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2010-01-09

情報、知識、思想、哲学、宗教/『おテレビ様と日本人』林秀彦


 一見すると、林秀彦の真剣さは強迫神経症をかもし出し、真面目さは被害妄想に導いているように感じられる。それはきっと半分当たっている。もう半分は「行き過ぎた成功からの反動による行き過ぎた自省」であろう。メディアの寵児(ちょうじ)は誰よりもメディアの毒を飲んだ者でもあった。


 特に本が人間の最大で最強の武器となったのは、哲学が文字によって書かれたときだった。人間はこのとき、文字通り「百獣の王」の座を得たのだ。その座こそ「考える努力」が与えた最大の褒賞だった。だが私は太鼓判を押そう。日本の全国会議員の書庫を探しても、哲学書は10冊と発見できないだろう。

 その頃、本が“情報”だなどと考えた人間は一人もいなかった。人間にはまだ「永遠なるもの」を求める力と夢があったのだ。人間は永続するもの、普遍なるものを得ようと、日夜努力していたのだ。そのどちらの要素も情報にはない。情報はごく一時的な知識であり、かつその正誤は度外視されている。その上、新しい情報が生れれば意味を失い、真の損得には無関係である。永遠性のある情報などというものはこの世にない。誰もプラトンの与えた“情報”、カントの与えた“情報”、トインビーの与えた“情報”などとは考えない。彼らが教えたのは、情報の虚(むな)しさであった。


【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】


 林は自殺未遂をした挙げ句、メディアという世界から逃げ去った。そして、毒されたメディアを擁する日本という国家から脱出し、オーストラリアに避難する。失った自分を取り戻すために。林は一切の情報を遮断し、山林に隠棲する。妻も去って行った。彼は孤独へ向かい、孤独を堪能し、孤独の豊かさを味わい尽くす。独りで本を開きながら……。


 情報、知識、思想、哲学、宗教の違いは何か? 言葉が構成しているにもかかわらず、何がどう違うのであろうか? 「魂に与える衝撃の度合い」などと言ってしまえば格好がつくように思えるが、変化の持続性という意味では賞味期限と一緒だ。たぶん賞味期限なのだろう。


 ソクラテスは文字を嫌った。なぜなら、文字は死んでいるからだ。文字ではソクラテスが求める「対話」は成立しなかった。


 通信やメディアの技術革新によって高度情報化社会は到来した。情報は膨(ふく)れ上がり、その遠心力でもって解釈や解説が放射される。情報は光のように凄まじい速度で拡散する。


 宗教は裁断され、哲学は断片化し、学問は細分化された。こうして全ての言葉が「情報化」されつつある。カタカナ語が拍車をかけて、言葉から意味性を奪って印象性だけを与えようとする。フィーリングってやつだよ。重みを失った言葉は宙に浮かんで空回りし続ける。


 我々の頭の中は、粉砕された情報で埋まっている。まるでゴミだ。リサイクルすることもなければ、ディスククリーンアップもデフラグもしない。脳は宇宙塵で構成されている。無意識はダークマター暗黒物質)だ。


 だが、宇宙の摂理はバラバラになったエネルギーを再び高密度・高音へと誘(いざな)い爆発を起こす。とすれば、今足りないものは何か? それは「新しい哲学」だ。宇宙塵と化した我々一人ひとりが何かを求めて、微妙に影響を及ぼし合い、手掛かりとなるような光子(こうし)を見つけることができれば、世界は――そして我々は――再び何かを誕生させるに違いない。


 あるいは「新しい歌」か――。

おテレビ様と日本人

2009-07-23

理工系人間は正確さにこだわり、人文系人間は意味を尊重する/『おテレビ様と日本人』林秀彦


 林秀彦は、人気テレビドラマ『鳩子の海』や『七人の刑事』の脚本を書いた人物。後に、バラエティショーの司会やFMのディスクジョッキーも務めた。その“テレビ側の人物”が、怒りを込めて完膚なきまでにテレビの毒性を糾弾している。


 この本は賛否両論が極端に分かれることだろう。時に著者の感情が激しく振れ、極論に走っているためだ。やたらと「白痴化」という言葉が出てくる。林は激怒する。日本を滅ぼしつつあるテレビに対して。林は歯軋(はぎし)りする。自分の人生を狂わせたテレビに対して。そして林は涙する。テレビの圧倒的な力の前であまりにも無力な自分に対して。著者は憤怒(ふんぬ)の形相で、さめざめと涙を流し続けているのだ。


