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2011-03-06

ソマティック・マーカー仮説/『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』(『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題)アントニオ・R・ダマシオ

    • ソマティック・マーカー仮説

 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に対し、脳科学の立場から異議を申し立てている。テンプル・グランディン著『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』で紹介されていた一冊。


 多分翻訳がよくない。専門性が高いことと読みにくいこととは別問題である。序盤は軽快に進むのだが、途中からトーンダウンする。この手の本は一気に読まなければ挫けてしまう。


 デカルト以降、理性と感情の問題は理性が勝利を収めてきた。400年間にわたる話だ。まだ中世の頃だから、神の存在を理解できることが理性を意味していたのだろう。そんなヨーロッパ人からすれば、異国に住む人々(=有色人種ね)は野蛮人でしかなかった。


 時々刻々と更新されていく身体の構造と状態を直接見晴らせる窓からわれわれが目にするもの、それが私の考えている感情の本質である。この窓から見る風景をイメージするなら、身体の「構造」は空間内の物体の形状に、そして身体の「状態」はその空間における物体の光と影、動きと音に似ている。この風景において、物体は内蔵(心臓、肺、腸、筋肉)であり、光と影、動きと音は、ある瞬間における、それらの期間の作用範囲内の一点を表象している。

 おおむね感情とは、そういう身体風景の一部の瞬間的な「眺望」である。そこには身体状態という具体的な内容がある。そしてそれは、特定の神経システム──身体の構造と調節とに関係している信号を統合している末梢神経と脳領域──によって支えられている。


【『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳(ちくま学芸文庫、2010年/『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題、講談社、2000年)以下同】


 ウーム、わかったようなわからないような文章だ。要するに皮膚感覚と感情とが密接な関係にあると言いたいのだろう。ダマシオは皮膚を「最大の内蔵」とまで表現している。


 これは理解できる。例えば何かショックを受けた時、私の目には何も映らない。目の焦点は興味のある物しか捉えないからだ。夜道を一人で歩く女性が何かの気配を感じて後ろを振り向くのも、皮膚感覚の為せる業(わざ)である。


 そう考えると五感は身体の膜という薄い部分で形成されていることが実感される。粘膜なんかは世界に向かって溶けているようにすら思える。


 感覚器官から受容された情報を統合する場所が脳であるわけだが、何と脳には中枢がないという。


 今日確信をもって言えることは、視覚に対しても言語に対しても、また、理性や社会的行動に対しても、単一の「中枢」はないということ。あるのは、いくつかの相互に関連したユニットで構成される「システム」である。機能的にではなく解剖学的にいえば、そういった各ユニットこそ、骨相学に影響を受けた理論でいう古めかしい「中枢」である。またこれらのシステムは、精神的機能の基盤を構成する比較的独立性の高い作用に向けられている。個々のユニットは、それらがシステムの中のどこに置かれているかでそのシステムの作用に異なった貢献をするので、相互交換がきかない。これはひじょうに重要なことである。システムの作用に対する特定のユニットの貢献内容は、そのユニットの構造だけでなく、システムにおける「位置」にも依存している。


 つまり「私」は脳の真ん中にいるわけではないってことだな。脳は連合軍であった。やはり民主主義は正しいのだろう。


 このあたりが重要な伏線となっている。情動を司っているのは大脳辺縁系である。意欲や記憶、自律神経も関連している。


 ダマシオは脳にダメージを受けた患者がどのような機能を失ったかに注目する。単行本の表紙になっているのはフィネアス・ゲージの頭蓋骨である。ゲージは爆発事故で直径3cm長さ1mの鉄棒が、左頬から頭頂部に向けて貫通した。


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 フィネアス・ゲージによって初めて前頭葉の働きが判明した。脳科学が難しいのは実験ができないためだ。それゆえ損傷から機能を知るしかない。ゲージの命は助かった。だが失ったものはあまりにも大きかった。社会的行動ができなくなり、意志決定もままならなかった。ゲージは別人になってしまった。


 要するに、人間の脳にはわれわれが「推論」と呼んでいる目的志向の思考プロセスと、「意思決定」と呼んでいる反応選択の双方に向けられた、それもとくに個人的、社会的領域が強調されたシステムの集まりがある。この同じシステムの集まりが情動や感情にも関わっており、また部分的には身体信号の処理にも向けられている。


