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2010-01-28

騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル


 坂根厳夫訳(創元社、2008年)。「だまし絵」は「トリックアート」ともいう。騙(だま)されていることがわかっているにも関わらず、妙な快感を覚える。騙されても何の被害もないことにもよるが、それ以上に人間が「不思議という意外性」を求めているためだろう。起承転結の「転」も似たところがある。物語に逆転は不可欠だ。絶体絶命の窮地から抜け出す力と技と知恵を持つのがヒーローなのだ。幸運というスパイスを効かせながら。


 錯視というのは目の錯覚のこと。基本的な図形は以下――

 一つ一つの画像をクリックして、拡大図形をよくご覧いただきたい。例えば「フレイザー図形」はどこをどう見ても渦巻模様にしか見えないが、実は同心円である。試しに輪の部分をポインターでなぞってみるといい。内側に全く進まないから(笑)。


 本書に収録されえているのは世界を代表する20人のアーティストだ。いくつかの画像が以下のページにアップされている――

 図1は、髪の生え際を「耳」と見るか「目」と見るかで、後ろ向きの若い女性と俯(うつむ)く老婆に変化する。


 つまり視覚という感覚は「目が見ている」わけではなく、「脳が読み解いている」のだ。それが証拠に、生まれつき目の不自由な人が治療によって見えるようになると、「見た」だけではそれが何であるのかを理解することができない。このため必ず対象物を触ってから視覚で再度確認する。


 また、「見る」ことは「見えない」ことでもある。我々は目に映る物の後ろ側を見ることはできないのだ。そして、自分の背後に広がる世界も同時に見ることは不可能だ。


 せっかくの機会なので全員紹介してしまおう。骨の折れる作業だが(笑)。


ジュゼッペ・アルチンボルド/Giuseppe Arcimboldo


 花や果物、野菜や動物を合成させた肖像画が有名。

サルバドール・ダリSalvador Dali

サンドロ・デル=プレーテ/Sandro Del-Prete


 スイスのアーティスト。

ヨース・ド・メイ/Jos De Mey

M.C.エッシャー/M.C.Escher


 だまし絵といえばこの人。ミスター・トリックアートといってよい。美術界からは亜流扱いされ、いまだに正当な評価がされていない。私が好きなのは「描く手」。

福田繁雄/Shigeo Fukuda


 名前を知らない人は多いことと思うが、この作品は見たことがあるだろう――


f:id:hanakoblog:20090217051637j:image

(「hanakoblog」)

ロブ・ゴンサルヴェス/Rob Gonsalves

マチュー・ハマーケルス/Mathieu Hamaekers

スコット・キム/Scott Kim


 アンビグラムという手法。アイザック・アシモフが「アルファベットのエッシャー」と称賛した。

北岡明佳/Akiyoshi Kitaoka


 名前を知らなくても、大概の人は北岡の作品を見たことがあるはずだ。脳がトリップ状態となる。

ケン・ノールトン/Ken Knowlton


 この人の作品には驚かされた。例えばアーロン・フォイエルスタイン(織物メーカー社長)にプレゼントした肖像画である。これが何と、糸巻きだけで作られているのだ。そして、アインシュタインは999個のサイコロ(加工してない)で描かれている(しかも6の目を使用していない)。

ギド・モレッティ/Guido Moretti

ヴィック・ムニーズ/Vik Muniz


 本書で最も堪能したのはケン・ノールトンとこの人。砂糖(黒い紙の上に砂糖をまぶしているだけ)やチョコレートシロップ、土やおもちゃまで使っている。表紙もビック・ムニーズの作品である。

