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2001-06-18

『古本マニア雑学ノート〔2冊目〕 愛と古書と青春の日々』唐沢俊一


迸(ほとばし)る薀蓄・溢れるトンデモ本


 副題は「愛と古書と青春の日々」。前号で紹介した作品の続編。二番煎じと侮るなかれ。筋金入りの古書マニアが披瀝する薀蓄(うんちく)の数々は、2冊の本で涸れてしまう程度のものには非ず。イラストは実弟の唐沢なをき


 何にせよマニアが著した作品の本質は言いわけ以外の何物でもない。自分の狂った蒐集癖を理路整然と、時に開き直りながら、声高らかな宣言をしてみせる。奥底を流れるのは周囲に対するただの言い訳である。そこが面白い。言い訳という約束事をどの程度まで巧妙にやってのけるのか、そこに期待が高まる。社会性や常識をはみ出せばはみ出すほど、言い訳は巧妙を極めるものだ。そして彼等は善良な市民を遥かな高みから見下ろし天空に遊ぶ。


 僕にとって、このエピソードは、美談なのである。古本マニアが、古本に囲まれて、モチをノドにつまらせて一人ひっそり死ぬ。永井荷風の孤独な死があの作家にとって名誉なことであるならば、マニアにとって孤独な死は名誉でなくてはならない。人生を何かにかけるならば、その果ての孤独な死を恐れてはいけないのである。


 この覚悟である。まるで武士道さながらだ。コレクターとは“もののふ”であったのだ。だが、ちょっと待てよ。この人達は最初っからこういう覚悟をしていたわけではあるまい。つまり、集めている内にこれだけの覚悟をしなければならない羽目にまで陥ったということではないか。あな恐ろしや、古本は人の命を平然と奪う。


 マニアであれば誰もが夢見るであろう「掘り出し物」。まずは掘り出し物の定義から。


 ……掘り出し物とは何か。バカバカしく価値があり、かつバカバカしいくらい意外なところで見つかった、バカバカしく安く(もしくはロハで)手に入れることができた本のことをいうのである。


 で、ここで挙げられている例には大爆笑。


 例1 家の前をチリ紙交換の車が通った。ちょうどたまっていた古新聞を出そうと呼び止めて、トイレットペーパーをもらってフトその荷台を見ると、そこにはマニア垂涎の的であるところの◯◯の初版本が……(初級)


(中略)


 例3 地方へ旅行に行って、そこの古本屋へちょいと立ち寄ったら、マニア賛仰の的であるところの△△の特装版が捨て値で置いてあった。たまたま金の持ち合わせがなかったので急いで宿へ帰ってサイフを握り締め、とって返すとすでにそれは買われてしまったあと。落胆しているとその買った客が戻ってきて、こんな蔵書印がベタベタ押してある本は汚くてダメだ、と突っ返し、店主と言い争いになる。狂喜を押し隠して、まあまあ、ここに居合わせたのも何かのご縁、じゃあこの本はワタシが引き取りましょう、とうまいことを言ってさらにもとの半値で買い取って見てみると、その蔵書印がこれがまた大変な著名人のもので……(上級)


 ここで忠告が入る。


 こんなことは絶対にない(ここ、強調!)


 マニアは、白馬に乗った王子様を待ちわびる少女のように夢多き存在なのだ。あまつさえ現実と夢が混同し、枝葉が伸び、口が滑り、尾ひれがついて斯くの如し。


 唐沢の軽妙な筆は時に鋭い切っ先を見せる。新刊書店で江戸文学関係の書籍が充実している様を見て、


 著者の経歴を見ると、僕と同じ世代の人たちが多い。なぜ同世代の女性に江戸文学研究者が、と考えてハタと思い至った。僕らの世代は、子供のころ、NHKの人形劇『新・八犬伝』を見て育っている。(中略)やがて大学に入学するに当たって、国文科を迷わず選択し、近世文学を迷わず専攻し、そして『八犬伝』を卒論のテーマに迷わず選んだのであろう。まったく同じことが、中国文学でも起こっている。原因はいうまでもない、同じNKHの人形劇『三国志』である。


