた。


【『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生〈うえだ・あつお〉(ダイヤモンド社、2006年)以下同】


 実に興味深いエピソードだ。19歳という若さが、素早い方向転換を可能にしたのだろう。これが30代、40代であれば、保身に汲々としていたかもしれない。


 理論を支えているのは統計(データ)である。だが、データというものは全て過去の出来事である。つまり、理論は過去に向かって開かれたものなのだ。であるがゆえに、完璧な理論はこの世に存在しない。理論は常に修正を加えられ、またある時には完全に否定される。


 人間の脳は“類比(アナロジー)”せずにはいられない(養老孟司著『カミとヒトの解剖学』法蔵館、1992年)。しかしながら、それは固定した性質のものではなく、生涯にわたって進化し続けるものだ。そして“人間を見つめる視点の高さ”によって、理論の抽象度が高まる。


 その後、ドラッカーはナチス・ドイツと袂(たもと)を分かち、10年後に初めての著作となる『「経済人」の終わり』(1939年/岩根忠訳、東洋経済新報社、1958年)を出版。無名の青年が世に問うた作品を、首相になる前のウィンストン・チャーチルが激賞した。首相になるや否や、「イギリスの幹部候補生学校の卒業生全員に配った」。若きドラッカーの主張が、第二次世界大戦に影響を与えたといっても過言ではない。


 著者はこうも記している――


 日本経済を発展させたのは、日本政府ではなく日本企業であり、その日本企業にマネジメントとマーケティングを教えたのがドラッカーであり、品質管理を教えたのがエドワード・デミングであり、生産システムを教えたのがジョセフ・ジュランである。3人ともニューヨーク大学の教授だった。


 私は少年時代を高度経済成長期の中で過ごした。ドラッカーに恩があることを初めて知った。

ドラッカー入門―万人のための帝王学を求めて