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2011-03-22

体験は真実か?/『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ

    • 体験は真実か?

「計画停電だと? ふざけんじゃねーよ!」と声を大に叫んだところで、パソコンは立ち上がらないし、トイレの水も流れない(集合住宅のため水道ポンプも動かず)。東京電力は都心への電力供給は怠ることなく、八王子のような僻地(へきち)の電気は好き勝手な時間に停めるのだ。これぞ「電力のトリアージ」だ。一般住宅よりも企業や官庁を優先させるってわけだよ。戦時や有事は弱者から切り捨てられるってこったな。畜生、さっさと書いてしまおう。


 この世に生まれ落ちて、物心がついた時から我々は世界を感受する。生まれた時は皆、タブラ・ラサ(白紙状態)だ。多分。


 果たして自我はどのように形成されるのか? それは周囲からの情報と自分の反応が織りなす布だ。アメリカに生まれた子供は自由と民主主義を重んじ、中東に生まれた子供はムハンマドマホメット)を信じ、アッラーに祈りを捧げる。


 長ずるにつれ親と異なる価値観を持つケースもあるが、これは「情報の質」が促した変化と考えられる。先進国を見渡すと、民主主義・資本主義・自由・平等・博愛といった概念が「新たな宗教」として機能している。イラク戦争(2003年)は民主化を口実にイスラム教文化を破壊したと見ることができよう。つまり、宗教よりも民主主義が大義名分として世界に流通するという事実を示している。


「人間の脳は物語に支配されている」というのが私の持論である。我々はいかなる現象にも因果関係を求めてやまない。そして思考には起承転結という枠組みがはめられている。その物語の最たるものが宗教と科学であろう。宗教は精神宇宙の物語であり、科学は物理宇宙の物語である。


 世界は人生という時間軸に沿って展開される。私の心(精神)と肉体(物理)で感じたものが世界だ。それが世界のすべてだ。


 1963年(昭和38年)の6月、世界はまだ存在していなかった。なぜなら私が生まれていないからだ。世界は私と共にある。つまり世界とは「私」のことなのだ。「私」という時空間が世界の正体であろう。


 神はどこにいるのか? 神を信じる私の脳内に存在する。その意味で神は幻影であり、情報にすぎない。なぜなら神の座標を特定できる人が一人もいないからだ。いるんだったら連れて来いって話だわな。神よ、あんたが創造した世界にはあまりにも犠牲が多すぎる。


「私は神を信じるひとりです」。そう名乗った質問者に対してクリシュナムルティは語った──


 あなたは体験によって、自分の信じているものが真理であるという核心を得ようとしますが、信じること自体があなたの体験を条件づけてしまいます。信じているものの証明として体験が起こるのではなく、その信念が体系をつくり出してしまうのです。あなたの神への信仰が、あなたが「神」と呼ぶものの体験をもたらすのです。あなたはつねに、自分の信じるものしか体験できません。信念をもっているかぎり、あなたの体験は無意味なのです。キリスト教徒は聖母や天使やキリストを見、またヒンドゥー教徒は驚くべきほど数多くのよく似かよった神々を見ます。イスラム教徒も、仏教徒も、ユダヤ教徒も、共産主義者も同じです。信念が、それぞれが思い描くものの確証を条件づけるのです。重要なことはあなたが何を信じるかではなく、いったいなぜ信じるのかということだけです。あなたはなぜ信じるのでしょう。さまざまなことを信じるか信じないかによって、現実にあるものに何か違いが生じるでしょうか。事実は信じようと信じまいと、それに影響されません。ですから、「いったいなぜ何かを信じるのか」と問わなければなりません。信じることの根底には何があるのでしょう。それは恐怖、生の不確かさ──未知のものへの恐怖、つねに移り変わっていくこの世界に安定を見いだせないことへの恐怖でしょうか。それは関係の不安定さでしょうか。あるいは、広大な生に直面して、それを理解できないので、「信念」という隠れ家に自分を閉じ込めてしまうのでしょうか。


【『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ/松本恵一訳(めるくまーる、1992年)】


 ぐうの音も出ない。信念がフィルターと化している事実を断言している。つまり、人は自分が信じるものしか受け容れないのだ。


 既に何度も書いている通り、私は祟(たた)りを信じない。突然我が家を訪れた人が「先祖の祟りが感じられます。霊を鎮(しず)めるためにはこの印鑑と壷を購入することです!」と断言しても何とも思わない(笑)。「その先祖の名前を言ってみろ」「先祖の現住所はどこなんだ?」「こっちは祟りに引きずられるような弱い生き方はしてないがな」とすかさず応答する。


