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2011-04-09

心臓の鼓動が体中にメッセージを伝えている可能性もある/『心臓は語る』南淵明宏


 著者は『ブラックジャックによろしく』という漫画作品に登場する北三郎のモデルとなった人物。テレビ東京の「主治医が見つかる診療所」で見たことがある人も多いだろう。(※画像検索


 わかりやすい文章で心臓を解説。日本の医療に対する苦言も綴られていて、信頼の度合いが深まる。患者を一人の人間として見つめる眼差しに好感がもてる。


 心臓の左心室から送り出された血液が、再び左心室に戻ってくるまでの時間は、13〜15秒。心臓から送り出された血液は、体の中をグルグルと回り、13〜15秒で1周しているのです。


【『心臓は語る』南淵明宏〈なぶち・あきひろ〉(PHP新書、2003年)以下同】


 実はこれを確認する目的で読んだ。1分間で1周すると計算しても、時速200km程度になるらしい。

 空間の直線距離を走るのとは違うのだろうが、それにしても循環器系のダイナミズムが伝わってくる。微細な川が体内を駆け巡っているのだ。血液の奔流は生のイメージに相応しい。


 心臓は動力源であり、熱源であると述べましたが、さらに音源にもなっています。収縮、拡張を繰り返しながら、ドクン、ドクンという音を出しています。また、拍動のリズムのほかにも、細かい振動や雑音なども出しています。


 酔っ払って枕に耳を当てて寝ると心臓の音が実によく聴こえる。不整脈まではっきりとわかる。心臓はひとときも休むことがない。一生の間に心臓は20億回打つ。

心臓は“浪”を通じて体中にメッセージを伝えている可能性もある


 私たち医師は、心臓から発せられる音を、心臓の異常を発見するための要素として利用しています。

 しかし、本当は心臓がつくり出している音、つまり波動は、もっと重要な役割をもっているのかもしれません。

 本来、波動というのはものすごい表現力を持っています。私たちが発している声も波動ですし、携帯電話などでやりとりする音声がデータも電波という波動で伝わっていきます。光ファイバー通信も光という波動で情報をやりとりします。ちなみに、SF映画『レッドプラネット』の火星人からのメッセージや、『コンタクト』の“ベガ”空の電波も波動が表現の手法でした。つまり、波動は、とてつもなく大きな情報量のやりとりをできるわけです。

 だとすると、心臓が波動(脈波)を通じて、体中に何か情報やメッセージを送り届けている可能性がないとは言えません。オン、オフ、オン、オフという大きな波によって解を刻んでいて、体に時間を伝えているのかもしれませんし、大きな波の中に隠れた小さな波によって、体をコントロールするための情報を伝えているのかもしれません。


 卓越した直観力であると思う。当否はともかくとして。波動が変化を告げることに異論はないが、情報の意味を読み解くことは不可能だろう。川のせせらぎや潮騒から感じ取れるのは、増水の危険だけだ。


 しかし体内の細胞は何かを感知するのかもしれない。津波は陸上において惨禍を及ぼすが、海中ではそれほどでもあるまい。つまり体内を海中と見立てることが可能だ。当然、固体や液体を介しているから音は伝わりやすい。


 生とはオン、オフの連続が奏でるリズムなのだ。世界はまばたきというオン、オフによって出現する。睡眠と覚醒もまたオン、オフであろう。生と死が波のように寄せては返す。


 存在とは震動なのだろう。生きるとは魂を振るわせることだ。心の弦(いと)を掻き鳴らせ。

心臓は語る (PHP新書)

2010-05-29

片麻痺患者の体性感覚/『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三


 脳血管障害で左右いずれかの半身に麻痺症状が現れることを「片麻痺」(かたまひ)という。昔は半身不随といわれたが、これだと下半身なのか左右なのかがわかりにくい。


 脳内の血管が詰まったり(梗塞性)破れたり(出血性)して何らかのダメージを負うと、身体機能が部分的に損なわれる。片麻痺患者の多くは嚥下障害(えんげしょうがい)や失語症を伴う。


