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2011-04-09

心臓の鼓動が体中にメッセージを伝えている可能性もある/『心臓は語る』南淵明宏


 著者は『ブラックジャックによろしく』という漫画作品に登場する北三郎のモデルとなった人物。テレビ東京の「主治医が見つかる診療所」で見たことがある人も多いだろう。(※画像検索


 わかりやすい文章で心臓を解説。日本の医療に対する苦言も綴られていて、信頼の度合いが深まる。患者を一人の人間として見つめる眼差しに好感がもてる。


 心臓の左心室から送り出された血液が、再び左心室に戻ってくるまでの時間は、13〜15秒。心臓から送り出された血液は、体の中をグルグルと回り、13〜15秒で1周しているのです。


【『心臓は語る』南淵明宏〈なぶち・あきひろ〉(PHP新書、2003年)以下同】


 実はこれを確認する目的で読んだ。1分間で1周すると計算しても、時速200km程度になるらしい。

 空間の直線距離を走るのとは違うのだろうが、それにしても循環器系のダイナミズムが伝わってくる。微細な川が体内を駆け巡っているのだ。血液の奔流は生のイメージに相応しい。


 心臓は動力源であり、熱源であると述べましたが、さらに音源にもなっています。収縮、拡張を繰り返しながら、ドクン、ドクンという音を出しています。また、拍動のリズムのほかにも、細かい振動や雑音なども出しています。


 酔っ払って枕に耳を当てて寝ると心臓の音が実によく聴こえる。不整脈まではっきりとわかる。心臓はひとときも休むことがない。一生の間に心臓は20億回打つ。

心臓は“浪”を通じて体中にメッセージを伝えている可能性もある


 私たち医師は、心臓から発せられる音を、心臓の異常を発見するための要素として利用しています。

 しかし、本当は心臓がつくり出している音、つまり波動は、もっと重要な役割をもっているのかもしれません。

 本来、波動というのはものすごい表現力を持っています。私たちが発している声も波動ですし、携帯電話などでやりとりする音声がデータも電波という波動で伝わっていきます。光ファイバー通信も光という波動で情報をやりとりします。ちなみに、SF映画『レッドプラネット』の火星人からのメッセージや、『コンタクト』の“ベガ”空の電波も波動が表現の手法でした。つまり、波動は、とてつもなく大きな情報量のやりとりをできるわけです。

 だとすると、心臓が波動(脈波)を通じて、体中に何か情報やメッセージを送り届けている可能性がないとは言えません。オン、オフ、オン、オフという大きな波によって解を刻んでいて、体に時間を伝えているのかもしれませんし、大きな波の中に隠れた小さな波によって、体をコントロールするための情報を伝えているのかもしれません。


 卓越した直観力であると思う。当否はともかくとして。波動が変化を告げることに異論はないが、情報の意味を読み解くことは不可能だろう。川のせせらぎや潮騒から感じ取れるのは、増水の危険だけだ。


 しかし体内の細胞は何かを感知するのかもしれない。津波は陸上において惨禍を及ぼすが、海中ではそれほどでもあるまい。つまり体内を海中と見立てることが可能だ。当然、固体や液体を介しているから音は伝わりやすい。


 生とはオン、オフの連続が奏でるリズムなのだ。世界はまばたきというオン、オフによって出現する。睡眠と覚醒もまたオン、オフであろう。生と死が波のように寄せては返す。


 存在とは震動なのだろう。生きるとは魂を振るわせることだ。心の弦(いと)を掻き鳴らせ。

心臓は語る (PHP新書)

2011-03-05

統一教会の霊感商法/『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』櫻井義秀


 タイトルが上手い。素人向けの宗教社会学ともいうべき内容。真摯かつ真面目な考察。ま、面白味には欠けるわな。


 宗教とカネ。信じる者と書いて「儲ける」とはいうなり(笑)。なぜ信仰にカネがかかるのだろうか? それは宗教が生け贄(にえ)を必要とするからだ。つまりお願い事があるなら、捧げ物を出すのが礼儀だろう。完全前払い制。延長の場合は追加料金が発生する。


 2番目の理由。仏教とキリスト教の場合を考えてみよう。僧侶や聖職者が集団化すると、彼らの生活を支える必要が生じる。ブッダの時代は乞食(こつじき/托鉢とも頭陀〈ずだ〉とも)で食っていた。「お恵みを」ってわけだ。キリスト教の場合はどうだったんだろうね? 中世以降は宗教的世界侵略を実践して貿易事業などを行っていたはずだ。詳細は不明。勉強しておきます。


 檀那(だんな)という言葉は仏教におけるパトロンのこと。寺社は経済的なバックアップで成り立っていた。何となく相撲や花柳界と似ている。中世ヨーロッパのクラシック音楽も同様だ。


 民主主義となった現代ではどうなのか? ま、国家予算を支えているのが税金である以上、会費という形になるのだろう。好きで信仰に励んでいるわけだから、勝手に払えばよい。


 ところがどっこい、そうは問屋が卸(おろ)さない。宗教団体が搾取システムと化しているケースがあるためだ。櫻井はこれを「スピリチュアル・ビジネス」と呼ぶ。


 この後の商売をスピリチュアル・ビジネスと名づけたい。ネットワーク・ビジネスはモノを介在させて人の欲を取引する。スピリチュアル・ビジネスは、商品がスピリチュアルなものであるほか、取引する行為自体がスピリチュアルなサービスにもなる。若い人、生活に不安を抱える人、競争に疲れた人、誰かに何とかしてもらいたがっている人が狙われやすい。不安定な状況にある人ほど、遠い将来の確実だが小さなメリットよりも、今すぐ効きそうなものを求めるからだ。


【『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』櫻井義秀〈さくらい・よしひで〉(新潮選書、2009年)以下同】


 単なる「安心代」ならともかく、宗教の名を借りて「不安」を煽る以上、どうしたって高くつくわな。一種の「不安オークション」だ。


 例えば統一教会世界基督教統一教会)を見てみよう。


 ビジネスの最終判断を文鮮明にあおぐ神頼みの商売には厳しいものがあった。そこで、むしろ宗教活動そのものを経済活動に転換できないかと知恵を絞って考案されたのが、姓名判断や家系図鑑定と絡めた商品の販売である。先祖の因縁や霊障を取り除く、或いは開運のためといって、1980年代に韓国から朝鮮人参茶、高麗大理石壷等を輸入して販売した。このやり方が霊感商法として80年代考案から社会問題となった。


 宗教団体が世界展開する場合、どうしても伽藍(がらん)が必要になる。建物がないと法人認可が下りないためだ。で、新たな信徒を獲得するためには少しでも立派な堂宇(どうう)が望ましい。やはりカネが必要だ(笑)。


 現在、統一教会員でも祝福だけでは不十分で、140万円相当の献金をして天一国と呼ばれる天国への入籍証を持たないと天国には入れないと言われている。ちなみに、祝福にも140万円の献金を必要とする。計280万円で天国に行けるのであれば安い買い物だが、統一教会員になることが条件なので、かえって高くつく可能性もある。


「祝福代」ときたもんだ(笑)。神様って強欲なんだね。開いた口が塞がらないよ。つい最近も以下のニュースが報じられた。


統一教会に賠償命令=不法勧誘で8000万円余−福岡地裁


 先祖の因縁などと不安をあおって献金を強要されたとして、福岡県内の世界基督教統一神霊協会統一教会)の元信者の女性が、教会に対し約5億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が28日、福岡地裁であった。太田雅也裁判長は「勧誘は害悪を告げて原告を恐れさせ、献金を執拗(しつよう)に迫るものだった」として、一部について不法行為と認め、総額約8160万円の支払いを命じた。

 判決によると、元信者の女性は1999〜2005年、つぼの購入や献金で4億4400万円余りを支払うなどした。

 統一教会側は「献金は自由意思だった」などと主張したが、判決は「霊能力者と称する女性信者が、財産がなくなるまで献金するよう執拗に求め、子どもに危害が及ぶなどと告げた」と認定。約6500万円分の献金などについて違法だったと指摘した。