 病徴不覚症という病気を自覚できない症状があるそうだ。つまり脳の感情機能が冒されている可能性がある。彼らはいかなる麻痺が身体にあろうとも「気分がいい」と答える。


 ここから心の統合問題に切り込み、身体の相互作用に触れて、「背景的感情」(background feelings)という概念を提唱する。で、いよいよソマティック・マーカー仮説が説かれる。


〈ソマティック・マーカー〉は何をするのか。ソマティック・マーカーは、特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ、いわばつぎのように言い、自動化された危険信号として機能する。

「この先にある危険に注意せよ。もしこのオプションを選択すればこういう結果になる」

 この信号は、われわれがネガティブな行動を即刻はねつけ、ほかの選択肢から選択するように仕向ける。この自動化された信号により、われわれは将来のごたごたを回避することができるだけでなく、少数の選択肢から選択することができるようになる。


 確かに整合性はある。唯識論の阿頼耶識(あらやしき)に近いような気もする。直観的な閃きは思考よりも感情に由来しているようにも思える。


 だが人間は合理的な存在ではない。判断を誤ることも多い。健康できちんと脳が機能しているからといって、正しい人生を歩めるものでもない。


 私はかなり情動的な人間だが、昔から心掛けていることは「違和感を言葉にする」作業である。人や場所、あるいは言葉や態度から違和感を覚えることが多い。その理由を突き詰めると隠れた事実が浮かび上がってくる。


 ただし現代社会における感情は、役割的な要素が強く、演技的な側面を否定することができない。

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

2010-11-16

生命とは情報空間と物理空間の両方にまたがっている存在/『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人


 経典本(きょうてんぼん)、あるいは神本(かみぼん)だ。しつこく書いておくが私は苫米地英人の人間性を信頼したことは、ただの一度もない。だからこそカテゴリーに「苫米地英人」を設けていないのである。それでも否応なく彼のアクロバティックな知的アプローチに魅了されてしまう。あな恐ろし。苫米地は21世紀の提婆達多なのかもしれぬ。


 発行の順序とは逆になるが、先に『なぜ、脳は神を創ったのか?』を読んでおいた方がいいだろう。双方とも科学・宗教・脳がテーマになっている。各界が大騒ぎして取り上げるほどの内容となっている。

 こんなニュースも苫米地理論の有力な証拠として数えることができよう。


 それなりの知識がない人が読むとトンデモ本と思い込んでしまうだろうがそうではない。苫米地が試みているのは「宇宙を数学次元で読み解くこと」なのだ。ここをしっかりと押さえておく必要がある。


 未来が原因であり、現在は過去と考えると、ビッグバン(宇宙のはじめの大爆発。宇宙ははじめに集まる超高密度・超高温状態であり、約150億年前にビッグバンによって膨張し始めたとされる)は結果になります。原因ではありません。

 では、エントロピー(元は熱力学の用語。乱雑さ・無秩序さの度合いを表す概念。無秩序な状態ほどエントロピーは「高い」とされ、情報科学などにも使用される)という概念で見てみます。

 物理空間においては時間の方向性上、過去が原因で未来は結果です。そうした時間軸上のエントロピーの推移を、物理空間ではエントロピーが増大するといいます。

 ということは、時間の方向性を逆向きに見れば、エントロピーが極大化したところから、極小化したところに流れているのが物理空間での時間ということになります。

 では、情報空間ではどうでしょうか。

 情報空間のエントロピーというのは物理空間とは逆向きに働いています。時間が経(た)てば経つほど情報は整理され、構造化された結果、より整合的になっていきます。

 例えば一つの数学理論を作ったならば、理論はどんどん整理されながら読み続けられていくことで存在するわけです。つまり、情報空間はエントロピーを極小化させる状態へと向かうわけです。極小ではなくとも、小さくした状態を続けることができるわけです。

 それを未来から過去という逆向きの時間の流れで見ると、情報空間では未来のエントロピーは今よりはるかに小さい状態であって、ビッグバンに向かって増大していくと考えることができます。

 つまり、情報空間においては、エントロピーはビッグバンのときが極大なのです。そのエントロピーがどんどん下がり、小さくなって今があるのです。

 そして、最終的には情報空間においては、エントロピーが極小の状態、つまり「空」(くう)に行きつくでしょう。


【『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(角川春樹事務所、2009年)】

 見事な発想の転換。縦軸yを空間、横軸xを時間とするグラフを想像してほしい。このグラフを裏返しにすれば苫米地の発想は決して不思議なものではない。地図だって同様だ。北極を下にしても構わないし、地球の内側から見た地図があってもいいはずだ。時間という不可逆性を引っ繰り返す発想が絶妙だ。


