古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 古本屋の覚え書きを検索

2011-02-06

「拵(こしら)え相撲」に張り手を食らわせた雷電為右衛門

 長いこと自分が探し求めてきた者にやっと出会えたような気がしていた。まず、何より土俵においてどんな妥協もしない、正に真剣で渡りあうような最強の力士を養成する必要があった。

 しかし、「拵え相撲」が横行し、星の貸借や売買が行われ、それによって均衡が保たれている現在では、それに妥協せず真の勝負をいどむ若い相撲人が出現すれば、腐敗した連中によって徹底的に痛めつけられ潰されることも目に見えていた。そんな妥協のない力士を世に出す時には、すでにその時点で、誰よりも抜きん出た無双の力を備えていなくてはならない。たとえ、腐敗しきった者たちが総がかりでも、それをはねのけ、有無を言わせず逆にたたき潰すだけの圧倒的な力量を備えていなくてはならなかった。いろいろ目にしたが、自分を超える可能性を持った者は見当たらなかった。ただ、おそらくそれを成しとげられる者は、これまでの力士とはまるで違った相撲を取るに違いないといった予感だけはうすうす谷風は抱いていた。

 あの者は得体の知れない、底無しの力を感じさせた。長くせり出した顎と張り出したエラ、馬のような長い顔に眉も目尻も細く下がった呑気な顔をし、一見はただ馬鹿大きいだけで人のいい百姓家の小倅のように見えるが、圧力をかけ痛めつければつけるほど、その眠たげな顔の下から全く別の顔が立ち現れる。あの身体の奥底に小さな火種がかくれ潜んでいて、それに火がつくと全身に燃え広がった業火が、相手を焼き尽くすか、己れを滅ぼすかの選択を迫って、襲いかかってくる。もはや相撲などと呼べるものではなくなってしまう危険さえ秘めている。しかも通常、人は興奮しきってしまえば、身体がこわばり、直線的な硬い動きばかりになるのに対して、あの化け物はむしろ自在に、己れの意志を超えた軟らかな粘っこい体の動きをし始める。

 何の情実もさし挟まず、何の妥協も土俵内には持ち込まぬ、虎のように相撲(すま)う力士。今、何より必要なのはそんな力士だった。あの化け物ならやれるかも知れない。


【『雷電本紀』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)】


雷電本紀 雷電本紀 (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-12-10

イエロージャーナリズム

 確かに例の記事は、他人が読めば彼の人生をたたえこそすれ、侮辱してなどいないように見えるかもしれない。が、彼の息子の一人であるおれには、その裏に、あの手の連中特有の、神にでもなったかのような傲慢さと臭気を感じた。連中が、新聞社や雑誌社やテレビ局のネームが入った名刺や、腕章や、そんなものをチラつかせながら、他人にどんなことをするのかをおれはよく知っていた。彼らの手のつけようもない無神経さをその記事の裏に感じた。会長の人生は閉じられたのだ。そっとしておけばよいのだ。ひとりの人間の死さえも、彼らはテレビカメラで写してやることで初めて死として認められるかのような錯覚をもっている。明るすぎる照明ライトを死の床にまで持ち込み、横たわった人間の死に顔を照らすことさえ、名誉なこととして受け入れろとでも言うのだろうか。会長の人生に本当に打たれたのなら、あるのはただ重い沈黙だけのはずだった。ただ黙っていればいいのだ。死さえも自分が与えてやったような高慢さが許せなかった。あの記事を読んだやつらも、トイレの便器に腰掛けたり、喫茶店や居間のソファに足を組んだり、食後のゲップなどをしながら、芸能人が子を産んだとかいう馬鹿げた記事のついでに読んだに違いなかった。誰もかれも許せなかった。


【『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年/小学館文庫、2003年)】


汝ふたたび故郷へ帰れず リバイバル版 汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-09-30

雷電為右衛門、登場

 雷電を名乗る馬ヅラの化け物は、それまで目にしたどの相撲人(すもうにん)とも似ていない。まるで異なる領域で、一人相撲を取っているとしか映らなかった。しかも魔物のようにしなやかに動く。肩、腕、背中、太腿、ふくらはぎに至るまで、巨大な筋肉の塊(かたまり)が、激しい光のように躍動する。三階の桟敷までびっしりとつまった見物客たちは打ちのめされたように声もない。もはや相撲見物などという悠長なものではなかった。明石藩に召し抱えられ幕内二段目に位置する押しも押されもせぬ相撲人が、藁束のように宙を舞う様を見せつけられた。それまでの約束ごとなどどこにもなく、大相撲が持っているどこか安全な芝居じみたものが吹き飛ばされ、はじめて実の一部を突きつけられた思いが、客席を打ちのめしていた。


【『雷電本紀』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)】


雷電本紀 雷電本紀 (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-07-15

飯島和一作品の外情報

 これがトール・ノーレットランダーシュの言う「外情報」だ。極端な省略、割愛によって読者の想像力が拡がる。行間の豊かさ。


「お名前ぐらい、教えていただけませんか」

『前にも言ったろう。俺はただの修理工』

 バッグを手渡しながら彼は笑ってそう言った。車が動き出す時、彼は窓越しにおれを見つめた。

『新田って言ったな』

「はい」

 彼は小さくひとつ頷くと車を出し、そしてそのまま視界から消えていった。


【『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年/小学館文庫、2003年)以下同】


 頭を下げドアを開けて出ようとした時だった。

『新田』いきなり彼が背後から呼んだ。

「はい。なにか……」

『……よく来た』

 まだおれに伝えることがあったようだったが、急に言うのをやめたらしかった。


汝ふたたび故郷へ帰れず リバイバル版 汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-01-05

力士は神と化した/『雷電本紀』飯嶋和一

 立て続けの書評となるがご容赦願おう。「雷電本紀」で検索したところ、低い評価が散見された。

 取り敢えずこのページだけ紹介するにとどめる。私は驚き、愕然とし、呆れ果てた。「ものを感じる能力」が退化しているようにすら見えた。幼児が甘いものを欲するように彼等はわかりやすい物語を求めているに違いない。


