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2010-01-05

力士は神と化した/『雷電本紀』飯嶋和一

 立て続けの書評となるがご容赦願おう。「雷電本紀」で検索したところ、低い評価が散見された。

 取り敢えずこのページだけ紹介するにとどめる。私は驚き、愕然とし、呆れ果てた。「ものを感じる能力」が退化しているようにすら見えた。幼児が甘いものを欲するように彼等はわかりやすい物語を求めているに違いない。


 この物語の縦糸は雷電の人生ではなく、民を抑圧した時代なのだ。そして横糸は相撲ではなく、雷電と打ちひしがれた民との関係性にあるのだ。鍵屋助五郎は民の代表であり、目撃者としての役回りを担っている。


「善人ばかりが登場するので物足りなかった」――かような感覚は、何から何までお膳立てしてくれるテレビ番組を見過ぎている証拠だ。ブラウン管の向こう側に挿入された笑い声に釣られて笑うような感覚の持ち主に違いない。映像ではなくBGMによって泣かされてしまうタイプであろう。テレビは喜怒哀楽をコントロールする。


 ドブから漂ってくる腐臭、打ち毀(こわ)しに向かう百姓の怒り、相撲界を取り巻く固陋(ころう)な因襲、無気力になり果てた農民、女衒(ぜげん)に売り飛ばされた娘達、舟着き場に置かれた脛石(すねいし)、そして雷電と助五郎を罪に陥れた政治……。この至るところに悪が充満している。行間に圧縮され、紙背から悪臭が漂う。登場人物の善性は時代と人々の邪悪という黒い画面を背景にしているからこそ際立っているのだ。


 つまり本書に感動できない精神は、邪悪に対して鈍感であることを示している。我々は分断された存在なのだ。だからこそ、苦しみ喘ぐ人々に共感する心すら失ってしまったのだ。


 既に勇名を馳せていた雷電は、自ら地方へ赴き地稽古を行った。風雨にさらされて今にも崩れ落ちそうな土俵へ上がり、力足を踏んだ。集まってきた農民達は飢えによって生きる力を根こそぎ奪われていた。眼に光はなく、声すら発しない。亡霊さながらに雷電を遠巻きにし、土俵を見守った。雷電が付き従えた若い衆を何度も放り投げ、叩き伏せる。何度も何度も――


 今まで助五郎でさえもこんなものを見たことはなかった。時折地稽古という言葉は聞いたが、実際に目にしたのは初めてのことだった。相撲人はそれぞれ抱え先の藩邸や諸藩ゆかりの寺などで稽古をつみ、あるいは年寄衆の持つ部屋の稽古場で習練を積み、白日公衆の目前にそれをさらすことはない。雷電はこの若者を殺してしまうのではないかと、助五郎でさえ思いはじめていた。

 ここ数年寒い夏が続き、実りは年を追うごとに乏しかった。それにもかかわらず、容赦ない年貢の取りたてによって、人々は飢饉に追いこまれ、疫病はその衰弱しきった村々に襲いかかった。すでに気力萎え、病み疲れた人々の前で、巨人と若者が、湯気をたち上らせ、汗を飛ばして激しくぶつかりあっていた。

「立て。負けるな」

 たしかに、見物たちから聞こえた。起き上がれずはいつくばった友吉が土盛りの下までほうり投げられ、それでも這いあがろうと、ちぎれた二重土俵の外俵にのばした右手をかけた時だった。言いよどんだように、突然張りつめた声がとんだ。かん高い子どもの声だった。しかし生気のある声だった。

「負けるな」

 10歳かそこらの、まだ瘡の痕を顔にとどめ、病み上がりの大きな目をした子が立ち上がって叫んだ。続いて大人の、老人の、女たちの声が泥だらけの友吉の背にとんだ。見物たちの何人かが立ち上がった。


【『雷電本紀』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)】


 雷電が叩き伏せたのは民の「無気力」であった。何度読んでも涙が止まらない。腸(はらわた)が捩(ねじ)れるほどの感動を覚える。雷電の本当の力は相撲で連勝したところにあったわけではなかった。民に力を与えたところにその真価があった。この時、雷電は神となった。


 これが神でなくてどこに神がいるというのだ。埃(ほこり)だらけになった神棚や、じめじめした土と空気に覆われた社殿に神はいない。そんなものは神を象徴したものであって、言ってみれば神のテレビ化みたいなものだろう。安易な気持ちで神を探している人々が自己満足できる装置に過ぎないのだ。


