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2010-11-22

消費税が国民を殺す/『消費税のカラクリ』斎藤貴男


 税という名の暴力がある。国民・県民・市民・区民は税金と引き換えに何を手にしたのだろうか? あるいは失ったものの方が多いのだろうか?


 租税には三つの機能がある。公共サービスの費用調達機能、所得の再分配機能、景気の調整機能である。この前提自体がそもそも嘘臭い。大体元々は年貢だろ? 平安時代以降、百姓がまともなサービスを受けていたっていうのか? 徴収は簒奪(さんだつ)の異名である。


 政治の役割は立法と予算決定であるが第二次世界大戦敗戦以降、我が国においては政治が機能していない。アメリカがコントロールしているのかもしれないし、日本の官僚がコントロールされたフリをしているだけなのかもしれない。だがいずれにせよ、この国において国民が何かを決めたことはないように思う。


 で、話を元に戻すが、国家が国民の懐に手を突っ込んで労働対価を奪うには、それ相応の巧妙な手口で行う必要がある。一歩間違うと国家がひっくり返る可能性があるからだ。その中で最も狡猾な手段が消費税ってわけ。


 国際競争力をつけるという名目で税制改革が行われてきたが、実は大企業と金持ちが優遇されていただけの話だった──


 かつて19区分、最高税率で75%もあった所得税の累進課税の仕組みは、1980年代半ばから緩和され続け、99年からの8年間はわずか4区分、最高税率37%という状況に至った。年間所得が100億円の人と1800万円の人の税率は同じであり、1000万円に満たない人ともあまり変わらないという、あからさまな金持ち優遇税制だ。

 表には含まれていないが、この間には住民税の累進課税も大幅に緩和された。14区分だったものが89年までに3区分(5%、10%、13%)となり、2007年にはこれも廃止されて一律10%の完全フラット化。年間所得100億円の人も100万円そこそこの人も、課される税率は同じだというのが現状なのである。

 かくて所得税の所得再分配機能は消失し、1991年度のピーク時には26兆7000億円あった税収も2009年度は12兆8000億円へと半減した。偶然ではもちろんない。

 財界の主導で進められた規制緩和、構造改革の、これも一環だった。


【『消費税のカラクリ』斎藤貴男講談社現代新書、2010年)以下同】


 政官業の癒着。三位一体。三人寄れば文殊の悪知恵。所得の再分配は胴元が取る仕組みだったってこと。人間という動物は苦しい情況に置かれると自分のことしか考えられなくなる。国民という枕詞(まくらことば)の実体は納税者・消費者・労働者・兵士・一票にすぎない。選択肢はあらかじめ狭められているから、どんな方向にでも誘導可能だ。ベルトコンベアー、あるいはエスカレーター上で行われる批判と議論にさしたる意味など存在しない。


 斎藤は消費税の欺瞞を次々と暴いてみせる──


 消費税は、国税のあらゆる税目の中で、最も滞納が多い税金なのである。


 ゲゲッ、知りませんでした。

 消費税の滞納者が急増した1998年という年は同時に、この国の年間自殺者が初めて3万人を超えた年であったという事実を、とりあえず知っておいてもらいたいと思う。


 消費税が国民を殺しているというのだ。恐るべき現実だ。で、滞納した消費税の取り立てについては税務署が好き勝手に決めている。


「長年にわたって消費税を滞納している納税義務者を、税務署の最前線では“優良事案”と呼んでいます。取り立てれば上に褒めてもらえるからで、しかも手段を選ぶ必要はないとまで指示されている。倒産や廃業に追い込む結果を招いても構わない、いや、消費税を滞納する奴らなど潰してくれ、などというセリフさえ、署内では当たり前のように交わされているんですよ。変な言い方ですが、そういう発想が税務署の文化のようになってしまいました」(※大規模税務署の中堅署員)