 この物語の縦糸は雷電の人生ではなく、民を抑圧した時代なのだ。そして横糸は相撲ではなく、雷電と打ちひしがれた民との関係性にあるのだ。鍵屋助五郎は民の代表であり、目撃者としての役回りを担っている。


「善人ばかりが登場するので物足りなかった」――かような感覚は、何から何までお膳立てしてくれるテレビ番組を見過ぎている証拠だ。ブラウン管の向こう側に挿入された笑い声に釣られて笑うような感覚の持ち主に違いない。映像ではなくBGMによって泣かされてしまうタイプであろう。テレビは喜怒哀楽をコントロールする。


 ドブから漂ってくる腐臭、打ち毀(こわ)しに向かう百姓の怒り、相撲界を取り巻く固陋(ころう)な因襲、無気力になり果てた農民、女衒(ぜげん)に売り飛ばされた娘達、舟着き場に置かれた脛石(すねいし)、そして雷電と助五郎を罪に陥れた政治……。この至るところに悪が充満している。行間に圧縮され、紙背から悪臭が漂う。登場人物の善性は時代と人々の邪悪という黒い画面を背景にしているからこそ際立っているのだ。


 つまり本書に感動できない精神は、邪悪に対して鈍感であることを示している。我々は分断された存在なのだ。だからこそ、苦しみ喘ぐ人々に共感する心すら失ってしまったのだ。


 既に勇名を馳せていた雷電は、自ら地方へ赴き地稽古を行った。風雨にさらされて今にも崩れ落ちそうな土俵へ上がり、力足を踏んだ。集まってきた農民達は飢えによって生きる力を根こそぎ奪われていた。眼に光はなく、声すら発しない。亡霊さながらに雷電を遠巻きにし、土俵を見守った。雷電が付き従えた若い衆を何度も放り投げ、叩き伏せる。何度も何度も――


 今まで助五郎でさえもこんなものを見たことはなかった。時折地稽古という言葉は聞いたが、実際に目にしたのは初めてのことだった。相撲人はそれぞれ抱え先の藩邸や諸藩ゆかりの寺などで稽古をつみ、あるいは年寄衆の持つ部屋の稽古場で習練を積み、白日公衆の目前にそれをさらすことはない。雷電はこの若者を殺してしまうのではないかと、助五郎でさえ思いはじめていた。

 ここ数年寒い夏が続き、実りは年を追うごとに乏しかった。それにもかかわらず、容赦ない年貢の取りたてによって、人々は飢饉に追いこまれ、疫病はその衰弱しきった村々に襲いかかった。すでに気力萎え、病み疲れた人々の前で、巨人と若者が、湯気をたち上らせ、汗を飛ばして激しくぶつかりあっていた。

「立て。負けるな」

 たしかに、見物たちから聞こえた。起き上がれずはいつくばった友吉が土盛りの下までほうり投げられ、それでも這いあがろうと、ちぎれた二重土俵の外俵にのばした右手をかけた時だった。言いよどんだように、突然張りつめた声がとんだ。かん高い子どもの声だった。しかし生気のある声だった。

「負けるな」

 10歳かそこらの、まだ瘡の痕を顔にとどめ、病み上がりの大きな目をした子が立ち上がって叫んだ。続いて大人の、老人の、女たちの声が泥だらけの友吉の背にとんだ。見物たちの何人かが立ち上がった。


【『雷電本紀』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)】


 雷電が叩き伏せたのは民の「無気力」であった。何度読んでも涙が止まらない。腸(はらわた)が捩(ねじ)れるほどの感動を覚える。雷電の本当の力は相撲で連勝したところにあったわけではなかった。民に力を与えたところにその真価があった。この時、雷電は神となった。


 これが神でなくてどこに神がいるというのだ。埃(ほこり)だらけになった神棚や、じめじめした土と空気に覆われた社殿に神はいない。そんなものは神を象徴したものであって、言ってみれば神のテレビ化みたいなものだろう。安易な気持ちで神を探している人々が自己満足できる装置に過ぎないのだ。


 翌日、蘇生した農民は皆で狩猟を行い、雷電一行に食事を振る舞った。


 Wikipediaの記事を見ると、本書は史実に基づいて書かれていることがわかる。


 雷電はやむにやまれぬ思いで行動した。そこには何の意図も計算もなかったはずだ。演出された見世物は永続的な感動を与えることができない。思案したり、計画したりすることもなかったことだろう。民と同苦(どうく)した瞬間、そこには「即座の行動」が生まれるのだ。ここに雷電の生(せい)の本質があった。雷電は「ただ、そうせざるを得なかった」のだ。


 嗚呼(ああ)、雷電よ、偉大なる相撲人(すもうにん)よ。あなたはまさしく神であった。


 機会を見つけて墓参しようと思う。


雷電本紀 雷電本紀 (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)