 統一教会広報局の話 一部といえども請求が認められたことは遺憾です。判決内容を検討し、対応を決めたい。


時事ドットコム 2011-02-28


 統一教会がダメージを受けないのは、保守層にがっちりと食い込んでいるからだ。

 集団は基本的に閉じた体系である。ゆえに「開かれた組織」は実在しない。なぜなら開いてしまえば、それは社会の一部となるからだ。何らかの目的に添って組織が形成される以上、集団は共同体を志向する。


 そんなことがあるのだろうかと訝る人もいるかもしれない。しかし、私達はこうしたことを日常生活や職場、専門家集団において経験している。専門家はそれぞれの分野ごとに独特の言語と論理を共有しており、二、三の専門用語を話すだけで関連する事柄や背景的知識、問題の解決法まで頭に浮かんでくる。専門家集団といえば宗教集団も同じである。統一教会のような閉鎖性の強い集団に入るとなかなか抜けられなくなるのは、教団が物理的な紹介(見張りやスケジュール管理)を置くからではなく、認識の構造は言語体系までも統一教会独特のものしか使わないよう訓練してしまったために、外部の人達とコミュニケーションができなくなり、外へ出ることを信者自身がためらうようになるからだ。


 これは重要な指摘だと思う。企業の社内文化みたいなものだろう。同調圧力。空気、雰囲気、阿吽(あうん)の呼吸。郷に入っては郷に従え。


 専門用語が組織内方言の役割を果たす。「同じ道産子だべさ」というわけ。


【ほうれんそうの原則】──報告、連絡、相談を縮めたものである。自分の行為は全て上司に報告し、信徒どうし連絡を密に行い、事後判断の必要がある場面では全て相談する。統一教会の信徒は自己の裁量で行動することは殆どなく、組織的な判断や指令を優先する信仰実践の毎日である。これは行動のコントロールである。(統一教会のコントロール法)


 企業化する教団の姿が生々しい。あるいは兵士化というべきか。「小野一等兵、現在位置を報告せよ」。活発な宗教行動は、ひょっとすると宗教性に対する自信のなさを露呈しているのかもしれない。


 結局、信徒をマインドコントロールしている教団が行っていることは、「時間とカネの管理」なのだ。経済行為として見れば振り込め詐欺と変わりがない。物語の内容が異なるだけだ。


 あらゆる集団が政治化し経済化することを避けられない。ここに問題の本質がある。詐欺に引っ掛かるのは、合理性を手放した人々であろう。

霊と金―スピリチュアル・ビジネスの構造 (新潮新書)

2011-02-22

日米安保という幻想/『日本人のための戦略的思考入門 日米同盟を超えて』孫崎享


 孫崎享〈まごさき・うける〉を初めて知ったのは、岩上安身USTREAMインタビューでのこと。そのフランクな物腰から元外務官僚であるとは伺い知れなかった。どこから見ても「近所のオジサン」である。実はそこにこの人の凄さがある。仕立ての良さそうなスーツや、おっとりとした上品な口調や、手の込んだ難しい言葉で装飾する必要がないことを示している。


 佐藤優同様、孫崎も実務家である。そして彼らは忠臣でもあった。とはいっても特定の権力者の意向に寄り添ったわけではない。国民から成る国家に忠誠を尽くした。該博な知識や視点の高い卓見もさることながら、義を尽くし誠を貫こうとする気風を感じてならない。


 自由な言論は時に分際をわきまえず極端から極端へと走り回る。できもしないこと、やりもしないこと、直接は言えないことを無責任に放つ。そこに礼の精神はない。あるとすれば肥大した自我だけであろう。佐藤と孫崎は分際をわきまえながら、ギリギリのところで諫言(かんげん)を行う。かように正義と中庸を知る人物は少ない。


