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2011-03-06

ソマティック・マーカー仮説/『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』(『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題)アントニオ・R・ダマシオ

    • ソマティック・マーカー仮説

 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に対し、脳科学の立場から異議を申し立てている。テンプル・グランディン著『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』で紹介されていた一冊。


 多分翻訳がよくない。専門性が高いことと読みにくいこととは別問題である。序盤は軽快に進むのだが、途中からトーンダウンする。この手の本は一気に読まなければ挫けてしまう。


 デカルト以降、理性と感情の問題は理性が勝利を収めてきた。400年間にわたる話だ。まだ中世の頃だから、神の存在を理解できることが理性を意味していたのだろう。そんなヨーロッパ人からすれば、異国に住む人々(=有色人種ね)は野蛮人でしかなかった。


 時々刻々と更新されていく身体の構造と状態を直接見晴らせる窓からわれわれが目にするもの、それが私の考えている感情の本質である。この窓から見る風景をイメージするなら、身体の「構造」は空間内の物体の形状に、そして身体の「状態」はその空間における物体の光と影、動きと音に似ている。この風景において、物体は内蔵(心臓、肺、腸、筋肉)であり、光と影、動きと音は、ある瞬間における、それらの期間の作用範囲内の一点を表象している。

 おおむね感情とは、そういう身体風景の一部の瞬間的な「眺望」である。そこには身体状態という具体的な内容がある。そしてそれは、特定の神経システム──身体の構造と調節とに関係している信号を統合している末梢神経と脳領域──によって支えられている。


【『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳(ちくま学芸文庫、2010年/『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題、講談社、2000年)以下同】


 ウーム、わかったようなわからないような文章だ。要するに皮膚感覚と感情とが密接な関係にあると言いたいのだろう。ダマシオは皮膚を「最大の内蔵」とまで表現している。


 これは理解できる。例えば何かショックを受けた時、私の目には何も映らない。目の焦点は興味のある物しか捉えないからだ。夜道を一人で歩く女性が何かの気配を感じて後ろを振り向くのも、皮膚感覚の為せる業(わざ)である。


 そう考えると五感は身体の膜という薄い部分で形成されていることが実感される。粘膜なんかは世界に向かって溶けているようにすら思える。


 感覚器官から受容された情報を統合する場所が脳であるわけだが、何と脳には中枢がないという。


 今日確信をもって言えることは、視覚に対しても言語に対しても、また、理性や社会的行動に対しても、単一の「中枢」はないということ。あるのは、いくつかの相互に関連したユニットで構成される「システム」である。機能的にではなく解剖学的にいえば、そういった各ユニットこそ、骨相学に影響を受けた理論でいう古めかしい「中枢」である。またこれらのシステムは、精神的機能の基盤を構成する比較的独立性の高い作用に向けられている。個々のユニットは、それらがシステムの中のどこに置かれているかでそのシステムの作用に異なった貢献をするので、相互交換がきかない。これはひじょうに重要なことである。システムの作用に対する特定のユニットの貢献内容は、そのユニットの構造だけでなく、システムにおける「位置」にも依存している。


 つまり「私」は脳の真ん中にいるわけではないってことだな。脳は連合軍であった。やはり民主主義は正しいのだろう。


 このあたりが重要な伏線となっている。情動を司っているのは大脳辺縁系である。意欲や記憶、自律神経も関連している。


 ダマシオは脳にダメージを受けた患者がどのような機能を失ったかに注目する。単行本の表紙になっているのはフィネアス・ゲージの頭蓋骨である。ゲージは爆発事故で直径3cm長さ1mの鉄棒が、左頬から頭頂部に向けて貫通した。


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 フィネアス・ゲージによって初めて前頭葉の働きが判明した。脳科学が難しいのは実験ができないためだ。それゆえ損傷から機能を知るしかない。ゲージの命は助かった。だが失ったものはあまりにも大きかった。社会的行動ができなくなり、意志決定もままならなかった。ゲージは別人になってしまった。


 要するに、人間の脳にはわれわれが「推論」と呼んでいる目的志向の思考プロセスと、「意思決定」と呼んでいる反応選択の双方に向けられた、それもとくに個人的、社会的領域が強調されたシステムの集まりがある。この同じシステムの集まりが情動や感情にも関わっており、また部分的には身体信号の処理にも向けられている。