 ただし「情報空間はエントロピーを極小化させる状態へと向かう」というのはそう簡単な話ではない。もしそうであるなら宗教だって統合されるわけだから。国家の数だって増えている。しかし、その一方で言語の数は減っている。


 いずれにしても、苫米地が提示した時間観は卓見といえよう。恐るべき抽象度の高さである。


 この情報空間と物理空間の両方にまたがっている存在が、生命です。実は、この両側に立つ存在というところに、宇宙がなぜあるのかを解き明かす答えがあります。


 情報空間と物理空間の間に存在しながら、双方のエントロピーが往還する「時間」に位置するのが生命だという指摘だ。凄い。全く凄すぎる。ため息しか出ないよ。x軸とy軸が交わる座標に「私」という存在があるのだ。これは法華経で説かれた諸法実相に迫る視点であると思う。


 心の定義はいろいろありますが、かなりの部分は情報であるということができるでしょう。

 ということは脳内も情報ということになります。そして、情報にオリジナリティがあれば、それを存在ということができるのです。


 オリジナリティの情報=自我である。「私は他の誰でもない。私は私だ」あるいは「かけがえのない自分」という時の「私」のこと。脳科学の発達によって、心=脳ということが明らかになりつつある。「脳内も情報」とはシナプスの結合である。脳の中身は情報ネットワークそのものだ。


 人間は思考する動物である。思考は言葉によって形成される。言葉は情報である。苫米地が説く情報は、更に物理学的・数学的な意味合いが込められており、「伝わるもの」「伝達可能な物質」をも含んでいると考えるべきであろう。


スター・トレック』の転送装置で、星の地上にいる人が宇宙船の中にビームで転送されるとき、何をやっているかというと、その人のいる地上の空間の素粒子状態、つまり情報状態を全部スキャンしているのです。そしてそのスキャンした状態を宇宙船の中に移動させているわけです。

 簡単にいえばコピーするということでしょうか。もちろん、思考も記憶も全部一緒にコピーをしています。それを移動と呼んでいるだけなのです。

 ただし、コピーだけでは移動ではありません。ただの複製になってしまうため、オリジナルの消去もあわせて行っているのです。

 スコッティーが転送してくれたときに、たまたま宇宙船が攻撃されて、オリジナルの消去ができなかったとしたら、オリジナルとコピーが同時に存在することになります。

 そして、しばらくしてからスコッティーに、「ごめん、あなたの転送は終わった。したがってこれからあなたを消去します」といわれてしまうわけです。

 では、どちらが本物か。

 それは、移動した方が本物なのです。それがインテンショナリティ、つまり意思という考え方です。

 移動するという意思が反映されているのは移動後のほうです。

 理論上は、寸分たがわず、魂まで含めた完全コピーではあります。しかし、移動という意思は複製された側にあるわけですから、結果として、オリジナルのあなたは消去されるべき存在になってしまうのです。


 ここでいう意思とは、自由意志に関わるテーマである。思想的には決定論・因果論・運命論と密接不可分の領域だ。


 存在のコピーという思考実験が実に巧妙である。だがよく考えてみよう。「私」とは昨日の私のコピーに過ぎない。「私」の実体とは私の「過去」に依(よ)っているのだ。繰り返されてきたオリジナルな反応および反射こそが、「私」という自我の正体であろう。

 意思が連続しても、記憶が消えてしまえば、自我が維持できませんから同じ人とはいえません。同じく、記憶に整合性があっても、意思がなければ、やはり同じ人とはいえないのです。

 つまり、インテンショナリティがあるものはたった一つであり、それがその存在の絶対条件となってくるのです。

 となると、基本的人権を得ることができる人とは、インテンショナリティがオリジナルの延長線上にあり、さらに記憶が整合的である人、ということになっていきます。


 つまり自我とは記憶なのだ。苫米地は多分、まだクリシュナムルティを知らないのだろう。踏み込みが甘くなっている。それでも相応の深みには達している。


 実は、こうした宇宙こそ、2500年前に釈迦(しゃか)がいった、唯識(ゆいしき)の世界なのです。

「宇宙はすべて意識で存在している」。つまり、情報状態だとすでにいっていたのです。

 ホーキングの限界はここにありました。西洋哲学、西洋物理学においては、外の世界と心の世界が別々に考えられていたのですが、すべては物理的現実世界との相対です。しかし、宇宙は最初から情報状態で成り立っているのです。