 認知運動療法は身体イメージを把握することから始まる。では片麻痺患者の身体イメージはどういったものなのか――


 複数の脳卒中麻痺患者に、目を閉じて、自分の身体を感じてみることを要求し、その状態をより詳細に聞いてみる。すると、驚くべきことに、多くの患者が訴える身体空間は、いわゆる目に見える身体のような姿や形をしていない。

 まず、片麻痺の体性感覚を詳細に検査すると、身体各部の構成部分が何ヵ所も欠損している場合が多い。たとえば「足に触れる感触は踵(かかと)と足底の外側だけで、足の上部はまったくなにも感じない、また、足指は動かされてもまったく感じない」と訴えた患者がいた。「目を閉じれば足指の何本かが欠落しており、その先端のみ微かに存在している。下肢は膝から下が存在せず、足部は遠く離れていて、踵と拇趾(ぼし)の一部は存在しているものの、その他の足の表面は欠落している」と訴えた患者がいる。

 つまり、目を開ければ手や足の全体的な形態は確認できるが、目を閉じれば手足の欠損部分が何ヵ所かに分散しており、一つの形態としての全体性がないように感じているのである。そして、漠然と「白い霧がかかったようだ」と足部の現実感のなさを比喩(メタファー)に変えて訴えることが多い。


【『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三〈みやもと・しょうぞう〉(講談社現代新書、2008年)】


 これはもう「人間MRI」といっていいだろう。患者が語る感覚は、まだらになっている脳の状態そのものと思えてならない。人間の感覚とはかくのように鋭く、正確なのだ。


 視覚イメージと感覚イメージとの乖離(かいり)――つまり、「見える世界」と「感じる世界」がバラバラになってしまっているわけだから、認知レベルでも心理レベルでも混乱状態に置かれているといってよい。そんな凄まじい世界で彼等は生きているのだ。


 昨日、買い物に行った。帰る道すがら私は左手に5kgの米を、右手には買い物袋をぶら下げていた。この状態が一生続いたとしたらどうなるだろう?


「ここに入ってこられる方は、病気やけがと闘って、脳に損傷を受けながらも生き残った勝者です。勝者としての尊敬を受ける資格があるのです。みなさんも患者さんを、勝者として充分に敬ってください」


【『壊れた脳 生存する知山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年/角川ソフィア文庫、2009年)】


 身体障害者は障害という極限状況を生きる人々である。その意味で健常者にとって未踏の険難に挑んでいる人々といってよい。しかし、資本主義に毒されてしまった我々の価値観は人間を、生産や労働でしか測(はか)れなくなっている。金の奴隷と化した人間からすれば、障害者はお荷物でしかない。


 明らかに間違っている。否、狂っているというべきだろう。我々の視線は既に人間を捉えることができなくなってしまった。技術や才能、自分にとって役に立つか立たないか、そういった損得勘定で人間を測っているのだ。質量×距離×時間だ。


「障害者のために何かしたい」という気持ちはもちろん尊い。しかし本当は、障害者に教えを請うべきなのだ。誰よりも生の厳しさと豊かさを知る先達と仰ぐことができれば、社会は幾分まともになっていることだろう。

脳のなかの身体―認知運動療法の挑戦 (講談社現代新書 1929) (講談社現代新書)

2010-04-13

視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

 子供の時分から「目が見えること」が不思議でならなかった。超能力や超常現象よりもはるかに不思議である。「幽霊を見た」ことよりも、まず目が見えることを驚くべきなのだ。


 もちろん視覚だけではない。五感のすべてが同じように不思議だ。それは結局、感覚器官を司る脳の不思議であった。ここ数年にわたって脳や視覚に関する書籍を読んできて、ブログにもわざわざ「視覚」というカテゴリーを設けている。本書は視覚に関する決定版であると断言しておこう。


