古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 古本屋の覚え書きを検索

2009-07-22

世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト


「成功の要素」を考えてみよう。スピード、技術革新(※イノベーションだよ)、富(=食料やエネルギーなどの余剰)の獲得といったところか。異論は出さないでくれ給え(笑)。


 これらに共通するキーワードは「変化」である。スピードと技術革新は、社会の変化に対応するものであり、富の獲得は、社会の激変に備える蓄積であると考えられる。


 実のところ我々は「変化」を恐れている。だからこそ、機先を制すべく身構えているのだろう。


 共産主義は崩壊した(ことにしておく)。ソ連が崩壊した時点で、人類は計画経済よりも自由競争を選んだ。出てきたモグラの頭を先に叩けば勝者だ。資本主義は早い者勝ちである。バーゲンセールに群がる主婦を見れば一目瞭然だ。あれこそ帝国主義の縮図だ(笑)。


 1972年、世界に一石が投じられた。ローマクラブの第一報告書『成長の限界』が発表されたのだ。日本が高度経済成長の最終コーナーからゴール直線に差し掛かった頃だ。その一方でベトナム戦争はまだ終結していなかった。


 環境意識が高まったのは、1997年の京都議定書以降のこと。で、アル・ゴアのドキュメンタリー映画『不都合な真実』で花を開かせた感がある。ゴアは2007年のノーベル平和賞を授与された。満開。あとは散るのみか……。


 どうも、きな臭い。ローマクラブの指摘は早すぎる。しかも、環境に負荷を与え続けているのは先進国なのだ。先進国には応分の責任がある。


 これに対して、梅崎義人〈うめざき・よしと〉は「環境ファッショ」であり、「環境帝国主義」であると糾弾している(『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』成山堂書店、1999年)。つまり、エネルギーと食糧には限りがあり、これ以上先進国を増やすわけにいかなくなったために、環境保護という美しいテーマを掲げて、自分達だけ椅子に座ろうという魂胆なのだ。資本主義の実態は椅子取りゲームだ。


 本来であれば、まず先進国から脱石油社会を目指すべきであり、電気を消して太陽と寝起きを共にすべきであろう。


 結局のところ、スピード・技術革新・富の獲得といった価値観が環境を破壊することに、人類はようやく気づいたのだ。“真の成功”とは「持続可能」という永続性にあった――


 もしも、「世界中でもっとも成功した社会はどれか?」という質問を発するならば、私たちは、変化することこそが成功の証という、浅はかな自己満足的仮定に飛びついて、劇的に進歩し、拡大し、環境を改変してきた社会を「偉大な文明」と賛美し、まねるべきモデルとみなすのだ。たとえ、それが活力を失ったり、廃墟となってしまったりしても、である。しかし、存続が目的であるとすれば、もっとも成功した社会とは、もっとも変化しなかった社会、彼らの伝統とアイデンティティとを保持してきた社会、または、環境の搾取を合理的に制限することで、存続をはかってきた社会なのだ。これまでもっとも長く続いてきた社会、変化の恐れにうまく抗してきた社会とは、今でも狩猟採集生活をしている社会である。南アフリカのクン・サン、またはブッシュマンと呼ばれる人々、オーストラリアの先住民、森の奥深く、めったに出会わない人々などだ。


【『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト/長谷川眞理子訳(岩波書店、2008年)】


「もっとも成功した社会とは、もっとも変化しなかった社会」という指摘が凄い。我々は、スピードを捨て、技術革新を放り投げ、富の獲得を否定する必要に迫られている。一気に作ったものは、一瞬で崩壊する可能性があるからだ。

人間の境界はどこにあるのだろう?

2009-07-11

ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠


 人類の進化をコンパクトにまとめた一冊。やや面白味に欠ける文章ではあるが、トピックが豊富で飽きさせない。


 例えば、こう――


 北イラクのシャニダール洞窟で発掘された化石はネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)のイメージを大きく変えた。見つかった大人の化石は、生まれつき右腕が萎縮する病気にかかっていたことを示していた。研究者は、右腕が不自由なまま比較的高齢(35〜40歳)まで生きていられたのは、仲間に助けてもらっていたからだと考えた。そこには助け合い、介護の始まりが見て取れたのだ。「野蛮人」というレッテルを張り替えるには格好の素材だった。


【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】


 飽くまでも可能性を示唆したものだが、十分得心がゆく。私の拙い記憶によれば、フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』(早川書房、2005年)には、チンパンジーがダウン症の子供を受け入れる場面が描かれていた。


 広井良典は『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)の中で、「人間とは『ケアする動物』」であると定義し、ケアをしたい、またはケアされたい欲求が存在すると指摘している。

