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2010-08-25

『もっと!らくらく動作介助マニュアル 寝返りからトランスファーまで』中村恵子監修、山本康稔、佐々木良(医学書院、2005年)


 これはオススメ。岡田慎一郎著『古武術介護入門 古の身体技法をヒントに新しい身体介助法を提案する』よりもはるかにいい。身体障害者体位変換および移動に関して私はプロ級の腕前だが(ナース、ヘルパーで私より上手い人を見たことがない。また実際に大学病院のナースに移動法を教えることが度々ある)、80点をつけられる内容だ。


 素人であれば掲載されている写真をを見ただけではわかりにくいと思うが(付属のDVDがあるので安心されよ)、非常に重要な動作を数多く紹介している。介護現場に携わるヘルパーや家族の大半は往々にして腰痛に悩まされる羽目となる。これは移動方法を知らないためだ。力任せに扱えば、要介護者にも負担がかかる。


 日本は既に超高齢社会(総人口に占める65歳以上人口が21%超)となった(2007年)。親や伴侶をいつ介護する立場になるかわからない。その意味でも一家に一冊は用意すべき書籍であると思う。


 介護が必要になってからやるのではなく、健康な夫婦であっても移動法は身につけておいた方がよい。これが本当の「転ばぬ先の杖」である。特に要介護者が太っていると、家族の身体的負担は極めて大きい。


 なかんずく老々介護ともなれば、無理な体勢から転倒してしまい骨折するケースも十分考えられる。寝たきりになる最大の要因は骨折なのだ。特に婦人の場合、尻もちをついただけで背骨を圧迫骨折することが多い。


「賢い介護」ができるかどうかで、家族の幸不幸が左右されるといっても過言ではない。ほんの少しの知識によってお互いの負担を減らすことができるのだ。


 残りの20点は、まだ他の移動法があること、更にトイレや風呂への介助法が紹介されていないことなど。

  • 頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

もっと!らくらく動作介助マニュアル―寝返りからトランスファーまで

2010-02-23

超えられない医師と患者の立場/『痴呆を生きるということ』小澤勲


 決して悪い本ではない。文章もこなれている上、著者自身が癌を宣告され余命いくばくもない中で執筆されているため独特な透明感がある。


 老い呆けし母を叱りて涙落つ 無明無限にわれも棲みゐて(斎藤史〈さいとう・ふみ〉)


【『痴呆を生きるということ』小澤勲岩波新書、2003年)以下同】


 冒頭で紹介されている歌の一つ。親と子の「あるべき関係」が崩壊した時、自我の大地が激しく揺さぶられる。特に社会との同調性が高い日本人であれば尚のこと落伍感が激しい。自分の親がオムツをした姿を想像してみるといい。「ゲッ」となる人が殆どであろう。


 認知症という病気が我々に教えているのは、不変と思われている自我が実は記憶に支えられている事実である。つまり自我とは記憶のことなのだ。するってえと、あれか。「私」というのは記憶媒体に過ぎないってことなのか? 御意。容量の乏しいハードディスクみたいなものだよ。情報が増えるにつれて作動が緩慢となり、次第次第に固まることが多くなってゆくのだ。時々あるだろ? 「あれ、今何をしようとしていたんだっけ?」ということが。実は脳がクラッシュしているのだ。日々の睡眠が Ctrl+Alt+Delete の役目を果たしている。


 認知症とは、ファイルが失われてゆくことだ。そして挙げ句の果てには「システムのプロパティ」も表示しなくなった瞬間に「私」が「私」ではなくなる。


 痴呆を生きる者も、その家族も、逃れることのできない現在と、時間の彼方に霞んで見える過去とを、いつも往還している。今を過去が照らし、過去を今が彩(いろど)る。


 家族が認知症になった場合、一方通行の関係性となることを覚悟する必要がある。もちろんコミュニケーションは可能なのだが、介護する側の覚悟として相手に見返りを求めるべきではない。「育ててもらった恩を返す」といった発想も不要だと私は思う。恩返しの根っこにあるのは経済性である。もっと淡々と寄り添うことが望ましい。「ま、病気だから、しようがねーわな」というくらいの積極的な諦観、能動的な肯定から介護に臨みたい。