 国税庁は1998年頃から、あらゆる税目の中で消費税の徴収を最優先する“消費税シフト”を敷き続けている。


 これでは暴力団とやっていることが変わらない。彼らはアイヒマン同様「命令に従っただけ」とでも言うのだろう。


 消費税を滞納し、差し押さえた挙げ句に自殺する中小企業の社長がいる。


(分納分を納めていたにもかかわらず、突然、売掛金を差し押さえられ、この社長は自殺した)

「税務署の担当者には、『あんたたちのせいだ』と言わせてもらいました。お悔やみの言葉、ですか? いいえ、『規則ですので』だけです。滞納するから悪いんだと、それだけでしたね」


 税は暴力なのだ。国家が暴力装置である事実を我々は自覚する必要がある。


 税金に関する書籍なんで細かいデータが多く読みにくいのは確かだ。しかし「自分の懐の問題」だと認識すれば、やはり襟を正して読むべき一冊といえる。


 お金が企業や人の間を移動するだけでかすめ取るのが税金である。再分配が機能していない以上、富は特定の階層に集中する。つまり租税が貧困を拡大しているのだ。

消費税のカラクリ (講談社現代新書)

2010-11-13

行動経済学という武器/『「ジャパン」はなぜ負けるのか 経済学が解明するサッカーの不条理』サイモン・クーパー、ステファン・シマンスキー


 透徹した専門性は学問領域を軽々と越境する。ま、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」ってな感じだわな。狭いトンネルが別世界に通じることもあれば、穴のまま終わることもあるのだろう。


 それにしても行動経済学の台頭恐るべし。一昔前なら「大体、生きた人間がだな、データや数字に換算されてたまるかってえんだ」と江戸っ子の親父あたりが言ってそうなものだが、昨今は異なりつつある。データが生きているのだよ。これはね多分、スタンレー・ミルグラムの実験手法を踏襲したものだと思われる。ミルグラムアイヒマン実験によって心理学(特に社会心理学)を検証可能な学問の世界に引き上げた。


 スポーツと経済学の共通点は何だろう? それは合理性だ。ルールという論理に縛られている以上、合理的な攻守が求められる。そのための作戦であり、選手起用であり、チームワークなのだ。


 だがそれも、ビル・ジェイムズが現れるまでの話だった。カンザス州の田舎に生まれた彼は、地元のリトルリーグの統計をとったり、食品工場でボイラーの火を見ていたほかに、人生でたいしたことはしていなかった。ところが暇にまかせて野球の統計を新鮮な目で勉強しはじめたところ、「古くからある野球の知識はほとんどがたわごと」であることを発見した。ジェイムズは野球というテーマに「知的な厳しさ」をもって取り組みたかったと書いている。


【『「ジャパン」はなぜ負けるのか 経済学が解明するサッカーの不条理』サイモン・クーパー、ステファン・シマンスキー/森田浩之訳(NHK出版、2010年)以下同】


 ある号(彼が毎年出版したした『ベースボール・アブストラクツ』)にジェイムズはこう書いている。「これは野球を外側からみた本である。数歩後ろに下がり、徹底的に子細に、でも距離を置いて研究したときに野球がどうみえるかを書いた本である」


 で、ビル・ジェイムズにはどう見えたのか? 実は打率よりも出塁率の方が重要だった。彼の分析法は「セイバーメトリクス」として採用されている。「チャンスに強い選手」といった見方が案外デタラメな場合がある。強い印象を受けることで人々が勝手に作り出す物語なのだろう。


 サッカーの世界で「ジェイムズ的革命」のもうひとつの担い手になりそうなのは、ACミランのメディカル部門であるミラン・ラボだ。ミラン・ラボは跳躍力を分析しただけで、その選手が負傷するかどうかを70%の確率で予測できた。


 中身についてはトップシークレットらしいが、きっと跳躍力が落ちた時に怪我をしやすくなるのだろう。


 では本題に。サッカーにおいて勝敗を左右するデータは何か?


