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2010-10-13

日清戦争に反対した勝海舟/『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編


 青春時代の15年間を私は江東区の亀戸で過ごした。道産子ではあったが、生来の口の悪さもあって下町の水がよく合った。近所のおじさんやおばさんにも随分とお世話になった。東京の下町にはまだ人情の灯(ひ)がともっていた。


 歴史上の人物で私が唯一親近感を覚えるのが勝海舟である。地図で見ると、亀戸から左に向かって墨田区の錦糸町、緑町、両国と続く。勝は本所(ほんじょ)の生まれだが生誕地は現在の両国4丁目25番地である。地図の左側(1/1500に拡大)にある本所松坂町公園吉良上野介邸跡。赤穂浪士が吉良の首を洗ったという井戸がまだ残っている。先日亡くなった池内淳子もこの辺りで生まれたはずだ。


 子母澤寛の『勝海舟』や、海老沢泰久の『青い空』を読んで少々知った気になっていたが、空前絶後の面白さだった。歴史というよりは政治の教科書として数百年の間は通用しそうだ。ちょんまげを結い、刀を差していた時代に、これほどの傑物が存在したのだ。勝海舟は理想的なプラグマティストであった。


 松浦玲が、最初の『氷川清話』を編んだ吉本襄〈よしもと・のぼる〉を完膚なきまでにこき下ろしている。どうやら勝手に改竄し、組み替えだらけの編集をしたようだ。詳細に渡る注釈が施されているが一つ一つに怒りが込められている(笑)。


 とにかくどのページを開いても、その見識の高さに驚かされる。軽妙洒脱でありながら本質を捉えた人物論、日本の行く末を決定づけた政治の舞台裏、諸外国との交渉、海外の人脈、金本位制度を踏まえた確かな経済的視点、そして市井の人々との交流。まさしく八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍で近代日本を築いた一人と言ってよい。


 勝は海軍の創始者でありながら日清戦争に関しては断固反対の声をあげた。黒船来航(1853年)が日本人に国家意識を芽生えさせた。明治になる15年前のこと。当時の人々は蒙古襲来を思い合わせたに違いない。300年の鎖国を経て日本は外の世界と向き合わざるを得なくなった。日本人の心理構造は激変した。

 当時は知識人という知識人が日清戦争を支持した。福澤諭吉を始め、夏目漱石森鴎外内村鑑三田中正造など。日露戦争に反対した内村ですら支持したのだから、日本人の自我の抑圧ぶりが知れよう。


日清戦争と中国観


おれは大反対だつたよ


 日清戦争はおれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとへ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。

 一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。

 おれなどは維新前から日清韓三国合縦(がっしょう)の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になつて兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところになるくらゐなものサ。


【『氷川清話』勝海舟江藤淳、松浦玲編(講談社学術文庫、2000年)以下同】


 この時代にして東アジアの地政学的リスクを知悉(ちしつ)していたのである。その上マーケティング戦略まで構想していたのだから凄い。


 別の箇所では、藩の利益を超えて国家主義的視点に立ったから政策判断が功を奏したと語っている。しかしながらその本質はアジア主義であった。開国したばかりの日本にこのようなコスモポリタンが存在したのだ。咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を横断した男は、世界的なスケールの発想をした。


 戦争でも同じことだ。世間では百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代らうが、敵国が来り国を取らうが、殆ど馬耳東風で、はあ帝王が代つたのか、はあ日本が来て、我国を取つたのか、などいつて平気でゐる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、誰が来て国を取らうが、一体の社会は、依然として旧態を損して居るのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体(からだ)を蚊(か)か虻(あぶ)が刺すくらゐにしか感じないのだ。

 ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ。


 中国王朝の変遷を踏まえて、国家観の相違を述べている。そしてここでもまた経済について言及している。戦争には金がかかる。戦費がかさむと国が滅ぶことも珍しくはない。


 勝の見識は、人間が時代の制約から自由になれることを示している。


 本書では実に様々な人物が取り上げられているが、勝が評価しているのは西郷隆盛横井小楠の二人だけである。


 おれは、今までに、天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠〈よこい・しょうなん〉と西郷南洲〈さいごう・なんしゅう〉とだ。

 横井は、西洋の事も別に沢山(たくさん)は知らず、おれが教へてやつたくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子(はしご)を掛けても、及ばぬと思つた事がしばしばあつたヨ。おれはひそかに思つたのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあつたら、それこそ由々(ゆゆ)しき大事だと思つたのサ。

 その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方が優(まさ)るほどだツたけれども、いはゆる天下の大事を負担するものは、果して西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。


横井小楠


 おれが初めて横井の名を聞いたのは、長崎に居た時分で、越前の村田が諸国を巡(めぐ)つて長崎にやつて来たから、ドーダ誰か大きな人物に出遇(であ)つたかと聞いたら、いや格別の人物にも出遇はなかつたが、肥後の横井平四郎といふ人は当今の天下第一流であらうと、痛く感心して話をした。これが横井の名を聞いた始めだ。(中略)

 おれが深く横井の識見に服したのは、おれが長州の談判を仰せ付かつた時、横井に相談した時である。おれが長州に行くにつき、かれの見込みを手紙で聞いたが、かれは、ひと通り自己の見込みを申し送り、なほ、「これは今日の事で、明日の事は余の知るところにあらず」といふ断言を添へた。おれは、この手紙を見て、初めは、横井とも言はるゝ人が今少し精細の意見もがなと思つたが、つらつら考へて、大いに横井の見識の人に高きものあることを悟(さと)つた。世の中の事は時々刻々転変窮(きわ)まりなきもので、機来(きた)り機去り、その間、実に髪(はつ)を容(い)れずだ。この活動世界に応ずるに死んだ理窟をもつてしては、とても追ひ付くわけではない。

 横井は確かにこの活理を認めて居た。当時この辺の活理を看取する眼識を有したるは、たゞ横井小楠あるのみで、この活理を決行するの胆識を有したるは、たゞ西郷南洲あるのみで、おれがこの両人に推服して措(お)かざりしは、これがためである。


 小楠は能弁で南洲は訥弁(とつべん)だつた。


 西郷については何度も何度も絶賛している。邯鄲(かんたん)相照らす間柄であったからこそ、江戸城の無血開城が可能となったのだ。この件(くだり)についても生き生きと語られている。


 時代が人を育み、人と人との出会いが時代を動かす。時が人を得て、人が時に乗じて歴史の歯車が回る。勝は一貫して「時勢が人をつくる」と断言した。

氷川清話 (講談社学術文庫)

2010-06-26

大日本帝国は軍国主義のためではなく官僚主義のために滅んだ/『歴史を精神分析する』(『官僚病の起源』改題)岸田秀


 ある時代の常識が、時を経て異様な姿となって現れてくることは決して珍しくない。むしろ多いくらいだ。岸田秀はこれを「共同幻想」としてバッサバッサと斬り捨てている。


 岸田によれば「アメリカは強迫神経症強迫性障害)」で「日本は精神分裂病統合失調症)」ということになる。ま、有り体にいえば「ほとんどビョーキ」ってことだ(笑)。


 唯幻論の魅力は「物語性を粉砕する破壊力」にある。歴史や文化は堅牢な城壁のように立ちはだかるが、鋼(はがね)にはかなわない。穴を空けられてしまえば脆(もろ)くも崩れる。


