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2011-03-31

騙す意図、騙される被害/『夜』エリ・ヴィーゼル


 世の中には騙(だま)す人と騙される人がいる。「オレオレ」と電話をする者が騙す人で、慌てて振り込んでしまうのが騙される人だ。当然、騙す側には何らかの意図や狙いがある。騙されるのは常に人がよいタイプだ。ま、判断力を欠いているわけだが。


 人は何かを信ぜずして生きてゆけない。周りにいる人々を信じ、情報を信じ、所属する機構を信じている。生きるとは自分と社会の未来を信じることでもある。


 しかし一寸先は闇だ。エリ・ヴィーゼルナチス・ドイツという名の国家に騙された。


 私はもはや、日々の一皿のスープと一きれの古くなったパン以外には関心を向けなくなっていた。パン、スープ――これが私の生活のすべてであった。私は一個の肉体であった。おそらくはそれ以下のもの――一個の飢えた胃。ただ胃だけが、時の経ってゆくのを感じていた。


【『夜』エリ・ヴィーゼル/村上光彦訳(みすず書房、1995年)以下同】


 強制収容所は人間を一片の臓器へと変えた。食欲に取りつかれた状態は餓鬼そのものだ。


 ある日、私たちが停車していたとき、ひとりの労働者が雑嚢から一片のパンをとりだして、それを貨車のなかに投げ込んだ。みんながとびかかった。何十人もの飢えた者が幾片かのパン屑のために殺しあったのである。ドイツの労働者はこの光景をひどく面白がった。


 ホロコーストを生き延びた証言者の中でエリ・ヴィーゼルは筆頭に位置する人物である。書籍においてはV・E・フランクルプリーモ・レーヴィが連なるが、世界への影響力が図抜けている。


 私が本書を読んだのは、レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』で以下の部分が紹介されていたからだ。


 3人の死刑囚は、いっしょにそれぞれの椅子にのぼった。3人の首は同時に絞索の輪のなかに入れられた。

「自由万歳!」と、二人の大人は叫んだ。

 子どもはというと、黙っていた。

「神さまはどこだ、どこにおられるのだ。」私のうしろでだれかがそう尋ねた。

 収容所長の合図で三つの椅子が倒された。

 全収容所に絶対の沈黙。地平線には、太陽が沈みかけていた。

「脱帽!」と、収容所長がどなった。その声は嗄れていた。私たちはというと涙を流していた。

「着帽!」

 ついで行進が始まった。二人の大人はもう生きてはいなかった。脹れあがり、蒼みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし3番めの綱はじっとしてはいなかった――子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである……。

 30分あまりというもの、彼は私たちの目のもとで臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死のあいだで闘っていたのである。そして私たちは、彼をまっこうからみつめねばならなかった。私が彼のまえを通ったとき、彼はまだ生きていた。彼の舌はまだ赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。

 私のうしろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。

「いったい、神はどこにおられるのだ。」

 そして私は、私の心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。

「どこだって。ここにおられる――ここに、この絞首台に吊るされておられる……。」

 その晩、スープは屍体の味がした。


 地獄絵図そのものだ。確実に死ぬことのわかっている少年が、身をよじりながらわずかに残された生を燃やしているのだ。見ている者は何もできない。抗議の声すら上げることすらかなわない。否、彼らに無力感を打ち込むことが公開処刑の目的といえるだろう。いざという時、神は必ず留守にしている。


 私たちはこうしてしばらく議論した。自分が議論している相手は父ではなくて死そのものだ、父はすでに死を選んでしまっており、自分はそいつと議論しているのだ、という感じがした。


 死に神が大手を振って歩いていた。死は手の届く範囲に存在した。朝起きると、新しい死が誕生していた。


 さて本題に入ろう。人や本との出会いが世界観を変える。そこで変わったものとは何か? 突き詰めてゆけば「情報」に行き当たる。もっと具体的にいえば「脳内の情報構成」が変わったのだ。その意味で世界観とは「情報の結びつき」に他ならない。味も素っ気もない言い方ではあるが。


