マレーシア映画『ラ・ルナ』

東京国際映画祭でマレーシア映画『ラ・ルナ』を観た。感想を尋ねられたけれど、その場では簡潔にうまく答えられない気がした。映画の本筋と関係ない感想ばかりになってしまって映画を愉しんだ人の気持ちに水を差すといけないと思ったのと、感想を一通り説明しようとすると話が長くなりそうだったので立ち話では中途半端になりそうだと思ったから。と思っていたら、何人かの人から、書いたものを読みたいと言っていただいたので、久しぶりに書いてみることにした。

 

『ラ・ルナ』についての事前情報はあまり入っていなかった。シャリファ・アマニが宗教的に保守的な田舎に女性用の下着を売りに行く話で、『バタフライ』の主演のシュマイラ・サリヒンも出ているというぐらい。

『バタフライ』は2021年のマレーシア映画で、シュマイラはマレー人のイスラム教徒なのに生まれ変わりはあるのかとか死後の世界についていろいろ考えてしまうというのと、同級生でインド系のヒンドゥ教徒の男の子と仲良くなるという話。原題はマレー語で「Mentega Terbang」。直訳すると「バターが飛ぶ」で、これだと意味がわからないけれど、「バター・フライ」つまりバタフライという言葉遊び。いろいろな意味での変化の物語という意味が重ねられている。

まるでヤスミン世界のようだと評判になった一方で、ヤスミンに向けられたのと同じように、民族や宗教への冒涜だという批判も出た。上映会に抗議運動が起こったりしたため、関係者がオンラインで配信しては抗議を受けて配信を取りやめ、しばらくして別のサイトで配信するということを繰り返している。

シュマイラも批判の対象になったけれど、『ラ・ルナ』ではシュマイラの父親役のソリヒン署長にシュマイラの実の父親の名前のソリヒンをつけていたりして、映画コミュニティとしてシュマイラを温かく迎えようという気持ちが感じられる。アマニの再来かとも言われるシュマイラをアマニと共演させて、今度はアマニがシュマイラを育てていくのかなとも思わせる。

そしてイディル。イディルとアマニはマレーシアの演劇では「欧米帰り」の役を演じることが多い役者で、役柄上マレー人社会の因習を批判することが多くて、そのため批判を浴びたりもする。そんなメンバーが集まって、しかも宗教的に保守的な田舎を舞台にした映画なので、マレーシアで公開されたらどうなるか、ということで話題になっていた。

 

さて、その内容。バス停で何人も待っていてもいつになってもバスが来ない(映画の最後にもう一度同じバス停が出てくるけれどまだバスが来ていない)のは『細い目』を思い出させるなあ、でもユーハンの『ミン』にもあるからたまたまかな、とか思っていると、そういえば冒頭の礼拝所のスピーカーで礼拝を呼びかける音の感じは『グブラ』みたいだなという気もする。

ヤジドがいたずら書きをして怒られているときにソファーに座っている場面は『ムクシン』を思い出すし(お母さんに耳を引っ張られるのも『ムクシン』にあった)、アズラがデートに行って気が気でないサリヒン署長にかかってきた電話のハニーの話し方は『ムアラフ』を思わせる。そもそもハニーという名前からしてムアラフでアマニが演じたロハニだし。

 

こうやっていちいちヤスミン作品と重ねて観てしまうと本筋を見失ってしまうと気を引き締めようとしたけれど、2つの場面で撃沈した。

ラ・ルナのお店の壁に飾ってある額。色鮮やかな女性の絵の方じゃなくて、両脇の壁に、互いに向き合うようにして鳳凰のような鳥の絵が飾られている。『タレンタイム』でマヘシュの家に飾られていたのと同じもの。マヘシュのお母さんが家でソファーに座っている場面で後ろの壁に掛かっている。

もう1つは、ヤジド(アズラのボーイフレンド)の家の壁に飾ってある大きな扇子。ヤジドのお母さんが赤い下着をもらったためにヤジドのお父さんが狼のように盛ってしまうけれど、部屋を閉め出されたりする場面で、その背景の壁に大きな扇子の飾りが掛けられている。ヤジドのお父さんと一緒に3回ぐらい映ったので嫌でも目に入ってくる。

