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2010-01-20

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

 原書は1954年に発行されている。ってことは昭和29年だ。「もはや戦後ではない」と経済白書の結びに書かれたのが1956年のこと。朝鮮特需が1950-1953年だから、日本では少し明るい兆しが出始めた頃であろう。


 神秘時代を除けば、本書がクリシュナムルティにとって2冊目の著作となる。1冊目は『道徳教育を越えて 教育と人生の意味』(霞ケ関書房)で原書は1953年刊。つまり講話録としては1冊目と考えていいだろう。系統立てられた構成となっていて、クリシュナムルティ思想の全体性をつかみやすい。原書タイトルは「The First and Last Freedom」(最初と最後の自由)となっており、オルダス・ハックスレーが長い序文を寄せている(『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』に収録)。


 戦争が始まり、クリシュナムルティは1940年から4年間にわたって講話を中断した。

『実践の時代』には次のように書かれている――「戦時中の沈黙の数年は何をもたらしたのだろうか? 明らかにKは瞑想時には自分自身の中に深く入りこんでいた。なぜなら1944、45、46年の講話は、主に自己を知ることに関連しているからである」。とすると本書は、戦後の講話を編んだものと考えて構わないだろう。クリシュナムルティは40代から50代を迎えていた。


 彼は一貫して戦争に反対した。戦争は人々の日常に起因しており、「戦争は、われわれの日常行為の劇的な評価なのです」と書いている(エミリー夫人宛ての手紙、1941年4月14日)。つまり葛藤によって分裂している自我が、そのまま世界の分断として現れているのだ。戦争は誤った指導者が引き起こしたものではなく、人間という人間の葛藤が噴出した結果であった。それは戦い合う国家の国民だけではない。戦争を傍観する人々や、戦争を知らない人々までが含まれる。


 戦時中、クリシュナムルティの話に本気で耳を傾ける人は少なかった。政府のプロパガンダに汚染されていた人々の心は、「正しい言葉」を「正しく受け止める」ことができなくなっていた。クリシュナムルティは戦時中の沈黙の季節を深い瞑想の中で過ごした。深海の底を辿るように彼は静謐(せいひつ)の中に沈潜した。


 講話に参集したのは戦争を支持した人々であり、あるいはそれすら忘れている人々であった。分裂した心に向かって、クリシュナムルティは慎重に言葉を紡ぎ出した――


 私たちがお互いに考えていることを相手に伝達することは、相手のことを非常に良く知っている場合でも、きわめて難しいことです。同じ言葉でも、「私」と「あなた」は違った意味で使っているかもしれません。理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます。しかもそれは人と人との間に、夫と妻の間に、また親しい友人同士の間に真の愛情があるときにしか生まれません。これが真の人間的共感――親交です。このように即時(そくじ)の理解――直覚は、私たちが、【同時に】、【同じレベルで】出会うときに初めて生じるものなのです。


【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ/根木宏、山口圭三郎訳(篠崎書林、1980年)以下同】


 言葉はシンボルであり記号である。私が「犬」と言った時、あなたの描くイメージが私と一致することは、まずない。また、あなたが「犬を欲しい」と思っているのであれば、私からプレゼントしよう。「犬」――はい、持って行っていいよ。ささ、遠慮せずに。ま、こんな具合だ。言葉に実体はない。


 他人と何か交換することをコミュニケーションと考えれば、その最たるものは「言葉」と「お金」であろう。しかし我々は、それらを量でしか考えていない。質や意味、機能、働き、作用、目的と現状については一顧だにしない。「あるから使ってんだよ」というレベルに堕している。


「俺の言葉が信用できないのか?」――ウン。お前は前にも嘘をついたことがあるからな。時にコミュニケーションは成立したり、不成立に終わったりする。これをクリシュナムルティは「【同時に】、【同じレベルで】出会うときに」理解が生まれ、コミュニケーションが成り立つと言っているのだ。完全な一致。同じ周波数。


 性格的に合う合わないといったレベルの話ではない。相手の瞳に映る自分を見つめるような感覚だ。向かい合う二人が互いの目を見つめた時、合わせ鏡のように無限の瞳が続いているのだ。もちろん物理的なことを言っているのではない。心理的に相手と向き合っているかどうかである。


 私は、私たちの日常生活で使っているごく簡単な言葉で、より一層深い意味を伝えてみたいのです。しかしもしあなたが、「聞き方」を知らなければ、それはとても困難なことになります。

