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2011-02-22

日米安保という幻想/『日本人のための戦略的思考入門 日米同盟を超えて』孫崎享


 孫崎享〈まごさき・うける〉を初めて知ったのは、岩上安身USTREAMインタビューでのこと。そのフランクな物腰から元外務官僚であるとは伺い知れなかった。どこから見ても「近所のオジサン」である。実はそこにこの人の凄さがある。仕立ての良さそうなスーツや、おっとりとした上品な口調や、手の込んだ難しい言葉で装飾する必要がないことを示している。


 佐藤優同様、孫崎も実務家である。そして彼らは忠臣でもあった。とはいっても特定の権力者の意向に寄り添ったわけではない。国民から成る国家に忠誠を尽くした。該博な知識や視点の高い卓見もさることながら、義を尽くし誠を貫こうとする気風を感じてならない。


 自由な言論は時に分際をわきまえず極端から極端へと走り回る。できもしないこと、やりもしないこと、直接は言えないことを無責任に放つ。そこに礼の精神はない。あるとすれば肥大した自我だけであろう。佐藤と孫崎は分際をわきまえながら、ギリギリのところで諫言(かんげん)を行う。かように正義と中庸を知る人物は少ない。


 まず、「まえがき」で戦略の意義を説く──


 戦略とは、「人や組織に死活的に重要なことをどう処理するか」を考える学問である。


【『日本人のための戦略的思考入門 日米同盟を超えて』孫崎享〈まごさき・うける〉(詳伝社新書、2010年)以下同】


 戦略はなくても戦争は戦える。しかし負ける。戦略はなくとも企業経営はできる。しかし、長期的には恐らく、世界市場で勝ち残ることはできないであろう。

 戦争も経営も、実験することはできない。しかし、歴史的結果を踏まえて学ぶことはできる。組織も個人も、戦略を学ぶ必要がある。

 戦争は手段であって目的ではない。戦闘は非日常行為といってよい。自由と幸福は平和の中で実現される。そうであればこそ、孫子はこう言ったのだ──

 だが資本主義が世界を席巻するようになり、人々の日常は否応なく戦闘状態となってしまった。社会では人間が比較され、取捨され、消費されている。我々は生まれ落ちてから死ぬまで競争に駆り立てられている。


 とすれば、こうした時代を生きる以上、一人ひとりに戦略が必要となる。戦略は目的から生まれ、目的は理念・思想・価値観などからつくられる。世界中で多くの人々が苦しんでいる以上、権力を牛耳っている連中がエゴイスティックな思想の持ち主であることは明らかだ。


 孫崎は現状の日本に戦略が欠けていることを、日米安保から鮮やかに描いている。


 こう書くと、誇張(こちょう)でいないかと反論される読者が必ずいるであろう。豊下楢彦(とよした・ならひこ)著『安保条約の成立』(岩波新書)は次の記述を行なっている。


「ダレス使節団が来日した翌日の1月26日、最初のスタッフ会議においてダレスは、『我々は日本に、我々が【望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利】を獲得できるだろうか? これが根本問題である』(中略)と、明確に問題のありかを指摘した」


 間違いなく、今日の米軍関係者はこの心理を継続している。

 ダレス使節団が来日したのは1951年(昭和26年)のこと。ジョン・D・ロックフェラー3世が同行している。

 つまり、1952年(昭和27年)4月28日にGHQの占領は終わったが、枠組みだけはきっちり残していったと考えるべきなのだ。


 連綿と続いた自民党の一党支配、それを支え続けた官僚機構、許認可事業でありながら完全に独占している新聞社とテレビ局、主要電力会社電通なども同じ臭いを発している。明らかに競争原理と離れた位置で巨大な城のようにそびえ立っている。

 多くの国民は、日米安保条約で日本の領土が守られていると思っている。日本の領土を外国から守るという点では、日本人の最大の関心は尖閣諸島である。中国が尖閣諸島を攻撃したらどうなるのか?

