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2010-02-23

超えられない医師と患者の立場/『痴呆を生きるということ』小澤勲


 決して悪い本ではない。文章もこなれている上、著者自身が癌を宣告され余命いくばくもない中で執筆されているため独特な透明感がある。


 老い呆けし母を叱りて涙落つ 無明無限にわれも棲みゐて(斎藤史〈さいとう・ふみ〉)


【『痴呆を生きるということ』小澤勲岩波新書、2003年)以下同】


 冒頭で紹介されている歌の一つ。親と子の「あるべき関係」が崩壊した時、自我の大地が激しく揺さぶられる。特に社会との同調性が高い日本人であれば尚のこと落伍感が激しい。自分の親がオムツをした姿を想像してみるといい。「ゲッ」となる人が殆どであろう。


 認知症という病気が我々に教えているのは、不変と思われている自我が実は記憶に支えられている事実である。つまり自我とは記憶のことなのだ。するってえと、あれか。「私」というのは記憶媒体に過ぎないってことなのか? 御意。容量の乏しいハードディスクみたいなものだよ。情報が増えるにつれて作動が緩慢となり、次第次第に固まることが多くなってゆくのだ。時々あるだろ? 「あれ、今何をしようとしていたんだっけ?」ということが。実は脳がクラッシュしているのだ。日々の睡眠が Ctrl+Alt+Delete の役目を果たしている。


 認知症とは、ファイルが失われてゆくことだ。そして挙げ句の果てには「システムのプロパティ」も表示しなくなった瞬間に「私」が「私」ではなくなる。


 痴呆を生きる者も、その家族も、逃れることのできない現在と、時間の彼方に霞んで見える過去とを、いつも往還している。今を過去が照らし、過去を今が彩(いろど)る。


 家族が認知症になった場合、一方通行の関係性となることを覚悟する必要がある。もちろんコミュニケーションは可能なのだが、介護する側の覚悟として相手に見返りを求めるべきではない。「育ててもらった恩を返す」といった発想も不要だと私は思う。恩返しの根っこにあるのは経済性である。もっと淡々と寄り添うことが望ましい。「ま、病気だから、しようがねーわな」というくらいの積極的な諦観、能動的な肯定から介護に臨みたい。


 もの盗られ妄想は、争えば必敗の形勢を察知した者の、つまりは弱者からの訴えあるいは反撃であった、とみることができる。


 認知症患者の奇異な行動が、実は文化的な影響に支配されており、日本人の場合「もの盗られ妄想」は女性に多いそうだ。「ヘルパーが家の物を持ち去った」という話は私も実際に聞いたことがある。


 ただ、これを過去の関係性に原因があるとするのは甚だ疑問だ。そうしたケースもある、という程度にとどめておくべきだろう。「寄り添う」ことと「肩を持つ」こととは意味が異なる。小澤は自分が話を聴いてあげたことで、患者の病状が落ち着きを取り戻したことを過大評価しているように感じた。心療における因果関係は特定することが難しい。まず、眉に唾してみるのが当然である。


 一方、男性の場合、激しい嫉妬感情が目立つという。妻を所有物と考える男性の思考が垣間見える。


 また、「病気とはいえ、嫉妬するということはご主人があなたを女としてみているということでしょう」といってみたが、「私は結婚して以来、女として扱われたことがない」とすげなかった。


 小澤のアドバイスは致命的だ。ここに超えられない医師と患者の立場が露呈している。


 私が本書を読んで違和感を覚えてならなかったのは、小澤の立ち位置である。書いてあることは理路整然としていて極めてまともである。では何が書かれていないのか。著者は自分よりも立場が下の人、例えば患者やナースや事務員や患者の家族から何かを学んだ形跡が全く窺えないのだ。その隠された傲慢の臭いが、ページのあちこちから漂ってくる。


 医師としてはきっと真面目な人物だったのだろう。しかし人間として見た時に、私はさほど魅力を感じなかった。


 最後に認知症患者と接する際に私が気をつけていることを箇条書きにしておく──

  • 話し掛ける際は、必ず名前を呼ぶ。
  • 相手の話に大きく相槌を打ち、必ず同意する。
  • 敬語を使う。認知症患者は自分に敬意が払われているかいないかに敏感である。
  • 大きく頷く。ボディランゲージとして。
  • ジャンケンができるかどうか確認する。チョキができれば指の運動機能は侵されていない。
  • 身体に触れる。手を握る、背中を軽く叩くのが効果的。
  • 重度の症状となる「痛い」「熱い」を連発するが、これを否定しない。
  • 相手が怒り出したら、ひたすら謝る。
  • 否定的な言葉を使わない。
  • 話をしてくれたら、「教えてくれてありがとうございます」と伝える。
  • 別れる際は握手してから、手を振る。