 翌日、蘇生した農民は皆で狩猟を行い、雷電一行に食事を振る舞った。


 Wikipediaの記事を見ると、本書は史実に基づいて書かれていることがわかる。


 雷電はやむにやまれぬ思いで行動した。そこには何の意図も計算もなかったはずだ。演出された見世物は永続的な感動を与えることができない。思案したり、計画したりすることもなかったことだろう。民と同苦(どうく)した瞬間、そこには「即座の行動」が生まれるのだ。ここに雷電の生(せい)の本質があった。雷電は「ただ、そうせざるを得なかった」のだ。


 嗚呼(ああ)、雷電よ、偉大なる相撲人(すもうにん)よ。あなたはまさしく神であった。


 機会を見つけて墓参しようと思う。


雷電本紀 雷電本紀 (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-01-04

時代の闇を放り投げた力士・雷電為右衛門/『雷電本紀』飯嶋和一

 今月の課題図書。今をさかのぼること250年前、天下無双の強豪力士がいた。その名、雷電為右衛門(らいでん・ためえもん)。身長は6尺5寸(197cm)、体重46貫(172kg)と伝えられる。ペリーが黒船に乗ってやって来る半世紀ほど前のこと。長らく続いた江戸時代は腐臭を放っていた。民という民は貧困によって力を奪われていた。


 当時、相撲人(すもうにん)は藩に召し抱えられていた。相撲籤(くじ)があり、庶民にとっては博奕(ばくち)の対象でしかなかった。拵(こしら)え相撲(=八百長)が横行し、土俵上でぶつかり合っているのは諸藩の小さな面目でしかなかった。


 そこに化け物が登場した。もはや今までの相撲ではなかった。力任せに投げ飛ばされた力士は負傷した挙げ句土俵に上がれなくなった。腐り切った談合社会が揺れた。加減を知らぬ若造を戒める必要があった。「大人のルール」ってやつだ――


「……この鰍沢の後は、皆、大坂へ上らねばならぬ。お前が巡業に加わってからというもの、柏戸までが妙な具合になって、気を入れすぎる。東方の他の相撲人も、こんな調子では、とても土俵に上がれんと言っておる。何も『拵え相撲』を取れと言っておるのではない。お互い生身の身であるのだから、江戸、大坂の大相撲とはまた別の、技量をお互い磨き合うための稽古相撲にとどめてはくれぬか。このままでは、相手方が嫌がり、これから先々お前は相撲をとれなくなる恐れもある」

「それならそれで仕方ございません」

 目を伏せて聞いていた雷電がまっすぐに黒目がちの細い目を上げ、落ち着いた声できっぱりと言い放った。

「あえて申し上げますが、相撲は手に何ももたず、何も身につけず、生まれたばかりの赤子同然で取るものでございます。世人が身に帯びたありとあらゆるもので渡りをなすのと異なり、相撲人はそれらの一切をはぎとり、残ったこの身だけで勝ち負けを競うものであります。身分も家の財も、生まれ育ち、学才や素養、ありとあらゆる世俗の衣を脱ぎ捨て、最後に残った己が身での勝ち負けでございます。他に何らの助け太刀も望めず、相手もわが身も生まれたばかりの赤子同然、素手で立ち向かわざるをえません。相撲場の外とは異なり、何もごまかしようがないのでございます。己れと己れ、むき出しの戦(いくさ)かと存じております。そのため、日夜、己れを虚しくして身を鍛え、心を砕き、修羅さえ燃やして精進しておるのでございます。

 わたくしの在所には父と母、生まれたばかりの妹がおるだけでございます。本来なれば、この地で相撲を取っていること自体、不可思議なことで、在所で田畑を耕すのが生業(なりわい)。何の縁(えにし)か、父と母を、田畑を、過ごすべき家を捨て、この身一つ、わずか径十三尺の土俵にのみ生きる場を許されておるだけでございます。これは、いわば天命。おそらくは何人たりとも奪うことは出来ますまい。

 相手方の相撲人もおそらくは同じことでございましょう。たとえ花を得るための課役(かやく)相撲、稽古相撲の類ではあっても、三都の大相撲の土俵であってもその大きさが変るものではありません。手心を加え、猿芝居もどきを演ずるために、土俵へ上がることは、相手方に対しても無礼。何の恨みも相手方には抱いておりませんが、相撲(すも)うた結果、どのような事態に至りましても、双方その覚悟にてまみえ、相搏(あいう)つのが本願。生半可に手心を加え、それがゆえに傷を負い、再び土俵にあがれぬ、あるいは死に至るようなことが起こりましたならばうしろめたさばかりが残りますが、双方身一つ、素手で渡り合い、死力を尽して攻防を繰り出した結果であれば、どのような結果が訪れようと、己れ自身にもまた相手方の相撲人に対しても、何人に対しても、悔いはあっても、うしろめたさはございません。