 ところがご先祖信仰を鵜呑みにする人であれば、「詳しい話をお聞かせ願えませんか? ここのところ家族の怪我が多いものですから……」なあんてことになりかねない。「──というわけで奥様、印鑑と壷はセット価格で200万円になります。エエ、もちろんお支払いは現金でもクレジットでも構いませんよ」ってな具合だ(笑)。


 物語は共有される。夏の夜に稲川淳二のライブへ足を運ぶのは「怪談」という物語を共有するためだ。


 クリシュナムルティは特定の神や特定の教団を否定することで、万人に具わる宗教性を開花させようとしている。集団が織りなす布教は必ずプロパガンダとなる。そして集団は信仰を帰属意識へと貶(おとし)める。所属が人間を断片化する。


 過去に自分が感じたことは事実である。だが真実ではない。なぜなら経験は必ず「解釈される」からだ。否、目の前の事実すら我々は解釈することなしに受け取ることはできない。すなわち世界とは解釈であり、言葉とは翻訳の異名なのだ。


 一切の主義を捨てた地平にありのままの人間が見えてくる。彼は国家にすら所属していない。彼の名をジッドゥ・クリシュナムルティという。

自己の変容 新装版 自己の変容 クリシュナムルティ対話録

(※左が新装版、右が旧版)

2010-12-21

仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀


 脳は言葉に支配されている。思考が言葉という情報によって成り立っている以上、人は言葉に束縛される。意識とは言語化可能な状態と言い換えてもよいだろう。


 懐疑や批判の難しさもここにある。示された言葉【以外】の知識がなければ、そもそも判断のしようがあるまい。思想の自由とは、言葉に寄り添った後で言葉から離れることを可能にする精神の振る舞いを意味する。


 ある人物の思想なり考えが普遍的な有効性を持ち合わせているかどうかは、対談によって試される。世界広しといえども、全く同じ考え方をする人は一人もいない。似たような価値観を持つ人々が文化や民族、哲学や宗教を形成している。


 これは勉強になった。唯幻論であらゆるものを一刀両断にしてきた岸田秀が、仏教の碩学(せきがく)を前にして優秀な生徒と化している(笑)。例えばこんな調子だ──


岸田●キリスト教は、ぼくは一つの誇大妄想体系だと言ってるわけですが、誇大妄想体系にしろ、ここには、一つの理論体系らしきものがあるように思うんです。しかし、仏教は、なんとなく、漠然としておりまして、むしろ、理論体系になるのを拒否するという感じのほうが強い、そういう印象を持ってるんですけど、違うわけですか。


三枝●全然、違います。大まかな表現ですけど、たとえば、仏教のいちばん始めにいろいろな“意見”ができた。それをお釈迦さんの亡くなったあとに編集し、合わせて「三蔵」(さんぞう)と言います。それには、いわゆるお釈迦さんが説いたお経−「経蔵」(きょうぞう)と、教団の規律を収めた「律蔵」(りつぞう)と、それから「論蔵」(ろんぞう)というのがある。論というのはまさしく学問なんです。ただし現存しているものが、いつできたかは分かっていません。お釈迦さんは、おそらく、マガダ語で話されたでしょうけど、現在残っているいちばん古い資料は、パーリ語の経典、それからマガダ語からサンスクリットになって、それらが漢訳された経典が中心ですが、それらは経、律、論と言い、論が必ずあるんです。始めから学問体系がある。


【『仏教と精神分析』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉、岸田秀〈きしだ・しゅう〉(小学館、1982年/第三文明レグルス文庫、1997年)以下同】


 細分化された学問領域は触覚さながらに敏感で細い。宗教の総合知と比較するべくもない。


 最も衝撃を受けたのは三枝が示した仏教的時間観である。私は仏法者(仏教徒ではない)を名乗りながら、これを知らなかった。


岸田●時間観念というのは大ざっぱに、ヘレニズムのぐるぐる回る円環的な時間と、ヘブライズムの直線的時間との一応、二つの見方があるとしてみて、仏教だと、時間というのは、どのように考えられているんですか?


三枝●仏教で言う時間は、ごく簡略化して一言で言うとなると、時間的な有限とか無限という問題にかかわるものと、それから、いま、われわれが暮らしている現実のこの時間という問題の二つがあると思うんです。

 一般的な時間概念としての“有限”とか“無限”とかいう問題については、仏教の最初からそれがあって、お釈迦さんに、ずいぶんいろいろな人が質問しています。ことに有名なのは、マールンクヤプッタという優秀な青年が、世界は時間的に“有限”か“無限”かという質問をしてお釈迦さんに迫る。それに対してお釈迦さんは返事をしない。そこで、いわゆる「無記」という述語が作られます。ですから、一般的には時間が有限とか無限とかいうことについて公式的な発言をすれば、無記だから返事をしない、ただ沈黙。そこでは、なんの進展も無い。まず、そういう点が一つありますね。もっとも、お釈迦さんは、そういう問い自体が現実を離れて行き、形而上学化して、実践・修行には、なんのプラスにもならないことを、マールンクヤプッタにていねいに教えて、現実に立ち戻らせています。それでは、仏教は時間論を展開しないのかというと、それどころではなく、時間ということでは仏教では絶えず重要なテーマであり、それを論ずるのに、あれこれ、いろいろな議論があります。その一つに「無始無終」というのがある。“始めが無ければ終りも無い”という、そういう説明がまずあります。


岸田●始めが無くて終りが無い時間というのは、「無限の直線」というようなイメージなんでしょうかね。


三枝●直線としての時間というのは、要するに時間を空間化すると言うことでしょう。それはある意味で計算することですね。そういう意味で時間を考える考え方も、もちろん、仏教にもあります。


岸田●ヘブライズムは無始無終じゃない、まあ創造主が時間を造ったわけで、そのうち“終末”で時間が終っちゃうわけですね。だから起点と終点があって、その間が直線的だという感じなんですけども、仏教においては、それが無始無終であるというわけですか。


三枝●ええ、そういう意味でのエスカトロジー(終末論)は仏教には無い。

 私の認識は広井と同じものだった。直線(キリスト教)と円環(仏教)の違い。確か竹内敏晴はこれを敷衍(ふえん)してオペラと浪曲の違いを指摘していたはずだ。天を目指す尖塔(キリスト教)と、横に広がる屋根(仏教)という話もあったように記憶している。


 尚、無記については以下を参照されよ──

岸田●計算できるほうが“俗なる時間”であって、“聖なる時間”というのが内在しているわけですか。


三枝●そうですね。あえて聖と俗と言わなくてもと思うけど。すべての人にそれぞれ現在があって、その現在においてのみ、その人の時があり、それが現在であるという。しかも、そこではいつでも現在が中心になっています。ですから、仏教では現在・過去と並称するときには決して「将来」ということばは使わない。「未来」ということばを使う。


岸田●未(いま)だ来らずですか。


三枝●未だ来らずという言い方ですね、すべて現在から見ているわけですから。エスカトロジー(終末論)の立場で言うと、向こうのほうに何かがあって、その向こうの終末のほうがこちらに向かって来るので、それは“まさに来らんとす”と言うことであり、“将来”となる。けれども仏教のほうではあくまで現在が中心だから、現在から見るといつでも未来なんです。


 読んだ瞬間に私の脳内では「!」がずらりと並んだ。これだよ、これ! 私の中で疑問の形にすらなっていなかったモヤモヤが吹き飛んだ。快晴(笑)。


 生命は一生という時間に制約を受けている以上、その量と質が問題になるのは自明だ。しかしながら量と質との関係性について思考が及ぶことは、まずない。更に時間というテーマは物理学や量子力学においても重要な位置を占めている。アインシュタイン相対性理論は、時間と空間が別物ではない事実を示したものだ。


 将来と未来の違いは、仏教がどこまでも現在性に注目し、今ここで流れ通う生に焦点を当てていることがわかる。


岸田●では、過去は存在しているわけですか、現在の中に。


三枝●過去は業として、現在に、前にお話した種子(しゅうじ)を残している。過去という時間そのものは落謝(らくしゃ)している。つまり、落っこちて消えちゃっている。


岸田●しかし、その種が現在に残っている。


三枝●ええ。たとえば、前にも言ったように、ある人がいま人を殺したとします。そうすると、殺人という行為そのものは“過去”にすでに消え去ってしまったけど、“現在”には死体が残っている、どうしても。その死体が、現在のその人を縛るわけです、彼は(句読点ママ)。死体をなんとかしなければいけない。


岸田●殺人者がいちばん困るのは死体の処理ですからね。


三枝●こんどは、死体の処理を現在どうするかというかたちで、その行為者の行為を縛っていきます、未来に向かって。


岸田●過去の時間が再びめぐって来るというような思想は無いわけですか。


三枝●過去の時間はもう落謝していますから、時間そのものは絶対に回帰しません。


岸田●円環的時間でもないわけですね。


三枝●そういう意味では円環ではない。


岸田●時間が巡るという思想では、回帰するわけですね。


三枝●巡ると言っても、“同じところへ戻ってくる回帰”と、“螺旋型の回帰”とがある。ぼくは、仏教のはどちらかというと螺旋のほうだと思うんです。だからAから戻ってきてA'になった。そのA'はAと次元が違うと考えています。そういうふうに、はっきりとテクストに書いてあるわけではないけれど、われわれの見方で解釈すれば、どうしてもそういうふうになる。


 これについては苫米地英人がわかりやすい解釈をしている──


 私がよく説明するのは、空に向かってツバを吐くと自分の顔に戻ってきますが、まさに因果応報です。業(カルマ)を受けたわけです。今度はツバをもの凄い速度で吐き出して、200年ぐらいして戻ってきたとします。そのツバを顔に受けた人があなたの生まれ変わりということです。あなたはすでに寿命で死んでいますから、ツバを受けた人は別な人です。でもあなたの業を受けたのだからあなたの生まれ変わりです。これが釈迦の論理による生まれ変わりです。つまり、アートマンが永続するから輪廻転生するのではなく、縁起の因果は継続するので、その縁起の対象が生まれ変わりと呼べますよという哲学です。もちろん、誰かが過去にツバを吐いたので、そのツバを顔に受けるためにあなたが生まれてきたのであるという論理でもあります。縁起による業の継続性による生まれ変わり説です。固有なアートマンが継続するからではないという説明です。


【『スピリチュアリズム苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(にんげん出版、2007年)】


 過去世という因果の物語でもって社会の差別を正当化しようとしたのが、古代インドに始まるカースト制度であった。輪廻(りんね)という言葉自体、不幸な人生を繰り返すことを意味しており、そこから離れることをブッダは説いた。仏の別名の一つに「善逝」(ぜんぜい)とあるが、「善く逝く」とは「再び生まれ変わってこない」ことを示したものだ。


 おわかりになっただろうか? ブッダは将来を否定し、死後の生命も否定しているのだ。否定の連続技。


「歴史は繰り返す」のが真実であるとすれば、人類はいつまで経っても同じ大きさの螺旋(らせん)階段を昇ってゆくのだろう。しかし歴史を変えることが可能であるならば、螺旋は豊かな平和と共に広がってゆくに違いない。ブッダが登場した意味もここにある。

仏教と精神分析 (レグルス文庫)

2010-12-11

人類の意識はひとつ/『人類の未来 クリシュナムルティVSデビッド・ボーム対話集』


 対話をするには同じテーブルにつく必要がある。涙の連絡船に乗った人が海岸で見送る人と対話をすることはない。距離がありすぎる。対話の前提は歩み寄ることだ。


 では各所のテーブルを見てみよう。ファミリーレストランで身を乗り出す主婦、会議室で向かい合う上司と部下、カウンター越しの銀行員と預金者、料亭で行われる商談、スチール製のデスクにそっと置かれる履歴書、生ビールを飲んだ勢いに任せて焼き肉鍋の上を通過する口説き文句……。これらは全て会話であって対話ではない。


 同じテーブルについただけでは対話は成立しない。往々にして対談がつまらないものになっているのは歩み寄りすぎているためだ。平身低頭、おべっか、阿諛追従(あゆついしょう)。


 我々は対話を話すことだと完全に誤解している。「まずは俺の話を聞いてくれ」と。これでは青年の主張だ。意見不要、問答無用。


 対話の真髄は傾聴にある。相手の声なき声にまで耳をそばだて、静かに問いを発する時、初めて対話が成立するのだ。たとえ相手が子供であっても同様である。


 クリシュナムルティとデヴィッド・ボームの対話は3冊に編まれている。本書は絶版となっており入手するまで困難を極めた。基調は『生の全体性』と一緒なので入手を焦る必要はない。


 巻頭には遠藤誠が推薦の辞を寄せている。


 1983年6月11日、同年6月20日、1972年10月7日に行われた対談が収められている。編集の手があまり入っていないような感じで、その分生々しさが伝わってくる。150ページほどの分量だが内容は超重量級。


 デヴィッド・ボームは理論物理学者でアインシュタインとも共同研究をしたことのある人物。マンハッタン計画にも深く関わっていた。


 二人の対談は自(おの)ずから科学的知性vs直観的英知の構造となる。


JK●ですから、もしたんなる知的なものとして、ないし言葉の上だけではなく、実際に、私たちは私たち以外の人間なのだということを実感すれば、責任は重大かつ広範なものとなります。


DB●ええ、その責任についてはなにができるでしょう?


