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2010-12-14

人間が人間に所有される意味/『奴隷とは』ジュリアス・レスター

 黒い人間が白い人間に所有された。人間が人間に所有されるとはどのような状態なのであろうか? 所有する側と所有される側の間にはいかなる関係性が成立しているのだろうか? 奴隷をこき使った人々と奴隷にされた人々が過去に実在した。あなたや私はどちらの側にいるのだろうか?


 奴隷とは力によって支配された人間の異名である。欲望を実現させるために力が発動する時、そこには必ず暴力性が立ち上がってくる。


 アフリカの黒人は餌に釣られた魚も同然だった──


 アフリカでは、こぎれいなものといってはほとんどなかったし、それに赤い色の布は全然なかったんだよ、とジューディスおばあさんは言いました。じっさい、布なんて全くなかったんです。ある日のこと、青白い顔をした見知らぬ人たちが、何人かやってきて、赤いフランネルのちいさな切れっぱしを、地面に落っことしたんです。黒人たちはだれもかれもが、その切れっぱしを取りあいました。つぎには、もっと大きな切れっぱしが、もう少しさきの方で落とされました。で、こんなふうにして、とうとう川のところにまでやってきたんです。するとこんどは、大きな切れっぱしが、川の中と川の向こう岸に落とされました。落とされるたびにその布切れを拾おうとしながら、みんなは、だんだんと先の方へ誘われていったんです。とうとう船のところまでたどり着いたとき、大きな切れっぱしが、舷側から突き出した板のうえと、もっと先の船のなかに、落とされました。こんなぐあいにしてついに、おおぜいの黒人たちが、積めるだけその船に積みこまれました。すると、船の門が鎖をかけて閉められ、もう誰ももどれなくなってしまいました。こんなふうにして、アメリカへ連れてこられたんだよ、とジューディスおばあさんは言ってます。(リチャード・ジョーンズ ボトキン、57ページ)


【『奴隷とは』ジュリアス・レスター/木島始、黄寅秀〈ファンインスウ〉訳(岩波新書、1970年)以下同】


 赤い布切れは「小さな嘘」だった。奴隷は「騙された人々」でもあったのだ。黒人たちは立つこともままならぬ船倉に閉じ込められてアメリカへ輸送された。


 アフリカは紀元前から侵略され続けてきた。多分平和な人々であったのだろう。さらわれたアフリカ人は労働力として酷使された。鞭で打たれながら──


 鞭のひびきと、黒人の男女の泣き叫ぶ声につれて、奴隷所有者とアメリカは、裕福になっていった。


 いつの時代も繁栄を支えていたのは奴隷のような人々だった。富を生むのは労働力である。繁栄とは余剰の異名であり、搾取の分け前に与(あずか)ることを意味する。


 人間が奴隷にされうる二つの方法がある。

 ひとつは、力によってだ。人間は、垣根の背後に閉じこめられ、絶えまなく見張られ、ほんのちょっとした規則でも破ったら、手ひどく罰され、絶えまない恐怖のうちに暮らすようにされうる。

 もうひとつは、主人がしてもらいたいと望んでいるとおりのことをすれば、じぶんの利益には一番かなうのだと、そう考えるように人間を教えこむことだ。その人間は、じぶんが劣っているのだと、そして、奴隷制度を通してのみ、じぶんがやっとまあ主人の《水準》にまで達しうるのだと、そう教えこまれる(ママ)ことができるのだ。

 南部の奴隷所有者は、この両方を使った。


 我々も奴隷だ。「やってられねーよな」と言って会社を休むことは許されない。現代のシステム化された国家機能において、奴隷は教育制度を通して選別される。そして最優秀の奴隷は官僚となる。あるいは一流企業への入社を許される。


 憲法や法律が変わろうとも内実は変わらない。社会とは人間が人間を手段にする修羅場なのだ。比較と競争に明け暮れながら、我々はヒエラルキー内部の階段を上がってゆくしか選択肢がない。なぜなら国家が有する軍事力や警察力(どっちも暴力ね)に依存せずして生きてゆくことができないためだ。