 多くの日本人は日米安保条約があるから、米国は即、日本と共にに戦うだろうと思っている。かつ、米国政府要人はその印象を与えてきた。日本の外務省幹部は「絶対守ってくれる」と言ってきた。そんなに確実なのか、改めて考える必要がある。

【1996年、時の駐日大使モンデールは「米国軍は安保条約で(尖閣諸島をめぐる)紛争に介入を義務づけられるものではない」と発言した。】


 我々日本人はアメリカに対して膨大なみかじめ料を支払ってきたために、何かあれば暴力団みたいに守ってくれるものと錯覚してしまったのだ。


 安全保障条約は国家と国家とが対等の関係で有効に機能する。アメリカからすれば、「自分で戦わないうちから当てにされても困る」ってな具合だろう。日本が望んだのは「棚ぼた式安全保障」であった。そんなもの画餅(がべい)であろう。小学生の時の初恋よりも淡くはかない。カルピスの味すらしねーわな(笑)。


 1986年6月25日付、読売新聞夕刊一面トップは「日欧の核の傘は幻想」の標題の下、次のようなターナー元CIA長官の言葉を報じた。


【「同様に、日本の防衛のために核ミサイルを米本土から発射することはあり得ない」「われわれはワシントンを犠牲にしてまで同盟諸国を守る考えはない」「アメリカは外国と結んだ理化学防衛条約にも、核使用に言及したものはない」】


 だいたい被爆した国が核の傘で守ってもらうという発想がいただけない。傘の下がきのこ雲で充満しそうだ。


 アメリカは日本の脇の下をくすぐりながら、官僚とメディアをコントロールして、日本国民が勘違いする方向付けを行ったのだろう。


 竹島もまた、日本の管轄下にあるとは見なされない。したがって、これも安保条約の対象外である。

 米国は過去、竹島問題で、日韓のいずれの立場も支持するものでないとの立場をとってきたが、【ブッシュ大統領訪韓時、米国は竹島を韓国領と位置づけた】。2008年、米国地名委員会がこれまで韓国領としていたのを、係争中に変更した。ちょうどブッシュ大統領の韓国訪問直前でもあったので、韓国側は大統領を含め、激しい抗議を米国に行なった。

 これをうけ、米国地名委員会は再度韓国領と修正した。この動きはブッシュ大統領から来週国防長官の支持に基づくと報じられている(「The Japan Timues」2008年8月1日付報道)。2010年5月時点でも、【米国地名委員会は竹島を韓国領と見なしている】。(中略)

 日本は、世界で最も米国に忠実な国である。しかし、米国は、尖閣諸島であれ、竹島問題であれ、最も忠実に米国に従う日本の立場は無視している。米国は、敵対的地位にある中国や、文句を言う韓国の立場を重視している。これ一つみても、「米国に追随するだけ」の戦略では日本に利益をもたらさないことがわかる。

 日本多くの人は、日米同盟の下、米国は領土問題で日本の立場を強く支持していると思っている。だが、実態は違う。竹島では韓国の立場を支持し、尖閣諸島では日中のどちら側にもつかないと述べている。北方領土は安保条約の対象外だ。びっくりすると思う。しかしこれが実態だ。


 孫崎のツイッターによれば、2005年「日米同盟未来のための変革と再編」の役割・任務 能力の項目で「島嶼部(とうしょぶ)への侵略対応は日本」とされているとのこと。日本が島国であることを踏まえると、「悪いが北海道も九州も四国も島嶼部ということで」と言われてしまえばお手上げだ。


 結局敗戦後、軍隊を失ったことで独立国になれなかった我が国の姿が浮かび上がってくる。色々な考えがあるだろう。色々な考えがあってしかるべきだ。それが民主主義のいいところなんだから。


 私は、軍隊を侵略のための暴力装置として見るのではなく、セキュリティという次元から光を当てるべきだと考える。つまり「ドア」であり「鍵」であり「防犯グッズ」。


 手っ取り早く結論を述べてしまおう。日本は元より世界各国が核爆弾を持つべきだと私は思う。だって、そうだろ? 核爆弾には抑止力があるのだから。まず全員が持つ。それから段階的に減らしてゆけばいいし、最終的になくせばいい。


 そうでもしない限り、第二次大戦後の連合国支配の世界構造は変わらないよ。変わらないとすれば、沖縄の若い女性はいつまでも強姦され続けることになるだろう。


 私の最終的な案としては、戦争を本当のゲームにしてしまうことだ。対戦国は互いに得意なゲームを指定する。で、元首同士が直接勝負するのだ。これをオリンピック化することを提案したい。例えば、中国=書道、アメリカ=アメリカン・フットボール、日本=囲碁、イギリス=クロスワードパズル、モンゴル=乗馬、インド=カレー、西アフリカ=トーキングドラムといった具合だ。