 尚、認知症というのは最初に家族の前だけで現れることが判明している。ここで外に出すことを恐れて家に閉じ込めておくと症状が一気に悪化する。初期症状の場合、お客さんを招くとよい。家ではおかしなことばっかり言ってるのに、デイサービスに行くと普通になる人も珍しくない。生活範囲を狭めると、あっという間に寝たきりとなる。

痴呆を生きるということ (岩波新書)

2009-12-05

異なる視線/『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編


 fwikさんから薦められた一冊。面白かった。とにかく紙屋克子の人柄が素晴らしい。言葉の端々にヒューマニズムが脈打っている。多分、受信料の徴収が芳(かんば)しくないNHKが、その天下り先と目される出版社と共謀し、番組をテキスト化するという割安な手法で一石二鳥を狙ったシリーズなのだろう。それでも、いいものはいい。


 紙屋は授業に先立ち、子供達にゲームをさせる。ここに実は深慮遠謀があるわけだが、まあ見事な手腕である。ゲームはこうだ――子供達は一対一で向かい合って1分間見つめ合う。最初は「無関心」で。次に「興味深く」見つめる。


 それから「相手のことをよく知りたいなあ」と思ってよく見ると、さっきは見えなかったものが見えてきたということも起こった。無関心のときはどこに目をやったらいいいか困っていたので、その1分間がちょっと長かった。


【『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編(KTC中央出版、2001年)以下同】


 単純なゲームでありながら、「注意深く見る」ことの重要さを雄弁に物語っている。「ものが見えている」状態は二つの瞳の焦点が合っていることを意味するが、集中度によって見えてくるものが異なる。つまり、光学機器の倍率と同じなのだ。全体を俯瞰(ふかん)する時であれば望遠鏡を使うべきだ。しかし、一人の人間を見つめる場合は顕微鏡、あるいはレントゲンやMRIの視線が求められるのだ。


 自分の生活を振り返ってみよう。目には映じているが、見ていないものの何と多いことか。女性が丹念に化粧を施す時、じっと鏡に見入る。たとえ、それが無駄な抵抗であったとしてもだ。その程度(失礼)の集中力で我々は周囲の人々を見ているだろうか? 同様に、自分の人格や来し方や思想や生きざまを見つめたことがあるだろうか?


 例えば山の中で、今まで見たこともない美しい花を発見したとしよう。あなたは時が過ぎるのも忘れて、ただじっと眺めることだろう。この瞬間、「観察するもの」と「観察されるもの」との間に分離は存在しない。完全に一体化している。これが、クリシュナムルティの説く「見る」という行為である。ところが二度目に見る時は、「これをどうやって持って帰ろうか」「みんなに教えなくっちゃ」「そうだ、写真を撮ってブログにアップしよう」などと欲望が生じて、分離するのだ。「何という種類なのだろう?」「種はできるのかな?」などというのは、知識による分離といっていい。つまり、「花」に対して「私」が立ち上がった瞬間に世界は断絶するのだ。


 紙屋の深慮遠謀はこうだ――


(※「看護」の)もう一つの漢字は「護」(まもる)という字です。目でよく見て、相手のことをよく理解しようと思って見て、「大丈夫ですか」って、手を当てて護ってあげること、それが看護ということなのです。


 何て素敵なオバサンなんだろう! 私はいっぺんに紙屋が大好きになってしまった。


 紙屋は重度の意識障害患者を蘇生させた実績で一躍全国に名を馳せた。現在は筑波大学の名誉教授。医療ではなく看護という立場で病気と向き合ってきた。それまで、病気とは医師が治すものであった。紙屋は全く新しいアプローチを切り開いたといってよい。


 人と人とが出会う一瞬に現れる何かがある。そこに歓待(ホスピタリティ)の心があれば、相手は心を開くものだ。紙屋は「ナースの仕事」を深く追求しながら、「患者という人間」に出会ったのだ。きっと、紙屋の瞳が善なる放射線を反射して患者を照らしているのだろう。