「柔らかな奴隷制度」とでも名づけておこう。


 じぶんじしんの名前がなくては、奴隷がじぶんを主人から切りはなして見る能力は、弱められるのだった。奴隷は、けっして、きみは誰だね、と尋ねられることはなかった。奴隷は、「だれの黒んぼだね、おまえは?」と尋ねられるのであった。奴隷は、切りはなされた本来の自分というものを、まるで持っていなかった。かれは、いつも、何某氏の黒んぼなのであった。


「名前がない」という意味については、岡真理(『記憶/物語』)やガヤトリ・C・スピヴァク(『サバルタンは語ることができるか』)が鋭く考察している。


 自分は何者なのか? 生きてゆく中で難問が現れたり、苦難に襲われた時に「俺は俺だ」と言える人はまずいない。世界から取り残されたような思いに取りつかれ、誰も手を差し延べてくれない情況において人は透明な存在と化す。


 確かに哲学や宗教、そして人間関係は砦(とりで)たり得るが、最終的には自分の内なる世界でもって外部世界に対抗するしかないのだ。


 私に名前はあるだろうか? 世論調査のパーセンテージや選挙の一票としてカウントされ、要介護者400万人や死亡者数114万2467人(2009年人口動態統計)に含められ、消費者・納税者・視聴者として扱われる私に果たして名前はあるのだろうか? いつでも交換可能な部品のように働かされる私に名前はあるのか?


 国家によって私が労働力として扱われているとすれば名前はないのだろう。私は無色透明な日本人となる。すなわち国家が所有する奴隷が国民の実体ではあるまいか?


 あらゆる奴隷たちが、必ずしも同じ経験をもっていたわけではなかった。なかには、あまりにも奴隷らしくなってしまっていたので、奴隷制度が終わったとき、悲しんだものもいた。


 これがシステムの恐ろしさだ。ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いた世界だ。システムが人間を完全に支配すると、システムに準じて脳内のシナプス結合が行われる。特に顕著なのは宗教や政治、高度な学問世界に【依存する】人々だ。絶対的な価値観に束縛された挙げ句、物事を疑うことができなくなる。


 奴隷制度という限られた狭い世界が全世界に格上げされると、中には心地よさを覚える者まで出てくるのだ。何とも恐ろしい限りである。まったく同様に、真の自由を求めていない人は社会の奴隷といえよう。


 最後に奴隷の相対性理論を。奴隷を必要とする奴隷の所有者は、奴隷に依存していると見ることができる。つまり所有者もまた欲望の奴隷なのだ。


 所有という問題、そして比較と競争の残酷さを暴いてみせたのが、ブッダとクリシュナムルティであった。

奴隷とは

2010-11-23

カトリックとプロテスタントの風俗史/『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』永田諒一


 歴史は海のうねりのようにゆっくりと動く。劇的な変化もよく目を凝らして見れば、長期間にわたって圧力や負荷に覆われていることがわかる。小事が積もり積もって大事へ至る。


 中世の宗教改革を社会史の観点から読み解いている。


 宗教改革と宗派対立の時代とされるこの16世紀と17世紀の前半は、最近の研究成果によれば、実は宗教観だけでなく、社会のどの局面をみても、中世と近代の境目に位置する重要な時期であったといわれる。


【『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』永田諒一(講談社現代新書、2004年)以下同】


 ところが、社会史はこれ(※歴史学)に対抗する形で社会の全体、あるいは中下層に焦点をあわせ、また、100年も200年も変わらない制度、習慣、ものの考え方に注目する。


 歴史学とは権力の変遷に光を当てたものなのだろう。支配、統治の関係性および社会性がテーマだ。軍事・経済が中心となるのは言わずもがな。


 歴史学を氷山とするなら、社会史は氷山に該当するのだろう。多分。あるいは鍋底か。


 試みとしては興味深いのだが、如何せん面白くなかった。悪い意味での教科書本といっておこう。大きなテーマを欠いているようにも感じた次第だ。


 宗教改革はどのように展開したか──


 とりわけ宗教改革派は、活版印刷術を用いて安価で大量の宣伝パンフレットを流布させ、ひとびとの支持を獲得するとともに、自らの勢力基盤を確立した。「活版印刷術なくして宗教改革なし」といわれるゆえんである。宗教改革は、印刷物というマスメディアを用いた、歴史上最初の思想宣伝運動であった。