JK●その時には、私は混乱全体を助長するか、混乱に加わらないか、そのどちらかです。


DB●重要な点に触れたと思います。人類ないし人間の全体はひとつだといいます。それゆえ、それを分けることは……。


JK●危険なのです。


DB●ええ。一方、私と机を分けても危険ではありません。と言うのは、ある意味では私と机はひとつではないからです。


JK●もちろん。


DB●つまり、ある非常に一般的な意味においてのみ私たちは一致しているわけです。さて、人間は自分たちが全体でひとつだとは気づいていません。


JK●なぜでしょう?


DB●それを調べてみましょう。これは重要な点です。国家や宗教だけではなく、この人とあの人などあまりにたくさんの区別があります。


JK●なぜこの区別があるのでしょう?


DB●少なくとも現代では、あらゆる人間は個人にあると感じられています。昔はそれほど強くは感じられていなかったのかも知れませんが。


JK●それを問うているのです。わたしたちは個人なのかとその根底から問うているのです。


DB●それはたいへんな問いです。


JK●もちろん。たったいま私たちはこういいました。私である意識は私以外の人間の意識と似通っていると。人類はみな苦しみ、恐怖をもち、安全ではありません。人間は思考が組み立てた個別の神や儀式をもっています。


DB●ここにはふたつの問いがあると思います。ひとつは、自分は他人と似通っていると誰もが感じているわけではないということです。大部分の人々は自分たちはなにか独特なちがいをもっていると感じています。


JK●「独特なちがい」とはどういう意味ですか? なにかをする時のちがいですか?


DB●たくさんのちがいがありえます。たとえば、なにかについてある国は他の国よりもうまくできるかもしれません。ある人はなにか特別なことができたり、特別な資質があるかもしれません。


JK●もちろん。あれやこれやについてだれか他の人のほうが優れています。


DB●その人は自分独自の特殊な能力や優秀さに誇りをもつかもしれません。


JK●しかし、それを取り去ってしまえば、基本的には私たちは同じです。


DB●おっしゃっていることは、いまいったようなことは……。


JK●表面的なものごとです。


DB●ええ。では、基本的なものごととはなんでしょう?


JK●恐怖、悲しみ、苦痛、心配、孤独、およびあらゆる人間の苦しみです。


DB●しかし、基本的なものごととは、人間の最高度の達成物だと感じている人が大多数かもしません。たとえば、人々は科学、芸術、文化、技術において人間が達成したことを誇りに思うかもします。


JK●確かに、そういった方向についてはどれも目的を達成しました。技術、通信、旅行、内科、外科などに置いては、途方もなく進歩しました。


DB●ええ、さまざまな分野での進歩は驚くべきことです。


JK●それには疑問の余地はありません。しかし、心理的にはなにを達成したのでしょう?


DB●これらのことは心理的にはなにも影響しませんでした。


JK●ええ、その通りです。


DB●そして、心理的な問題はそれ以外のことよりも一層重要です。と言うのは、もし心理的な問題が解決されないとすると、技術等々は危険なものとなるからです。


【『人類の未来 クリシュナムルティVSデビッド・ボーム対話集』渡部充訳(JCA出版、1993年)以下同】


 何の変哲もないわかりやすい言葉を使いながら、超弩級(ちょうどきゅう)の深みに達している。


 人類はブッダやソクラテスといった偉大な教師を輩出しながらも精神的な変化に乏しかった。あるいは劣化している可能性もある。これは20代の頃から私が抱き続けてきた疑問の一つであった。四半世紀を経てやっと解決した(笑)。


 文明とは技術の進歩にすぎなかった。そして我々は社会というヒエラルキーの内部で競争に明け暮れ、差異を強調することでしか幸福を感じることができなくなっているが、その個性や才能を「表面的」と一蹴している。ボームの息を飲む瞬間までが伝わってくるようだ。


 デカルトが「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)と『方法序説』に記したのは1637年のこと。存在としての我は、20世紀初頭フロイトの精神分析によって意識周辺を意味するようになった。そしてマズローが欲求段階説(生理的欲求→安全の欲求→所属と愛の欲求→承認の欲求→自己実現の欲求)を唱えた。(この流れについてはスコラ哲学の伝統を弁える必要もある)


 ここで注意したいのは、西洋で説かれる自我は飽くまでも「神と向き合う個人」を掘り下げていることだ。神との対称という座標を見逃すと、西洋の思想的系譜は理解することができない。西洋世界は完璧なまでに神が支配しているのだ。