紙屋克子 看護の心そして技術―課外授業 ようこそ先輩・別冊 (別冊課外授業ようこそ先輩)

2009-05-06

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 精神疾患を“脳の病”と仕立てることで、薬物治療に弾みがついた。製薬会社がどのようにして、この「仮説」を「既成事実」に変貌させたかを告発した一書。力作である。


 医薬品業界は巨大な利権である。日本のマーケット規模は6兆円を上回る(2006年)。一方、アメリカは2901億ドルで世界の医薬品市場の45%を占めている


 日本の大手製薬メーカーが戦争犯罪に加担した事実を鑑みると、製薬会社の存在自体に国家権力の意思が働いていることは確かだと思われる。


 薬というものは元々は毒である。製薬会社が承認申請を提出し、厚生労働省の審議会が審査する。もうね、これだけで何か胡散臭くなってくる。厚生労働省が「よきに計らえ」なんて言ったら、後は広告戦略を練るだけだ。病院においてあるパンフレットの類いを見れば直ぐに気づくことだが、その殆どは製薬会社が作成しているものである。


 国民が監視できるシステムとしなければ、いつまで経っても許認可による薬害が後を絶たないことだろう。薬害エイズや薬害肝炎は、まだ記憶に新しい。


 では、薬品天国のアメリカで、どのようにして精神疾患の薬が認可されるのか――


 相関関係がいかに強くてもそれがそのまま因果関係とならないことを、たいていの人は知っている。ところがこの事実は容易に忘れられる。傘を携えているからといって雨が降るわけではないことを誰でも承知しているのに、脳の中の何らかの生物学的マーカーと精神障害の間に相関関係があることが発見されると、このマーカーを障害の原因だと信じこむという落とし穴に容易にはまってしまう。脳がすべての精神的な経験において中心的役割を担っていることが知られていることがその一つの理由なのだろうが、論理的には、この関係は傘と雨の関係と変わりがない。人の精神状態や経験は脳に影響を与えうるし、逆もありうる。二つの事柄に相関関係があるとき、どちらが原因でどちらが結果であるか、自分でわかっているつもりになってはいけない。「原因」と「影響」が混同されやすい。また、二つのものに因果関係がなくても、大きな相関関係はありうる。たとえば、ほとんどの国で、名前が母音で終わる人は名前が子音で終わる人より、平均でみると、背が低い傾向が見られる。しかし少し考えてみればわかるように、最後の母音子音と背の高さに因果関係を想定すべき道理はない。


【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン/功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監修、中塚公子訳(みすず書房、2008年)】


 つまり、臨床データの解釈によって新しい物語を創作するってわけだ。これを「使った、直った、効いた」の“三た式思考法”と呼ぶ(安斎育郎著『霊はあるか 科学の視点から』講談社ブルーバックス、2002年)。これがどれほど危険であるかは、少し考えれば誰でもわかる。例えば、腹痛を訴える人に梅干しを与えたとしよう。10人で実験したところ、その内6人が3時間後に腹痛が解消していた。では、梅干しに腹痛を癒やす効力があるといえるだろうか? 言えるわけがない。


 それどころかエリオット・S・ヴァレンスタインによれば、精神疾患患者に化学的なバランスの崩れがあるという確かな証拠は何ひとつなく、統合失調症患者にドーパミン受容体の異常があるという証拠を示した人も誰もいないという。ノルアドレナリンとセロトニンについても同様だ。


 企業が利益を追求する以上、当然、実験段階で「きっと効くだろう」「何らかの変化を起こすに違いない」との予断が働く。そこに一定額以上の予算がつぎ込まれていれば、何が何でも都合のいいデータを探し求めるはずだ。彼等にとって、医師や政治家は同じチームメイトだ。ちょっと目配せすれば、わかってくれる――とまあ、こんな具合なのだろう。


 エリオット・S・ヴァレンスタインは決して投薬治療を否定しているわけではない。患者を置き去りにした製薬業界のあり方を告発しているのだ。私も本書を読むまでは、「精神疾患は“心の病”から“脳の病”になった」とばかり思い込んでいた。多くの人々にそう思い込ませたこと自体、アメリカ製薬メーカーによるマーケティングの勝利だった。情報の力は恐ろしい。我々は何となく信じてしまって、医薬品に依存するようになっているのだ。


