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2009-04-02

超一流の価値観は常識を飛び越える/『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪

 父・斎藤秀三郎は“勉強の鬼”だった。学生時代にはジェイムス・メイン・ディクソン(※後に夏目漱石を教えた)に師事して、学校の英書はすべて読み尽くした。それどころか、『大英百科字典』を二度も読んだという。もはや、学問が格闘技の領域に達している。


 それは、正則英語学校を創設した後も変わらなかった。超一流の人物の価値観(優先順位)は常識を軽々と飛び越える。勉強が一切のことに優先された――


 秀三郎は分秒を惜しんで仕事をした。便所の中にすら見台が備えつけられ、百科辞典が置かれていた。自分には7人の子があるから、その結婚式のために一生の間に7日間だけ勉強時間を犠牲にせねばならないといっていたほどであり、家族と共に食事をすることすらなくなっていた。


【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)】


 人間にはたくさんの立場がある。その中で何を重んじ、優先するかでその人の「使命」が決まる。使命とは“命を使う”と書く。所詮、何に“命を使った”かで人生は決まる。


 例えば池田高校野球部の元監督・蔦文也(つた・ふみや/故人)は、練習試合を優先して4人の子供の結婚式の全てを欠席した


“何かを犠牲にする”というのではあるまい。多分、一つの仕事に集中するあまり、他のものが目に入らなくなるのだろう。何となくわかるような気がする。


 いかなる道であろうとも、その道に生き切った人生は崇高で眩(まぶ)しい。

嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-03-30

若き斎藤秀三郎/『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪

 文句なしの傑作評伝。日本エッセイストクラブ賞を受賞しているが、本書の内容は賞を軽々と凌駕している。130人のインタビューと資料だけでは、ここまで書けない。中丸美繪は恐ろしいほどの執念で斎藤秀雄という人物を知ろうと奮闘努力したはずだ。それは多分、“求道”の名に値するほどの作業だったに違いない。そうでもなければ、これほどの作品が生まれるわけがないのだ。


 中丸は斎藤の弟子達に会った。彼等は斎藤の分身だった。しかしながら、弟子が語る師匠の姿は部分的なものに過ぎないし、当然ではあるがバイアスのかかった情報となる。そして、著者の内部で再構成された斎藤秀雄が一冊の書物となって誕生した。斎藤秀雄は本書の中で確実に生き続けている。栄光と矛盾をはらみながら、生き生きと躍動している。


 すまん。昂奮し過ぎたようだ(笑)。


 秀雄の父・斎藤秀三郎は明治・大正期を代表する英語学者だった。明治という激変の時代は、頑固でありながらも型破りな人物を輩出したが、斎藤秀三郎は桁外れの個性の持ち主だった――


 19歳で仙台に戻って英語塾を開き、その後、仙台英語学校を創設した。詩人の土井晩翠はその1回生である。次いで新設された第二高等学校にも勤めたが、英語主任の米国人と諍いを起して退職した。

 父の言葉に従い、知人を頼って岐阜中学に赴任するが、校長から中等学校英語教師の資格試験を受けるよう求められたため、「誰が私を試験するのか」と言い放って再び辞職した。

 秀三郎は生地を聞かれると、機嫌のよいときには「間違って仙台に生まれました。実はロンドンの真ん中で生れるはずだったのですが」と答えていた。福原麟太郎は、「日本の英語」で語っている。

「斎藤氏は豪傑で酒を好んだ。酔っぱらって帝劇へ行って(中略)西洋人のやっている芝居を見た。てめえ達の英語はなっちゃいねえ、よせ、よしちまえ、というようなことを英語で吐鳴り散らすので、座方がお願いして退去して貰ったという話を聞いているが、先生には、日本へ来ている英米人など眼中になかった。英米人を傭うときには自分で試験した」

 秀三郎は赴任先のいたるところで問題を起こし、職場は長崎鎮西学院から名古屋第一中学へと移っていった。たまたま東京から知人の教師を訪ねてきた学習院大学教授が秀三郎とめぐり会い、英語の実力に驚嘆した。これがきっかけとなって、第一高等学校に教授として就任することになった。1893年、28歳のときのことである。

 それから3年後、31歳になった秀三郎は神田錦町に正則英語学校を創立すると、自ら校長となった。恐ろしく短気な秀三郎は、板書のときには左の手で消しながら右手で書いていくという猛スピードぶりだった。授業中に生徒が立つと、振り向いて一喝した。生徒が「便所に行くのです」というと、「そこでおしなさい」といった調子である。授業は一週に50〜60時間も受け持ったことすらある。生涯を通しての著書は、『英会話文法』『実用英文典』4巻をはじめ200冊以上に及んだ。


