古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2010-12-12

本に対する執着は、人生に対する執着に他ならない


 たいていの本は、読み終えられた瞬間にその価値を失ってしまう。そして、二度と開かれることもないまま、長い無意味な余生を、本棚の中で、ダニの培地として過ごすのだ。

 それでも、そうした一向に価値のない本たちを捨てる時に、愛書家は、我が身を切られるような痛みを経験する。ダニでさえ、インクのついていないところを食べるというのに、人は、自分の目が辿った活字たちが自分の手元から離れていくことに、どうしようもない淋しさを感じるのだ。

 たぶん、我々がこうも深く本に執着するのは、我々が本とともに過ごした時間に執着しているからであり、自身の経験そのものに執着しているからなのだろう。

 その意味では、本への執着は、そのほかの、例えば、金への執着や、女や酒に対する執着よりも始末が悪い。なぜなら、本に対する執着は、人生に対する執着に他ならないからだ。

 人生は(というこの主語は、それにしても凄い)、ただ過ぎて行くだけのもので、蓄積したり連続したりするものではない。しかし、我々は、それを制御しようとし、記録しようとし、あるいは積み上げ、整理し、理解し、征服しようとする。当然のことながら、その試みは成功しない。瞬間の連続でしかないものが蓄積されるわけがないのだ。

 そこで、我々は人生の代わりに本を蓄積する。自分の記憶や経験を本棚に積み上げて、そこに自分の人生のネガのようなものを保存しようとするのだ。


【『安全太郎の夜』小田嶋隆河出書房新社、1991年)】

安全太郎の夜

2010-12-02

他人の踏み固めた道になれきって、その思索のあとを追う


 精神が代用品になれて事柄そのものの忘却に陥るのを防ぎ、すでに他人の踏み固めた道になれきって、その思索のあとを追うあまり、自らの思索の道からとおざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。というのは真に物事をながめるならば読書の場合とは比較にならぬほど、思索する多くの機会に恵まれ、自分で考えようという気分になるからである。すなわち具体的な事物は本来のいきいきとした力で迫ってくるため、思索する精神にとって恰好の対象となり、精神に深い感動をもっとも容易に与えることができるのである。


【『読書について』ショウペンハウエル/斎藤忍随〈さいとう・にんずい〉訳(岩波文庫、1960年)】


 増刷されたようだ。朗報である。

読書について 他二篇 (岩波文庫)

2010-06-26

書籍と電子テキストの違い


 本はみな、電子メールやそれに類した手軽な情報にはない、独自のリズムと一種の身体的な親密さをもっている。過剰なメディアはしばしば、情報と理解を混同する。追いまくられている気分のときに、本は奇跡のように、内省や熟考や精神的休息のための時間を拡大してくれる。


【『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック/山下篤子訳(草思社、2002年)】

共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人

2010-03-19

ハイネ「本を焼却する国はやがて人を焼却するようになる」


 ユダヤ関連の商品や商店に対する不買運動が始まったのが、1933年4月1日である。それはわずか1日で終わったが、1週間も経たぬ4月7日には、市民公職法が発効された。これは、同じドイツ人でも、非アーリア系のドイツ人は、公証人、公立学校教師などの職に就いてはならないと定めるもので、法律によるユダヤ系ドイツ人の差別の端緒となったものであった。

 これより事態はすこしずつ加速していく。5月10日には、ナチス党員である学生や教職員が、ほぼ全国の大学や図書館で、「ドイツの文化的純血を損なうと懸念される」図書を焼くという大規模な事件が起こっている。このとき、焼却された図書の著書には、アルバート・アインシュタイン、ジグムント・フロイド、ステファン・ツヴァイクなどが含まれている。かつて、ドイツの詩人、ハインリッヒ・ハイネは有名な言葉を吐いている。

「本を焼却する国はやがて人を焼却するようになる」

 この言葉が、やがて現実となる。


【『権威主義の正体』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2005年)】

権威主義の正体 PHP新書 330

2010-01-22

村上専精と宇井伯寿


 そのくらい厳しい先生でしたが、この先生にして、そのさらに前の先生に叱られたことがあるのです。村上専精(せんしょう)先生といって、「大乗非仏説」などを提唱された方で、その他の面でも当時としては斬新な考え方の学者で、博学な先生でした。その村上先生に宇井(伯寿)先生が会われた時に、村上先生はこういわれた、「えっ。君は本を読むのに火鉢を置くのか」。つまり、本を読むというのは修行なのです。それを横に火鉢を置くなんて、そんなだらけたことはけしからんというのですね。今はもう、どこに行っても全館冷暖房でしょう。村上先生に言わせたら堕落の極地です。


【『ブッダ入門』中村元(春秋社、1991年)】

ブッダ入門 (仏教 入門シリーズ)