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2011-02-13

毒舌というスパイス/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル


 この本を持ち歩いていたところ、「これ以上毒舌になるつもりですか?」とある女性から言われた。「もっと磨きをかける必要がある」と私は答えた。トイレに一冊置いておけば、あなたも毒舌家になれるかも(笑)。


 毒舌道は奥が深い。諧謔(かいぎゃく)、諷刺(ふうし)、比喩、侮蔑を知的かつスマートに行う必要がある。そうでないと単なる悪口で終わってしまう。「お前のかーちゃん、でーべーそ」というのは憶測ですらなく、言いがかりの類いだ。


 毒舌はワサビのようなものだ。量が多すぎると顔をしかめられる。スパイスは適量であってこそ風味を発揮する。フグさながらの毒を持つ人物は、闇討ちに遭いかねない。


 6章から成っているのだが、最後の「人物」は余計でいささか後味を悪くしている。辞典である以上、網羅を意図するのは理解できるが、それ以上に質を重んじるべきだと思う。


 というわけで、いくつか紹介しよう──


 恩知らずな人間は思っているよりずっと少ないものだ。なぜなら寛大な人間もずっと少ないからだ。

(サン=テヴルモンン/1613-1703、フランスの批評家・作家・歴史家。自由思想家の一人。)


【『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル/吉田城〈よしだ・じょう〉訳(大修館書店、1988年)以下同】


 悪い人間は少ない。なぜなら善良な人間も少ないからだ。


 独身者とは妻を見つけないことに成功した男である。

(アンドレ・プレヴォー)


 結婚とは失敗の異名か(笑)。


 世界は早起きした人のものである。他の人々が起きる時刻までは。

ジュール・ルナール『日記』)


 下げがお見事。


 あのあわれな男がもっているものは、角(※「角がある」とは、妻に間男をされていること)、支払うべき手形、痔、病気の妻か怒りっぽい妻、異常児、養うべき祖母、毎食毎食のヌードル、エンジンが故障する車、ぬか喜び、本当の悲惨、故障するテレビ、次の3連勝式競馬のガセネタ。彼は結婚式で吐き、死人に服を着せ、詰まった排水管を掃除し、仔猫を溺死させ、歩道にあるたった一つの糞を足で踏んづけ、新しいアイスクリームの棒をうっかり折り、おもしろい話を理解せず、へたな話に笑い、風に逆らって小便をし、戦争に出かけ、そこに骨を埋める。人が言うことを信じ、自分が信じること言い、進歩していると信じながら後戻りするのである。

(サン=アントニオ)


 これは毒が強すぎる(笑)。人生の悪い出来事だけ拾い集めれば、皆似たようなもの。


 老人はもはや悪徳を持たない。悪徳の方が老人を所有しているのだ。

(マックス・ジャコブ/フランスの詩人)


 老獪(ろうかい)。


 我々の人生の前半は両親によって台なしにされ、後半は子供たちによって台なしにされる。

(クラレンス・ダロウ/アメリカの弁護士・思想家)


 ここまではっきり言い切られると笑えるから不思議だ。


 はじめは並んで寝て、やがて向い合い、それから互いに背を向ける。

サシャ・ギトリー)


 夫婦の一生がわずか一行で語り尽くされている。


 女は二種類に分けられる。結婚だけを夢みている独身の女と、離婚だけを夢みている既婚の女だ。

(ジョルジュ・エルゴズィー)


 当たっていそうなだけに怖い。


 人は判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する。

(アルマン・サラクルー/フランスの劇作家)


 これも同様。


 悪を犯すことなく受胎されたマリア様、どうか受胎なしに罪を犯すことをお許し下さい。

(ジャン=ルイ・コメルソン/アナトール・フランスもほぼ同じ文を書いている)


 聖を性で嘲笑う。


 魚とは、捕獲された時から釣人が友だちにその姿を語る時までの間に、急速な成長を遂げる動物である。

(『クリスチャン・ヘラルド』紙の記事)