 社会という大海に浮かぶ泡沫(うたかた)を睨みつけ、水底(みなそこ)を窺うような眼光を感じる、と言っても言い過ぎにはならないだろう。


 余談になるが、コナン・ドイルの『失われた世界』(ポプラ社)が紹介されているのも嬉しかった。これは小学校6年生の時に読んで、私が読書に開眼した忘れられない作品。ガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』と共に小学生時代のベスト。


 マニアほど愚かで面白い人間はいない。社会で規定された枠をも破ってみせる彼等(私は違う)に異様なまでの人間臭さを感じるのは私だけではないだろう。


 マニアへの憧れと、恐れと、敬意を抱きながらペンを擱(お)く。


 尚、先日、唐沢氏の父上が逝去された。ここに謹んで哀悼の念を捧げる。

古本マニア雑学ノート〈2冊目〉―愛と古書と青春の日々

2001-06-12

『古本マニア雑学ノート』唐沢俊一


縦横無尽な面白がり方


 以前、本屋で半分ほど立ち読みをしたのだが、ちゃんと読み直してみた。いやあ面白い。北海道出身でこんな面白い人がいたとは驚き。道産子というのはわたくしのように奥床しく、ゆったりしていて、大人しい人ばかりと勝手に思い込んでいた。


 副題が「人生に大切なことはすべて古本屋で学んだ」。タイトルだけ見てみると、幼稚園の砂場よりも説得力があると思うがどうだろう。薄暗い棚に置かれた本の数々は、持ち主によって捨てられた怨念と、商品としての再起を果たさんとする並々ならぬ決意と、作家によって吹き込まれた思想の息吹などが渾然となって、くすんだ背表紙に立ち現れている。ここは一種の墓場でもあり、産道でもあるのだ。人生を学ぶのにこれほど適した場所もあるまい。


 内容はというと、これがまた親切極まる企画で、古書マニアの1日・即売会の模様・古書遍歴・唐沢氏のコレクション紹介と、古本の世界がざっと俯瞰(ふかん)できるようになっている。


 ところでそんなにたくさんの本を買って、いつ読むのだ、とよく聞かれる。こういう愚問を発するのは古書マニアでない人間である。切手収集マニアに、そんなに切手を買って、いつ手紙を出すのだと訊くようなものではないか。古書は集めるためにあるものである。読むものではない。


 こう言い切れるかどうかで、マニアという坂道を転げ落ちてゆくか、常識的な人生を取り戻せるかが決まってしまうんでしょうな。


 ご存じの方も多いだろが氏はあの「と学会」会員である。大体、どんな本を蒐集しているか容易に察しがつく方もいるだろう。唐沢氏が本を選ぶ基準は


 1.読んで実用にならない。

 2.読んで害がない。

 3.読まなくても差し支えない。


 これらの条件を満たした本を「脳天気本」と名づけ、「読書本来の無目的性を取り戻そう、という運動をあちこちで呼びかけている」。


 紹介されている本は、いずれも「よくもまあこんな本を」という代物ばかりで、見ているだけでも楽しい。


 この人の凄いところは、面白がりながらも、それに溺れることがないところだ。各ページに配されている「カラサワ・コレクション・ピックアップ」の紹介文を読めば一目瞭然。適度な距離を置いた寸評がまた楽しい。


 古本集めの大先輩という人物の発言が、これまた奮っている。


 古いものに目の色を変えて集め回るというのは、これは病気ですよ。病気になったら、高いと思っても、おクスリを飲まなくては仕方ないでしょう。古本屋は病院、古本はおクスリと思って、私は集めているんですよ。


 ある種の悟りを思わせる発言である。“物狂おしい”というのはこういう状態のことを指すに違いない。


 古本好きの方は、本書を手にして、ご自分の病気度をチェックしてはいかが?

