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2011-03-22

体験は真実か?/『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ

    • 体験は真実か?

「計画停電だと? ふざけんじゃねーよ!」と声を大に叫んだところで、パソコンは立ち上がらないし、トイレの水も流れない(集合住宅のため水道ポンプも動かず)。東京電力は都心への電力供給は怠ることなく、八王子のような僻地(へきち)の電気は好き勝手な時間に停めるのだ。これぞ「電力のトリアージ」だ。一般住宅よりも企業や官庁を優先させるってわけだよ。戦時や有事は弱者から切り捨てられるってこったな。畜生、さっさと書いてしまおう。


 この世に生まれ落ちて、物心がついた時から我々は世界を感受する。生まれた時は皆、タブラ・ラサ(白紙状態)だ。多分。


 果たして自我はどのように形成されるのか? それは周囲からの情報と自分の反応が織りなす布だ。アメリカに生まれた子供は自由と民主主義を重んじ、中東に生まれた子供はムハンマドマホメット)を信じ、アッラーに祈りを捧げる。


 長ずるにつれ親と異なる価値観を持つケースもあるが、これは「情報の質」が促した変化と考えられる。先進国を見渡すと、民主主義・資本主義・自由・平等・博愛といった概念が「新たな宗教」として機能している。イラク戦争(2003年)は民主化を口実にイスラム教文化を破壊したと見ることができよう。つまり、宗教よりも民主主義が大義名分として世界に流通するという事実を示している。


「人間の脳は物語に支配されている」というのが私の持論である。我々はいかなる現象にも因果関係を求めてやまない。そして思考には起承転結という枠組みがはめられている。その物語の最たるものが宗教と科学であろう。宗教は精神宇宙の物語であり、科学は物理宇宙の物語である。


 世界は人生という時間軸に沿って展開される。私の心(精神)と肉体(物理)で感じたものが世界だ。それが世界のすべてだ。


 1963年(昭和38年)の6月、世界はまだ存在していなかった。なぜなら私が生まれていないからだ。世界は私と共にある。つまり世界とは「私」のことなのだ。「私」という時空間が世界の正体であろう。


 神はどこにいるのか? 神を信じる私の脳内に存在する。その意味で神は幻影であり、情報にすぎない。なぜなら神の座標を特定できる人が一人もいないからだ。いるんだったら連れて来いって話だわな。神よ、あんたが創造した世界にはあまりにも犠牲が多すぎる。


「私は神を信じるひとりです」。そう名乗った質問者に対してクリシュナムルティは語った──


 あなたは体験によって、自分の信じているものが真理であるという核心を得ようとしますが、信じること自体があなたの体験を条件づけてしまいます。信じているものの証明として体験が起こるのではなく、その信念が体系をつくり出してしまうのです。あなたの神への信仰が、あなたが「神」と呼ぶものの体験をもたらすのです。あなたはつねに、自分の信じるものしか体験できません。信念をもっているかぎり、あなたの体験は無意味なのです。キリスト教徒は聖母や天使やキリストを見、またヒンドゥー教徒は驚くべきほど数多くのよく似かよった神々を見ます。イスラム教徒も、仏教徒も、ユダヤ教徒も、共産主義者も同じです。信念が、それぞれが思い描くものの確証を条件づけるのです。重要なことはあなたが何を信じるかではなく、いったいなぜ信じるのかということだけです。あなたはなぜ信じるのでしょう。さまざまなことを信じるか信じないかによって、現実にあるものに何か違いが生じるでしょうか。事実は信じようと信じまいと、それに影響されません。ですから、「いったいなぜ何かを信じるのか」と問わなければなりません。信じることの根底には何があるのでしょう。それは恐怖、生の不確かさ──未知のものへの恐怖、つねに移り変わっていくこの世界に安定を見いだせないことへの恐怖でしょうか。それは関係の不安定さでしょうか。あるいは、広大な生に直面して、それを理解できないので、「信念」という隠れ家に自分を閉じ込めてしまうのでしょうか。


【『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ/松本恵一訳(めるくまーる、1992年)】


 ぐうの音も出ない。信念がフィルターと化している事実を断言している。つまり、人は自分が信じるものしか受け容れないのだ。


 既に何度も書いている通り、私は祟(たた)りを信じない。突然我が家を訪れた人が「先祖の祟りが感じられます。霊を鎮(しず)めるためにはこの印鑑と壷を購入することです!」と断言しても何とも思わない(笑)。「その先祖の名前を言ってみろ」「先祖の現住所はどこなんだ?」「こっちは祟りに引きずられるような弱い生き方はしてないがな」とすかさず応答する。