「聞く技術」というものがあります。本当に相手の言葉を聞くためには、あらゆる偏見や、前もって公式化されたものや、日常の生活の問題などを捨ててしまうか、脇へ片づけておかなければなりません。心が何でも受け入れられる状態にあるときには、物事はたやすく理解できるものです。あなたの本当の注意力が【何かに】向けられているとき、あなたは【聞いて】います。しかし残念なことに、たいてい私たちは抵抗というスクリーンを通して【聞いて】いるのです。つまり私たちは、宗教的なあるいは精神的な偏見や、心理学的あるいは科学的先入観のほかに、日常の心配事、欲望、恐怖というようなスクリーンに遮(さえぎ)られています。このようにいろいろなものをスクリーンにして、私たちは【聞いて】いるのです。ということは、話されていることを聞いているのではなくて、実際は、自分自身の心の中で立てている騒音や雑音を聞いていることになります。今まで受けてきた教育、偏見、性癖、抵抗などを捨て、言葉上の表現を超え、その奥底にあるものを即時に理解するように【聞くこと】は、とても困難なことです。これこそまさに、現在私たちが直面する困難な問題の一つなのです。


 傾聴とは心を開くことである。開いた心は言葉に託された何かをキャッチすることができる。

 言葉にならない思いをも汲み取ることができる。目と目が合うだけで微笑む関係性が成立する。

 スクリーンとは色眼鏡のことだ。我々は見知らぬ人に対しては、人相風体や髪型、着ている服、声の調子、腕時計や靴などを見て勝手な判断を下す(※腕時計と靴を見るのは銀座のホステス。客の懐具合がわかるらしい)。知人や友人に対しては過去のイメージをそのまま当てはめてしまう。つまり我々は「人間が変化する」ことを心のどこかで認めていないのだ。


 更に我々は自分よりも目上の人の話には耳を傾けるが、立場の低い者に対しては生返事をする。社長は社員の話に耳を貸さないし、先生は生徒の声を平気で無視する。耳は開いたり閉じたりしているのだ。


「実際は、自分自身の心の中で立てている騒音や雑音を聞いている」――何と重い言葉か。我々は自分に都合のいい言葉は受け入れるが、耳に逆らう忠言は拒否する。読むのも一緒である。自分の信条や思想のために利用できるものだけを我々は取り入れるのだ。


 つまり、こうだ。その人の一部分を都合よく利用することで、我々は世界の分断化に加担している。相互に利用し合う関係性の軸はどこにあるのか? それはエゴであろう。すなわちエゴとは自我の別名である。


 自我を終焉(しゅうえん)させるために、真の自由を獲得するためにクリシュナムルティが冒頭で説いたのは傾聴であった。

自我の終焉―絶対自由への道 自我の終焉 絶対自由への道

(※どちらも同じ作品)


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2010-01-19

芝居っ気たっぷり、名文満載の傑作/『「絶対」の探求』バルザック


 どうしてこんなに面白いんだ? 200年も前に書かれた小説なのに(原書は1834年刊)。まったくもって信じ難い話である。人間の心理ってやつは多分変わらないのだろう。芝居っ気たっぷりなのはフランスのお家芸である。それが嫌味になっていない。軽やかなステップで踊っている。瀟洒(しょうしゃ)。しかも目を瞠(みは)るような名文、美文がそこここに散りばめられている。オノレ・ド・バルザック、恐るべし。小野ザックというハンドルにしようかしらん。


 テーマは理性と感情である。夫のバルタザールはある日、化学の世界に目覚める。それ以降、彼は「絶対」を発見するため研究に没頭する。彼が欲したのは錬金術ならぬ錬ダイヤモンド術であった。バルタザールはひた走る。破滅に向かって。


 これを支えるクラース夫人は紛(まが)うことなき賢夫人。まるで女神。今となっては完全な絶滅種といったタイプ。少しばかり身体に障害があるのだが、彼女の慎ましさと奥床しさをより一層引き立てるのであった。


 真理に取り憑かれた夫と愛情豊かな賢夫人。破滅と死。そして母から娘へと手渡されるバトン。物語はここから恋愛へと傾斜する。


 バルザックの名調子は例えばこうだ――


 彼は科学に打ちまたがっていた。科学は彼をうしろに乗せ、翼を張って、物質界のはるかかなたへ連れ去るのだった。


【『「絶対」の探求』バルザック/水野亮訳(岩波文庫、1939年)以下同】


 バルタザールは昇竜さながらの勢いで「絶対」に向かって突き進んだ。狂信的でありながらも、ひたぶるな真剣さが読者の胸を打つ。彼は研究に集中した。集中とは一点を凝視することである。虫眼鏡で太陽の光を一点に集めるように。ということは集中すればするほど周囲が見えなくなる。バルタザールの視界からは妻も子も、社交も世事も消え失せてしまった。