古本マニア雑学ノート―人生に大切なことはすべて古本屋で学んだ

2001-05-17

鬼気にあらず、茶目っ気迫る古書蒐集(しゅうしゅう)癖/『子供より古書が大事と思いたい』鹿島茂


 痛快な本である。おまけに愉快ときたら読む他あるまい。以前からタイトルが気になってしようがなかった本書をやっと読んだ。著者は現在、共立女子大学の文学部教授。『ユリイカ』の連載が編まれたもの。19世紀フランス小説を専門とする著者が、フランス語の稀覯(きこう)本コレクターとして、破滅すれすれの人生を歩む様子が描かれている。


 愛書趣味というのは、ことほどさように、だれからも理解されず、健全な世間の常識からは疎(うと)まれ蔑(さげす)まれ、家族からは強い迫害を受ける病なのだが、この病の特徴は病人がいささかも治りたがっていないというところに特徴がある。治りたがらない病人ほど始末に悪いものはない。さらに、この病は、財政的に完全にお手上げになって、もうこれ以上は1冊も買えないというところまで行き着かないと、治癒の見通しがつかないという点で、麻薬中毒やアル中などの依存症にも一脈通じるところがある。


 著者は本書を執筆する15年前に神田のとある書店で、19世紀フランスのロマンチック本というジャンルの挿絵本と出会い、木口木版の魅力に取りつかれる。この時、出会った本のタイトルが『パリの悪魔』と、まさしく著者のその後の人生を象徴するかのような本。しかし、月給が18万円だった当時、さすがに15万円の本を購入することはかなわなかった。


 後日、図書館からその本を借り出した。だが、それを手にした著者は言いようのない悲しみに襲われる。


 たしかに、手にもっているのは『パリの悪魔』そのものである。だが、扉に図書館の公印がべったりと押されたその本は、あきらかに何物かを失っていた。1845年の誕生から、130年以上の長い年月を、様々な人の手に渡りながら生き抜いてきた本としての人生に突然終止符を打たれたとでもいうような感じだった。図書館に入れられた本は、同じ本でも生きた本ではない。本は個人に所有されることによってのみ生命を保ち続ける。稀覯本を図書館に入れてしまうことは、せっかく生きながらえてきた古代生物を剥製にして博物館に入れるに等しいことなのだ。新刊本の場合には、いささかも意識にのぼらなかった本の生命というこの真実が突如天啓のようにひらめいた。そして、その日から私はピブリオマーヌとしての人生を生きることを決意した。私が本を集めるのではない。絶滅の危機に瀕している本が私に集められるのを待っているのだ。とするならば、私は古書のエコロジストであり、できるかぎり多くのロマンチック本を救い出し保護してやらなければならない。これほど重大な使命を天から授けられた以上は、家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい。


 と、まあ土屋賢二氏顔負けの見事な論法である。ここで弾みをつけてあとは一気読みである。私は稀覯本には全く興味がないが、奥深い世界は端(はた)から眺めているだけでも楽しいものである。


 一様に稀覯本といっても様々な種類があり、皮革の装丁や挿絵の種類も実に豊富。超Aランク級の古書店ともなると、本の状態が完璧な上に「なにか特別のプレミアム、つまり、献辞、直筆原稿、デッサンなどの『この世でただひとつのもの』が添えられて差別化された稀覯本のみを売るという姿勢が必要とされる(69p)」というのだから、さすが文化の宗主国と沈黙するしかない。著者がフランスに滞在して時には、オークションでドラクロアの献辞をもつ『悪の華』などは、3900万円で落札されたというから凄い。


 著者は日本に帰国してからも蒐集の手を止めることはない。ファクシミリで入札するのである。具体的には記されていないが、結構な借財があるらしい。自宅を抵当に入れ、融資を受けてまで本を漁る姿が、滑稽で憎めない。まるで水晶を思わせる物欲である。


 あとがきがまた奮っている――


 コレクションというものは、およそ客観性を欠いた、きわめて主観的な趣味の表現だ。


 むしろある種の創造性、あるいは一つの『思想』と呼んだほうがいい。なぜかといえば、コレクションというのは、この世にまだ存在しない『なにもの』を作り出す作業なのだから。


 コレクションには、コレクション特有の自動律のようなものが存在していて、これが、コレクションが拡大するにしたがって次第に「意志」を持つようになり、最後には、コレクターを思いのままに動かし、自らを完成させていくことになるからである。


 コレクターとは、常に「党」を開いていくことを運命づけられた永久革命者の別名にほかならない。


 これほどの理屈をこねさせる力が稀覯本にはあるという見事な証拠だ。「狂」や「馬鹿」がつくような人間ほど面白いのは確かだ。


 尚、本書は文藝春秋社より文庫化されたので、求めやすくなったことを付記しておく。講談社エッセイ賞受賞作品。


子供より古書が大事と思いたい (文春文庫)
鹿島 茂
文藝春秋
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2000-01-28

『街の古本屋入門 売るとき、買うときの必読書』志多三郎


 裏表紙の顔がいい。腕っぷしの強そうな面構えだ。しかしながら、文章は人なつっこい上に洒脱。遠慮がちに吐き出される小言には落語の小気味よさがある。


 本と聞いた瞬間、あなたが想像するのは新刊書籍であろうか。それとも、いくらか手垢のついた古本であろうか。読書量が増えてくると、本の値段が随分と高く感じる時がある。そこから古本屋への道が忽然(こつぜん)と開かれる。私の場合は19歳の頃だった。探しあぐねていた本を古書店で発見した時の感動といったら、「母と子の涙の再会」に匹敵するほどだった。古書店巡りの醍醐味は「邂逅(かいこう)」と「遭遇」に尽きる。


 古書店主による古書店の手引きである。開業から経営、本を売る場合の注意事項まで書かれている。まあ、古本屋が好きな方であれば、どなたでも充分楽しめる内容だ。


 第2章の(2)で「理論」的な問題、と題してこのように書かれている。

 

 表題を見て、え、古本屋にも理論なんてあるのかと疑問を持たれる人の感覚は正しい。古本屋は、ある意味では新刊書店より出版社の性格に近いものがあると第一章で書いたが、根本的には資源再利用の域を出ない商売であり、新しい意味附与がときに要求されることはあるにしても、一般的には創造・創作からはほど遠い商売である。だから古本屋には、どんなルネッサンスもなければどんなシュトゥルム・ウント・ドランクもない。個人的な営為にのみ終始している面から見れば、どんな栄誉もなければ、またどんな鉄槌もない。新しい天地を求めて古本屋になる者も、夢破れて古本屋になる者も、その間の事情に異同はない。淡々と続く散漫な日常があるだけであり、いくらかの小銭を儲けた損したが連綿と続くしがないたつきである。

 なんだ、それならそのへんの会社員とさほど変わらないではないか、とおもわれる人の感覚もまた正しい。


 これには笑った。オンライン古書店を開業した私にとっては、身につまされる記述だった。飄々たる筆致でこうも見事に書かれてしまうとぐうの音も出ない。だが、ここで気づくのである、只者ではない著者の読書量と蘊蓄(うんちく)に。


 店主から見る古本屋と、客のそれでは随分と違うことがよくわかる。例えば、立ち読みを拒否する権利を店主は持つ、という。商品とはいえ、基本的には店主の蔵書である。故に、あっちパラパラ、こっちパラパラというのは極めて迷惑とのこと。これには随分と反省させられた。


 著者は古書業界を通して、巧みに時代の変遷を捉えている。古き良き時代の出来事が折に触れて書かれているが、最近と思われる内容で明るいものはあまり見受けられない。良い本は少なくなって来ているようだ。


 時に私も根付けに迷うことがままあるのだが、著者はこう記す。

 

 結論的にいえば、古本一般の売価は、定価と仕入れ値とを函数とし、さらに店主の思想の表出たる係数を乗じたものといってよいだろう。店主の思想といえば大仰(おおぎょう)にとられようが、変動せざるを得ない相場に対する直感力であり、不易流行への批判力であり、社会情勢への認識力である。眼鏡をずり上げながら鉛筆片手にちょいちょいと売価をつけていくのが古本屋の一つのイメージとしてあるのだろうけど、そのちょいちょいの陰には、客の背後にある現代社会をにらんでいる目がある。


 これには快哉を上げた。まさしくその通りなのである。勝負、丁か半か! といった裂帛(れっぱく)の気合いが入る瞬間でもある。


 本書を読んで私は大変、意を強くした。偉大な先達に道を指し示してもらったように思えた。この仕事は儲けが少ないにもかかわらず、病みつきになりそうな奥の深さが何とも言えない。


街の古本屋入門 売るとき、買うときの必読書