ヤジドのお父さんを演じたのはナムロン。最近は悪徳代議士や悪徳警官の役が多いけれど、『グブラ』では礼拝所の管理人を演じていた。礼拝所の鍵を妻と一緒に探している場面で映っていたのが壁の大きな扇子。色違いだけど、ナムロンは『ラ・ルナ』の世界でも家に同じ扇子を飾っている。

この2つは明らかにヤスミン作品を意識して持ってきたもの。ちなみにライハン監督に尋ねたら、自分が指示したわけではないけれど、『ラ・ルナ』の美術担当(名前がミンなのはたまたま)の師匠はヤスミンのもとで美術担当をしていた人なので、そのせいだろうとのことだった。やっぱりつながってた。

そうなると、ほかにも家の前の階段に座って話している場面とかもあれこれ思い浮かぶし、セリフも、ハニーがアズラたちに言った「Jangan nakal-nakal」(おいたはだめよ)は『タレンタイム』の車いすの謎の男が言ったセリフだなとか、いろいろ気になるけれど、そこに拘り過ぎてもいいことはないので、あとは心の中に留めておくことにする。

 

さて。下着は内側に身に着けるもの。他人に見せる必要はなくて、自分が楽しめばよいもの。その上で、内面の楽しみの新作を手に入れたり気心が知れている人たちと情報共有したりする場もあった方がよくて、その場を提供しているのがラ・ルナというお店。

考えごとは頭の内側で行うこと。何を考えているかを他人に伝える必要はないし、何をどう考えるかを他人に強制されるものでもない。自分の頭の中でなら何を考えてもいい。その上で、考えごとの新作を手に入れたり、気心が知れている人たちと情報共有したりする場もあった方がよくて、それを提供してくれる場の1つが映画。(念のために書いておくと、映画館じゃなくて映画。それから、映画が唯一の場ということではない。)

『ラ・ルナ』は下着の話をしながら映画の話もしている。(アズラがデートに行こうとしたのも食事と映画だったし、村人たちが集まる機会も野外上映会だったし。)

 

となると、『ラ・ルナ』は、保守的な村に下着を売りに来た女性が自分の権勢を守りたい男たちに攻撃され、拠り所を失うけれど、村人たちの助けを借りて再起に向かう物語であるとともに、マレーシアに新しい映画の潮流を持ってきたヤスミン監督が批判勢力から激しく攻撃されたことが重なって見えてしまう。以下はその観点からの私の妄想。いつものことだけれど、映画と現実が地続きになっている。

 

ハニーが村に来たのはおじいさんが亡くなって空き家になってから10、11年たったとき。「10、11年」というのは半端な感じがする。ライハン監督は、5年前にアマニに会って、それからしばらくしてこの映画を作るという話をしたという。この映画公開は2023年で、5年前は2018年なので、この映画を作る話をしたのは2019年とか2020年のころだったということになる。ヤスミンが2009年に亡くなって10年か11年ぐらいした頃にアマニがスクリーンに戻ってきたということ。もちろんアマニはこの間に映画にいくつか出演しているけれど、アマニの物語として大々的に迎えたという気持ちの表れ、かな。

 

ハニーが村に来てラ・ルナを開いたということは、アマニが映画制作に関わるために映画コミュニティに戻ってきたということ。それを歓迎する人がいる一方で、伝統的な考え方を乱すものとして排除しようとする人もいる。ちょうどヤスミンが登場したときに「文化を汚すもの」と言われたように。

そして、アマニはヤスミンのそばにいて一連の出来事をずっと目撃してきたし、ときにはアマニも批判の対象になってきた。ヤスミンが亡くなったあともアマニへの批判がなくなったわけではなくて、SNSひどい言葉を投げつけられたりもしてきた。それでもアマニはヤスミンが示したストーリーテラーの役割を引き継がなければと自分に課して、私は役者だから人前では自分の役割を演じ切ることができるから大丈夫だと言って批判の矢面に立ち続けてきたけれど、舞台裏を知っている人には満身創痍に見えることもある。ヤスミンの継承者として長編監督作品を観せてほしいと期待されていることはよくわかっているけれど、他の人の脚本を演じるだけにしてもいいのかなと思ったこともなかったわけではない。

 

ラ・ルナは、まわりに誰もいない田んぼの真ん中に一軒家を構えて、夜に村人以外が通りかかることはまずないので広告効果はほとんどないにもかかわらず、高い電気代を払ってでも「ラ・ルナ」という看板に明かりを灯し続ける。

空を見れば月が出ているのと同じ。月は、自分から光り輝いくわけではないけれど、他人からの光を受けて輝くことで世の中をそっと照らして、あなたは一人ではないと思わせてくれる。遠くにいて会えない人がいても、空を見ると月が浮かんでいて、あの人もきっと同じ月を見ているだと思うと、自分は一人じゃないと思える。

ラ・ルナを作ったハニーはヤムに「あなたは一人じゃない」と声をかけてヤムを招き入れた。そしてラ・ルナの光を受けたヤムは自分が他人を照らすようになり、ハニーに「あなたは一人じゃない」と声をかける。

 

でもハニーがしていることが気に入らないと思う人もいて、そのためラ・ルナは焼けてしまう。店が燃えて崩れ落ちる場面で、それを見て恐れ戸惑っている村人たちの顔が映るなかで、特にハニーが絶望的な顔をしている。自分が作った店を否定されたということだし、金銭的な損失も大きいということもあるだろうけれど、映画と現実を混ぜるならば、月を象徴するラ・ルナはストーリーテリングの拠点すなわちヤスミンで、それが失われたというアマニの絶望が表れていた。10、11年前にヤスミンが亡くなったときにアマニが感じた喪失と絶望がどのようなものだったかをハニーの顔から想像される。

 

ヤスミンの物語を再建するために頑張ってみたけれど、反対する人もいて、拠点が打ち砕かれてしまった。だからこの道を進むのは諦めて、もう都会に帰ろう。そう思ったハニーが見たのは、村の人たちがラ・ルナを再建しようとしている姿だった。サリヒン署長は「板を1枚ずつ再建していけばいい」とハニーに声をかける。

映画の『ラ・ルナ』がヤスミン作品の場面やセリフを1つ1つ持ち寄るようにして作られているのはそれと重なる。ヤスミンが作ったものをそのまま再建するのではなくて、ヤスミンが遺したものを持ち寄って新しいものを作ろうという人たちの思いが感じられる。映画コミュニティにそう思っている人たちがこんなにたくさんいるのだから、その旗振り役はぜひアマニにやってもらいたい。でもサリヒン署長は「やってほしい」とも「やるべきだ」とも言わず、どうする?とハニーに問いかける。

その思いを受け止めてハニーは村に残り、ラ・ルナの看板の明かりが灯る。ストーリーテラーの明かりはきっとまた灯るという思いを込めて。

 

あとは個別の感想。

 

ハニーとサリヒンがいい感じの関係になっていて、二人の関係がどうなるのかも興味があった。マレーシアの映画では、相手をサヤンと呼ぶようになるのが関係がぐっと近くなったサイン。でもハニーとサリヒンは最後まで相手をサヤンと呼ばない。サリヒンは「Cik Puan Hanie」(英語風に言うとミス・ハニー)と呼ぶし、ハニーはサリヒンを英語で「officer」(署長さん)と呼ぶ。人称代名詞で呼ぶときも、お互いに相手のことをちょっと他人行儀のawakと呼び続ける。

(でもサリヒンはハニーのことを「ハニー」と呼んでるから、間接的に「サヤン」と呼んでいることになっているんだけどね。)

 

村長が逮捕された後、村の委員会の会議風景が一瞬映る。村長がいたときはメンバーは全員男性だったけれど、村長逮捕の後はサリヒン署長が議長のような感じで、メンバーには女性も入っていた。

 