 もの盗られ妄想は、争えば必敗の形勢を察知した者の、つまりは弱者からの訴えあるいは反撃であった、とみることができる。


 認知症患者の奇異な行動が、実は文化的な影響に支配されており、日本人の場合「もの盗られ妄想」は女性に多いそうだ。「ヘルパーが家の物を持ち去った」という話は私も実際に聞いたことがある。


 ただ、これを過去の関係性に原因があるとするのは甚だ疑問だ。そうしたケースもある、という程度にとどめておくべきだろう。「寄り添う」ことと「肩を持つ」こととは意味が異なる。小澤は自分が話を聴いてあげたことで、患者の病状が落ち着きを取り戻したことを過大評価しているように感じた。心療における因果関係は特定することが難しい。まず、眉に唾してみるのが当然である。


 一方、男性の場合、激しい嫉妬感情が目立つという。妻を所有物と考える男性の思考が垣間見える。


 また、「病気とはいえ、嫉妬するということはご主人があなたを女としてみているということでしょう」といってみたが、「私は結婚して以来、女として扱われたことがない」とすげなかった。


 小澤のアドバイスは致命的だ。ここに超えられない医師と患者の立場が露呈している。


 私が本書を読んで違和感を覚えてならなかったのは、小澤の立ち位置である。書いてあることは理路整然としていて極めてまともである。では何が書かれていないのか。著者は自分よりも立場が下の人、例えば患者やナースや事務員や患者の家族から何かを学んだ形跡が全く窺えないのだ。その隠された傲慢の臭いが、ページのあちこちから漂ってくる。


 医師としてはきっと真面目な人物だったのだろう。しかし人間として見た時に、私はさほど魅力を感じなかった。


 最後に認知症患者と接する際に私が気をつけていることを箇条書きにしておく──

  • 話し掛ける際は、必ず名前を呼ぶ。
  • 相手の話に大きく相槌を打ち、必ず同意する。
  • 敬語を使う。認知症患者は自分に敬意が払われているかいないかに敏感である。
  • 大きく頷く。ボディランゲージとして。
  • ジャンケンができるかどうか確認する。チョキができれば指の運動機能は侵されていない。
  • 身体に触れる。手を握る、背中を軽く叩くのが効果的。
  • 重度の症状となる「痛い」「熱い」を連発するが、これを否定しない。
  • 相手が怒り出したら、ひたすら謝る。
  • 否定的な言葉を使わない。
  • 話をしてくれたら、「教えてくれてありがとうございます」と伝える。
  • 別れる際は握手してから、手を振る。

 尚、認知症というのは最初に家族の前だけで現れることが判明している。ここで外に出すことを恐れて家に閉じ込めておくと症状が一気に悪化する。初期症状の場合、お客さんを招くとよい。家ではおかしなことばっかり言ってるのに、デイサービスに行くと普通になる人も珍しくない。生活範囲を狭めると、あっという間に寝たきりとなる。

痴呆を生きるということ (岩波新書)

2009-08-23

重度身体障害者が独り暮らしを断行/『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史


 よもや、活字で「三角山」に出会うとは思わなかった。私は幼少時をこの山の麓(ふもと)で過ごしているのだ。それ以降、苫小牧、帯広と引っ越し、再び札幌の同区内に戻っている。本書は、まだ介護保険が整備されていない時期に、筋ジストロフィー患者・鹿野靖明が独り暮らしを断行する顛末(てんまつ)を描いたルポルタージュである。amazonのリンクを辿って見つけた次第。講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。