 だが国際試合では、この3つの要素(国の人口、国民所得、国際試合の経験)が結果を大きく左右する。


 これは驚きだ。国の人口はサッカー人口の底上げにつながっているということか。国民所得が上がれば余暇の時間(学校だと体育)も増える。貧しい国の学校には体育の時間がない。


 こうなるとデータも面白みが増すというものだ。では果たして完璧なデータを集めれば、試合結果は完全に予測可能となるのであろうか?


 答え──ならない。なぜなら世界を支配しているのはランダム性(偶然性)であるからだ。たとえ、宇宙に存在する全ての量子の位置と全ての物理法則がわかっていたとしても、宇宙の未来は予測できない。っていうか、実は量子の位置すら特定できない。これを解き明かしたのがハイゼンベルク不確定性原理である。アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と反論したエピソードが広く知られている。


 宗教団体なんかも、行動経済学で読み解くことが可能だろう。宗教社会学と行動経済学が結びつけば面白くなりそうだ。行動経済学は色んな意味で我々の武器となることだろう。

「ジャパン」はなぜ負けるのか─経済学が解明するサッカーの不条理

2010-11-06

600兆円の政府紙幣を発行せよ/『政府貨幣特権を発動せよ。 救国の秘策の提言』丹羽春喜


 この国は政権交代をしても変わらないことが明らかになりつつある。国民は民主党政権には期待していた。期待が大きかっただけに、裏切られた思いもまた強い。ウェブ上では既に自民党政権を懐かしむ声すらちらほら見える。


 何かおかしい。その象徴が小沢封じ込め&メディアリンチ&検察の裏工作だろう。議員立法なる言葉が示している通り、我が国の政治家が法律を作ることは珍しい部類となる。「エ、国会ってえのあ立法府じゃないんスか?」御意。立法府でありながら、実際に仕事をしているのは官僚だ。


 ちょっと考えれば誰にでもわかることだ。初めて大臣となった人物は、大臣の職務を誰から学ぶのだろう? 官僚だ。国会答弁の仕方は誰が手伝ってくれるのだろう? これまた官僚だ。喫緊の重要課題をレクチャーしてくれるのは誰か? それも官僚だ。


 しかも官僚は選挙で選ばれるわけではないから、長期間にわたって情報を統制することが可能だ。当然、各省庁には独自の文化や伝統、あるいは申し送りがあることだろう。私は敗戦後から変わらぬ一連の流れがあると睨(にら)んでいる。戦勝国であるアメリカが蒔(ま)いた種があるに違いない。


 バブルが弾けてからというもの、日本経済は一向に低迷を脱することができない。世界経済は2007年のサブプライムショック、2008年のリーマンショックで打撃を被ったが、それ以前はバブルで賑わっていたのだ。日本だけが貧乏くじを引いた格好だ。


 経済学の教科書に必ず書いてあるように、金融政策は景気の過熱を抑えるのには効果的であるが、不況に落ち込んだ経済を回復させることには、ほとんど役に立たないものなのである(マスコミがもてはやしている「公的資金による資本注入」という施策についても、同断である)。


【『政府貨幣特権を発動せよ。 救国の秘策の提言』丹羽春喜〈にわ・はるき〉(紫翠会出版、2009年)以下同】


 そう言われれば確かにそうだ。バブル崩壊の原因は大蔵省から金融機関に対して行われた総量規制であった。経済を回復させるには消費を喚起する必要があるので雇用環境が大きく影響する。給料が上がる前に物を買おうという人はあまりいないだろう。政府によるばらまきだって限定的なものだ。


 現在のわが国の経済においては、膨大なデフレ・ギャップが発生しており、インフレ・ギャップ発生のおそれは皆無である。


 デフレ・ギャップとは供給過剰のこと。物が売れない、物が余っている状態である。これを解消するには政府が需要を拡大するしかない。


 本書の冒頭に【口絵として掲げたグラフ】が示すように、近年のわが国では、デフレ・ギャップの形で、年々、400兆円以上もの潜在実質GDP(90年価格評価)が実現されえずに、空しく失われ続けているのである。


 これはどうなのか? チト、私には難しすぎる。デフレ・ギャップ=GDPギャップであることは理解しているが、その事実を「総生産が失われた」とする見方がよくわからん。例えば売れていない不動産はどのように考えればいいのだろうか?