 完全に脱帽。私は多分、苫米地よりも古くから唯識を知っているが、かような発想は生まれ得なかった。こんなことを説かれた暁には、高額セミナーに行きたくなる気持ちも確かにわかる(笑)。いや、本当に凄いよ。


 結局のところ、科学の領域が宗教に迫ってきたのは、アインシュタインに代表される思考実験によるところが大きい。科学者は想像力を駆使して宇宙の実像を思い描いた。そして脳内のシナプスというシナプスが攪拌(かくはん)され、沸騰し、火花を散らしたところにパラダイムシフトを可能にする発見が生まれたのだ。


 おわかりだろうか? 発見はすなわち悟りなのだ。ゆえに悟りとは情報と情報とのつながりから発生するのだ。だが公式や言葉が悟りそのものではない。アインシュタインの脳内でE=mc²に達するその瞬間に悟りがあるのだ。科学の世界において悟りは発見された知識となってしまい、ダイナミックな生の躍動を失ってしまう。


 アインシュタインが発見する前からE=mc²という事実は宇宙に存在した。だがアインシュタイン以外は誰にも見えなかった。アインシュタインはある瞬間にそれが「見えた」のである。つまり悟りとは発見であり、気づくことなのだ。


 外なる宇宙の法則は次々に発見されている。内なる宇宙の法則は手つかずのままだ。21世紀の人類は100億光年も遠い星を眺めながら争い合っている。イエスの教えも、ブッダの法もいまだ世界を救ってはいない。この現実を見落としてはなるまい。


 尚、本書を読んだ人は、レオナルド・サスキンド著『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』も必読のこと。

苫米地英人、宇宙を語る

2010-05-01

論理の限界/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 人は自転車に乗れるが、どうやって乗っているのかは説明できない。書くことはできるが、どうやって書いているのかを書きながら解説することはできない。楽器は演奏できても、うまくなればなるほど、いったい何をどうしているのか説明するのが困難になる。


【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ/柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2002年)】


「論理の限界」、「言葉の限界」を見事に言い当てている。固有の経験を論理化することはできない。人間が持つコミュニケーション能力は無限の言葉でそれを相手に伝えようとしてきた。哲学がわかりにくいのは経験を伴っていないためであろう。ただ、思考をこねくり回しているだけだ。一人の先達の「悟り」を言葉にしたのが宗教であった。とすれば、教義という言葉の中に悟りは存在しないことになる。そこで修行が重んじられるわけだが、今度はスタイルだけが形式化されて内実が失われてしまう。


 もっとわかりやすくしてみよう。例えば自転車を知らない人々に「自転車に乗る経験」を伝えることが果たして可能だろうか? ブッダやクリシュナムルティが伝えようとしたのは、多分そういうことなのだ。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

2010-04-01

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 脳科学から見た宗教現象といった内容。決して宗教を攻撃する主張ではなく、信仰者に対して新たな視点を提示し、健全な懐疑を促しているように感じた。


 アナロジーとは以下の通り──


 ギリシア語アナロギアanalogia(〈比〉)に由来する語で,〈類推〉〈類比〉〈比論〉などと訳される。複数の事物間に共通ないし並行する性質や関係があること,またそのような想定下に行う推論(類推)。


コトバンク


 敷衍(ふえん)すれば、類型化(カテゴライズ)、定型化(ステレオタイプ)、象徴化(シンボル)、帰納法、置き換え、比喩と辿ることができよう。ここに「物語の誕生」があると思われる。


