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2011-03-03

深い問いかけが智慧を引き出す/『学びと英知の始まり』J・クリシュナムルティ


 本物の哲学・宗教は必ず教育に辿り着く。思想がもつ全人生が発揮されるのは教育を措いて他にないからだ。学問・専門領域にとどまってしまえば、部分的有効性を示したも同然であろう。


 しかし現代の教育は手段と堕している。学校は工場と化して不良品を取り除き、子供たちを整形し、加工する。


 小学生を見てみよう。彼らはまだ考える力もなければ判断力もない。そんな彼らにとって見知らぬ大人は恐怖の対象でしかない。だから黙って従う。やりたくもないことを次々と押しつけられる。宿題を与えることで私生活まで管理される。夏休みは絵日記や研究発表、そして図画工作とくる。まるで残業の予備演習だ。


 本来、学ぶことは喜びを伴うはずだ。ところが今時の学校は学びを苦痛と同等の位置へおとしめてしまった。強いて勉めると書いて勉強とはいうなり。


 私自身振り返ってみても、まともに教師と話をした覚えがない。我が人格形成に教師の存在は影すらも見当たらない。


 クリシュナムルティは30歳過ぎから教育事業に着手した。インドを皮切りにアメリカ、イギリスにクリシュナムルティ・スクールを創設した。本書はイギリスのブロックウッドパーク校の生徒と教職員との討論が収められている。


クリシュナムルティ●世界で何が起きているか知っていますか? ハイジャックや欺瞞、露骨な嘘、反乱、インドの混乱や不幸。それらについて読むとき、それらは君たちにとって何を意味しますか? それとも、そういうことについては読みませんか──世界で起きていることには気づかないですか?


質問者●その多くは非常に悲しいことですね。


クリシュナムルティ●悲しいというのはどういう意味ですか?


質問者●一部の人間が他の人々を支配し、多くの人々を傷つけているということです。


クリシュナムルティ●しかし何世紀もの間それが続いてきたのです。歴史全体がそうなのです。それについてどう思いますか?


質問者●実のところ何も感じないのです。


クリシュナムルティ●なぜ何も感じないと言うのですか?


質問者●テレビで人々が殺されているのを見ます。見つめてみるのですが、その人々が本当に殺されているという実感がしないんです。


クリシュナムルティ●君はそのすべてにおいてどんな役割を果たすのですか?


質問者●僕はその一部ではありません。


クリシュナムルティ●では、それに対して君はどんな関係がありますか? ヨルダンやアメリカといった、どこか「向こうで」起きていることですか?


質問者●ときどき胸にこたえて、あの人たちの思いを感じとれるときもあります。


クリシュナムルティ●人はこのすべてを変えなければならないと思いますか、それとも自分には何もできないと思うのですか? 君は世界とどんな関係があるのでしょう? 科学技術的に進歩しつつあるとてつもない事物がある反面、その科学技術の進歩について行けない人間のぞっとするような無能力があることに気づいていますか? 人間が世界中で引き起こしている混乱に対して、君はどんな関係があるのでしょう?


質問者●自分が混乱しているかぎり、世界の混乱に手を貸していくのです。


クリシュナムルティ●それはわかりますが、しかしそれについてどう思いますか? 君の心の奥底は、それにどう応えるでしょう?


【『学びと英知の始まり』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1991年)】


 クリシュナムルティは問いかける。畳み込むように問いかける。それも気軽に答えられるような質問ではない。なぜなら問われているのは「自分自身」に他ならないからだ。


 しかも礼儀と節度を弁えていて、振る舞いそのものが教育となっている。


 深く厳しい問いかけが漫然と生きる者の背中に鞭(むち)となって振り下ろされている。しかし責める姿勢は露ほどもない。世界を構成する同じ人間として、対等な目線で真摯な対話が行われている。


 驚くべきことだが、彼は絶対に妙な優しさや情を示すことがなかった。現実に対してどこまでも知的なアプローチを試みた。


 感情は一体感を高めるが永続性に欠ける。また依存心の温床ともなりやすい。時には判断を鈍らせる原因ともなる。


 クリシュナムルティは講話においても対話においても英知を示した。それは知識や理性ではない。まして方法や技術でもなかった。


 道、といってしまえば方向性が含まれてしまう。彼は自分に拠って立ち、人々に歩む力を自覚させたのだろう。


 クリシュナムルティ・スクールは彼を宣揚する目的でつくられたものではなかった。ここがまた偉大なところだ。

学びと英知の始まり

2010-07-08

クリシュナムルティにひれ伏す男/『リシバレーの日々 葛藤を超えた生活を求めて』菅野恭子


 菅野恭子はギーブル恭子という名前で『ザーネンのクリシュナムルティ』を翻訳した人物だ。クリシュナムルティの解説本の類いは、まず当たりがないと思っていい。読むに値するのはススナガ・ウェーラペルマくらいだ。