 著者が自殺未遂に至る過程や、テレビ界を去って日本を脱出した後の人生を知り、私は「この人物は信用できる」と判断した。


 林秀彦は意図的に話を単純化する。既に白痴化しつつある衆生(しゅじょう)に向かって二者択一の選択を強いる目的で――


 たぶん神は、最初から人間を、理工系に作ったのだろう。だが神自身は、あくまで文科系である。と同時に、実に矛盾することだが、その神を祀(まつ)るあらゆる種類の教会的存在の建立者と運営者は、理工系である。そこに、非常に大きな人類の問題、葛藤、悲劇が生まれている。神自身はテレビを見ない。伝道者はテレビが大好きだ。文科系の神を宣伝するために、進んで理工系の手段を講じる。

 ジャパングリッシュで誤用されているのは、ヒューマニズムの使い方だ。人道主義とか博愛といった意味でこの英語を使うが、間違っている。その意味ならばヒューマニタリアニズム(humanitarianism)を使わなければならない。人間尊重を本義とするヒューマニズムはキケロに始まり、ヨーロッパの伝統的な思想であり、意味の変遷はあったが根本は変わっていない。すなわち、その時代時代で、人間性を損なうものすべてに対して抵抗する思想である。現代で言えば過度な科学の進歩、つまりおテレビ様、コンピューター、核兵器、その他もろもろ、に対する挑戦的姿勢と、それからの守備思想だ。

 そこで簡単に言い切れないことを、簡単に言い切る。

 ヒューマニズム信奉者は人文系の人間性であり、敵対者が理工系の人間である。職業的な意味でないことは前に断った。思考癖とでも言えるだろうか。性格、性癖と取ってもいい。意識・無意識は別にして、理工系の人間は非人間思考であり、人間性を失うことが進歩だと錯覚している。

 その顕著な現れのひとつは、間違いを嫌う性格だ。無謬をもって人間の最善とする「癖・へき」を持っている。彼ら・彼女らは、分析力と思考力の区別をつけていない。

 たとえばひとつの情報の正誤は分析できるが、そのいずれの場合にも含まれる「意味」は考えられない(考えたと錯覚しているが、それは分析である)。人文系人間、真の意味のヒューマニストには、正確は二義的な問題である。いずれであろうと、彼らが集中する対象は、それらが持つ「意味」である。正は正なりに、誤は誤なりに。

 理工系人間はヒューマニタリアンになりえても、決してヒューマニストにはなれない。なぜならば、理工系人間は高貴であってはなりえず、また、高貴になりえない。無論この「高貴さ」は人間の定めた身分的なものではない。神の定めた人間性の一部である。ヒューマニズムを支える根本こそ、人間の高貴さなのだ。

 高貴さは正誤と無縁であり、無謬も問題の範疇(はんちゅう)から外れる。

 正しくないこと、間違ったことをあえてすることによって高貴さが生まれる場合もある。この道筋はヒューマニタリアンの持ちえないものだ。


【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】


 実に強引な文章である。さしずめ、無理な体勢からの上手投げといったところか。しかしながら、論理の軸足は辛うじて土俵内に残っていて、上手に乗せたメッセージは力強い。


 もう一度読んでみよう――林は「知識」と「知恵」の違いを主張しているのだ。知識には重量がある。増え続ける知識の重さに耐えかねる時、人は知識に額(ぬか)づき奴隷と化す。知識は“使うもの”ではなくして、思考を束縛する鎖となる。脳味噌は単なる記憶媒体の役目を担う。こうして百科事典に手足が付いたような人間が出来上がる。一方、知恵には浮力・揚力がある。本気でものを考えると行動が変化する。そして、新たな行動が新たな思索につながる。知恵は生きざまに結晶する。


 林が言うところの「理工系人間」は、知識や理論に自分の人生をはめ込もうとする。だから、自分に対する批判や落ち度を気にして正確さを競う。そして「人文系人間」は無謬性よりも意味の有無を問う。


 正確性が求められるのは機械である。あるいは時計だ。無論、正確な知識は必要であろうが、そのために人間性を犠牲にするようなことがあれば本末転倒だ。


 理論と実践は異なる。プロ野球監督の采配にケチをつける野球ファンは山ほどいるが、彼等が監督になることはあり得ない。イチローのバッティングセンスを解説する人物が、イチローのように打てるわけでもない。