 古来、宗教者は「絶対」の真理を発見すべく苛酷な苦行に挑んだ。身体を痛めつけることで欲望から離れようと試みた。滝に打たれ、火の中を歩き、座禅を組み続けた。ダルマに手足がないのは、達磨大師が壁に向かって9年もの間、座禅し続けたために手足が腐ってしまったという伝説に基づいている。


 求道には狂気が潜んでいる。常に何らかの逸脱がある。それがなければ遊びだ。どこかへ向かい、何かと戦う人物は誰人にも止めることができない。古(いにしえ)の修行者は僧であった。それが今、スポーツ選手や棋士、芸術家や学者などに姿を変えている。未踏の境地に辿り着いた人々はおしなべて「行(ぎょう)を修めた」人々といってよい。


 そして特筆すべきことは、そこに反社会性がなければ社会は停滞し、衰退してゆくという事実である。時代の壁を突破するのは反逆者だけなのだ。革命とは運動のことではない。従来の考え方を一変させる「宙返り」の視点に立つことなのだ。


 クラース夫人は心労のあまり黄泉路(よみじ)へ旅立つ。そこから、娘マルグリットとエマニュエル青年との恋物語が奏でられる。生死(しょうじ)の鮮やかなコントラストが冬から春の曲へと変調する。


 マルグリットはピエルカンが遠ざかってゆくのを見おくりながら、じっともの思いにふけっていた。ピエルカンの金属のように固い声や、すばしこいがしかしバネじかけのような態度や、やさしさよりも奴隷根性のほうがよけいに現われている目つきなどと、エマニュエルの感情をおおい隠している、無言のままながら美しい旋律に満ちた詩情とをくらべてみた。人がどんなことをなそうと、どんなことを言おうと、そこにはある驚くべき磁気が存在するもので、その効果は決して人の期待を裏切らない。


 この冷徹な人物描写もバルザックの大きな魅力である。人の心の黒白(こくびゃく)を鮮やかに描き分けることで、物語の色彩は深まる。それも単純ではない。時に白から黒へ、黒から白へとグラデーションが変化するのだ。


 マルグリットは、クラース夫人という花から生まれた果実であった。花の命は短いが、確かな結実をもたらした。マルグリットはしっかりした足取りで幸福の階段を昇ってゆく。だが、「絶対」に婿養子入りした父親は変わっていなかった。何ひとつ。


 圧巻のラストシーンが深く長い余韻を与える。バルタザールは果たして不幸であったのか、幸福であったのか? 読者は自分の人生をもって答えるしかない。

「絶対」の探求 (岩波文庫)


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2010-01-11

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ


人間は人間を利用し食いものにしてきた」の続き――


 この手紙でクリシュナムルティは、分断された人間関係の様相を照射する――


 私たちは人間関係をバラバラに解体してしまっているので、人間関係は、ある特定の人物に対する関係、ある特定のグループに対する関係、国家に対する関係、ある概念に対する関係などになってしまっています。分断されたものは、責任の全体性を包むことはできません。私たちはいつも、小さいものによって、大きいものをつかもうとします。〈もっとよいもの〉は〈よいもの〉ではありません。ところが私たちの思考はすべて〈もっとよい〉〈もっと多く〉――もっとよい試験の成績、もっとよい仕事、もっとよい地位、もっとよい神々、もっと高尚な観念など――に基づいています。

〈もっとよい〉というのは、比較の結果です。もっとよい絵、もっとよい技術、もっと偉大な音楽家、もっと才能に恵まれている、もっと美しい、もっと知的であるなどは、この比較によるものです。私たちはまれにしか、絵そのもの、男性あるいは女性のその人自身を見ようとしません。いつも比較への、この生まれつきの資質があるのです。愛は比較でしょうか? あなたは、「自分はあちらよりもこちらの方を愛している」と言えるでしょうか? この比較があるとき、それは愛なのでしょうか? 〈もっと多く〉という感じがあるとき、それは測定であり、思考が働いています。愛は思考の働きではありません。この測定は比較です。私たちは生涯を通じて、比較するように勧められます。あなたの学校で、BをAと比較するなら、その両者をだめにしてしまいます。