 ところがご先祖信仰を鵜呑みにする人であれば、「詳しい話をお聞かせ願えませんか? ここのところ家族の怪我が多いものですから……」なあんてことになりかねない。「──というわけで奥様、印鑑と壷はセット価格で200万円になります。エエ、もちろんお支払いは現金でもクレジットでも構いませんよ」ってな具合だ(笑)。


 物語は共有される。夏の夜に稲川淳二のライブへ足を運ぶのは「怪談」という物語を共有するためだ。


 クリシュナムルティは特定の神や特定の教団を否定することで、万人に具わる宗教性を開花させようとしている。集団が織りなす布教は必ずプロパガンダとなる。そして集団は信仰を帰属意識へと貶(おとし)める。所属が人間を断片化する。


 過去に自分が感じたことは事実である。だが真実ではない。なぜなら経験は必ず「解釈される」からだ。否、目の前の事実すら我々は解釈することなしに受け取ることはできない。すなわち世界とは解釈であり、言葉とは翻訳の異名なのだ。


 一切の主義を捨てた地平にありのままの人間が見えてくる。彼は国家にすら所属していない。彼の名をジッドゥ・クリシュナムルティという。

自己の変容 新装版 自己の変容 クリシュナムルティ対話録

(※左が新装版、右が旧版)

2011-03-04

知の系譜を教える秀逸なディスカッション/『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎


「哲学は神学の婢女(はしため)である」といったのはトマス・アクィナス(1225-1274年)だ(『神学大全』)。天使的博士、ミスター・スコラ哲学が吐き捨てるように言ったかどうかは定かではない。


 ま、これが中世の常識だ。西洋の学問体系は神を証明するために発達したといえる。教会がアリストテレス哲学を採用した影響も大きい。大学教育におけるリベラル・アーツ(一般教養)は元来「人間を自由にする学問」という意味で、起源は古代ギリシアにまでさかのぼる。これまた西洋のルネサンスにおいて、完全に神を目指す方向へ牽引(けんいん)されてしまった感がある。


 哲学は難解だ。言葉をこねくり回しているようにしか見えない。「お前らだけで勝手にやってろ!」と言いたくなる。哲学が社会を動かす原動力たり得るのであれば、もっと人口に膾炙(かいしゃ)されてしかるべきだ。「一体誰が哲学をしているというんだ? えっ、ソクラテスさんよ!」とずっと思っていた。


 でも本当は哲学って、「丁寧にものを考えること」なんだよね。だから哲学には翻訳者が必要だ。もちろん【私のための】翻訳者である(笑)。


 そこで高橋昌一郎の出番となる。私のようなレベルからすると、哲学者よりも高橋の方が天才に見えるくらいだ。教師ってえのあ、こうでなくっちゃね。学問の世界には「橋を架ける人」が不可欠だ。橋を渡れば広大な世界が開けるのだから。


 本書は『理性の限界 不可能性・確定性・不完全性』に続くもので、ディスカッション形式を通してウィトゲンシュタインポパーファイヤアーベントを解説する。


カント主義者●それでは聞くが、「語りうることは明らかに語りうるのであって、語りえないことについては沈黙しなければならない」という結論そのものの扱いは、どうなるのかね? この結論は、有意味なのかね、それとも無意味なのかね?

 この結論は、まさにウィトゲンシュタインが自己の哲学的判断を表明した「哲学の命題」であって、「自然科学の命題」ではない。ということは、この命題自体が「無意味」ということになるじゃないか!


【『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、2010年)以下同】


 ウィトゲンシュタインの言葉は形而上学の終焉を告げるものだった。言語化された途端、それは「語り得る」ことになるのだ。意識とは言葉である。無意識は言葉の届かぬ世界だ。それは宇宙のように暗い広がりをもつ。


論理実証主義者●そうです。ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の最後で、次のように述べています。

「私の命題は、それを理解する読者がそれを通り抜け、その上に立ち、それを見下ろす高さに達したとき、最後にはそれが無意味であると悟る。(いうなれば、梯子〈はしご〉を登り終えた後に、その梯子を投げ捨てなければならない。)読者は、私の命題を克服しなければならない。そのとき読者は、世界を正しく見るだろう」とね……。