 病徴不覚症という病気を自覚できない症状があるそうだ。つまり脳の感情機能が冒されている可能性がある。彼らはいかなる麻痺が身体にあろうとも「気分がいい」と答える。


 ここから心の統合問題に切り込み、身体の相互作用に触れて、「背景的感情」(background feelings)という概念を提唱する。で、いよいよソマティック・マーカー仮説が説かれる。


〈ソマティック・マーカー〉は何をするのか。ソマティック・マーカーは、特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ、いわばつぎのように言い、自動化された危険信号として機能する。

「この先にある危険に注意せよ。もしこのオプションを選択すればこういう結果になる」

 この信号は、われわれがネガティブな行動を即刻はねつけ、ほかの選択肢から選択するように仕向ける。この自動化された信号により、われわれは将来のごたごたを回避することができるだけでなく、少数の選択肢から選択することができるようになる。


 確かに整合性はある。唯識論の阿頼耶識(あらやしき)に近いような気もする。直観的な閃きは思考よりも感情に由来しているようにも思える。


 だが人間は合理的な存在ではない。判断を誤ることも多い。健康できちんと脳が機能しているからといって、正しい人生を歩めるものでもない。


 私はかなり情動的な人間だが、昔から心掛けていることは「違和感を言葉にする」作業である。人や場所、あるいは言葉や態度から違和感を覚えることが多い。その理由を突き詰めると隠れた事実が浮かび上がってくる。


 ただし現代社会における感情は、役割的な要素が強く、演技的な側面を否定することができない。

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

2011-02-15

宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 正真正銘の神本(かみぼん/神の如く悟りを得られる本)だ。著者のテンプル・グランディンは、オリヴァー・サックス著『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』(吉田利子訳、早川書房、1997年)のタイトルになっている人物。自称「火星の人類学者」は自閉症(※アスペルガー症候群と思われる)の女性動物学者であった。


 これは凄い。とにかく凄い。本書とトール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』とレイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』を合わせて、「科学本三種の神器」と私は名づけたい。


 網羅、渉猟、越境の度合いが生半可でないのだ。本物の知性は統合に向かうことがよく理解できる。緻密さや細部で勝負する知性はカミソリみたいなもので、切れ味は鋭いものの骨肉を断ち切るところまで及ばない。それに対して豊かな広がりをもつ知性は、専門領域を通して高い視点を示すことで世界の風景を変える。


 テンプル・グランディンは自閉症患者が動物の気持ちを理解できるとしている。彼女は幼い頃から動物の感情を知っていたのだ。大人になるまでそれが特殊な能力であることに気づかなかったという。ここから様々な動物の生態を通して人間との違いや人類の歴史を綴っている。


 まあ、一回こっきりの書評で紹介できる作品ではないため、時間が許す限り何度でも書いてみせるよ(笑)。数多(あまた)ある驚天動地の内容で最も驚かされたのがこれ──


 動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。

 たとえば、食べ物が出てくる直前に明かりがつくボタンつきのかごにハトを入れると、ハトはすぐに、食べ物を手に入れようとして、明かりがついたボタンをつつくようになる。これは、確証バイアスによって、最初のできごと(ボタンの明かりがつく)が2番目のできごと(食べ物が出てくる)を引き起こしていると考えるようになるからだ。ハトは、たまたま何回かボタンをつついて食べ物が出てくると(ボタンの明かりがついているときに、かならず食べ物が出てくるので)、こんどは、明かりがついているときにボタンをつつくから食べ物が出てくるという結論を出す。

 ハトの行動は、ウサギの足のお守り〔行為のまじないとして持ち歩くウサギの左の後ろ足〕を持っていたらチームが野球の試合に勝てると考える人に似ている。それで、B・F・スキナーはこういった行為を「動物の迷信」と呼んだ。ピッチャーがウサギの足を持っていたときに登板した試合で勝ったのは、ハトが明かりがついたボタンをつついたあとに何回が食べ物を手に入れたのと同じことだ。どちらの場合も、相関関係が原因だと考えた。