 したがって、いかなる意味においても比較することなく、教育ができるでしょうか? なぜ、私たちは比較するのでしょうか? 私たちが比較をするのは、「測定が思考の方法であり、生の方法である」という単純な理由からです。私たちはこの腐敗のなかで教育されています。〈もっとよい〉はいつも〈ありのまま〉〈現実に起きていること〉よりも高尚だとされています。しかし、比較も測定もない〈ありのままの観察〉こそが、〈ありのまま〉を超えて行くのです。(15th May 1979)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


 所属は帰属意識を形成する。何かに所属した途端、何らかの忠誠心が芽生える。自我は所属する団体や組織と一体化を目指す。


 ここからクリシュナムルティは「分断されたものは、責任の全体性を包むことはできません。私たちはいつも、小さいものによって、大きいものをつかもうとします」という一行で、比較へと展開している。これがクリシュナムルティ・マジックだ。極端な省略が見て取れる。


 我々が生きる世界は、組織化という形で分断された世界なのだ。社会というものは概念であって実体はない。我々が「社会」と言う時、それは職場の同僚や家族、隣近所、友人、同じ電車に乗っている人、街で擦れ違う人、親戚、故郷にいる同級生、昔別れた彼女といった狭い範囲の人間関係を意味している。社会全体を実感できる場はどこにも存在しない。にもかかわらず、世論や投票率や地方自治体の人口の中に我々は社会を見出すのだ。


 組織や団体には必ず目的がある。目的があればこそ組織されたのだ。そして、目的のあるところには必ず競争がある。他の組織と比較し、昨年と今年を比較し、あの地域とこの地域とを比較してやまない。


「もっとよい」ものを目指すのは普通なら「欲望」であると考えられがちだが、クリシュナムルティは意図的に「測定=思考」としている。そしてこの変化球は揺れながら最後にストンと落ちるのだ。「比較のない教育は可能だろうか?」という具合に。


 生徒を比較するのは、生徒を測定することである。この時、教育は生徒を測る物差しと化す。測られる生徒は物差しに合わせた生き方を強いられる。こうして彼等が大人になれば、そこには新たな物差しが出来上がっているわけだ。計測スパイラル。


「両者をだめにする」とはどういう意味か? 優れた者は優越感を覚え、劣ったもは劣等感に苛まれる。この正負の感情によって彼等は物差しの奴隷にされてしまうのだ。絵に描いたような条件づけが施され、学校は腐敗してゆく。


 比較がプラスとマイナスを判断するのだから、比較は賞罰といえるかもしれない。賞罰を与えるのは権力者である。つまり、教師と生徒は比較する者と比較される者とに分断されてしまう。完全な分断といってよい。教師は絶対者として君臨し、生徒は罰せられるのを待つ僕(しもべ)となる。


 ここからクリシュナムルティは生徒の「ありのまま」を尊ぶ教育を主張する。


→「相対性からの脱却」に続く

学校への手紙


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2010-01-01

クリシュナムルティの人間宣言/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス


クリシュナムルティをニューエイジに貶めるべきではない


 クリシュナムルティの伝記三部作の第一作。翻訳は二作目の『クリシュナムルティ・革命の時代』(高橋重敏訳/めるくまーる、1988年)が先だったようだ。本書は「星の教団編」ともいうべき内容で神秘主義的色彩が濃厚だ。


 星の教団は、神智学協会が「世界教師」であるクリシュナムルティのために用意した教団であった。神智学協会は、ま、そうだな、「お告げ宗教」だ。青森のイタコ、沖縄のユタ卑弥呼エクソシストといった類いのシャーマニズムと変わらない。小学生の時分、コックリさんが流行(はや)ったが、身体が大きかった私は力任せに10円玉を動かしたものだ。


 いつの時代も神秘に憧れを抱く人々が存在する。彼等は幸福の青い鳥を探しているのだろう。では私が現実逃避のカラクリをご説明しよう。


 人間は心が大切だ→心は目に見えない→大事なものは見えない→見えないものが見える場合がある→人間は単なる物質ではない→つまり霊的存在なのだ→心が純粋であれば霊的交信は可能になる


 以上、七手詰めだ。ここに見られるのは、「死ねば終わり」という事実(多分)を拒み、回避しようとする企てである。ムダな抵抗だよ。アンタも私も結局は死ぬんだから。


 私は霊的な存在を一切認めない。もし存在するのであれば、どうして昆虫の霊がいないのか? エ、おかしいだろ? 夏の盛りにあれだけ鳴いていたセミどもは、どうして化けて出てこないんだ? 魚や野菜の幽霊も聞いたことがない。それとも何かい、幽霊ってえのあ、人間や猫に限ったもんなのかい?