 つまり、ケアやホスピタリティというものが本能に備わっている可能性がある。


 ネアンデルタール人がどれほど言葉を使えたかはわからない。だが、彼等の介護という行為は、決して「言葉によって物語化」された自己満足的な幸福のために為されたものではあるまい。例えば、動物の世界でも以下のような行動が確認されている――


「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。


【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源フランス・ドゥ・ヴァール/藤井留美訳(早川書房、2005年)】


「思いやり」などといった美しい物語ではなく、コミュニティ志向が自然に自己犠牲の行動へとつながっているのだろう。そう考えると、真の社会的評価は「感謝されること」なのだと気づく。これこそ、本当の社会貢献だ。


 人間がケアする動物であるとすれば、介護を業者に丸投げしてしまった現代社会は、「幸福になりにくい社会」であるといえる。家族や友人、はたまた地域住民による介護が実現できないのは、仕事があるせいだ。結局、小さなコミュニティの犠牲の上に、大きなコミュニティが成り立っている。これを引っ繰り返さない限り、社会の持続可能性は道を絶たれてしまうことだろう。


 既に介護は、外国人労働力を必要とする地点に落下し、「ホームレスになるか、介護の仕事をするか」といった選択レベルが囁かれるまでになった。きっと、心のどこかで「介護=汚い仕事」と決めつけているのだろう。我々が生きる社会はこれほどまでに貧しい。


 せめて、「飢えることを選んだ」ラットやサル並みの人生を私は歩みたい。

人類進化の700万年―書き換えられる「ヒトの起源」 (講談社現代新書)

2008-12-21

赤ちゃん言葉はメロディ志向〜介護の常識が変わる可能性/『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン


 原初の言葉と音楽性との関係を探る学術書。専門性は相当高い。表紙がゴリラとなっているのがご愛嬌。


 乳児は「動き」よりも、「イントネーション」に反応するという――


 乳児とのやりとりがはじめての人も母親と同じくらい韻律を誇張し、乳児のほうもそれをよろこぶ。実験の結果、乳児は通常の発話よりIDS(※乳幼児への発話=赤ちゃんことば)を聞くのを強く好み、表情より声のイントネーションにはるかによく反応することがわかっている。未熟児も同様で、なでるなどの他のあやし方よりIDSのほうが鎮静効果がある。そして、子どもからの好意的な反応が非言語での会話をさらにうながすことになる。事実、韻律要素のひとつの機能は、大人同士の会話に必須のターン交替を引き起こすことにある。


【『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン/熊谷淳子訳(早川書房、2006年)以下同】


 私は弟妹3人を育てているからわかるのだが、実はこれ、凄い指摘だ。普通は表情や動作などの動きでアプローチしがちである。日本語が漢字の象徴性に依存していることを何となく実感しているためだろう。ひょっとしたら、「いないいないばあ」も、言葉のイントネーションに反応しているかも知れない。つまり、言葉を獲得する前段階では、視覚よりも聴覚がリードしているという事実を示している。


 これらの実験は、IDSでは“メロディがメッセージである”こと、つまり、韻律だけで話者の意図をくみ取れることを示している。そのメッセージがなんであれ、子どもにとっては良いものであるらしい。乳幼児が受け取るIDSの質と量は、乳幼児の成長率と相関することが示されている。


 赤ん坊が理解するのは、言葉ではなくメロディだった。吃驚仰天。これを証明するために、複数の外国語を赤ん坊に聴かせる実験が行われた――


 結果は歴然としていた。赤ん坊は提示されたフレーズの種類にふさわしい反応をした。どの言語の発話でも、無意味語の発話でも、禁止を表すフレーズには顔をしかめ、容認を表すフレーズには微笑んだ。だがひとつだけ、さほど予想外でない例外があった。日本語で話されたフレーズには子どもが反応しなかったのだ。(アン・)ファーナルドは、日本人の母親の場合、欧州言語を話す母親よりピッチ変化の幅が狭いためと考えた。この結果は、日本人の音声表現や表情が解読しづらいとする他の研究とも一致する。


 何と外国語であっても、赤ん坊はメロディの意味を正しく理解した。ということはだよ、老人性痴呆(認知症)=幼児化と考えれば、赤ちゃん言葉のメロディ志向はメッセージの伝達性を高める可能性がある。今、私は“介護の常識”を思いっきり踏みつけたところだ。足の下でまだもぞもぞしているよ(笑)。


 介護現場では、「要介護者の尊厳」に敬意を払うよう周知徹底されているが、実際はぞんざいな言葉遣いが横行している。大抵の場合、これに腹を立てるのは家族だ。はたから見ると年寄りを「子供扱い」しているように見えてしまうからだ。


