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2011-03-30

自由を達成するためには、どんな組織にも、どんな宗教にも加入する必要はない/『自由と反逆 クリシュナムルティ・トーク集』J・クリシュナムルティ


「人生は幸福よりも自由を目指すべきだ」──そう思うようになったのは40代になってからのことだ。わけのわからないルール、しがらみ、決まり事が私を縛ろうとしていた。40代は堕落の季節だ。残された人生も何となく見通しがついて保守的な傾向が強まる。腐臭に気づかないのは本人だけだ。


 私は「自分の価値観から自由になること」を模索していた。物事は離れなければ見えない。自由とは執着から離れることだ。


 そんな時にレヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』と出会った。私の価値観は木っ端微塵になって吹っ飛んだ。道徳・思想・宗教が単なる物語にすぎないことを悟った。90万人のツチ族が殺戮されたのは、神が与えた運命や過去世の宿命であるはずがない。


「では、どうして彼らが殺されたのか?」──我々の脳は因果という物語に束縛されている。答えはひとつ。そこに殺す人々がいたからだ。歴史的経緯を踏まえれば、ベルギーの植民地政策がフツ族を抑圧し続けていたと考えられる。そしてツチ族を殺した者には報酬が約束されていた。あるいは皆がやっているから一緒にやったという者だっていたことだろう。だが、これらの理由で納得できるだろうか?


 できるわけがない。なぜなら正当な「殺す理由」などあってはならないからだ。私はルワンダ大虐殺を知って、家族を何者かに殺害された人と同じ情況に追い込まれた。神も仏もあるものか──。


 私の葛藤は続いた。そして1年後にクリシュナムルティと出会った。暗雲から光が射した。その瞬間、我が人生は再構成された。


 自由を達成するためには、どんな組織にも、どんな宗教にも加入する必要はない。なぜならそれらは人を縛り、限定づけ、あなたに崇拝や信条の特定の型を押しつけるからだ。もしもあなたが自由に憧れるなら、私がそうしたように、どんな種類の権威に対してもあなたは戦うだろう。というのも、権威は霊性の反対物だからである。仮に私が今日自分を権威として用い、あなたがそれを受け入れるとすれば、それはあなたを自由には導かず、たんに他人の自由に従っているだけになるだろう。他者の自由に従って、あなたは自分をさらに強く限定の輪に縛りつけることになる。あなたの精神、あなたの心が、何か、または誰かに縛られることを許すな。もしあなたがそうするなら、あなたはもう一つの宗教、もう一つの寺院を建てるだけになる。一方で一つの信仰体系を破壊しながら、他方で別の信仰体系を作り上げることになるのだ。私は人を縛るあらゆる伝統、精神を狭めるあらゆる崇拝、心を腐敗させるあらゆるものに対して戦っている。もしあなたが、私がその道を指し示した自由を見出すつもりなら、私がそうしたように、あなたの周りのすべてに不満で、反逆と、内なる不同意の状態にあることから始めなければならない。あなたはよく次のような言い回しを使う。「私たちはリーダーに従うつもりだ」誰があなたのリーダーなのか? 私は一度もリーダーになどなりたいと思ったことはない。私は一度も権威をもちたいと思ったことはない。私はあなたに、あなた自身のリーダーになってもらいたいのである。(1928年キャンプファイヤー・トーク)


【『自由と反逆 クリシュナムルティ・トーク集』J・クリシュナムルティ/大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2004年)】


 星の教団を解散する前年の講話である。クリシュナムルティは33歳の青年であった。昭和3年でこれほどの見識を示した事実に驚きを禁じ得ない。世界は第一次大戦(1914-1918年)から第二次大戦(1939-1945年)へと向かっていた。


 クリシュナムルティは教団というスタイルを否定した。組織は必ずヒエラルキーを形成する。そして集団は必然的に帰属意識を要求する。そこに宗教性はない。教団の外側にいる人々は皆敵となる。やがて組織の拡張が目的となり、布教は否応なくプロパガンダへと変質する。