 在庫は「将来売る為の商品」であるから、企業の将来への投資支出の一種とみなせる。従って生産された最終財・サービスは最終的に誰かの支出となる。


Wikipedia


 そんなわけがない。大体廃棄されるものだって山ほどあるだろうよ。あるいは企業の倒産など。サービス残業はどうなるんだ?


 というように、専門性の高い本の書評を試みると、膨大な検索をする羽目となる。いやあ参ったよ。


 現実的には、「コイン形態での政府貨幣」あるいは「政府紙幣」を実際に巨額に発行する必要は、必ずしもない。つまり、前記の「国(政府)の貨幣発行特権」は、いわば、【政府が無限に多く持っている一種の無形金融資産】であるから、そのうちの、たとえば数十兆円ぶん、あるいは、数百兆円ぶんといった一定額ぶんの「政府貨幣発行の権利」を、政府が日銀に売り、その代価を日銀から政府が受け取る形にすれば、それでよいわけである。


 現行法では、「日銀券」とは違って、「政府貨幣」は【負債として扱われるものではなく】、「諸財への請求権証」そのものなのであるから、日銀にとっては、その発行権の取得は、超優良資産を入手しうるということにほかならない。しかも、政府がその発行権の一定額ぶんを日銀に売るにさいして、ある程度の値引きをすることにすれば、日銀は、この「政府貨幣発行権」の所定額ぶんの取得によって、日銀自身の資産内容を大幅に改善することができ、日銀が債務超過に陥るといった前記の怖れからも脱却することができる。


 ご存じのように紙幣は日銀が、貨幣は政府が発行している。極端な話ではあるが、例えば10万円硬貨を発行することも可能なのだ。で、丹羽春喜は600兆円の政府紙幣(貨幣)を発行せよ、と迫っている。これがデフレ脱却に必要な金額とういことらしい。


 読んだ時は、「おお、すげえーっ!」と思ったんだが、こうして書評を書いてみると、「どんなもんかね?」という感じになってしまう。


 晴耕雨読にいくつか記事があったので紹介しよう。

 マネーという幻想は人間の判断を大きく狂わせる。交換手段であるはずなのに、いつの間にか目的と化している。


 例えば100人の住人がいる島があったとする。お金の供給量(マネーサプライ)が変わるだけで物価が上下するのだ。デフレとは供給過剰で物の値段(価値)が下がってゆくことだから、貨幣価値は上がることになる。その中で円高が進行中とはどういう意味になるのか?


 政府は量的緩和でインフレへと誘導しようとするが上手くいっていない。貨幣(お金)の価値が上がるなら、証券や債権の価値も上がりそうなものだが株価は下がりっ放しだ。


 結局のところ何もかもおかしいのだ。第一次産業に直結した経済指標を用いるべきだと思う。


 政府が貨幣を発行できる権利を有しながら発行しないのには何らかの理由があるのだろう。経済的混乱を避けるためなのか、あるいはアメリカから圧力があるのかは知らないけど。

政府貨幣特権を発動せよ。―救国の秘策の提言

2010-08-17

国債とCDSの仕組み/『恐慌第2幕 世界は悪性インフレの地獄に堕ちる』朝倉慶


 経済や金融に関する本は圧倒的に悲観論が多い。ま、パスカルの賭けみたいなもので、外れたとしても損をする人はあまりいないところがミソ。しかしながら、子羊のような一般投資家はこの手の情報に翻弄され、マーケットの需給を支える羽目となる(笑)。