 まるで神が人間に言葉を与えた理由を述べているようではないか。ウィトゲンシュタインには言葉の限界が見えていたのだろう。言葉はコミュニケーションの道具にすぎない。それゆえ常に何らかの違和感を覚えながらも言葉を手繰ってしまう。正確な表現であったとしても、言葉自体が翻訳機能であることは避けられない。


 私はポール・ファイヤアーベントの名前を本書で初めて知った。


方法論的虚無主義者●奨学金の切れた2年後には、ポパーがファイヤアーベントを助手に任命しようとしたが、彼はそれを断ってウィーンへ戻った。


哲学史家●当時の哲学界の状況でポパーの助手になるということは、将来的にも非常に有益な選択だったはずですが、なぜ断ったのですか?


方法論的虚無主義者●なぜなら、ファイヤアーベントは、ポパーの取り巻き連中に我慢できなくなったからだよ。ポパーの弟子たちは、批判的合理主義者であることを宣言し、自分の描く論文には可能な限りポパーの著作から引用し、議論のスタイルもポパーの文脈で行うことが当然だと考えていた。ファイヤアーベントは、このような「ポパー教の信奉者」たちにウンザリしたわけだよ。


方法論的虚無主義者●ファイヤアーベントの「哲学」というか「生き方」は、つねに問題を徹底して極端に突き詰める点にある。彼は、方法論的アナーキズムを科学や哲学ばかりでなく、合理主義や西洋文明一般にまで推し進め、そこから彼が導いた結論は、単に科学理論ばかりでなく、あらゆる知識について、優劣を論じるような合理的基準は存在しないというものだった。


 いやはや、こんなイカした学者がいたとは(笑)。彼の言葉がいくつか紹介されているが、いずれも衒学(げんがく)趣味を破壊する小気味よさに溢れている。タコツボに下される鉄槌といったところ。


 高橋昌一郎のペンは時折脱線し、読者のあたまを解きほぐしてくれる。これがまた軽妙洒脱なアクセントとなっている。


 知の系譜がある。学問は先人が血の滲むような格闘の果てに築いたものだ。西洋の場合は教会の束縛もあり、一筋縄ではいかない。彼らはまさしく時代の巌(いわお)にノミを振るった。そして小さな穴から光が射し込んだ。光を浴びるかどうかは、あなたの自由だ。

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

2011-02-27

無である人は幸いなるかな!/『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ


 1948年から60年にかけてクリシュナムルティが若い女性に宛てた手紙を編んだもの。63ページの小品である。これで800円は高いわな。きっとクリシュナムルティも眉をひそめることだろう。


 1950年代半ばにクリシュナムルティダライ・ラマと会談している。インディラ・ガンディーから相談を受けるようになったのも同じ時期だ。1895年生まれだから、既に60歳になろうとしていた。学校経営、財団運営、講話、個人面談の合間を縫って、一人の乙女にメッセージを送り続けてきた事実が胸を打つ。私はまだ50歳にもなっていないが、年賀状を書くことさえ怠っている。


 心しなやかに生きるようにしなさい。強さは、ごわついた堅さにではなく、しなやかさにあるのです。しなやかな木は強風の中で立っています。敏捷な精神の力を集めるようにしなさい。


【『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2005年)以下同】


「疾風に勁草(けいそう)を知る」という。堅ければポッキリと折れてしまう。若い時分の正義感や潔癖さは、狭量さを伴って先鋭的になることが多い。垂直的な理想は猫背で歩く人々を忌み嫌い、嫌悪する。だが人間を定規で測ることはできないのだ。


 清濁を併せ呑む必要はない。若いのだから清濁を徹底的に見極めるべきだ。真実と虚偽を見抜くことができなければ、生き方そのものが濁ってゆく。10年もすれば頭を下げることやら、煮え湯を飲まされることを何とも思わないような大人になることだろう。


 クリシュナムルティは2通の手紙を「無である人は幸いなるかな!」と締め括っている。


 威厳(ディグニティ)は非常に稀なものです。尊敬を受ける役職(オフィス)または地位(ポジション)は威厳を与えます。それはコートを着るようなものです。コート、衣装、地位(ポスト)は威厳を与えます。肩書または地位は威厳を与えます。が、人間からこれらのものを剥ぎ取ってごらんなさい。そうすれば、ごくわずかの人しか〈無〉(ナッシング)としてあることの内面的自由とともに生まれるあの威厳を持っていないことがわかるでしょう。何か(サムシング/ひとかどの人間)であることが人間が切望していることであり、そしてその何かが彼に社会的に尊敬すべき地位を与えるのです。彼をある種のカテゴリーに当てはめてみてください──利口、富裕、聖者、物理学者といった。が、もし彼が社会に認められたカテゴリーに当てはまらなければ、彼は半端物または変わり者扱いされます。威厳は装ったり、培ったりできないものです。そして威厳があることを意識することは自分自身を意識することであり、それはちっぽけなことです。無であることはまさにその自意識から自由であることです。特定の状態ではないこと、あるいはそれに陥っていないことが真の威厳です。それを取り去ることはできません。常にそれはあるのです。

 いかなる残滓(ざんし)も残すことなく生の流れを自由に流させることが真の気づきです。人の精神は、いくつかの特定のものを保持し、それ以外のものをふるい落とす【ふるい】のようなものです。それが保持するものはそれ自身の願望の大きさに応じていきます。で、願望は、いかに深く、広く、気高かろうと、ちっぽけなのです。なぜなら、願望は精神のものだからです。いくつかの特定のものを保持せず、無制限、無選択に生を自由に流させること、それが完全な気づきです。私たちは常に選びまたは保持し、有意義だと思われるものを選び、延々とそれらにすがりつくのです。これを私たちは経験と呼び、そして経験を増やすことを私たちは生の豊かさと呼ぶのです。が、生の豊かさは、経験の蓄積から自由になることにあるのです。経験が保持されて残っていると、既知のもののないあの状態が現われるのを妨げるのです。既知なるものは財宝ではないのですが、精神はそれにすがりつき、それによって未知なるものを損ない、または汚すのです。

 人生とは不思議なものです。無である人は幸いなるかな!


 資本主義経済というシステムにおいては、皆が「成功者になろう」と奮闘努力している。人はどの道にあっても「ひとかどの者になりたい」という欲求を覚える。若者には若者特有の野心がある。


 幸福をお金で買うことはできない。とはいえ、お金のない幸福を想像することもできない。資本主義経済とは需給関係の中で行われる熾烈な価格競争である。人間は労働力と見なされ、スキルや能力によって値段がつけられる世界だ。我々は生まれた時から兄弟や近所の子と比較され、学校や社会でランク付けされる。


 教育は国家の選別システムと化し、勝ち組だけが経済的成功を手中にし、貴重な情報へのアクセスが認められる。政治家、官僚、経団連、テレビ局、東京電力……。


 威厳とは強い者が弱い者の前で発するオーラだ。ヘビに睨(にら)まれたカエルや、まな板の鯉状態。煮るか焼くかは先方の意のままだ。


 社会に対する知識が増えれば増えるほど、我々は成功者に対して威厳を感じるようになる。結局のところヒエラルキーに対する隷属の裏返しなのだろう。


 クリシュナムルティはこうした種類の威厳を「虎の威を借る」と一刀両断にしている。なぜか? 本当の威厳とは生きる姿勢に根差すものであって、世間の評価とはまったく関係がないためだ。


 国会では威厳を保っている日本の首相が、アメリカ大統領の前では卑屈な醜態をさらけ出す。相手によってコロコロと態度を変え、強い者にはペコペコ頭を下げ、弱い者をいじめるのは動物に等しい振る舞いであろう。

 アメリカ先住民のあの風貌を見よ。大自然と共に生きる彼らの表情は、現代文明がどれほど生の実感を奪っているかを教えてくれる。太陽や風雨にさらされた彼らの顔には、巨岩のような落ち着きがある。


 お金は人々をだめにします。富者特有の傲慢さがあります。どの国でも、ごくわずかの例外を除いて、富者にはあらゆるものを──神々すらをも──ひねりつぶすことができるというあの特有の尊大な雰囲気があり、そして彼らは神々をも買うことができるのです。豊かさは金銭的な貯えによってだけではなく、能力の持ち主はまた、自分は他の人々より勝っている、彼らとは違うと感じます。このすべてが彼に一種の優越感を与えます。彼は、どっかりと腰かけて、他の人々が身もだえしているのを見守るのです。彼は、自分自身の無知、自分自身の精神の暗さに気づかないのです。お金と能力はこの暗さからの格好の逃げ口を提供します。結局、逃避は一種の抵抗であり、それはそれ自身の問題を生み出すのです。人生とは不思議なものです。無である人は幸いなるかな!