 世界には、これほどの悪意がはびこっている。

精神疾患は脳の病気か?―向精神薬の科学と虚構

2009-03-30

ストレスにさらされて“闘争”も“逃走”もできなくなった人々/『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ

 この本ではやたら「多発性硬化症」という病気が出てくるが、これは日本人には少ない病気だ。斎藤秀雄の最初の奥方(ドイツ人)がこの病気にかかっている。


 小児麻痺は感染症の一種であり、一度重くなった症状が回復すると、足などに障害が残るものの、そこで症状が固定するのが特徴である。一方、多発性硬化症の場合は中枢神経を冒す原因不明の自己免疫疾患で、再発を繰り返すことが多い。この病気は欧米人に頻度が高い。日本人が10万人に4〜5人の割合で発症するのに対し、欧米人は100人から150人である。若い人の手足の麻痺の原因疾患としては、まず最初に疑われるべき頻度の高い病気なのである。


嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)】


 自己免疫疾患とは、免疫機能が過敏に働いてしまい体内の正常な組織や細胞を攻撃してしまう病気である。


 ストレスの観点から多発性硬化症を検討した論文に実例としてあげられた患者たち、そして私がインタビューした患者たちは、この研究で用いられた不運なラットたちと非常によく似た状態にあったといえる。彼らは子供時代の条件づけのせいで慢性的なきびしいストレスにさらされ、必要な「闘争か逃走」反応を起こす能力を損なわれていたのだ。根本的な問題は、いろいろな論文が指摘している人生上の一大事件など外部からのストレスではなく、闘争あるいは逃走するという正常な反応をさまたげる無力感、環境によって否応なく身につけさせられた無力感なのである。その結果生じた精神的ストレスは抑圧され、したがって本人も気づかない。ついには、自分の欲求が満たされないことも、他者の欲求を満たさざるを得ないことも、もはやストレスとは感じられなくなる。それが普通の状態になる。そうなればその人にはもはや戦う術がない。


【『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ/伊藤はるみ訳(日本教文社、2005年)】


「逃げる」と「挑む」はシンニュウとテヘンしか違わない。ま、中身は天地雲泥の差であるが、ベクトルの向きが異なるだけとも言える。しかし、その選択すらできない状況下に置かれた人々がいるのだ。つまり、幼児期から“心を死なせる”ことで生き延びている人々だ。


 この文章は実に恐ろしいことを指摘している。なぜなら、「無力感」とは「自分が必要とされていないことに対する自覚」であり、「否定された自分を抱えながら生きてゆく」ことに他ならないからだ。大事なのは、それが客観的な事実であるかどうかではなく、子供自身がそう感じてしまっていることだ。完全無欠な疎外感、と言っていいだろう。幼児は論理的思考ができない。だから、「この世とは、そういうものなのだ」と割り切ることができてしまうのだろう。すると、助けを求めることすら出来なくなってしまう。


 それでも、精神は耐える。彼女達は静かに微笑んでみせることもできる。そして10年、20年を経た後に、身体が悲鳴を上げるのだ。これが、ガボール・マテの主張である。

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価

2009-03-16

自然淘汰は人間の幸福に関心がない/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 人体は遺伝子の乗り物に過ぎないという考え方がある。


 私たちは、自然界の生物は幸せで健康なものだと考えたがるが、自然淘汰は、私たちの幸福には微塵も関心がなく、遺伝子の利益になるときだけ、健康を促進するのである。もし、不安、心臓病、近視、通風や癌が、繁殖成功度を高めることになんらかのかたちで関与しているならば、それは自然淘汰によって残され、私たちは、純粋に進化的な意味では「成功」するにもかかわらず、それらの病気で苦しむことだろう。


【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ:長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】


 つまり、子孫のために我が身を犠牲にする働きともいえる。子孫を残すためなら、いかなる病気も引き受け、苦痛にものた打ち回るってわけだ。まったく嫌な話だ。


 しかし、である。ヒトというのは生殖可能な期間が過ぎ去っても尚、生き延びる。老齢期が最も長い動物なのだ。これは、遺伝子本位の考えとどのような整合性を持つのであろうか。孫子に人生の智慧を伝授する役目でもあるのだろう。


 ダーウィン医学が胡散臭く思えるのは、例えば犯罪をも遺伝子の働きで説明しかねない雰囲気があるところだ。そして、生存競争に勝った時点から過去を読み解くわけだから、ちょっと後出しじゃんけんっぽいんだよね。

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解