 やや粗製乱造気味の朝倉慶ではあるが、まだ一読の価値は残している。


 まずは各国の内需拡大政策から見てみよう――


 中国では、車やパソコンを買ってくれたら買い付け金の13%の補助金を出してくれるということです。ドイツでは車を買い替えた人には33万円近い補助が出ます。アメリカでは、消費者ローンや教育ローンを含むあらゆる資産担保保証券をFRBが買ってきています。日本政府もドイツや中国の政策が効果を出しているのをみて、これを真似する様です。中古車から省エネカーへの買い替えに最大25万、省エネ家電の購入に、「エコポイント」として買付代金の5〜10%を還元するという事です。要するに世界中で、何がなんでも消費しろ、というように常識外の政策を取っているのです。

 いわば、かつてのマクドナルドの半額セールみたいなものです。売れ行きを何とか伸ばそうとして、安売りを強行しているのです。これは単に需要の先取りにしかすぎず、永遠に続けられる政策ではありません。やがて、化けの皮が剥がれて大赤字になったマクドナルドのように、世界の消費はつるべ落としになっていくに違いありません。


【『恐慌第2幕 世界は悪性インフレの地獄に堕ちる』朝倉慶〈あさくら・けい〉(ゴマブックス、2009年)以下同】


「何がなんでも消費しろ」――ああ、そうだったのか。こうなるとまるで賭場の胴元みたいだな。政府って胴元だったのね。これぞ「ネズミ車式資本主義」。我々は死ぬまで走らされる。消費という大車輪の中で。


 そう考えると、昨今の消費税増税というテーマは、「お前ら国民に代わって、俺達胴元が金を使ってやるよ」という意味なのかもしれぬ。


 いずれにせよ、資本主義はそのギャンブル性によって行き詰まりを露呈しつつある。


 次に国債の説明――


 債権というものを少し簡単に説明してみます。債権は10年なら10年、金利が固定されるものです。たとえば、その時に発行される、10年もの国債の金利が2.5%であれば、その国債は10年にわたって2.5%の金利が取れることを保証しています。となると、その後に金利が3%のものが発行されたらどうなるか? それは2.5%を10年間続くのと違って3%という金利が高いものが10年保証されるわけですから、当然、金利の高い設定のほうが、価値が上がるわけです。そしてこれが、前に発行された10年もの債権(金利2.5%)の価値を減価させ、値段の急落となります。金利上昇による債権価格低下のメカニズムです。

 これがインフレ気味、ないしは国債の大量発行の供給に耐えきれず、仮に10%の国債が発行されるようになったらどうなるか? 新しい国債は10年間10%の金利が保証されるわけですから、だれも10年変わらず2.5%の金利などという債権は買わなくなってしまいます。これが2.5%の金利の国債価格の暴落を引き起こすわけです。そのような金利上昇が続いて起きていくと人々が予想するようになったらどうなるか? 誰も怖くて債権は買えなくなってしまい、国債は売れず、従来発行された国債は価格の暴落から、「がれきの山」になってしまいます。今発行されている国債など2ケタのインフレが起きれば、あっという間に半値以下、20%のインフレになれば、4分の1になってしまいます。


 これ、ちょっとわかりにくい。急落した国債はどこで売買されるんだ? 銀行間なのだろうか? それとも金利マーケットということか? 実際に現物を解約した場合、どの程度の手数料が発生するのかね?