 何とプロパガンダ工作によってであった。現代においては新聞・テレビ・週刊誌が衣鉢(いはつ)を継いでいる。戦略的布教、あるいは洗脳、または詐欺。メディアよ、汝を嘘と名づけよう。思想宣伝が出版によって行われているのは現代でも同様だ。


 この時代の識字率がどの程度であったか触れられていないが、いずれにせよパンフレットが紙つぶてとなって時代を揺り動かしたのだ。当然何らかの衝撃が走ったわけで、キリスト教社会において神を再確認せざるを得なくなるような発見があったはずだ。パラダイムシフト。


 例えば、一般信徒は、聖書の教えを聖職者から口頭で聞き学ぶべきで、自ら聖書を読む必要はない、あるいは、読んではならないとされていた。ラテン語で書かれた聖書は、聖職者たちが占有する門外不出の聖典であり、それを各地域の言葉に翻訳することは固く禁じられていた。(中略)ラテン語の聖書を自分たちの日常の言語に翻訳する試みも行われたが、そのような行為をするひとびとは異端として弾劾された。


 教会や寺院は必ず閉ざされてゆく。ヒエラルキーの頂点を高くしようと目論んで必ず失敗する。信仰にありがたみという付加価値をつけようとしてインチキを行う。その動機は金と名誉。


 門外不出、禁コピー、マル秘──結局、権力とは情報へのアクセス権限であることが理解できよう。「お前は知る必要がない」ってわけだよ。内容はどうでもいい。人々が知らない情報を自分が知っているというだけで欲望を満たすことが可能だ。


 当然のようにダブルスタンダードとなる。本音と建て前、隠された意図が知る者と知らざる者との懸隔を築く。キリスト教はテキスト教でもある。だから教義という鋳型に無理矢理人間をはめ込もうとする。神のせいで人間は二次的な存在となり、現実世界は天国の下部構造へと格下げされる。そしてここが暴力の温床となるのだ。


 マルティン・ルター贖宥状(しょくゆうじょう)について「95ヶ条の論題」をもって質(ただ)した。彼は神学上の質問をしたにすぎなかった。だから神学上の根拠があるかどうかを問いかけただけであった。


 とりわけ、当時ドイツで販売されていた贖宥状は、買った当人だけでなく、別のひと、それもすでに死んで、ちょうど今煉獄で苦しんでいるひとにも有効と定められていた。

 この規定は、贖宥状の販売実績を飛躍的に伸ばすことになった。


 巧みなマーケティング戦略だ。悪知恵の見本。あの世にまで伸ばされる商いの手(笑)。教会の入り口では「おいでやす」と言っていたに違いない。


 一方で宗教改革という知的ムーブメントが台頭し、他方では魔女狩りの嵐が吹き荒れていた。ここを本当は掘り下げてもらいたかったんだよね。西洋の中世史ってのはさ、一言でいえば「言ってることとやっていることが違いすぎる」のよ。ま、二重人格だわな。


 勘案するに我々の社会のネットワーク環境は、歴史を動かし安くなっていることだろう。だからブログであろうとツイッターであろうと、自分が感じた何かを伝える営みが大切だ。たとえ文句や愚癡の類いであろうと、ある瞬間に燎原の火の如く広がる可能性がある。

宗教改革の真実 (講談社現代新書)

2010-11-20

権威者の過ちが進歩を阻む/『科学と宗教との闘争』ホワイト

 驚くべき名著。見事な教科書本である。書かれてから何と100年以上経っている。原書は明治27年(1894年)の発行だ。1世紀という時を超えて、しかも海を渡ることなしに私は教えを請うことができるのだ。読書は偉大なり。


 ホワイトは序文にこう記している──


(ジョン・W・)ドレーパー教授はこの闘争を《科学と宗教》との間の闘争と見ている。が私は、この戦いを《科学と教条的神学》との闘争である、と当時も信じていたし、いまもそう確信している。