オクタビオ・オカンポ/Octavio Ocampo

イシュトバン・オロス/Istvan Orosz

ジョン・ピュー/John Pugh

オスカー・ロイテルスバルド/Oscar Reutersvard

ロジャー・シェパード/Roger Shepard

ディック・タームズ/Dick Termes

レックス・ホイスラー/Rex Whistler

 以上20名。ハアー疲れた。男女を問わず、ブラウザに向かって感謝の投げキッスを送ること。


 錯視が明らかにしているのは「視覚の危うさ」である。我々は「見たまま」「聞いたまま」を事実と捉える習慣が身についているが、決してそうではないことを教えてくれる。


 感覚器官ですらそうなのだから、思考や概念・価値観にはもっとたくさんの誤謬(ごびゅう)が含まれているに違いない。ものの見方や考え方には、とかく今までの慣性が働きやすい。錯覚や先入観を自覚する人は少ない。皆が皆、自分の判断は正しいものと思い込んでいる。詐欺被害に遭った人々ですらそうだろう。高額な布団や貴金属を買わされた人に至っては、「騙された事実」を認めようとしないタイプも多い。


 科学の世界では「人間に自由意思はない」とされている。

 選択を決定づけているのは「脳内のゆらぎ」とされている。で、判断をした後で様々な理由付けや正当化を行っているのである。都合の悪い情報は意図的に無視され、都合のよい情報はデフォルメして取り込む。このようにして我々の脳は「正しい物語」を作り上げるのだ。


 目に映る世界が絶対ではない。情報量が圧倒的に多いため、我々は視覚情報に翻弄されているのだ。もしも目が見えなければ、美人の定義は「声の美しさ」になることだろう。そして耳も聴こえなければ、「匂い」や「肌触り」となる。では、五感の全てが失われたら、一体どうなるのだろうか? そこには隠しようのない「無意識の世界」が出現することだろう。


 仏像が半眼になっているのは、あの世とこの世を見つめているためとされる。それは意識と無意識といってもよかろう。つまり、生と死を仏は同時に見つめているのだ。


 人は感覚によってしか世界を捉えることができないが、感覚だけを信じても失敗することを錯視は証明している。見る姿勢も色々だ。観察、賢察、考察、視察、熟察、巡察、省察、診察、推察、精察、偵察、洞察など。


 結局、「何をどう見るか」にその人の世界観が現れる。

錯視芸術の巨匠たち―世界のだまし絵作家20人の傑作集

2008-09-07

美術史は人類史の重要な資料/『イメージを読む 美術史入門』若桑みどり


 北海道大学で行われた集中講義を編んだもの。レオナルド・ダ・ヴィンチを始めとする中世の西洋画を読み解こうとする目的が、初めて理解できた。教会が社会を牛耳っていたため、科学的発見ですら「神を冒涜するもの」という烙印を押されて葬られた。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて、ドミニコ会の修道士と論争を始めたのが1615年。ローマ法王が正式に謝罪をしたのは何と1992年のことだった。実に377年間もの長きにわたって、ガリレオは異端者として扱われてきた。こうした時代背景の中で、画家達は絵の中に重要なメッセージを残した。つまり、一種の暗号ってわけだ。


 美術史は、思想史や科学史や経済史や一般的な社会の歴史と同様に、人間の歴史の重要な一部であるから、これを欠いては人類の創造してきた世界の総体を理解することなどとうていできはしない。つまり、美術は人類の歴史のとても重要な資料なのである。そればかりでなく、美術史の知識や方法論というのは、過去の芸術作品を理解するばかりでなく、現在身の回りにたくさんあふれているイメージを解釈したり、イメージを作り出したりするためにたいへん役に立つものなのだ。

 企業も役所も学校も、イメージを利用しなければ製品を売ることも、共同体をまとめることも、心をひきつけることもできない。遠い過去から身近なところまで、われわれは無数のイメージに取り巻かれ、その影響を受け、それとともに暮らしているのである。


【『イメージを読む 美術史入門』若桑みどり(筑摩書房、1993年/ちくま学芸文庫、2005年)】


「美術史を学ぶことで、シンボルを読み解くスキルを身につけなさいよ」という、みどりオバサンの指摘は重要。やや牽強付会と思われる部分もあるが、私は黙って従うつもりだ。敬老の精神を堅持しながら。長幼序あり……。


 それにしてもだ、中世の西洋画に比べると、今頃のイメージってえのあ、まるで思想がない。流行(はや)り廃(すた)りに敏感な様は、大衆の欲望に火をつけようと躍起になっているだけの姿勢を示している。経済がグローバル化しようと、家紋や半纏(はんてん)の印みたいなロゴで頑張ってもらいたいもんだよ。名は体を表し、イメージは文化を表す。