 クリシュナムルティは個性や才覚という表面的な差異を除けば、人類は共通心理の上に生きていると指摘した。


 例えば美しい夕焼けを思い起こしてほしい。西の空を朱に染め上げ、青とピンクが溶け合い、金色(こんじき)の光が線となって放射している。鳥の影が点となって横切る。荘厳な光景が一瞬一瞬闇に飲まれてゆく。


 色や雲の形が変わっていたとしても夕焼けは夕焼けである。桜の花にしても同様だ。あの桜やこの桜は事実として存在するものの「桜は桜」である。同じく「人間は人間」なのだ。


DB●ええ、人間の体は似通っているという事実からそういえます。しかし、そのことは人間はまったく同じだということの証明になるわけではありません。


JK●もちろん、なりません。あなたの体は私の体と異なっています。


DB●ええ、私たちは別の場所にいる別の実在です。しかし、思うに、おっしゃっていることは、意識は個人的な実在ではない……。


JK●その通りです。


DB●体はある個体性をもつ実在です。


JK●それらはみなまったく明らかです。あなたの体は私の体と異なっています。私はあなたとは別の名前をもっています。


DB●ええ、私たちは異なっています。似通った物質からできてはいますが、異なっています。私たちは肉体を交換できません。と言うのは、蛋白質が他人のものと適合しないかもしれないからです。さて、大多数の人は精神についても同じように考えて、こういいます。人々の間にも化学反応があり、相性が合う、合わないがあるのだと。


JK●ですが、実際にその問題をより深く調べていけば、意識は人類すべてが共有しています。


DB●では、このように感じます。意識は個人的であり、その意識が意思疎通をして……。


JK●それは錯覚だと思います。なぜなら、真実でないものに固執しているからです。


DB●人類の意識はひとつだとおっしゃりたいのですか?


JK●意識は全体としてひとつです。


DB●それは重要です。というのは、さまざまな意識があるのか、ひとつなのかは決定的な問いだからです。


JK●ええ。


DB●さまざまな意識がありえるかもしれません。そして、それらが意思疎通してより大きな単位を作り上げているのですか? それとも、まさに始まり以来、意識は全体としてひとつだとおっしゃいますか?


JK●まさに始まり以来それは全体としてひとつでした。


DB●ですから、分離しているという感覚は錯覚だと?


JK●何度も何度もそう申し上げています。それはまったく論理的で正気だと思われます。分離しているというのは狂気です。


 圧巻。驚天動地。チト、言葉で表現するのは困難だ。


「真実でないもの」とは差異のことである。つまりクリシュナムルティが言っていることは、あなたと私の違いは氷山の一角のようなもので、意識の大半は完全に一致して「あらゆる人間の苦しみ」を感じているという真実なのだ。


 ブッダが苦からの解放を説いたのと完全に同じ視点である。


 差異を事実と認識するからこそ、我々は憎悪や嫉妬、怒りや悲しみに取りつかれるのだ。


「我苦しむ、ゆえに我は汝なり」という生命次元の共感から「あなたは世界だ」という抜きん出た視点が生まれる。


 クリシュナムルティは自我の本質が思考=記憶であり、時間に支配されていることを明かした。そうすると自己実現や自分探しが流行する時代は、人間の分断化に拍車がかかることになる。


「私」という過去の呪縛を解かない限り、自由を手にすることはできない。

生の全体性

2010-08-26

河合隼雄と村上春樹の対談に感じる違和感/『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』河合隼雄、村上春樹


 ここのところ、ツイッターにて「ヘタレ神学研究者」を名乗る氏家法雄〈うじけ・のりお〉さんと意見交換をしている。氏家さんは大学の非常勤講師をされていて、非常勤の意味はアウトロー、渡世人といった感じだ(笑)。更に肝臓を痛めつけることを日課にしている(笑)。


 知的スリリングに溢れたツイートを連発して、私の小さな脳味噌はドラム型洗濯機に入れられた状態と化す。


 昨日のことだが氏家さんがブログで紹介した河合隼雄×村上春樹の対談に、私は猛烈な違和感を覚えた。我が思考は解答を出していないものの、「待て」と黄色信号が点灯した。


 何なんだろう? 私が感じるモヤモヤ、嘘の臭いは何に由来しているのだろう? ちょっとつかみどころがないので、書きながら考えることにしよう。

 で、断っておくが私は古本屋でありながら村上春樹を読んだことがない。河合隼雄は何冊か読んでいる。先に白状しておくと、私は村上の卵みたいな顔と河合の草履みたいな顔が好きじゃない。これから書くことは好き嫌いの感情に捉われている可能性がある。