 申し上げることは、それだけでございます。どうかお引きとり下さい」

 一瞬、その米問屋方では誰もいないかのように虫の声ばかりが響いていた。襖を隔てた隣室から、柏戸が「お見事」のかすれ声とともに手をたたくまでの間。


【『雷電本紀』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)】


 若き雷電は八百長を言下に拒んだ。所詮、「戦っているもの」が違った。多くの力士が政治に屈する中で、雷電は相撲に魂を吹き込んだ。一人の青年が真剣に立ち上がった時、並居る力士の姿勢が変わった。相撲は生死を懸けた真剣勝負となった。


 飯嶋が描く世界には必ず二人の主役がいる。そして二つの人生が山河を越えて交錯する様を劇的に捉える。人と人との出会い、そして人から人へと流れ通う魂を炙(あぶ)り出す。本書は長篇ではあるが、まるで短篇の連続技のようにも読める。それほどまでに圧縮された濃厚な味わいがある。


 描かれているのは相撲だけではない。農民による打ち毀しに始まり、芸妓の世界、そして終盤は一気に政治・経済へと筋運びは傾く。


 雄勁(ゆうけい)な文章が胸を打ってやまない。「心の深さ」にたじろぎを覚えるほどだ。浅間山の噴火を鎮(しず)めた神の如き力士の晩年は不遇であった。だが決して不幸ではなかったはずだ。雷電は死ぬまで雷電であった。彼が投げ飛ばしたのは「時代の闇」であった。

雷電本紀 雷電本紀 (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)


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2009-07-17

言葉の重み/『時宗』高橋克彦


 北条時頼時宗、時輔(※時宗の異母兄)父子(おやこ)を描いた政治小説。飽くまでも歴史小説という形を用いた政治小説である。鎌倉時代を築いた武士とそれ以前に栄華を誇っていた公家との違い、天皇・将軍・執権というパワー・オブ・バランス、関東における武士の合従連衡などがよく理解できる。


 親子にわたる政(まつりごと)を縦糸に、そして国家という枠組が形成される様を横糸にしながら、物語は怒涛の勢いで蒙古襲来を描く。時頼と日蓮との関係を盛り込むことで、政治・宗教・戦争という大きなテーマが浮かび上がってくる仕掛けだ。お見事。


 私は以下の件(くだり)を読んで衝撃を受けた――


「そなたが関白でよかった」

 上皇は言って基平を見詰めた。

「近衛の一族はそなたを今に生み出すために代々我らの側にあったのじゃな」

 なにを言われたのか基平には分からなかった。それが最上級の褒めの言葉であると察したのは少し間を置いてのことである。

「ははっ」

 感極まって基平は泣きながら平伏した。抑えようにも涙は止まらない。五度に及ぶ混迷の合議、しかも半ば以上諦めていた裁定をたった一通の意見書が覆(くつがえ)したのだ。


【『時宗』高橋克彦(NHK出版、2000年/講談社文庫、2003年)以下同】


 北条家の意向を受けた近衛基平が「蒙古からの国書に返書を出すべきではない」と折衝する。これには、蒙古に対する北条父子の深慮遠謀があり、基平は命懸けで訴え抜いた。最後の最後でようやく基平の意見は採用される。そして、上皇が感謝の意を表明するシーンである。


 真の褒賞(ほうしょう)は「感謝の言葉」であった。何という言葉の重み。金品でも土地でもない。国家を守るために命を張り、それに報いる言葉があれば、人は幸福になれるのだ。日蓮は門下に宛てた手紙の中で「ただ心こそ大切なれ」(「四条金吾殿御返事」弘安2年/1279年)と記しているが、まさしく心を打つものは心に他ならない。


 まだ天下が統一される前の時代に、国の行く末を思い、犠牲を厭(いと)わぬ人々が存在した。歴史に記されることがなかったとしても、礎石になる人生を選んだ男達がいた。


 泰盛は時宗の肩に手を置いて言った。

「そなたがここにおるではないか。そなたであればどんな山とて乗り越えられる。国は皆のものと言い切る執権じゃぞ。そういうそなたの言なればこそ皆が命を捨てたのだ」

 時宗は泰盛を見詰めた。

「そなたが気付いておらぬだけ。新しき国の姿はそなたの中にある。皆はそれを信じて踏ん張った。そなたが今の心を持ち続けている限り、我らも失うことはない」


 安達泰盛の言葉もまた最高の褒賞となっている。真実を知る者からの称賛が、喝采なき舞台を力強く支える。地位でも名誉でもなく、人間と人間とが交わす讃歌こそ究極の幸福なのだ。

時宗〈巻の1〉乱星 (講談社文庫) 時宗〈巻の2〉連星 (講談社文庫) 時宗〈巻の3〉震星 (講談社文庫) 時宗〈巻の4〉戦星 (講談社文庫)