【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン/中尾ゆかり(NHK出版、2006年)以下同】

 既に何度も紹介済みだが、相関関係と因果関係の混同である。

 つまり脳というシステムは、相関関係を因果関係に仕立てることで物語を創造していると言い換えることも可能だ。例えば歴史は権力者のトピックにすぎない。それゆえ歴史の大半は戦争という糸で紡がれている。圧倒的に膨大な量がある一般人の日常が年表に記されることは、まずない。捨象、切り捨て、無視ってわけだ。

 確証バイアスが組みこまれているために生じる不都合は、根拠のない因果関係までたくさん作ってしまうことだ。迷信とは、そういうものだ。たいていの迷信は、実際には関係のないふたつの事柄が、偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に、たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日にも、たまたま青いシャツを着ていた。それからとは、青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。

 動物は、確証バイアスのおかげで、いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。


 ここでいう「迷信」とは「非科学的」という意味であろう。だとすると殆どの宗教は迷信になる。なぜなら因果関係を証明することができないからだ。幸不幸の原因は神が下したものかも知れないし、家の方角の善し悪しかも知れないし、単なる偶然かもしれないのだ。


 たまたま朝一番でつけたテレビの番組で星座占いをしていたとしよう。あなたのラッキーカラーはピンクだ。ピンクのものさえ身につけておけば万事が上手く運ぶ。昨日、上司から叱られ、恋人と喧嘩をしたあなたの脳は敏感に反応することだろう。で、ピンクのネクタイを締め、颯爽と出社する。


 こうして一日の中の好ましい出来事は「ピンクのネクタイのおかげ」となるのだ。

 占いを信じる人は、占いに沿った思考となり、占いに当てはまらない事実は印象に残らなくなる。このようにして「占い物語」という人生が進んでゆく。


 ところが、ほかの豚も、これまた確証バイアスにもとづいて、囲いの中の餌桶にまつわる迷信をこしらえる。私が見ていたときには、何頭かが餌用囲いまで歩いていって扉が開いているときに中に入り、それから餌桶に近づき、地面を踏み鳴らしはじめた。足を踏み鳴らしつづけていると、そのうち頭がたまたま囲いの中のスキャナーにじゅうぶんに近づいて、タグが読みとれ、餌が出てきた。どうやら豚は、たまたま足を踏みならしていたときに餌が出てきたことが何回かあって、餌にありつけたのは足を踏み鳴らしたからだという結論に達していたらしい。人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。わたしたちの脳は、偶然や思いがけないことではなく、関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも、相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。わたしたちは生命を維持するうえで知っておく必要のあるものや、見つける必要があるもの学ばせる脳の同じ部分が、妄想じみた考えや、陰謀じみた説も生み出すのだ。


 これだ。多分ここから宗教が生まれたのだ。宗教という現象は人間特有のものではなかったのだ。とすると宗教感情がいかに脳の深い部分にあるか知れようというもの。動物にもあるわけだから新皮質より下部にあることだろう。きっと情動も絡んでいるはずだ。


 とはいうものの物語なしで我々は生きてゆけない。はっきりと書いておくが、かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。聖書や仏典が伝えられてから2000年以上も経過しているが、今尚人類は争い合っている。


 混乱はバラバラの物語が衝突し合っている姿といってよい。同じ宗教を信じていても考え方は違うだろうし、それこそ人の数だけ思想や価値観が存在するのだ。


 まして高度な社会になればなるほど、幸不幸はヒエラルキーや経済性に依存してしまう。我々の幸不幸は比較の中にしかない。


 結局、情報と情報をどう結び合わせるかという問題なのだろう。「私」という情報をどう扱うか? エゴイズムと無縁の物語はあるのか? 人生からそんな宿題を与えられているような気がする。

動物感覚―アニマル・マインドを読み解く 火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 我、自閉症に生まれて