 本当のことを書いておくと、個人的には霊にいて欲しいと思っている。何の罪もないのに殺されていった多くの人々が悪党を祟(たた)ってくれたら、世の中は格段によくなることだろう。


 悪しきスピリチュアルに陥る人々には共通点がある。それは、「不思議」と「神秘」を混同していることだ。正真正銘の不思議ってのは、もっと身近にあるものだ。私が幼い頃から今日に至るまで最も不思議だと思うのは「目が見える」ことだ。こんな不思議はないだろう。しかも、目をつぶっていても夢という映像を見ることができるのだ。第2位は、ウンコが出ること。そこ、笑わないよーに。正確に言い直そう。ウンコが出るのはさほど不思議ではないのだが、なぜ、ケツからウンコを入れて口から牛丼を出すことが出来ないのだろう? エネルギーの摂取は一方向に定まっている。私の飲食がどれほど環境に負荷を与えていることか。


 このように考えると、幽霊なんか不思議の内に入らないよ。冬に花開くロウバイが放つ香りの方がはるかに不思議だ。


 ついでに言っておくと、私はニューエイジなるものも好きじゃない。新しくなった三善英史(みよし・えいじ)を連想してしまう。こんなものは一種のオリエンタルブームの延長線上にある文化みたいな代物だろう。ラブ&ピース。私の父はショートピースを嗜(たしな)んでいた。


 この本は読み物としては三流以下だ。しかし、クリシュナムルティの覚醒の意味合いを理解するには欠かすことのできない変化を記録している。ブッダが菩提樹の下で目覚めた瞬間を思わずにはいられなかった。


 ざっと倍速でクリシュナムルティの成長を振り返ってみよう。彼は1895年5月11日にインドで誕生した。少年時代はいつもボーッとしており、勉強もできなかった。このため、廊下に立たされたり、鞭を振るわれた。クリシュナムルティ少年は泣き虫だった。そして彼には妖精が見えた。亡くなった母親を見ることもできた。神智学協会に見出されたクリシュナムルティはイギリスで英才教育を受けたものの、大学受験に失敗した。というよりも、大学側が救世主の入学を拒んだ。霊的能力は神仏との交信をも可能にした。やがて身体的苦痛を伴う「プロセス」が訪れ、クリシュナムルティはブッダと交信する。この件(くだり)は冷静に読むと、明らかに「空観」を悟った様子が理解できる。


 クリシュナムルティは変容を遂げた。彼は神から人間になった。現れたのは、人間の生を誰よりも知る人間であった。生は豊かで限りがなかった。海の水を飲み干すように、クリシュナムルティは生を味わい、堪能した。


 星の教団を解散する時が刻々と迫りつつあった――


 キャンプ中の集会のひとつで、彼はこう述べた。「あなたがたがもはや自分自身をどんなものにも従属させてはならない時が訪れました。……あなたがたが誰の言うことも傾聴せず、自分自身の直観、自分自身の理解にだけ耳を傾け、そしてあなたがたの解釈者になろうとする人々を公然と拒否するようになって欲しいと思います」。解釈者というのは、もちろん神智学協会の指導者たちのことである。彼は聴衆に、彼らが土台から揺さぶられることになる、と警告したのだ。


【『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)以下同】


 信徒達を襲ったのは「否定の衝撃」であった。新しい思想は必ず「時代への反逆」という構図を描く。ブッダも日蓮も同様であった。それまでの常識を覆(くつがえ)そうとする時、恐るべき反発に遭遇する。これを避けることはできない。そして、ここにのみ思想の試金石が存在するのだ。クリシュナムルティは「内なる声に耳を傾けよ」と宣言した。つまり、教祖自らが教祖を否定したことになる。この時34歳。やむにやまれぬ大感情が、恐怖を斥(しりぞ)けた瞬間であった。