 世界観が変わると生き方が変わる。意味の度合いが変化するためだ。昨日まで無意味であったものが今日から有意味になったりする。逆もまた然(しか)り。


 私は本書に続いてノーマン・G・フィンケルスタイン著『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』を読んだ。一度変わった世界観が、またぞろ引っくり返された。


 私はエリ・ヴィーゼルに騙されたのだ。大体、頚動脈が絞(し)められた状態で30分も意識があるというのはおかしい。そしてノーマン・G・フィンケルスタインが騙さないという保証はどこにもない。もちろん、どちらを信用するかという問題もある。


 騙す側には意図がある。つまり、騙すという行為の目的はコントロールにあるのだ。マスメディアは大衆を扇動し、国家は歴史を修正する。

 詐欺とは巧みな物語をでっち上げて相手を騙す行為である。だが改めて考えてみると、政治も教育も宗教も詐欺である可能性が高い。


 結論──権力者は詐欺師である。以上。


「ありがとウサギ」を「ありがとう詐欺」と読んでしまう今日この頃。

夜 [新版] ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち

2011-03-02

偏狭さからの自由/『回想のクリシュナムルティ 第1部 最初の一歩……』イーブリン・ブロー


 著者のイーブリン・ブローは、『変化への挑戦 クリシュナムルティの生涯と教え』のDVDでホスト役を務めていた女性である。多分財団関係者だと思われる。映像で観る限りでは、冷ややかな目つきで傲然とした雰囲気を漂わせていた。いけ好かないタイプのおばさんだ。


 それゆえ本書にもあまり期待していなかった。で、予想通りだった(笑)。私の人を見る目は確かなようだ。


 2部構成の評伝であるが、その半分(つまり本書)を星の教団時代に割くとは、一体どういう料簡(りょうけん)に基づいているのであろうか? クリシュナムルティという巨人の半分を神秘時代が占めているというのか? それとも不可思議な体験をドラマチックに描くことでスピリチュアル系にアピールしようと企図したのか?


 はっきりと述べておこう。星の教団解散以前の歴史は、クリシュナムルティの教えを学ぶ上で無視して構わない。否、無視すべきである。クリシュナムルティが否定した「古い宗教のあり方」に注目すること自体、彼の教えを理解していない証拠である。


 本書で読まれるべきは、多くの証言とクリシュナムルティによる詩の数々である。


 おお、世界よ、

 汝がもし私とともに〈幸福の王国〉に歩み入ることを欲するのなら、

 汝はあの真理にとっての毒──偏見──から自由にならねばならない。

 汝はあまりにも多くの偏見に浸かっている。

 古くからの、そして新しい偏見に。

 汝は自由にならねばならない、

 あの伝統の偏狭さから、

 慣習、性癖、感情、思考の偏狭さから、

 宗教、崇拝、崇敬の偏狭さから、

 民族の偏狭さから、

 家族、所有の偏狭さから、

 愛の偏狭さから、

 友情の偏狭さから、

 汝の「神」とその「神」へ(ママ)近づき方の偏狭さから、

 汝の美の概念の偏狭さから、

 汝の仕事と職務の偏狭さから、

 汝の達成と栄光の偏狭さから、

 汝の報いと罰の偏狭さから、

 汝の欲望、野心、目的の偏狭さから、

 汝の切望と満足の偏狭さから、

 汝の不満と充足の偏狭さから、

 汝の苦闘と勝利の偏狭さから、

 汝の無知と知識の偏狭さから、

 汝の教えと掟の偏狭さから、

 汝の思想と見解の偏狭さから──

 これらのすべてから汝は自由にならねばならない。

 ……

 汝が自由で、拘束されていない時、

 汝の身体がよく統御され、くつろいでいる時、

 汝の眼がその純粋なまなざしですべてを知覚する時、

 汝の心が静穏で愛情にあふれている時、

 汝の精神がよく均衡を保っている時、

 その時、おお、世界よ、

 あの〈庭園〉の扉が、

〈幸福の王国〉の扉が

 開くのだ。(「探究」1927年)


【『回想のクリシュナムルティ 第1部 最初の一歩……』イーブリン・ブロー/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2009年)】