 ところがどっこい、そうではないのだ。私の身内にも失語症(高次脳機能障害)患者がいるが、私は天性の技術で意思の疎通ができる。失語症や認知症の場合、とにかく短くわかりやすいメッセージを伝えることが先決だ。発話が無理であれば、手を挙げて答えてもらうため、「――の人?」と聞くのが手っ取り早い(「疲れた人?」「寒い人?」「家に戻って寝たい人」など)。慣れてくると、3回ほどの質問で言いたいことを理解できるようになる。


 介護現場というのは、理論よりも経験則に沿った行為が重んじられる。ゆっくりと話しかけ、文節を尻上がりに間延びさせ、敬語を割愛する。すると、素人が聞けば殆ど赤ちゃん言葉になってしまうのだ。ヘルパーの皆さん、理論はここに私が構築した。思う存分、赤ちゃん言葉を使用されたし。中には、「赤ちゃんプレイ」を好むジイサンだっていることだろう。

歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化

2008-09-25

米国では大人の半分が天地創造を信じている/『赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源』ポール・ブルーム


 アメリカ南部では、ダーウィンの『進化論(正式名称は「種の起源」)』を掲載している教科書が採用されないことは知っていた。でもまさか、大人の半分が神による天地創造を信じているとはね。


 とはいえ、この説(ダーウィンの自然選択説)を絶対に受け入れない人たちもいる。米国では、大人の半分が、種の起源は神による創造だと考えている。ある研究では、大学卒業生の3分の1が、適切な人類学のコースを取った後でもなお、最初の人間が現れたのはエデンの園であり、「種の起源自体が神による創造だった」と考えていることがわかった。


【『赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源』ポール・ブルーム(ランダムハウス講談社、2006年)】


 運命論というのは非常に便利で、あらゆる出来事を運命で片づけることが可能だ。キリスト教の論理でいけば、イラク戦争も神が定めた運命であり、広島・長崎に原爆を落としたのも、また運命ということになる。ここでいう運命とは、“成り行き”という意味ではなく、全知全能の神が天地創造した時、そのようにプログラムされていたという意味である。ったく、とんでもない話だよな。本当に神様がいるなら、真っ先にアメリカに天罰を下しているはずだ。


 以下のアメリカとキリスト教関連リンクも併読されよ――

赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源

2008-05-07

“思いやり”も本能である/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール

「本能」の定義が変わるかも知れない、と思わせる内容。取り上げられているのはチンパンジーとボノボ。同じ類人猿でも全く性格が異なっている。わかりやすく言えば、チンパンジーは暴力的な策略家で、ボノボはスケベな平和主義者。社会構造も違っていて、ボノボはメスが牛耳っている。

  • 動物の世界は力の強い者が君臨している。
  • 食べる目的以外で殺すのは人間だけ。
  • 動物は同種同士で殺すことはない。
  • 動物には時間の概念がない。
  • 動物は「会話する言葉」を持たない。
  • 快楽目的の性行為をするのは人間だけ。

 これらは全て誤りだった。丸々一章を割いてボノボの大らかな性の営みについて書かれているが、まるでエロ本のようだ(笑)。ビックリしたのはディープキスもさることながら、オス同士でもメス同士でも日常的に性的な触れ合いがあるとのこと。


 あまりの衝撃に翌日まで脳味噌が昂奮しっ放し(笑)。知的ショックは脳を活性化させる。読めば読むほど、「ヒト」はチンパンジーからさほど進化してないことを思い知らされる。ボノボはエッチだが、穏和なコミュニティを形成していて人間よりも上等だ。


 メガトン級の衝撃は、「“思いやり”も本能である」という考察だ。我々が通常考えている「人間性=非動物的、あるいは非本能的」という図式がもろくも崩れる。全てはコミュニティを存続させるため=種の保存のための営みであることが明らかになる。


 今世界は、米国というボスチンパンジーに支配されている。日本は自民党チンパンジーが支配し、大企業チンパンジーが後に続いている。ヒトがボノボに進化しない限り、滅亡は避けられない。そんな気にさせられる。


 野生チンパンジーに対する先入観は、さらにくつがえされる(1970年代、日本人研究者によって)。それまでチンパンジーは、平和的な生きものだと思われており、一部の人類学者はそれを引きあいに出して、人間の攻撃性は後天的なものだと主張していた。だが、現実を無視できなくなるときがやってくる。まず、チンパンジーが小さいサルを捕まえて頭をかち割り、生きたまま食べる例が報告された。チンパンジーは肉食動物だったのだ。


