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2010-05-29

片麻痺患者の体性感覚/『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三


 脳血管障害で左右いずれかの半身に麻痺症状が現れることを「片麻痺」(かたまひ)という。昔は半身不随といわれたが、これだと下半身なのか左右なのかがわかりにくい。


 脳内の血管が詰まったり(梗塞性)破れたり(出血性)して何らかのダメージを負うと、身体機能が部分的に損なわれる。片麻痺患者の多くは嚥下障害(えんげしょうがい)や失語症を伴う。


 認知運動療法は身体イメージを把握することから始まる。では片麻痺患者の身体イメージはどういったものなのか――


 複数の脳卒中麻痺患者に、目を閉じて、自分の身体を感じてみることを要求し、その状態をより詳細に聞いてみる。すると、驚くべきことに、多くの患者が訴える身体空間は、いわゆる目に見える身体のような姿や形をしていない。

 まず、片麻痺の体性感覚を詳細に検査すると、身体各部の構成部分が何ヵ所も欠損している場合が多い。たとえば「足に触れる感触は踵(かかと)と足底の外側だけで、足の上部はまったくなにも感じない、また、足指は動かされてもまったく感じない」と訴えた患者がいた。「目を閉じれば足指の何本かが欠落しており、その先端のみ微かに存在している。下肢は膝から下が存在せず、足部は遠く離れていて、踵と拇趾(ぼし)の一部は存在しているものの、その他の足の表面は欠落している」と訴えた患者がいる。

 つまり、目を開ければ手や足の全体的な形態は確認できるが、目を閉じれば手足の欠損部分が何ヵ所かに分散しており、一つの形態としての全体性がないように感じているのである。そして、漠然と「白い霧がかかったようだ」と足部の現実感のなさを比喩(メタファー)に変えて訴えることが多い。


【『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三〈みやもと・しょうぞう〉(講談社現代新書、2008年)】


 これはもう「人間MRI」といっていいだろう。患者が語る感覚は、まだらになっている脳の状態そのものと思えてならない。人間の感覚とはかくのように鋭く、正確なのだ。


 視覚イメージと感覚イメージとの乖離(かいり)――つまり、「見える世界」と「感じる世界」がバラバラになってしまっているわけだから、認知レベルでも心理レベルでも混乱状態に置かれているといってよい。そんな凄まじい世界で彼等は生きているのだ。


 昨日、買い物に行った。帰る道すがら私は左手に5kgの米を、右手には買い物袋をぶら下げていた。この状態が一生続いたとしたらどうなるだろう?


「ここに入ってこられる方は、病気やけがと闘って、脳に損傷を受けながらも生き残った勝者です。勝者としての尊敬を受ける資格があるのです。みなさんも患者さんを、勝者として充分に敬ってください」


【『壊れた脳 生存する知山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年/角川ソフィア文庫、2009年)】


 身体障害者は障害という極限状況を生きる人々である。その意味で健常者にとって未踏の険難に挑んでいる人々といってよい。しかし、資本主義に毒されてしまった我々の価値観は人間を、生産や労働でしか測(はか)れなくなっている。金の奴隷と化した人間からすれば、障害者はお荷物でしかない。


 明らかに間違っている。否、狂っているというべきだろう。我々の視線は既に人間を捉えることができなくなってしまった。技術や才能、自分にとって役に立つか立たないか、そういった損得勘定で人間を測っているのだ。質量×距離×時間だ。


「障害者のために何かしたい」という気持ちはもちろん尊い。しかし本当は、障害者に教えを請うべきなのだ。誰よりも生の厳しさと豊かさを知る先達と仰ぐことができれば、社会は幾分まともになっていることだろう。

脳のなかの身体―認知運動療法の挑戦 (講談社現代新書 1929) (講談社現代新書)

2010-04-13

視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

 子供の時分から「目が見えること」が不思議でならなかった。超能力や超常現象よりもはるかに不思議である。「幽霊を見た」ことよりも、まず目が見えることを驚くべきなのだ。


 もちろん視覚だけではない。五感のすべてが同じように不思議だ。それは結局、感覚器官を司る脳の不思議であった。ここ数年にわたって脳や視覚に関する書籍を読んできて、ブログにもわざわざ「視覚」というカテゴリーを設けている。本書は視覚に関する決定版であると断言しておこう。


 長い間、目は「見えている」と考えられてきた。つまり、カメラが写真を撮影するように目蓋(まぶた)を開けば、そこに世界が映るというわけだ。ということは万人が同じ世界を見ていることになる。


 思春期の私が疑問を抱いたのは「あばたもえくぼ」という諺(ことわざ)だった。惚れてしまえば、ニキビの痕(あと)もえくぼに見える。友人から「好きな子がいる」と打ち明けられるたびに、「あんな女のどこがいいんだ?」と思ったことが何度もあった。


 教訓その一──人は主観によって世界を見つめている。


 また、あなたが見ている「赤」と私が見ている「赤」は厳密には違うことが近年明らかになってきた。人の数だけ「赤」があるってわけだよ。ま、薄い色のサングラスみたいなフィルターがかかっていると考えればいいだろう。


 脳や視覚というのは実験することができない。ゆえに、事故や病気などによる障害を通して手探りで研究されているのが現状だ。その中で最も有名なのが1958年に手術で目が見えるようになったブラッドフォードである。視覚に関する書籍にはよく引用されているエピソードである。ブラッドフォードは「見えた世界」を理解することができなかった。特に「人の顔」を見わけられなかった──


 手術後、視力そのものがどんなに回復しても、ほかの人たちと同じようにものを見られるようになった患者は一人もいない。視覚のいくつかの面は文句なしに機能したが、まったく機能しない面もあったし、ほかの人たちと異なる不可解な機能の仕方をした面もあった。ほぼすべての患者は手術後すぐに、動くものと色を正確に認識できた。最近まで目が見えなかったとは信じがたいほど、高い認識能力を示す。しかしそれ以外となると、そうはうまくいかなかった。

 ブラッドフォードもそうだったように、患者たちは人間の顔がよくわからなかった。高さや距離、空間を正確に認識することにも苦労した。こういう状態では、視覚を通して世界をきちんと理解することができない。視覚以外の手がかりに頼らずに、目の前にある物体の正体を言い当てることも難しかった。それまでに手で触れてよく知っているはずのものでも、その点は同じだった。いわば視覚のスイッチを「オン」にするために、いま目で見ているものに手で触れようとする患者が多かった。手で触れることができないと、途方に暮れてしまうようだった。

 理解不能な映像の洪水に押し流されて、混乱し、いらだち、疲れてしまう場合も多かった。とりたてて努力せず無意識にものを見て理解できる患者は、一人もいなかったようだ。ものの大きさや遠近感、影には、多くの患者が悩まされた。世界は意味不明のカラフルなモザイクにしか見えなかった。目に映像が流れ込んでくるのを押しとどめるために、目を閉じてしまう人もいた。あるものを見ても、次のものを見たときにはもうすっかり忘れてしまう人もいた。絵や写真を理解できる人はほとんどいなかった。勘をはたらかせたり、視覚以外の感覚を動員したりして、視覚による理解を助けている人も多かったが、とんでもない思い違いをする場合も少なくなかった。

 しかも、これはあくまでも視覚レベルに限った問題でしかない。心の問題はこれよりはるかに深刻だった。

 視力を取り戻した人たちは、深刻な鬱状態に落ち込んだ。そこから抜け出せた人はほとんどいなかったようだ。この種の患者の症例を収集してドイツで出版された『空間と視覚』という文献の著者M・フォン・センデンは、次のように述べている。


 数々の症例報告全体から言えるのは、このような患者にとって、ものの見方を学ぶことは、数知れない困難がつきまという一大事業だということである。手術により光と色という贈り物を与えられればさぞうれしいにちがいないという一般の思い込みは、患者たちの実際の気持ちとまったくかけ離れているようだ。


【『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン/池村千秋訳(NTT出版、2009年)以下同】


 このため後天的に視覚を得た人々は例外なくうつ病になっている。


 ところが本書の主人公マイク・メイはおとなしい視覚障害者ではなかった。3歳の時に爆発事故で失明。ところがマイクは走ることを恐れない。何と自転車にまで乗り、アマチュア無線好きが高じて、50メートル以上の鉄塔に登ってアンテナの向きを変えたこともあった。いたずらで、わずかな距離ではあるが自動車の運転までしたこともある。大学生の時にはアフリカのガーナへ留学。障害者アルペンスキーでも世界選手権に出場し、金メダルを三つ獲得。チャレンジ精神の塊(かたまり)みたいな男で、大学院を出た後は、何とCIAに就職している。そして彼は目が見えないにもかかわらずブロンド美人としか付き合わなかった。


 マイク・メイにとって障害は、人生の障害ではなかった。目は不自由だったが自由に生きた。メカにも強い彼は、視覚障害者用のGDP装置を開発する経営者になっていた。手術すれば見えるようになるかもしれない──眼科医から告げられた時、彼は大いに悩んだ。なぜなら何ひとつ不自由はなかったからだ。ところが、光を取り戻すことができたとしても、強い薬を服用するため発癌リスクが高くなると告げられた。つまり、目と引き換えに命を差し出すことになるのだ。だが彼はマイク・メイだった。挑戦こそが彼の本領だ──


 ところがグッドマン(医師)は消毒や包帯のことなどひとことも口にせず、妙なことをし、妙なことを言った。親指と人差し指でまぶたを開かせながら尋ねた。「少し、見えますか?」

 ズドーン! ドッカーーーーーン!

 白い光の洪水がメイの目に、肌に、血液に、神経に、細胞に、どっと流れ込んできた。光はいたるところにある。光は自分のまわりにも、自分の内側にもある。髪の毛の中にもある。吐く息の上にもある。隣の部屋にもある。隣のビルにもある。隣の町にもある。医師の声にも、医師の手にもくっついている。嘘みたいに明るい。そうだ、この強烈な感覚は明るさにちがいない。とてつもなく明るい。でも痛みは感じないし、不愉快ですらない。明るさがこっちに押し寄せてくる。それは動かない。いや、たえず動いている。いや、やっぱりじっと動かない。それはどこからともなくあらわれる。どこからともなくやって来るって、どういうことだ? すべて白ずくめだ。グッドマンの尋ねる声がまた聞こえる。「なにか見えますか?」。メイの表情が満面の笑顔に変わった。自分の内側のなにかに衝き動かされて笑い声を上げ、言葉を発した。「なんてこった! 確かに見えます!」。ジェニファーは心臓がドキンドキンと脈打ち、喉が締めつけられた。「ああ、神様」

 光と出会って1秒後、明るさが質感をもちはじめた。このものに手で触れられないのか? その1秒後、明るさは四方八方から押し寄せるのをやめ、ある一つの方向からやって来るように思えてきた。あっちだ。頭上のブーンという音のするほうからやって来る。ほんの一瞬だけ、光から意識が離れて、診察室のブーンという音の源は蛍光灯だという知識を思い出した。そう思って光に意識を戻すと、その光が特定の場所から、頭の上の蛍光灯からやって来るのだと確信できた。その1秒後、光はもはや単なる光ではなく、目の前ではっきりとした明るい形をを取りはじめた。まわりにあるのは壁だろう。頭の上から降り注ぐ光とは別の光だから、きっとそうだ。どうして光が違うかは考えるまでもなかった。それは色が違うからだ。そう、色だ! 幼いころに親しんでいた、色というものだ! いま、色のスイッチが押されたのだ。


 まるで「悟り」を描いているようだ。「見る」とはこれほど劇的な感覚なのだ。光の粒という粒が目に突き刺さるような感覚が凄まじい。「神は言われた。『光あれ』」(旧訳聖書「創世記」)、そしてブッダは白毫(びゃくごう/眉間の白い毛)から光を放って世界を照らした。仏典では物質のことを「色法」(しきほう)と表現するが、その意味すらもマイク・メイは教えてくれている。彼が生きる世界は一変した。


 診察室を出て、待合室に足を一歩踏み出すと同時に、メイは固まってしまった。この美しく輝かしい空間はいったいなんなのか。このあまりに素晴らしいものの数々はいったいなんなのか。四方八方から色と形が降り注いできた。忙しそうな人たちがてんでんばらばらの方向に歩いていく。その場にあるものはどれも極大サイズに見えた。周囲を見回し、きらびやかな待合室をすべて目の中に取り込もうとした。足元に目を落として、思わず驚きの声を上げた。

「この形! この色! これは、カーペットの上に載ってるの?」

「ええ、カーペットの一部よ」と、ジェニファーが説明した。「カーペットのデザインなの」

 まわりには、診察の順番を待つ人たちが座っていた。その誰一人として身じろぎ一つせず、落ち着き払っているように見える。このカーペットに目もくれず、ぼけっと座っているなんて、メイには信じられなかった。こんなにすごいカーペットが目の前に存在しているというのに、どうして平気な顔をしていられるんだ?


 きっと我々も生まれてから間もない頃は、同じような感動を味わったことだろう。そして、いつしか慣れ、当たり前となり、心は鈍感になっている。目が見える幸福を我々は味わうことができなくなってしまったのだ。豊かな世界はもはや灰色にしか映らない。


 その後、マイク・メイには視覚障害があることが判明する。他の患者同様、やはり人の顔を見わけることができなかった。男か女かもわからないのだ。また彼は錯視画像を見ても錯覚することがなかった。例えば直線だけで描かれた立方体を我々が眺めていると向き(奥行きを感じる部分)が反転することがあるが、彼には正方形と直線にしか見えなかった。立方体と認識することもできないのだ。


 つまり、目は「見えている」のではなく「映像の意味を読み解いている」のだ。


 すべてのカギを握るのは、文脈と予測。この二つの武器が使えるのと使えないのとでは大きな違いがあった。


 私はまたしても悟りを得てしまった(笑)。これは凄い! 結局、視覚の最大の特徴は「錯覚できる」ところにあるのだ。錯視は単なる見間違いではなく、視覚が紡ぎ出す物語性なのだ。ということは、「世界」はそこに存在するものではなくして、我々が想像することで像を結んでいると考えることも可能だ。そして世界とは意味に他ならない。

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生


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2009-10-17

自覚のない障害者差別/『怒りの川田さん 全盲だから見えた日本のリアル』川田隆一


 身体障害者が本音をぶちまけた内容。“差別される側”からの悲鳴に近い意見の数々が記されている。バリアフリーという言葉だけがフワフワと浮遊しているが、日本の現実社会は「段差」だらけであることを思い知らされる。健康で何不自由なく育った若者は、こういう本を読んで新たな視点を身につけることが望ましい。人は、それぞれが異なる世界で生きているのだ。


 目の不自由な川田が一歩外へ出た途端、数々の心ない言葉を浴びせられる。そのいずれもが咄嗟(とっさ)に出たもので、深層心理の黒々とした部分を窺わせる。


 遠足の子供たちが、お行儀よく整列していることなど、まずありません。駅の通路に広がって、駅構内をを我が物顔で占領しているので、白い杖を持った僕は、子供たちの中に入り込んでしまうことがよくあります。

 子供たちはといえば、突然自分たちの領土に侵入してきた僕のことをものともしないのですが、さすがに引率の先生が注意をします。普通の先生は、「はーい、みんな右に寄りなさい」と通路を空けるように促してくれるのですが、5人に1人は、堂々とこう付け加えるのです。

「みんな何してるの! その人をじろじろ見てはいけません。じろじろ見てはいけません」

 あれほど悲しい瞬間はありません。僕は目が見えないだけで、耳はちゃんと聞こえているのです。僕は汚いものなのでしょうか。目を背けなければならない対象だとでもいうのでしょうか。


 障害のある子供とそうでない子供が別々に教育されている今の日本では、遠足でたまたま目が見えない人と遭遇したことは、障害者を理解するための教育の、またとないチャンスだといえるでしょう。

 世の中にはいろいろな人が共に生きている、中には目が見えない人もいること、そして街で目が不自由な人を見かけたらどんなふうに接したらよいかということを、身をもって教えるための恰好(かっこう)の経験です。

「はーい、みんなよく見て覚えてくださいね。もしも街で目が見えない人が困っていたら、こうやって肘(ひじ)に触ってもらって誘導してあげましょう」

 と、先生自らが率先してお手本を示すことだってできるのです。僕は、そのためなら喜んで実験台になります。


【『怒りの川田さん 全盲だから見えた日本のリアル』川田隆一〈かわだ・りゅういち〉(オクムラ書店、2006年)以下同】


 多分、教員に悪意はないのだろう。ただ、障害者が見えていないだけなのだ。経験したことのない事態に遭遇すると、多くの人は動揺を隠せない。そして、隠せない動揺を隠そうと偽る時、必ず失敗をしでかすものだ。かような発言をする教員は、目の前にいる障害者を傷つけた事実にすら気づいていないことだろう。


 果たして我々は、自分が生きている社会に障害者が存在することをどれほど感じているだろうか。身内に障害者がいるとかいないといった次元の話をしているわけではない。医師や看護師、はたまたヘルパーであっても「障害者と共に生きている」人は少ないと思う。


 例えば、こんな件(くだり)があった――


 しかし、銀行に行けばお金を下ろせるというのは、目が見える人にとっての常識ではあっても、視覚障害者の場合は必ずしもそうではありません。なぜなら僕たちは、つるつるの画面しかないタッチパネル式のATMではお金を下ろすことができないからです。

 凹凸のあるボタンなら、最初の1回だけ目が見える人に教えてもらって位置を覚えておけば、次からは自力で何とか操作ができます。でも、タッチパネル式の場合には、画面が平らで手で触って分かる手掛かりがないため、全盲の僕にはお手上げなのです。また、弱視の人が、一生懸命に表示を見ようと顔を近付けすぎて鼻が当たってしまい、「画面に物を置かないでください」と、ATMの音声アナウンスに怒られたという話は有名です。


 私は頭をガンと殴られた思いがした。なぜなら、一度もそうしたことを考えたことがなかったからだ。どんな形であれ、この世に目の不自由な方がいる事実を知っていれば想像力を働かせて然(しか)るべきだった。ユニバーサルデザインに携わっていなくとも、社会全体が想像力を豊かに発揮する必要がある。


 色々な人がいる。色々な人がいていい。だから、多くの人々を心に抱きながら生きてゆける人は、社会のバリアを敏感に察知できることだろう。


 川田は、やや力み過ぎているように感じた。もっとリラックスした文章でないと、読者が疲労困憊(ひろうこんぱい)してしまう。あるいは、もっとストレートに政治活動や街宣活動をするべきだと思う。

怒りの川田さん―全盲だから見えた日本のリアル

2008-06-11

『偽善系II 正義の味方に御用心!』日垣隆


 前作『偽善系やつらはヘンだ!』よりもパワーアップ。精神障害者による犯罪、日本人の死に方、佐高信批判、田中知事誕生以前の腐敗しきった長野県政(長野五輪の予算の使われ方は、官僚の感覚が窺える貴重な資料)、書評、買い物日誌と、てんこ盛りの内容。「日垣隆マガジン」といってよい。


 長野県知事に田中康夫氏を指名したのは日垣氏とのこと。しかしながら、選挙戦は一切手伝っていない。通読して感じるのは著者が「喧嘩巧者」であること。それは、暴力的な示威行為によるものではなくして、「常識を貫く」見識に支えられていてお見事。予約していたタクシーが遅れたせいで新幹線に間に合わず、タクシー会社の社長を呼び出して懲らしめるところに大笑い。


 知的障害者による犯罪については、山本譲司著『累犯障害者 獄の中の不条理』と佐藤幹夫著『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』も併せて読んでおきたい。山本本で刑務所がセーフティーネットと化している現状を知り、佐藤本で杜撰な取り調べに対する理解を深めておくべきだ。


 知的障害者の罪が軽いのは、法律が彼等を人間扱いしてないためだった。


 いん唖者(いんあしゃ)とは、《聴覚障害及び言語機能を共に先天的若しくはごく幼少時に喪失した者》(1991年12月2日、東京高裁判決)と定義され続け、いん唖者は、たとえば次のように形容されていた。

《言語化された思考が得られないため反省思考、抽象思考を欠き、人間的知能の正常な発達を妨げられ、人間化への過程を阻害され、真の意味の人間的存在とはいい難い程度の知能しか有することが出来ず極めて僅かの具体的知識を有するのみ》(1965年11月22日、広島地裁福山支部判決)


 多分、既に法改正されているものと思うが、これは酷い。「ろうあ者は人に非ず」って言ってるんだからね。


 白眉は佐高信批判。私も大っ嫌いだよ(笑)。以下、ずらりと引用しておこう。


 かわいそうに。

 彼には、自らへの批判に対する免疫がなかったのである。この現象は実に興味深いことではないだろうか、と私は思うようになった。

 毒のない辛口スナックゆえ、またタイトルを見れば結論がわかるゆえに、安心して読まれてきた彼は、他社への罵詈雑言で生活の糧を得ておきながら、自己への批判には耐えられず、少なくとも私が直接確認できたものだけで合計五つの出版社に執拗な圧力をかけ、私の仕事を奪おうとした(未遂に終わった五つだけが、強迫を受けた編集者から私に連絡があった。既遂は何件あったのか佐高氏に聞かないと正確にはわからない)。

 私はそのことにまったく腹を立てていない。不当な圧力がかかるのは、私のような書き手には必ずついてまわるリスクであり、総会屋まがいの圧力ごときに屈する編集者と、まともな仕事ができるとは思えない。


 彼が最も得意とするのは、外見への差別的難詰である。明らかに佐高信は病んでいると思う。誰か止めてあげる友人はいないのか。ついでながら、写真で見る彼の事務所の汚さは常軌を逸している。論理的混乱の外在的表現であろうと思われる。


 この人は月刊佐高とか週刊佐高と自称するほどの本を現在執筆中であるが、おおむね共通するのは、中身の大半が書物の引用、またはパクリ、あるいは単なる書物の紹介に終始している点だ。


 このようにいつでも彼の文章は、《という》や《といわれる》のオンパレードである。まともな書き手は、《という》や《といわれる》に接して、それを徹底的に確認または疑うことから仕事を始める。


 断言してもいいが、佐高氏は今後最低10回は、石原(慎太郎)氏への批判の唯一の柱として、自分との対談での小さなエピソード(「変に気が合った」とか)を使い続けるだろう。対談をステータス向上運動に使い続けてきた人だからである。小渕首相と握手したことさえ、《幸か不幸か私も見つけられ、無断で手を握られまして、振り払うのも大人気ない。心ならずも握手してしまった。(中略)「クレゾールで洗っても落ちないぞ」……》(「週刊金曜日」2000年1月28日号)などと10回以上も自慢してしまう。私はこの人を13年前から「小学生新聞記者の信ちゃん」と呼んでいる。


 日垣氏は後半の「買い物日記」に記しているが、わずか数行触れるだけでも正確さを期すために、月の書籍代が40万円を超えるとのこと。


 試しに今、手元にある佐高信の文章を見てみよう。(引用はいずれも『創』2007年12月号より)


 人間も軽いベニヤ板みたいだなという印象だった。(橋下徹氏)


 橋下という世論の尻馬に乗ってしか行動できない小動物の


 小ずるいネズミのような男(橋下徹氏)


 橋下氏は、未熟弁護士、便乗弁護士、扇動弁護士など、無責任を意味するどんなネーミングを重ねても足りない。


 ただの悪口にしかなってないよ(笑)。佐高は自称「社民党応援団」なんで、やたらと保守派に噛みつくしか能がない。それにしても、古紙回収業者からも見捨てられた新聞紙みたいな顔色のあのご面相で、よくもここまで他人をこき下ろすことができるもんだ。他人を非難中傷することで、自分の存在感を際立たせようとするところは、社民党・共産党にそっくりだ。

佐高信関連リンク


 ichigekiさんより、「共産党より社民党寄りではないか」という指摘を受け、一部修正した。以下のリンクを辿り、各人に判断を委ねたい。

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)

2008-05-28

『獄窓記』山本譲司


 予想していたとはいえ、やはり『累犯障害者 獄の中の不条理』の後に読んでしまうと、インパクトの弱さが否めない。それでも、文章の上手さでぐいぐい読ませる。先に読んでいれば、それなりの衝撃を受けたことだろう。


 自伝的色彩が強く、菅直人氏の秘書になる件(くだり)から、秘書給与流用事件で実刑判決を受け、出獄されるまでの経緯が描かれている。山本氏の実刑判決は弁護士ですら想定していなかった。それでも、敢えて控訴をしなかったのは、政治家としての責任感からだった。潔い生き方である。


 本書で注目すべきは、辻元清美議員の秘書給与疑惑である。覚えている人も多いだろうが、当初辻元氏は声高に「山本譲司さんと一緒にしないで欲しい」と強気の態度で臨んだ。実はこの二人、早稲田の同期生という縁があった。辻元氏はなりふり構わず、山本氏を貶(おとし)める戦法で「自分は違う」と強弁した。挙げ句の果てには「あの人(山本氏)の場合は、秘書給与を私的に流用していたが、私は違う。個人的な費用に使ったことはない」と言い出した。この時、「カツラ代」という言葉が飛び出したのだ。しかし、山本氏が秘書給与を私的に使った事実は全くなかった。


 獄中にあった山本氏は弁護士を通して反論を公表する。後に辻元氏は予算委員会参考人招致の際に、山本氏への謝罪を述べたが、弁護士同士が約束したものとは異なっていた。人気のみを頼りに突っ走る辻元氏のあざとさが浮かび上がってくる。


 黒羽刑務所に移送された山本氏は、「刑務所の掃き溜め」と言われる寮内工場の配役となる。心身に障害のある収容者が集まる場所だ。そこで、ヘルパーさながらに収容者の面倒をみる。垂れ流された糞尿や吐瀉物(としゃぶつ)の清掃が日常活動だ。


 少し気になったのだが、山本氏はカッとしやすい性格でありながら、直ぐ反省するような傾向が窺える。文章に比べると話し方が軽薄に見えるのも、同じ理由からだろう。


 それにしても、障害者が置かれている惨状は目に余る。


「山本さん、俺ね、いつも考えるんだけど、俺たち障害者は、生まれながらにして罰を受けているようなもんだってね。だから、罰を受ける場所は、どこだっていいのさ。また刑務所の中で過ごしたっていいんだ」

「馬鹿なこと言うなよ。ここには、自由がないじゃないか」

「確かに、自由はない。でも、不自由もないよ。俺さ、これまでの人生の中で、刑務所が一番暮らしやすかったと思ってるんだ。誕生会やクリスマスもあるし、バレンタインデーにはチョコレートももらえる。それに、黙ってたって、山本さんみたいな人たちが面倒をみてくれるしね。着替えも手伝ってくれるし、入浴の時は、体を洗ってくれて、タオルも絞ってくれる。こんな恵まれた生活は、生まれて以来、初めてだよ。ここは、俺たち障害者、いや、障害者だけじゃなくて、恵まれない人生を送ってきた人間にとっちゃー天国そのものだよ」


 フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』によれば、類人猿社会ですら障害を持った者に対しては、優しさを示すという。人間は合理性を追求する一方で、自分の中に不合理な葛藤を抱えている。強者だけが生き延びるのが適者生存と思いがちだが、群れというネットワークで考えると弱者を切り捨てるのは「社会の弱さ」を示している。


 どのような問題も他人事で済ませられれば、思い悩むこともない。思考は停止させた方が楽なのだ。私の胸の中で、ナチス支配下にあったマルチン・ニーメラー牧師の言葉が谺(こだま)する。


 ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。

 それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安をましたが、それでもなお行動にでることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だからたって行動にでたが、そのときはすでにおそかった。


【『現代政治の思想と行動』丸山眞男】


獄窓記 獄窓記 (新潮文庫 や 60-1)

(※左が単行本、右が文庫本)