 誰もが幸福を望む。歳月という過酷な波に洗われて、目指す幸福は二つに分かれてゆく。安楽と自由に。


 安楽とは享受する幸せだ。その中身はといえば、所有の欲望を満たすものが殆どだ。「栄光」という言葉は死に絶え、「成功」に取って代わった。ナポレオンのような人物が出てくる余地はどこにもない。


 それに対して自由とは何か? 自らの意志で人生を切り拓くのが自由だ。それは北風に向かって歩く自由でもある。単なるわがままは怯懦(きょうだ)を意味するが、真の自由は強靭な意志に裏打ちされたもので、孤独を謳歌する精神に宿る。


 失っても失っても尚かつ残る何か。周囲が奪おうとしても奪うことのできない何か。たとえ病床にあろうと獄中にあろうと光を発する何か。それこそが真の自由であろう。


 例えば戦争捕虜のこんなエピソードがある──


 メトリンコは、自分が状況をコントロールできるといういうことを学生の見張りに見せつけた。彼は回想している。「私は、祭日に出される特別な料理を食べることを拒否しました。それは宣伝にすぎない、まったくのごまかしだということを、彼らにわからせたかったからです」


【『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たちジュリアス・シーガル小此木啓吾〈おこのぎ・けいご〉訳(フォー・ユー、1987年)】


 彼には「断る自由」があったのだ。自由とは人生の主導権を握る行為であるが、かくも厳しい選択をせざるを得ない場合もある。


 また束縛から離れることが自由であるならば、楽な生き方を拒絶するところに本物の幸福が現れるに違いない。


 クリシュナムルティは「偏狭さからの自由」を声高らかに謳(うた)い上げている。星の教団の解散は2年後のことである。何ものをも頼ることなく「犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩め」(『スッタニパータ』)というブッダの言葉と響き合っている。


 私が私に拠(よ)って立つ時、自由の扉は開かれ、現在性を奏でる生の流れが脈々と流れ通うのだ。幸福よりも自由を目指せ。

回想のクリシュナムルティ〈第1部〉最初の一歩…

2011-01-23

両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ


 読んだのは二度目だ。三度目は多分ないだろう。私は確かにプーランの怒りを受け取った。胸の内に点火された焔(ほのお)が消えることはない。私が生きている限りは。


 若い女性に読んでもらいたい一冊である。できることなら曽根富美子の『親なるもの 断崖』と併せて。女に生まれたというだけで、酷い仕打ちにあった人々がどれほどいたことか。


 プーラン・デヴィは私よりも少し年上だと思われる。つまり昭和30年代生まれだ(Wikipediaでは私と同い年になっている)。少なからず私は同時代を生きたことになる。しかし彼女が生きたのは全く異なる世界であった。


 わたしは読むことも書くこともできない。これはそんなわたしの物語だ。


【『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ/武者圭子〈むしゃ・けいこ〉(草思社、1997年)以下同】


 本書は口述筆記で編まれたプーラン・デヴィの自伝である。ガンディーの説いた非暴力がたわごとであったことがよくわかる。どこを開いても凄まじい暴力に満ちている。たとえ親戚であったとしても、カーストが違うというだけで大人も子供も殴られる。


 プーランは両親の目の前で複数の男たちから強姦される──


 だれかがわたしの毛布を引き剥がした。声を出す間もなく、手がわたしの口をふさぐ。

「待て、ムーラ。動くな」と、声がする。「そこにいて、俺たちがおまえの娘をどうするか、ようく見ていろ」

 若い男の一団だった。手にライフルをもったサルパンチの息子と、前に見たことのある男がいた。だが暗くて、ほかの男たちの顔はわからなかった。わたしは怖くて目を閉じた。

 ひとりがわたしの両手を押さえつけ、別の男たちが脚を開かせる。母が殴られ、しっかり見るんだと言われているのが聞こえた。それから父の泣きながら懇願する声……。

「お願いです。勘弁してください。娘を連れて、あした出て行きますから。もう、この村は出て行きますから。お願いです、それだけは……」

 蝋燭の最後の輝きのように、わたしの気力は一緒戻ったが、すぐにまた潮がひくように消えていった。泣き叫ぶ声も懇願も、罵声もののしりも遠くなった。二つの肉体、二つのあわただしいレイプだった。わたしは目を固く閉じ、歯茎から血が出るほど強く、歯を噛みしめていた。