 ブッダの時代のサンガ(僧伽〈そうぎゃ〉)には序列などなかったことだろう。元々サンガとは組合を示す言葉で皆が同等の発言権をもっていたとされる。であるならば、「同行の友」といった意味合いが強かったはずだ。


 世界の宗教人口はキリスト教33.4%、イスラム教22.2%、ヒンドゥー教13.5%、仏教5.7%となっている(百科事典『ブリタニカ』年鑑2009年版)。人類の70%以上が宗教を信じていながら、いまだに世界平和は実現していない。これが現実である。それどころか宗教が戦争や人種差別の要因となっているのだ。


 正当性は批判とセットになっている。それが思想的吟味であれば構わない。しかし教団を取り巻く政治的な主張に陥りがちだ。「私たちは正しい」と言った瞬間に「あなた方は間違っている」というメッセージを放っている。


 ツチ族はフツ族の敵であったからこそ殺されたのだ。人種差別とは敵と味方を厳しく見極める生きざまに他ならない。いじめも同様だ。何らかの部分的な利益(あるいは損害)を共有する一体感から差別構造は生まれる。


 組織は合理的である。その合理性が人間を手段化する。組織は分業制であるがゆえに、分業のスペシャリストを育成してしまう。こうして人間を解き放つべき宗教が、人間を束縛する教団へと変わり果てるのだ。


 もはや組織という形態が行き詰まりを見せている。その最たるものが国家であろう。戦争を行う主体が国家であることを知りながらも、我々はいまだに国家という枠組みを超克することができずにいる。


 一切の依存を捨てて自己に拠(よ)って立て、とクリシュナムルティは教える。ここにのみ真の宗教性があるのだろう。彼の慈愛は一切の宗派を超えて万人の胸を打つ。

自由と反逆―クリシュナムルティ・トーク集

2011-03-22

体験は真実か?/『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ

    • 体験は真実か?

「計画停電だと? ふざけんじゃねーよ!」と声を大に叫んだところで、パソコンは立ち上がらないし、トイレの水も流れない(集合住宅のため水道ポンプも動かず)。東京電力は都心への電力供給は怠ることなく、八王子のような僻地(へきち)の電気は好き勝手な時間に停めるのだ。これぞ「電力のトリアージ」だ。一般住宅よりも企業や官庁を優先させるってわけだよ。戦時や有事は弱者から切り捨てられるってこったな。畜生、さっさと書いてしまおう。


 この世に生まれ落ちて、物心がついた時から我々は世界を感受する。生まれた時は皆、タブラ・ラサ(白紙状態)だ。多分。


 果たして自我はどのように形成されるのか? それは周囲からの情報と自分の反応が織りなす布だ。アメリカに生まれた子供は自由と民主主義を重んじ、中東に生まれた子供はムハンマドマホメット)を信じ、アッラーに祈りを捧げる。


 長ずるにつれ親と異なる価値観を持つケースもあるが、これは「情報の質」が促した変化と考えられる。先進国を見渡すと、民主主義・資本主義・自由・平等・博愛といった概念が「新たな宗教」として機能している。イラク戦争(2003年)は民主化を口実にイスラム教文化を破壊したと見ることができよう。つまり、宗教よりも民主主義が大義名分として世界に流通するという事実を示している。


「人間の脳は物語に支配されている」というのが私の持論である。我々はいかなる現象にも因果関係を求めてやまない。そして思考には起承転結という枠組みがはめられている。その物語の最たるものが宗教と科学であろう。宗教は精神宇宙の物語であり、科学は物理宇宙の物語である。


 世界は人生という時間軸に沿って展開される。私の心(精神)と肉体(物理)で感じたものが世界だ。それが世界のすべてだ。


 1963年(昭和38年)の6月、世界はまだ存在していなかった。なぜなら私が生まれていないからだ。世界は私と共にある。つまり世界とは「私」のことなのだ。「私」という時空間が世界の正体であろう。


 神はどこにいるのか? 神を信じる私の脳内に存在する。その意味で神は幻影であり、情報にすぎない。なぜなら神の座標を特定できる人が一人もいないからだ。いるんだったら連れて来いって話だわな。神よ、あんたが創造した世界にはあまりにも犠牲が多すぎる。


「私は神を信じるひとりです」。そう名乗った質問者に対してクリシュナムルティは語った──


 あなたは体験によって、自分の信じているものが真理であるという核心を得ようとしますが、信じること自体があなたの体験を条件づけてしまいます。信じているものの証明として体験が起こるのではなく、その信念が体系をつくり出してしまうのです。あなたの神への信仰が、あなたが「神」と呼ぶものの体験をもたらすのです。あなたはつねに、自分の信じるものしか体験できません。信念をもっているかぎり、あなたの体験は無意味なのです。キリスト教徒は聖母や天使やキリストを見、またヒンドゥー教徒は驚くべきほど数多くのよく似かよった神々を見ます。イスラム教徒も、仏教徒も、ユダヤ教徒も、共産主義者も同じです。信念が、それぞれが思い描くものの確証を条件づけるのです。重要なことはあなたが何を信じるかではなく、いったいなぜ信じるのかということだけです。あなたはなぜ信じるのでしょう。さまざまなことを信じるか信じないかによって、現実にあるものに何か違いが生じるでしょうか。事実は信じようと信じまいと、それに影響されません。ですから、「いったいなぜ何かを信じるのか」と問わなければなりません。信じることの根底には何があるのでしょう。それは恐怖、生の不確かさ──未知のものへの恐怖、つねに移り変わっていくこの世界に安定を見いだせないことへの恐怖でしょうか。それは関係の不安定さでしょうか。あるいは、広大な生に直面して、それを理解できないので、「信念」という隠れ家に自分を閉じ込めてしまうのでしょうか。


【『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ/松本恵一訳(めるくまーる、1992年)】


 ぐうの音も出ない。信念がフィルターと化している事実を断言している。つまり、人は自分が信じるものしか受け容れないのだ。


 既に何度も書いている通り、私は祟(たた)りを信じない。突然我が家を訪れた人が「先祖の祟りが感じられます。霊を鎮(しず)めるためにはこの印鑑と壷を購入することです!」と断言しても何とも思わない(笑)。「その先祖の名前を言ってみろ」「先祖の現住所はどこなんだ?」「こっちは祟りに引きずられるような弱い生き方はしてないがな」とすかさず応答する。


 ところがご先祖信仰を鵜呑みにする人であれば、「詳しい話をお聞かせ願えませんか? ここのところ家族の怪我が多いものですから……」なあんてことになりかねない。「──というわけで奥様、印鑑と壷はセット価格で200万円になります。エエ、もちろんお支払いは現金でもクレジットでも構いませんよ」ってな具合だ(笑)。


 物語は共有される。夏の夜に稲川淳二のライブへ足を運ぶのは「怪談」という物語を共有するためだ。


 クリシュナムルティは特定の神や特定の教団を否定することで、万人に具わる宗教性を開花させようとしている。集団が織りなす布教は必ずプロパガンダとなる。そして集団は信仰を帰属意識へと貶(おとし)める。所属が人間を断片化する。


 過去に自分が感じたことは事実である。だが真実ではない。なぜなら経験は必ず「解釈される」からだ。否、目の前の事実すら我々は解釈することなしに受け取ることはできない。すなわち世界とは解釈であり、言葉とは翻訳の異名なのだ。


 一切の主義を捨てた地平にありのままの人間が見えてくる。彼は国家にすら所属していない。彼の名をジッドゥ・クリシュナムルティという。

自己の変容 新装版 自己の変容 クリシュナムルティ対話録

(※左が新装版、右が旧版)

2011-03-05

統一教会の霊感商法/『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』櫻井義秀


 タイトルが上手い。素人向けの宗教社会学ともいうべき内容。真摯かつ真面目な考察。ま、面白味には欠けるわな。


 宗教とカネ。信じる者と書いて「儲ける」とはいうなり(笑)。なぜ信仰にカネがかかるのだろうか? それは宗教が生け贄(にえ)を必要とするからだ。つまりお願い事があるなら、捧げ物を出すのが礼儀だろう。完全前払い制。延長の場合は追加料金が発生する。


 2番目の理由。仏教とキリスト教の場合を考えてみよう。僧侶や聖職者が集団化すると、彼らの生活を支える必要が生じる。ブッダの時代は乞食(こつじき/托鉢とも頭陀〈ずだ〉とも)で食っていた。「お恵みを」ってわけだ。キリスト教の場合はどうだったんだろうね? 中世以降は宗教的世界侵略を実践して貿易事業などを行っていたはずだ。詳細は不明。勉強しておきます。


 檀那(だんな)という言葉は仏教におけるパトロンのこと。寺社は経済的なバックアップで成り立っていた。何となく相撲や花柳界と似ている。中世ヨーロッパのクラシック音楽も同様だ。


 民主主義となった現代ではどうなのか? ま、国家予算を支えているのが税金である以上、会費という形になるのだろう。好きで信仰に励んでいるわけだから、勝手に払えばよい。


 ところがどっこい、そうは問屋が卸(おろ)さない。宗教団体が搾取システムと化しているケースがあるためだ。櫻井はこれを「スピリチュアル・ビジネス」と呼ぶ。


 この後の商売をスピリチュアル・ビジネスと名づけたい。ネットワーク・ビジネスはモノを介在させて人の欲を取引する。スピリチュアル・ビジネスは、商品がスピリチュアルなものであるほか、取引する行為自体がスピリチュアルなサービスにもなる。若い人、生活に不安を抱える人、競争に疲れた人、誰かに何とかしてもらいたがっている人が狙われやすい。不安定な状況にある人ほど、遠い将来の確実だが小さなメリットよりも、今すぐ効きそうなものを求めるからだ。


【『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』櫻井義秀〈さくらい・よしひで〉(新潮選書、2009年)以下同】


 単なる「安心代」ならともかく、宗教の名を借りて「不安」を煽る以上、どうしたって高くつくわな。一種の「不安オークション」だ。


 例えば統一教会世界基督教統一教会)を見てみよう。


 ビジネスの最終判断を文鮮明にあおぐ神頼みの商売には厳しいものがあった。そこで、むしろ宗教活動そのものを経済活動に転換できないかと知恵を絞って考案されたのが、姓名判断や家系図鑑定と絡めた商品の販売である。先祖の因縁や霊障を取り除く、或いは開運のためといって、1980年代に韓国から朝鮮人参茶、高麗大理石壷等を輸入して販売した。このやり方が霊感商法として80年代考案から社会問題となった。


 宗教団体が世界展開する場合、どうしても伽藍(がらん)が必要になる。建物がないと法人認可が下りないためだ。で、新たな信徒を獲得するためには少しでも立派な堂宇(どうう)が望ましい。やはりカネが必要だ(笑)。


 現在、統一教会員でも祝福だけでは不十分で、140万円相当の献金をして天一国と呼ばれる天国への入籍証を持たないと天国には入れないと言われている。ちなみに、祝福にも140万円の献金を必要とする。計280万円で天国に行けるのであれば安い買い物だが、統一教会員になることが条件なので、かえって高くつく可能性もある。


「祝福代」ときたもんだ(笑)。神様って強欲なんだね。開いた口が塞がらないよ。つい最近も以下のニュースが報じられた。


統一教会に賠償命令=不法勧誘で8000万円余−福岡地裁


 先祖の因縁などと不安をあおって献金を強要されたとして、福岡県内の世界基督教統一神霊協会(統一教会)の元信者の女性が、教会に対し約5億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が28日、福岡地裁であった。太田雅也裁判長は「勧誘は害悪を告げて原告を恐れさせ、献金を執拗(しつよう)に迫るものだった」として、一部について不法行為と認め、総額約8160万円の支払いを命じた。

 判決によると、元信者の女性は1999〜2005年、つぼの購入や献金で4億4400万円余りを支払うなどした。

 統一教会側は「献金は自由意思だった」などと主張したが、判決は「霊能力者と称する女性信者が、財産がなくなるまで献金するよう執拗に求め、子どもに危害が及ぶなどと告げた」と認定。約6500万円分の献金などについて違法だったと指摘した。

 統一教会広報局の話 一部といえども請求が認められたことは遺憾です。判決内容を検討し、対応を決めたい。


時事ドットコム 2011-02-28


 統一教会がダメージを受けないのは、保守層にがっちりと食い込んでいるからだ。

 集団は基本的に閉じた体系である。ゆえに「開かれた組織」は実在しない。なぜなら開いてしまえば、それは社会の一部となるからだ。何らかの目的に添って組織が形成される以上、集団は共同体を志向する。


 そんなことがあるのだろうかと訝る人もいるかもしれない。しかし、私達はこうしたことを日常生活や職場、専門家集団において経験している。専門家はそれぞれの分野ごとに独特の言語と論理を共有しており、二、三の専門用語を話すだけで関連する事柄や背景的知識、問題の解決法まで頭に浮かんでくる。専門家集団といえば宗教集団も同じである。統一教会のような閉鎖性の強い集団に入るとなかなか抜けられなくなるのは、教団が物理的な紹介(見張りやスケジュール管理)を置くからではなく、認識の構造は言語体系までも統一教会独特のものしか使わないよう訓練してしまったために、外部の人達とコミュニケーションができなくなり、外へ出ることを信者自身がためらうようになるからだ。


 これは重要な指摘だと思う。企業の社内文化みたいなものだろう。同調圧力。空気、雰囲気、阿吽(あうん)の呼吸。郷に入っては郷に従え。


 専門用語が組織内方言の役割を果たす。「同じ道産子だべさ」というわけ。


【ほうれんそうの原則】──報告、連絡、相談を縮めたものである。自分の行為は全て上司に報告し、信徒どうし連絡を密に行い、事後判断の必要がある場面では全て相談する。統一教会の信徒は自己の裁量で行動することは殆どなく、組織的な判断や指令を優先する信仰実践の毎日である。これは行動のコントロールである。(統一教会のコントロール法)


 企業化する教団の姿が生々しい。あるいは兵士化というべきか。「小野一等兵、現在位置を報告せよ」。活発な宗教行動は、ひょっとすると宗教性に対する自信のなさを露呈しているのかもしれない。


 結局、信徒をマインドコントロールしている教団が行っていることは、「時間とカネの管理」なのだ。経済行為として見れば振り込め詐欺と変わりがない。物語の内容が異なるだけだ。


 あらゆる集団が政治化し経済化することを避けられない。ここに問題の本質がある。詐欺に引っ掛かるのは、合理性を手放した人々であろう。

霊と金―スピリチュアル・ビジネスの構造 (新潮新書)

2011-02-11

ニューエイジで読み解く宗教社会学/『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之


 ニューエイジ・ムーブメントとは、アメリカ西海岸を発信源として1960年代後半から80年代にかけて盛り上がりを見せた霊性復興運動のこと。ベトナム反戦運動が高まる中、近代合理主義や伝統的キリスト教に反発する形でカウンターカルチャーと同時に現れた。

 ヒッピー・ムーブメントも一緒だな。多分。彼らは叫んだ。「セックス、ドラッグ&ロックンロール」と。


 戦争や神様に対するウンザリ感は何となく理解できる。特にアメリカの場合、ヨーロッパと比較しても原理主義的傾向が顕著で、暴力性を帯びている。

 そして今もなお天地創造説を信じ、進化論を否定する連中が山ほどいる国でもある。

 キリスト社会に亀裂を入れた一点においてニューエイジを私は評価する。ただし宗教性という次元では子供騙しにすぎないと考えている。


図1 ニューエイジ度の尺度

反ニューエイジ的←→ニューエイジ的
世界観 二元論(善悪の対立、絶対者)←→一元論(自己変容)
実践形態 厳格な規律、上下関係←→ゆるやかなネットワーク
担い手の意識 教祖や教義を崇拝、他者依存←→自立的、スピリチュアル


【『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之(渓水社、2003年)以下同】


 ま、わかりやすいといえばわかりやすいのだが、社会形態も同じように変化していることを弁える必要がある。結局、制度宗教への反発は社会への反発でもある。なぜなら制度宗教そのものが宗教の社会化であり、二次的社会を形成しているからだ。


 ヒーラスは、ニューエイジを「自己宗教(self religion)」と呼ぶ。彼は、1960年代の対抗文化の発達にともない、個人は聖なる存在に近いものとして捉えられはじめたと考える。そこでは、表現的個人主義(原文略)の広がりも影響して、自己発達、自己実現というテーマが絶えず重要な役割を果たしていた。


 私なら「宗教ごっこ」と名づける。「自慰宗教」でも構わない。そもそも「個人」という言葉は神と向き合う一人の人間を意味する。

 神に背を向けるのはよろしい。しかし、自らの内部に聖性や神秘性を見出そうとする時、そこに同じ神を見出すことになりはしないだろうか? はたまた極端な自然志向が動物的な生き方へと導く可能性もある。


 自己実現の「自己」にも、やはり神の匂いがする。実現と未実現とのヒエラルキーを避けようがない。未来を重んじることは現在を軽んじることでもある。


 また、ベラーらは、現代アメリカ社会に於いて「自己を宇宙的原理に高めてしまうほど徹底して個人主義的な」宗教形態を「神秘主義」、あるいは「宗教的個人主義」と呼んだ。宗教的個人主義の先行形態は、19世紀の思想家であるエマーソン、ソロー、ホイットマンに見いだせるが、この宗教現象は20世紀の後半になってから主要な宗教形態として発達してきていると分析する。もちろん宗教的個人主義は、ニューエイジそのものではない。しかし、「現代の宗教的個人主義は、自分のことを述べるのに『宗教的(レリジャス)』とは言わずにむしろ『霊的(スピリチュアル)』というような言い方をしばしばする」との言及からも分かるように、極めてニューエイジに近い宗教現象だといえよう。このような、「自己宗教」や「宗教的個人主義」として捉えられるニューエイジ思想は、自己を越えた他者や社会全体での関心を示すことのない、自己中心的な思想としてしばしば批判されてきた。


 スピリチュアリズムとは「非科学的な物語」といってよい。その意味では、意外かもしれないが鎌倉仏教の流れを汲む日本の大半の宗教が実はスピリチュアリズムと判断される。密教的系譜はおしなべてスピリチュアリズムである。


 筆者は、ニューエイジの思想的な特徴は、究極の「リアリティ(状態、目的)」とそこへいたる「手段(媒介)」から成り立っていると捉えている。ニューエイジでは、ホリスティック(全体論的)でトランスパーソナル(超個的)な世界観が究極のリアリティとしてあり、その究極にいたる手段として個人の聖性が強調されるのである。


 上手い説明なんだが、ニューエイジに接近しすぎているきらいがある。私は「内なるユートピア思想」がニューエイジの特徴であると考える。ひょっとすると制度宗教の戒律が時代性とそぐわなくなっているのかもしれない。


 つまり、ニューエイジ思想は、究極にいたる手段が、家族や地域共同体と分離した個人に力点がおかれる点で新しい宗教性を示しているのである。


 それが「宗教性」といえるのであれば、「社会性」に置き換えることも可能だろう。人と人とを結び合わせるのが宗教性であり社会性である。ニューエイジには散逸、離散、放射というベクトルがあるように思われる。


 続いて宗教の世俗化という骨太のテーマが展開される。特筆すべきは以下の部分──


 スタークとイアナコーニは、世俗化論一般を批判する際に、宗教に市場経済モデルを適用して、制度宗教を宗教企業、信者を宗教消費者ととらえる。従来の宗教社会学者は、宗教消費者に焦点を置き、表1、2に示したデータから宗教の世俗化、つまり人々の宗教での関心が低下していると結論づけてきた。これに対してスタークらは、信者の行動でなく宗教を供給する企業側に注目し、次のように問う。「もしも少数の怠惰な宗教企業しか存在しなかったとしたら、潜在的な宗教消費者はどのような行動をとるだろうか」と。

 スタークらは、自分たちの経済モデルに立地でした「供給サイド・モデル」の有効性を検証するためにいくつかの命題を提出している。本論との関連のみをまとめるなら、要するに、ある国で人々の教会出席率や教会所属率が低いのは、宗教企業が宗教消費者の多様なニーズにこたえるような形態となっておらず、結果的に個々人が教会に関心を示さなくなっているためであるということだ。


 言い換えれば、世俗化と誤解されている状況は、独占的宗教企業が人々に魅力的で亡くなったことに起因し、個人の宗教心が衰えたためではないのだ。(※スタークらの議論)


 宗教社会学と行動経済学の融合(笑)。教団と信者を需給関係で捉えることはあながち間違ってはいない。経済の発達に伴って「聖」と「俗」の二元論的世界観は崩壊する。霊媒師は政治家と変わり、生け贄はクリスマスケーキとなる。世俗化は社会のシステム化と関連している。


 宗教のパラダイムシフトが進展しないのは、欲望が多様化しているせいもあるのだろう。とすると人々が望んでいるのはカスタマイズ化された宗教なのかもしれない。


 宗教社会学入門としては良質なテキストだ。ただしネット恋愛に1章を割いてしまったことで、後半はかなり失速している。ヴァーチャル(仮想)の意味を履き違えており、それこそスピリチュアリズムの言い分と同じレベルになっている。


 電話を通して聞こえる声だって、音声を電気信号に変えているゆえヴァーチャルなのだ。つまり、脳が受け取る情報は仮想であろうと現実であろうと違いはない。スピリチュアリズムの短絡性や安易さをインターネットと結びつけようとして完全に失敗している。

現代社会とスピリチュアリティ―現代人の宗教意識の社会学的探究

2011-02-06

クリシュナムルティの悟りと諸法実相/『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 間違えてもこの本を最初に読んではいけない。本書から入ってしまえば、クリシュナムルティをニューエイジの枠に入れざるを得なくなるからだ。ひとたび「不思議大好き→スピリチュアルでござい」という方程式が完成すると、その条件づけから逃れることは難しい。確かに瞑想や悟りは不思議な現象であるが、本来の意味は思議し難いがゆえに不可思議と名づけるのだ。興味津々ドキドキワクワクとは無縁だ。悟りとは、思考の彼方に存在する生命的地平を表す言葉である。


 本書は空前絶後の内容で、経典に位置すべき一書である。独白によってクリシュナムルティの内面世界が赤裸々に綴られているためだ。1961年6月から7ヶ月間にわたって、何かに取り憑かれたかのように書き上げられた。


 6月18日〔1961年ニューヨーク〕

 夕刻、〈それ〉はそこにあった。突然〈それ〉はそこにあって、部屋を壮大な美と力と優しさで満たした。他の人たちも〈それ〉に気づいた。


【『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ/おおえまさのり監訳、中田周作訳(めるくまーる、1985年)以下同】


 巻頭から最後に至るまでこのような記述が続く。クリシュナムルティは27歳の時、啓示的な宗教体験をしている。

 驚くべきことだが、この「プロセス」と称する状態は晩年に至るまで断続的に現れたという。講話の最中に訪れたことも、しばしばだった。確かにDVDを観ると、静かに瞑目した後で開かれた眼には、明らかに聴衆ではなく自分の内側を凝視しているような光がある。


 19日

 夜通し、目を覚ますたびに、〈それ〉はそこにあった。〔ロサンジェルスへ飛ぶ〕飛行機に向かう時、頭が痛んだ。――頭脳(ブレイン)の浄化が必要だ。頭脳はあらゆる意識の中心であり、意識がより注意深く鋭敏であれば、頭脳はより明晰になる。頭脳は記憶という過去の中心であり、経験や知識という伝統の貯蔵庫である。そのため頭脳は限界づけられ、条件づけられている。それは計画し、考え出し、推論する。だがそれは限界の内で、時空の内で機能するのである。従ってそれは全体的なもの、包括的なもの、完全なものを明確に述べたり理解したりすることはできない。完全なもの、全体的なものは心(マインド)である。それは空っぽ、完全に空っぽであり、この空性(くうしょう)の故に、頭脳は時空の内に存在する。頭脳がその制約、貪(むさぼ)り、羨望、野心を自ら浄化した時にのみ、それは完全なものを理解することができる。愛がこの完全なものである。


 明晰さとは思考ではなく感覚である。そしてクリシュナムルティが説く「見る」ことは直観を意味している。思考は時間に支配され、感覚は時間を打ち破る。悟りは思考でも理論でも概念でもない。時間というx軸を稲妻のように縦方向へ切り裂くy軸が悟りなのだ。


 人生は時間的に有限であり、肉体は空間的に有限である。この有限性を突き破ったところに無限が立ち現れる。多分そういうことなのだ。


〔マドラスへと向かう〕混雑した飛行機の中は暑く、8000フィート上空のこの高度においてさえ、涼しくなるような気配を見せなかった。その朝の飛行機の中で、突然全く不意に他性(アザーネス)が到来した。それは決して同じものではなく、常に新鮮で、常に予期せぬものだった。奇妙なことは、思考がそれを反復したり、再考したり、たやすく調べたりすることができないということである。記憶はそれに何の関与もしてはいない。というのもそれは起こるたびにすっかり新しく思いがけないので、後にどのような記憶も残さないのである。それは全的かつ完璧なできごと、事件であるため、後に記憶としての記録を残さない。従ってそれは常に新鮮で、若々しく、思いがけないものである。それは驚異的な美と一緒にやって来るが、それは雲の見事な形や光、限りなく青く優しげな青空のせいではない。その信じ難いまでの美にはいかなる理由や原因もなく、そうであるが故にそれは美しいのである。それはすべての事物を取り集め、感じ、見ることができるように煮詰めたものの精髄ではなく、かつて存在し、今存在し、これから存在するであろう全生命、永劫の生の精髄なのであった。それはそこに存在し、美の猛威であった。


 私はここに、諸法無我から諸法実相への飛翔を見る。空観が空観で終われば、極端なニヒリズムに傾いてしまう危険性がある。一切を空なるものと達観する時、その眼差しは存在として屹立する。


 真空が一切のものを吸い込むとすれば、空とはまさに慈悲の異名なのであろう。生の全体性を悟れば、万物への慈愛が泉のようにこんこんと湧いてくるに違いない。


 法華経(鳩摩羅什訳)において諸法実相は十如是と説かれている。十如是とは、相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたるまでの九つの事柄が究極的に無差別平等であること)を意味する。


 瞬間的な生命の断面に一貫性があることを示したものといってもよかろう。生命が苦しみを感じていれば苦しみの十如是となり、喜びを感れば喜びの十如是が現れる。相だけ苦しいけど、性は喜んでいる状態はあり得ない(笑)。


 クリシュナムルティの独白は悟りの十如是を示したものと私は受け止めた。だが彼は、それを目指せとは言っていない。ここが大事なところだ。「私のように悟れ」となれば、隷属的な関係性が成り立ってしまう。クリシュナムルティはグル(導師)を一貫して否定したのだ。


 夕べの光の真っ只中で、丘陵がさらにその青みを増し、赤茶けた大地がいっそうその豊かさを加えていくと、あの他性(アザーネス)が祝福を伴って、静かに到来した。一瞬ごとにそれは驚嘆するばかりに新しいが、なおかつそれは同じものである。それは破壊と傷つきやすさの強さを伴った限りなき広がりであった。それはそのような充満と共に到来し、一瞬にして過ぎ去っていった。その一瞬はいっさいの時間を超えていた。疲れきった一日だったが、頭脳は不思議にも敏感で、観察者なくして見つめていた。それは経験を伴うものではなく、空(くう)からの〈見ること〉であった。


 何と、悟りとは他性(アザーネス)であった! 悟りとは見出すものではなくして、向こうから訪れるものなのだ。


 ブッダが悟ったのは境地の二法であった。「境」は森羅万象の本来の姿のことで、「地」はその本質を照らし出す智慧を意味する。つまり、条件づけから解き放たれて本来の自分を発揮すれば、智慧の光は他性(アザーネス)を捉えることができるのだ。


 この不可思議の境地をクリシュナムルティは「生の全体性」と名づけた。これが本末究竟等である。

クリシュナムルティの神秘体験 クリシュナムルティ・ノート

(※左が旧訳、右が新訳)