 ではまず、鹿野の病状を紹介しよう――


 できないといえば、この人には、すべてのことができない。

 かゆいところをかくこともできない。自分のお尻を自分で拭くことができない。眠っていても寝返りがうてない。すべてのことに、人の手を借りなければ生きていけない。

 さらに大きな問題があった。

 35歳のとき、呼吸筋の衰えによって自発呼吸が難しくなり、ノドに穴を開ける「気管切開」の手術をして、「人工呼吸器」という機械を装着した。筋ジスという病気が恐ろしいのは、脈や腕、首といった筋肉だけでなく、内臓の筋肉をも徐々にむしばんでゆくことだ。

 以来、1日24時間、誰かが付き添って、呼吸器や気管内にたまる痰(たん)を吸引しなければならない。放置すると痰をつまらせ窒息死してしまうのである。


【『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史〈わたなべ・かずふみ〉(北海道新聞社、2003年)以下同】


 手っ取り早くいうと「筋肉が死んでゆく」病気である。その上気管切開をしていた。現在でも気管切開をしている要介護者は、ショートステイや訪問入浴を断られることが珍しくない。事故が懸念されるためだ。痰の吸引は医療行為に該当し、最近ではヘルパーにも認められつつあるが、現状の大半は医師・看護師と家族に限られている。多い場合だと一日に100回もの吸引を必要とする人もいて、家族の負担が大きい。


 鹿野はボランティアの面々を「広い意味での家族」と位置づけることで、牽強付会の論理を押し通した。そして彼は、痰吸引を数多くのボランティアに指導した。ここにおいて介護現場で立場が逆転する。


 重度の身体障害者が独り暮らしを始めるというのは、文字通り自殺行為に等しかった。鹿野はなぜそこにこだわったのか。実は妹が知的障害者だった。彼は親に負担をかけることを嫌った。そして、一日三交替制で4人のボランティアを必要とする生活を開始した。月間だと述べ人数で120人ものボランティアが必要となる。


 鹿野はおとなしい病人ではなかった。暴君といった方が相応しい。彼はわがままだった。だが、わがままを通さなければ生きてゆけない現実が確かに存在した。貪欲なまでに生を貪(むさぼ)り、生にしがみつき、生を堪能した。


 そんな不満が爆発寸前のとき、「バナナ事件」は起こった。


 ある日の深夜、病院の簡易ベッドで眠っていた国吉は、鹿野の振る鈴の音で起こされた。「なに?」と聞くと、「腹が減ったからバナナ食う」と鹿野がいう。

「こんな夜中にバナナかよ」と国吉は内心ひどく腹を立てた。しかし、口には出さない。バナナの皮をむき、無言で鹿野の口に押し込んだ。二人の間には、言いしれぬ緊張感が漂っていた。

「それに鹿野さん、食べるスピードが遅いでしょ。バナナを持ってる腕もだんだん疲れてくるしね。ようやく一本食べ終わったと思って、皮をゴミ箱に投げ捨てて……」

 もういいだろう。寝かせてくれ。そんな態度を全身にみなぎらせてベッドにもぐり込もうとする国吉に向って、鹿野がいった。

「国ちゃん、もう一本」

 なにィ!! という驚きとともに、そこで鹿野に対する怒りは急速に冷えていったという。

「あの気持ちの変化は、今でも不思議なんですよね。もうこの人の言うことは、なんでも聞いてやろう。あそこまでワガママがいえるっていうのは、ある意味、立派。そう思ったんでしょうか」

 そのときの体験を、国吉は入社試験の作文に書いてNHKに合格したという。現在は事件・事故現場からの“立ちリポ”でニュースにも登場する第一線の報道記者である。


 これがタイトルの由来となった事件である。鹿野とボランティアの関係が実に上手く出ている。介護現場は生々しい格闘のリングであった。鹿野がボランティアを罵倒し、ボランティアが鹿野の頭を叩く場面もある。


 取材を重ねる中で著者の渡辺一史もボランティアに加わる。その意味では、巻き込まれ型ノンフィクションともいえる。フィールドワークではない。なぜなら、鹿野靖明は他人を巻き込むエネルギーの持ち主であるからだ。


