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2011-03-20

喧嘩のできる中東研究者/『書物の運命』池内恵


 普段は殆ど注目されることのない分野から、いきなり頭角を現して世間の耳目を集める本がある。藤原正彦福岡伸一など。池内恵もその一人に加えられる人物である。


 池内は1973年生まれ。私自身が40代後半になったせいもあるが、やはり若く感じる。時代が激しく揺れる時、次の扉を開くのは若者であろう。古来、老人が革命の担い手であったことはない。その意味からも20代、30代の台頭は喜ばしいことだ。


 なにしろ生家にはテレビがなかった。父が「ドイツ文学者」なるものをやっていて、しかもかなり頑固だったので家にテレビを置かないというのである。1960年代半ば、高度経済成長の真っ只中に人々が求めたのは「3C」すなわち「カー、クーラー、カラーテレビ」だったそうだから、私の場合、家庭内の環境としては「戦後すぐ」に等しかったことになる。


【『書物の運命』池内恵〈いけうち・さとし〉(文藝春秋、2006年)以下同】


 冒頭で驚かされるのがここ。なんと彼は池内紀の子息であった。俄然として読む意欲が数倍となる。


 文体は柔にして剛。行間から人柄が浮かび上がってくるようだ。その池内がアラブ研究者の重鎮に異を唱えた。バーナード・ルイス著『イスラム世界はなぜ没落したか? 西洋近代と中東』(日本評論社、2003年)の書評において。


 ルイス本は各紙がこぞって書評欄で取り上げたようだ。監訳者の臼杵陽〈うすき・あきら〉が巻頭に長文の「解題」を記し、バーナード・ルイスがネオコンの中東政策を支える歴史学者であると糾弾している。


 本書では書評とそこに至る経緯が丁寧に記されている。


 この訳書の体裁では、日本では冒頭に付された「非難声明」を介さずにはこの本を読めないようにし、いわば原著を「人質にとって」理解や議論を方向づけていることになる。この出頭をめぐる倫理や社会の基本的なルールにかかわる疑義についても、私の書評で若干苦言しておいた。(「中東問題」は「日本問題」である──バーナード・ルイスの書評から)『イスラム世界はなぜ没落したか?』


 これは至極もっともな指摘である。著者にそのような体裁の許可をとったかどうかも不明だ。一出版社が勝手にこんな真似をしたとすれば、それこそ国際問題にまで発展しかねない。


 海外の「大物」を持ってきて人目を惹いた挙句、相手が反論してくる可能性がほとんどなさそうな条件で(つまり日本語の解説で日本の論壇向けに)言いたい放題を書き、あわよくば批判した「大物」と同等以上の地位にあるかのように自分を印象付けようというのは、「人の褌で相撲を取る」の典型だ。とても誠実な言論のあり方とは思えない。しかし日本の党派的・島国的な論壇ではそれほど珍しくもなく、「許される」どころか「正当なもの」と勘違いされてしまっている手法なのかもしれない。言論において守るべき基本的ルールさえも顧慮されないことが多い学界・論壇の現状を鑑みれば(地位に付随する権限を誇示・行使した妨害や、けん引主義による公式・非公式の圧力・威圧・人格攻撃といった手段が多用される)、こういった問題を正面から批判することに、正直にいって徒労を感じもする。しかし理不尽な暴力に屈せず踏みとどまり、公に発言を続ける人間がいなければ、状況は悪くなるばかりだ。(同)


 池内は主張ではなく手法を問題視しているのだ。しかもその手口に、日本の中東研究のタコつぼ的情況が象徴的に現れているという指摘だ。


 で、こうした背景にはエドワード・サイードに重きを置く中東研究の偏向があるようだ。


 サイードは、主著『オリエンタリズム』だけでなく、ルイスをあちこちで批判している。

 だが、実のところそれは感情論、言いがかりに近いもので、ほとんど批判になっていないと評せざるをえない(というとサイードを神格化する傾向の強い日本の論断には怒る人もいるだろうが)。


 ルイスやサイードをめぐる日本の議論には、奇妙にアラブ世界やイスラーム世界そのものの姿が希薄である。つまり「アラブ」「イスラーム」「中東」というものも理解のあり方をめぐって、日本人のあいだで対立が生じているように表面的には見えても、少し検討してみるとそれは「中東めぐる問題」などではなく、なによりも「日本をめぐる問題」なのである。


 私は中東に詳しいわけではないため判断のしようがない。だがそれでも多様な考えがあってしかるべきだという池内の主張は理解しやすい。


 たぶん狭い世界であろうから、それ相応の反動やバッシングもあったことだろう。池内は喧嘩のできる男であった。勇気、ではあるまい。ただ、そうせざるを得なかったのだ。なんとなくそう思う。


 書評で取り上げられた作品で食指が動くものは少ない。それでも文章が心地よい風のように通りすぎてゆく。好青年──そんな言葉がこの著者には合う。

書物の運命

2009-04-12

歴史の中心軸を転回させる/『〈狐〉が選んだ入門書』山村修


〉こと山村修はとにかく文章がいい。多分、敢えて易(やさ)しい言葉を使い、意図的に豊穣なる部分を割愛しているはずだ。このようにして彫琢(ちょうたく)を極める文体が生まれる。


 以下は、岡田英弘著『世界史の誕生』(ちくまライブラリー、1992年)を評した一文――


 歴史を考えるとき、モンゴルのように、それまで周縁的としか思われてこなかったもの、むしろ排除されてきたものを軸として、歴史の見かたをガラリと転回させることができる。『世界史の誕生』を読み、私はそのことに感動するのです。史料の徹底的な探索をもとに、だれも思いもしなかった方向へ歴史イメージをかえてしまう。地道な学問的努力と、史的想像力の切っ先のするどさに心を打たれるのです。


【『〈〉が選んだ入門書』山村修(ちくま新書、2006年)】


 本書で紹介された作品をいくつか読んだが、『世界史の誕生』が一番面白かった。歴史とはパラダイムそのものであり、歴史の中心軸を転回することはそのままパラダイムシフトとなる。


 それにしても、「史的想像力の切っ先のするどさ」という表現がお見事。岡田本を読んだ人なら、誰もが膝を打つはずだ。山村修の言葉はモヤモヤを払拭してくれる。脳内のシナプスが交通整理されたようなスッキリ感を味わえる。


 ただし注意点が一つあって、山村の文章に酔い痴れるあまり、紹介されている本に次々と触手を伸ばすと、「何だよ!」ってなことになりかねない。本の選球眼に関しては私に分(ぶ)がある(笑)。

“狐”が選んだ入門書 (ちくま新書)

2008-08-03

西田幾太郎の人生/『〈狐〉が選んだ入門書』山村修


 哲学者の西田幾多郎が、京都大学退職のおり、「回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」と語っています。


【『〈〉が選んだ入門書』山村修(ちくま新書、2006年)】


 痺れるね〜。たまらん。人生を簡潔にスケッチする様が、ハードボイルドの領域に達している。極端なまでに削ぎ落とされた世界を想像せずにはいられない。圧倒的な余韻をはらんでいる。西田幾太郎が描く自伝は、膨大な「空白」で描かれている。我々は、その潔さに頭を垂れるのだ。

“狐”が選んだ入門書 (ちくま新書)

2008-06-15

『読者は踊る タレント本から聖書まで。話題の本253冊の読み方・読まれ方』斎藤美奈子


 発売当初から絶賛された書評集を今頃になって読んだ。ウーーーム、確かに凄い。奇をてらったものではなく、それなりに王道だと思った次第。ただ、言い回しがキャピキャピしているので、「パワーアップした中野翠」といった感がある。


 とにかく、本の海を泳ぐのが巧み。一見すると、茶目っ気が毒舌を和らげているようにも見えるが、「計算されたあざとさ」にも見える。


 例えば、芥川賞・直木賞をバッサリと切り捨てている部分――


 そもそも芥川賞・直木賞とは何なのか。選考委員が全員作家である(批評家がいない)点に注目したい。つまり両賞は、新しい作品を見きわめて励ますためのものではない。新人作家の中から自分たちの仲間に入れてやってもよさそうな人材を一方的にピックアップする、一種の就職試験なのですよ。選考委員はいわば文壇の「人事部」で、だからこそ受賞予備軍の人たちが結果に一喜一憂したり、受賞者が記者会見で大袈裟な挨拶をしたりするんだよね。とすれば、私ごときが○×つけたりすること自体、越権行為も甚だしい。会社の人事のことは社内の人に任せるしかない。


「就職試験」と馬鹿にしておいてから、自分が書評することを「越権行為」と位置づけている。慇懃(いんぎん)な態度に出ることで、更に馬鹿にしているのだ。


 わかりやすい文章でサクサク読めるのだが、段々疲れてくる。それは、斎藤女史の優れた知性に、数々の本も読者もついて行けなくなるためだ。知性は往々にして「鋭い批判」となって鉈(なた)を振るう。どうしても批判が多くなるため、こっちの頭が殴られ続けるサンドバック状態となるのだ。そして、紹介されている本に食指が動かなくなる。ただただ、斬り捨てられた本に対して合掌し、瞑目するのみである。南無――。


 それでもね、内容の本質を数行で言い表す力は凄いよ。しかもこの本が上梓された時、斎藤女史は42歳だから、今の私よりも若いことになる。恐るべき逸材といっていいだろう。


 それと、タイトルが『読者は踊らされる』となってないところがミソ。飽くまでも読み手の主体性を重んじる気風が感じ取れる。


 佐藤優氏と対談させてみたいね。異才同士が放つスパークに、二日酔いさせられそうで興味深い(笑)。

読者は踊る (文春文庫)

2004-11-05

『狐の書評』狐


 人は、自分が好むものを褒められ、自分が嫌うものを貶(けな)されると快感を覚えるようだ。


 たまたま、ネットを渉猟していたところ、「」と名乗る匿名書評家がいることを知った。イエロージャーナリズムの代表選手といえる「日刊ゲンダイ」で健筆をふるっている模様。この手のメディアは私の嫌悪するところなので、知りようがなかった。


 検索したところ、復刊ドットコムのこんなページを発見丸山健二の『野に降る星』を褒めてるとすれば、何としても入手する他なかった。


 文章はヒラリヒラリと蝶の如く舞い、該博な知識が顔を覗かせるものの嫌味なほどではない。晦渋(かいじゅう)な表現は退け、本に寄り添いながらも溺れることのないバランス感覚が光っている。ま、夕刊紙に掲載される書評だから、小難しく書くわけにもいくまい。いずれも、800字という土俵で、活字が風のように舞い、吹き抜ける。


 それにしても、心憎いばかりの表現が多い。先ほど書き上げた、『となりのひと』を読んだのも、氏が書評で取り上げていたからだった。事前に読むと、影響されてしまうので、書き終えてから本書を開いてみた。


 書き出しはこうだ――


 破滅的なほどの狂気ではない。ほんの微量を抽出できるくらいの、ささやかな異常である。


 そして、締めくくりはこう――


 暮しに一滴の異常がしたたる。衣食住のすみずみに、気づかぬくらいに淡い色の、あるいは気づいてもあくまでルーチンな色彩の狂いがにじむ。


 カアーーーッ、逆立ちしてもかないませんなあ(笑)。


 丸山健二の『野に降る星』はこうだ――


 情け容赦もない、がちがちに氷結したような文章だ。書きながら、作家は血くらい吐いているのではないか。


 そして、「きつい、きつい」を連発し、この作品を音読で読むよう勧めて、こう結ぶ――


 この荒ぶる小説は、黙って読んでへこたれたら負けだ。


 本の選択は幅が広く、プルーストからイッセー尾形に至るまで、固かろうが軟かろうが、ムシャムシャと咀嚼している。これほどの知識がありながらも、ペン先は枯れてなく、むしろ壮(さか)んな印象が強い。ということは、容疑者から田村隆一は除かれる(笑)。私がまだ読んだことのない高橋源一郎か林望に当たりをつけていたが、両者の作品も取り上げられていた。胆力の強さが開高健を彷彿(ほうふつ)とさせ、ちょいと洒落た言い回しが向井敏を思わせ、視線の軽やかさが芥川喜好を想像させる。


 殆どの書評に食指が動く。プルーストの『失われた時を求めて』(筑摩書房)なんぞは、一生、お目にかかることはあるまいと思っていたが、こんな文章を目にすると、「いつの日か……」などと妙な希望が湧いてくる。


 翻訳完結にあたって、ある詩人は、「一気読みの好機の到来」と書いているが、それはどうか。一気読みで挫折するより、ゆっくり、ゆっくり時間を失いながら読みたい。小説に書かれた19世紀末フランスの小都市における主人公と同じように、読み手自身もじんわりと時間を失速させていく。この小説を読む快楽はそこにある。


 いずれにせよ、どの書評も、何らかの興味や関心に火をつけることは、私が請け合おう。中にはハズレもあるかも知れないが、それはそれで、「に化かされた」と思えばいいのだから。

狐の書評


付記


 現在、容易に入手できるのは、『水曜日はの書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』(ちくま文庫)のみとなっている。書店へ走った方がよろし。


追記


 人気があるようで何冊か刊行されていた。以下に紹介する――


書評家〈狐〉の読書遺産 “狐”が選んだ入門書 水曜日は狐の書評 ―日刊ゲンダイ匿名コラム