【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)以下同】


「西洋人のやっている芝居」とは、来日中のシェイクスピア劇団だったようだ(Wikipediaによる)。秀三郎自身は一度も海外へ行ってない。人間が本気で学ぼうと決意すれば、時代や条件など関係ないことを彼は示している。


 また、秀三郎は時間に厳格だった――


 宮城の中で打たれた空砲は、その周辺一帯に鳴り響いた。

「ドーン」という正午を報せる音がすると、斎藤家の書生たちは客人の応対中であろうと、飯炊きの途中であろうと、秀三郎の著書の検印を捺している最中であろうと、すべての仕事を放り出して、いっせいに屋敷のなかに備えつけてある時計に向かって走り出すのだった。そして自分の受け持ちの時計という時計の針を合わせた。秀三郎は時間に厳格だった。

 正則英語学校でも、どんなに講義が途中であろうと秀三郎は板書の手を止め、終業のベルと共に教室を出るのである。家路の途中に床屋に寄っても、何分で刈るように申しつけると、たとえ散髪が途中でも帰ってしまうという徹底ぶりだった。

 津田塾大学の前身である女子英語塾がすぐ近くにあったが、番町で市街電車を降りた英語塾の学生たちは、斎藤家の玄関にある正確無比な大時計で時刻を合わせたという。


 これほど時間にうるさかったのは他でもなく、英語を研究するためだった。「自分には7人の子があるから、その結婚式のために一生の間に7日間だけ勉強時間を犠牲にせねばならない」とまで言い切った。家族であっても父親と話すためには書生を経由しなければならなかった。斎藤秀三郎は英語に命を懸け、英語と心中した。

嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-02-27

厳格極まる音楽教育/『齋藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!』民主音楽協会編

 齊藤秀雄は著名な英語学者・齊藤秀三郎の子息である。戦後は桐朋学園で音楽教育に取り組み、ここから小澤征爾岩城宏之秋山和慶など錚々(そうそう)たる音楽家が巣立っていった。


 齊藤の指導は厳格を極めた――


 オーケストラを教えていても、できる子が間違えると怒る。それから二度目に弾けると怒る。最初からなぜそのようにやらないのか、と。


【『齋藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!』民主音楽協会編(芸術現代社、1985年)以下同】


 蜂が刺しても、それを払うと叱られる。そんなことに気を散らしてはいけない、と。


 もう20年以上前に読んだ本だが、今尚記憶に痕跡をとどめている。齊藤門下数十名が恩師を偲(しの)び述懐する。言葉という言葉が齊藤秀雄の巨大な輪郭を見事に描いている。


 齊藤は「生徒ができる」と徹して信じ抜いた。だからこそ微塵の妥協をも許さなかったのだ。「真剣」とは相手の生命を絶つことのできる本物の刀のことである。命を懸ける思いがあるから真剣になる。師の厳しき一念が、今でも門下生の心を支えていることだろう。

斎藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!

2009-01-04

バッハはリズム、モーツァルトはメロディ、ワーグナーはハーモニー/『J・S・バッハ』礒山雅


 私が持っているクラシックのCDは『マタイ受難曲』(カール・リヒター指揮、1958年盤)だけである。だが私は、このたった一つのクラシック作品を、他のポピュラーミュージックよりもはるかに多く聴いている。そう。りんけんバンドルー・リードよりもだ。ここには、キリスト教世界の華麗なまでの荘厳さがある。


 バッハ入門としてはうってつけの一書である。これも「贅沢な新書」の部類に入る。


 リズム、メロディ、ハーモニーを音楽の三要素という。リズムは音楽の時間を構成するもの、ハーモニー(和声)は音楽の空間を構成するもの、メロディ(旋律)は、両者の接点に生れる、音楽の「顔」のごときものである。ごく単純化していえば、リズムは音楽の生命力を、旋律は音楽の美しさを、ハーモニーは音楽の深さを表現する。一般には旋律に関心が寄せられるが、音楽に対してもっとも根本的なものはリズムであり、これがなければ、音楽は成立し得ない。

 天才の音楽は三要素のいずれもが卓越しているものであるが、あえていえば、バッハの音楽でとくに際立っているのは、リズムだろう(バッハのとるテンポが生き生きと速かったという、同時代の証言もある)。これに対し、モーツァルトでは旋律が、ワーグナーではハーモニーが傑出していると思う。バッハがとりわけリズミックに感じられる理由のひとつは、通奏低音と呼ばれるバス声部が、たえず「下から」動きを続けているためだろう。


【『J・S・バッハ』礒山雅〈いそやま・ただし〉(講談社現代新書、1990年)】


 バッハがリズムであることは、ジャズ・プレイヤーによって演奏していることからも理解できる。本当のところは、よくわからんが……。だって、1曲しか知らないんだからねえ。