 湖の上に足を一歩踏み出す。その足が沈む前にもう片方の足を前に出す――理屈であれば湖の上も歩けることになる。


 現代人に欠けているのは、合理を踏まえながら合理を跳躍する脚力なのだ。そして、それこそが“智慧”と呼ばれるものに違いない。

おテレビ様と日本人

2009-07-21

政府に奉仕する記者クラブ/『ジャーナリズム崩壊』上杉隆


 世界に類を見ない記者クラブ制度を徹底的に糾弾している。私が初めて記者クラブ問題を知ったのは、カレル・ヴァン・ウォルフレン著『日本/権力構造の謎』(早川書房、1990年/ハヤカワ文庫、1994年)を読んでのこと。ウォルフレンは外国人記者を排除する日本の悪習を指摘した。


 記者クラブというのは、日本新聞協会が牛耳る仲良しグループのこと。メンバーは大手の新聞社・通信社・放送局に限定されている。ま、“報道の護送船団方式”と言ってよかろう。ここから、政府及び官僚が発信する情報が速やかに伝えられる。日本における報道とは、政府スポークスマンが発表する情報の伝言ゲームと化しているのだ。つまり記者クラブは、大政翼賛的な御用メディアの役目を果たしている。


 所詮は村だ。だからこそ、記者クラブという村によそ者を入れるわけにはいかないのだ。よそ者は“取材”を試み、“批判”を企てる。垂れ流される情報を決して鵜呑みにしない。村長からすれば非常に目障りだ。そして、村長を支える輩にとっても好ましくない。それゆえ村の掟に従わない連中は排除されてしまうのだ。


 記者クラブは政府に奉仕する。例えばこんなふうに――


 新テロ特措法成立以前、新聞は、仮に自衛隊によるインド洋での給油活動がストップすれば、日本の国際的信用力は低下する、と書いていた。

 だが、現実は、艦船2隻が日本に戻ってきている間もインド洋でのオペレーションは不断に行われ、日本政府の国際的信用が低下するという事態には発展しなかった。

 日銀総裁人事でも同様だ。政府の人事案を野党が蹴り、一時的に総裁が空席になる前、新聞は野党の国会対応を責めたてた。もしも中央銀行総裁が空席になったら、日本の金融市場は混乱し、国際的信頼性が損なわれる、というものだった。

 結果は、もちろんそうはならなかった。ところが、自らの非を認めたくない新聞は、欧米のメディアは日銀総裁の空席によって、日本経済は打撃を被るだろうと報じている、として危機を煽(あお)ったのだ。

 実際は、英誌『エコノミスト』が「JAPAIN」というテーマで書いたように、単に、日銀総裁も決められないほど日本の政治は弱体化しているというものばかり。つまり、新聞は、存在しない危機を勝手に作り出し、政府の言い分を補完する役割を自ら担ったに過ぎなかったのだ。


【『ジャーナリズム崩壊』上杉隆(幻冬舎新書、2008年)】


 私は驚いた。こんな事実すらすっかり忘れていたからだ。「日本人は歴史健忘症である」という指摘があるが、「ニュース健忘症」でもあるようだ。記者クラブが排泄(はいせつ)する情報は、私という便器に落下したまま臭気を放っている。そして私はいつしか臭気に慣れ、異臭を嗅ぎ分けられなくなっている。


 情報は伝えられる際に必ず歪む。これをメディア・バイアスという。だが、記者クラブが行っているのは、「意図的に歪められた情報の伝達」である。つまり、我々の手元に来た情報は二重三重のバイアスが掛かっているのだ。


メディアは下水管だ」と小田嶋隆が喝破しているが、全く同じ理由から「メディアはケツの穴だ」と私は言いたい。


 上杉隆には気骨がある。傑作『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』(新潮社、2007年)にまつわるエピソードも記されているが、非常に興味深いものだった。かつて上杉本人が勤務したNHKに対する苦言も真摯である。


 読書の目的は、「世の中の仕組み」や「世界の構造」を知ることにある。本を読まないと、知らず知らずのうちに権力者のコントロール下に置かれる羽目となる。本書は間違いなく“目を開かせてくれる”一冊である。

ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書) 官邸崩壊 (幻冬舎文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-06-14