2011-02-12

「もし自分が光の速さで飛んだら、顔は鏡に映るのだろうか?」/『みるみる理解できる相対性理論 改訂版』ニュートン別冊/佐藤勝彦監修、水谷仁編集


 ニュートン別冊を読むたびに、イラストとテキストのバランスの悪さが気になる。絵は大きすぎるし、文字は小さすぎる。高齢者には不向きな雑誌である。


 さほど期待してはいなかったのだが、意外な発見がいくつもあった。


 そのはじまりはアインシュタインが16歳のときに抱(いだ)いた次の疑問でした。

「もし自分が光の速さで飛んだら、顔は鏡(かがみ)に映るのだろうか?」

 顔が鏡に映るには、顔から出た光が鏡に達し、反射して自分の眼にもどってくる必要があります。しかし自分が光と同じ速さで動いていたらどうでしょう? 光は前には進めず、鏡に届かないのではないでしょうか? しかしアインシュタインは「止まった光」などありえないのではないかと考え、悩みました。


【『みるみる理解できる相対性理論 改訂版』ニュートン別冊/佐藤勝彦監修、水谷仁編集(ニュートン プレス、2008年)以下同】


「光の速さで飛んだら」という話は聞き及んでたが、鏡の件(くだり)は知らなかった。


 空気中を伝わる波である音(音波)を考えましょう。音速で飛ぶ旅客機の先端から出た音波は、旅客機の前に出ることはできません。

 音速の速さは気温や気圧によってかわりますが秒速約340メートルです。そして音波は止まった空気に対して秒速約340メートルで進みます。さて音速で飛ぶ旅客機も、止まった空気に対して秒速約340メートルの速さで飛んでいます。ですから旅客機から見ると、前に進む音波は差し引きで速さゼロになってしまい、旅客機の前に出られないのです。以上のことから、こう結論することができます。すなわち、


【もし光が音と同じ性質をもつなら、光速で進む顔から出た光は、かがみ(ママ)に届かないでしょう。】


 光は秒速30万kmである。音は速いようで遅い。だからこそ我々は、左右の耳に届く時間差で音の方向を知覚できるのだ。


 では真相はどうなのでしょう? 結論を先にいっておきましょう。相対性理論によれば、光速で飛んでも自分の顔はかがみに映ります。つまり、


 光は音のような波とは明らかにことなるということです。


 なぜ違うのか?


 光は媒質を必要としないのです。


 なるほど。音が伝わるには大気が必要だ。中学生の時、理科の先生が「宇宙で爆発音などするわけがない」と宇宙戦艦ヤマトを批判していたが、まったくその通りだ。


 それまでは波が海という媒体を必要とするように、光はエーテルという媒質を介して伝播すると考えられていた。アインシュタインはエーテルの存在を疑った。更にはニュートンの絶対座標という概念にも疑問を抱いた。


 光速度は相対的な速度とされ、絶対座標に対して止まっている観測者にだけ秒速30万kmに見えると考えられていた。アインシュタインは「光速度不変の原理」で両方を葬った。南無──。


 アインシュタインを初めとする理論物理学者が示しているのは、豊かな想像力から生まれた問いの中に、宇宙の真理が隠されていることであろう。偉大な問いは、答えをはらんでいるのだ。


 パラダイム・シフトによって世界と宇宙が引っくり返され、まったく新しい姿を見せた。人間は概念を通して世界を認識する。概念とは構造である。


 相対性理論は光速度以外の絶対性を葬り去った。もはや神の居場所はない。

2011-02-10

1ビットの情報をブラックホールへ投げ込んだらどうなるか?/『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

    • 1ビットの情報をブラックホールへ投げ込んだらどうなるか?

 ブラックホールは「死んだ恒星」である。太陽は質量が小さいのでブラックホールにはならない。巨大な質量をもつ恒星が超新星爆発(=星の死)をした後、今度は重力が内側へと向かう。ま、綿飴を潰した状態だ。最終的に原子はおろか素粒子レベルまでが破壊される。つまり空間が存在しない状態といってもいいだろう。

 標準のブラックホールで質量は太陽の10億倍。温度は数千万度から数十億度に達する。この重力地獄からは光ですら脱出することができない。それゆえ、光を反射しないブラックホールは「見えない存在」なのだ。