 以下は、この講話で信者から発せられた質疑に答えた内容の抄録である――


 もう一度、私は信徒をもたないと言いましょう。もし〈真理〉を理解して、特定の個人に従わないとするなら、あなたがたは皆〈真理〉の信徒なのです。……〈真理〉を獲得する唯一の方法は、媒介者なしに、〈真理〉そのものの信徒となることです。……〈真理〉は希望を与えません。それは理解を与えるのです。……誰かの個性を崇拝しても理解は得られません。……私は、精神的成長にはどんな儀式も不必要であるとの意見を今も保持しています。……もしあなたがたが〈真理〉を求めるのなら、あなたがたは外に出て、人間の思考と心の限界から遠く離れたところで発見しなくてはならないのです――そしてその〈真理〉は、あなたがたご自身の内にあるのです。指導者であり、マスターであり、神である〈生〉そのものを目標にする方が、媒介者や導師をもって結局は間違いなく〈真理〉を格下げし、裏切ることになるよりも、ずっと簡明だとは思いませんか? ……解放は理解する人によって進化のどの段階ででも達成されうるのであって、あなたがたがしているように各段階を尊重するのは本質的なことではない、と私は言います。……後になってから、私の言葉を権威として引用しないでください。あなたがたの松葉杖になりたくはありません。あなたがたの礼拝のために、檻の中へ入れられるつもりはありません。山の新鮮な空気をもってきて小さな部屋に入れると、その空気の新鮮さは消え、よどみとなってしまいます。……私は自由なので、私はこの〈真理〉を見出したので――それは無限で、初めも終わりもないものです――あなたがたに条件づけられたくはありません。……私は一度も、神がいないとは言いませんでした。私は、あなたの中に現われる神のみがあると言ったのです……が、私は〈神〉(ゴッド)という言葉を用いるつもりはありません。……私はそれを〈生〉と呼ぶ方を選びます。……もちろん、善も悪もありません。善とはあなたがたが恐れないもののことであり、悪というのはあなたがたが恐れるもののことです。ですから、もしあなたがたが恐怖を破壊すれば、あなたがたは精神的に成就されるのです。……あなたがたが生を愛し、その愛をあらゆるものの前に据え、あなたがたの恐怖によってではなく、その愛によって判断すれば、あなたがたが道徳と呼ぶこのよどみは消え失せるでしょう。……私は、集団や宗教や教義(ドグマ)ではなく、生に関心があります。私が〈生〉なのですから。……友人たちよ、私が誰であるかということを気にかけないでください。あなたがたにはけっしてわからないでしょう。……もし私が、私はキリストであると言えば、あなたがたは別の権威を創り出すことになります。もし私がそうではないと言っても、あなたがたはやはり別の権威を創り出すのです。あなたがたが私を誰であるかと考えることに、〈真理〉がかかわっているとお思いですか? あなたがたは〈真理〉に関心をもってはおらず、〈真理〉が入っている器に関心があるのです。あなたがたはその水を飲みたがってはおらず、水の入っている器を誰がつくったかを知りたがっているのです。……もしその水が澄んでいるなら、それを飲みなさい。私はあなたがたに、私はその澄んだ水をもっていると言います。清め、大いに癒すあの香油を、私はもっているのです。それなのにあなたがたは私に訊ねます。あなたは誰なのか、と。私は〈生〉であり、それゆえあらゆるものなのです。


 世界大恐慌があった1929年のことである。昭和4年だ。国連が世界人権宣言を採択するのは20年後のことである。そんな時代にあって、34歳の青年がこれほどの高みに登りつめていたのだ。クリシュナムルティは時代の束縛からも完全に解き放たれている。普遍性は、人間を深い次元で見つめるところから生まれる。彼は厚い大地を突き破って、灼熱のマグマをすくい取ったのだろう。生の歓喜に打ち震えた時、新しい言葉が誕生するのだ。


 クリシュナムルティは教団を否定しただけではなかった。一切の集団・組織をも否定したのだ。彼が否定したのは、集団が人間を隷属させてきた人類の歴史であり、隷属を好む人類の業(ごう)であった。


 訳者の「解説」によると、クリシュナムルティは病気を治癒する力を持っていたようだ。だが彼はこうした力について「奇蹟は魅力的な子供の演技です」と答えている。そして、「心を全体化」し、「心を治すこと」の方がはるかに大切なことだ、と。(『クリシュナムルティ・革命の時代』)


「人間の生」――これに優る不思議はないことを彼は人類に教え残した。


 メアリー・ルティエンスは三部作を執筆した後に、総集編として『クリシュナムルティの生と死』(大野純一訳/コスモス・ライブラリー、2007年)を著している。

クリシュナムルティ・目覚めの時代 クリシュナムルティの生と死


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