 長い間、目は「見えている」と考えられてきた。つまり、カメラが写真を撮影するように目蓋(まぶた)を開けば、そこに世界が映るというわけだ。ということは万人が同じ世界を見ていることになる。


 思春期の私が疑問を抱いたのは「あばたもえくぼ」という諺(ことわざ)だった。惚れてしまえば、ニキビの痕(あと)もえくぼに見える。友人から「好きな子がいる」と打ち明けられるたびに、「あんな女のどこがいいんだ?」と思ったことが何度もあった。


 教訓その一──人は主観によって世界を見つめている。


 また、あなたが見ている「赤」と私が見ている「赤」は厳密には違うことが近年明らかになってきた。人の数だけ「赤」があるってわけだよ。ま、薄い色のサングラスみたいなフィルターがかかっていると考えればいいだろう。


 脳や視覚というのは実験することができない。ゆえに、事故や病気などによる障害を通して手探りで研究されているのが現状だ。その中で最も有名なのが1958年に手術で目が見えるようになったブラッドフォードである。視覚に関する書籍にはよく引用されているエピソードである。ブラッドフォードは「見えた世界」を理解することができなかった。特に「人の顔」を見わけられなかった──


 手術後、視力そのものがどんなに回復しても、ほかの人たちと同じようにものを見られるようになった患者は一人もいない。視覚のいくつかの面は文句なしに機能したが、まったく機能しない面もあったし、ほかの人たちと異なる不可解な機能の仕方をした面もあった。ほぼすべての患者は手術後すぐに、動くものと色を正確に認識できた。最近まで目が見えなかったとは信じがたいほど、高い認識能力を示す。しかしそれ以外となると、そうはうまくいかなかった。

 ブラッドフォードもそうだったように、患者たちは人間の顔がよくわからなかった。高さや距離、空間を正確に認識することにも苦労した。こういう状態では、視覚を通して世界をきちんと理解することができない。視覚以外の手がかりに頼らずに、目の前にある物体の正体を言い当てることも難しかった。それまでに手で触れてよく知っているはずのものでも、その点は同じだった。いわば視覚のスイッチを「オン」にするために、いま目で見ているものに手で触れようとする患者が多かった。手で触れることができないと、途方に暮れてしまうようだった。

 理解不能な映像の洪水に押し流されて、混乱し、いらだち、疲れてしまう場合も多かった。とりたてて努力せず無意識にものを見て理解できる患者は、一人もいなかったようだ。ものの大きさや遠近感、影には、多くの患者が悩まされた。世界は意味不明のカラフルなモザイクにしか見えなかった。目に映像が流れ込んでくるのを押しとどめるために、目を閉じてしまう人もいた。あるものを見ても、次のものを見たときにはもうすっかり忘れてしまう人もいた。絵や写真を理解できる人はほとんどいなかった。勘をはたらかせたり、視覚以外の感覚を動員したりして、視覚による理解を助けている人も多かったが、とんでもない思い違いをする場合も少なくなかった。

 しかも、これはあくまでも視覚レベルに限った問題でしかない。心の問題はこれよりはるかに深刻だった。

 視力を取り戻した人たちは、深刻な鬱状態に落ち込んだ。そこから抜け出せた人はほとんどいなかったようだ。この種の患者の症例を収集してドイツで出版された『空間と視覚』という文献の著者M・フォン・センデンは、次のように述べている。


 数々の症例報告全体から言えるのは、このような患者にとって、ものの見方を学ぶことは、数知れない困難がつきまという一大事業だということである。手術により光と色という贈り物を与えられればさぞうれしいにちがいないという一般の思い込みは、患者たちの実際の気持ちとまったくかけ離れているようだ。


【『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン/池村千秋訳(NTT出版、2009年)以下同】


 このため後天的に視覚を得た人々は例外なくうつ病になっている。


 ところが本書の主人公マイク・メイはおとなしい視覚障害者ではなかった。3歳の時に爆発事故で失明。ところがマイクは走ることを恐れない。何と自転車にまで乗り、アマチュア無線好きが高じて、50メートル以上の鉄塔に登ってアンテナの向きを変えたこともあった。いたずらで、わずかな距離ではあるが自動車の運転までしたこともある。大学生の時にはアフリカのガーナへ留学。障害者アルペンスキーでも世界選手権に出場し、金メダルを三つ獲得。チャレンジ精神の塊(かたまり)みたいな男で、大学院を出た後は、何とCIAに就職している。そして彼は目が見えないにもかかわらずブロンド美人としか付き合わなかった。


 マイク・メイにとって障害は、人生の障害ではなかった。目は不自由だったが自由に生きた。メカにも強い彼は、視覚障害者用のGDP装置を開発する経営者になっていた。手術すれば見えるようになるかもしれない──眼科医から告げられた時、彼は大いに悩んだ。なぜなら何ひとつ不自由はなかったからだ。ところが、光を取り戻すことができたとしても、強い薬を服用するため発癌リスクが高くなると告げられた。つまり、目と引き換えに命を差し出すことになるのだ。だが彼はマイク・メイだった。挑戦こそが彼の本領だ──


 ところがグッドマン(医師)は消毒や包帯のことなどひとことも口にせず、妙なことをし、妙なことを言った。親指と人差し指でまぶたを開かせながら尋ねた。「少し、見えますか?」

 ズドーン! ドッカーーーーーン!

 白い光の洪水がメイの目に、肌に、血液に、神経に、細胞に、どっと流れ込んできた。光はいたるところにある。光は自分のまわりにも、自分の内側にもある。髪の毛の中にもある。吐く息の上にもある。隣の部屋にもある。隣のビルにもある。隣の町にもある。医師の声にも、医師の手にもくっついている。嘘みたいに明るい。そうだ、この強烈な感覚は明るさにちがいない。とてつもなく明るい。でも痛みは感じないし、不愉快ですらない。明るさがこっちに押し寄せてくる。それは動かない。いや、たえず動いている。いや、やっぱりじっと動かない。それはどこからともなくあらわれる。どこからともなくやって来るって、どういうことだ? すべて白ずくめだ。グッドマンの尋ねる声がまた聞こえる。「なにか見えますか?」。メイの表情が満面の笑顔に変わった。自分の内側のなにかに衝き動かされて笑い声を上げ、言葉を発した。「なんてこった! 確かに見えます!」。ジェニファーは心臓がドキンドキンと脈打ち、喉が締めつけられた。「ああ、神様」

 光と出会って1秒後、明るさが質感をもちはじめた。このものに手で触れられないのか? その1秒後、明るさは四方八方から押し寄せるのをやめ、ある一つの方向からやって来るように思えてきた。あっちだ。頭上のブーンという音のするほうからやって来る。ほんの一瞬だけ、光から意識が離れて、診察室のブーンという音の源は蛍光灯だという知識を思い出した。そう思って光に意識を戻すと、その光が特定の場所から、頭の上の蛍光灯からやって来るのだと確信できた。その1秒後、光はもはや単なる光ではなく、目の前ではっきりとした明るい形をを取りはじめた。まわりにあるのは壁だろう。頭の上から降り注ぐ光とは別の光だから、きっとそうだ。どうして光が違うかは考えるまでもなかった。それは色が違うからだ。そう、色だ! 幼いころに親しんでいた、色というものだ! いま、色のスイッチが押されたのだ。


 まるで「悟り」を描いているようだ。「見る」とはこれほど劇的な感覚なのだ。光の粒という粒が目に突き刺さるような感覚が凄まじい。「神は言われた。『光あれ』」(旧訳聖書「創世記」)、そしてブッダは白毫(びゃくごう/眉間の白い毛)から光を放って世界を照らした。仏典では物質のことを「色法」(しきほう)と表現するが、その意味すらもマイク・メイは教えてくれている。彼が生きる世界は一変した。


 診察室を出て、待合室に足を一歩踏み出すと同時に、メイは固まってしまった。この美しく輝かしい空間はいったいなんなのか。このあまりに素晴らしいものの数々はいったいなんなのか。四方八方から色と形が降り注いできた。忙しそうな人たちがてんでんばらばらの方向に歩いていく。その場にあるものはどれも極大サイズに見えた。周囲を見回し、きらびやかな待合室をすべて目の中に取り込もうとした。足元に目を落として、思わず驚きの声を上げた。

「この形! この色! これは、カーペットの上に載ってるの?」

「ええ、カーペットの一部よ」と、ジェニファーが説明した。「カーペットのデザインなの」

 まわりには、診察の順番を待つ人たちが座っていた。その誰一人として身じろぎ一つせず、落ち着き払っているように見える。このカーペットに目もくれず、ぼけっと座っているなんて、メイには信じられなかった。こんなにすごいカーペットが目の前に存在しているというのに、どうして平気な顔をしていられるんだ?


 きっと我々も生まれてから間もない頃は、同じような感動を味わったことだろう。そして、いつしか慣れ、当たり前となり、心は鈍感になっている。目が見える幸福を我々は味わうことができなくなってしまったのだ。豊かな世界はもはや灰色にしか映らない。


 その後、マイク・メイには視覚障害があることが判明する。他の患者同様、やはり人の顔を見わけることができなかった。男か女かもわからないのだ。また彼は錯視画像を見ても錯覚することがなかった。例えば直線だけで描かれた立方体を我々が眺めていると向き(奥行きを感じる部分)が反転することがあるが、彼には正方形と直線にしか見えなかった。立方体と認識することもできないのだ。


 つまり、目は「見えている」のではなく「映像の意味を読み解いている」のだ。


 すべてのカギを握るのは、文脈と予測。この二つの武器が使えるのと使えないのとでは大きな違いがあった。


 私はまたしても悟りを得てしまった(笑)。これは凄い! 結局、視覚の最大の特徴は「錯覚できる」ところにあるのだ。錯視は単なる見間違いではなく、視覚が紡ぎ出す物語性なのだ。ということは、「世界」はそこに存在するものではなくして、我々が想像することで像を結んでいると考えることも可能だ。そして世界とは意味に他ならない。

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生


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2009-12-19

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五陰仮和合(ごおんけわごう)がよく理解できる。


〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。


 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。


 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。


 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。


【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】


 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。


 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。


 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。


 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。


 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。


 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。


 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)


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2009-04-08

ツボは神経の交差点/『一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本』加藤雅俊


 身内に障害者がおり、何かの役に立てばと思って読んでみた。私自身は生まれてからこのかた、ただの一度も肩凝りを経験したことがない。マッサージとも無縁で、床屋で肩を揉まれるのもくすぐったくて苦手だ。


 結論から言おう。少しは役に立った。肩凝りなどの不快な症状がある人にはもちろん有益だ。この本が親切なのは、骨の透過イラストが挿入されているため、わかりにくいとされるツボの場所を特定しやすいこと。上手い工夫だと思う。


 何よりも重要なのは、ツボは神経の交差点であり、多くは骨のキワに存在するということ。なぜなら、人間にとって大切な神経の多くは、骨に守られるようにして体内を走っているからです。つまり、ツボは体の表面ではなく、奥にあるのです。


【『一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本』加藤雅俊(高橋書店、2008年)】


 つまり、ツボを揉む場合は「骨のキワ」にぐいっと指を押し込む必要があるということだ。ツボが刺激されると、鈍い痛みのような感覚を覚える。ズキーンとくる場所があれば、そこがツボなのだ。


 一つだけ難点があり、項目が症状別となっているためツボの重複が目立つ。探しやすいことは確かだが、三つも四つも同じ写真を掲載するのはどうかと思う。でもまあ、1000円以下の本だから許そう。


 そして大切なのは、ツボ刺激だけに頼ろうとするのではなく、適度な運動と、ストレッチや体操などもしっかりと行うことだ。その前に普段から、「姿勢を正す」ことも必要だろう。


一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本