2009-02-02

学問への情熱が明治維新を導いた/『勝海舟』子母澤寛


 20年以上前に読んだ。勝父子のべらんめえ調が小気味よかった。まさかその後、東京の下町に住むとは思わなかった。私が過ごした亀戸(江東区)は、勝海舟が生まれた本所(墨田区)に近いところだった。子母澤寛は北海道の厚田村出身にもかかわらず、よくぞここまで江戸の雰囲気を表せたものだと感嘆した覚えがある。


「先生、わたしゃあ、もう一度、最初(はな)っから学問をやり直す」

「え、なんだとえ」

「いや、どうも、今日まで、本当に本を読む肚が定まっていなかったようだ、いや定まっていたかも知れないが薄っぺらであったようです。もう一度、一歩一歩、しっかりと大地を踏むように本を読み直して見る考えです」


【『勝海舟子母澤寛(日正書房、1946年/新潮文庫、1968年)以下同】


 明治維新期の学問に観念の印象がないのは、教えを乞うための行動力と、印刷技術が未発達であったため書写という身体性を伴っていたからであろう。知識への渇望はじっとしていることを許さない。「学問」が「生きざま」に直結していたとも言える。


「今日、開成所で妙な噂がありましたよ」

「学問もせずに、噂なんぞばかりしてやがるのかえ」


 学ぶ精神はもとより、欧米に対する遅れの実感が巧みに表現されている。そして江戸っ子はすばしっこくて、短気だ。地方からの移住者が多い江戸は、当時も生き馬の目を抜くようなスピードに満ちていたことだろう。


 勝海舟は偉大なる調停者であった。何にも増して嘘がなかった。だからこそ、西郷隆盛との談合も上手くいったに違いない。

勝海舟 (第1巻) (新潮文庫) 勝海舟〈第2巻〉咸臨丸渡米 (新潮文庫) 勝海舟 (第3巻) (新潮文庫)


勝海舟 (第4巻) (新潮文庫) 勝海舟〈第5巻〉江戸開城 (新潮文庫) 勝海舟〈第6巻〉明治新政 (新潮文庫)

2008-12-28

あやまちのない人生は味気ない/「橋の下」山本周五郎(『日日平安』所収)

 人生の奥深さを書かせれば、山本周五郎の右に出る作家は、まずいないだろう。哀感はしみじみと、そしてじわりと取り付き、読む者の背骨を自然のうちにスッと伸ばす。


 友人と果たし合いをするべく若侍がやってくる。ところが、約束の時間を間違えてしまった。ふと見ると、河原に煙が見えた。若侍が下りてゆくと、橋の下で暮らす乞食夫婦がいた。曰くありげな老夫妻のことは既に噂となって流れていた。


 若侍を見るなり、老人は察した。自分と同じ過ちを犯そうとしていることを。老人は元々武士であった。だが、好きな女性が原因で幼馴染みの友人を斬り、駆け落ちの末に転落の人生を歩んでいた。


 老人はどこを見るともない眼つきで、明けてくる河原の向うを見まもった、「あやまちのない人生というやつは味気ないものです。心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗をくり返したりするのがしぜんです。そうして人間らしく成長するのでしょうが、しなくても済むあやまち、取返しのつかないあやまちは避けるほうがいい、――私がはたし合を挑んだ気持は、のっぴきならぬと思い詰めたからのようです、だが、本当にのっぴきならぬことだったでしょうか、娘一人を失うか得るかが、命を賭けるほど重大なことだったでしょうか、さよう、……私にとっては重大だったのでしょう。家名も親も忘れるほど思い詰め、はたし合の結果がどうなるかを考えるゆとりさえなかったのですから」

「どんなに重大だと思うことも、時が経ってみるとそれほどではなくなるものです」と老人は云った。


【「橋の下」山本周五郎(『日日平安』所収、新潮文庫、1965年)】


 老人は恋に勝って、人生に敗れた。若侍を説得しようとするわけでもなく、ただ自分の越し方を淡々と語った。真の雄弁には、沈黙の中に百万言を伝える重みがあった。若侍は襟を正し、言葉遣いを改めた。生きざまが激変する時、人の言葉遣いは変わる。


 深き悔恨から、人生を見据え、過去を捉え直す作業は、まさしく哲学そのものである。老人は乞食に身をやつしていたが、修行僧さながらの精神の持ち主であった。擦れ違うような出会いの中で、人生の先達の言葉が青年を変えた。己の我執に気づいた時、若侍の顔は晴朗に輝いた。


 心に傷を負った人ほど、豊かな人生を歩める――と、この作品は教えてくれる。

日日平安 (新潮文庫)