 渡辺のペンは、鹿野を取り巻くボランティアの生きざまを炙(あぶ)り出す。ボランティアとは、「助けること」と「助けられること」とが密接不可分になり、融(と)け合い、時に立場が入れ替わる営みでもあった。


「そうじゃない、本当はこうしてほしい」

「そうじゃない、本当はこう望んでいる」

 こうした障害者の思いは、往々にして、健常者が「よかれ」と思ってした行為や、安易な「やさしさ」や「思いやり」を突き破るような自己主張として発せられることが多い。介助者にしてみれば、つねに好意が打ち砕かれるような、激しさと意外性の伴う体験なのだ。

 さらに考えなければならないことは、自立をめざす重度障害者たちは、こうした自己主張を対人間関係のみならず対社会にまで押し広げることで、在宅福祉制度の必要性を訴え、自立生活の基盤そのものを生み出してきた点だ。歴史的に見ても、彼らの飛び出した施設とは、障害者を隔離収容することで、安全に一律に“保護”しようという、安易で硬直した健常者の「やさしさ」や「思いやり」が生みだした産物であろう。


 介護や医療の現場において、人間関係は凝縮された姿で現れる。迫り来る死の実感が、人間の本質をさらし出すのだろう。鹿野の偉大さは、制度の不備を嘆いているだけの人が多い中で、自らが打って出て必要な体制を築いた事実にある。中々できるものではない。ボランティアの高橋雅之が撮影した秀逸な写真が配されているが、鹿野はギラギラしている。


「フツウは、死にそうな体験を何度もすると、何があってもニコニコ笑った“おばあちゃん”みたいな、人にやさしく、あんまり欲もなく、不平不満も言わず、みたいな、そういう人物像を思い浮かべますよね。

 でも、シカノさんの場合、何度も死ぬ思いをしてきたにもかかわらず、いまだにギラギラして脂(あぶら)っこいですよね。あれは――なんなんでしょうかね(笑)。オレとか、ワタナベさんより、100倍くらいは生命力が強いんじゃないですか」

 私は斉藤と顔を見合わせて笑った。とても愉快だったのだ。


 本書の完成を間近に控えた2002年8月12日、鹿野靖明は逝ってしまう。享年42歳。鹿野の死を取り巻くボランティアの様子も淡々と描かれている。


 エド・ロングや小山内美智子といった大物も登場し、464ページで1890円は安い。渡辺の文章がとにかくいい。


 人間として生まれた以上、他人の助けがないと生きてゆけない。そんな当たり前のことをドラマチックに教えてくれる一冊だ。

こんな夜更けにバナナかよ

2009-08-01

思想と理論/『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三


 リハビリテーションの思想と、イタリアのカルロ・ペルフェッティが提唱する認知運動療法の啓蒙書である。宮本省三の文章は機関銃のように怒りを放っている。畳み込む理論が時に破綻することもある。実に強引極まりない。私は本書を読んで、宮本省三の評価にクエスチョンをつけざるを得なかった。「心意気は買う。しかし表現が拙い」――率直にそう感じた。


 しかしそれでも尚、端倪(たんげい)すべからざる文章が散りばめられている――


 もっと明確に語ろう。リハビリテーション医療はリハビリテーション思想に基く社会復帰の手段であって、運動療法理論に基く治療ではない。ある治療が科学的であるためには、思想ではなく理論が不可欠である。なぜなら、思想は方法論を規定しないが、理論は方法論を規定するからである。


【『リハビリテーション・ルネサンス 心と脳と身体の回復 認知運動療法の挑戦』宮本省三(春秋社、2006年)】


 これには心底驚かされた。ここ数年にわたって私が何となく考えていたことが、明快な言葉となっていた。はたと膝を打った。その時の手形がまだ膝に残っている(ウソ)。


 宮本省三はきっと、リハビリ効果の個別性・特殊性に配慮したのだろう。否、段階の異なる身体障害者をリハビリ理論にはめ込むことを斥(しりぞ)けたのだ。ある人には効果があっても、別の人には全く効果がないこともあり得る話だ。