 リズム、メロディ、ハーモニーという視点は、「人の話し方」にも当てはまりそうで面白い。

J・S・バッハ (講談社現代新書)

2008-01-21

『禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ死んだか』八木啓代


 これはいい本だ。私がビクトル・ハラを知ったのは、つい最近のこと。友人から教えてもらった。そこで色々と調べている内に、この本に辿り着いたってわけ。


 著者は、中学生の時に何気なく聴いていたラジオから流れてきたビクトル・ハラビオレータ・パラの歌声に釘付けとなる。


 とにかくその瞬間から、確かに私のまわりの世界の色は変わった。私はその日一日、その録音テープを飽きもせずに何度も繰り返して聴き、翌日、生まれて初めてレコード屋に出かけた。


 しかし、どちらの作品も見つからなかった。少女はフォルクローレを中心とする中南米音楽に傾倒し、中南米に関する本を読み漁った。


 大学生となった彼女は、ビクトル・ハラが育てたキラパジュンというグループの来日コンサートへ行く。そして、楽屋を訪ねた。

「私はビクトル・ハラのレコードがほしいんです。どうしたら手に入れることができるんでしょう」

「それならメキシコに行けばいい。いま、あの国に新しい歌の花が咲いているから」


 八木さんはそれ以来勉強に力を入れ、日墨政府交換留学生の一員としてメキシコへ旅立つ。レコードを求める旅はそれで終わらなかった。ここから、ビクトル・ハラという名の山脈を彼女は登ることになるのだ。


 それにしても体当たりの行動力が眩しい。彼女はビクトル・ハラと交友のあった人々を次々と訪ね、インタビューする。遂には、彼女自身が歌手にまでなってしまう。


 ビクトル・ハラは、ラテン・アメリカで起こったヌエバ・カンシオン(「新しい歌」運動)のリーダー的存在だった。1973年9月11日、チリのサンティアゴで軍事クーデターが勃発。多くの市民と共に、ビクトル・ハラは逮捕され、チリ・スタジアムに連行される。彼は市民を励まそうとギターを手に取り、人民連合のテーマ曲「ベンセレーモス」を歌い始めた。


 軍人たちは怒って彼のギターを取り上げた。

 彼は今度は手拍子で歌い続けた。怒り狂った軍人は、銃の台尻で彼の両腕を砕いた。彼はそれでも立ち上がって、歌おうとした。すると軍人は彼を撃った。まるで生き返るのを恐れるかのように、数十発の銃弾が彼の身体に撃ち込まれた。

 そのとき軍人は言ったという……「歌ってみろ、それでも歌えるものならな」


 ビクトル・ハラ逝去、享年41歳――。


「歌の重要さ、というのはね……人々が、それを必要とし、求め、戦うことによって、民衆と深くかかわりあった歌は、インパクトを持つということなんだ。

 その意味でも、ビクトルはひとつのシンボルだよ。民衆にとって必要なことを歌ったがために銃殺された、ジョー・ヒルのようにね」(シルビオ・ロドリゲス


「ビクトルは僕たちにとっていつも闘いの同志であり、仕事の仲間であり、何より大好きな友達だった……そして僕たちはそんな彼を失い、彼は民主主義を求めるすべてのチリ人にとっての闘いの旗印となった。(中略)

 僕たちが彼の曲を歌わない時でさえ、だから彼はグループの中に強烈に存在している。だから、キラパジュンはビクトルとの邂逅の前に生まれたグループであったけれど、芸術家としての歩むべき道、いやもっと深い感動を彼によって与えられたんだ……そして僕たちは芸術家になった。

 たぶん、彼の死に対して僕たちができることは歌い続けることなんだよ。彼の歌を、平和や民主主義のために」(キラパジュンのエドゥアルド・カラスコ)


「1982年にドイツのボシュロムで、ハリー・ベラフォンテの主催で平和のための大コンサートがあったんだけど、そのときのベラフォンテの講演で彼はこう言ったんだ。『いったい私たちのうちの何人が、自由と平和のために歌い、ビクトル・ハラのような運命をたどることができるだろうか』

 これはビクトルの死から9年たってからのことだ。でも、彼はいまだに国際レベルで存在している……」(インティ・イリマニのホセ・セベス)


 ピノチェトの軍事政権は米国のバックアップで、何と1990年まで続いた。パトリシオ・エイルウィンが大統領になるまで圧政は続いた。この間、ビクトル・ハラの曲はメディアで流すことを禁じられていたにもかかわらず、市民の間で歌い続けられた。


 世界には、まだ本物の人間がいることを知った。

禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ死んだか