 以下、引用は全て氏家ブログによる。


村上春樹●ぼくは昔から、あらゆる風俗は善であると思っているんです。いや、善というのではなく、ナチュラルというのかな、すべて起こるべくして起こるのであって、いい悪いの問題ではないと思っているのです。たとえばいまの若い人がぜんぜん根性がないといって怒る人がいるけれども、もしそうだとしても、それはいい悪いの問題ではなく、そうならざるをえなかったからなっているんだと思うんです。


【『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』河合隼雄、村上春樹(岩波書店、1996年/新潮文庫、1998年)】


 村上は進化論的適応を善悪で語ってしまっている。淘汰圧という前提を不問に付している。こんな論理がまかり通るなら、魔女狩りも正当化できてしまう。更にはあろうことか「善である」とした後で、「いい悪いの問題ではない」と引っくり返している。


 例えば「根性」を「大胆」に置き換えると、以下のテキストが参考になる――


 グッピーを、コクチバスと出会わせたときの反応によって、すぐ隠れる個体を「臆病」、泳いで去る個体を「普通」、やってきた相手を見つめる個体を「大胆」と、三つのグループに分ける。それぞれのグループのグッピーたちをバスと一緒に水槽に入れて放置しておく。60時間ののち、「臆病」なグッピーたちの40パーセントと「普通」なグッピーたちの15パーセントは生存していたが、「大胆」なグッピーは1匹も残っていなかった。


【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ/長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】


 つまり、戦時においては大胆な人ほど死んでしまう可能性が高いのだ。だから進化的優位性を保ちたいのであれば、「戦時は臆病」「平時は大胆」というのが正しい生き方となる(笑)。じゃあ現代はどうなのか? やっぱり戦時でしょう。戦争こそしていないものの、いじめ、幼児虐待、振り込め詐欺、パワハラ、セクハラなど、小さな戦争があちこちで繰り広げられている。戦争状態が希釈され透明化しているのだ。


村上●ぼくが日本社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、誰も痛みをひきうけていないですね。


 じゃあ、痛みを引き受ければいいと言うのか? 村上よ、本気でそう言っているのか? 私から質問させてもらおう。ルワンダのツチ族が叫んだ声はなぜ届かなかったんだ?

村上●僕は村上龍というには非常鋭い感覚を持った作家だと思っているのです。彼は最初から暴力というものを、はっきりと予見的に書いている。


 村上はアラブ文学を読むべきだ。暴力の文学性は中東に極まるのだ。

  • 暴力が破壊するもの 1/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)
  • 暴力が破壊するもの 2/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)
  • 暴力が破壊するもの 3/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)
  • パレスチナ人の叫び声が轟き渡る/『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー

 氏家さんはこう締めくくっている――


 痛みをひきうけつつ、人間の匂いを払拭した形ではないところからしか、本当の意味での非暴力は立ち上がらない……そんなことを思案した次第です。


 だが非暴力という思想は、暴力と相対する位置にしか存在しない。非暴力は暴力に依存している。

 では、どうすればいいのか? 氏家テキストにもある通り、「痛みをひきうけつつ」痛みの中で生きるしか道はないだろう。


 戦争や暴力性をつきつめていけば、マネーや集団といったものが実は暴力であることに気づく。そして暴力を完全に否定する生き方は、「出家」というスタイルでしか表明することができない。出家とは世俗の欲望から去る行為であるが、欲望が尖鋭化するところに暴力が立ち現れるのだ。


 更に、出家しつつ単独であらねばならない。

 何だか全然まとまらないが、ま、そういうことなんだ(笑)。チト面倒だが、無痛文明論でも読むとするか。


村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫) 無痛文明論

2010-08-10

強靭なロジック/『ジャパン・レボリューション 「日本再生」への処方箋』正慶孝、藤原肇


 ツイッターが面白くて、書評を書く意欲が失せている今日この頃である。そして季節は夏だ。夏に本は似合わない。ジリジリと焼きつけるような太陽の下で本を読んでいるのは、ま、私くらいなものだろう。


 この本は、藤原肇の公式サイトで知った次第。

 入手が困難かと思われたがネットで直ぐに見つけた。


 100ページくらいで挫けそうになった。藤原の老人っぷりに辟易(へきえき)させらたからだ。老いが頑迷固陋(ころう)へと傾き、自分の知識にしがみつく老醜をさらしている。なかんずくインターネットに関する無知は目を覆いたくなるほど。


 それでも、この二人のロジックから学ぶことは多い。歴史の流れを鋭く捉え、政治・経済・思想にわたる議論が展開されている。しかもその読み解き方が数学的視点に支えられているから説得力が倍増する。


「理」は「筋が通っていること」で「正しさ」や「誠実さ」を表わし、古来の徳目である「義」や「誠」に通じており、利益を意味する「利」よりも格が上である。

 しかし、戦後の日本では「利が理に優先」していて、価値観が逆転してしまったために、拝金主義に毒されたカネの亡者が横行し、情けないことに亡国の淵に立たされている。(藤原肇


【『ジャパン・レボリューション 「日本再生」への処方箋』正慶孝〈しょうけい・たかし〉、藤原肇(清流出版、2003年)以下同】


 これは西洋の理論と東洋の道理の違いを示している。西洋はどうしても神という真理に向かって理論が構築される。これに対して東洋の場合、天地自然の理(ことわり)に則(のっと)る意味合いが強く、具体的には「歩むべき道」として説かれる。藤原が言いたいのは「ロジック+仁」ということか。ロ仁ク(笑)。


 その(景気対策によって需給ギャップが埋まらない)最大の原因の一つは、地下経済が増殖していることである。今日本のGDP(国内総生産)は約480兆円だが、そのうち5%ぐらいが毎年アングラ化していると見られる。だから経済政策がうまく作動しないのである。

 なぜ地下経済が増殖するのかと言えば、コンフィデンスすなわち信頼が損なわれているからである。政府と国民との間の信頼、経営者と労働者との間の信頼、先生と生徒との間の信頼、親と子との間の信頼など、さまざまな分野でのコンフィデンスの崩壊が進んでいる。政府と国民との間にコンフィデンスが成り立っていれば、経済はアングラ化しない。しかし、政治や政策に対する信頼が失われているために、経済はアングラ化し、政策はうまく作用しない。(正慶孝)


 この指摘も鋭い。信用(与信)で動いているはずの経済から信頼が失われているというのだ。脱税、資産隠し、100歳過ぎると行方不明、ってわけだよ。その原因が人間関係の崩壊にあると。


 とすると、やはり政治不信の影響は大きい。信頼は必ず大きなものから失われてゆくのだ。主義ではなく枠組みとしての国家がデタラメになれば、社会の共通価値も解体されてゆく。まして日本の場合、国家の上に位置する宗教的価値観を欠いているのだ。人々は流されるか、引きこもるしかなくなる。

 この二人は思想・哲学にも造詣が深く、縦横自在に文明論を戦わせる。


藤原●デカルトは中世のカトリックの世界に対して、サイエンスの側からの反発という形で登場しています。ところが、デカルトの前にガリレイがそれに挫折しており、デカルトはバチカンが怖くて仕方がなかった。『方法序説』はフランス語で書かれているが、「われ思う、ゆにわれ在り」の部分だけは「コギト・エルゴ・スム」とラテン語で書かれています。これは、私は精神世界と結びついていますよ、という法王庁の支配体制への一種の免罪符であり、本心は自分はサイエンスの側に立つということでした。


正慶●そこがデカルトの謎ですね。1968年にフランスの学生たちが反体制運動(五月事件)に立ち上がったとき、スローガンの一つに「デカルトを殺せ」という言葉がありました。これはデカルトに始まる近代を克服しろという意味でした。


藤原●そうです。近代を乗り越えてメタの世界に行かなければ、新しい社会は構築できないということです。


 藤原がいう「メタ」とは脱構築(デコンストラクション)のニュアンスが強い。私はヘーゲルからマルクスに至る文脈をよく知らないのだが、どうもポストモダンという時代認識に違和感を覚えてならない。大体、中世と較べてもタイプスケールがあまりにも短すぎると思う。数世紀以内に人類が滅ぶのであれば話は別だが。


 では何をもってメタ(超越)してゆくのか? それは神に変わる基準を示す以外にない。「神は死んだ」とニーチェは叫んだが、その後新しい子供の生まれた形跡がない。で、もちろん神になった人間もいない。


「神は死んだ」とするのであれば、それまで「神は生きていた」ことになる。でも本当はいないよ(笑)。最初っからいなかったのだ。神が自分に似せて人間を造ったのではなく、人間が自分に似せて神を作り上げたのだ。だから、神は人間の姿をしているではないか。


 それゆえ歴史を超克してゆくためには、神の精算が不可欠なのだ。あいつは人間に「罪」という借金を背負わせただけの存在だ。

ジャパン・レボリューション―「日本再生」への処方箋


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【フランス パリ 五月革命 1968年】