 菅野はクリシュナムルティの教えに触れて小賢しくなってしまった人物の典型で、明らかに境界性人格障害の傾向が見られる。単なる悪口と受け止められるといけないので、きちんと説明しよう。


 本書は、クリシュナムルティが創立したインドのリシバレー校に滞在した手記である。クリシュナムルティの没後であるため、いわば学校体験記といった内容だ。


 この時ばかりは、早朝からわざわざ私たちのためにお弁当をつくってくれた村人たちのことが思い出されただけでなく、貴重なチーズを無駄にする気持ちには到底なれなかったため、我慢して食べることにしました。


【『リシバレーの日々 葛藤を超えた生活を求めて』菅野恭子〈かんの・きょうこ〉(文芸社、2003年)以下同】


 現地の人々の善意に対して「我慢」という言葉を吐く神経が尋常ではない。菅野は村人の善意と自分の好き嫌いを同列に論じている。そもそも本に書くようなことではないだろう。自我の境界が崩れている証拠である。


 ダダ氏は講和をするだけあって、確かに彼なりに何かを掴んでいるとは思います。しかし、いわば悟りの深さにおいて、そしてそれを言語表現する的確さにおいて、クリシュナムルティほどではないように思いました。


 じゃあ、あんたはどうなんだ? あんたはクリシュナムルティと同等なのか? それともクリシュナムルティを上回っているとでも?


 挙げ句の果てには文豪まで非難する始末だ――


 この詩は「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」という言葉で表現されているように、賢治の理想像を描いたものだと思いますが、理想の持つ危険性に彼は気づいていなかった、と言ってよいかもしれません。


「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくこの世は住みにくい」と、明治の文豪夏目漱石は小説『草枕』の冒頭の部分で書きました。が、それに対してあえて私は、「そのようにして人生をとらえるのは、自我というものについての追及が浅かったのでは」、という疑問を呈示したいと思います。(「あとがき」)


 まるで幼児が覚え立ての言葉で誰かの悪口を言っているような代物である。自分を高みに置いて、軽々しい言葉を並べ立てているだけの話だ。かような人物がクリシュナムルティを理解できるわけがない。


 境界性人格障害は罪悪感を覚えないところに特徴がある。善悪の概念が理解できないのだ。このため、言っていいことと悪いことの区別がつかず、人を傷つけても悪びれるところがない。


 私がクリシュナムルティの解説本を読むのは、何かを教えてもらうためではなく、断片的な情報でも構わないからクリシュナムルティへの手掛かりを見出すことが目的だ。そして本書にも、確かな光彩を放つ証言があった――


 転校して2年目に、またクリシュナムルティがリシバレーを訪れました。そしてある時、彼の講話を聞いていた最中に、彼の中に見たものによって、私の人生は完全に変わってしまいました。

 彼は、全校生徒と教師と訪問者に向かって講話をしていました。講話が終わった後、壇上から降りると、中年の男性が彼のそばに歩み寄り、足元に完全にひれ伏したのです。クリシュナムルティは彼の体を起こして、

「なぜそうするのですか」

 と聞きました。すると、その中年男性は、

「あなたは神です」

 と言い出しました。クリシュナムルティはそれに対し、

「あなたが私に見出したのは、そのことなのですか」

 と問い、彼自身もその中年男性の前でひれ伏したのです。中年男性はびっくり仰天しました。

 私は英語がまだよくわからず、クリシュナムルティの話していることを理解できませんでした。にもかかわらず、彼の取ったたった一つの行為が、たぶんその時、彼がたまたま話していたかもしれないことの全てをわからせてくれたように思いました。人々の誰もが、クリシュナムルティは偉大な人物だと言いますが、クリシュナムルティは、そんなことには頓着せず、見知らぬ人の前でひれ伏したのです。そこにはエゴのかけらもありませんでした。私は自分が目撃していたことを信じることができませんでした。私の目は涙で潤みました。

 それからというもの、私の人生は変わりました。それまでとは違った人間になりました。(マヘッシュ・パンデ)


 まるで不軽菩薩(ふきょうぼさつ)そのものではないか。クリシュナムルティの場合は、相手を礼拝(らいはい/※仏教の場合は「らいはい」で、キリスト教やイスラム教の場合は「れいはい」と読む)するというよりは、むしろ「同じ人間ではないか」という平等性を示そうとしたのだろう。