 このテキストは期せずして「科学と宗教」のあり方をも示唆している。思想と理論はイコールではない。しかし、理論を無視した思想は万人が受け容れることはできないし、思想なき理論にも人は嫌悪感を覚える。「情と理」とも言えるし、「信と理」とも言い換えることができよう。


「神の名」のもとに一切が正当化されてしまう世界観は危険だ。理は信を生み、信は理を求め、求めたる理は信を高め、高めたる信は理を深からしむ――これが正しい信仰のあり方であろう。理と信とが乖離するところに邪教の邪教たる所以(ゆえん)がある。


モルモン教の創始者ジョセフ・スミスの素顔/『信仰が人を殺すとき』ジョン・クラカワー


 大乗仏教はブッダの言葉を理論化しつつ、哲学性を止揚するに至った。小乗教はシステマティックな教条を500もの戒律に細分化して、民衆から見離された。つまり問題は、方法化にあるわけではなく、方法化の基盤となる思想にあるのだ。とすると、思想と理論とは別々に論じることができない。


 私が宮本省三という人物を信用するには、『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』(講談社現代新書、2008年)を読む必要があった。未読の方はこちらから読むことをお薦めしておこう。


 本書には宮本の焦燥感のようなものが見受けられる。そこから、日本のリハビリの現状を読み解くことも可能だ。

リハビリテーション・ルネサンス―心と脳と身体の回復、認知運動療法の挑戦

2009-06-16

リハビリ〜歩行をイメージする/『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競、宮井一郎


 今読んでいる最中の『マインド・ウォーズ 操作される脳』(ジョナサン・D・モレノ著/久保田競監訳、西尾香苗訳、アスキー・メディアワークス、2008年)の表紙見返しに「脳機能の最高権威 久保田競(京都大学名誉教授)監訳」とあった。その関連で本書を取り上げておく。


 前にも書いたが初心者向けの内容である。最新治療法のアウトラインをざっと紹介している。注目に値するのは以下――


 さらに興味深いことに、歩くことを想像すると歩行時の脳活動に近い活動分布を示すことがわかりました。実際の歩行と比べると活動の中心は一次運動野よりも前の補足運動野に見られますが、ここで大切なことは運動の想像をするだけで実際に運動をするときと同じような神経ネットワークが活動するということです。


【『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競(くぼた・きそう)、宮井一郎編著(講談社ブルーバックス、2005年)以下同】


 イメージ・トレーニングがリハビリにおいても有効であるとの指摘だ。我々は日常において足で歩いていると実感しているが、その指令は脳から出されたものであるがゆえに、実は「脳が歩いている」ともいえる。


 もう少し厳密に書こう。例えばほっぺをつねったとする。すると、ほっぺに痛みを感じる。しかし実際は、脳内の頬に該当する神経が痛みを認識しているのだ。つまり、頭蓋骨を外して脳味噌のその部分を刺激すれば、ほっぺをつねらずしても頬に痛みを感じさせることが可能となる。これを発見したのがワイルダー・ペンフィールドである。ペンフィールドの体性感覚ホムンクルスを一度は見たことがあるだろう。


 こうした事実から、人間の行動というものが「初めにイメージありき」であることが理解できる。


 入門書としておとなしく終わればいいものを、久保田は最後に本音を漏らす――


 最後に少し触れておきますが、リハビリテーションでよくなった体験報告の手記が数多く出版されています。これらは医学的な記載が不十分なものが多いので、読んで参考になることは多くありません。


 それは、「お前にとっては」というレベルの話だろう? 「脳機能の最高権威」にあぐらをかいている人物が馬脚を露わした瞬間だ。久保田は科学的事実と経験的事実を混同している。多分、データを重視する考えを示したつもりであろうが、期せずして学者の思い上がりを吐露した格好になっている。


 他人の経験から何を読み取り汲み取るかは、聞き手の側の問題である。久保田は間違いなく患者の話を軽々しく扱うタイプの人物だろう。

脳から見たリハビリ治療―脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方 (ブルーバックス)