村の家や店が高床式なので、家を訪ねたときに家に上げてもらわないと視線が上下になっている。ハニーがヤムの家に行ったときにはヤムの夫は家の中からハニーを見下ろしている。村長がラ・ルナを訪れたときには、ハニーは店から村長を見下ろして話している。

 

舞台の村はどこにあるのか。

村の名前はブラス・バサー村。マレー語でブラスは「米」、バサーは「濡れる」なので、直訳すると「濡れた米」になる。でもブラスは英語のブラジャーと同じなので、ブラス・バサーは「濡れたブラジャー」だというのはマレーシアやシンガポールの男の子たちがよく言っていたジョーク。監督もそういうジョークの意味も込めて村の名前をつけたと話していた。

それはいいとして、ブラス・バサー村はどこにあるのか。実際の地名としてはシンガポールにあるけれど、物語上はマレーシアという設定。ただし特定の州だとわかるようにすると、その州を侮辱しているとかいういらない批判を招くので、わざと場所がわからないようにしているのだろう。そのことを理解した上で、あえて場所はどこかを考えてみる。

村長の事務所の電話番号らしきものの市外局番は03だったのでクアラルンプールかとも思うけれど、ハニーが「クアラルンプールに戻る」と言っていたので違うかも。

車やオートバイのナンバープレートは場所を知る手掛かりになるけれど、この映画ではナンバープレートがうまく隠してある。ただ1つ見えたのはヤムが仕事に使っている車で、ナンバーはJAW2582なのでジョホール州の登録。実際には撮影がジョホールだったようなのでそこで借りたのだろう。物語的には、ここがジョホール州でないくてヤムがジョホール州から車でこの村に来たとは考えにくいので、どうしてもあの村をどこかの州に当てはめろと言われたらジョホール州に1票。

車と言えば、ハニーが運転している黄色い車のナンバープレートはGIMで、マレーシアに昔からある番号ではない。最近マレーシアではGナンバーを売るようになったという話を聞いたことがあるのでそれなのかもしれない。

 

アズラが家で詠んでいたコーランの章句は第114章の人々(アン・ナース)から。こっそりと忍び込んで人間の胸にささやくものの悪。それは精霊でも人間でも。

 

野外上映会で上映された映画は『Banting』。ライハン監督の第一作。

『まだまだ熱中!フィリピン映画』

よしだまさしさんから『まだまだ熱中!フィリピン映画』を送っていただいた。2020年7月発行の『熱中!フィリピン映画』の続編。『熱中!』で多くの作品を紹介していたけれど、語り切れなかったところがまだまだあるはずなのでぜひ続編を、と思っていたらこんなに早く続編が出た。

コロナ禍のフィリピンが舞台のボーイズ・ラブのウェブドラマ「GAMEBOYS」(全14回)を日本語字幕で観る方法など、『まだまだ熱中!』にもお得情報がたくさん載っている。

  

『まだまだ熱中!』のお得情報として、フィリピン映画を実際に観てみたいという人向けに、日本でネットフリックスで観られるフィリピン映画43本を紹介している。ジャンル別に簡単な内容紹介もあってとても良いガイドだけれど、目を引くのは邦題だ。ネットフリックスが付けた邦題なのかよしださんがつけたのかわからないけれど、なるほどと思わせる訳がたくさん並んでいる。

たとえば、「Girl, Boy, Bakla, Tomboy」が「ばらばら四つ子の幸せのパズル」とか、「Beauty and Bestie」が「替え玉美女はトラブルの元」とか、「Bride for Rent」が「ニセ夫婦はじめました」とか。内容を考えると確かにその通りという邦題ばかりで、邦題を見ているだけでも楽しい。

(追記.ネットフリックスのフィリピン映画の記事の邦題はネットフリックスで付けたものとのこと。)

  

『まだまだ熱中!』(と『熱中!』)が私にとって魅力的なのは、フィリピン映画を愉しんでいることだ。映画の愉しみ方は人それぞれだけれど、私にとっての映画の愉しみ方は、作品中の物語と、映画を作っている人たちの物語と、さらにそれを観る自分たちの物語を切り分けずに混ぜてしまうというもの。もちろん作品は作品で、作り手たちの人生と作品内容は関係ないものなのだけれど、そこをあえて混ぜてしまうという愉しみ方がある。それに加えて、映画の観客である自分自身の物語も混ぜてしまうともっと愉しめる。

こういう映画の愉しみ方は一般的ではないかもしれない。でも、作品の紹介に監督や役者エピソードを交えるだけでなく、映画祭に事前に念入りに準備をして臨み、当日の劇場での行動を実況風に語り、その成果を振り返る様子を記事にして『まだまだ熱中!』に盛り込んでいるのを見ると、よしださんにも私と同じような映画の愉しみ方を感じる。

『まだまだ熱中!』は、最新版のフィリピン映画のガイドであるとともに、フィリピン映画の世界に入り込んで愉しんでいるよしださんの様子が織り込まれることで全体で一つの読み物となっている。

 

日本語吹き替え版『タレンタイム』

Kawasakiしんゆり映画祭で『タレンタイム』を観た。バリアフリー上映で、副音声のイヤホンガイドがあった。
登場人物ごとに違う人が声をあてていて、日本語吹き替え版のようで新鮮だった。
背景説明の部分では場面や登場人物の様子を簡潔に説明しているけれど、登場人物の感情もさりげなく説明されていて、音声ガイドを作った人たちの解釈がうまく織り込まれている。その内容も説明を入れるタイミングも絶妙で、とてもよく練られて作られている。
上映前に作品の背景説明があるのもわかりやすい。(ヤスミン監督をアフマド監督と言っているところだけが残念。)

『香港と日本 記憶・表象・アイデンティティ』

『淪落の人』のことを考えていたら、『香港と日本 記憶・表象・アイデンティティ』(銭俊華、ちくま新書)に出あった。

香港出身で日本の大学院で学んでいる著者は、遊び心に溢れているようで、どうすれば読者を飽きさせずに最後まで読んでもらえて、あまり難しい話をすることなしに自分が訴えたいことを読者に伝えられるかをよくよく考えたようだ。

1章では、読者が日本から香港に旅行に行くのを著者が隣についてガイドしてくれる。日本を出てから飛行機に乗って香港に着いて現地の目的地に着くまでガイドをしながら、見逃してしまいそうなポイントを押さえてその意味を解説してくれるので、読者は読み進めるうちに香港人は中国人でも台湾人でもないということをいろいろな角度から理解していく。
そうやって香港人は台湾人とも中国人とも違うのだということがしっかり頭に入ったところで、2章になると、著者は自分は香港人だけれど中国人でもあるという。1章で言っていたことと違うようにも思えるけれど、1章と2章の内容は矛盾しているわけではない。そこが香港の立場の複雑なところであり、奥深いところでもある。

2019年の香港のデモのことを書いている3章では、著者の両親との意見の違いなども紹介しながら、香港で何が起こっているのか、そしてそれをどう考えるのかを、読者にわかりやすいように、でも単純化することもなく、著者の言葉で説明している。1つの明確な結論が出ているわけではないのは、著者が自分もこの問題に密接に関わっていることを自覚してどのように臨めばよいのかを考え続けているためだろう。

私にとってのこの本の肝は、香港と日本アニメについて書いた4章だ。実写だと生身の役者が演じるため、作品の世界観と役者の政治的立場が食い違うことがある。香港の芸能人が政権を擁護する発言を重ねると、その役者が出ていた作品の世界観も色褪せてしまう気持になる。でもアニメだとそういうことが起こりにくく、日本のアニメなら香港の政治から距離があるのでなおさら政治に巻き込まれにくい。「アニメキャラは裏切らない」という見出しは、裏切られた気持ちになって残念な思いをしたことを思わせる。

実際にいくつかの作品を例として、日本のアニメが香港でどう紹介されているかが書かれている。作品の内容だけでなく、それがどう翻訳されるか、そして現地の人々がどのようなメッセージを読み取るのかが丁寧に書かれていて、とても読みごたえがある。小説や映画は人びとがそれをどう受け止められたのかが重要だけれど、それをうまく捉えて説明するのがなかなか難しい。本書は日本と香港の事情に通じた著者がとてもうまく表現している。

このように、本書は香港がどのような「国」なのか、そして香港でいま何が起こっているのかを解説しているとともに、5章以降ではその延長で日本と香港の関係をどのように考えればよいのかについて考えを巡らせている。アジアの中の日本については日本と中国の関係を抜きに考えることができない。でも、中国と言ったときに私たちは何をイメージしているのか。一括りにして中国と見るのではなく、もう少し詳しく見てみると、これまでと別の対応のしかたが出てくるかもしれない。そのためにはまず香港を知ることから始めよう、そのことは日本のこれからを考える上でもとても大切な意味を持つ、というのが本書の一番のメッセージであるように感じた。

もっとも、私がこの本を読んで一番印象に残ったのは、携帯電話などで漢字を分解して入力する話だった。「東」を「木田」と入力するというところですでに十分驚きだけれど、「京」は「卜口火」と入力するという。「とろ火」が京になるというのはなかなか想像できないし、漢字の成り立ちを無視してパズル的に分解して組み合わせているようにも思えるけれど、この柔軟さが香港らしさなのかもしれない。

『インディペンデント映画の逆襲 フィリピン映画と自画像の構築』

『インディペンデント映画の逆襲 フィリピン映画と自画像の構築』(鈴木勉、風響社)を読んだ。2005年に始まったシネマラヤ映画祭の上映作品を中心に、フィリピンのインディペンデント映画を一気に紹介している。

映画の本は、読者が知らない映画の話がたくさん載っていると読まれにくいという話を聞いたことがある。この本を読むと、それは本当なのだろうかと考えさせられる。

『インディペンデント映画の逆襲』はたくさんの映画を紹介している。目次に作品名が出ているものだけで89作あり、索引には140作以上が並んでいる。しかもそのほとんどがインディペンデント映画だ。半分も観たことがないという読者も多いだろうが、読み物として読ませる本になっている。

その工夫の1つは、作品の内容紹介やスタッフ・キャストの話はなるべく簡潔にまとめて、作品の背景となるフィリピン事情の解説を充実させていることに力を入れていることだろう。そのため、読者は個別の作品を知らなくても、そしてフィリピンについて詳しい背景事情を知らなくても、本を読み進めていくにつれてフィリピン事情を知っていくという仕掛けになっている。

構成も工夫されていて、インディペンデント映画史に始まり、風景、地域映画、ポストコロニアル、日本との関係、「ポスト真実」時代、そして信仰と順に読んでいくと、フィリピン映画についての映画を観ているような気にもなってくる。

そしておそらく最も肝心なのは、淡々と書いているようにも見えながら、著者のフィリピンへの熱い思いが垣間見えることだろう。著者は、自分はフィリピンにとって他者であることを自覚した上で、「他者の苦痛へのまなざし」を意識して、他者のさまざまな声をどうすれば実感をもって想像することができるかという課題を自分に課している。

著者の思い入れは冒頭に最もよく表れている。フィリピン人が登場するシンガポール映画の『イロイロ』を最初に取り上げて、そのまなざしを厳しく批判する。この批判が最後の作品紹介まで本書の一貫したテーマになっている。『淪落の人』のことはどう評価するのか、機会があれば著者に聞いてみたい。

『熱帯雨』

東京Filmexで映画『熱帯雨』を観た。

マレーシア華人で、シンガポール人男性と結婚して、シンガポールの高校で華語を教えながら、家庭では半身不随の義父の世話をして、不妊治療をしつつ夫との冷えた関係を修復しようとするリン。理数系の教師はお金に余裕があるようでいい家に引っ越したけれど、リンは不妊治療にお金がかかっているだろうし、実家への仕送りもあるのでお金に余裕がない。

同僚教師も生徒もみんな英語を話すけれど、リンは学校では英語で話しかけられても華語で通す。でも高校では理数系と英語が重視されていて、華語は同僚教師からも生徒からもその親たちからも露骨に軽視されている。授業で華語の読み書きを教えていても、漢字の読み書きがあまりできないだけでなく、自分の華語名を「忘れた」と悪びれずに言う生徒までいる。

そんな中で、両親が仕事で世界中を飛びまわっていて一人暮らししている生徒のウェイルンは、漢字の読み書きはあまり得意でないけれど、リンの補習にただ一人まじめに取り組む。

生徒たちは華語を軽視しているし華人意識もあまり持っていないようなので、言葉や意識ではかると中華文化を受け継いでいないようにも見える。でもウェイルンは武術を身につけているし、おじいさん世代から漢字を受け継いでもいる。だから、リンは妊娠と出産によって自分の子を持つことはできなかったけれど、中華文化を継承する子と出会うことができた、つまりリンはウェイルンという「子」を持つことができたという話なのかと思って観ていた。

なので、リンとウェイルンが「親子」と違う関係を結んだのには驚いたし、それ以降の話はどう受け止めればよいのか頭を抱えてしまった。想像していた話を違うからではなく、どういうつもりでこの話を書いたのかという製作者の意図を掴みかねて戸惑った。

生徒と教師が一線を越えること自体を咎めるつもりはない。でも、2人は対等な立場ではなくて、仕掛けられた方は外国人だし女性だしで幾重にも弱い立場にいるのに、結果がよければそれでよしといわんばかりの話の展開は、どう受け止めればいいのかもやもやする。前作の『イロイロ』も、まだ幼い子どもだったので半ば微笑ましく見えたとはいえ、いつか帰国する外国人女性に手を出しておきながら別れの痛みを美しく思っているボクという同じ構図に見えてくる。

どういう意図でこの話を書いたのかは、実家に戻ったリンが見せる笑みをどう受け止めるのかと関わっている。リンの笑みの解釈をめぐってあれこれ考えてしまった。

 

開き直って「いつか帰国する外国人女性に手を出しておいて別れの痛みを美しく思っているボク」というシンガポール男子の覚悟を描くことで、そのようなシンガポール男子を生んだシンガポール功利主義と競争社会を描いているということだろうか。 

劇中、テレビでときどきマレーシアのニュースが流れる。公正な選挙を求めるデモの参加者が600人以上も逮捕されて、2007年以来で最大規模のデモになったと報じられている。これは現実世界では2011年7月の出来事だ。夫のアンドリューがおそらく浮気のために外出ばかりしている口実として使った「ポンドの下落で忙しい」というのも2011年半ばから9月頃にかけてのことなので、この物語の舞台は2011年半ばということになる。

2011年は、シンガポールでは総選挙で与党が勝利したものの得票を大幅に減らして、有権者からノーを突き付けられた形になり、「建国の父」リー・クワンユーが内閣から退いた年にあたる。

政治の表舞台から引退して4年後の2015年に亡くなるリー・クワンユーは、リンの義父に重なって見える。おじいちゃん世代であるリンの義父から間接的に武術と漢字を受け継いだ形になったウェイルンは、「建国の父」リー・クワンユーの精神を受け継いでシンガポールの発展を支えているシンガポール男子と重なって見える。できない奴に譲歩しちゃだめだと言うウェイルンは、競争社会で自分が成功することでシンガポールを発展させるという「男らしさ」を体現している存在だ。それによって切り捨てられる人がいたとしても、そのことは発展と成功の代償として受け止めるというのがシンガポール男子の覚悟だと言ったら言い過ぎだろうか。

他方で、外国からシンガポールにやってきて、シンガポール男子の「男らしさ」の実現に手を貸して、役目を終えると自分の国に帰っていくリンたちは、シンガポール男子の「男らしさ」を支えるという意味で「女らしさ」を担わされている。そしてリンの存在は、山ほどあるドリアンが象徴する豊饒の土地であるマレーシアとも重ねられている。

マレーシアに帰ったリンは母親に会う。洗濯したシーツを一緒に絞っている姿をへその緒がついた赤ちゃんを取り出していることと重ねて見れば、リンの母からリンに伝えられた「女らしさ」はリンの子にも受け継がれたということだろうか。シンガポールは切り捨てを恐れずに功利主義と競争社会で常にトップを目指し、それをマレーシアが包み込んで支えているという図式になる。

 

リンは母親と福建語で話している。リンの実家はマレーシアのタイピンにあり、タイピンは客家の地域だ。もちろんタイピンに福建語話者がいても不思議ではないのだけれど、わざわざタイピンと言うのならばリンと母親の会話は客家にすればいいのに、それを福建語にしているのはなぜか。

福建語はシンガポールで広く使われている言葉で、いまの若い世代はほとんど話せなくなっているけれど、おじいちゃんやおばあちゃんが話す言葉という印象がある。撮影上の事情などを無視して想像を逞しくするならば、リンと母親が福建語を使っているのは、リンが実家に戻った後の話はウェイルンの想像だからなのかもしれないと考えてみる。リンが実家に戻って幸せになったというのはウェイルンの想像でした、というお話だ。リンは電話で母親と話しているのでこの解釈はちょっと無理があるけれど、そうでも思わないとリンの笑みは納得しにくい。

 

『熱帯雨』の 英語タイトルの「Wet Season」は、雨季のようだけれど、「rain」ではなく「wet」なので雨季ともちょっと違う。実際に雨が降る時期を指しているとともに、別の意味も重ねられている。一つにはリンの心が晴れない日々という意味だけれど、さらに別の意味も重ねられている。

劇中のテレビニュースでマレーシアの政治情勢が報じられていることは書いた。現実世界でデモと逮捕が起こったのは2011年7月のことだ。シンガポールの雨季は12月頃から2月頃までなので、マレーシアの政治情勢のニュースは時期が違うものが意図的に入れられていて、それが雨季と重ねられているということだ。だとすると、「Wet Season」とはマレーシアの政治が晴れない日々という意味も重ねられているということになる。

リンがマレーシアに戻ると雨が上がって晴れが戻ってくる。劇中ではマレーシアの政治情勢がどうなったかは示されていないけれど、現実世界では汚職疑惑の首相が2018年に総選挙で負けたことを考えると、空が晴れたというのは、マレーシアの政治の不正をただす運動が実ったという意味になる。権力者が非民主的な統治をして市民が苦しい思いをする日々が続くかもしれないけれど、それが永遠に続くことはなく、いつか必ず晴れるときが来る。マレーシアがそれを実現したことを寿ぐとともに、いまなお傘をさして雨から身を守ろうとしているアジアの他地域の人びとに対する秘めた声援にもなっている。それがリンの笑みに込められた意味なのではないだろうか。 

ジャカルタ深読み日記

ヤスミンの本を書いて、いろいろな場所でヤスミンの話をする機会をいただいて、久しぶりにこの場に戻ってきたらデザインがすっかり変わっていた。改めて見てみると、デザインよりも「ジャカルタ深読み日記」というタイトルが気になる。

10年前にジャカルタに滞在することになったとき、滞在中に見かけたもののメモのつもりだったのでタイトルに「ジャカルタ」とつけた。ジャカルタ滞在が終わると日記も終わりのつもりだったけれど、その後も見聞きしたものをメモする場があるといいかなと思って使い続けることにした。ジャカルタとの関係はあまりなくなったけれど、かといって別の名前も思いつかず、なんとなくジャカルタの名前を残したままになった。

「深読み」は、辞書に「他人の言動や文章、物事の事情などを、必要以上に読み取ること。うがちすぎること。」とあるように、私の思い込みを書いているという意味でつけた。10年前には、「深読み」はもっぱらネガティブな印象の言葉として使われていたように思う。映画について書いたとしても、それは制作者の意図を想像しているということよりも、特に根拠のない私の勝手な思い込みなのであしからず、という気持ちから「深読み」とした。

ところが10年の間に状況が変わったようで、いつ頃からか、世間では「深く調べたり考えたりすること」というポジティブな意味でも「深読み」が使われるようになってきた。私だったら「深掘り」というところだ。「深読み日記」というタイトルを掲げていると、私がものごとを深掘りしたことを書いていると言っているようでどうも居心地が悪い。とはいえ、これも別の名前が思いつかないので、なんとなくこの名前のままで続けていくのかなと思っている。