「そんな真似をしてはいけませんよ」と諭(さと)すよりも、同じ振る舞いをすることで「神に額(ぬか)づく」愚かさを相手に知らしめているのが凄い。やろうと思って、できるような行動ではない。まさに「即座の智慧」が光り輝いている。


 権力者は他人に頭を下げさせることで快感を覚える。人々がかしずくのは気分がいいものだ。学者はその道の権威を目指し、芸能人は有名を極めようと目論む。作家は賞の獲得に余念がなく、スポーツ選手は金メダルを欲する。


 クリシュナムルティはそんなものとは無縁だった。彼はただ世界の人々と膝を交えて、生の全体性を語りに語った。

リシバレーの日々―葛藤を超えた生活を求めて

2010-05-23

現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

 文明の進歩は人間を自然から隔絶した。密閉された住居、快適な空調、加工された食品、電線や電波を介したコミュニケーション、情報を伝えるメディア……。文明の進歩は人間を人間からも隔絶してしまったようだ。


「自然との正しい関係とは、実際は何を意味するのでしょう?」という質問にクリシュナムルティが答えた一部を紹介しよう――


 私たちはけっして木を見つめません。あるいは見つめるとしても、それはその木陰に坐るとか、あるいはそれを切り倒して木材にするといった利用のためです。言い換えれば、私たちは功利的な目的のために木を見つめるということです。私たちは、自分自身を投影せずに、あるいは自分に都合のいいように利用しようとする気持ちなしに木を見つめることがけっしてないのです。まさにそのように、私たちは大地とその産物を扱うのです。大地への何の愛もなく、あるのはただその利用だけです。もし人が本当に大地を愛していたら、大地の恵みを節約して使うよう心がけることでしょう。つまり、もし私たちが自分と大地との関係を理解するつもりなら、大地の恵みを自分がどう使っているか、充分気をつけて見てみるべきなのです。自然との関係を理解することは、自分と隣人、妻、子供たちとの関係を理解することと同じくらい困難なことなのです。が、私たちはそれを一考してみようとしません。坐って星や月や木々を見つめようとしません。私たちは、社会的、政治的活動であまりにも忙しいのです。明らかに、これらの活動は自分自身からの逃避であり、そして自然を崇めることもまた自分自身からの逃避なのです。私たちは常に自然を、逃避の場として、あるいは功利的目的のために利用しており、けっして立ち止まって、大地あるいはその事物を愛することがありません。自分たちの衣食住のために利用しようとするだけで、けっして色鮮やかな田野をを見て楽しむことがないのです。私たちは、自分の手で土地を耕すことを嫌がります──自分の手で働くことを恥じるのです。しかし、自分の手で大地を扱うとき、何かとてつもないことが起こります。が、この仕事は下層階級(カースト)によってのみおこなわれます。われわれ上流階級は、自分自身の手を使うには偉すぎるというわけです! それゆえ私たちは自然との関係を喪失したのです。(プーナ、1948年10月17日)


【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1993年)】


 木を見る。比較することなくただ木を見つめる。葉や花に捉われることなく全体を、木の存在そのものを見る。そこに「生の脈動」がある。人が木を見つめ、木が人を見返す。ここに関係性が生まれる。私も木も世界の一部だ。そして世界は私と木との間に存在している。私は木だ。私は木と共に【在る】。


 そんなふうに物事を見ることは殆どない。「見慣れる」ことで我々は何かを見失っているのだろう。「見える」のが当たり前と思い込んでいるから、「生きる」ことも当たり前となってしまう。このようにして二度と訪れることのない一瞬一瞬を我々はのんべんだらりと過ごしているのだ。


「明日、視力が失われる」となれば、我々の目は開くことだろう。「余命、3ヶ月です」と診断されれば、我々は真剣に生きるのだろう。


 生きるとは食べることでもある。生は他の生き物の死に支えられている。生には動かし難い依存性が伴う。そして食べることは残酷なことでもある――

 美味しい肉に舌鼓を打つ時、屠(ほふ)られた動物の叫び声が我々の耳に届くことはない。欲望はあらゆるものを飲み込む。動物に課された理不尽な運命は易々(やすやす)と咀嚼(そしゃく)される。我々が気にするのは値段だけだ。家畜が屠殺(とさつ)される瞬間に思いを馳せることもない。


 文明は死を隠蔽(いんぺい)する。そして死を見つめることのない生は享楽的になってゆく。社会は経済性や功利主義に覆われる。


 生は交換することができない。資本主義経済はあらゆるものを交換可能な商品にした。現代人の価値観は「商品価値」に毒されている。出自や学歴、技術や才能で人間を評価するのは、人間が商品となってしまったためだ。だからこそ我々は「労働力」と化しているのだ。


「あの花を見よ」とクリシュナムルティは言う。花が見えなければ、自分の心も見えない。集中するのではなく、注意深く見つめる。「見る」が「観る」へと昇華した瞬間に世界は変容するのだろう。

瞑想と自然

2010-04-15

恐怖なき教育/『未来の生』J・クリシュナムルティ

英知の教育』同様、クリシュナムルティスクールで行われた講話と質疑応答で構成されている。


 冒頭に27ページに及ぶ序文が記されており、クリシュナムルティの教育に懸ける情熱がほとばしっている。


 彼は言う。「学校は児童がくつろぎを感じ、安心できる場所であることが第一義だ」と。それは、「木登りができ、もし木から落ちても叱られないという感じなのだ」と絶妙な例えを示している。


 教育の現状を考えてみよう。殆どの国において教育は政治の支配下にある。教師は選別され、教科書は検定され、生徒はランク付けされる。学校では目標が設定され、育つべき人間像を叩き込まれ、社会に貢献することが善であると吹聴される。国家という強大な意志による「人間プレス工場」──これが教育の実体であろう。


 学校の目的は、労働者と兵隊を育てることだ。歴史と称して、隣国への憎悪を植え付けることも平然と行う。いつの間にか我々は国家なくしてアイデンティティは成立しないとまで思い込むようになる。そして「国民の義務」を課せられるのだ。


 子供達は競争へと駆り立てられる。ヒエラルキーの下(もと)で行われるラットレースだ。自己実現をするためには社会で成功する他ない。「私」は社会から評価される対象と化し、国家に隷属する。そして召集令状が届けば、家族は万歳をしながら見送ってくれることだろう。国家の命令とあらば、勇んで人殺しに手を染め、敵の喉をかっさばき、目玉を抉(えぐ)り抜いてみせるのだ。なぜなら、それが国民の義務だからだ。


 と、まあそんな現状だろう。クリシュナムルティはこれに真っ向から反逆する──


 児童が今まで一度も経験したことがないかもしれない、信頼にもとづいたこの新しい関係のまさに最初の衝撃が、若者が大人を恐怖すべき脅威として見なすことのない自然な意思疎通に役立つであろう。安心していられると、児童は、学習にとって不可欠な尊敬の念を自分なりのやり方で表わすものである。この尊敬の念には、権威と恐怖が一切ない。児童に安心感があるときは、彼の行動や態度は大人によって押しつけられたものではなく、学びの過程の一部になるものである。生徒は教師との関係で安心していられるので、自然に周囲を思いやるようになるであろう。そしてこのような安心していられる環境においてのみ、感情的開放性と感受性が開花できるのだ。くつろぎ、安心していられると、子供は自分の好きなことをするだろう。しかし自分の好きなことをすることによって、何をするのが正しいのかを見出すだろう。するとそのとき、子供の行動は、反抗や強情、抑圧された感情によるものでも、あるいは一時的な衝動のたんなる表現でもなくなるだろう。

 感受性とは、自分の周囲のあらゆるもの──植物、動物、木、空、川の水、飛んでいる鳥、そしてまた周囲の人々の気持ち、通りすがりの見知らぬ人に対しても──に敏感であることを意味する。このような感受性が、ほんとうの道徳と行為である打算的でも利己的でもない応答の性質を生み出すのだ。敏感なので、児童の行動は開放的で、隠しだてのないものになるだろう。それゆえ、教師側からのちょっとした示唆でも、抵抗や摩擦なしに容易に受け入れられることだろう。

 われわれの関心は人間の全的発達にあるので、知的推論よりもはるかに強い感情的な衝動をまず理解しなければならない。必要なことは感情的能力を養うことであって、その抑制に手を貸してはならないのである。知的ならびに感情的な事柄を理解し、それゆえそれらに対処できるときには、何の恐怖感もなくそれらに取り組むようになるだろう。

 人間の全的発達のためには、感受性を養う手段としての独居(ソリチュード/一人でいること)が必要不可欠になる。われわれは、一人でいるとはどういうことか、瞑想するとはどういうことか、死ぬとはどういうことかを知らなければならない。が、独居、瞑想、死の意味は、それを探究しぬくことによってしか知ることができない。それは教えてもらうことはできないものであって、学びとらねばならないものだ。指し示すことはできるが、指し示されたものによる学びは、独居や瞑想の刻々の体験ではない。独居とは何か、瞑想とは何かを刻々に体験するためには、探究の状態にいなければならない。探究の状態にある精神だけが学ぶことができる。しかし、探究が以前得た知識、他人の権威や経験によって抑制されるときには、学びはたんなる模倣になり、そして模倣は、当人が学んだことを刻々に体験せぬまま、ただ反復するようにさせるのだ。

 教えるというのは、たんに情報を伝達することではなくて、探究精神を養うことである。このような精神は、寺院や儀式からなる既成宗教をむやみに受け入れたりはしないで、宗教とは何かという問題にまで進むべきであろう。信仰や教義のたんなる受容ではなく、神、真理、または何と名づけようが、そういうものの探究こそが真の宗教なのである。


【『未来の生』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1989年)】


「そんな悠長な教育ができるはずがない」と思った人々は、既に生産性に取りつかれている証拠である。混乱する世界を変革するには教育しかないのだ。人類の未来は、小さな子供達の胸の中にしか存在しない。


 我が子に命令し、言うことを聞かないと罰を与え、言いなりになれば褒美を授ける。これが我々の世界なのだ。教育という名の矯正は、まるで盆栽のようだ。針金をぐるぐる巻きにし、伸びゆく力を抑えつけ、余計な枝は剪定(せんてい)され、小ぢんまりとした大人が出来上がるってわけだよ。


 教育の失敗例はそこここに転がっている。いじめ、不登校、引きこもり、リストカット、家庭内暴力、万引き、薬物乱用、援助交際……。そうであるならば、最初っから自由にした方がいいのではないだろうか? 「自由に生きてみろ」「大人の言いなりになるな」「あらゆる価値観を疑え」──そんなふうに育てられたら、人間はどのように伸びてゆくのだろうか? 丁と出るもよし、半と出るもよし。親が子供の失敗や落伍を恐れるようなら、どうせ会社人間しか育てることはできない。


「真に自由な人間」を見てみたいものだ。

未来の生

2010-04-10

深遠なる問い掛け/『英知の教育』J・クリシュナムルティ


子供たちとの対話 考えてごらん』と同じ体裁で、インドのクリシュナムルティスクールで生徒に対して行われた講話と質疑応答が収められている。


 クリシュナムルティは晩年になっても子供達と対話をした。彼は生涯にわたって指導者となることを拒み続けた。だからこそ、子供達とも全く対等な視線で魂の交流ができたのだろう。


 大人は得てして一方的な訓戒を述べたがるものだ。まして功成り名を遂げた人物であれば尚更その傾向が強い。胸を反(そ)らせて声高らかに成功体験を語ることだろう。だが、そこに落とし穴がある。社会で成功した者は社会の奴隷である。社会のルールを知り、それに従い、社会から認められたからこそ成功したのだ。彼等は自分達が成功した社会が永続することを望み、社会を維持させるべく保守的とならざるを得ない。そこに「条件づけ」が確立されるのだ。


 宗教もまた同様である。教えを説く人と、説かれた教えに額(ぬか)ずく人々によって教団が構成されている。

 ヒエラルキーは効率のよい指示系統の構築を目的としている。とかくこの世は一方通行の道路だらけで、進入禁止のコースも決して珍しくない。成功街道を歩むには、それ相応の免許証が必要となる。


 顛倒(てんとう)する世界をひたと見つめ、クリシュナムルティは人々に問いかける。その姿勢は児童達に対しても変わるところがない。彼の講話はスピーチではなく、魂の深い部分に問いかける対話である。映像を観るとわかるが、聴衆を見渡しながら彼はしばしば目をつぶり、じっと一点に見入っている時、明らかに自己の内部を見つめている。


 多くの仏像が半眼(はんがん)であるのは彼岸(あの世)と此岸(この世)を見つめているとされるが、クリシュナムルティの視線に私は同じ性質を感じてならない。


 クリシュナムルティは生徒の正面に立って、「君達は何のために学んでいるのか?」と問う。そこには遠慮も手加減も全くない。生徒は知らず知らずのうちに自分や自分の置かれた環境と向き合わざるを得なくなっている──


 君たちは、私がこれまでに見てきたうちでもっとも美しい渓谷のひとつに暮らしている。そこには、特別な雰囲気がある。ことに、夕方や朝とても早くに、ある種の沈黙が渓谷に行き渡り、浸み透っていくのに気づいたことはないだろうか。このあたりには、おそらく世界でももっとも古い丘があって、まだ人間に汚されていない。外では、都会だけではなくそこら中で、人間が自然を破壊し、もっとたくさん家を建てようと木を切り倒し、車や工業で大気を汚染している。人間が動物を滅ぼそうとしているのだ。虎はほとんど残っていない。人間があらゆるものを滅ぼそうとしている。なぜなら、次々と人間が生まれ、より多くの住むところが必要になっているからだ。しだいしだいに、人間は世界中に破壊の手を広げつつある。そして人は、こうした谷──人はわずかしかおらず、自然はまだ汚されておらず、いまなお沈黙と静謐(せいひつ)と美のある谷にやって来ると、ほんとうに驚いてしまうのだ。ここに来るたびに、人はこの土地の不思議さを感じるけれども、たぶん君たちはそれに慣れてしまったのだろう。君たちは、もう丘を見ようとはしないし、もう鳥の声や葉群(はむれ)を吹き抜ける風の音を聞こうとはしない。そんなふうに、君たちは、しだいに無関心になってしまったのだ。