【『科学と宗教との闘争』ホワイト:森島恒雄訳(岩波新書、1939年/改版、1968年)以下同】


 彼は敬虔なクリスチャンであった。そのため本書の内容も、科学と宗教との不干渉を主張するにとどまっている。要はきちんと棲み分けしろよ、ってな話だ。しかし歴史の事実は明らかに宗教(=教会側)に不利なものだった。ホワイトの意図は伝わらなかった。彼は囂々(ごうごう)たる非難にさらされた。


 それにしても凄い。新書のボリュームで西洋の宗教史と科学史を学ぶことができるのだから。望遠鏡で月を眺めているような気分になる。


 文明が発展するにつれて、この大地は球形だという観念が、とくにギリシャ人の間で生まれた。中でもピタゴラス派や、プラトン、アリストテレスがこの考えを抱いた。この観念はばく然としたものであり、いろいろな矛盾をまじえたものであったとはいえ、それは思想の一つの萌芽であった。


 人類の先頭に立つ人物は、「見えているもの」が違う。視点が抜きん出て高いためだ。石につまずいて転ぶ者もいれば、地球の形状に思いを馳せる者もいる。新しき思想は脳内の回路をつなぎ変える。「俺達の住む世界って、ひょっとすると……」「丸い?」「……かもな」。これだけの情報であっても人口に膾炙(かいしゃ)すれば、全人類は生まれ変わっていたかもしれない。だがそうは問屋が卸さなかった──


 カエサリアのパシリウス〔4世紀の教父、聖人〕は「大地が球であろうと円筒であろうと円盤であろうと、あるいは盆のように中凹みであろうとあるまいと、そんなことはわれわれにはなんの関係もないことだ」と公言した。ラクタンティウス〔3-4世紀のキリスト教学者、護教家〕は、天文学を研究する人々の思想を「有害無意味」といい、聖書と理性の両方面から地球球形説に反対した。聖ヨハネス・クリソストモス〔4世紀のギリシャ教会の司教〕もまた、この科学的信念への反対に力を貸した。「聖霊の琵琶」として有名なシリア教会の第一人者だったエフライムも、これに劣らず熱心に反対した。


 そびえ立つ教会は断崖絶壁の如く科学の行く末を阻んだ。教会にとっては聖書が全てであった。だとすれば世界も社会も思考も感情も、聖書に合わせて形を整える必要がある。プロクルステスのベッド、人間プレス工場、精神は鋳型(いがた)で鋳造(ちゅうぞう)されるってわけだよ。

 更に別の権威が教会に追い風を送る──


 ダンテはこの地球の所在をさらに明確なものにしたが、それは地理学的な研究にとっては重大な障害となった。


 小説の物語性が摂理にまで昇華していた。つまり価値観とは本来自由に獲得されたものではなく、あらかじめ設定されるってことだわな。価値観を社会が規定する。こうして他人との優劣の間に幸不幸が誕生したのだろう。


 こうしたあやまった観念がだいたい消失したのちでも、一般の自然現象に天国の代理人が直接的に干渉するという、聖書的な観念を棄てることが困難だったという事実はいろいろな場合に見られる。地球をひとつの球体として描いた16世紀のある有名な地図では、南北の極にそれぞれ一つの曲柄(クランク)がついており、それを使って懸命に地球を回している天使の姿が描かれている。またある地図では、雲の間からつき出された神の手が、綱で吊された地球を支え、それを指で回している。


 天体の運行を人為として捉えるのは、やはり被創造物文化の為せる業(わざ)か。よくよく考えてみれば天地創造も人為的だ。あるいは作為、工作、プラモデル。


 これは笑うに笑えない話だ。「地球を回しているのは天使様なんだってよ」「へえ、そうだったんだ!」となった瞬間に、脳内のシナプスはそのようにつながってしまうからだ。刷り込みといおうが、条件づけといおうが、マインドコントロールといおうが、結局回路の問題なのだ。回路が形成されてしまえば後の祭り。インチキ宗教やネットワークビジネスにいそしむ人々を見れば一目瞭然だ。


 正統的立場の偉大な代表者は聖アウグスティヌスだった。地球が球形だという説についてはやや譲歩の色を示していた彼も、地球の反対側に人間が存在するという思想に対しては戦いを挑んだ。「聖書はそのようなアダムの後裔についてはなにも語っていない」と彼は主張する。「人間がそんな場所に棲むことを神が許し給うはずがない。なぜなら、もしそうであれば、キリストの再臨に際して空より降臨したもう主の姿を、対蹠面に住む人間は仰ぎ見ることができないだろうから。」

 アウグスティヌスよ、お前もか。でも、最大の犯人はアリストテレスなんだよね。影響力が大きい人ほど、権威者であればあるほど、その害毒もまた甚大なるものがある。一度つながった接続は中々切れるものではない。善悪は関係ない。脳はつながりやすさだけを問うのだ。


 科学の進歩を宗教(教会)が邪魔してきたことは確かだ。しかし、よくよく突き詰めると、権威と服従という心理情況に起因していることが理解できよう。とすれば、やはりミルグラムコジェーヴが重要になってくる。


 人間は信ずべきものを信ずるのではなくして、【信じたい】ものを信ずるのだ。

科学と宗教との闘争

2010-10-31

魔女狩りの環境要因/『魔女狩り』森島恒雄

 歴史を学ぶことで人は異なる時代を生きることが可能となる。歴史を細かく裁断すれば、一人ひとりの息づかいや足音によって形成されているはずだ。そこに自分の呼吸を重ねる時、時代の息吹きはどこからともなく伝わってくる。


 中世ヨーロッパは王とローマ教皇の権力が真正面からぶつかり合い、ルネサンスの光と異端審問の闇に覆われていた。欧州という一大集団による熱狂とヒステリーの時代。大輪の文化の花を咲かせる一方で、魔女を火あぶりにした。


 では中世のおさらいをしよう。中世はゲルマン民族の大移動(4〜5世紀)に始まる。十字軍の遠征が11〜13世紀。これによって欧州は版図を拡大した。ルネサンスの興隆が14〜16世紀である。


 キリスト教を公認したのはコンスタンティヌス1世(272〜337年)で4世紀には国教とする国も出てきた。つまり、欧州全体にキリスト教が流布した時代が中世であったと考えてよかろう。(→まずかったら教えて)


 異端審問=魔女狩りではないが、異端視するという行為なくして魔女狩りは成立せず、キリスト教コミュニティにおける差別的な視線が温床になったことは確実だと思われる。


 1970年代以降の魔女狩り研究によれば、異端審問が12世紀から急増し、魔女狩りが行われたのは15〜18世紀と考えられている。また欧州全土というよりは小領邦ほど激しい魔女狩りが行われていたとされる。既に勢いに任せて書いてしまった以上、前言はそのままにしておく。(ここまで調べるのに2時間経過)


「近ごろ、北ドイツとライン諸地域で、多くの男女がカトリック信仰から逸脱し(魔女となって)男色魔、女色魔に身をまかせ、もろもろのいまわしい妖術によって田畑の作物や果実を枯らし、胎児や家畜の子を殺し、人畜に苦痛と病気を与え、夫を性的不能、妻を不妊にし、多数の人々の災厄の原因となっていることを、われわれははげしい悲しみと苦しみとをもって聞いている。(中略)

 そこで、われらは、彼ら審問官が自由に、あらゆる方法をもって、なにびとをも矯正し、投獄し、処罰する権限をもつべきことを命ずる。」(ローマ法皇インノケンティウス8世の長文の『法皇教書』1484年12月5日付よりの抜粋。法皇派遣の異端審問官が自由かつ強力に魔女狩りを実行しうるよう、各地の司祭に協力を命じたもの)


【『魔女狩り』森島恒雄岩波新書、1970年)以下同】


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 民衆法定から始まった魔女狩りにカトリック教会が手を貸したのが15世紀のこと。結局、どっちにしても15世紀なんだよな。ああ、うんざり。


 魔女は元々悪魔であった。キリスト教における悪魔がどんなものなのか、私は不勉強にして知らない。神が天地創造したとすれば、悪魔を創造したのも神様じゃないのか? 宗教は制度化されるにつれて脅しが多くなってゆく。罪と罰、業(ごう)と報い。擬人化すれば悪魔と鬼だ。


 信仰は不安に根差している。だから不安を煽ることで信仰の火は燃え盛る。ま、心のスクラップ・アンド・ビルドみたいなもんだろう。


 上記引用文のような価値観が定着するにはどの程度の時間を要するのだろうか? 二世代あれば十分だと思われる。つまり50〜60年だ。日本において天皇を神に祭り上げたのが明治期だから、二世代と考えるのは穏当であろう。


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「のろく燃える(生ま木の)火で焼いても、魔女に対する罰としては十分ではない。地獄で待っている永遠の劫火を思えば、この世の火は、魔女が死ぬまでの、半時間以上は続かないのだから。……魔女を火刑にしない裁判官は、裁判官自身が焼かれるべきである。……魔女は、子供といえども赦してはならぬ。ただし、その幼い年齢を斟酌して、絞殺した上で焼いてもよかろう。……正規の裁判手続きに拘泥してはならぬ。それを厳格に守っていては、10万に1人の魔女も罰することはできない。……」(当時のフランスの一流の進歩的な社会思想家、政治家、経済学者、パリ高等法院の一員、ジャン・ボダンの『悪魔崇拝』1580年、より)


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 環境史から考えると、14世紀半ばから19世紀半ばにかけては小氷期とされているので、魔女狩りの時期はどんぴしゃりである。環境から受けるストレスが充満した時代と見ることもできよう。


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 1600年を中心の1世紀間はまさしく「魔女旋風」の期間であった。この期間をピークとする魔女旋風は13世紀ごろのフランスから吹き始め、やがて全キリスト教国、つまり西ヨーロッパ全土を荒しまわり、17世紀末にその余波を新大陸アメリカに延ばした後急速におさまった。

 こうして数万、数十万の魔女が絞殺され、あるいは絞殺された上で焼かれ、または生きながら焼き殺されていった。ときには何十人もが束になっていちどきに……。「魔女の処刑場は、おびただしく立ちならんでいる処刑柱で、まるで小さな林のようにみえた」と、1590年のドイツを旅した旅行者は書いている。


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 1970年以降の研究だと魔女狩りで処刑された人数は最大で4万人としている。これは多分、文献的な記録に基づいているのだろう。だが文献が全てを網羅しているとは考えにくい。魔女狩りの経済的影響を踏まえれば、4万人は少なすぎる。拷問に至る心理情況を想像してみよう。ただ殺すだけでは飽き足りないから拷問を行うのだ。実際にはありもしない自白を強要することで、殺害は正当化される。こうして正義の名の下で罪悪感を抱くことなく人殺しができるようになる。


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 この迷信と残虐の魔女旋風が、中世前期の暗黒時代においてではなく、合理主義とヒューマニズムの旗色あざやかなルネサンスの最盛期において吹きまくったということ、しかもこの旋風の目の中に立ってこれを煽りたてた人たちが、無知蒙昧な町民百姓ではなく、歴代の法皇、国王、貴族、当代一流の大学者、裁判官、文化人であったということ、そしていまひとつ、魔女は久遠の昔から、どこの世界にもいたにもかかわらず、このように教会や国家その他の公的権威と権力とが全国的に網の目を張りめぐらしこの上なく組織的な魔女裁判によって魔女狩りが行なわれたのはキリスト教国以外にはなく、かつ、この時期(1600年をピークとする前後3〜4世紀)に限られていたということ、――これはきわめて特徴的な事実ではあるまいか。

 魔女裁判の本質は、結局、この「地域」と「時期」との関連の中にある。


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 社会とはヒエラルキーで構成される階層である。それゆえ上層になればなるほど「社会が持つ価値観」の奴隷となる。社会を知っている人ほど社会を重んじる。教師は生徒に社会性を叩き込む。教育とは奴隷が奴隷を製造する作業なのだ。


 そして人間はダブルスタンダードを生きる動物である。脳が左右に分裂しているために理性と感情が同居し、ブレーキとアクセルを同時に踏むことができる。


 チト、検索のしすぎで頭が朦朧としてきた。結論を述べよう。魔女狩りはハーメルンの笛吹き男(1284年)から始まった、というのが私の直観だ。根拠は何ひとつない(笑)。しかし、魔女狩りを超倍速で眺めれば、そこに現れるのはハーメルンの笛吹き男そのものだ。連れ去られた子供たちが魔女であったのだ。


 もしも魔女狩りが奨励される時代に私が生まれたならば、私は勇んで魔女狩りに奔走したことだろう。社会はいつの時代も正しいのだから。社会というのはその時代の多数決みたいなものだ。皆が魔女を信じれば魔女は存在するのだ。だから現代だって、500年後から見れば同様の迷信が必ずあるはずだ。世界も歴史も外側からしか見ることができないのだから。


 中途半端ではあるが、本日はここまで。

魔女狩り (岩波新書)

2010-08-29

第二次世界大戦の命運を分けた人脈−チャーチル、イントレピッド、ルーズベルト/『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出

 人が歴史を動かすのか、あるいは歴史が人を育むのか。いずれにしても歴史の先頭に立つ人物が必ずいるものだ。時代の寵児(ちょうじ)、歴史の申し子、世界地図を塗り替えた男達が……。


 第二次世界大戦の命運を分けたのはイギリスのウィンストン・チャーチルだった。


 まずドイツを取り巻く米英の人物相関図を見てみよう──


 このW・A・ハリマン商会で活発にドイツ債を商ったのが、ジョージ・W・ブッシュ現アメリカ大統領の祖父プレスコット・ブッシュであった。プレスコットはローランド・ハリマンのエール大学時代の学友で、1926年5月にW・A・ハリマンの副社長として迎え入れられた。プレスコット・ブッシュはブラウン・ブラザース・ハリマン商会では執行役員になり、同社の経営に大きな影響力を持つようになった。

 こうしたウォール街の超エリートたちは、ドイツ・ビジネスを通じて政財界に広範な人脈を築き、こうしたネットワークを通じて膨大な知識と情報(インテリジェンス)をもって、以降数十年間にわたり、アメリカ政府の対独政策に大きな影響を与えていくのである。


【『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出〈すがわら・いずる〉(草思社、2002年)以下同】


 パパ・ブッシュではなくグランド・パパ・ブッシュ(笑)。で、アメリカってえのあ、元々移民の国なわけで、そのルーツはヨーロッパにある。ブッシュ家は折り紙つきの名家らしい。血統書つきのヒトってわけだよ。

 チャーチルと縁戚関係に当たるという指摘もあるが、ブッシュ爺さんはドイツにテコ入れしていた。


 この流れ(イギリスのドイツに対する宥和政策)が180度変わるのは、ウィンストン・チャーチルが首相の座に就いてからのことである。この反ナチス強硬派の政治家が政権を奪取するまでには、イギリス政界内ですさまじい権力闘争が繰り広げられ、チャーチルはやっとの思いで1940年5月10日に首相の座にたどり着く。そしてこの日が、英独全面対決のはじまりの日となったのである。

 政権を握ったチャーチルは、まずイギリス国内の宥和派、親ナチス派を、あらゆる手段で徹底的に攻撃し、対独全面戦争に向けてイギリス国内をまとめあげていくのである。


 ポイントその一──反ナチスの言い出しっぺがチャーチルであるという事実。イギリスは決して一枚岩ではなかったのだ。


 アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディの父親ジョセフ・P・ケネディは、長い間ウィンストン・チャーチルにとって目の上の瘤(こぶ)であった。ケネディはヒトラーの大ファンになり、イギリスやアメリカに根を張る親ナチス派の間に広範なネットワークを築いていたからである。


 ポイントその二──アメリカのエスタブリッシュメントの多くがヒトラー率いるナチスドイツを経済的に支援していたという事実。政治的道義は問われていなかった。


 さらに驚くことに、数多くの反戦・平和団体までがナチスや親ナチス派企業によって密かに支援を受けていた。その代表的なものが、ニューヨークのワールド・ピースウェイズだ。この団体は戦争反対のスローガンを高々と掲げて市民運動を展開し、女性や子供が戦争によって無惨にも被害にあう様子を写真入りのパンフレットで掲載し、戦争の悲惨さと参戦への反対を強く訴えていた。同団体が配付したパンフレットには、「私を戦争に送るのかどうかについて、もう少し慎重になってほしい。私だったらあなたのことを戦場に送ったり、死なせたりするのはまっぴらだし、それに、後でまた間違いを犯してしまったということで後悔したくないから……」というメッセージが記載されていた。

 こうした平和のメッセージを大量生産したワールド・ピースウェイズの運動員の多くは、戦争を心から憎む誠実な市民だったにちがいない。しかし彼らの活動資金は、「ヒトラーのもっとも重要な財産」であるIGファルベン社から出ていた。


 この手口は現在、製薬メーカーが引き継いでいる。

 ま、マーケティングの走りなのだろう。その根っこはプラグマティズムにある。風が吹けば桶屋が儲かるという図式だ。米国内で反戦運動の機運が高まればアメリカは参戦せず、というわけ。


 ここでチャーチルは一人のスパイに命運を託す──


 第一次世界大戦後、イギリスはウィリアム・ワイズマン卿というスパイをアメリカに送り、アメリカを戦争に引き込むためのプロパガンダ、情報活動を行なわせたが、チャーチル首相はこの先達(せんだつ)の例にならい、ウイリアム・S・スティーブンソン、暗号名で「イントレピッド」と呼ばれたカナダ生まれの紳士を、アメリカ合衆国に送り込んだ。

「イントレピッド」は当時44歳の実業家で、1930年代までに数多くの事業で成功を収めた億万長者であった。彼はしかしたんなるビジネスマンではなかった。商用でヨーロッパ中を飛び回っては、現地でせっせと情報収集をし、イギリスの情報機関に情報を提供する役割も果たしていたのである。


「イントレピッド」は「アメリカを参戦させる」という究極の目的のために、スパイを送り込み、郵便物を操作し、電話を盗聴し、プロパガンダ活動を行ない、敵の集会を妨害し、密かに新聞、ラジオやさまざまな組織に資金を投入して情報を操作し、偽造文書を捏造する等々、ありとあらゆる活動を展開していくわけだが、その活動を全面的にサポートしてくれるアメリカ人に恵まれた。他ならぬルーズベルト大統領である。ルーズベルト大統領は強硬な反ナチス思想の持ち主で、「イギリスを助けるためにできるかぎりの援助をしたい」と考えていた。そこで大統領は、「イントレピッド」の活動をサポートするために惜しみない援助の手を差し伸べたのである。


「イントレピッド」はまた、ボストンに拠点を置く短波ラジオの放送局WRULにも資金援助を行なった。このラジオ局は、協力な5万ワットの短波送信機を持ち、世界中に多くのリスナーを抱えていた。「イントレピッド」は密かに毎月WRULに資金援助をし、この放送局をイギリスのプロパガンダの道具に変身させた。そして『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙等の大新聞と同様、このラジオ放送局も反ナチスのプロパガンダ放送を大量に流すようになった。


 いわゆるやらせ写真がSOE(※イギリス特殊作戦部)によって大量生産され、それがアメリカの「イントレピッド」のもとに送られ、「ナチスの残虐行為」として全米のメディアに配信されたのである。


 つまり、イントレピッドがアメリカを第二次世界大戦に巻き込んだのだ。実質的には一人のスパイが連合国の勝利を決定づけたことになる。信じ難い話ではあるが。


 政治が経済を押し切った格好となった。当時のデータを見ると一目瞭然だが、イギリスよりもドイツの方が優勢であった。国力ではイギリスに勝ち目がなかった。チャーチルは何が何でもアメリカを戦争に引きずり込む必要があった。


 更に日本軍の真珠湾攻撃をいち早く知ったチャーチルが、ルーズベルトに情報提供した可能性もあるという。


 脚本:チャーチル、主役:イントレピッド、脇役筆頭:ルーズベルト、ってわけだ。


 しかしこの関係はルーズベルトの死によって終わりを告げる。第二次大戦はチャーチルの思惑通りに運んだが、ドイツの戦後処理についてはアメリカの親ドイツ派エリートが牛耳った。資本主義においては「儲ける」ことが正義なのだ。


 驚くなかれ。戦争に勝利したアメリカはドイツから技術や人を盗み取って、戦後の発展を遂げたという。技術者の戦争犯罪は不問に付した。


 世界の歴史は複雑そうに見えて、実は単純な原理で動いているのかもしれない。

文庫 アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか (草思社文庫)