 歴史は戦争に集約されると考えれば、岸田の分析は歴史が動く本質を見事に捉えており、自衛隊の教科書に本書を採用すべきだ。


 わたしがかねてから主張しているように、大東亜戦争における日本軍の惨敗の原因は、物量の差ではなく(物量の差のために敗れたというのは軍部官僚の卑怯な逃げ口上である。軍部官僚が言葉の真の意味での軍人の名に値しないのは、その卑怯さからも明らかである。物量の差のために必然的に敗れるのであれば、そのような戦〈いくさ〉はしなければよかったのである。それに、ミッドウェイ海戦のように、物量的にアメリカ軍より優位にあったときも日本軍は惨敗している)、ましてや兵士たちの戦意や勇気の不足ではなかった(歴史上、この前の戦争における日本兵ほど身を犠牲にして懸命に戦った兵士がほかにいたであろうか)。

 最大の敗因は全体的戦略の欠落と個々の作戦のまずさであり、それは軍部官僚の責任なのである。

 そして、この点が重要なのであるが、軍部官僚の失敗は軍人であるがゆえの失敗ではなく、官僚であるがゆえの失敗であった。大日本帝国は軍国主義のためではなく、いわば官僚主義のために滅んだのである。軍国主義のためではなく、官僚主義のために310万の日本人と1000万以上(推定)のアジア人が死んだのである。

 もし当時の日本を支配していたのが、軍部官僚ではなく、政治の延長として軍事力を用いる非官僚的な軍国主義者、すなわち、彼我の軍事力のバランスを冷静に検討し、作戦の合理性を重視する軍国主義者であったとすれば、日本は戦争に突入していなかったかもしれないし、突入しても傷の浅いところで早目に切りあげていたかもしれない。

 戦後のわれわれはその点を見ず、単純に軍人に任せたのがよくなかったと考え、軍というものに病的な恐怖反応を示し、一部の者は、軍隊かどうか疑わしい自衛隊がいささかの発言権を持つのさえ恐れるが、それは敵を取り違えているのであって、真に恐れなければならないのは官僚なのである。


【『歴史を精神分析する』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、2007年/新書館、1997年『官僚病の起源』を改題)】

 岸田が太平洋戦争ではなく「大東亜戦争」と記しているのは、ただ単にGHQの検閲を嫌ったためだろう。ここは歴史認識を追求すべきところではない。


「戦争は官僚によって敗れた」――この指摘はあらゆる組織に適用できそうだ。大宇宙の変転は成住壊空(じょうじゅうえくう/四劫)のリズムを奏でる。住劫(じゅうこう)から壊劫(えこう)へ至る澱(よど)み、腐敗を象徴したのが「官僚」と考えられる。


 そうすると、あらゆる集団・組織の衰えは「官僚化」で計ることが可能かもしれない。官僚は特定の階層に忠誠を誓うロボットである。官僚の行動原理は保身だ。


 政権交代をしてからというもの、政治家と官僚との綱引きが続いていると囁かれている。実態は不明だ。この国では長らく政治家が有名無実の存在と化して、法案作りに至るまで官僚が行ってきた。政治家が作るとあまりにも珍しいので「議員立法」と表現されるほどだ。


 日本国民が最も理解し難いことの一つに、「どうしてこれほどまでにアメリカに頭が上がらないのだ?」という疑問がある。「いくら何でも3発目の原爆は落とされないだろう」とは思うものの、やくざ者にみかじめ料を払う飲み屋のマスターみたいな態度を日本は取り続けている。


 ひょっとしてあれか? 敗戦後、GHQに占領された頃から、官僚は何がしかの因果を含められているのか? 米国に対して犯すまじき不文律が山ほどありそうな気がする。


 元大蔵官僚の高橋洋一なんかが典型と思われるが、彼等は自分の頭のよさに酔い痴れているところがあり、罪悪感というものを持ち合わせてない。でもって妙な明るさがある。明らかなソシオパス傾向が見受けられる。分析には長(た)けているのだが、自己分析が全くできていない。というよりも自己分析という視点を欠いているのだ。


 つまり、官僚は「国家における自我」と想定することができる。官僚がのさばるということは「自我が肥大した状態」を示しているのだ。ソシオパスが二乗された時、肥大した自我は肥大した欲望のままに暴走を始める。


