共有可能性、の続き(けまらしいへの接続ほか)

http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/20071220#p1
の続きっぽいもの。


なんでここらへん気にしているかというと、率直に言えば、「webは繋がれる≒共有できるツールのはずなんだけどそうでもない」ということ。当然インターネットはリア充補完ツールでもあるし、ビジネスや連絡用の道具ででもあるので、そうではないから気に食わない、という話ではない。まあ私信は個別でやれ、というのはonoff問わず当然だけど、そういう部分はよこにおく。


前回、共有可能性にグラデーションがあると書いたけれども、「本の感想」という話題でも、青空文庫へのリンクをクリックすれば読めるもの、amazon使って数百円払えば読めるもの、数万円払えば読めるもの、絶版で古本屋で見つけなきゃならないもの、「某年某月某イベントで100人限定販売」のもの、とか色々ある。
で、そのどれでも、「共有しよう」とした時にはネットはとても便利だし、そのように使われたらいいだろうなあ、と思う。
と、こういうのを「ゼロ地点からの共有」ととりあえず呼ぶ。共有していない状態から、共有している状態へのアプローチ。ちなみにここだと、本(の感想)という「話題」を共有しようとしている、とする。「ゼロ地点からの話題の共有はどんどん行われるべき」といった感じになるか。


そうではないものとして、「何かを共有している」ことを前提とした「何かを共有しよう」というアプローチがある。前回の伊集院の話になぞらえると、『ディレクターの池田は…』というのはゼロ地点*1からのアプローチだが、『池田は…』は「同じブースの中に池田という人がいて、ディレクターであり、これこれこういったキャラクターである」という知識の共有を前提としたアプローチである、といった感じ。当然、これはラジオでの話なので、日常的にコミュニケーションをとる場合はショートカットするために後者が選択されることが多い。
で、webに目を戻してみると、まあ、どっちもあるんだけど、ラジオ番組という単位がないので、どちらも共存する形になる。で、その中で「ゼロ地点からのアプローチ」と「前提を共有した上でのアプローチ」がどれくらいのバランスで共存しているか、というのは気にしておきたい。


話を戻して、冒頭の「本の感想」という「話題」というのは、単独で独立している、といえる、と勝手にしておく。で、そうではないものとして「関係」と「継続」というのがあるんではないかな、とか考えた。語句のチョイスは適当なので詰める必要があるけど。
ざっくばらんにわかりやすいところで書いておくと、web上からは可視化されない、されにくい要素が「関係」と「継続」で、それは「前提」として機能している、といった感じだろうか。聞いた話だけど、「オフラインとはある程度距離を置いた上でブログをやっていたら、オフラインで関係を持っている人がそこに現れてオフラインの出来事をコメントしはじめる」という出来事があったらしい。そこで前提とされているのは「関係」と「継続」なんではないか、といった感じ。


当然、そのアプローチ自体は真っ当なもんではあるし、話題として独立していればほとんど問題ないと言えると思う。が、それによって「ゼロ地点からのアプローチ」が阻害されてしまう場合はあんまり良い事ではない、といえるのではなかろうか。まあこれは、それ以前の問題として「ゼロ地点からのアプローチ」を良いことするか、どうでもいいものとするか、という価値判断があるけど。


でもって、造語:「けまらしい」について俺が以前こう表現したところの「情報共有への期待の裏切られ感」というのはここらへんではないか、と思った。というか、これを下敷きにして考えていた。原義の「仲良くしていると不快」というところにも合致するんではないかなあ、と思っている。


んで、個人的には、「ゼロ地点からでないところからのアプローチ」というのは、ただっぴろいweb上ではないところ*2でやった方がお互いのためになるのではないか、とか思っていたりするので、けまらしい大いに結構、と思ったりもする。ただっぴろいweb上では「独立した話題」において、そうではない場所では「関係と継続」においてアプローチをすると具合がいいし、世の中がなるべくそうなると俺にとって都合がいい、という話。

*1:か、それに近いところ

*2:ツールとしてのインターネットは色々手段があるし、ただっぴろくない場所もある