 まず、「まえがき」で戦略の意義を説く──


 戦略とは、「人や組織に死活的に重要なことをどう処理するか」を考える学問である。


【『日本人のための戦略的思考入門 日米同盟を超えて』孫崎享〈まごさき・うける〉(詳伝社新書、2010年)以下同】


 戦略はなくても戦争は戦える。しかし負ける。戦略はなくとも企業経営はできる。しかし、長期的には恐らく、世界市場で勝ち残ることはできないであろう。

 戦争も経営も、実験することはできない。しかし、歴史的結果を踏まえて学ぶことはできる。組織も個人も、戦略を学ぶ必要がある。

 戦争は手段であって目的ではない。戦闘は非日常行為といってよい。自由と幸福は平和の中で実現される。そうであればこそ、孫子はこう言ったのだ──

 だが資本主義が世界を席巻するようになり、人々の日常は否応なく戦闘状態となってしまった。社会では人間が比較され、取捨され、消費されている。我々は生まれ落ちてから死ぬまで競争に駆り立てられている。


 とすれば、こうした時代を生きる以上、一人ひとりに戦略が必要となる。戦略は目的から生まれ、目的は理念・思想・価値観などからつくられる。世界中で多くの人々が苦しんでいる以上、権力を牛耳っている連中がエゴイスティックな思想の持ち主であることは明らかだ。


 孫崎は現状の日本に戦略が欠けていることを、日米安保から鮮やかに描いている。


 こう書くと、誇張(こちょう)でいないかと反論される読者が必ずいるであろう。豊下楢彦(とよした・ならひこ)著『安保条約の成立』(岩波新書)は次の記述を行なっている。


「ダレス使節団が来日した翌日の1月26日、最初のスタッフ会議においてダレスは、『我々は日本に、我々が【望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利】を獲得できるだろうか? これが根本問題である』(中略)と、明確に問題のありかを指摘した」


 間違いなく、今日の米軍関係者はこの心理を継続している。

 ダレス使節団が来日したのは1951年(昭和26年)のこと。ジョン・D・ロックフェラー3世が同行している。

 つまり、1952年(昭和27年)4月28日にGHQの占領は終わったが、枠組みだけはきっちり残していったと考えるべきなのだ。


 連綿と続いた自民党の一党支配、それを支え続けた官僚機構、許認可事業でありながら完全に独占している新聞社とテレビ局、主要電力会社電通なども同じ臭いを発している。明らかに競争原理と離れた位置で巨大な城のようにそびえ立っている。

 多くの国民は、日米安保条約で日本の領土が守られていると思っている。日本の領土を外国から守るという点では、日本人の最大の関心は尖閣諸島である。中国が尖閣諸島を攻撃したらどうなるのか?

 多くの日本人は日米安保条約があるから、米国は即、日本と共にに戦うだろうと思っている。かつ、米国政府要人はその印象を与えてきた。日本の外務省幹部は「絶対守ってくれる」と言ってきた。そんなに確実なのか、改めて考える必要がある。

【1996年、時の駐日大使モンデールは「米国軍は安保条約で(尖閣諸島をめぐる)紛争に介入を義務づけられるものではない」と発言した。】


 我々日本人はアメリカに対して膨大なみかじめ料を支払ってきたために、何かあれば暴力団みたいに守ってくれるものと錯覚してしまったのだ。


 安全保障条約は国家と国家とが対等の関係で有効に機能する。アメリカからすれば、「自分で戦わないうちから当てにされても困る」ってな具合だろう。日本が望んだのは「棚ぼた式安全保障」であった。そんなもの画餅(がべい)であろう。小学生の時の初恋よりも淡くはかない。カルピスの味すらしねーわな(笑)。


 1986年6月25日付、読売新聞夕刊一面トップは「日欧の核の傘は幻想」の標題の下、次のようなターナー元CIA長官の言葉を報じた。


【「同様に、日本の防衛のために核ミサイルを米本土から発射することはあり得ない」「われわれはワシントンを犠牲にしてまで同盟諸国を守る考えはない」「アメリカは外国と結んだ理化学防衛条約にも、核使用に言及したものはない」】


 だいたい被爆した国が核の傘で守ってもらうという発想がいただけない。傘の下がきのこ雲で充満しそうだ。


 アメリカは日本の脇の下をくすぐりながら、官僚とメディアをコントロールして、日本国民が勘違いする方向付けを行ったのだろう。


 竹島もまた、日本の管轄下にあるとは見なされない。したがって、これも安保条約の対象外である。

 米国は過去、竹島問題で、日韓のいずれの立場も支持するものでないとの立場をとってきたが、【ブッシュ大統領の訪韓時、米国は竹島を韓国領と位置づけた】。2008年、米国地名委員会がこれまで韓国領としていたのを、係争中に変更した。ちょうどブッシュ大統領の韓国訪問直前でもあったので、韓国側は大統領を含め、激しい抗議を米国に行なった。

 これをうけ、米国地名委員会は再度韓国領と修正した。この動きはブッシュ大統領から来週国防長官の支持に基づくと報じられている(「The Japan Timues」2008年8月1日付報道)。2010年5月時点でも、【米国地名委員会は竹島を韓国領と見なしている】。(中略)

 日本は、世界で最も米国に忠実な国である。しかし、米国は、尖閣諸島であれ、竹島問題であれ、最も忠実に米国に従う日本の立場は無視している。米国は、敵対的地位にある中国や、文句を言う韓国の立場を重視している。これ一つみても、「米国に追随するだけ」の戦略では日本に利益をもたらさないことがわかる。

 日本多くの人は、日米同盟の下、米国は領土問題で日本の立場を強く支持していると思っている。だが、実態は違う。竹島では韓国の立場を支持し、尖閣諸島では日中のどちら側にもつかないと述べている。北方領土は安保条約の対象外だ。びっくりすると思う。しかしこれが実態だ。


 孫崎のツイッターによれば、2005年「日米同盟未来のための変革と再編」の役割・任務 能力の項目で「島嶼部(とうしょぶ)への侵略対応は日本」とされているとのこと。日本が島国であることを踏まえると、「悪いが北海道も九州も四国も島嶼部ということで」と言われてしまえばお手上げだ。


 結局敗戦後、軍隊を失ったことで独立国になれなかった我が国の姿が浮かび上がってくる。色々な考えがあるだろう。色々な考えがあってしかるべきだ。それが民主主義のいいところなんだから。


 私は、軍隊を侵略のための暴力装置として見るのではなく、セキュリティという次元から光を当てるべきだと考える。つまり「ドア」であり「鍵」であり「防犯グッズ」。


 手っ取り早く結論を述べてしまおう。日本は元より世界各国が核爆弾を持つべきだと私は思う。だって、そうだろ? 核爆弾には抑止力があるのだから。まず全員が持つ。それから段階的に減らしてゆけばいいし、最終的になくせばいい。


 そうでもしない限り、第二次大戦後の連合国支配の世界構造は変わらないよ。変わらないとすれば、沖縄の若い女性はいつまでも強姦され続けることになるだろう。


 私の最終的な案としては、戦争を本当のゲームにしてしまうことだ。対戦国は互いに得意なゲームを指定する。で、元首同士が直接勝負するのだ。これをオリンピック化することを提案したい。例えば、中国=書道、アメリカ=アメリカン・フットボール、日本=囲碁、イギリス=クロスワードパズル、モンゴル=乗馬、インド=カレー、西アフリカ=トーキングドラムといった具合だ。


 料理や絵画だって構わない。どうせ俺たち人類は争い合いが好きなのだ。最終的な提案の最終形はこうだ。親切、優しさ、公正さ、紳士ぶりを各国が競い合う。

日本人のための戦略的思考入門――日米同盟を超えて(祥伝社新書210)

2011-02-15

宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン

 正真正銘の神本(かみぼん/神の如く悟りを得られる本)だ。著者のテンプル・グランディンは、オリヴァー・サックス著『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』(吉田利子訳、早川書房、1997年)のタイトルになっている人物。自称「火星の人類学者」は自閉症(※アスペルガー症候群と思われる)の女性動物学者であった。


 これは凄い。とにかく凄い。本書とトール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』とレイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』を合わせて、「科学本三種の神器」と私は名づけたい。


 網羅、渉猟、越境の度合いが生半可でないのだ。本物の知性は統合に向かうことがよく理解できる。緻密さや細部で勝負する知性はカミソリみたいなもので、切れ味は鋭いものの骨肉を断ち切るところまで及ばない。それに対して豊かな広がりをもつ知性は、専門領域を通して高い視点を示すことで世界の風景を変える。


 テンプル・グランディンは自閉症患者が動物の気持ちを理解できるとしている。彼女は幼い頃から動物の感情を知っていたのだ。大人になるまでそれが特殊な能力であることに気づかなかったという。ここから様々な動物の生態を通して人間との違いや人類の歴史を綴っている。


 まあ、一回こっきりの書評で紹介できる作品ではないため、時間が許す限り何度でも書いてみせるよ(笑)。数多(あまた)ある驚天動地の内容で最も驚かされたのがこれ──


 動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。

 たとえば、食べ物が出てくる直前に明かりがつくボタンつきのかごにハトを入れると、ハトはすぐに、食べ物を手に入れようとして、明かりがついたボタンをつつくようになる。これは、確証バイアスによって、最初のできごと(ボタンの明かりがつく)が2番目のできごと(食べ物が出てくる)を引き起こしていると考えるようになるからだ。ハトは、たまたま何回かボタンをつついて食べ物が出てくると(ボタンの明かりがついているときに、かならず食べ物が出てくるので)、こんどは、明かりがついているときにボタンをつつくから食べ物が出てくるという結論を出す。

 ハトの行動は、ウサギの足のお守り〔行為のまじないとして持ち歩くウサギの左の後ろ足〕を持っていたらチームが野球の試合に勝てると考える人に似ている。それで、B・F・スキナーはこういった行為を「動物の迷信」と呼んだ。ピッチャーがウサギの足を持っていたときに登板した試合で勝ったのは、ハトが明かりがついたボタンをつついたあとに何回が食べ物を手に入れたのと同じことだ。どちらの場合も、相関関係が原因だと考えた。


【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン/中尾ゆかり(NHK出版、2006年)以下同】

 既に何度も紹介済みだが、相関関係と因果関係の混同である。

 つまり脳というシステムは、相関関係を因果関係に仕立てることで物語を創造していると言い換えることも可能だ。例えば歴史は権力者のトピックにすぎない。それゆえ歴史の大半は戦争という糸で紡がれている。圧倒的に膨大な量がある一般人の日常が年表に記されることは、まずない。捨象、切り捨て、無視ってわけだ。

 確証バイアスが組みこまれているために生じる不都合は、根拠のない因果関係までたくさん作ってしまうことだ。迷信とは、そういうものだ。たいていの迷信は、実際には関係のないふたつの事柄が、偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に、たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日にも、たまたま青いシャツを着ていた。それからとは、青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。

 動物は、確証バイアスのおかげで、いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。


 ここでいう「迷信」とは「非科学的」という意味であろう。だとすると殆どの宗教は迷信になる。なぜなら因果関係を証明することができないからだ。幸不幸の原因は神が下したものかも知れないし、家の方角の善し悪しかも知れないし、単なる偶然かもしれないのだ。


 たまたま朝一番でつけたテレビの番組で星座占いをしていたとしよう。あなたのラッキーカラーはピンクだ。ピンクのものさえ身につけておけば万事が上手く運ぶ。昨日、上司から叱られ、恋人と喧嘩をしたあなたの脳は敏感に反応することだろう。で、ピンクのネクタイを締め、颯爽と出社する。


 こうして一日の中の好ましい出来事は「ピンクのネクタイのおかげ」となるのだ。

 占いを信じる人は、占いに沿った思考となり、占いに当てはまらない事実は印象に残らなくなる。このようにして「占い物語」という人生が進んでゆく。


 ところが、ほかの豚も、これまた確証バイアスにもとづいて、囲いの中の餌桶にまつわる迷信をこしらえる。私が見ていたときには、何頭かが餌用囲いまで歩いていって扉が開いているときに中に入り、それから餌桶に近づき、地面を踏み鳴らしはじめた。足を踏み鳴らしつづけていると、そのうち頭がたまたま囲いの中のスキャナーにじゅうぶんに近づいて、タグが読みとれ、餌が出てきた。どうやら豚は、たまたま足を踏みならしていたときに餌が出てきたことが何回かあって、餌にありつけたのは足を踏み鳴らしたからだという結論に達していたらしい。人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。わたしたちの脳は、偶然や思いがけないことではなく、関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも、相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。わたしたちは生命を維持するうえで知っておく必要のあるものや、見つける必要があるもの学ばせる脳の同じ部分が、妄想じみた考えや、陰謀じみた説も生み出すのだ。


 これだ。多分ここから宗教が生まれたのだ。宗教という現象は人間特有のものではなかったのだ。とすると宗教感情がいかに脳の深い部分にあるか知れようというもの。動物にもあるわけだから新皮質より下部にあることだろう。きっと情動も絡んでいるはずだ。


 とはいうものの物語なしで我々は生きてゆけない。はっきりと書いておくが、かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。聖書や仏典が伝えられてから2000年以上も経過しているが、今尚人類は争い合っている。


 混乱はバラバラの物語が衝突し合っている姿といってよい。同じ宗教を信じていても考え方は違うだろうし、それこそ人の数だけ思想や価値観が存在するのだ。


 まして高度な社会になればなるほど、幸不幸はヒエラルキーや経済性に依存してしまう。我々の幸不幸は比較の中にしかない。


 結局、情報と情報をどう結び合わせるかという問題なのだろう。「私」という情報をどう扱うか? エゴイズムと無縁の物語はあるのか? 人生からそんな宿題を与えられているような気がする。

動物感覚―アニマル・マインドを読み解く 火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 我、自閉症に生まれて

2011-02-02

バイオホロニクス(生命関係学)/『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博


 読書には時機というものがある。タイミングだ。長ずるにつれ、知識の枝は天を目指して複雑に枝分かれしてゆく。そして生の現実が地中に根を張り巡らす。


 不幸にして本書はタイミングが合わなかった。1978年に出版されながら、今まで知らなかったのは、私の守備範囲が傾いている証拠といえる。残念無念。


 清水博が研究するのはバイオホロニクス(生命関係学)という分野。慧眼(けいがん)の持ち主といっていいだろう。しかし残念なことに、今となっては古臭さを覚えずにはいられなかった。以下、アトランダムに内容を紹介しよう。


 自然科学と全く交わらない「世界」が実在するかどうかは、自然科学によっては証明できませんし、また否定もできません。


【『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博(中公新書、1978年)以下同】


 これは自然科学以外でも証明することが不可能だ。世界は「ある」のではなくして、認識によって開かれてゆくものだ。つまり、「認識されたものが世界」なのだ。


 中世は形而上学の全盛時代でしかたら、自然の理解は進みませんでした。「生きていることに」についても、今から考えると事実に合わない説明がまことしやかになされ、長い間にわたって信じられてきました。


 確かに自然の理解は進まなかったが、神を頂点に据えた学問体系が統合された。自然を無視したのは、やはりキリスト教が砂漠から誕生した宗教であったためだろう。形而上と形而下も天国と地獄に由来しているような気がする。


 その上、要素還元主義によって、分子や原子の世界にまで到達すると、もうそこで問題にされるのは1秒よりも桁はずれに短い時間における変化だけです。要素に分けることは、対象を単に空間的に細かく細かくしていくだけでなく、時間の尺度をも同時に非常に短縮してしまう効果があるのです。したがって、科学の関心は必然的に「現在」に凝縮されるのです。


 科学の悪口をいう時に「要素還元主義」という常套句が使われるが、これは既に通用しない。なぜならビッグバン理論によって、宇宙の最初の姿が「点」であったと想定されているためだ。我々の物差しに合わないのはミクロ宇宙だけではなく、マクロ宇宙も同様である。


 ここに、水蒸気・水・氷を全く別の物質だと考えている科学者がいたと仮定しましょう。その人は、【三つの物質】を分析して、その要素である水の分子を探し当てたとき、大変びっくりするでしょう。水蒸気から得た水分子も、水から得た水分子も、氷から得た水分子も、全く変らないからです。このことは確かに大きな発見といえます。しかし、同時に、水蒸気・水・氷といった物質の【状態の差】は、対象を分子にまで分析してしまうと失われてしまうことが分かります。


 私が違和感を覚えたのはこの辺りからだ。「失われてしまう」という言葉づかいは明らかにおかしいし、何らかの意図が込められている。左目で顕微鏡を覗き、右目で氷を見つめれば決して「失われる」ことはない。


 多分、清水は「科学なんぞで生命を捉えきることはできないよ」って言いたいのだろう。で、身体や心をバラバラにして分析するのは無駄な抵抗だ、と。この思惑が先行しすぎている。分析と統合の双方が必要なのであって、一方的に分析を斥(しりぞ)けるのはどうかと思う。


 一般に、個々の要素の性質をそのまま単純に加え合わせても全体の性質が出来上がることを非線形性と呼びます。aとbという原因が、それぞれ単独に働いたときに現われる結果をそれぞれAとBとしましょう。いまaとbとが一緒になってa+bとして働いたときに、A+Bという結果が出るのが線形性、A+B+Xというように新しい結果Xがつけ加わったり、ときにはCという全く変った結果が出るのが非線形性です。相乗効果といわれるものはこの非線形性の効果を表わしたものです。


 非線形性という言葉は、きっと「心」を過大視している。だが、心といったところで脳のシナプス結合以外のどこかに存在するわけがない。脳科学の発達によって現代では、心=脳と考えられるようになった。


 生きている状態と死んでいる状態というのは生体という分子の集まりが持っているグローバルな性質ではないかと推定されます。だとすれば、これは気体・液体・固体などとは全く次元を異にする(生体という分子の集合体が示す)一つのグローバルな性質ということになります。


 10年前なら私は絶賛したことだろう。「生命はグローバルな性質である」というのと、「宇宙はグローバルなシステムである」という言葉にさほど違いはないだろう。無の世界からタンパク質が生まれたところに問題の本質があるのだ。

 グローバルな状態に共通の性質として相転移と呼ばれる現象が見られます。相とは互いに区別できるグローバルな状態のことをいいます。たとえば、氷・水・水蒸気はそれぞれ別の相です。また磁石が強い磁性を示す状態とそうでない状態とは異なった相ということができます。

 一般に、一つの相から別の相に物質や系のグローバルな状態が変ることを相転移と呼びます。相転移は不連続的に突然おきるのが普通です。氷を暖めて水にする時には摂氏零度で氷が急に溶けて水に移ります。水が水蒸気に不連続的に変る温度は100度です。物質の磁性にもこのような不連続的な相転移がおきることが知られています。


 書きながら段々イライラしてきた(笑)。「これは気体・液体・固体などとは全く次元を異にする(生体という分子の集合体が示す)一つのグローバルな性質」と書いておきながら、「氷・水・水蒸気」に戻っている。


 相転移というのであれば、生と死もそうだし、個人と社会だってそうだろう。しかも、相転移は観測する人がいて成り立つのだ。


 これは結局のところ、世界と時間(三世と十方)をどう捉えるかというテーマに帰着する。人生は過去から未来へと向かっているが、時間は未来から過去へと流れている。橋に立った観測者が川上を向くか、川下を眺めるかで当然世界は異なる。


 世界は認識によって開かれている。だから私が死んだ後、世界は存在しないのだ。

 統合の立場から分析を批判するのは浅ましいやり方だと私は思う。しかも統合党は、統合の未来像を示すことができていない。社会や国家の先にどのような生命状況があり得るのか、青写真くらい示すべきだろう。


 宗教や哲学には期待できそうにない。ブッダやクリシュナムルティは人間としての出来が違いすぎる(笑)。となれば、レイ・カーツワイルが指摘したようにテクノロジーに期待するしかないだろう。

生命を捉えなおす―生きている状態とは何か (中公新書)