 教育とは、ただ本から学び、何かのことを暗記するというだけのことではなく、それがほんとうのことやあるいはうそを言っているかを、見、聞きする術(すべ)を学ぶことである。そういうことすべてが、教育の一部なのだ。試験に合格し、学位を取り、就職し、結婚して定住するだけが教育ではない。それは、鳥の鳴き声を聞き、大空を見、えもいわれぬ樹木の美しさや丘の姿に眺めいり、それらと共に感じ、ほんとうに、じかにそれらに触れることでもある。だが、年を取るにつれて、そんなふうに見、聞きしようとする気持ちが、不幸なことに消え去ってしまう。なぜなら、心配事は増えるし、もっとたくさんのお金、もっといい車、もっと多くの、または少しの子供を持ちたいと思うようになるからなのだ。嫉妬ぶかくなり、野心的で欲ばりで、妬(ねた)みぶかくなり、その結果、大地の美しさへの感受性をなくしてしまうのだ。世界で、何が起こっているか知っているだろうか。現在のいろいろな出来事を、気をつけて調べてみなさい。戦争や反乱が次次に起こり、国と国とがお互いに対立しあっている。この国にも、差別や分裂があり、人口は増加の一途をたどり、貧しさ、不潔さ、そして完全な無感覚と冷淡さがはびこっている。自分が安全ならば、ひとに何が起ころうといっこうに気にしない。そして、君たちは、こういうことすべてに合わせていけるよう教育されているのだ。世界が狂っているということ──お互いに争い、けんかし、いじめ、おどし、苦しめ、攻撃しあうということすべては、狂気なのだということが、わかっているだろうか。で、君たちは、それに合わせていけるように成長するというわけだ。それは、正しいことなのだろうか。社会と呼ばれるこの狂った仕組みに、君たちが進んで、あるいはいやいやでも適応するようにすること、それが教育の目標なのだろうか。それから、世界中の宗教に何が起こっているか、知っているだろうか。この分野でも、人間は腐っていこうとしているし、誰も何一つ信じてはいないのだ。人間は、何の信仰も持ってはいないし、宗教とは単なる大がかりな宣伝の成果にすぎなくなっている。

 君たちは、若く、生き生きとしており、そして純粋だから、大地の美しさを見つめ、愛情豊かな心を持つことができるのではないか。そして、持ち続けることができるのではないだろうか。もしそうしなければ、成長するにつれて、君たちは適応してしまうだろう。なぜなら、それがいちばん安易な生き方だからである。成長するにつれて、君たちのうちごく少数しか反抗しなくなり、その反抗も、問題の解決にはならないだろう。君たちのうちには、社会から逃避しようとする者も出るだろう。しかし、そうした逃避には、何の意味もありはしない。必要なことは、社会を、人々を殺すことによってではなく、変えることなのだ。社会は、君たちでもあり、私たちでもある。君たちや私が、この社会を作り上げたのだ。だから、君たちが変わらなければならない。この異様な社会に適応してはいけない。とすれば、どうすればいいだろう。

 君たちは、このすばらしい谷で暮らした後は、争いと混乱と戦争と憎しみの世界へ送り出されようとしている。君たちは、こういう古い価値に従い、適応し、それらを受け容れるつもりなのか。古い価値とは、お金、地位、威信、権威のことである。それが、人間の望みのすべてであり、社会は君たちがそういう価値のシステムに適応することを望んでいる。だが、もし君たちが今、考え、観察し、そして本からではなく、自分のまわりでいま起こっていることをみな自分自身で見守り、耳傾けることによって、学びはじめたならば、今の人間とは違った種類の人間──思いやりがあって、愛情深く、人々を愛する人間──に成長するだろう。もしそういうふうに生きるならば、たぶん君たちはほんとうに宗教的な人生を発見するだろう。

 だから、自然を、タマリンドの木、咲きほこるマンゴーの木を見つめ、それから、朝早くと夕方とに、鳥たちの声に聞き入りなさい。木の葉の上のとりどりの色や光、大地の美しさ、豊かな土地を見てごらん。そういったものみなを見、また世界のありさまを、そのすべての残酷さ、暴力、醜さといっしょに見た今、これから何をすべきなのだろう。


【『英知の教育』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1988年)以下同】


 のっけから全開である。五感を研(と)ぎ澄まして世界を見つめよ、と。


 実は視覚というのは受動的な感覚機能ではないことが科学的に明らかになっている。生まれつき目の不自由な人が手術などによって視覚を得ると、見た物を殆ど理解することができない。このような人々は必ず一旦物に触れてから再び見直すことで映像を理解するのだ。視覚と触覚との連合は、我々も幼児期に数年かけて行っているといわれている。


 つまり、「ものが見えている」と思うのは大きな間違いで、本当は「視覚映像を読み解いている」のである。後天的に視覚を得た人々はこれが上手くできない(脳の神経経路がつながらなくなっている)ため、殆どの人々が目が見えるようになった途端、うつ病になっている。


 見るという行為には無意識のうちに想像力が働いている。時にこれが先入観となって錯視が生じる。

  • 騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

 クリシュナムルティが説く「観察」とは、こうした想像力や先入観から離れて見つめることを意味している。「見る者」と「見られる物」という分断を超えた観察である。一切の思考を働かせることなく対象に見入る時、そこには対立関係の消え去った「関係性」しか存在しない。


 ここから更に「観察」の深い世界が示される──


 注意をする、注意を払うとは、どういう意味かわかっているだろうか。注意を払うと、ものごとがもっとはっきり見えてくるのだ。鳥たちの鳴き声がもっとはっきり聞こえてくる。さまざまな音の違いがわかるようになる。十分に注意深く木を見つめれば、木の美しさ全部が見えてくる。木の葉や小枝が見え、それらに風が戯(たわむ)れているのが見える。こんなふうに、注意を払えば、ものごとがとてつもなくはっきりと見えるようになるのだ。そういうふうに、注意を払ったことがあるだろうか。注意は、精神集中とは違う。集中しているときには何も見えていないのだ。だが、注意を払っているときには、実に多くのことが見えてくる。さあ、注意を払ってごらん。あの木を見つめ、影を、そして風にそよぐ葉を見つめなさい。あの木の姿を見つめなさい。木の全体性を見つめなさい。このように見るようにと言うのは、これから私が話そうとしていることは君たちが注意を払わなければならないことがらだからである。教室にいるときも、戸外にいるときも、食事をしているときも、散歩をしているときも、注意はきわめて重要である。注意はとてつもなく大切なことがらなのだ。

 これから君たちに質問してみたい。君たちはなぜ教育されているのだろう? 私の質問がわかるだろうか? 君たちの両親が君たちを学校に送る。君たちは授業を受け、数学を学び、地理や歴史を学ぶ。なぜだろう? 自分が教育を望んでいるのか、何が教育の目的なのか自問したことがあるだろうか? 何のために試験に合格して学位を取るのだろう? 何百、何千万もの人人がしているように、結婚し、就職し、そして身を固めるためだろうか? それが君たちのやろうとしていることであり、それが教育の意味なのだろうか? 私の言っていることがわかるだろうか? これはほんとうにとても大事な質問なのである。全世界が教育の基盤に疑問を投げかけている。われわれには教育がこれまで何のために使われてきたかわかっている。ロシアであれ、中国であれ、アメリカであれ、ヨーロッパであれ、あるいはこの国であれ、世界中の人間は、所属する社会や文化に順応・適合し、社会・経済活動の流れに従い、何千年もの間流れ続けてきた巨大な流れに引き込まれるよう教育されている。それが教育だろうか、それとも教育というのは、何かそれとまったく別のものだろうか? 教育は、人間の精神がその巨大な流れに巻き込まれ、それによってそこなわれないように面倒を見、精神がけっしてその流れに引きずり込まれないように責任を持ち、かくしてそのような精神によって君たちが、生に異なった性質をもたらす、これまでとはまったく違う人間になれるように面倒を見ることができるだろうか? 君たちは、そんなふうに教育されているだろうか? それとも両親や社会に命令されるままに、社会の流れの一部になることに甘んじているのだろうか? 人間の精神、君たちの精神が、ただ単に数学や地理や歴史で優秀であることができるだけでなく、どんなことがあってもけっして社会の流れにおぼれずにいられるようにすること──これが真の教育である。なぜなら、人生と呼ばれているその流れは、はなはだしく腐敗しており、不道徳で、暴力的で、貪欲(どんよく)だからである。その流れが私たちの文化をなしているのだ。それゆえ問題は、現代文明・文化のあらゆる誘惑、あらゆる影響、獣性(じゅうせい)に抗しうる精神を生み出すための正しい教育を、いかにしてもたらすかにある。私たち人間は、消費主義や工業化にもとづいたものではない新たな文化、まったく別種の生き方、真の宗教性にもとづいた文化を創造しなければならない歴史上の地点に来ている。ではどのようにして、これまでとはまったく異質の、貪欲でも嫉妬深くもない精神を、教育を通して、生み出すのか? 野心のないとてつもなく能動的で有能な精神、日常生活において何が真実かをほんとうに知覚できる──結局これが宗教なのだが──精神をいかにして生み出すのか?