 まだ、10代そこそこの時であった。その後、父と共に拘留された警察署内でも10人ほどの警官からレイプされた。


 インドは滅ぶべきだ。ブッダもクリシュナムルティも関係ない。とっとと世界地図から抹消した方がいい。心からそう思う。そもそもカースト制度自体が暴力そのものなのだ。


 プーランは盗賊にさらわれ、彼らと一緒に生きる道を選んだ。若いリーダーと恋に落ち、結婚。だが愛する夫は仲間の裏切りによって殺される。プーランは夫亡き後、リーダーとして立ち上がった。


 プーランの復讐に怯える男たちの姿が浅ましい。彼らは村に戻ってきたプーランを女神として敬った。


 わたしを尊重し、心を開かせ、愛してくれた男はたったひとりだった。そのひとは教えてくれた──台地が川の流れを遮ることはないということを、この国がインドという国であり、貧しく低いカーストに生まれたものにもほかの者と同じ権利があるということを。

 だが彼は、わたしの目の前で殺された。その瞬間に、あらゆる希望がついえ去った。わたしにはもう、一つのこと──復讐しか考えられなかった。それだけが、生きていく目的になった。わたしは戦いの女神ドゥルガとなって、すべての悪魔を打ち負かしたいと願った。そして闘ってきた。そのことにいま、後悔はない。


 彼女はカーストにひれ伏して、ただ涙に暮れる父親とは違った。復讐することをためらわなかった。圧倒的な暴力が支配する世界で、他の生き方を選択することが果たして可能であっただろうか?


 私からすれば、まだ生ぬるい方だ。やるなら徹底的にやらなくてはいけない。道徳も宗教も関係ない。求められるのは生のプラグマティズムであって、言葉や理屈ではないのだ。


 プーランは甘かった。親戚を始末することができなかった。インドのしきたりに負けたのだ。


 投降後、刑務所で勉強をしたプーランは1996年5月、インド社会党から立候補し見事当選。盗賊の女王が国会議員となった。


 そして2001年7月25日、自宅前で射殺された。暴力によって立った女神ドゥルガは暴力によって斃(たお)れた。


 悠久の大地から陸続と第二、第三のプーランが生まれ出ることを願わずにはいられない。

文庫 女盗賊プーラン 上 (草思社文庫) 文庫 女盗賊プーラン 下 (草思社文庫)

2010-10-13

日清戦争に反対した勝海舟/『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編


 青春時代の15年間を私は江東区の亀戸で過ごした。道産子ではあったが、生来の口の悪さもあって下町の水がよく合った。近所のおじさんやおばさんにも随分とお世話になった。東京の下町にはまだ人情の灯(ひ)がともっていた。


 歴史上の人物で私が唯一親近感を覚えるのが勝海舟である。地図で見ると、亀戸から左に向かって墨田区の錦糸町、緑町、両国と続く。勝は本所(ほんじょ)の生まれだが生誕地は現在の両国4丁目25番地である。地図の左側(1/1500に拡大)にある本所松坂町公園が吉良上野介邸跡。赤穂浪士が吉良の首を洗ったという井戸がまだ残っている。先日亡くなった池内淳子もこの辺りで生まれたはずだ。


 子母澤寛の『勝海舟』や、海老沢泰久の『青い空』を読んで少々知った気になっていたが、空前絶後の面白さだった。歴史というよりは政治の教科書として数百年の間は通用しそうだ。ちょんまげを結い、刀を差していた時代に、これほどの傑物が存在したのだ。勝海舟は理想的なプラグマティストであった。


 松浦玲が、最初の『氷川清話』を編んだ吉本襄〈よしもと・のぼる〉を完膚なきまでにこき下ろしている。どうやら勝手に改竄し、組み替えだらけの編集をしたようだ。詳細に渡る注釈が施されているが一つ一つに怒りが込められている(笑)。