 次の手紙も同じ言葉で締め括られている。これは「幸いなるかな心の貧しき者」という「山上の垂訓」の言葉をもじったのだろう。


 それにしても見事だ。マネーが支配する社会の残酷さを、たったことだけの言葉で炙(あぶ)り出している。お金は等価交換の手段として機能しながら、簒奪(さんだつ)の道具となって暴力性を発揮している。


 よくよく考えてみよう。お金がなければ食べていけない動物は人間だけである。これっておかしくないか? それどころか、お金を払わなければ住むところさえ確保できないのだ。


 私が言いたいことはこうだ。生存を支える衣食住すら国家に管理され、企業が流通を支え、消費することでしか我々は生きてゆけないのだ。明らかに国家が生を支配している。


 持つ者と持たざる者がいる。何と残酷な社会だろう。ヒエラルキーも暴力であり、集団そのものが暴力なのだ。


 欲望を空っぽにすることは可能だろうか? 競争から離れることは可能だろうか? 「生の流れを自由に流させる」ことは可能だろうか?


 クリシュナムルティの言葉は静かでありながら力強い余韻と共に、私の胸を震わせる。

しなやかに生きるために―若い女性への手紙

2011-01-29

ロゴス宗教、テキスト宗教のドグマ/『生きる勇気』パウル・ティリッヒ


 友岡雅弥著『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』で紹介されていた一冊。


 パウル・ティリッヒは理性を重んじ、自律を説くことでキリスト教の思想的沃野を広げた人物のようだ。宗教を「究極の関わり」と定義した。


 ここで問題が発生する。その究極が外(あるいは天)を目指すのか、それとも内(あるいは深奥)に迫るのか? 大雑把にいえば前者がキリスト教で後者が仏教ということになろう。


「初めに言葉(ロゴス)ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった」(ヨハネ福音書)。


 ウーム、「ロゴス」を調べてから既に1時間が経過。有り体にいえば「言葉」とか「理法」との意味であるが、反意語はパトス(情念、感覚)ではなかったのね。ミュトス(空想、物語る言葉)だってよ。ロゴスから物語性へと展開しようと思っていたのだが、敢えなく失敗に終わった。弱ったね。


 よし、じゃあこうしよう。私が書く文章において「ロゴス」は「説明原理」としておく。logic(論理)との整合性も含まれるから都合がいい。


 そもそも、初めに言葉があるわけがない。当たり前だ。言葉が存在するためには、発声器官と大気が必要なのだ。真空で音は伝わらない。ってことは、それらが存在する空間が大前提となる。神よ、私の勝ちだ。あんたの負け。さ、金を払ってもらおうか(笑)。


 パウル・ティリッヒはキリスト教のドグマ(=ロゴス)に支配されている。


〈勇気〉という概念のなかには、神学的、社会学的、哲学的内容が一つに結び合わされている。これほどまでに人間状況を理解するための鍵として適切な概念は、あまりない。勇気というのは、まず第一に、倫理的概念ではあるけれども、それは人間実存の全領域にかかわるものであり、また、その根は、存在自体の階層にまで到達している。それを倫理的に理解するためにも、それは存在論的に考察されねばならない。

 このことは、勇気に関する哲学的論究の最も古いものの一つであるプラトンの対話篇『ラケス』において、あきらかに示されている。この対話が進む過程で、勇気の概念を定義しようとするいろいろな試みがしりぞけられていく。それから、有名な将軍ニキアスが、一つの定義を下そうとする。彼は軍事的指導者として、勇気とは何であるかについて知っているはずであり、そしてまたそれについて語ることができねばならない。ところが、彼の定義もそれまでの定義と同様に満足のいくものでないことが分かるのである。もし勇気とは、彼が主張するように「何を恐れ、何を敢えてなすべきか」を知る知識であるとすれば、勇気の問いは、ある普遍的な問題に変わるのである。というのはそれに答えうるためには「いかなる状況にあっても変わることなく何が善であり何が悪であるかそのすべてについて知識をもって」いなければならないからである。だがそうするとこの定義は、勇気とは徳の一つの部分であるとする前提に矛盾してくる。「したがって」とソクラテスは結論する、「われわれは勇気とは本当に何であるかを定義することに失敗したのだ」と。このことは、ソクラテス的思惟の枠内ではきわめて重大な断念である。というのは、ソクラテスにおいては徳とは知であり、勇気の本質についてその知がないということは、勇気の真の本質との合致において行為することをも不可能ならしめるからである。しかしながらこのソクラテスの失敗は、見かけでは成功しているかのような多くの定義──プラトンやアリストテレスのものをも含めて──よりも、もっと重要な意味がある。というのは、勇気を他のいろいろな徳のなかの一つの徳として定義することがうまくいかないということこそ、人間実存のもつ根本問題を開示するものだからである。そのことは、勇気を理解するためには、その前提として人間および人間世界の理解、それらの構造や価値の理解が先行せねばならないことを示しているのである。これらの前提的理解をもっている者のみが、肯定すべきものは何か、否定すべきものは何かを悟るのである。


【『生きる勇気』パウル・ティリッヒ/大木英夫訳(平凡社ライブラリー、1995年)】


 勇気は概念に非ずというのが私の考えだ。勇気は行動されるべきものであって、説明を必要としない。その意味で「ためらわれた勇気」は存在しない。なぜなら彼(あるいは彼女)が躊躇(ちゅうちょ)した理由は、勇気の是非にではなく周囲の視線や評価の計算に由来しているためだ。すなわち勇気とは反射神経であり、無意識領域から湧き起こる即座の行為である。


 勇気とは否定である。当然とされる常識、伝統的な価値観、誰もが疑おうとしないルールに「ノー」を突きつけ、人間に寄り添う振る舞いである。パウル・ティリッヒは勇気の標本を作ろうとしていたのだろうか? それは「死んだ勇気」だ。


 厳しい生き方を選択するのが勇気である。険しい尾根に向かう登山家に言い知れぬ感動を覚えるのはそのためだ。勇気とは「冒(おか)す行為」なのだ。


 キリスト教はロゴス宗教でありテキスト宗教である。「初めに言葉ありき」とは、人間を聖書に隷属せしめようとするプロパガンダにすぎない。


 人の一生を振り返れば一目瞭然だ。生まれたばかりの赤ん坊に言葉はない。キリスト教原理主義者の一部にはDNAを言葉と解釈する者もいるようだが、DNAは遺伝情報であって言葉ではない。


 ロゴスは神の存在証明を目的としている。概念、理論、原理への強烈な指向は、姿の見えない神を信じさせるための努力なのだろう。そう考えると大乗仏教もロゴスの匂いがプンプンしている。


 人間は言葉に生きる動物であるとされている。これも嘘だ。3分の1は眠っているし、1日の大半を我々は無意識で過ごしている。言葉に支配されているのは会話をしている時か、ものを考えている時だけだ。


 荘厳な夕日を見つめる時、ロゴスは不要だ。美しい光景を言葉で説明することは不可能だ。ここに言葉の限界がある。


 きっとパウル・ティリッヒはロゴスが支配するキリスト教世界に風穴を空けようとしたのだろう。時代を開く新しい扉はこれほど重いのだ。


 キリスト教のドグマを断ち切るためには、唯名論から諸行無常へ持っていった方が早そうな気もする。

生きる勇気 (平凡社ライブラリー)

2010-12-11

人類の意識はひとつ/『人類の未来 クリシュナムルティVSデビッド・ボーム対話集』


 対話をするには同じテーブルにつく必要がある。涙の連絡船に乗った人が海岸で見送る人と対話をすることはない。距離がありすぎる。対話の前提は歩み寄ることだ。


 では各所のテーブルを見てみよう。ファミリーレストランで身を乗り出す主婦、会議室で向かい合う上司と部下、カウンター越しの銀行員と預金者、料亭で行われる商談、スチール製のデスクにそっと置かれる履歴書、生ビールを飲んだ勢いに任せて焼き肉鍋の上を通過する口説き文句……。これらは全て会話であって対話ではない。


 同じテーブルについただけでは対話は成立しない。往々にして対談がつまらないものになっているのは歩み寄りすぎているためだ。平身低頭、おべっか、阿諛追従(あゆついしょう)。


 我々は対話を話すことだと完全に誤解している。「まずは俺の話を聞いてくれ」と。これでは青年の主張だ。意見不要、問答無用。


 対話の真髄は傾聴にある。相手の声なき声にまで耳をそばだて、静かに問いを発する時、初めて対話が成立するのだ。たとえ相手が子供であっても同様である。


 クリシュナムルティとデヴィッド・ボームの対話は3冊に編まれている。本書は絶版となっており入手するまで困難を極めた。基調は『生の全体性』と一緒なので入手を焦る必要はない。


 巻頭には遠藤誠が推薦の辞を寄せている。


 1983年6月11日、同年6月20日、1972年10月7日に行われた対談が収められている。編集の手があまり入っていないような感じで、その分生々しさが伝わってくる。150ページほどの分量だが内容は超重量級。


 デヴィッド・ボームは理論物理学者でアインシュタインとも共同研究をしたことのある人物。マンハッタン計画にも深く関わっていた。


 二人の対談は自(おの)ずから科学的知性vs直観的英知の構造となる。


JK●ですから、もしたんなる知的なものとして、ないし言葉の上だけではなく、実際に、私たちは私たち以外の人間なのだということを実感すれば、責任は重大かつ広範なものとなります。


DB●ええ、その責任についてはなにができるでしょう?


JK●その時には、私は混乱全体を助長するか、混乱に加わらないか、そのどちらかです。


DB●重要な点に触れたと思います。人類ないし人間の全体はひとつだといいます。それゆえ、それを分けることは……。


JK●危険なのです。


DB●ええ。一方、私と机を分けても危険ではありません。と言うのは、ある意味では私と机はひとつではないからです。


JK●もちろん。


DB●つまり、ある非常に一般的な意味においてのみ私たちは一致しているわけです。さて、人間は自分たちが全体でひとつだとは気づいていません。


JK●なぜでしょう?


DB●それを調べてみましょう。これは重要な点です。国家や宗教だけではなく、この人とあの人などあまりにたくさんの区別があります。


JK●なぜこの区別があるのでしょう?


DB●少なくとも現代では、あらゆる人間は個人にあると感じられています。昔はそれほど強くは感じられていなかったのかも知れませんが。


JK●それを問うているのです。わたしたちは個人なのかとその根底から問うているのです。


DB●それはたいへんな問いです。


JK●もちろん。たったいま私たちはこういいました。私である意識は私以外の人間の意識と似通っていると。人類はみな苦しみ、恐怖をもち、安全ではありません。人間は思考が組み立てた個別の神や儀式をもっています。


DB●ここにはふたつの問いがあると思います。ひとつは、自分は他人と似通っていると誰もが感じているわけではないということです。大部分の人々は自分たちはなにか独特なちがいをもっていると感じています。


JK●「独特なちがい」とはどういう意味ですか? なにかをする時のちがいですか?


DB●たくさんのちがいがありえます。たとえば、なにかについてある国は他の国よりもうまくできるかもしれません。ある人はなにか特別なことができたり、特別な資質があるかもしれません。


JK●もちろん。あれやこれやについてだれか他の人のほうが優れています。


DB●その人は自分独自の特殊な能力や優秀さに誇りをもつかもしれません。


JK●しかし、それを取り去ってしまえば、基本的には私たちは同じです。


DB●おっしゃっていることは、いまいったようなことは……。


JK●表面的なものごとです。


DB●ええ。では、基本的なものごととはなんでしょう?


JK●恐怖、悲しみ、苦痛、心配、孤独、およびあらゆる人間の苦しみです。


DB●しかし、基本的なものごととは、人間の最高度の達成物だと感じている人が大多数かもしません。たとえば、人々は科学、芸術、文化、技術において人間が達成したことを誇りに思うかもします。


JK●確かに、そういった方向についてはどれも目的を達成しました。技術、通信、旅行、内科、外科などに置いては、途方もなく進歩しました。


DB●ええ、さまざまな分野での進歩は驚くべきことです。


JK●それには疑問の余地はありません。しかし、心理的にはなにを達成したのでしょう?


DB●これらのことは心理的にはなにも影響しませんでした。


JK●ええ、その通りです。


DB●そして、心理的な問題はそれ以外のことよりも一層重要です。と言うのは、もし心理的な問題が解決されないとすると、技術等々は危険なものとなるからです。


【『人類の未来 クリシュナムルティVSデビッド・ボーム対話集』渡部充訳(JCA出版、1993年)以下同】


 何の変哲もないわかりやすい言葉を使いながら、超弩級(ちょうどきゅう)の深みに達している。


 人類はブッダやソクラテスといった偉大な教師を輩出しながらも精神的な変化に乏しかった。あるいは劣化している可能性もある。これは20代の頃から私が抱き続けてきた疑問の一つであった。四半世紀を経てやっと解決した(笑)。


 文明とは技術の進歩にすぎなかった。そして我々は社会というヒエラルキーの内部で競争に明け暮れ、差異を強調することでしか幸福を感じることができなくなっているが、その個性や才能を「表面的」と一蹴している。ボームの息を飲む瞬間までが伝わってくるようだ。


 デカルトが「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)と『方法序説』に記したのは1637年のこと。存在としての我は、20世紀初頭フロイトの精神分析によって意識周辺を意味するようになった。そしてマズローが欲求段階説(生理的欲求→安全の欲求→所属と愛の欲求→承認の欲求→自己実現の欲求)を唱えた。(この流れについてはスコラ哲学の伝統を弁える必要もある)


 ここで注意したいのは、西洋で説かれる自我は飽くまでも「神と向き合う個人」を掘り下げていることだ。神との対称という座標を見逃すと、西洋の思想的系譜は理解することができない。西洋世界は完璧なまでに神が支配しているのだ。


 クリシュナムルティは個性や才覚という表面的な差異を除けば、人類は共通心理の上に生きていると指摘した。


 例えば美しい夕焼けを思い起こしてほしい。西の空を朱に染め上げ、青とピンクが溶け合い、金色(こんじき)の光が線となって放射している。鳥の影が点となって横切る。荘厳な光景が一瞬一瞬闇に飲まれてゆく。


 色や雲の形が変わっていたとしても夕焼けは夕焼けである。桜の花にしても同様だ。あの桜やこの桜は事実として存在するものの「桜は桜」である。同じく「人間は人間」なのだ。


DB●ええ、人間の体は似通っているという事実からそういえます。しかし、そのことは人間はまったく同じだということの証明になるわけではありません。


JK●もちろん、なりません。あなたの体は私の体と異なっています。


DB●ええ、私たちは別の場所にいる別の実在です。しかし、思うに、おっしゃっていることは、意識は個人的な実在ではない……。


JK●その通りです。


DB●体はある個体性をもつ実在です。


JK●それらはみなまったく明らかです。あなたの体は私の体と異なっています。私はあなたとは別の名前をもっています。


DB●ええ、私たちは異なっています。似通った物質からできてはいますが、異なっています。私たちは肉体を交換できません。と言うのは、蛋白質が他人のものと適合しないかもしれないからです。さて、大多数の人は精神についても同じように考えて、こういいます。人々の間にも化学反応があり、相性が合う、合わないがあるのだと。


JK●ですが、実際にその問題をより深く調べていけば、意識は人類すべてが共有しています。


DB●では、このように感じます。意識は個人的であり、その意識が意思疎通をして……。


JK●それは錯覚だと思います。なぜなら、真実でないものに固執しているからです。


DB●人類の意識はひとつだとおっしゃりたいのですか?


JK●意識は全体としてひとつです。


DB●それは重要です。というのは、さまざまな意識があるのか、ひとつなのかは決定的な問いだからです。


JK●ええ。


DB●さまざまな意識がありえるかもしれません。そして、それらが意思疎通してより大きな単位を作り上げているのですか? それとも、まさに始まり以来、意識は全体としてひとつだとおっしゃいますか?


JK●まさに始まり以来それは全体としてひとつでした。


DB●ですから、分離しているという感覚は錯覚だと?


JK●何度も何度もそう申し上げています。それはまったく論理的で正気だと思われます。分離しているというのは狂気です。


 圧巻。驚天動地。チト、言葉で表現するのは困難だ。


「真実でないもの」とは差異のことである。つまりクリシュナムルティが言っていることは、あなたと私の違いは氷山の一角のようなもので、意識の大半は完全に一致して「あらゆる人間の苦しみ」を感じているという真実なのだ。


 ブッダが苦からの解放を説いたのと完全に同じ視点である。


 差異を事実と認識するからこそ、我々は憎悪や嫉妬、怒りや悲しみに取りつかれるのだ。


「我苦しむ、ゆえに我は汝なり」という生命次元の共感から「あなたは世界だ」という抜きん出た視点が生まれる。


 クリシュナムルティは自我の本質が思考=記憶であり、時間に支配されていることを明かした。そうすると自己実現や自分探しが流行する時代は、人間の分断化に拍車がかかることになる。


「私」という過去の呪縛を解かない限り、自由を手にすることはできない。

生の全体性