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2010-10-12

マルクス主義的な欺瞞の臭い/『「悪」と戦う』高橋源一郎


 人は仕事とプライベートでは異なる顔をしている。職場の嫌われ者がよき家族の一員であったとしても驚くことではあるまい。


 高橋の『13日間で「名文」を書けるようになる方法』を読んだ人であれば、手に取らずにはいられない作品だ。主人公はランちゃんとキイちゃんという3歳と1歳の兄弟。キイちゃんは言葉の発達が遅れているという設定なのだが、高橋の実子が同様の症状となっていたのだ。『13日間』の授業では、病める子を受容する父親の覚悟が赤裸々に語られている。


 読み始めて直ぐ挫けそうになった。やめてもよかったんだが、やはり結論を知りたい誘惑に勝てなかった。ま、売れっ子作家が「いまの自分には、これ以上の小説は書けない」と自信を見せるくらいだから、出版社としては贅沢な作りにしたのだろう。信じられないほど行間が広く、改行が多い。


 因(ちな)みに私は、ネット上の文章で改行の多いものは読まないことにしている。やたらと句読点で改行している文章を時折見掛けるが、女子中学生の日記みたいで薄気味悪い。小田嶋隆の改行が許容限界である。


 この物語は人間の悪意を描いている。パラレルワールド(多重世界)を通して「悪の相対化」を試み、絶対性を換骨奪胎しようとしたのだろう。


 高橋はポストモダン文学の旗手と言われているらしい。確かに分かりやすい文章でありながら、深い哲学性を窺わせる内容が見受けられる。


「なるほど。どんな遊びをするのかな」

「だっだっ」

「ぼくのつくったものをこわしたいんだって」

「おまえはそれでいいのかい?」

「いいよ」

「ランちゃんが作ったものを、キイちゃんが壊す、そこにどんな意味があるのかな?」

「ぱぱ」

「なんだね?」

「『いみ』って、なに?」

「そうだね。それをすると、褒(ほ)められるようなことじゃないかな」

「じゃあ、『いみ』はないとおもうよ。ぼくはつくりたいし、きいちゃんはこわしたい。おもしろいからね」


【『「悪」と戦う』高橋源一郎河出書房新社、2010年)】


 ランちゃんの言葉は、生産や経済の意味を放擲(ほうてき)する。我々大人は人生に意味を求めるあまり、生産性は経済性で人生の価値を測ってしまいがちだ。


 母親が子供を育てる。多分そこに意味は無い。ただ愛(いと)おしくて、子を抱き、乳を与えるのだろう。我々は意味を求めるのは自分の行為に疑問を抱く時である。


 遊びにも意味は無い。ただ楽しいから遊ぶ。子供の時分を思い出してほしい。将来のことを考えて遊んだ人はいないはずだ。


 悪を炙(あぶ)り出すリトマス紙としてミアちゃんが登場する。ミアちゃんは人が目を背けるような醜い外見をしていた。


「わたしは」と「ミアちゃん」のお母さんはいいました。ふりしぼるような声でした。

「……『悪』と……戦っているのです」


 これは失敗だと思う。悪が醜悪へと変質してまっているからだ。確かにエレファントマンみたいな人物を見れば、我々はじっと見つめ直後に罪悪感を覚える。本人は好きで醜い姿となって生まれてきたわけではないのだ。


 本書の中で高橋とおぼしき父親が「私は唯物主義者だ」と答える場面がある。きっと実際にそうなのだろう。物語の構成や文章の端々に作為が感じられる。まるで「文章の中央集権体制」みたいだ。


 ミアちゃんという特異な人物造形や、パラレルワールドという都合のよい展開、散りばめられた暴力シーンなどが、どこかスターリン毛沢東を思わせる。


「見る」という行為について書かれた箇所があった。


 違うのです。

 わたしたちは、ふだん、なにも見ちゃいないのだ。決まってるじゃないですか。ちらっと一瞥(いちべつ)して、わかったと思う。それだけです。「見ている」のじゃない。ただ「目に映っている」だけなんです。

「目に映っている」ものの正体がなにか、それがわかれば、そのことを「見る」と称しているのです。そして、その正体というものも、自分で確かめたわけではなく、テレビや雑誌に出ているので、なんとなく、そういうものだと思いこんでいるだけなのです。