 スティーヴン・ホーキングが「情報のパラドックス」という問題を提示した。


 スティーヴン・ホーキングは1ビットの情報をブラックホールへ投げ込んだらどうなるかと想像した。投げ込む情報は本やコンピューターでもいいし、1個の素粒子でもいい。ホーキングはこう考えた。ブラックホールは究極の落とし穴(トラップ)であって、情報のビットは外の世界から永久に失われる。この一見無害にみえる観察は、断じて無害ではなかった。それは、現代物理学が築いた建造物すべてをなぎ倒す恐れがあった。何か決定的にうまくいかない点があった。もっとも基礎的な自然法則である情報の保存が危機にひんしていた。関心を持った人たちにとって、ホーキングが間違っているか、300年の歴史を持つ物理学の中心が崩れてしまうかのどちらかだった。


【『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド/林田陽子訳(日経BP社、2009年)以下同】


 これに異を唱えたのがレオナルド・サスキンドである。ブラックホール戦争の勃発。


 ブラックホールの内部で1ビットの情報が失われることも何がそんなに不都合なのだろうか? しばらくして、わかってきた。情報の損失は、エントロピーを生成するのと同じことである。そしてエントロピーの生成は熱を出すことを意味する。スティーヴンがいとも簡単に仮定した仮想ブラックホールはから空っぽの空間に熱を発生させるだろう。もうひとりの同僚のミカエル・ペスキンと一緒に、私たちはスティーヴンの理論に基づいて推計した。もしスティーヴンが正しければ、空っぽの空間は1秒もたたないうちに10億×10億×10億×1000度まで熱くなることがわかった。私はスティーヴンが間違っているとわかっていたが、彼の推論に欠点を見つけることができなかった。多分それが私をいちばんいらだたせたのだ。

 この後起こったブラックホール戦争は物理学者同士の論争にとどまらなかった。それはアイデアの戦争、その後基本原理の間の戦争だった。


 実はここに大統一理論(矛盾し合う相対性理論と量子力学を統合する原理)の鍵があった。レオナルド・サスキンドの筆致は軽やかにエピソードと比喩を盛り込みながら、難解なテーマをぐいぐい読ませてゆく。


 この湖には危険がひとつある。それに気づくのが遅すぎたために多くのおたまじゃくしが命を失った。1匹として生きて戻ってその話を伝えたものはいなかった。湖の中心に、湖水が流れ出てゆく排水の穴がある。水は排水管を通って下の洞穴に流れていき、鋭くとがった岩の上に滝のように落ちる。湖を上から見おろせば、水が排水管の方に動いていくのを見ることができる。排水管から遠く離れたところでは、水の流れる速度は感じ取れないほど遅い。しかし近づくと水の速度が速くなる。排水管が非常に速く水を吸い込むので、ある距離まで近づくと水の流れる速度が音速と等しくなると仮定しよう。さらに排水管に近づくと、流れは超音速になる。そして非常に危険な排水管が現れる。

 水の中にただようオタマジャクシは、自分たちの回りのことしかわからないので、自分たちがどれくらい速く進んでいるのかわからない。オタマジャクシの近くにあるものはすべて同じ速度で一緒に動く。非常に危険なこととは、排水管へ吸いこまれて鋭い岩で砕かれることだ。実際、中心に向かって吸い込まれていく速度が音速を超える地点を越えてしまったオタマジャクシは、破滅するしかない。帰還不能点を越えたら、彼は流れより速く泳ぐこともできないし、安全の領域にいるものに警告を発することもできない(どの音響信号も音速より速く水の中を進めないからだ)。アンラーは排水の穴とその帰還不能点を【沈黙の穴】と呼ぶ。音がしないという意味の沈黙だ。どんな音もそこから脱出することができないからだ。

 帰還不能点ももっとも興味深いことのひとつは、そうと知らずに浮かびながらそこを通りすぎる観察者は、最初は異常にまったく気付かないということだ。これに警告する広告板もサイレンもない。これを止める障害物もない。危険が迫っていると知らせるものは何もない。ある瞬間には何の問題もないように見えて、次の瞬間もすべてがまだ何の問題もないように見える。知らず知らずのうちに帰還不能点を越えてしまう。


【沈黙の穴】がブラックホールだ。では、帰還不能点の手前と向こう側で世界はどのように異なるのか?