 養老孟司はなぜ脳にアナロジーが生じる理由を考察する──


 さて、それではヒトの脳になぜアナロジーが生じるか。それはヒトの脳に剰余つまり余分が生じたためである。動物が生理的に必要な行動をしている間は、脳は必要であっても、その脳を動かすためには、環境からの特定の刺激が必要である。ヒトではなぜか脳に余分ができてしまったために、環境からの刺激だけではなく、ヒトの脳内活動そのものが、脳の活動を引き起こす刺激に変化したらしい。ところが脳内の回路は、ヒトも動物の場合と本質的には変わらない構築をしているはずで、量だけ多いわけだから、「類比」すなわちアナロジーなる機能が発生するのである。つまり、ネコであれば、サカナの臭いという具体的刺激が、食物を手に入れようとする行動の動機になり得るが、ヒトなら、金が儲かりそうだという思考もまた、その臭いの「代用」になり得る。「金が儲かりそうだという考え」が、動物の場合のさまざまな生理的刺激の「代用」なのである。ということは、脳内にはネコがサカナの臭いをかいだときに近い回路が動いているはずで、それが「代用刺激」で発動してしまうのである。そうした回路機能を私はアナロジーと呼んだのである。つまりネコがサカナに近よって行くというのと、ヒトが金のある方に近よっていくというのは、生理学的に確認をしなければ確実ではないが、よく似た回路のはずなのである。


【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)以下同】


 これは凄い。脳の剰余がアナロジーを生んでいるとすれば、我々の脳は大き過ぎる進化を遂げてしまったのだろう。類比は自然の摂理に何の影響も与えない。ということは、アナロジーという機能は、人間社会でのみ意味を持つことになる。あ、わかった。ヒエラルキーもここから生まれているってわけだ。


 我々が気にしてやまない出身地、氏素性(うじすじょう)、学歴、勤務先、年収などは、いずれもアナロジーに由来していることがわかる。カテゴリー化。拭えない村意識。


 しかし、である。脳の発達が進化的に有利であったならば、ヒトはアナロジーを最大限に生かして共同幻想を構築せざるを得ない運命にあるのかもしれない。

 そう考えると、ヒトの進化の過程で、もし抽象化ということが最初に起こったとすると、それは死を巡ってではないかと思われるのである。抽象化というのは、言い換えればシンボル能力である。十分なシンボル能力はまだ無かったとはいえ、その萌芽はすでにネアンデルタール人にあらわれているのではないか。だから抽象化能力あるいはシンボル能力の具体的な入口は、じつは「死」だったのではないか。なぜなら、死とは前述のように、抽象的であって具体的であるからである。具体と抽象をつなぐ性質を、死はいわば「具体的に」そなえている。自己の死と他人の死を巡って、ヒトのシンボル能力発現の最初の契機をそのまま素直に発展させたもの、それこそが宗教ではないのか。

 もちろんその後、宗教は進化する。したがって最初の契機についての意識は、ほとんど宗教から失われているのかもしれないのである。だからいまの宗教を考えたのでは、発生時の事情はかえってわからない可能性すらある。話が飛ぶようだが、言語をわれわれは既成のものとして利用している。だから言語がいかに発生したかについては、ほとんど意識が無い。というより、どう考えたらいいか、よくわからないらしい。


 強烈なワンツーパンチだ。元始の人類が死を目の当たりにした時、どのような感慨を抱いたであろうか? いや、感慨という見方そのものが既に私の先入観となってしまっている。「あれ? 動かなくなった」──と、まあ、そんな単純なものだったことだろう。動くおもちゃが壊れた時の幼児と変わりがない。


 ところが老いた者や病んだ者が同じように動かなくなってゆく。それに気づいた瞬間、あり余った脳がバチバチと火花を散らしてシナプスが新しいネットワークを構築する。「ジイサン動かない」「バアサン動かない」=死という方程式の完成だ。


 これが凄いのは、人類にとって最初のアナロジーが死であったとすれば、生という概念は後から生まれたことになる。生老病死(しょうろうびょうし)と聞くと、我々は何となく最初に「生」をイメージするが、アナロジー的観点から言えば、やはり老病死の方が明らかに共通性を見出しやすい。


「人は死んだ。その頃、まだ生はなかった」──多分そんな時代があったに違いない。そして、死によって逆照射された「生」に思い至った時、人間は苦悩に取りつかれることになったのだ。


 ヒトは進化の過程で脳が大きくなり、アナロジーが発生したため、何を現実とするかが、個人によって違うという状況になってしまった。カッシーラーのいう意味でのシンボルは、それはいわば「統制」するために発生したのであろう。たとえば言語は、その中で表現できないものを存在しないとするまでになる。西欧の言語にそういう性質があることは、よく知られている。「ことばで言えないことは存在しない」と見なされるのである。しかも、「統制」はつねに「強制」であるから、どのような文化でも、言語は教育によって強制されるのである。

 では宗教はなにを「統制」するのか。それはおそらく「生死観」であろう。生死はもとから存在するのだからシンボル化の必要はない、そうはいかないのである。なぜなら、すでに述べたように、自己の死は現実化、具体化できないからである。他人の死と自己の死の隙間から宗教が発生する。こうしてヒトは、シンボルを利用し、ともかく世界を整合的に理解しようとする。しかし、それはじつは自分の頭の中を整合的にしようとしているだけであって、その結果、外の世界が整合的になるわけではない。宗教には典型的にそれが出ている。宗教が現世と対立的に捕えられるのは、そのためであろう。いくら宗教が生死観を判然とさせたからといって、ヒトが死ななくなるものではない。だから来世を説く。現世はこちらの世界だが、宗教は徹底的に内的な世界である。ということは、脳内の世界ということであり、生物学的にいえば、もっとも進化した世界の一つということになろうか。


 養老唯脳論と岸田唯幻論は見事に補完し合っている。概念や因果関係を捨象し、「機能」という一点から見つめているだけにわかりやすい。「新しいプラグマティズム」といっても過言ではないだろう。


 人々に安心を与えてきたのも宗教であれば、人々を争いに駆り立てたのもまた宗教であった。思想や宗教が人間にとってのOS(オペレーティングシステム)であれば、限りないバージョンアップが可能なはずだ。


 確立された古い教義は過去のものである。脳のあり余る能力はそれをよしとしないことだろう。斬新かつ革命的なアナロジーが必要だ。

カミとヒトの解剖学 カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-02-28

神は神経経路から現れる/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース

 キリスト教の啓示に代表される劇的な宗教体験は、非現実的というよりも超現実的な神秘性を帯びている。当人は雷に打たれたかの如く激しいショックを受けるのだが、果たしてそれがどこで起こっているのか? 第三者が確認できない以上、科学的検証は無理──これだと議論が進まない。本書では信仰者の主観世界が脳内で展開していることを解き明かしている。


アップルパイのリアリティー、神のリアリティー


 まずは、想像してみてほしい。あなたは今、大好物のアップルパイを食べている。あなたの複数の感覚器官に入ったアップルパイの情報は、神経インパルスに変換され、それぞれが脳の特定の領域で処理されて知覚が成立する。視覚中枢は金色がかった茶色をしたパイの像を、嗅覚中枢は食欲をそそるリンゴとシナモンの香りを、触覚中枢はパイの表面のサクサクした歯ごたえと中身のトロリとした舌触りとの複雑なハーモニーを、味覚領域は甘くて濃厚な味をそれぞれ知覚し、これらが統合されたときに、「アップルパイを食べる」というあなたの経験が生じてくる。

 ここで、あなたの脳で起きている神経活動を、SPECTスキャンで測定してみよう。コンピュータ・スクリーン上に表示された明るい色の斑点は、パイを食べるという経験が、文字通りあなたの「心の中にある」ことを示唆している。けれども、だからといって、パイが現実には存在しないとか、パイのおいしさがリアルではないという意味にはならないことは、皆さんもすぐに同意してくださるだろう。同じように、瞑想中の仏教徒や祈りをささげる尼僧たちの宗教的な神秘体験が、観察可能な神経活動と関連づけられることが分かったからといって、その体験がリアルでないことの証拠にはならないのだ。神はたしかに、概念としてもリアリティーとしても、脳の情報処理能力と心の認知能力を通じて経験され、心の中以外の場所に存在することはできない。けれども、アップルパイを食べるような日常的、形而下的な体験についても、それは同じなのだ。

 逆に、皿の上のアップルパイのように、神が実在し、あなたの前に顕現した場合にも、あなたは、「神経活動が作り出したリアリティーの解釈」以外のかたちで神を経験することはできない。神の顔を見るためには視覚情報処理が必要だし、恍惚状態になったり、畏怖の念に満たされたりするためには情動中枢のはたらきが必要だ。神の声を聞くためには聴覚情報処理が必要だし、メッセージを理解するためには認知情報処理が必要だ。神からのメッセージが、言葉ではなく、何らかの神秘的な方法で伝わってきたとしても、その内容を理解するためにはやはり認知情報処理が必要だ。ゆえに、神経学の立場からは、「神があなたを訪れるとき、その通り道は、あなたの神経経路以外にはあり得ない」と断言できる。


【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース/茂木健一郎監訳、木村俊雄訳(PHP研究所、2003年)】


 アップルパイよりは幻肢痛(げんしつう)の方がわかりやすいだろう。手足を切断した患者が「既にない部分」の痛みを訴える症状だ(V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』が詳しい)。


 我々は普段は意識していないが、五官から入力された情報を知覚しているのは脳である。例えば私があな足の裏をくすぐったとしよう。この場合、足の裏が感じているわけではなく、神経経路を介してきた情報を脳が感じているのである。


 一つテストをしてみよう。今まで食べた梅干しの中で最もしょっぱかったものを思い出してみてほしい。そう。300年経っても腐らないほど塩まみれになったやつだ。どうですか? 口の中に唾(つば)が溜まってきたでしょう(笑)。これ自体、現実にあなたの脳が「しょっぱい」と感じた証拠である。


 更に決定的な証拠を挙げよう。我々は眠っている間に夢を見る。目をつぶっているにもかかわらず。世界の七不思議よりも不思議な話だ。つまり、目で見ていると思いきや実は脳の視覚野が知覚しているのだ。極端な話、生まれつき目が不自由であったとしても、聴覚や触覚で視覚野を働かせることができれば、その人は「見えている」といっていい。


 脳内には松果体(しょうかたい)という内分泌器官があるが、これは「第三の眼」と考えられている。ヒンドゥー教の神シヴァ神には第三の眼が額に描かれている。


 また連合型視覚失認という症状があると、視覚は正常に機能しているが意味を読み取ることができなくなる。生まれつき目の不自由な人が、手術などによって見えるようになると同様の症状が起こることがわかっている。このため手で触って確認した上で見直す作業を繰り返す。


 もう一つ付け加えておくと、あなたが見ている赤と私が見ている赤は多分微妙に異なっている。


 つまり、「見る」という行為は網膜に映った光の点に意味を付与し、物語化することで成り立っているわけだ。


 言ってることわかるかな? 順番が逆だということ。世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。


【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線池谷裕二(朝日出版社、2004年/講談社ブルーバックス、2007年)】


 当然、目が不自由であれば音の世界や匂いの世界がある。つまり、我々の知覚が世界を形成しているのである。で、繰り返しになるが知覚を司っているのは脳だ。ということは、世界は脳だと言い換えることができる。


 眠っている間にあなたの脳味噌をそっくり取り出したと仮定する。脳は生きたまま培養液に浸(ひた)され、無数の電極を付けてコンピュータから様々な情報を入力できるようにしておく。起床時間になり、あなたは目覚め周囲を見渡す。いつもと変わらぬ自分の寝室だ。だが実はコンピュータによって視覚野に刺激を加えているだけだった。「そんなことはあり得ない」と思った人はいささか考えが浅い。これは「水槽の脳」という奥深いテーマなのだ。映画『マトリックス』のモチーフにもなっている。


 話を本に戻そう。神を見る人がいる一方で、幽霊を見る人もいる。後者の方が多そうですな(笑)。はたまたせん妄や幻覚という症状もある。いずれにせよ、「見えている」のだから脳が知覚していることは事実であろう。

 では何が違うのか? それは「見えた後の行動」であろう。啓示を受けた人は崇高になり、幽霊を見た人は臆病になる。そんな単純な結果論でいいのか? 別に構いやしないさ。要は「世界が変わった」という事実が重要なのだ。


 我々は「高さ」に憧れる。アメリカの大統領選挙の殆どは背の高い候補が勝利を収めている。また、高い山を登ると高山病になるため、古(いにしえ)の人々は「神が住んでいて人間を近寄らせない」ものと考えていた。西洋文明は高さを支配する競争でもあった。飛行船、飛行機、ロケットと天にまします神に近づいた国家が世界を支配してきた。不況下にあっても尚、高層マンションが飛ぶように売れているのも同じ理由からだろう。我々は見下ろす──あるいは見下す──ことが好きなのだ。きっと本能が空なる世界を求めてやまないのだろう。


 中には守護霊やオーラが見える人もいる。あれはどうなんだろう? チト眉唾物だね。


 まとまらなくなってきたので結論を述べる。「脳は知覚からの刺激によってシステムが変わる」ことがある、という話だ。「見ることで変わる」と言ってもよい。天に瞬く星々や美しい夕焼けを見た瞬間、言葉にならない何かが胸の中を去来することがある。好意を寄せていれば、あばたもエクボに見えるのだ。


 そのように考えると、「何をどう見るか」でその人の世界は決まるといえよう。人は闇の中で光を見出すことも可能なのだ。

脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス