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2011-02-15

宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 正真正銘の神本(かみぼん/神の如く悟りを得られる本)だ。著者のテンプル・グランディンは、オリヴァー・サックス著『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』(吉田利子訳、早川書房、1997年)のタイトルになっている人物。自称「火星の人類学者」は自閉症(※アスペルガー症候群と思われる)の女性動物学者であった。


 これは凄い。とにかく凄い。本書とトール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』とレイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』を合わせて、「科学本三種の神器」と私は名づけたい。


 網羅、渉猟、越境の度合いが生半可でないのだ。本物の知性は統合に向かうことがよく理解できる。緻密さや細部で勝負する知性はカミソリみたいなもので、切れ味は鋭いものの骨肉を断ち切るところまで及ばない。それに対して豊かな広がりをもつ知性は、専門領域を通して高い視点を示すことで世界の風景を変える。


 テンプル・グランディンは自閉症患者が動物の気持ちを理解できるとしている。彼女は幼い頃から動物の感情を知っていたのだ。大人になるまでそれが特殊な能力であることに気づかなかったという。ここから様々な動物の生態を通して人間との違いや人類の歴史を綴っている。


 まあ、一回こっきりの書評で紹介できる作品ではないため、時間が許す限り何度でも書いてみせるよ(笑)。数多(あまた)ある驚天動地の内容で最も驚かされたのがこれ──


 動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。

 たとえば、食べ物が出てくる直前に明かりがつくボタンつきのかごにハトを入れると、ハトはすぐに、食べ物を手に入れようとして、明かりがついたボタンをつつくようになる。これは、確証バイアスによって、最初のできごと(ボタンの明かりがつく)が2番目のできごと(食べ物が出てくる)を引き起こしていると考えるようになるからだ。ハトは、たまたま何回かボタンをつついて食べ物が出てくると(ボタンの明かりがついているときに、かならず食べ物が出てくるので)、こんどは、明かりがついているときにボタンをつつくから食べ物が出てくるという結論を出す。

 ハトの行動は、ウサギの足のお守り〔行為のまじないとして持ち歩くウサギの左の後ろ足〕を持っていたらチームが野球の試合に勝てると考える人に似ている。それで、B・F・スキナーはこういった行為を「動物の迷信」と呼んだ。ピッチャーがウサギの足を持っていたときに登板した試合で勝ったのは、ハトが明かりがついたボタンをつついたあとに何回が食べ物を手に入れたのと同じことだ。どちらの場合も、相関関係が原因だと考えた。


【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン/中尾ゆかり(NHK出版、2006年)以下同】

 既に何度も紹介済みだが、相関関係と因果関係の混同である。

 つまり脳というシステムは、相関関係を因果関係に仕立てることで物語を創造していると言い換えることも可能だ。例えば歴史は権力者のトピックにすぎない。それゆえ歴史の大半は戦争という糸で紡がれている。圧倒的に膨大な量がある一般人の日常が年表に記されることは、まずない。捨象、切り捨て、無視ってわけだ。

 確証バイアスが組みこまれているために生じる不都合は、根拠のない因果関係までたくさん作ってしまうことだ。迷信とは、そういうものだ。たいていの迷信は、実際には関係のないふたつの事柄が、偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に、たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日にも、たまたま青いシャツを着ていた。それからとは、青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。

 動物は、確証バイアスのおかげで、いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。


 ここでいう「迷信」とは「非科学的」という意味であろう。だとすると殆どの宗教は迷信になる。なぜなら因果関係を証明することができないからだ。幸不幸の原因は神が下したものかも知れないし、家の方角の善し悪しかも知れないし、単なる偶然かもしれないのだ。


 たまたま朝一番でつけたテレビの番組で星座占いをしていたとしよう。あなたのラッキーカラーはピンクだ。ピンクのものさえ身につけておけば万事が上手く運ぶ。昨日、上司から叱られ、恋人と喧嘩をしたあなたの脳は敏感に反応することだろう。で、ピンクのネクタイを締め、颯爽と出社する。


 こうして一日の中の好ましい出来事は「ピンクのネクタイのおかげ」となるのだ。

 占いを信じる人は、占いに沿った思考となり、占いに当てはまらない事実は印象に残らなくなる。このようにして「占い物語」という人生が進んでゆく。


 ところが、ほかの豚も、これまた確証バイアスにもとづいて、囲いの中の餌桶にまつわる迷信をこしらえる。私が見ていたときには、何頭かが餌用囲いまで歩いていって扉が開いているときに中に入り、それから餌桶に近づき、地面を踏み鳴らしはじめた。足を踏み鳴らしつづけていると、そのうち頭がたまたま囲いの中のスキャナーにじゅうぶんに近づいて、タグが読みとれ、餌が出てきた。どうやら豚は、たまたま足を踏みならしていたときに餌が出てきたことが何回かあって、餌にありつけたのは足を踏み鳴らしたからだという結論に達していたらしい。人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。わたしたちの脳は、偶然や思いがけないことではなく、関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも、相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。わたしたちは生命を維持するうえで知っておく必要のあるものや、見つける必要があるもの学ばせる脳の同じ部分が、妄想じみた考えや、陰謀じみた説も生み出すのだ。


 これだ。多分ここから宗教が生まれたのだ。宗教という現象は人間特有のものではなかったのだ。とすると宗教感情がいかに脳の深い部分にあるか知れようというもの。動物にもあるわけだから新皮質より下部にあることだろう。きっと情動も絡んでいるはずだ。


 とはいうものの物語なしで我々は生きてゆけない。はっきりと書いておくが、かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。聖書や仏典が伝えられてから2000年以上も経過しているが、今尚人類は争い合っている。


 混乱はバラバラの物語が衝突し合っている姿といってよい。同じ宗教を信じていても考え方は違うだろうし、それこそ人の数だけ思想や価値観が存在するのだ。


 まして高度な社会になればなるほど、幸不幸はヒエラルキーや経済性に依存してしまう。我々の幸不幸は比較の中にしかない。


 結局、情報と情報をどう結び合わせるかという問題なのだろう。「私」という情報をどう扱うか? エゴイズムと無縁の物語はあるのか? 人生からそんな宿題を与えられているような気がする。

動物感覚―アニマル・マインドを読み解く 火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 我、自閉症に生まれて

2010-12-21

仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀


 脳は言葉に支配されている。思考が言葉という情報によって成り立っている以上、人は言葉に束縛される。意識とは言語化可能な状態と言い換えてもよいだろう。


 懐疑や批判の難しさもここにある。示された言葉【以外】の知識がなければ、そもそも判断のしようがあるまい。思想の自由とは、言葉に寄り添った後で言葉から離れることを可能にする精神の振る舞いを意味する。


 ある人物の思想なり考えが普遍的な有効性を持ち合わせているかどうかは、対談によって試される。世界広しといえども、全く同じ考え方をする人は一人もいない。似たような価値観を持つ人々が文化や民族、哲学や宗教を形成している。


 これは勉強になった。唯幻論であらゆるものを一刀両断にしてきた岸田秀が、仏教の碩学(せきがく)を前にして優秀な生徒と化している(笑)。例えばこんな調子だ──


岸田●キリスト教は、ぼくは一つの誇大妄想体系だと言ってるわけですが、誇大妄想体系にしろ、ここには、一つの理論体系らしきものがあるように思うんです。しかし、仏教は、なんとなく、漠然としておりまして、むしろ、理論体系になるのを拒否するという感じのほうが強い、そういう印象を持ってるんですけど、違うわけですか。


三枝●全然、違います。大まかな表現ですけど、たとえば、仏教のいちばん始めにいろいろな“意見”ができた。それをお釈迦さんの亡くなったあとに編集し、合わせて「三蔵」(さんぞう)と言います。それには、いわゆるお釈迦さんが説いたお経−「経蔵」(きょうぞう)と、教団の規律を収めた「律蔵」(りつぞう)と、それから「論蔵」(ろんぞう)というのがある。論というのはまさしく学問なんです。ただし現存しているものが、いつできたかは分かっていません。お釈迦さんは、おそらく、マガダ語で話されたでしょうけど、現在残っているいちばん古い資料は、パーリ語の経典、それからマガダ語からサンスクリットになって、それらが漢訳された経典が中心ですが、それらは経、律、論と言い、論が必ずあるんです。始めから学問体系がある。


【『仏教と精神分析』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉、岸田秀〈きしだ・しゅう〉(小学館、1982年/第三文明レグルス文庫、1997年)以下同】


 細分化された学問領域は触覚さながらに敏感で細い。宗教の総合知と比較するべくもない。


 最も衝撃を受けたのは三枝が示した仏教的時間観である。私は仏法者(仏教徒ではない)を名乗りながら、これを知らなかった。


岸田●時間観念というのは大ざっぱに、ヘレニズムのぐるぐる回る円環的な時間と、ヘブライズムの直線的時間との一応、二つの見方があるとしてみて、仏教だと、時間というのは、どのように考えられているんですか?


三枝●仏教で言う時間は、ごく簡略化して一言で言うとなると、時間的な有限とか無限という問題にかかわるものと、それから、いま、われわれが暮らしている現実のこの時間という問題の二つがあると思うんです。

 一般的な時間概念としての“有限”とか“無限”とかいう問題については、仏教の最初からそれがあって、お釈迦さんに、ずいぶんいろいろな人が質問しています。ことに有名なのは、マールンクヤプッタという優秀な青年が、世界は時間的に“有限”か“無限”かという質問をしてお釈迦さんに迫る。それに対してお釈迦さんは返事をしない。そこで、いわゆる「無記」という述語が作られます。ですから、一般的には時間が有限とか無限とかいうことについて公式的な発言をすれば、無記だから返事をしない、ただ沈黙。そこでは、なんの進展も無い。まず、そういう点が一つありますね。もっとも、お釈迦さんは、そういう問い自体が現実を離れて行き、形而上学化して、実践・修行には、なんのプラスにもならないことを、マールンクヤプッタにていねいに教えて、現実に立ち戻らせています。それでは、仏教は時間論を展開しないのかというと、それどころではなく、時間ということでは仏教では絶えず重要なテーマであり、それを論ずるのに、あれこれ、いろいろな議論があります。その一つに「無始無終」というのがある。“始めが無ければ終りも無い”という、そういう説明がまずあります。


岸田●始めが無くて終りが無い時間というのは、「無限の直線」というようなイメージなんでしょうかね。


三枝●直線としての時間というのは、要するに時間を空間化すると言うことでしょう。それはある意味で計算することですね。そういう意味で時間を考える考え方も、もちろん、仏教にもあります。


岸田●ヘブライズムは無始無終じゃない、まあ創造主が時間を造ったわけで、そのうち“終末”で時間が終っちゃうわけですね。だから起点と終点があって、その間が直線的だという感じなんですけども、仏教においては、それが無始無終であるというわけですか。


三枝●ええ、そういう意味でのエスカトロジー(終末論)は仏教には無い。

 私の認識は広井と同じものだった。直線(キリスト教)と円環(仏教)の違い。確か竹内敏晴はこれを敷衍(ふえん)してオペラと浪曲の違いを指摘していたはずだ。天を目指す尖塔(キリスト教)と、横に広がる屋根(仏教)という話もあったように記憶している。


 尚、無記については以下を参照されよ──

岸田●計算できるほうが“俗なる時間”であって、“聖なる時間”というのが内在しているわけですか。


三枝●そうですね。あえて聖と俗と言わなくてもと思うけど。すべての人にそれぞれ現在があって、その現在においてのみ、その人の時があり、それが現在であるという。しかも、そこではいつでも現在が中心になっています。ですから、仏教では現在・過去と並称するときには決して「将来」ということばは使わない。「未来」ということばを使う。


岸田●未(いま)だ来らずですか。


三枝●未だ来らずという言い方ですね、すべて現在から見ているわけですから。エスカトロジー(終末論)の立場で言うと、向こうのほうに何かがあって、その向こうの終末のほうがこちらに向かって来るので、それは“まさに来らんとす”と言うことであり、“将来”となる。けれども仏教のほうではあくまで現在が中心だから、現在から見るといつでも未来なんです。


 読んだ瞬間に私の脳内では「!」がずらりと並んだ。これだよ、これ! 私の中で疑問の形にすらなっていなかったモヤモヤが吹き飛んだ。快晴(笑)。


 生命は一生という時間に制約を受けている以上、その量と質が問題になるのは自明だ。しかしながら量と質との関係性について思考が及ぶことは、まずない。更に時間というテーマは物理学や量子力学においても重要な位置を占めている。アインシュタイン相対性理論は、時間と空間が別物ではない事実を示したものだ。


 将来と未来の違いは、仏教がどこまでも現在性に注目し、今ここで流れ通う生に焦点を当てていることがわかる。


岸田●では、過去は存在しているわけですか、現在の中に。


三枝●過去は業として、現在に、前にお話した種子(しゅうじ)を残している。過去という時間そのものは落謝(らくしゃ)している。つまり、落っこちて消えちゃっている。


岸田●しかし、その種が現在に残っている。


三枝●ええ。たとえば、前にも言ったように、ある人がいま人を殺したとします。そうすると、殺人という行為そのものは“過去”にすでに消え去ってしまったけど、“現在”には死体が残っている、どうしても。その死体が、現在のその人を縛るわけです、彼は(句読点ママ)。死体をなんとかしなければいけない。


岸田●殺人者がいちばん困るのは死体の処理ですからね。


三枝●こんどは、死体の処理を現在どうするかというかたちで、その行為者の行為を縛っていきます、未来に向かって。


岸田●過去の時間が再びめぐって来るというような思想は無いわけですか。


三枝●過去の時間はもう落謝していますから、時間そのものは絶対に回帰しません。


岸田●円環的時間でもないわけですね。


三枝●そういう意味では円環ではない。


岸田●時間が巡るという思想では、回帰するわけですね。


三枝●巡ると言っても、“同じところへ戻ってくる回帰”と、“螺旋型の回帰”とがある。ぼくは、仏教のはどちらかというと螺旋のほうだと思うんです。だからAから戻ってきてA'になった。そのA'はAと次元が違うと考えています。そういうふうに、はっきりとテクストに書いてあるわけではないけれど、われわれの見方で解釈すれば、どうしてもそういうふうになる。


 これについては苫米地英人がわかりやすい解釈をしている──


 私がよく説明するのは、空に向かってツバを吐くと自分の顔に戻ってきますが、まさに因果応報です。業(カルマ)を受けたわけです。今度はツバをもの凄い速度で吐き出して、200年ぐらいして戻ってきたとします。そのツバを顔に受けた人があなたの生まれ変わりということです。あなたはすでに寿命で死んでいますから、ツバを受けた人は別な人です。でもあなたの業を受けたのだからあなたの生まれ変わりです。これが釈迦の論理による生まれ変わりです。つまり、アートマンが永続するから輪廻転生するのではなく、縁起の因果は継続するので、その縁起の対象が生まれ変わりと呼べますよという哲学です。もちろん、誰かが過去にツバを吐いたので、そのツバを顔に受けるためにあなたが生まれてきたのであるという論理でもあります。縁起による業の継続性による生まれ変わり説です。固有なアートマンが継続するからではないという説明です。


【『スピリチュアリズム苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(にんげん出版、2007年)】


 過去世という因果の物語でもって社会の差別を正当化しようとしたのが、古代インドに始まるカースト制度であった。輪廻(りんね)という言葉自体、不幸な人生を繰り返すことを意味しており、そこから離れることをブッダは説いた。仏の別名の一つに「善逝」(ぜんぜい)とあるが、「善く逝く」とは「再び生まれ変わってこない」ことを示したものだ。


 おわかりになっただろうか? ブッダは将来を否定し、死後の生命も否定しているのだ。否定の連続技。


「歴史は繰り返す」のが真実であるとすれば、人類はいつまで経っても同じ大きさの螺旋(らせん)階段を昇ってゆくのだろう。しかし歴史を変えることが可能であるならば、螺旋は豊かな平和と共に広がってゆくに違いない。ブッダが登場した意味もここにある。

仏教と精神分析 (レグルス文庫)

2010-06-26

大日本帝国は軍国主義のためではなく官僚主義のために滅んだ/『歴史を精神分析する』(『官僚病の起源』改題)岸田秀


 ある時代の常識が、時を経て異様な姿となって現れてくることは決して珍しくない。むしろ多いくらいだ。岸田秀はこれを「共同幻想」としてバッサバッサと斬り捨てている。


 岸田によれば「アメリカは強迫神経症強迫性障害)」で「日本は精神分裂病統合失調症)」ということになる。ま、有り体にいえば「ほとんどビョーキ」ってことだ(笑)。


 唯幻論の魅力は「物語性を粉砕する破壊力」にある。歴史や文化は堅牢な城壁のように立ちはだかるが、鋼(はがね)にはかなわない。穴を空けられてしまえば脆(もろ)くも崩れる。


 歴史は戦争に集約されると考えれば、岸田の分析は歴史が動く本質を見事に捉えており、自衛隊の教科書に本書を採用すべきだ。


 わたしがかねてから主張しているように、大東亜戦争における日本軍の惨敗の原因は、物量の差ではなく(物量の差のために敗れたというのは軍部官僚の卑怯な逃げ口上である。軍部官僚が言葉の真の意味での軍人の名に値しないのは、その卑怯さからも明らかである。物量の差のために必然的に敗れるのであれば、そのような戦〈いくさ〉はしなければよかったのである。それに、ミッドウェイ海戦のように、物量的にアメリカ軍より優位にあったときも日本軍は惨敗している)、ましてや兵士たちの戦意や勇気の不足ではなかった(歴史上、この前の戦争における日本兵ほど身を犠牲にして懸命に戦った兵士がほかにいたであろうか)。

 最大の敗因は全体的戦略の欠落と個々の作戦のまずさであり、それは軍部官僚の責任なのである。

 そして、この点が重要なのであるが、軍部官僚の失敗は軍人であるがゆえの失敗ではなく、官僚であるがゆえの失敗であった。大日本帝国は軍国主義のためではなく、いわば官僚主義のために滅んだのである。軍国主義のためではなく、官僚主義のために310万の日本人と1000万以上(推定)のアジア人が死んだのである。

 もし当時の日本を支配していたのが、軍部官僚ではなく、政治の延長として軍事力を用いる非官僚的な軍国主義者、すなわち、彼我の軍事力のバランスを冷静に検討し、作戦の合理性を重視する軍国主義者であったとすれば、日本は戦争に突入していなかったかもしれないし、突入しても傷の浅いところで早目に切りあげていたかもしれない。

 戦後のわれわれはその点を見ず、単純に軍人に任せたのがよくなかったと考え、軍というものに病的な恐怖反応を示し、一部の者は、軍隊かどうか疑わしい自衛隊がいささかの発言権を持つのさえ恐れるが、それは敵を取り違えているのであって、真に恐れなければならないのは官僚なのである。


【『歴史を精神分析する』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、2007年/新書館、1997年『官僚病の起源』を改題)】

 岸田が太平洋戦争ではなく「大東亜戦争」と記しているのは、ただ単にGHQの検閲を嫌ったためだろう。ここは歴史認識を追求すべきところではない。


「戦争は官僚によって敗れた」――この指摘はあらゆる組織に適用できそうだ。大宇宙の変転は成住壊空(じょうじゅうえくう/四劫)のリズムを奏でる。住劫(じゅうこう)から壊劫(えこう)へ至る澱(よど)み、腐敗を象徴したのが「官僚」と考えられる。


 そうすると、あらゆる集団・組織の衰えは「官僚化」で計ることが可能かもしれない。官僚は特定の階層に忠誠を誓うロボットである。官僚の行動原理は保身だ。


 政権交代をしてからというもの、政治家と官僚との綱引きが続いていると囁かれている。実態は不明だ。この国では長らく政治家が有名無実の存在と化して、法案作りに至るまで官僚が行ってきた。政治家が作るとあまりにも珍しいので「議員立法」と表現されるほどだ。


 日本国民が最も理解し難いことの一つに、「どうしてこれほどまでにアメリカに頭が上がらないのだ?」という疑問がある。「いくら何でも3発目の原爆は落とされないだろう」とは思うものの、やくざ者にみかじめ料を払う飲み屋のマスターみたいな態度を日本は取り続けている。


 ひょっとしてあれか? 敗戦後、GHQに占領された頃から、官僚は何がしかの因果を含められているのか? 米国に対して犯すまじき不文律が山ほどありそうな気がする。


 元大蔵官僚の高橋洋一なんかが典型と思われるが、彼等は自分の頭のよさに酔い痴れているところがあり、罪悪感というものを持ち合わせてない。でもって妙な明るさがある。明らかなソシオパス傾向が見受けられる。分析には長(た)けているのだが、自己分析が全くできていない。というよりも自己分析という視点を欠いているのだ。


 つまり、官僚は「国家における自我」と想定することができる。官僚がのさばるということは「自我が肥大した状態」を示しているのだ。ソシオパスが二乗された時、肥大した自我は肥大した欲望のままに暴走を始める。


 恐るべきは軍国主義ではなく官僚主義であった。そう考えると吟味することもないまま鵜呑みにしている事柄があまりにも多い。先入観や強い思い込みは認知バイアスとなって情報をデコレーションする。一人ひとりの認識の差異を埋めるものこそが共同幻想であろう。そして歴史は共同幻想の城と化す。


 歴史の記述や叙述には必ず政治性が盛り込まれている。その嘘を見抜く確かな目を養わなければ、ファシズムに迎合するような自分になってしまうだろう。

官僚病の起源 歴史を精神分析する (中公文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-06-23

「生きる意味」を問うなかれ/『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル

 アウシュヴィッツを生き延びた男は実に静かで穏やかだった。彼は地獄で何を感じ、絶望の果てに何を見出したのか? 本書にはその一端が述べられている。


 5月後半の課題図書。前半は『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』であった。やはりこの二冊はセットで読むべきだろう。


 ナチス強制収容所でフランクルが悟ったのは、生の意味を問う観点を劇的に転換することであった――


 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。【人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している】からです。【私たちは問われている存在なのです】。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。【生きること自体】、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。


【『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル/山田邦男、松田美佳訳(春秋社、1993年)以下同】


 牛馬のように働かされ、虫けらみたいに殺される世界に「生きる意味」など存在しなかった。ひょっとしたら、「死ぬ意味」すらなかったかもしれない。それでも彼等は生きていた。生きる意味がゼロを超えマイナスに落ち込んだ時、「問い」はメタ化し異なる次元へ至ったのだ。問う人は「問われる存在」と変貌した。今日を生きることは、今日に答えることとなった。この瞬間にフランクルは死を超越したといっていいだろう。


 私たちはさまざまなやり方で、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。苦悩することによってというのは、たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。


「どうふるまうか」――そこに自由があった。「ふるまう自由」があったのだ。ベトナムの戦争捕虜として2714日を耐えぬき、英雄的に生還したアメリカ海軍副将ジェイムズ・B・ストックデールの体験もそれを雄弁に物語っている――

 恵まれた環境に自由があるのではない。自由は足下(そっか)にあるのだ。


 ですから、私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められない事態はない」とゲーテはいっています。【それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです】。


 どんな苛酷な運命に遭遇しても選択肢は二つ残されていることをフランクルは教えている。運命を蹴飛ばすか背負うかのどちらかだ。


 逆境の中でそう思うことは難しい。行き詰まった時に人間の本性は噴水のように現れるものだ。いざとなったら見苦しい態度をとることも決して珍しくはない。


 食べるものも満足になく、シャワーを浴びることもままならず、仲間が次々と殺される中で、フランクルはこれほどの高みにたどり着いた。その事実に激しく胸を打たれる。


【苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです】。人生に重い意味を与えているのは、この世で人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。

 けれども、人生に重みを与えているのは、【ひとりひとりの人生が一回きりだ】ということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、【人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせている】のです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。


 生そのものに意味があったのだ。生きることそれ自体が祝福であった。これがフランクルの悟りである。生の灯(ともしび)が消えかかる中でつかみ取った不動の確信であった。生と死は渾然一体となって分かち難く結びついた。生きることは、瞬間瞬間に死ぬことでもあったのだ。生も死も輝きながら自分を照らしていた。


 絶体絶命の危地にあっても尚、我々は「人生にイエス」と言うことが可能なのだ。フランクルは人類の可能性を広げた。心の底からそう思う。

それでも人生にイエスと言う


D

2010-06-19

比較トラップ/『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 天才本である。天才本(てんさいぼん)とは、読むだけで自分が天才になったような錯覚を抱かせてくれる「知的興奮掻き立て本」のことだ。ランクとしては「悟り本」と「勉強本」の間に位置する。


 マッテオ・モッテルリーニの『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』が辞書的、レジュメ的であるのに対して、本書では実証的に行動経済学を解き明かしている。


 実験証明の手法がスタンレー・ミルグラムの『服従の心理』とよく似ており、モルモット化された人間が突きつけてくるデータにたじろぐこと間違いなし。


 この本を通じてのわたしの目標は、自分やまわりの人たちを動かしているものがなんなのかを根本から見つめなおす手助けをすることだ。さまざまな科学的実験や研究成果、逸話などを紹介することが(興味を持ってもらえるものが多いはずだ)、よい道しるべになるのではないかと思う。ある種の失敗がいかに秩序立っているか――わたしたちがいかに何度も同じ失敗を繰り返すか――がわかるようになれば、そのうちの一部は、どうすれば防げるかが見えてくるだろう。


【『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー/熊谷淳子訳(早川書房、2008年)以下同】


 これはかなり良心的な手心を加えた言い草となっている。我々の「不合理な行動」を知ったところで現実に生きているのは高度情報化社会であるからだ。しかも情報の取捨選択、リテラシーは飽くまでも恣意的(しいてき)に行われており、脳の情報処理は認知バイアスを避けることができない。


 つまり、「メディアバイアス×認知バイアス=自分の判断」という図式になっている。


 ダン・アリエリーの文章は人間というリアリティに支えられている。わかりにくい理屈とは無縁だ。彼は18歳の時、全身の70パーセントに火傷(やけど)を追っている。その後、3年間もの入院生活を余儀なくされた――


 友人や家族と同じ毎日をすごすことができなくなり、社会から半分切りはなされたように感じた。そのため、以前は自分にとってあたりまえだった日々の行動を、第三者のように外から観察するようになった。まるでべつの文化から(あるいは、別の惑星から)来たよそ者のように、自分やほかの人のさまざまな行動について、なぜそうするのかを考えはじめた。


 思春期の不安、病苦との格闘、将来への絶望――彼はそこから離れて、高い視点から自分を取り巻く世界を観察した。「見る」ことは「離れる」ことである。彼は期せずして「欲望から離れよ」というブッダの教えを実践していたといってよい。失意に打ちひしがれる自分を上から見下ろした時、彼は失意から離れていたはずだ。ダン・アリエリーは人間を通して共通原理を探った。経済原理に人間をはめ込むような真似は決してしなかった。


 では、具体的なケースを紹介しよう――


(飲食店経営コンサルタントのグレッグ・)ラップがこれまでの経験から学んだのは、値の張るメイン料理をメニューに載せると、たとえそれを注文する人がいなくても、レストラン全体の収入が増えるということだ。なぜだろう? たいての人は、メニューのなかでいちばん高い料理は注文しなくても、つぎに高い料理なら注文するからだ。そのため、値段の高い料理をひとつ載せておくことで、二番めに高い料理を注文するようお客をいざなうことができる(そして、二番めに高い料理からより高い利鞘〈りざや〉を確保できるよう調整しておくこともできる)。


 相対性は(相対的に)理解しやすい。しかし、相対性には、絶えずわたしたちの足をすくう要素がひとつある。わたしたちはものごとをなんでも比べたがるが、それだけでなく、比べやすいものだけを一所(ママ)懸命に比べて、比べにくいものは無視する傾向がある。


 わたしたちの実験が示すように、消費者が支払ってもいいと考える金額は簡単に操作することができる。つまり、消費者はさまざまな品物や経験に対する選考や支払い意思額を自分の思いどおりには制御できていない。


 値段の変化に対してわたしたちが示す感応度は、真の選好や需要の度合いの反映などではなく、過去に支払った金額の記憶と、過去の決断との一貫性を維持したいという願望によるところが大きいのかもしれない。


 ストックホルム症候群も、「閉ざされた状況下において劇的な場面が展開されることで極端に選択範囲が狭まった状態」と考えれば、恋愛感情が芽生えることも理解しやすい。


 不合理な行動の原因は「比較トラップ」にあったのだ。物事を判断する際、比較対象は自分の経験を通して矮小化(わいしょうか)される。こうして広い世界は自分を媒介して狭くなってゆく。


 ダン・アリエリーは唯一の解決策は「相対性の連鎖を断つことだ」と指摘している。掘り下げられたテーマがどんどん哲学性を帯びてくる。では、その向こう側に現れるべき「絶対性」は何なのか?


 これは環境問題大衆消費社会の論点に直結している。


 答えは明らかだ。欲望をコントロールするしかない。つまり「少欲知足」だ。「欲少なくして足るを知る」生き方ができない限り、社会や世界のどこかに必ず負荷がかかる。そして答えが明らかであるにもかかわらず実践は至難だ。


 クリシュナムルティは「比較が分断を生む」と指摘している。とすると、「比較からの自由」こそ我々が追求するべき自由なのだろう。ヒエラルキーにまつわる「集団と暴力の問題」も比較に根差している。

予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)