 一方、アリスは何もおかしいと気づかない。彼女は、ものごとの進み方が遅くなるとも速くなるともまったく感じないまま、気楽に帰還不能点を越えていく。もっと後になって危険な岩の方に引きこまれてから、初めて彼女は危険を知る。ここにブラックホールの重要な特徴のひとつが示されている。つまり、ことなる観察者は同じ事象をまったく逆に感じる。ボブにとっては、彼が聞く音から判断するとアリスが帰還不能点に達するには無限の時間がかかる。だが、アリスにとっては、まばたきすることも時間もかからない。


 いやあ、お見事。これが双子のパラドックスだ。観測者の運動によって世界は異なって映るのだ。絶妙な喩えは、あたかも生と死を相対化している趣さえある。


 実際我々は地球の自転速度や回転速度、はたまた太陽の運行や銀河の回転を自覚することがない。宇宙は巨大なメリーゴーランドだ。しかし我々はあまりにも小さすぎる。マクロ宇宙と量子世界が回転と螺旋運動で成り立っているのであれば、きっと時間も同じように流れているのだろう。


 手っ取り早く結論を述べよう。スティーヴン・ホーキングは誤っていた。


【どんなブラックホールであっても、1ビットの情報を加えると、その地平線の表面積が1プランク面積、すなわち1平方プランク単位だけ大きくなる。】


【ビットで測ったブラックホールのエントロピーは、プランク単位で測ったその地平線の表面積に比例する。】


 もっと簡潔にするとこうなる。


【情報は面積と等しい。】


「参りました!」。私は本を閉じて畳に手をついた(ウソ)。情報は「失われない」のだ。ということは、宇宙の実体が「情報宇宙」ということを示している。


 生とは情報が密集した状態で脳に象徴される。認知を司るのも脳である。それゆえ存在は脳というフィルターを通して知覚される。つまり世界も宇宙も脳内において存在するわけだ。ブラックホールで情報が失われないとすれば、ブラックホールもまた生の一分を示している。死は特異点の向こう側に位置する。情報が意味をなさなくなる世界だ。


 日常生活における死とは、知覚し得ない無意識領域であろう。眠りは死である。そして瞑想もまた死である。睡眠をとらないと人は生きてゆけない。瞑想をしなければ生きているとは言えない。多分そんなところだろう。

ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い

2011-02-02

バイオホロニクス(生命関係学)/『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博


 読書には時機というものがある。タイミングだ。長ずるにつれ、知識の枝は天を目指して複雑に枝分かれしてゆく。そして生の現実が地中に根を張り巡らす。


 不幸にして本書はタイミングが合わなかった。1978年に出版されながら、今まで知らなかったのは、私の守備範囲が傾いている証拠といえる。残念無念。


 清水博が研究するのはバイオホロニクス(生命関係学)という分野。慧眼(けいがん)の持ち主といっていいだろう。しかし残念なことに、今となっては古臭さを覚えずにはいられなかった。以下、アトランダムに内容を紹介しよう。


 自然科学と全く交わらない「世界」が実在するかどうかは、自然科学によっては証明できませんし、また否定もできません。


【『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博(中公新書、1978年)以下同】


 これは自然科学以外でも証明することが不可能だ。世界は「ある」のではなくして、認識によって開かれてゆくものだ。つまり、「認識されたものが世界」なのだ。


 中世は形而上学の全盛時代でしかたら、自然の理解は進みませんでした。「生きていることに」についても、今から考えると事実に合わない説明がまことしやかになされ、長い間にわたって信じられてきました。


 確かに自然の理解は進まなかったが、神を頂点に据えた学問体系が統合された。自然を無視したのは、やはりキリスト教が砂漠から誕生した宗教であったためだろう。形而上と形而下も天国と地獄に由来しているような気がする。


 その上、要素還元主義によって、分子や原子の世界にまで到達すると、もうそこで問題にされるのは1秒よりも桁はずれに短い時間における変化だけです。要素に分けることは、対象を単に空間的に細かく細かくしていくだけでなく、時間の尺度をも同時に非常に短縮してしまう効果があるのです。したがって、科学の関心は必然的に「現在」に凝縮されるのです。


 科学の悪口をいう時に「要素還元主義」という常套句が使われるが、これは既に通用しない。なぜならビッグバン理論によって、宇宙の最初の姿が「点」であったと想定されているためだ。我々の物差しに合わないのはミクロ宇宙だけではなく、マクロ宇宙も同様である。