 そこで、何が教育の真の意味、目的なのかを見出してみよう。自分の住んでいる社会や文化によって条件づけられた君たちの精神が、教育によって変容を遂げ、どんなことがあってもけっして社会の流れに入りこんでしまわないようにできるだろうか? 君たちを違ったふうに教育することができるかどうか。つまり「教育する(エデュケイト)」という言葉の真の意味において──数学や地理や歴史についての情報を教師から生徒に伝達するという意味でではなく、まさにこれらの科目を教える過程で君たちの精神に変化を起こすという意味で、このことは、君たちがとてつもなく批判的でなければならないことを意味している。自分自身がはっきりわからないことをけっして認めないよう、他人が言ったことをけっしておうむ返しに言わないようにしなければならない。

 これらの質問を、ときどきではなく毎日、自分に向けてみなさい。見出しなさい。あらゆるもの、鳥や雌牛の鳴き声に耳を傾けなさい。自分自身のなかのあらゆるものについて学びなさい。なぜなら、もし自分自身から自分自身のことを学べば、君たちは中古品(セコハン)人間になったりはしないのだから。だから、これからはこれまでとはまったく違う生き方を発見するようにしてほしい。ただし、これはしだいにむずかしくなるだろう。なぜなら、私たちのほとんどは安易な生き方を見つけたがるからである。私たちは、他人が言うこと、他人がすることを繰り返し、それらに倣(なら)いたがる。なぜなら、古いパターンまたは新しいパターンに適合することが、もっとも安易な生き方だからである。けっして適合しないとはどういう意味か、恐怖なしに生きるとはどういう意味かを見出さなければならない。これは君たちの人生であって、他の誰も、どんな本も、どんな導師(グル)も君たちに教えることはできない。本からではなく、自分自身から学ばなければならない。自分自身について学ぶべき、実に多くのことがあるのだ。それは果てしないこと、興味尽きせぬことであり、そして自分自身から自分自身のことを学ぶとき、その学びから英知が生まれ出る。そのとき君たちは、並はずれた、幸福で美しい人生を生きることができる。わかるだろうか? では、何か質問は?


 クリシュナムルティは常々「注意を払え」と言う。それは「集中」ではない、とも。集中は一点に集約するので周りが見えなくなる。一方、注意は拡散した気づきといえよう。そして集中には時間的継続性があるが、注意は瞬間瞬間の行為である。観察は目で行うものであるが、視覚に捉われるとそれは集中になってしまう。すなわち注意には耳を澄ます=傾聴の姿勢が求められよう。


 そしてクリシュナムルティは聴き手に向って「私たちは」と語りかける。ここにおいて、クリシュナムルティの内なる世界では聴き手と話し手の分断がないことに気づく。なぜなら、「あなたが世界であり世界があなたである」以上、「あなた」は「私」でもあるからだ。


 ともすると我々は子供の幸福を願っているような顔をしながら、大人の価値観を押しつけている場合が殆どである。だから、自由の価値を重んじるようには決して教えない。大人の敷いたレールの範囲でしか自由は認められない。ま、数十センチといったところだろう。


 よく人生は道に例えられる。我々は人生において常に選択を迫られている。つまり十字路に立たされているといっていいだろう。そして前後左右のいずれかの進路を決めているのだ。


 実はこの時点で既に我々は条件づけに支配されている。なぜなら、道路というものは「誰かが造ったもの」であり「誰かが歩いた場所」であるからだ。つまり、我々はいつも誰かの後を辿っていることになる。


 本当に自由であれば、道からはみ出ることが可能になるはずだし、もっと言えば地面にトンネルを掘ったって、空を飛んだって構わないのだ。ところがどっこい我々の思考はそんなふうには働かない。


 皆が歩んだ道──それは悲惨のコースであり、戦争し殺し合う道であろう。歩きやすい道というのは過去の歴史を繰り返す羽目になる。


 クリシュナムルティの言葉は、私の魂を殴打してやまない。

英知の教育