 もちろん、わたしだって同じです。

 わたしは、一度だけ、「茶事」というものに出席したことがあります。そして、「茶道」の本に書いてある通り、小さな茶室のくぐり戸に半身をこじ入れて、薄暗い室内を覗いたり、それから、無理矢理、体を斜め前方に倒して、つまり、ひどく不自然な格好をして、掛け軸や、瓶に挿(さ)した花を眺めているうちに、あることに気づいたのです。

 茶室は、どうしてあんなに暗いのか。どうして、あんなに置いてある「もの」が少ないのか。そして、どうして、その少ない「もの」を、凝視しなくちゃならないのか。

 なにかを「見る」ためには、明るい方がいいに決まっている。なのに、わざわざ部屋を暗くなんかしちゃって、「茶道」を文化の王様にした、あの利休(りきゅう)とかいう人は、頭がおかしいんじゃないだろうか。

 いや、そうではないのです。あの、小さな部屋は、「見る」ということはどういうことなのかを、鈍感(どんかん)な人間に教えるために、存在しているのです。


「見る」ためには、全身全霊(ぜんしんぜんれい)を賭(か)けて、そのためには、目が、その「見る」べき対象に、くっついてしまいそうになるぐらい近づかなきゃならない。そういうことを知らせようとして、利休さんは部屋を暗くしてしまったのです。


 これは上手い。さすがだ。クリシュナムルティに通じるものがある。視覚は光の反射を捉えることで空間を認識している。触角だと手の届く範囲の世界しか理解できない。目は私と世界を結ぶ窓である。


 ここで高橋が言いたいのは集中と注意であろう。対象に向かって全身を傾けて見つめる。見るものと見られるものの差異が消失するまで見る。自分自身が視線と化した時、見るものと見られるものは一つになる。これがブッダの説いた縁起の世界だと思う。視線とは関係性である。


 パラレルワールドを経て世界の危機的状況が明らかになる。マホさんというトリックスターが登場するが、これはマホメットのマホなんだろうね。嫌なネーミングだよ。マホさんを正義の味方にすることで暗にキリスト教を批判しているように感じた次第。


「世界はね、実はとても壊れやすいの。すっごく繊細(せんさい)。放っておいたら、すぐ壊れちゃう。でも、なんとかいままでぶっ壊れずにすんでた。それは、なぜだか、わかる?」

「わかんない」

「直してたから。補修(ほしゅう)していたから。みんながちょっとずつ」


 これまた実に巧みなセリフだが、世界が壊れやすいという発想が唯物主義の臭いをプンプン放っている。


 無名の人々が善意を施すことで世界は成り立っていると考えることも可能だが、高橋の計算高い文章が政治的思惑を感じさせる。


 全く個人的な話ではあるが日本共産党が大嫌いである。彼らは政治的思考に人間をはめ込むようなところがある。そしてプロパガンダと称して平然と嘘をつく。


 またソ連や中国が自国の国民を大量虐殺してきたことも歴史的事実である。そんなこんながあって、どうしても私はマルクス主義を好きになれない。


 マルクスを読んだこともないのにマルクス主義を批判するのは片腹痛い。でも嫌いなものは嫌いなんだからしようがない。文句があるならマルクスの手下に言ってもらいたい。


 不勉強なこともあって唯物主義=マルクス主義なのかどうかもわからない。もちろん高橋が左翼政党を支持しているのかどうかも知らない。しかし敢えて、マルクス主義的な欺瞞の臭いがすると言い切ってしまおう。


 この作品は唯物主義へと誘(いざな)うことを目的としたプロパガンダ小説である。文学が手段と成り下がっている。


『13日間』では見事なリベラル性と、しなやかな言葉で文学を語っておきながら、いくら何でもこれはないよなー、というのが率直な感想である。

「悪」と戦う さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

2010-09-10

物語に陶酔する/『廃市・飛ぶ男』福永武彦

    • 物語に陶酔する

 物語に陶酔する。福永が作るのはストーリーの建築物である。登場人物は影絵のようなものだ。結構がシルエットを際立たせることで、登場人物は普遍性を帯びる。


 絢爛なタペストリーを思わせる短篇集である。『鳥 デュ・モーリア傑作集』に匹敵する作品といってよい。作風も似ている。読み比べてみるのも一興であろう。


 デュ・モーリアの「モンテ・ヴェリタ」に対し、福永の「未来都市」と「飛ぶ男」は同じ光を放っている。まるで宝石のように。SF的手法で宗教的な世界を描き出しているのも同じだ。


 ――しかし動機なんて、何の役にも立ちませんよ。現代は死ぬための動機に充満しているんです。そういう時代なんです。問題は、生きるための動機を見つけ出すことで、死ぬための動機じゃありません。

 ――生きるための動機なんかあるものか、と最初の男が怒鳴った。我々は生きているんじゃない、生き【させられて】いるんだ。だから死ぬ権利だってある筈(はず)だ。(「未来都市」)


【『廃市・飛ぶ男』福永武彦(新潮文庫、1971年)以下同】


 絶望した画家が「自殺酒場」という飲み屋に入る。アルコールが客の心に火を放つ。男達は吐き出すように生と死を語り出す。


 その時だった。塑像のようにじっと僕等の前に立っていたバアテンが、初めて重々しく口を開いた。それは幾分嗄(しわが)れた、深い地の底から轟(とどろ)いて来るような声だった。

 ――死にたければ、特別のカクテルをつくりますよ。


 客の中で一番悲しむ人が少ない者が選ばれた。主人公の画家だった。バーテンは淡々と更に語った。


 ――死が終りとは限っていない、それはひょっとしたら初めかもしれないでしょう。それは虚無ではなくて希望かもしれませんよ。


 バーテンのニヒリズムに満ちた言葉は限りなく甘い。そして死へと誘(いざな)う。「僕」は杯を呷(あお)った。気がつくと未来都市へ案内されていた。


 ここから神話的な展開となるのだが、科学と政治が進歩しきった世界が描かれている。そこは哲学者が君臨して、社会全体が完璧にコントロールされているユートピアだった。


 主人公が選んだ自由は、芸術家特有の放埒(ほうらつ)さがあって、とても思想的に評価できる代物ではない。それでも自由を考える手掛かりになっている。現実世界では生きる気力を失った「僕」が、虚構世界では本能の命ずるままに生を燃焼させているのも面白い。


 ユートピアが象徴しているのは「死」であった。とすると、酒場で毒杯を呷る一瞬の心理を物語化したと考えることもできよう。現実を否定した「僕」が、肯定し得る現実(ユートピア)をも否定するのだ。


 崩壊するユートピアと、そこから逃げ去る主人公。ここでまた二重の構造が描かれる。ただし、酒場では死へと向かった方向性が、ここでは生へと方向転換をしている。


 すまん。まとまらなくなってきた(笑)。


「飛ぶ男」はもっと不思議な小説だ。意識と肉体が乖離(かいり)しているのだ。重力を感じる肉体と、それを上から見下ろす意識が描かれている。


 しかしドアは再び金属的な響きと共に閉じ合される。一人だ。そしてエレヴェーターは落ちて行く。撃たれた鳥のように、隕石(いんせき)のように、落ちて行く。

 その瞬間に意識が止る。意識が二分される。一つは彼の魂、それは動かない、それは落ちない。それは依然としてあの高さ、8階の高さの空間の中にある。その鳥は依然として空中を飛ぶ。その隕石は依然として宇宙空間の中にある。もう一つは彼の肉体、それは動く、それは落ちて行く。エレヴェーターと共に烈しく落下する。撃たれた鳥のように、隕石のように。その二つとも彼だ。彼の意識は二つに分れ、その距離が見る見るうちに遠ざかる。垂直に。(「飛ぶ男」)


 スゲー文章だわな。何も書く気がしないよ(笑)。透明感を湛(たた)えた文章が死に向かって転落してゆく。そうでありながら上昇する物語なのだ。


 ウーム、まとまらない。もう一度読む必要がある。まったく太刀打ちできない(笑)。


 最後に付言しておくと、「写真家」(デュ・モーリア)と「影の部分」も異様なエロティシズムが酷似している。

廃市・飛ぶ男

2010-05-26

物語の結構を名文が支える/『忘却の河』福永武彦


 さしたる興味も湧かない物語をぐいぐい読ませる筆力がある。透明感を湛(たた)えた文章、引き締まった文体、揺るがぬ小説の結構……。前にもこのような作品と出会ったことがある。読み進むうちに思い出した。ローリー・リン・ドラモンドの『あなたに不利な証拠として』だ。ストーリーの好き嫌いは無視して、精緻な文体の前に読者はひれ伏すこととなる。


 ありふれた上流家庭が、それぞれの視点から描かれている。日常の小さな嘘と裏切りが、やがて人生の大いなる偽りと化す。忘却の河を流れているのは記憶の束であった。過去は軛(くびき)となって現在を束縛する。著者は不信と疑念を絶妙な筆致ですくい上げる。


 父親は若い女と密通していた。しかしながら浮気とか火遊びと称するほどのものではなく、なりゆきから結び合った二人であった。息抜きというのも相応(ふさわ)しくない。家族の目を盗んで捨て猫を育てているような心境に近い。腐臭が漂う日々の中で男は女に虚を衝かれた。


 私は身体を立て直しても、そのまま、10階建てのビルのこちら側の面をまじまじと見詰めていた。窓という窓は昨夜来の横なぐりの雨に叩(たた)かれてすっかり濡(ぬ)れ、そこに今、朝の烈(はげ)しい日射(ひざし)が射していた。それは無数の、涙に濡れた眼だった。四角な硝子の眼。どの眼も雫(しずく)をしたたらせながら、朝の太陽の新鮮な光を貪(むさぼ)るように吸い込んでいた。四角な眼、眼、眼。縦にも横にも、整然と連なったまま、これらの眼はひとしく私を見詰めていた。私ひとりを見詰めていた。

 その時、この偶然が私に齎(もたら)したものを何と名づけたらよかったろうか。眩暈(げんうん)だろうか、放心だろうか、感動だろうか。私はこんなに数多くの眼を一度に見たことはない。それらの一つ一つが生きて、泣いて、訴えて、私の心の奥底を覗(のぞ)き込んで、何かを私に語っていたのだ。お前は忘れているのか、忘れたままで生きていることが出来るのか、と。いや、そうではない、もっと別のことを言っていたのだ。私たちはお前を見ているよ、と。そう、ただそれだけのことを語っていた。無心に語っていた。そして私の方が見られていることを強く意識したあまり、私の経て来た時間が私にとって何であったかを反省せざるを得なかったのだ。その眼は彼を見ていた。その二つの落ち窪(くぼ)んだ眼窩(がんか)を彼を見ていた。


【『忘却の河』福永武彦(新潮社、1964年/新潮文庫、1969年)以下同】


 父親の意識に生じたのは「死者の目」であった。戦地で仲間を看取った出来事や、彼にまつわる出生の秘密が交錯して、生と死がモノクローム化して物語全体を覆っている。


 窓は穴である。窓は空白だ。そうでありながら窓は世界を映し出している。


 彼が反省したこと。それは戦友との約束を果たしていなかったことだった。最終章で戦友の家族を訪ねるが、劇的なことは何ひとつない。むしろ逆だ。物語はここから一気に死の臭いを放つ。


 川幅の狭いこの川の向う側は、先程私が佇(たたず)んでいた筈の片側道で、そこには月明りが射(さ)していたが、川は暗く澱(よど)んで、水が流れているようではなかった。それはただ深く抉(えぐ)られた地の底のように見えた。そこには人間のさまざまな過去の回想が悔恨と執念とを籠(こめ)めて蠢(うごめ)いているように見えた。


 私は昔ギリシャ神話を読んで、うろ覚えに忘却の河というのがあったのを覚えている。三途(さんず)の河のようなものだろう、死者がそこを渡り、その水を飲み、生きていた頃の記憶をすべて忘れ去ると言われているものだ。しかし私にとって、忘却の河とはこの掘割のように流れないもの、澱んだもの、腐って行くもの、あらゆるがらくたを浮べているものの方が、よりふさわしいような気がする。この水は、水そのものが死んでいるのだ。そして忘却とはそれ自体少しずつ死んで行くことではないだろうか。あらゆる過去のがらくたをその上に浮べ、やがてそれらが風に吹かれ雨に打たれ、それら自身の重味に耐えかねて沈んで行くことではないだろうか。