 とにかくどのページを開いても、その見識の高さに驚かされる。軽妙洒脱でありながら本質を捉えた人物論、日本の行く末を決定づけた政治の舞台裏、諸外国との交渉、海外の人脈、金本位制度を踏まえた確かな経済的視点、そして市井の人々との交流。まさしく八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍で近代日本を築いた一人と言ってよい。


 勝は海軍の創始者でありながら日清戦争に関しては断固反対の声をあげた。黒船来航(1853年)が日本人に国家意識を芽生えさせた。明治になる15年前のこと。当時の人々は蒙古襲来を思い合わせたに違いない。300年の鎖国を経て日本は外の世界と向き合わざるを得なくなった。日本人の心理構造は激変した。

 当時は知識人という知識人が日清戦争を支持した。福澤諭吉を始め、夏目漱石森鴎外内村鑑三田中正造など。日露戦争に反対した内村ですら支持したのだから、日本人の自我の抑圧ぶりが知れよう。


日清戦争と中国観


おれは大反対だつたよ


 日清戦争はおれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとへ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。

 一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。

 おれなどは維新前から日清韓三国合縦(がっしょう)の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になつて兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところになるくらゐなものサ。


【『氷川清話』勝海舟/江藤淳、松浦玲編(講談社学術文庫、2000年)以下同】


 この時代にして東アジアの地政学的リスクを知悉(ちしつ)していたのである。その上マーケティング戦略まで構想していたのだから凄い。


 別の箇所では、藩の利益を超えて国家主義的視点に立ったから政策判断が功を奏したと語っている。しかしながらその本質はアジア主義であった。開国したばかりの日本にこのようなコスモポリタンが存在したのだ。咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を横断した男は、世界的なスケールの発想をした。


 戦争でも同じことだ。世間では百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代らうが、敵国が来り国を取らうが、殆ど馬耳東風で、はあ帝王が代つたのか、はあ日本が来て、我国を取つたのか、などいつて平気でゐる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、誰が来て国を取らうが、一体の社会は、依然として旧態を損して居るのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体(からだ)を蚊(か)か虻(あぶ)が刺すくらゐにしか感じないのだ。

 ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ。


 中国王朝の変遷を踏まえて、国家観の相違を述べている。そしてここでもまた経済について言及している。戦争には金がかかる。戦費がかさむと国が滅ぶことも珍しくはない。


 勝の見識は、人間が時代の制約から自由になれることを示している。


 本書では実に様々な人物が取り上げられているが、勝が評価しているのは西郷隆盛横井小楠の二人だけである。


 おれは、今までに、天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠〈よこい・しょうなん〉と西郷南洲〈さいごう・なんしゅう〉とだ。

 横井は、西洋の事も別に沢山(たくさん)は知らず、おれが教へてやつたくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子(はしご)を掛けても、及ばぬと思つた事がしばしばあつたヨ。おれはひそかに思つたのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあつたら、それこそ由々(ゆゆ)しき大事だと思つたのサ。

 その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方が優(まさ)るほどだツたけれども、いはゆる天下の大事を負担するものは、果して西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。


横井小楠


 おれが初めて横井の名を聞いたのは、長崎に居た時分で、越前の村田が諸国を巡(めぐ)つて長崎にやつて来たから、ドーダ誰か大きな人物に出遇(であ)つたかと聞いたら、いや格別の人物にも出遇はなかつたが、肥後の横井平四郎といふ人は当今の天下第一流であらうと、痛く感心して話をした。これが横井の名を聞いた始めだ。(中略)

 おれが深く横井の識見に服したのは、おれが長州の談判を仰せ付かつた時、横井に相談した時である。おれが長州に行くにつき、かれの見込みを手紙で聞いたが、かれは、ひと通り自己の見込みを申し送り、なほ、「これは今日の事で、明日の事は余の知るところにあらず」といふ断言を添へた。おれは、この手紙を見て、初めは、横井とも言はるゝ人が今少し精細の意見もがなと思つたが、つらつら考へて、大いに横井の見識の人に高きものあることを悟(さと)つた。世の中の事は時々刻々転変窮(きわ)まりなきもので、機来(きた)り機去り、その間、実に髪(はつ)を容(い)れずだ。この活動世界に応ずるに死んだ理窟をもつてしては、とても追ひ付くわけではない。