 現在、国および地方の長期債務残高は835兆円となっている(リアルタイム財政赤字カウンター 10)。ここに異変が起これば、取り返しがつかなくなることは誰にでも理解できよう。壊れた一軒家は修復のしようもあるが、破壊した都市を直す手立てはない。


 続いてCDSの話――


 実はこれはCDSそのものが、商品として売買されたからなのです。たとえば自動車保険であれば、保険金を払う人と、保険を受ける保険会社だけの関係ですから、1億円の保険契約を、ある人がしたとすれば、その1億円だけが、動く金額です。ところがCDSの場合はこれを、相場として売買し始めたのです。

 ある人の保険会社の1億円の保険を例にとれば、その1億円の保証に対して、50万円だ100万だ、300万だ、という相場が限りなく形成されることによって、実際の保険金である1億円を通りこして、数10億円(ママ)の保険取引が行われたと考えればいいと思います。そうなると、実際の保険取引などとは関係なく、相場の勝ち負けが焦点となってくるわけです。


 資本主義のギャンブル性は金利とレバレッジにある。マネーは移動するだけで増殖を繰り返すのだ。金融マーケットは合法的なカジノと化している。胴元の連中は必死だ。世界中の大衆を巻き込むべく新たな商品開発に余念がない。ETFCFDがそれだ。


 一般投資家は長期投資でなければ勝ち目がないのだが、少々儲けるとレバレッジに目が眩(くら)んでしまう。気づいた時は丸裸ってわけだよ。


 経済はよく川の流れに例えられる。ダムが放水すれば、自ずから下流の水嵩は増す。つまり本来であれば金融政策で経済は活性化できるはずなのだ。そうなっていないということは、下流にダムがたくさんあるか、あるいは「放水は許さんぞ」という大国の意志が働いているとしか考えようがない。

恐慌第2幕

2010-07-17

道徳と政治を混同してはならない/『資本主義に徳はあるか』アンドレ・コント=スポンヴィル


「政治とカネ」の問題がかまびすしい。電波利権に浴する人々が口角泡を飛ばして政治家を糾弾している。去る参院選では「クリーンな政治」を掲げた政党もあった。ひょっとして政治家はクリーニング屋になろうとしているのだろうか?


 ちょっと考えてみよう。クリーンな政治は必ず企業や国民に対してもクリーンさを求めることだろう。果たして我々はピューリタンのように清らかで厳格な社会を望んでいるのだろうか? 振り返るとピューリタン革命(清教徒革命)も社会の歪(ゆが)みに端を発していた。現代同様、17世紀のイギリスも貧富の差が拡大していたのだ。で、イングランドといえば結局、王政復古になってしまった。


 1620年、メイフラワー号は新天地アメリカを目指して出発した。船に乗っていた3分の1はピューリタンであった。

 そうすると、クリーンな政治というのはアメリカの陰謀なのか? そうかもしれない。アメリカは厳格なまでに清らかだ。堕胎は聖書に反するということで毎年キリスト教原理主義者の手で医師が殺されている。悪党を見つければ、たとえ他国であろうとやっつける。仮に戦闘の根拠がデタラメであったとしてもだ。世界中の国々に民主主義の風をなびかせ、自国の経済システムに組み込むことがアメリカの至上命題である。

  • 経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 だが待てよ。この論理は内側では通用するが外側からは理解されない。「所詮、民主主義の押し売り、武器のマルチ商法だろ?」と言われればそれまでだ。


 アンドレ・コント=スポンヴィルは政治と道徳が別次元であることを明快に説いている。


 なぜなら、第一に、道徳的な問い(「私はなにをすべきか?」)は、どんな職業についているひとであれ、たとえば株主であれ企業主であれ、あらゆる人に提起されるものだからです。もちろん、経済的な問いと呼べるもの(「私はなにを所有することができるか?」)にかんしても事情は同様です。私たちのうちどれほど豊かな人であれ、どれほど貧しい人であれ、道徳とも資本主義とも無縁ではいられません。はたらくことや貯蓄することや消費することは、なされて当然のいとなみですが、そのどれもが自身が望むと臨まざるとにかかわらずこの資本主義というシステムに参与することです。だからこそ、そのシステムの道徳について問いかけるのは意味あることなのです。