 記憶は腐る。なぜなら記憶は成長することがないからだ。同じ記憶を思い出すごとに現在の自分を腐らせてゆく。「昔はよかった」という人は、「今がよくない」と白状したも同然なのだ。


 父親が死をひたと見つめた瞬間に、澱(よど)んだ河が海に注がれるような変化が訪れる。そこには変わりない家族の姿があった。かけがえのない家族の姿が。

忘却の河 (新潮文庫)

2010-05-22

外交官が描いたインドの現実/『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ


 2009年のアカデミー賞で8部門を受賞した映画『スラムドッグ$ミリオネア』の原作。これを書いたのがインドの外交官というのだから驚く。


 書き出しはこうだ――


 僕は逮捕された。クイズ番組で史上最高額の賞金を勝ちとったのが、その理由だ。

 警察は昨日の夜更けにやってきた。野良犬さえねぐらに帰るほどの時間だった。彼らはドアをけやぶり、僕に手錠をかけ、赤いランプが光るジープまで歩かせた。


【『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ:子安亜弥〈こやす・あや〉訳(ランダムハウス講談社、2006年/ランダムハウス講談社文庫、2009年)以下同】


 取り調べを担当した刑事が息巻く――


 ゴードボーレーは愛想笑いを浮かべて言う。「お任せください。この小僧を締め上げてやって、マハトマ・ガンジーの暗殺だって白状するぐらい素直にしてやりますよ」


 貧困は不正の湖に浮かんでいる。案の定、少年ラムは拷問される。自白を引き出すのはただ単に時間の問題と化す。暴力は自由だ。望むものを手に入れることができるのだから。「自由の国アメリカ」は「自由に暴力を振るえる国」という意味に他ならない。


 日本における貧困は相対的レベル(=心理的レベル)にとどまっているが、インドのスラム街においては生き死にがかかった次元となる。だから生きるためとあらば何でもする。これが犯罪の温床と化すわけだ。犯罪といっても日本人の想像を絶するようなものもある。

 あるいはこうだ――


「パンジャブのドーラ王の神殿あたりにはたくさんいるんだ。“ラット・チルドレン”(ドブネズミの子)って呼ばれてる」

 見世物にするために、生後間もない頃から孫悟空のような輪を頭にはめられる子供達がいる。生き延びるための幼児虐待。


 インドの現実が物語の細部を鉄筋のように支えている。更に成長譚でありながらも、そこここに死の気配が漂っている――


 でも僕は、ダラヴィでは少なくとも一人ぼっちではない。僕と同じような100万人の人間が、この200ヘクタールの三角地帯で暮らしている。都会のすきまのじめじめした場所で、人々は動物のように生き、虫のように死んでいく。


 クイズで獲得した10億ルピーの賞金は単なる成功を象徴しているのではない。宗教対立、貧困、暴力、不正といったマイナス価値を反転させる「相対性の仕掛け」なのだ。その意味で相反する価値観を見事に描き出したモノクロ写真のような秀作となっている。

ぼくと1ルピーの神様 ぼくと1ルピーの神様 (ランダムハウス講談社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)


スラムドッグ$ミリオネア [DVD]


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2010-03-22

認知症の生々しい描写/『一条の光・天井から降る哀しい音』耕治人


 昔から記憶喪失や認知症に興味を覚えてならなかった。「自分」という存在の危うさや儚(はかな)さを表出しているように思えた。「私」を形成しているのは、「私」の過去であり、それは記憶である。つまり記憶が失われてしまえば、「私」は「私」でなくなるのだ。「私」の姿形をした別人がそこに現れる。


 動物には「自我」がないとされている。知能が発達しており、政治性の強いチンパンジーやボノボにも、多分自我は存在しないことだろう。なぜなら、言葉がないからだ。「私」という言葉がない以上、自我の概念が形成されることは考えにくい。


 日本の認知症患者数は1990年に100万人を突破している。アルツハイマーだけでも60万人という数になっている。記憶障害だけでも家族にとってはショック極まりないことだが、その上徘徊(はいかい)をするようになると付きっきりで見守る人が必要となる。強烈なボディブローを何発も食らったような情況は避けようがない。


 この短篇小説は私小説なので事実が元になっていると思われる。50年間連れ添った妻が認知症となる。奇妙な行動が徐々に、だが確実にエスカレートしてゆく。まさしく、「壊れてゆく」有り様が静かな筆致で綴られる──


 落ちた家内は、私に背を向けているから、顔の表情はわからない。急いでシャツとズボンに着替え、両脇に手を入れ、起こしにかかった。重くて、抱き上げられない。起きる気持がないのだ。

 二、三度こころみたあと、どうしたらよいか寝間着の裾の方をぼんやり見ていると、静かに流れ出、畳を這い、溜りを作った。

 呆然と見ていたが、これも50年、ひたすら私のため働いた結果だ。そう思うと、小水が清い小川のように映った。

「起きなさい。いま体を拭いてあげるからね」

 気力を奮い立たせ、抱き上げようとしたら、すっぽり抜け、私の脚もとにうずくまった。私の首筋は棒のようで、右にも左にも動かない。肩は石のようになって、力が入らない。起こすのをあきらめ、台所にゆき、湯沸器に点火し、沸くと、ポリ容器に移した。それから家内の体を避け、雑巾で、小水の溜りを拭き出した。すると家内は起上り、ベッドの縁に腰掛けた。

「しめた」と思い、容器の湯を取りかえ、手拭をしぼり、家内の腰から脚の爪先まで拭きはじめた。家内はその私を見ていたが、

「どんなご縁で、あなたにこんなことを」と呟いた。

 私はハッとした。(「どんなご縁で」)


【『一条の光・天井から降る哀しい音』耕治人〈こう・はると〉(講談社学芸文庫、1991年)以下同】


 この時、妻はまだ夫を認識していた。それにしても、妻の言葉が肺腑(はいふ)を衝く。かすかに残る記憶を手繰り寄せた瞬間、天啓のような一言がこぼれた。


 残された夫の記憶と失われてゆく妻の記憶とが交錯する。だが、それすらも木端微塵となる──


 家内はニコニコし、なにか喋っている。入れ歯がないせいもあって、なにを言っているのかわからない。このことは信夫も言っていたし、Yさんも言っていた。

 私は家内の手を握っていたが、冷い。やはり涙はとまらない。鼻みずを拭くため、細長いテーブルにのっていたティッシュペーパーを、箱から引張り出そうとしたら、残り少くなったせいだろう、うまく出てこない。家内がふところに手を入れ、紙をさがしている様子だ。ご婦人が気付いて、立ち上り、家内の袂から、鼻紙を出された。

 そのとき私は引張り出したティッシュペーパーで鼻みずを拭いていたが──。

 このあいだにご婦人が何度か「この人は誰ですか」とか、「このかたがご主人ですよ」

 などと言われたが、返事をしなかった。

 何度目かに「ご主人ですよ」と言われたとき、「そうかもしれない」と低いが、はっきりした声でいった。

 私は打たれたように黙った。(「そうかもしれない」)


 夫婦である記憶が抜け落ちた瞬間に関係性は消失する。後は一方的な働きかけしか残されていない。


 介護を必要とする人がいて、介護をする人がいる。認知症は進行を遅らせることはできても、よくなることは決してない病気だ。それでも、人は何かをしてあげれば「見返り」を求めずにはいられない。感謝の言葉もなく、挙げ句の果てには罵倒されることも珍しくない。そんな情況において「家族だから」という理由だけで、介護を続けられるものではあるまい。


 何にも増して、家族だけでカバーすることは時間的にも不可能だ。当然、ヘルパーや施設の手を借りることとなる。「老いる」とはそういうことなのだ。


 誰もが有終の美を飾ることを望み、豊かな老後に憧れる。夕日が荘厳に沈みゆくような晩年でありたいと希望する。


 そんな幻想を粉砕する力がこの小説にはある。誰が認知症になるのか、それはわからない。親か、妻か、あるいは私か──。こうした覚悟を読者に迫る作品だ。

一条の光・天井から降る哀しい音 (講談社文芸文庫)