 横井は確かにこの活理を認めて居た。当時この辺の活理を看取する眼識を有したるは、たゞ横井小楠あるのみで、この活理を決行するの胆識を有したるは、たゞ西郷南洲あるのみで、おれがこの両人に推服して措(お)かざりしは、これがためである。


 小楠は能弁で南洲は訥弁(とつべん)だつた。


 西郷については何度も何度も絶賛している。邯鄲(かんたん)相照らす間柄であったからこそ、江戸城の無血開城が可能となったのだ。この件(くだり)についても生き生きと語られている。


 時代が人を育み、人と人との出会いが時代を動かす。時が人を得て、人が時に乗じて歴史の歯車が回る。勝は一貫して「時勢が人をつくる」と断言した。

氷川清話 (講談社学術文庫)

2010-05-29

小野田寛郎を中傷した野坂昭如/『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月


 ルバング島のジャングルで30年の長きにわたって戦い続けた小野田寛郎は、帰国後メディアから集中砲火を浴びる。小野田は格好の標的となった。物珍しければ何にでも飛びつくのがメディアの習性だ。連中は野良犬のように鼻が利き、野良犬のようにしつこい。


 野坂昭如(のさか・あきゆき)が小野田寛郎を中傷した――


(野坂昭如による“談話筆記”〈『週刊ポスト』8月16日号〉)

 小野田さんはいろいろ偉そうなことをいっているけど、そして偉い面もあるけど、游撃戦にしろ、残置諜報者にしろ、その本分は何も果たしていないじゃないか。

 彼は自分の頭の中に艦船の出入りとか、飛行機のなんとかというものをしっかり納めていたという。それがやがて来たるべき日本の反撃に備える自分の任務だった、というが、じゃ、それを書いてみろといったら、おそらく書けないのではないか。

 横井さんの場合は、「あれは逃亡兵だ、逃げ回った人間だった」という決めつけ方をされていて、小野田さんの場合には「闘った」というふうにいわれている。しかし、状況判断の悪さからいうと、あれは闘ったことにはならない。

 そのことはさておき、彼は、自分の判断が間違っていたために、小塚さんがどうした、島田さんがどうしたとかいっているが、この文章を読んだ範囲においては、その判断の誤りについてほんとうの後悔は何もない。いやしい感じの方が強い。


【『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月〈とい・じゅうがつ〉(新潮社、2005年)以下同】


 私は以前から野坂という人物に嫌悪感を抱いてきた。見るからに薄汚い風体で、妙にヘラヘラしている。本人はニヒルを気取っているつもりだったのだろう。


 多分この記事は、国民の多くが小野田を礼賛することに背を向けるような格好で発信したのだろう。また小野田が陸軍中野学校出身であったことに警戒感を抱いていたのかもしれない。だが野坂は口の軽い男だった。そう。彼はただの酔っ払いなのだ。そして相手が悪かった。


 例えば、この記事の殆どの部分が、憶測と思い込みによって成立している。あらかじめ、自分の頭の中で描いた絵に結論を引き寄せようとしていると言ってもいい。少なくとも野坂は、小野田から直接話を聞いてもいないし、中野学校のことを調べてもいないし、ルバング島へ取材にも行っていない。その意見の殆どの部分は想像と感想の域を出ていない。いわば、言い放し、書き放しといっていい。しかし、そんなものでも活字になってメディアに載れば力が生まれる。なるほど、そうかと思う人間が出てくる。そうやって、ある人間や、ある出来事のイメージがつくられてゆく。

 小野田は、会ったこともない人間やメディアによって空気がつくられ、知らぬ間にそれが既成事実になってゆくような曖昧さといい加減さが許せなかった。それでは、戦前の日本と同じではないか。野坂の記事を読んだ小野田は、「言いたいことがあるなら、黒眼鏡を外して堂々と言え」と激怒したという。


 野坂は明らかに思い上がっていた。スポットライトを浴びた者は逆光で客席が見えなくなる。目に映るのはライトが当たっている自分の周囲だけだ。傲(おご)りという病(やまい)は治し難い。肥大した自我を正当化するために彼等はひたすら前進するのだ。


 国のために戦い続けてきた男は見世物にされた。小野田の中で日本のイメージが激しく揺れ動いた。彼が守ろうとした国も国民も既に消え失せていた。小野田は帰国から一年を経ずして長兄次兄のいるブラジルへ移住する。


 軽薄な売れっ子であった野坂に対し、小野田はどんな人物だったのか。以下に小野田自身が書いた手紙を紹介する――


 しばらくして週刊誌から手記連載の申し入れがあり、小野田は、代筆者や編集者たちと共に伊東市の出版社寮に缶詰めになった。その頃、小野田は、励ましの手紙をくれた戦争遺族たちに次のような礼状を送っていた。


 拝啓

 御健勝の御事喜ばしく存じます。

 私 帰還に際してはわざわざ御親切なお祝のお便りを頂き誠に有りがたく存じて居ります。今日、生きて日本に帰り得たことはひとえに亡くなられた戦友のお蔭と国民皆様の努力の賜で何とお礼を申し上げてよいものか言葉もなき次第でございます。

 帰られぬ戦友、帰り得た私、その運命の非情さを考えれば帰還の喜びは一瞬に失せ、思いは再び戦場に還ってしまいます。全く相済まぬ事をいたしました。肉親の皆様方に深くお詫びいたしお叱りを受けて、そのお赦しを願わねばなりません。

 肉親の皆様は終戦後の毎日をさぞおつらくお苦しく続けられたことでしょう。よくお耐え下さいました。

 男一匹の私らとは比べものにならない年月をお送りなされたことでございましょう。よく生き貫いて下さいました。

 今、御遺族の貴方様から御慰め頂きましたがこれは全く逆でございます。お慰め申し上げなければならぬのはこの私でございます。何と申し上げても申し上げきれないのはこの私でございます。本当に申し訳ございません。私の今日が祝福されればされる程、私はますます御詫び申し上げなければならないのです。お願いでございます。私の心をお察し下さってお赦し頂きとうございます。

 お互いに死を誓って戦場に出たとは申せあくまでも死は死、生は生でございます。亡くなられた方は再び生きてかえらず、生き帰ったものは全く倖せなのです。戦争の悲劇、全く言い様のない気持です。今迄生き貫かれた貴方様、尚も強く生き通して下さい。それが私にとって最もうれしくお祝の言葉、お慰めの贈りものでございます。

 私の社会復帰について御心配を頂きますがそんなことは第二第三の問題です。私の第一は遺族の皆様のお赦しを頂くことです。どうぞ御健康に御多幸に一日も早く遺族の苦しみ悲しみから抜け出して下さい。それで私は心から解放されるのでございます。右御詫びかたがた御礼まで。

 昭和49年5月

      海南市  小野田 寛郎


 何がここまで私の心を打つのか。私は戦争という戦争を忌み嫌い、戦争へ行ったことを得々と語る老人に対して、「お前は平然と人を殺し、何の躊躇(ためら)いもなくレイプに加担したような人物だろう。たとえお前がやらなかったとしても、周囲で行われたことを黙認するような卑劣漢だ」と心で罵るような人間なのだ。


 私が嫌悪する戦争、私が嫌悪する時代から、なぜこのような人物が生まれたのか。礼儀や人の振る舞いに着地するのは簡単だ。しかし、そんな皮相的なレベルで30年もサバイバル生活を生き延びることは不可能だ。


 小野田の時計は30年前に止まっていた。人間を人間たらしめていたのが30年前の記憶であったとすれば、30年間に及ぶ社会の変化は人間性を失わせるものだったことになる。


 そしてやはり陸軍中野学校の教育が大きかったことだろう。教育というものは例外なく、国家という枠組みに適応させる目的で施される。しかし中野学校では戦時中にもかかわらず、天皇よりも日本国民を重んじる教育を叩き込んだ。その意味では国家を超越する思想を提示したといえよう。


 小野田寛郎の偉大さは、時代や社会から取り残されたジャングルで人間として生き、人間を貫いたところにある。

小野田寛郎の終わらない戦い