【『資本主義に徳はあるか』アンドレ・コント=スポンヴィル/小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2006年)以下同】


 例えば「政治とカネ」を糾弾する人々が官房機密費問題には口を噤(つぐ)んでいる。完全黙秘、完璧な静寂。針の落ちる音が轟くほどの静けさだ。新聞記者やジャーナリストの面々は、長らく与党であった自民党から酒食を振る舞われ、女をあてがわれ、現金を手渡された。「政治とカネ」を問題視する彼等は、「メディアとカネ」を不問に付そうとしているのだ。


 要するに道徳と政治を混同してはならないのです。道徳は個人的なものです。あらゆる政治は集団的なものです。道徳はその原理からして利害とは無縁です。どんな政治もそうではありません。道徳は普遍的なものであり、あるいはそうなろうとめざすものです。あらゆる政治は特殊的です。道徳は目標を固定するものだとすれば、政治はとりわけ手段に関心をはらうものです。だからこそ、私たちにはどちらもが必要なのであり、両者のちがいもまた必要なのです。道徳家の説く純粋主義に欺かれてはなりません。ほかの人びとが利害を問題にしているときに道徳しか問題にしないのは、人非人の思う壷にはまることです!


 この指摘には目から鱗(うろこ)が落ちた。政治とは利益の調整である。つまり、恩恵に浴することができなかった人々からは、いつだって批判され得るのだ。「バラマキだ」と。政治が損得という原理で動いている以上、そこには腐敗がつきまとう。票とカネのパワーゲームが政治であるならば、いたずらに道徳性を求めるよりもゲームのルールを誰の目にも明らかにした方がいい。


 本来であれば国政は政治家と国民の綱引きであるべきだが、官僚の存在がややこしくさせている。この国では政治家が政治家として機能していないがゆえに、官僚が一切を仕切っている。法律は霞が関文学によって書かれており、「てにをは」や句点一つで意味を変える。国民はもとより政治家ですら違いが理解できない始末だ。


「全ての官僚が悪いとは言えない」なあんて枕詞(まくらことば)が流通しているが、一部の悪人を支えているのは多くの真面目な官僚なのだ。いっそのこと、全員を取り換えた方がよい。


 私たちの個人的な欲望は私たちを対立させます(ほとんどのばあい私たちの欲望するものが同じであるだけになおさらです)。万人に共通する理性にのみ、私たちを結びあわせることができるのです。ですが、この力は、すべての力がそうであるように、もし私たちがそれにすっかり身をゆだねてしまったなら、危険なものともなります。疲れているときや、習慣に身をまかせているとき、数にのみこまれてしまうとき、私たちはそうした危険へと押しやられることになります。集団においては、そしてそれを構成している人数がおおくなればますます、愛は道徳へと、そしてばあいによっては道徳主義にまで低下していく傾向を帯びます。道徳は政治へと、つまりは権力関係へと低下していく傾向を帯び、政治は技術や経済や管理へと低下していく傾向を帯びるのです。

 この【重力】は、考察の対象になる集団に応じて(企業と政党とでは同じではありません)、そしてとりわけ集団の規模に応じてさまざまに変化します。


「重力」とはシモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』で説いた作用で、「人々を下降させる一切の力」を意味する。


 道徳はわかりやすい。わかりやすいからこそ攻撃の武器となる。そして道徳による攻撃は大衆の感情を煽り立てる。で、扇動された大衆はファシズムに向かって暴走を始めるのだ。


 菅直人首相が誕生しただけで、低迷していた支持率がいきなり反発した。世論の振幅の激しさが全体主義傾向を雄弁に物語っている。人々がストレスにさらされ不平不満が溜まると、破壊への衝動が膨らむ。そして、群衆の中から石を投げるようなタイプが増えるのだ。


 道徳で政治を語る人物を信用してはならない。

資本主義に徳はあるか