和田アキ子という代理オヤジ/『テレビ標本箱』小田嶋隆


 テレビを観なくなってから一年ほど経過している。いや一年は大袈裟だな。9ヶ月くらいか。この間に観たのは、NHKスペシャル1回のみである。既にスイッチを入れないというレベルではなくて、コンセントが抜きっ放しになっている有り様だ。我が家にあってテレビは、限りなく粗大ゴミに近いDVD再生器具と化している。


 時々、よそのお宅でテレビを観る機会があるが、まあ酷いもんだね。ブラウン管の向こう側に確固たる個人は存在しない。ヒエラルキーの中で自分のポジションを確認しながら、与えられた役割を演じているだけの世界だ。


 自力で新聞を読みこなせない層のためのテレビ版新聞ダイジェストをニュースショーと呼ぶのだとするなら、ワイドショーは、ニュース解説に読後感まで付け加えた一種の完パケ商品だ。「どう考えるか」のみならず「どう感じるか」までをすべて丸投げにした完全なおまかせニュース商品。

 たとえば「アッコにおまかせ!」では、文字通り和田アキ子という一人の代理オヤジに世界の解釈が丸ごと委ねられている。で、日曜日のオヤジの無気力につけ込む形でアッコ節が炸裂する。末世だ。


【『テレビ標本箱』小田嶋隆(中公新書ラクレ、2006年)】


「完パケ」とは完全パケットの略か。和田アキ子は「力」を体現している。小田嶋隆は「代理オヤジ」と手加減しているが、ま、自民党か暴力団というのが正解だろう。あるいは、神……。つまり、「逆らうことが許されないもの」の象徴として和田アキ子は存在しているのだ。そして、現実世界にドラえもんは存在しない。


 世にマザコン男性は多い。年上の女性から叱られることで快感を覚えるタイプだ。“叱ってくれる”という関係性に甘え、寄り掛かり、もたれてしまうような手合いだ。かような連中は、和田アキ子を支持し、田中真紀子を支え、細木和子を懐かしむのだろう。まったくもって馬鹿につける薬はない。


 とはいうものの、和田アキ子はいなくならない。ということは、だ。ヒトという動物が従属関係の中で生きていることを示している(本当か?)。支配するか、額づくかのどちらかだ(フム、もっともらしい)。


 しかし、和田アキ子に従属するのは間違っている。なぜなら、彼女には信念や哲学がなく、感覚でものを言っているからだ。じっくりと検証すれば、容易に自語相違が見つかるはずだ。


 謙虚さを失った人物は他人から学ぶことができない。その一方で、真面目さだけが取り柄の連中が傲慢な人物に魅了されてしまうのも、また事実である。確かに世も末だ。

テレビ標本箱 (中公新書ラクレ (231))

2009-02-19

亀田大毅とメディアの豹変/『テレビ救急箱』小田嶋隆


 テレビはいつだって「利用できる人」を探している。少しばかり注目が集まると、直ぐにハシゴをかける。で、雲行きが怪しくなった途端、ハシゴを外してみせるのだ。


(※亀田)大毅の態度は擁護できない。容認もできない。が、パンチは、自分に返って来る。ボクサーというのはそういう存在だ。ボクサーである以上、下品なマナーはファンの反発を買うし、分不相応な大言壮語は赤っ恥の原料になる。天に向かって吐いた唾は残らず自分の顔に落ちて来るし、傲慢は惨敗というこれ以上ない屈辱として、わが身に返って来る。おまけに反則はライセンス停止を招き、不用意な切腹発言は、本人の背中に臆病者の烙印を焼き付ける結果になった。で、ひっくり返った亀は、二度と起きあがれない。あわれだ。

 一方、亀の背中に乗って竜宮城で遊んでいた連中は、まったくの無傷だ。

 みのもんたは、一番はじめに手の平を返した。テリー(伊藤)に至っては、亀田を非難するのみならず、TBSはぬるいとまで言い切った。これまでずっとそのTBSの番組内で全力を挙げて亀田を擁護し、亀田関連の仕事で一番潤ってきたのがほかならぬ自分自身であるにもかかわらず、だ。


【『テレビ救急箱』小田嶋隆(中公新書ラクレ、2008年)】

 ブラウン管の向こう側にいるのは、「泳ぐのが巧み」な連中ってこと。彼等はテレビ局の意向に従って、踏みつけるべき人を踏みつけながら、この世を渡り歩いているのだ。


 それにしても、小田嶋隆のこの「亀」技は圧巻。

テレビ救急箱 (中公新書ラクレ)