 ところで、人のイメージってのは何だろうね? まずは顔。ナンシー・エトコフによれば「美人は得をする」ことになっている。でも、顔だけじゃないよね。可愛いだけの馬鹿女も山ほどいらあ。イメージだからこの際、内面的な価値は無視しておこう。すると、体型・挙措・声・髪型などが浮かんでくる。パーツに関しては大きい部分に注目する傾向がある。「つぶらな瞳」とかね。


 また、フランス・ドゥ・ヴァールによれば、ボノボはボディランゲージに敏感で、係員が悲しげな表情をしていると、近寄ってきて肩に腕を回すという。


 まとまらなくなってきたので、筆を擱(お)く(←筆なんか持ってねーだろーが!)。

イメージを読む―美術史入門 (ちくまプリマーブックス) イメージを読む (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2008-07-31

見る、視る、観る/『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ


 色々な見方がある。五感の中で眼から得る情報量は他の器官を圧倒している。色・形・距離・大きさ・質感などなど。しかしながら、「見る」という脳の構造はいまだによくわかっていない。少し前までは、脳の中で「誰かが」見ているような説明がまかり通っていた。脳神経科学が少しずつ紐解きだしたのは最近のこと。


 つまり、視覚は能動的な過程なのであり、長い間考えられてきたような受動的な過程ではない。樹木、正方形、直線といった最も単純な対象を捉える視覚でさえも、能動的な過程なのである。

 近代の神経生物学者であれば、画家アンリ・マティスの「見るということはそれ自体で既に創造的作業であり、努力を要するものである」という言葉に心から敬意を払うであろうし、あるいは少なくとも敬意を払うべきであろう。マティスのこの言葉は、生理学的な見地からではなく美術的な見地から語られたものだが、視覚生理学に適用しても十分に通用する表現である。


【『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ/河内十郎訳(日本経済新聞社、2002年)】


「能動的」というのは、脳には見たままの映像が認知されているわけではなく、想像・予想・推定などといった処理を「能動的」に行っているという意味だ。マティスの言葉は、日常であれば気づかないが、「絵を描く」時には強く実感されることだろう。


 2002年に刊行されたこの本も、現在では古い部類となる。池谷裕二著『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』では、更に新しい所見が紹介されている。


 著者は、「キュビスムは結果的に失敗だった」として、ピカソの「ヴァイオリンを持つ男」を取り上げているが、私は全く反対の意見だ。眼ではなく後頭葉で起こっている現実に鋭く迫っていると感じるからだ。認知が内部に働くと、自省的なベクトルは「天台大師の観念観法」に近い世界に辿り着くのだろう。

脳は美をいかに感じるか―ピカソやモネが見た世界

2001-05-06

『倒れた者たちへの祈祷 1980年5月・光州』富山妙子作


反戦の怒りが生む斬新なかたち


 光州事件を題材にした版画集である。映画のパンフレットほどの体裁。


 これほど太い線で、どうしてここまで繊細な表情を描き出せるのかが不思議だ。縄に繋(つな)がれ一列で進む人々。一様に打ちひしがれ、うなだれ、膝を屈し、狭い歩幅で歩かされている。5人は同じ背格好であるが、表情が微妙に異なる。個々人の意志によって決起したことを示しているようだ。志半ばにして斃(たお)れた同志達が真っ直ぐに身体を伸ばし、横たわっている。生き残った者よりも遥かに自由を謳歌しているように見える。


 狂気を剥き出しにした兵士の顔。眼はギラギラと光り、焦点が定まらず、鼻腔を大きく膨らませ、牙を丸出しにしている。周囲に施された鉄条網は彼らの神経そのものだ。


 息子の亡き骸を抱いたまま大粒の涙を流す母親。その後ろでは両手を広げて軍隊を制止しようとする母親。


 宗教画さながらに胸を打つ何かがある。ノミの一彫り一彫りに込められた祈りが、真実の姿をありのままに描き出したのだろう。

silenced by history―TOMIYAMA Taeko's WORK 富山妙子時代を刻む