 料理や絵画だって構わない。どうせ俺たち人類は争い合いが好きなのだ。最終的な提案の最終形はこうだ。親切、優しさ、公正さ、紳士ぶりを各国が競い合う。

日本人のための戦略的思考入門――日米同盟を超えて(祥伝社新書210)

2010-06-26

大日本帝国は軍国主義のためではなく官僚主義のために滅んだ/『歴史を精神分析する』(『官僚病の起源』改題)岸田秀


 ある時代の常識が、時を経て異様な姿となって現れてくることは決して珍しくない。むしろ多いくらいだ。岸田秀はこれを「共同幻想」としてバッサバッサと斬り捨てている。


 岸田によれば「アメリカは強迫神経症強迫性障害)」で「日本は精神分裂病統合失調症)」ということになる。ま、有り体にいえば「ほとんどビョーキ」ってことだ(笑)。


 唯幻論の魅力は「物語性を粉砕する破壊力」にある。歴史や文化は堅牢な城壁のように立ちはだかるが、鋼(はがね)にはかなわない。穴を空けられてしまえば脆(もろ)くも崩れる。


 歴史は戦争に集約されると考えれば、岸田の分析は歴史が動く本質を見事に捉えており、自衛隊の教科書に本書を採用すべきだ。


 わたしがかねてから主張しているように、大東亜戦争における日本軍の惨敗の原因は、物量の差ではなく(物量の差のために敗れたというのは軍部官僚の卑怯な逃げ口上である。軍部官僚が言葉の真の意味での軍人の名に値しないのは、その卑怯さからも明らかである。物量の差のために必然的に敗れるのであれば、そのような戦〈いくさ〉はしなければよかったのである。それに、ミッドウェイ海戦のように、物量的にアメリカ軍より優位にあったときも日本軍は惨敗している)、ましてや兵士たちの戦意や勇気の不足ではなかった(歴史上、この前の戦争における日本兵ほど身を犠牲にして懸命に戦った兵士がほかにいたであろうか)。

 最大の敗因は全体的戦略の欠落と個々の作戦のまずさであり、それは軍部官僚の責任なのである。

 そして、この点が重要なのであるが、軍部官僚の失敗は軍人であるがゆえの失敗ではなく、官僚であるがゆえの失敗であった。大日本帝国は軍国主義のためではなく、いわば官僚主義のために滅んだのである。軍国主義のためではなく、官僚主義のために310万の日本人と1000万以上(推定)のアジア人が死んだのである。

 もし当時の日本を支配していたのが、軍部官僚ではなく、政治の延長として軍事力を用いる非官僚的な軍国主義者、すなわち、彼我の軍事力のバランスを冷静に検討し、作戦の合理性を重視する軍国主義者であったとすれば、日本は戦争に突入していなかったかもしれないし、突入しても傷の浅いところで早目に切りあげていたかもしれない。

 戦後のわれわれはその点を見ず、単純に軍人に任せたのがよくなかったと考え、軍というものに病的な恐怖反応を示し、一部の者は、軍隊かどうか疑わしい自衛隊がいささかの発言権を持つのさえ恐れるが、それは敵を取り違えているのであって、真に恐れなければならないのは官僚なのである。


【『歴史を精神分析する』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、2007年/新書館、1997年『官僚病の起源』を改題)】

 岸田が太平洋戦争ではなく「大東亜戦争」と記しているのは、ただ単にGHQの検閲を嫌ったためだろう。ここは歴史認識を追求すべきところではない。


「戦争は官僚によって敗れた」――この指摘はあらゆる組織に適用できそうだ。大宇宙の変転は成住壊空(じょうじゅうえくう/四劫)のリズムを奏でる。住劫(じゅうこう)から壊劫(えこう)へ至る澱(よど)み、腐敗を象徴したのが「官僚」と考えられる。


 そうすると、あらゆる集団・組織の衰えは「官僚化」で計ることが可能かもしれない。官僚は特定の階層に忠誠を誓うロボットである。官僚の行動原理は保身だ。


 政権交代をしてからというもの、政治家と官僚との綱引きが続いていると囁かれている。実態は不明だ。この国では長らく政治家が有名無実の存在と化して、法案作りに至るまで官僚が行ってきた。政治家が作るとあまりにも珍しいので「議員立法」と表現されるほどだ。


 日本国民が最も理解し難いことの一つに、「どうしてこれほどまでにアメリカに頭が上がらないのだ?」という疑問がある。「いくら何でも3発目の原爆は落とされないだろう」とは思うものの、やくざ者にみかじめ料を払う飲み屋のマスターみたいな態度を日本は取り続けている。


 ひょっとしてあれか? 敗戦後、GHQに占領された頃から、官僚は何がしかの因果を含められているのか? 米国に対して犯すまじき不文律が山ほどありそうな気がする。


 元大蔵官僚の高橋洋一なんかが典型と思われるが、彼等は自分の頭のよさに酔い痴れているところがあり、罪悪感というものを持ち合わせてない。でもって妙な明るさがある。明らかなソシオパス傾向が見受けられる。分析には長(た)けているのだが、自己分析が全くできていない。というよりも自己分析という視点を欠いているのだ。


 つまり、官僚は「国家における自我」と想定することができる。官僚がのさばるということは「自我が肥大した状態」を示しているのだ。ソシオパスが二乗された時、肥大した自我は肥大した欲望のままに暴走を始める。


 恐るべきは軍国主義ではなく官僚主義であった。そう考えると吟味することもないまま鵜呑みにしている事柄があまりにも多い。先入観や強い思い込みは認知バイアスとなって情報をデコレーションする。一人ひとりの認識の差異を埋めるものこそが共同幻想であろう。そして歴史は共同幻想の城と化す。


 歴史の記述や叙述には必ず政治性が盛り込まれている。その嘘を見抜く確かな目を養わなければ、ファシズムに迎合するような自分になってしまうだろう。

官僚病の起源 歴史を精神分析する (中公文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-07-23

理工系人間は正確さにこだわり、人文系人間は意味を尊重する/『おテレビ様と日本人』林秀彦


 林秀彦は、人気テレビドラマ『鳩子の海』や『七人の刑事』の脚本を書いた人物。後に、バラエティショーの司会やFMのディスクジョッキーも務めた。その“テレビ側の人物”が、怒りを込めて完膚なきまでにテレビの毒性を糾弾している。


 この本は賛否両論が極端に分かれることだろう。時に著者の感情が激しく振れ、極論に走っているためだ。やたらと「白痴化」という言葉が出てくる。林は激怒する。日本を滅ぼしつつあるテレビに対して。林は歯軋(はぎし)りする。自分の人生を狂わせたテレビに対して。そして林は涙する。テレビの圧倒的な力の前であまりにも無力な自分に対して。著者は憤怒(ふんぬ)の形相で、さめざめと涙を流し続けているのだ。


 著者が自殺未遂に至る過程や、テレビ界を去って日本を脱出した後の人生を知り、私は「この人物は信用できる」と判断した。


 林秀彦は意図的に話を単純化する。既に白痴化しつつある衆生(しゅじょう)に向かって二者択一の選択を強いる目的で――


 たぶん神は、最初から人間を、理工系に作ったのだろう。だが神自身は、あくまで文科系である。と同時に、実に矛盾することだが、その神を祀(まつ)るあらゆる種類の教会的存在の建立者と運営者は、理工系である。そこに、非常に大きな人類の問題、葛藤、悲劇が生まれている。神自身はテレビを見ない。伝道者はテレビが大好きだ。文科系の神を宣伝するために、進んで理工系の手段を講じる。

 ジャパングリッシュで誤用されているのは、ヒューマニズムの使い方だ。人道主義とか博愛といった意味でこの英語を使うが、間違っている。その意味ならばヒューマニタリアニズム(humanitarianism)を使わなければならない。人間尊重を本義とするヒューマニズムはキケロに始まり、ヨーロッパの伝統的な思想であり、意味の変遷はあったが根本は変わっていない。すなわち、その時代時代で、人間性を損なうものすべてに対して抵抗する思想である。現代で言えば過度な科学の進歩、つまりおテレビ様、コンピューター、核兵器、その他もろもろ、に対する挑戦的姿勢と、それからの守備思想だ。