 ここに、水蒸気・水・氷を全く別の物質だと考えている科学者がいたと仮定しましょう。その人は、【三つの物質】を分析して、その要素である水の分子を探し当てたとき、大変びっくりするでしょう。水蒸気から得た水分子も、水から得た水分子も、氷から得た水分子も、全く変らないからです。このことは確かに大きな発見といえます。しかし、同時に、水蒸気・水・氷といった物質の【状態の差】は、対象を分子にまで分析してしまうと失われてしまうことが分かります。


 私が違和感を覚えたのはこの辺りからだ。「失われてしまう」という言葉づかいは明らかにおかしいし、何らかの意図が込められている。左目で顕微鏡を覗き、右目で氷を見つめれば決して「失われる」ことはない。


 多分、清水は「科学なんぞで生命を捉えきることはできないよ」って言いたいのだろう。で、身体や心をバラバラにして分析するのは無駄な抵抗だ、と。この思惑が先行しすぎている。分析と統合の双方が必要なのであって、一方的に分析を斥(しりぞ)けるのはどうかと思う。


 一般に、個々の要素の性質をそのまま単純に加え合わせても全体の性質が出来上がることを非線形性と呼びます。aとbという原因が、それぞれ単独に働いたときに現われる結果をそれぞれAとBとしましょう。いまaとbとが一緒になってa+bとして働いたときに、A+Bという結果が出るのが線形性、A+B+Xというように新しい結果Xがつけ加わったり、ときにはCという全く変った結果が出るのが非線形性です。相乗効果といわれるものはこの非線形性の効果を表わしたものです。


 非線形性という言葉は、きっと「心」を過大視している。だが、心といったところで脳のシナプス結合以外のどこかに存在するわけがない。脳科学の発達によって現代では、心=脳と考えられるようになった。


 生きている状態と死んでいる状態というのは生体という分子の集まりが持っているグローバルな性質ではないかと推定されます。だとすれば、これは気体・液体・固体などとは全く次元を異にする(生体という分子の集合体が示す)一つのグローバルな性質ということになります。


 10年前なら私は絶賛したことだろう。「生命はグローバルな性質である」というのと、「宇宙はグローバルなシステムである」という言葉にさほど違いはないだろう。無の世界からタンパク質が生まれたところに問題の本質があるのだ。

 グローバルな状態に共通の性質として相転移と呼ばれる現象が見られます。相とは互いに区別できるグローバルな状態のことをいいます。たとえば、氷・水・水蒸気はそれぞれ別の相です。また磁石が強い磁性を示す状態とそうでない状態とは異なった相ということができます。

 一般に、一つの相から別の相に物質や系のグローバルな状態が変ることを相転移と呼びます。相転移は不連続的に突然おきるのが普通です。氷を暖めて水にする時には摂氏零度で氷が急に溶けて水に移ります。水が水蒸気に不連続的に変る温度は100度です。物質の磁性にもこのような不連続的な相転移がおきることが知られています。


 書きながら段々イライラしてきた(笑)。「これは気体・液体・固体などとは全く次元を異にする(生体という分子の集合体が示す)一つのグローバルな性質」と書いておきながら、「氷・水・水蒸気」に戻っている。


 相転移というのであれば、生と死もそうだし、個人と社会だってそうだろう。しかも、相転移は観測する人がいて成り立つのだ。


 これは結局のところ、世界と時間(三世と十方)をどう捉えるかというテーマに帰着する。人生は過去から未来へと向かっているが、時間は未来から過去へと流れている。橋に立った観測者が川上を向くか、川下を眺めるかで当然世界は異なる。


 世界は認識によって開かれている。だから私が死んだ後、世界は存在しないのだ。

 統合の立場から分析を批判するのは浅ましいやり方だと私は思う。しかも統合党は、統合の未来像を示すことができていない。社会や国家の先にどのような生命状況があり得るのか、青写真くらい示すべきだろう。


 宗教や哲学には期待できそうにない。ブッダやクリシュナムルティは人間としての出来が違いすぎる(笑)。となれば、レイ・カーツワイルが指摘したようにテクノロジーに期待するしかないだろう。

生命を捉えなおす―生きている状態とは何か (中公新書)