 釣果(ちょうか)は出世魚の如し。


 翻訳は女に似ている。美しければ忠実ではない。忠実であれば美しくはない。

(ベン・ジェルーン/1944-、モロッコの作家)


 決してそうではないのだが、そう思わせてしまう比喩の巧みさ。


 国家は、殺人をたくらんでいるとき、つねに自らを祖国と名乗る。

(フリードリヒ・デューレンマット/1921-、スイスの作家・批評家)


 寸鉄人を刺す趣がある。


 宗教は人類の性病である。政治は人類のガンだ。

(アンリ・ド・モンテルラン)


 笑うしかない。宗教と政治は人類の業病(ごうびょう)か。


 退屈は凡庸な人間のしるしである。彼らが一人でいると退屈するのは自分自身に出会うからだ。

(ベルギー王、アルベール1世)


 現代はテレビ、パソコン、携帯電話の陰に退屈が隠れている。


 ナショナリズムは子供の病気である。それは人類の【はしか】だ。

(アルベルト・アインシュタイン


 これは有名な警句。


 嘘と信じやすさとが一緒になって「世論」を生む。

ポール・ヴァレリー


 昨今のメディア情況そのもの。


 これらの言葉が面白いのは、「意外なつながり」が脳の神経回路を刺激するためだろう。ありきたりな常識に対して、ペロリと下を出しているような雰囲気がある。笑いは知的な営みである。現状を上から見下ろして笑い飛ばすことができれば、心も軽くなる。

世界毒舌大辞典

2010-06-01

九日目と十日目にドラマが起こった/『13日間で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎


 紛(まが)うことなき経典本といっていい。同じく明治学院大学の講義を編んだものとしては、加藤典洋著『言語表現法講義』が先に出版されているが、こちらは徹底的に技術志向であったのに対して、高橋本は文を書く営みの根源をまさぐっている。


「自由にものを書く」ためには、「自由にものを感じる」ことが必要である。高橋は学生に対して様々なテキストをぶつける。自由を体現した言葉はおしなべて「反逆」の匂いを放っている。学生達の常識や価値観が激しく揺さぶられる。それはまさしく「言葉との出合い」だ。


 初日に紹介されたのは、スーザン・ソンタグの「若い読者へのアドバイス……」であった。高橋は何の解説もしない。ただ、「窓の外を見てください。見慣れた風景が変わって見えませんか?」と静かに問い掛けた。


 そして高橋自身の小学生時代の思い出を振り返った――


(高橋が小学生時代、感想文を書くために用意された2枚の原稿用紙に2行しか書かなかった。担任はこれを「反抗的態度」と受け止め家庭に連絡。これを聞いた父親が激怒。学校へ行き、校長に対して「小説の感想なんか、どう書いたっていいじゃないか! そもそも、そんなものを書く必要なんかあるんですか?」と文句をつけた)

「元芸術家」としての(私の)父親にとって、芸術というものは、たとえば、感想を原稿用紙に2枚書かせるようなものではありませんでした。

 その前に立って、沈黙するか(感動してなのか、あまりにつまらないので絶句してなのかはわかりませんが)、急いで家に帰り、(いい意味でも、悪い意味でも、とにかくなんらかの刺激を受けたせいで)インスピレーションにかられて、キャンバスに向かって絵筆をふるうもの、そのいずれかだと父親は考えたのです。

 そして、その父親の考え方は、学校では受け入れられないものだったのです。正しいのは、どっちでしょう。

 わたしは、父親の方が正しいと思っています。およそ、芸術というものは(小説でも、絵画でも、音楽でも)、それに触れた時、「感想文」を書きたくなるようなものではありません。


【『13日間で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎(朝日新聞出版、2009年)以下同】


 では、文章はどこに生まれるのか?


 その相手との話が盛り上がっているとしましょう。たとえば、その相手が、付き合い始めたばかりの恋人だったとか。きっと、楽しいでしょうねえ、すごく。

 ふたりでいるだけで嬉しい。なにを話しても嬉しい。そういう時には、あまり「私」のことを考えたりはしません。

 だって、「私」のことを考えるより、ずっと楽しいことがあるんだから。

 でも、なんだか、相手とのことがうまくいかなくなってきた。ちょっとしたことばのずれで、喧嘩しちゃった。相手を傷つけた。相手が怒った。仲直りしようと思ったのに、もっと怒らせた。なにをしゃべっても、なにをやっても、うまくいかない。

 そういう時、相手が、なにを考えているのか、わからなくなる。でも、それは、相手も一緒のはずではないでしょうか。

 では、どうすればいいのか。どうすれば、相手に伝わる言葉が見つかるのか。

「文章」というものは、そこで発生するべきだ、とわたしは考えています。

 伝えたい相手に、伝わらない。でも、どうしても伝えたい。

 だから、真剣に考える。

 そういうものじゃありませんか?


 文章は分断された世界を統合させるために生まれるというのだ。とすると、自己主張の勝ち過ぎた文章は「真の文章」とはいえない。


 文章に対して、言葉に対して思想的・哲学的アプローチを試みる授業に変化が訪れる。九日目は高橋の私用のために休講となった。そして十日目――


 最初に、あなたたちに、話しておかねばならないのは、それが、きわめて個人的なことだということです。

 そして、わたしの考えでは、きわめて個人的なできごとから出発したものだけが、遠くまで、即ち、あなたたちにまで、目の前に存在しているのに、ほんとうのところは遥か離れたところにいるあなたたちにまで、たどり着くことができるのです。 


 高橋は机を壁際に移動するよう学生に伝え、教壇から降りて学生と同じ目の高さで話しかけた。前回休講にしたのは、高橋の2歳の子が急性脳炎になったためであった。死の淵を彷徨(さまよ)う幼子の姿を見て、高橋は親と子の関係性を見つめ直す。ちょうどその時、高橋は小説を書いていた。作品の中に幼い子が「言葉を失う」場面が挿入されていた。妻が高橋を詰(なじ)る。「あなたが、あんな小説(『「悪」と戦う河出書房新社、2010年)を書いたからだ!」と。


 事の顛末(てんまつ)を高橋は正確な言葉で静かに語る。まるで宗教体験を披歴するかのように。「生の不思議さ」という意味で、それはまさしく宗教的な体験といえた。授業は思想・哲学といった論理的次元を超えて、「生の根源」に触れたのだ。まるで小説そのものといった趣である。


 教育者の本領は「引き出す力」にあることがよくわかる。ソクラテスが書かれた文字よりも対話を重んじた理由もここにあったのだろう。


 最後の講義を高橋は次のように結んだ――


 これでわたしの講義はすべてお終いです。(中略)

 わたしは、あなたたちに、おおいにとまどってほしかったのです。というか、「文章」をうまく書くようになるのとは反対の方向へ、なにも書けなくなるとか、なにを書いたらいいのか、なんのために書いているのか、わからなくなるとか、そうなってほしかったのです。


 案の定、私はそうなってしまった(笑)。数日間書くことができなくなった。身動きできない不自由――そこに自由のスタート地点があったのだ。つまり自由は懐疑とセットになっている。何かを信じる自由よりも、全てを疑う自由の方が重い。

13日間で「名文」を書けるようになる方法

2010-03-27

擬音語・擬態語 英語は350種類、日本語は1200種類/『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』山口仲美


 私は犬を見かけると、ほぼ必ず「バウワウ!」と吠えるようにしている。本当の話だ。何を伝えようとしているのかというと、「俺は外国の犬だぞ!」というメッセージである。もちろん、わかってもらえることは滅多にない。


 果たして日本の犬が「ワンワン」と鳴き、アメリカの犬が「バウワウ」と吠えているのだろうか? 多分それはない。人間が勝手に犬の鳴き声を表現しているだけの話だ。


 耳は奥深い世界である。胎内にいる時から機能し始め、死の直前に視覚は失われるが音は聴こえているいるという。眼は閉じることができるが、耳を閉じることはできない。その意味で耳は常に世界に対して開かれている器官なのだ。


 音は空気の震動である。それは絶えず風や波のように揺れ動く。私の声帯の振動が、あなたの鼓膜を振動させる。そしてこの世界を支える原子や分子も震動している。


 擬音語・擬態語は音や動作を言葉に翻訳したものである。当然そこには文化が反映される。欧米人には虫の声を楽しむ文化がないとも聞く。


 乾亮一さんの調査(『市川三喜博士還暦祝賀論文集』研究者)によりますと、英語では擬音語・擬態語が350種類しかないのに、日本語ではなんと1200種類に及ぶ。3倍以上ですよね。小島義郎さんは、『広辞苑』の収録語彙をもとに同じような調査(『英語辞書学入門』三省堂)をしていますが、彼によると、日本語の擬音語・擬態語の分量は英語の5倍にもなります。擬音語・擬態語は、まさに日本語の特色なのです。


【『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』山口仲美〈やまぐち・なかみ〉(光文社新書、2002年)以下同】


 そうすると日本人は「耳がいい」のかもしれない。これは「耳を澄ます」といった次元ではない。錯視同様、錯聴というものも存在する。

 つまり聴こえている聴こえてないではなく捨象されているのだ。斬り捨て御免。


 例えばこんな話もある──


 ある夏の日に、フランス人の女性と和室で会食したときのことです。その部屋には風鈴がかけられ、涼しげな音を奏(かな)でていました。ここで私はそのフランス人の女性に尋ねました。

「あなたはこの装置(風鈴のこと)の存在に、あるいはこの装置が発する音に気付いていましたか?」

 案の定、その人はまったく気付いていませんでした。

「これはいったい何ですか?」

「これは言ってみれば『メンタル・エアー・コンディショナー』です。涼しげな音を出すことで、気持ちから涼しくする装置です」

 そう説明してからは彼女は珍しそうに見入るようになりましたし、音にも注意を払って聞いていました。

 でも、実際には説明する前から風鈴は彼女の視界にあったはずですし、音だって物理的信号としてはちゃんと彼女の鼓膜を振動させていたはずです。にもかかわらず、彼女は風鈴の存在にも音にも気付かなかった。それは彼女が「風鈴」というものを知らなかったからです。人は知らないものは認識できないのです。逆に言えば、認識できる範囲だけがその人にとっての世界ということになります。


【『夢をかなえる洗脳力苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(アスコム、2007年)】


 つまり世界は最初から存在しているわけではなくて、実は「認識すること」によって形成されるということだ。ということは、世界が外に広がっているわけではなくて、脳の中で展開されていることになる。


 擬音語・擬態語は期せずして世界観の違いをも示している。では、昔の犬はどう鳴いていたか?


 私が、一番最初にひっかかったのは、平安時代の『大鏡』(おおかがみ)に出てくる犬の声です。「ひよ」って書いてある。頭注にも、「犬の声か」と記してあるだけなんです。私たちは、犬の声は「わん」だとばかり思っていますから、「ひよ」と書かれていても、にわかには信じられない。なまじ意味なんか分かると思い込んでいる言葉だけに、余計に信じられない。雛じゃあるまいし、「ひよ」なんて犬が鳴くかって思う。でも、気になる。これが、私が擬音語・擬態語に興味をもったきっかけでした。


 古語には濁点がないので、「びよ」と鳴いていたらしい。バ行の音は唇を使うので、いくら何でもそりゃ無理だろう──という問題ではない。「びよ」という音が当時の人々が慣れ親しむ何らかの背景があったのだろう。今だって、ものが伸びる様を「ビヨーン」と形容するではないか。


 鶏の声は、現在は「こけこっこー」ですね。でも、昔の文献を丹念にたどって行きますと、江戸時代は「東天紅(とうてんこう)」と聞いていたことが明らかになってくる。「とっけいこう」「とってこう」なんていう鶏の声もある。


 これは「ブッポウソウ」に近い音となっている。それにしても漢字で洒落(しゃ)てみせるという日本の文化が面白い。私は粋(いき)や風流にとんと関心がないが、こういうのは味わいがあってよろしいですな。


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「いがいが」は、当時の赤ん坊の泣き声。現在から見ると、にわかに信じがたいかもしれませんが、「いがーいがー」としてみると、今の「おぎゃーおぎゃー」に似ていて納得できます。赤ん坊の泣き声「いがいが」に「五十日五十日(いかいか)」の意味を掛けているんですね。


 言葉の歴史が持つダイナミズム。イガラシ(小学生時代からの友人)よ、お前のことは今度から「おぎゃーらし」と呼ばせてもらおう。


 伸び伸びとした著者の姿勢は素晴らしいのだが、惜しむらくは構成が単調になっていて抑揚に欠けている。腕のいい編集者がつけば、いくらでも面白い内容になることだろう。

犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い (光文社新書)

2010-02-17

文章の職人芸/『言語表現法講義』加藤典洋


 知的興奮を掻き立てられること間違いなし。文章を書いている人も、書く予定のない人も読むべきだ。人間は表現せずにはいられない動物である。何をどう表現するかは感性によるところが大きいと思われるが、やはりそれなりの技術も必要だ。そうでないと、単なる独りよがりで終わってしまいかねない。


 明治学院大学国際学部での講義を編集し直したものだが、いやはや凄い。まるで食肉解体の現場に立ち会っているような気分になる。学生の文章に対する講評が実に鮮やか。


 加藤は講義に先立って、こう述べている──


【講義のねらい】言葉を書くというのはどういう経験だろうか。私はこれを、考えていることを上手に表現する技法の問題だとは考えていない。むしろよりよく考えるための、つまり自分と向かいあうための一つの経験の場なのだと考えている。


【『言語表現法講義』加藤典洋(岩波書店、1996年)以下同】


 書くという営みはスピードは劣るものの、身体性は高い。「書く」は「掻く」に通じる。文字は引っ掻き傷のようなものだ。そして畑を耕す行為にも通じている。ご存じのようにカルチャーの語源はcultivate(耕す)である。


 書かれた文字は自分の内側から出てきたものだが、時として手が勝手に動く場合がある。書く妙味といっては大袈裟になるが、身体的な直観のようなものは話す時よりも書く時の方が発揮されるように思う。


 なぜ書くのか。書く白い紙。その向うに、誰かがいるからじゃないんでしょうか。紙というのは透き通っていない。それはお風呂屋さんの男湯と女湯の間のガラスが曇っているように、不透明です。この不透明、これが大事なんですね。お風呂場の場合と同じくらい大事です。その向こうに誰かがいる、と思わなくて、またそう思えなくて、誰がそのガラスを指で濡らそうとするでしょうか。


 ため息が出るような絶妙な例え。参りました。降参。白旗。山田君、座布団10枚。


 私は誰に対して書いているのだろう? 全く考えたことがない。時折、感想メールが寄せられるが、「あ、読んでくれる人がいるんだ」とかえってこちらが驚いてしまう。なぜ書くのか? 書かずにはいられない心の振幅があるからだ、と言う他ない。


 皆さんの文章、いつも、終わり近くになると改行になるんです。気がついているかどうか、原稿が規定の枚数に近づくと、終了モードに入る。そして、最後、だいたい、「こういう世の中は、早く変えられないといけないと思う」か、「明るい明日を信じて、なんとかやっていきたいものだ」か、「そんなことを思って暮らしている今日この頃である」かで終わる。

 そして、この「まとめ」が、たとえそれまで個人の声を伝えようとしていても、それを台無しにしてしまう。

 いいですか。ここで言うことは大学では学べないことですから、よく聞いて下さい。このまとめの気分こそ、皆さんが大学で無意識に学んでいることです。でも、それがすべてをダメにする。このまとめの気分、終わりの美辞麗句、それがすべてをダメにする。学問をすら、ダメにします。

 皆さんは、小川です。誰もが小川です。小川は小川のせせらぎの声で何かを考えようとし、その頼りない自分だけの流れ、自分だけの呼吸で何かを語ろうとするんです。

 それが、なぜ、最後に大河の、大ざっぱな現代社会批判に流れ込むのか。Aのせせらぎが、なぜ最後にBの声に自分から呑み込まれるのか。

 たとえば、流れが大河に入ってむなしさを感じたら、そのむなしさで終わってもいいんです。まだしも、そのほうが、いい。


 これは頭が痛い(笑)。加藤が言っているのは「自分の感動を手放すな」ということである。自分の言葉を見失って社会に迎合してしまえば、自分の感動すら雲散霧消してしまう。心で感じたことを表現する努力を放棄すれば、心はどんどん鈍感になってゆく。関係性とは、感じて応じることだ。借り物の言葉、他人からの受け売り、剽窃(ひょうせつ)、口真似は心を死なせている証拠といえる。


 本書を読んでからというもの、文章を書くことが躊躇(ためら)われて仕方がない。

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

2009-09-14

「存在」という訳語/『翻訳語成立事情』柳父章


 この手の本はもっと軽い内容で書いてもらいたい、というのが私からのお願いだ。簡潔な文章だと尚いい。本書は言葉の文化的背景に迫っているため、やや重厚な雰囲気が漂い、読者を選ぶ格好になってしまっている。


 こうして考えると、私たちが西欧哲学の翻訳を、「存在」のような漢字二字の表現を中心に行なってきたのには、まことにもっともなわけがあった、と言わなければならない。

 この翻訳用日本語は、確かに便利であった。が、それを十分認めたうえで、この利点の反面を見逃してはならない、と私は考えるのである。つまり、翻訳に適した漢字中心の表現は、他方、学問・思想などの分野で、翻訳に適さないやまとことば伝来の日常語表現を置き去りにし、切り捨ててきた、ということである。そのために、たとえば日本の哲学は、私たちの日常に生きている意味を置き去りにし、切り捨ててきた。日常ふつうに生きている意味から、哲学などの学問を組み立ててこなかった、ということである。それは、まさしく、今から350年ほど前、ラテン語ではなくあえてフランス語で『方法序説』を書いたデカルトの試みの基本的態度と相反するのであり、さらに言えば、ソクラテス以来の西欧哲学の基本的態度と相反するのである。


【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)】


 この辺りについては、石川九楊著『二重言語国家・日本』(NHKブックス、1999年)が詳しい。


 ここで柳父章は、「やまとことばを切り捨ててきたこと」と「西洋哲学の姿勢と相反すること」の是非は述べていない。ま、後から述べているかも知れないが、私はもう覚えていないのだ(笑)。


 漢語はまず表意文字であり、部首からもイメージを引き出す。このような派生的なイメージの喚起力によって、つかみどころを失ってしまう。意味が拡散するのだ。つまり、全体像の雰囲気をつかむのには適しているが、言葉に核がないわけである。


 西洋における「存在」とは、まず第一に「神の存在」が問われたことだろう。ニーチェが「死んだ」というまでは、きっと生きていたはずである。で、いるのかいないのかわからない神の存在を固く信じることによって、自分の存在があやふやになってしまうわけだ。ここにおいて、「いないはずの神」と「存在する自分」とが反転するのだ。


 神様なんかいないよ。もし、いたとしてもほとんど留守にしている。かつてルワンダシエラレオネにはいなかった。アフガニスタンにもいなかったし、もちろんパレスチナにもいない。神は不在だ。それとも、居留守だったとでもいうのか? あるいは長期出張、はたまた逃避行……。


 日本人にとって「存在」は自明のことだった。日本人が思い描く神は森羅万象に宿っていた。そう、アニミズム(精霊信仰)だ。つまり、「存在」するもの全てに神が宿り、神と存在とは一体化していたのだ。我々にとって「存在」とは「ただ在る」ことであって、思索の対象とはなり得ない。原始仏教においてもテーマとなっていたのは、「どう在るべきか」「いかに在るべきか」といった人生の振る舞いについてであった。


 ラテン語のアニマには「気息」という意味がある。多分、「生きる」とは「息する」が変化した語彙なのだろう。現在でも「生息」という言葉がある。


 結論――「存在」は息に現れる。今時と来たら、大きなため息や青息吐息ってのが多いね。

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)