 そこで簡単に言い切れないことを、簡単に言い切る。

 ヒューマニズム信奉者は人文系の人間性であり、敵対者が理工系の人間である。職業的な意味でないことは前に断った。思考癖とでも言えるだろうか。性格、性癖と取ってもいい。意識・無意識は別にして、理工系の人間は非人間思考であり、人間性を失うことが進歩だと錯覚している。

 その顕著な現れのひとつは、間違いを嫌う性格だ。無謬をもって人間の最善とする「癖・へき」を持っている。彼ら・彼女らは、分析力と思考力の区別をつけていない。

 たとえばひとつの情報の正誤は分析できるが、そのいずれの場合にも含まれる「意味」は考えられない(考えたと錯覚しているが、それは分析である)。人文系人間、真の意味のヒューマニストには、正確は二義的な問題である。いずれであろうと、彼らが集中する対象は、それらが持つ「意味」である。正は正なりに、誤は誤なりに。

 理工系人間はヒューマニタリアンになりえても、決してヒューマニストにはなれない。なぜならば、理工系人間は高貴であってはなりえず、また、高貴になりえない。無論この「高貴さ」は人間の定めた身分的なものではない。神の定めた人間性の一部である。ヒューマニズムを支える根本こそ、人間の高貴さなのだ。

 高貴さは正誤と無縁であり、無謬も問題の範疇(はんちゅう)から外れる。

 正しくないこと、間違ったことをあえてすることによって高貴さが生まれる場合もある。この道筋はヒューマニタリアンの持ちえないものだ。


【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】


 実に強引な文章である。さしずめ、無理な体勢からの上手投げといったところか。しかしながら、論理の軸足は辛うじて土俵内に残っていて、上手に乗せたメッセージは力強い。


 もう一度読んでみよう――林は「知識」と「知恵」の違いを主張しているのだ。知識には重量がある。増え続ける知識の重さに耐えかねる時、人は知識に額(ぬか)づき奴隷と化す。知識は“使うもの”ではなくして、思考を束縛する鎖となる。脳味噌は単なる記憶媒体の役目を担う。こうして百科事典に手足が付いたような人間が出来上がる。一方、知恵には浮力・揚力がある。本気でものを考えると行動が変化する。そして、新たな行動が新たな思索につながる。知恵は生きざまに結晶する。


 林が言うところの「理工系人間」は、知識や理論に自分の人生をはめ込もうとする。だから、自分に対する批判や落ち度を気にして正確さを競う。そして「人文系人間」は無謬性よりも意味の有無を問う。


 正確性が求められるのは機械である。あるいは時計だ。無論、正確な知識は必要であろうが、そのために人間性を犠牲にするようなことがあれば本末転倒だ。


 理論と実践は異なる。プロ野球監督の采配にケチをつける野球ファンは山ほどいるが、彼等が監督になることはあり得ない。イチローのバッティングセンスを解説する人物が、イチローのように打てるわけでもない。


 湖の上に足を一歩踏み出す。その足が沈む前にもう片方の足を前に出す――理屈であれば湖の上も歩けることになる。


 現代人に欠けているのは、合理を踏まえながら合理を跳躍する脚力なのだ。そして、それこそが“智慧”と呼ばれるものに違いない。

おテレビ様と日本人

2009-03-28

オーストラリア・カジノとつながるヴァチカン財務部/『無境界の人』森巣博


 森巣博(もりす・ひろし)はオーストラリア・カジノを拠点とする博徒(ばくと=ギャンブラー)である(森巣は「カシノ」と表記している)。本書のテーマは「日本人論」であるが、自在な筆致はギャンブル哲学を通奏低音とした小説のような味わいもある。


 で、ギャンブラーの知的な弁解を紹介しよう――


 いろいろな持ち株会社が交錯して複雑なのであるが、資本の流れを追うと、その謎が解ける。カシノ・オーストラリアには二つの大株主が存在する。ひとつは、オーストラリア・ペンション・ファンド(日本で言う厚生年金基金。老齢年金のための投資を行うオーストラリアの準政府機関)。もうひとつが、なんとヴァチカン財務部に行き着く。この二者でカシノ・オーストラリアの過半数の資本(つまり管理経営権)を握っている。畏れおおくもかしこくもカトリック教会が、カシノライセンスを寄越せと、国あるいは地方行政府にねじ込むのである。いや、失礼した、ロビー活動を行うのである(オーストラリア・クイーンズランド州ケアンズにできたリーフ・カシノには、持ち株会社も介在せずに、直接カトリック教会が10パーセントの資本参加をしている)。

 すなわちわたしがこのカシノの博奕で負けても、そのお金は、オーストラリアの老人福祉に使われるか、有り難くも神様のところへ行くのである。もう死後のわたしには天国での居場所が用意されているのだ。博奕ヲ止メマショウ、などと神を畏れぬ不届き者は、地獄へ行け。


【『無境界の人』森巣博(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】


 ヴァチカン市国は言わずと知れたカトリックの総本山であり、世界最小国だ。なんと東京ディズニーランドより狭い(Wikipediaによる)。でだ、カトリックと言えば日本にキリスト教を持ってきたフランシスコ・ザビエルが思い出される。そう。イエズス会のメンバーだ。これが1549年のこと(「以後よく(1549)伝わるキリスト教」と中学で暗記させられた)。つまり、500年前からキリスト教は確かな世界戦略を描いていたということになる。


 昔であれば当然のように珍しい物や便利な物をちらつかせて交渉に臨んだことだろう。海老沢泰久著『青い空』(文藝春秋、2004年)では、江戸時代の日本人に治療を施す外国人キリシタンが描かれていた。


 文明が進んでいたヨーロッパからやって来る宣教師は、それぞれの国の産業動向を見極め、貿易の一助を担ったものと想定できる。


 中世における「教会という名の権力」――その意味を知らずして西洋社会を理解することは不可能だ。宗教は、政治・学問のはるか頭上に君臨していたのだ。


 十字軍の歴史を思えば、キリスト教の世界戦略が「世界征服」だったとしても、誰一人驚かないことだろう。私なら、オーストラリア・カジノをヴァチカン市国が経営していたとしても驚かないよ。

無境界の人 無境界の人 (集英社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-01-06

権力者は利用できない人間を圧殺する/『冒険と日本人』本多勝一


 昨今はやや落ちぶれた感のある本多勝一だが、権力と対峙する姿勢を彼から学んだ人も数多くいることだろう。


 ある山国に、跳躍力の並はずれて強い男が現れました。高い塀などらくらく跳び越えます。今でいえば高跳びの選手にんるところでしょう。とにかく村中の評判になりました。評判は地方の大名の耳にはいり、やがて将軍の耳にもはいります。ついに将軍が「呼びよせて、やらせてみよ」と命ずる。そのとき、跳躍して越えるべき柵の反対側、男の着陸する地点に、たくさんの竹槍が植えこまれていたというのです。少しでも変わったことをするものは、権力者にとって明らかに利用価値があるものでない限り、高跳びでさえも危険な冒険とみて圧殺の対象とされたのでしょう。


【『冒険と日本人』本多勝一(集英社文庫)】


 今読むと、真偽のほどが疑われるような文章である。本来であれば特定すべき人名や地名、はたまた年代などが全くの不明。私の手元にある古いノートにはこの箇所しか記されていない。


 しかし、取り敢えずのところは、このエピソードが歴史的事実であったと仮定して話を進めよう。私が驚いたのは、「竹槍を植えこんだ」ことだ。権力者は、並外れた跳躍力を確認した上で殺害している。家来に命じて斬ることなどわけもないのに、わざわざ舞台装置を作ったのだ。実際の作業に携わった者は複数名はいたであろうし、作業を見つめていた人々もいたはずだ。かような目撃者は否応(いやおう)なく「権力の恐ろしさ」を確認させられる羽目となる。しかも、だ。多分、こうした具体的な計算はしていなかったことだろう。ここが恐ろしいのだ。


 社会のあらゆる集団が組織化されている。組織が形成されると、必ずそこには権力が生ずる。権力とはわかりやすく言えば「人事と金」だ。そして、組織の力学は、本来の目的を無視して「組織の維持、拡大」に向かう。こうして、組織は「人間をコントロールする」ようになるのだ。権力の本質がここにある。

冒険と日本人