 恐るべきは軍国主義ではなく官僚主義であった。そう考えると吟味することもないまま鵜呑みにしている事柄があまりにも多い。先入観や強い思い込みは認知バイアスとなって情報をデコレーションする。一人ひとりの認識の差異を埋めるものこそが共同幻想であろう。そして歴史は共同幻想の城と化す。


 歴史の記述や叙述には必ず政治性が盛り込まれている。その嘘を見抜く確かな目を養わなければ、ファシズムに迎合するような自分になってしまうだろう。

官僚病の起源 歴史を精神分析する (中公文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-11-19

著者が唱える「顕密体制」に異議あり/『戦国仏教 中世社会と日蓮宗』湯浅治久


 込み入った話題が多く一般向けではない。またテーマが曖昧なため、締まりを欠いた内容となっている。歴史の断片を取り上げることに異論はないが、意味性・物語性を示さなければ些末な事実で終わってしまう。


 中ほど以降は飛ばし読みのため、思いつくままに書くことを許されよ。


 奈良や京都といった古都の大寺院はさておき、地域にある寺院の成り立ちを考えた時、まず思い浮かべるのは鎌倉仏教である。鎮護(ちんご)国家を旨とする古代仏教に対して、民衆の救済を掲げ、すぐれた宗教家が唱えた浄土宗・日蓮(にちれん)宗などのことで、まさに中世を代表する仏教、それが鎌倉仏教、または鎌倉新仏教というものである。

 しかし現在、こうした「通説」を支持する日本中世史の研究者はほとんどいない。中世に普遍的な仏教は、顕密(けんみつ)仏教である。それは何かというと、かつては古代的といわれていた比叡山(ひえいざん)や高野山(こうやさん)などが、じつは中世的な変貌(へんぼう)をなしとげ、莫大(ばくだい)な荘園を擁する宗教勢力として社会に君臨する。それらを顕密仏教というのである。そしてそのイデオロギーは民衆を呪縛(じゅばく)し、貴族や僧侶(そうりょ)、そして武士の支配を補充する役割を果たしていた、という。


【『戦国仏教 中世社会と日蓮宗』湯浅治久(中公新書、2009年)以下同】


 初耳だ。全く知らなかったよ。今検索したところ、黒田俊雄という歴史学者が唱えた説のようだ。「顕密体制」だってさ。


 しかし、戦前から戦後を通じて、ごく常識的に唱えられてきたこうした鎌倉仏教観は、現在、大きな修正を迫られている。それは古代以来の八宗(いわゆる南都六宗と天台・真言宗を指す)を中心とする顕密仏教こそがじつは中世の主要な仏教である、という主張による。鎌倉仏教などは、顕密仏教の社会における影響力を考えると、せいぜい顕密仏教の異端の一つにしかすぎないというのである。


 これが非常に胡散臭いのは、湯浅治久の立ち位置が不明なためだ。つまり、政治的な影響力から歴史を捉えるのか、あるいは経済的な視点から人々の動きを見つめるのか、はたまた宗教的な思想性から鳥瞰するのかが全くわからない。実にいい加減な姿勢である。


 黒田説の詳細を私は知らないが、きっと財政&軍事力から展望したものであろう。もしそうであれば、「寺社勢力」という言葉は腑に落ちる。


 中世の二大スターといえば、最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)である。これに異論を挟む者はあるまい。そして、この二人はともに密教を伝えたのだ。とすると、思想的には「密教体制」になってしまうのだ。


 鎌倉仏教の最大のポイントは、鎮護国家を目的として平安時代に輸入された中国仏教を、「日本化」したことに尽きると私は考える。特に鎌倉時代最大の反逆者であった日蓮は、断固たる態度で仏教思想を吟味し法華経を宣揚するに至った。諸宗への徹底した批判を貫き、遂には幕府権力者をも諌(いさ)めた。日蓮は終生にわたって権力による庇護を拒絶した。