「ベートーヴェンエラー」とは、過程と結果はたがいに似ていなければならないという思い込みである。

 完璧に構成されたベートーヴェンの音楽を聴いて、この作曲家がどんな部屋に住んでいたか当てられる人はいないだろう。暖房もろくにない彼のアパートメントは、よくぞここまで臭くて汚い部屋があると訪問者が驚くほどで、残飯や中身の入ったままの尿瓶、汚れた服が散乱し、2台のピアノもほこりと紙切れに埋まっていた。ベートーヴェン本人も身なりにまったくかまわず、浮浪者とまちがわれて逮捕されたこともある。そんなブタ小屋みたいな部屋で、精緻なソナタや壮大なピアノ協奏曲など書けるはずがない? いや、そんなことは誰も言わない。なぜなら、ぞっとするような状況から、真にすばらしいものが生まれうることを私たちは知っているからだ。つまり過程と結果は、まったくの別物なのである。


 2対1という構図は、チンパンジーの権力闘争を多彩なものにすると同時に、危険なものにもしている。ここで鍵を握るのは同盟だ。チンパンジー社会では、一頭のオスが単独支配することはまずない。あったとしても、すぐに集団ぐるみで引きずりおろされるから、長続きはしない。チンパンジーは同盟関係をつくるのがとても巧みなので、自分の地位を強化するだけでなく、集団に受けいれてもらうためにも、リーダーは同盟者を必要とする。トップに立つ者は、支配者としての力を誇示しつつも、支援者を満足させ、大がかりな反抗を未然に防がなくてはならない。どこかで聞いたような話だが、それもそのはず人間の政治もまったく同じである。


 ふだん動物と接している人は、彼らがボディランゲージに驚くほど敏感なことを知っている。チンパンジーは、ときに私自身より私の気分を見抜く。チンパンジーをあざむくのは至難のわざだ。それは、言葉に気をとられなくてすむということもあるのだろう。私たちは言語によるコミュニケーションを重視するあまり、身体から発信されるシグナルを見落としてしまうのだ。

 神経学者オリヴァー・サックスは、失語症患者たちが、テレビでロナルド・レーガン大統領の演説を聴きながら大笑いしている様子を報告している。言語を理解できない失語症患者は、顔の表情や身体の動きで、話の内容を追いかける。ボディランゲージにとても敏感な彼らをだますことは不可能だ。レーガンの演説には、失語症でない者が聞いても変なところはひとつもない。だが、いくら耳ざわりの良い言葉と声色を巧みに組みあわせても、脳に損傷を受けて言葉を失った者には、背後の真意が見通しだったのである。


 下の階層に属する者が、力を合わせて砂に線を引いた。それを無断で踏みこえる者は、たとえ上の階層でも強烈な反撃にあうのだ。憲法なるもののはじまりは、ここにあるのではないだろうか。今日の憲法は、厳密に抽象化された概念が並んでいて、人間どうしが顔を突きあわせる現実の状況にすぐ当てはめることはできない。類人猿の社会ならなおさらだ。それでも、たとえばアメリカ合衆国憲法は、イギリス支配への抵抗から誕生した。「われら合衆国の人民は……」ではじまる格調高い前文は、大衆の声を代弁している。この憲法のもとになったのが、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)である。イギリス貴族が国王ジョンに対し、行きすぎた専有を改めなければ、反乱を起こし、圧政者の生命を奪うと脅して承認させたものだ。これは、高圧的なアルファオスへの集団抵抗にほかならない。


 民主主義は積極的なプロセスだ。不平等を解消するには働きかけが必要である。人間にとても近い2種類の親戚のうち、支配志向と攻撃性が強いチンパンジーのほうが、突きつめれば民主主義的な傾向を持っているのは、おかしなことではない。なぜなら人類の歴史を振りかえればわかるように、民主主義は暴力から生まれたものだからだ。いまだかつて、「自由・平等・博愛」が何の苦労もなく手に入った例はない。かならず権力者と闘ってもぎとらなくてはならなかった。ただ皮肉なのは、もし人間に階級がなければ、民主主義をここまで発達させることはできなかったし、不平等を打ちやぶるための連帯も実現しなかったということだ。


「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。


 霊長類は群れのなかにいると、大いに安心する。外の世界は、外敵がいるわ、意地悪なよそ者がいるわで気が休まらない。ひとりぼっちになったら、たちまち生命を落とすだろう。だから群れの仲間とうまくやっていく技術が、どうしても必要なのである。彼らが驚くほど長い時間――1日の活動時間の最高10パーセント――をグルーミング(毛づくろい)に費やすのもうなずける。そうやって相手との関係づくりに努めているのだ。野生のチンパンジーを観察すると、仲間と良好なつながりを保つメスほど、子どもの生存率が高いことがわかる。

あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源