 日蓮は二度命を落としそうになり、更に二度の流罪が科せられている。法然もまた流罪の憂き目を見た。つまり、平安時代の二大巨頭が権力者に守られていたのに対して、鎌倉時代の宗教リーダーは権力者から迫害された分だけ、思想的格闘を経ていると私は考えている。


 もちろん、どちらが上でどちらが下などということを論じるつもりはない。ただ湯浅が、何とはなしに誰かの唱えた説に乗っかって、歴史を大雑把に捉えようとするのが気に食わないだけだ。更には、鎌倉時代の民の苦悩を見逃しているとしか思えない。真の宗教とは、苦悩に呻吟(しんぎん)する民の中から生まれるものだ。そこを外してしまえば、「勢力としての教団」しか見えてこないであろう。

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

2009-09-02

明治維新は外資によって成し遂げられた/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人


 では、明治維新のおさらいをしておこう。

 意図的に阿片戦争を入れたわけだが、こうして俯瞰すると欧米列強が東アジアに接近を図ったことが理解できる。

 結局は、産業革命の波が押し寄せたってな話だったわけだ。マーケットの拡大、流通の確保、資本の収奪――植民地政策の動機はこんなところにあったのだろう。


 岸田秀はペリー来航を「強姦」であったと分析している。それ以降、日本は精神分裂病統合失調症)となった。


 日本が近代国家となったきっかけが黒船来航にあったことは疑問の余地がない。では開国後、どのような状況が訪れたのか――


公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年〜1863年)


 開国・貿易開始以降、内外の金銀比価が違ったために発生した金貨が大量に流出。その対策として発行された万延小判の品位の低さなどにより諸物価が高騰、開国策・不平等条約への批判が噴出し、外国人排斥の攘夷思想が次第に隆盛し、各地で異人斬りが横行する。また、国学思想から来る尊王思想と結びついて「尊王攘夷」運動として幕府批判へつながっていった。


Wikipedia


「強姦」の反動が国内で頻発したということなのだろう。注目すべきは、経済の混乱が思想の母胎となっている点である。行き詰まった社会は、「新しい物語」を求める。そして、「新しい物語」が社会の枠組みを打ち破る。


 そして、アメリカで南北戦争(1861-1865)が勃発した。日本にかまっていられる状況ではなくなった。


 そうすると、明治維新は日本における自律運動であったのだろうか? そんなわけないよ。油断も隙もないのが国際社会だ。今度はヨーロッパの出番だ――


 話は飛びますが、明治維新のときの日本を想像してください。

 明治政府になって、その後、日本の資本主義は急速に発展を遂げていきます。資本主義が発展するためには、まず資本がなくてはならないはずですが、その資本はどこからやってきたのでしょうか。工業や重工業の発展に連なる経済の基礎は、誰がどのようにして築いたのでしょうか。

 カネの存在を抜きにして、歴史を変えることはできません。大政奉還から明治維新、そして明治新政府が成立する歴史の転回点で、日本に巨額のファイナンスを行った勢力がいたわけです。戊辰(ぼしん)戦争の戦費に使われたカネにしても、同様のことがいえます。倒幕軍の戦費は、薩摩と長州が自分たちの金蔵から出してきたものではありません。幕府軍の戦費にしても、徳川家が全額まかなったものではないでしょう。現代の国際紛争モデル、あるいは内戦モデルから類推すれば、戊辰戦争が外国の二大勢力による代理戦争という性格を色濃く持っていたことは容易に想像がつきます。

 実際、政権交代を目指す薩長勢力にはイギリスが、政権維持を目論む幕府勢力にはフランスが、潤沢な資金を供給していました。もっとはっきりいえば、当時の財政破綻状態のイギリスやフランスの事実上のオーナーともいえたイギリスのロスチャイルド家とフランスのロスチャイルド家が、日本に隠然たる影響力を行使するため、薩長勢力と徳川幕府の双方へ資金を供給したと見るべきなのです。


【『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人(ビジネス社、2008年)以下同】


 陰謀論としては秀逸すぎる。ロスチャイルド家は初代マイヤー・アムシェルが5人の息子を欧州各地に派遣し、巨額の財を成した。その中でも、“イギリス・ロスチャイルドの祖”である三男のネイサンワーテルローの戦い(1815年)で、莫大な富を手中にした。ロスチャイルド家は資産を増やしながら戦争にコミットし、戦争にコミットすることで更に資産を増やしていった。


 ここに「世界」という名の駄菓子屋があったとしよう。店主は「神」を名乗っている。近所に住む子供達は200人ほどいるが、その殆どは貧しいため何一つ買うことができない。駄菓子を買いにくる子供は8人ほど(G8)。ところが最近、見たことのない女の子がやって来て、「オジサン、お店にある半分の駄菓子をちょーだい」と言い出した。続けて、「でも、私一人じゃ食べ切れないから、ここで商売を始めてもいいかしら?」と言うではないか。店主は「ま、店を取られるわけじゃないんだから構わないだろう」と応じることにした。そして今では、店内の99%の駄菓子を買い占められ、仕入れまでコントロールされるに至った。女の子は名前を「ロス子」といった。ロスチャイルド……(笑)。


 本当にそんな真似が可能なのか? 駄菓子屋で可能ならば、世界でだって可能だろうよ。金は人を動かし物を動かすのだ。ロスチャイルド家が天才的なのは、どちらが勝っても自分達に利益が入ってくる仕組みを考えていることだ。


 苫米地英人は維新後の状況についても、こう記している――


 ところで、徳川幕府に取って代わった明治維新の新勢力は、結局どのような人物たちでしょうか。

 もちろん、薩摩と長州の武士たちです。

 脈々と現代に生き続ける、日本の「勝ち組」の正体は、じつはこの薩摩と長州を中心とする勢力だということができます。

 明治維新以来、昭和21年に日本国憲法が施行されるまでの間に任ぜられたのべ45人の内閣総理大臣のうち、薩摩出身者はのべ5人、長州出身者はのべ11人に上っています。倒幕に参加した土佐藩からはのべ1人、肥前藩からはのべ2人、占有率はじつに42パーセントを超えてしまいます。大蔵大臣、外務大臣などの主要ポストも薩長閥がほとんどです。

 中央省庁のなかでも、とくに警察庁と防衛省は、薩長の牙城です。鹿児島県、山口県の出身者が多く、事情を知る関係者の間には「鹿児島県、山口県の出身者でなければ出世できない」という暗黙の了解があるほどです。最後まで新政府軍と戦った会津藩の福島県には、昭和になってからようやく国立大学が創られたというのも有名な話です。


 つまり、薩長はロス子の飼い犬となったということか。


 産業革命は文字通り革命であった。物資は世界を駆け巡り、情報がフィードバックされた。これぞ、グローバリゼーションの走りといってよい。交通・通信の発達によって世界は小さくなった。既に駄菓子屋ほどの大きさだ。


 果たしてロスチャイルドはビッグ・ブラザーを目指しているのだろうか。それとも神となることを目論んでいるのだろうか。我々は知らないうちにロスチャイルド教の信者になっているのかも知れない。

洗脳支配ー日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて

2009-06-16

米軍による原爆投下は人体実験だった/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人

    • 米軍による原爆投下は人体実験だった

 またしてもベッチーである。これは傑作。最近の量産ぶりは玉石混淆だが、本書は一つの集大成ともいえる。それほど完成度が高い。各章の意図が明確で、薀蓄(うんちく)に傾きがちな悪癖が影を潜めている。装丁もグッド。


 苫米地の胡散臭さは、天才にありがちな「ま、わかる奴だけわかればいいや」という手抜きに起因している。穿(うが)った見方をすれば、「トンデモ本と思わせておけば好都合」という魂胆さえ見え隠れしている。


 例えば、スピリチュアル系の内容だと仏教の造詣が求められるし、本書であれば経済の仕組みに関する基礎知識が不可欠だ。私が読んできた限りでは、苫米地英人が単なる思いつきで、いい加減なことを書いた形跡はない。凄いことをさらりと書いておきながら、知を統合させる方向へリードしているように感ずる。


 本書は初の経済モノ。資本主義経済という名のもとで、どのように大掛かりな洗脳が行われ、国民が目隠しをされているかを暴き出している。イントロは、原爆投下にまつわる洗脳だ――


 原爆投下の理由について、新型爆弾である原爆を当初、米国の原爆を開発した科学者たちは、呉などの軍港の、それも沖合いに投下するという説明を受けていました。それを、当時の米国軍部は原爆の威力を測定する意味合いで、都市部に落とすことに変えました。人体実験を目的として日本に落としたと言えます。このことは、残された米軍の資料など、さまざまな証拠から明らかになっています。

 ところが日本人の多くは、「第二次世界大戦を早く終らせるために、アメリカは日本に原爆を投下せざるをえなかった」と教育され、いまだにそう思い込んでいます。

 実際、昭和20年の東京大空襲など、一連の空爆による日本全土焼き払い作戦のときから、米軍部は日本に戦争遂行能力がないことをはっきり知っていました。日本全土を焼き払うこと自体、すでに人体実験です。一般市民が無差別に死んでいくなかで、戦争の恐怖がどのように天皇を頂点にした国家を変えていくのか、研究していたのだと私は見ています。

 そして、その次に原爆投下です。敗戦前の少なくとも半年の間、日本人は国ごと一部の米国人の実験用モルモットとして、やりたい放題に殺されたというのが歴史の事実です。


【『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人(ビジネス社、2008年)】


 私もそのように思い込んでいた。日本軍に侵略されたアジア諸国の国民から見れば、原爆投下は正当化されるのかも知れない。はたまた、ソ連軍の参戦によって米軍は終戦を早めることを余儀なくされた、と。


 真珠湾攻撃の宣戦布告が遅れたとはいえ、アメリカ側は事前に知っていたという記録もある。とすれば、アメリカが第二次大戦後の世界における主導権を握るためにも、でかい花火を打ち上げる必要があったのだろう。


 その結果、広島では14万人が、長崎では7万4000人が、東京は106回の爆撃を受け、3月10日だけで8万4000人が殺された。

 ここで重要なことは戦時中の日本がどのような状況であったのかということである。稀代の悪法である治安維持法や不敬罪によって、警察や憲兵が威張り散らしていたことは容易に想像がつく。夫や子供を戦地へ送り出した妻や母達は気丈に耐えるしかなかったことだろう。そこへコーンパイプをくわえたマッカーサーがやってきたのだ。チョコレートを持った米兵も。終戦(本当は敗戦)と同時に、灯火管制が布かれていた日本に電灯が煌々(こうこう)と灯(とも)った。


 ってことはだよ、ひょっとしたら安堵に胸を撫で下ろした国民の方が多かったかも知れぬ。そして、そこにこそ洗脳の余地(=「情報の空白部分」)が形成されたのだろう。マッカーサーは日本に自由を与えた。そして、自由になった日本国民は知らぬ間にアメリカが誘導する方向へ歩を進めた。


 原爆慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と記されている。過ちを犯したのはアメリカであったにもかかわらずだ。日本人は何でも水に流してチャラにするのだった。で、天皇の戦争責任もアメリカの原爆の責任も不問に付されるってわけだ。


 大き過ぎる問題は国民の目に映らない。群盲象を撫でる状況となる。苫米地英人は一冊の書物に心血を注ぎ、象の姿を皆に見せようと試みたのである。ここには眼を開かせるだけの力が、確かにある。

洗脳支配ー日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて