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リテラシーと理解について考える

「私」と「我々」と「あいつら」

 10人の人がいればその内5人はその10人の標準以下の能力しかなく、10人の内1人は他の9人より劣っている。
 100人に1人の愚か者は100人いれば1人いる。1,000人の内1人は1,000人に1人のバカだし10,000人に1人のバカは10,000人に1人いる。

 良く思っていない他所の集団の100,000人の内10,000人に1人のバカが10人いると自浄能力がないと思うし、100,000人の内1,000人に1人のバカが100人いるとバカの集団だと思うし100,000人の内100人に1人の愚か者が1,000人いるとその集団は腐っているから滅ぶべきだと思ったりする。
 
 自分たちの集団の100人に1人の愚か者は時々そんな人もいるだろうと思い、1,000人に1人のバカは例外だと思うし10,000人に1人のバカがいても自分には関係ない他人事だと思い易い。
    
 身内と思えない連中や敵だと思う集団、「私たち」や「我々」ではないと感じた「あいつら」に対しては愚か者を代表者だとか平均だとか思い易いし身内の不始末は例外だと思う。
 自分が「あいつらの仲間」だと思う愚か者を「あいつら」は仲間だと思っていないかもしれないし、自分が仲間だと思わない愚か者を他人はあなたの仲間だろうと思っていることもある。
 
 愚か者を排除できない「自浄能力のない連中」を批判している人が「誰か」があなたたちに近いだろうと言い出した愚か者をその人は「一緒にするな」と思う。 
 「優れた人」と自分の共通点を見つけ賛同や評価をすると自分も「優れた人」に近いと感じ、「駄目な人」と自分の違いを見つけ批判や糾弾をすると「駄目な人」と自分は遠いと感じる。
       
 共通点のある誰かに対する批判は「そんなことを批判する意味はない」か「(対立する側等の)他の奴らだってやっている」か「彼(ら)にそうさせた周囲にも責任がある」か「自分とは関係がない」「例外だ」等とするが、自分(たち)が含まれない場合はそんな意見にふれると「言い訳」だとかんじる。
   
 自分には党派性などなく派閥など組んでいないという人が「仲間」の成功を我が事と感じ、「仲間」への批判に自分に対する批判と受け取る。
 「独立した自由な個人の集まり」だといって仲間の間違いをわざわざ問題視しない人が仲間が「被害」を受けた場合には我が事のように憤る。
 自分と対立する側の人に同意する人は「取り巻き」「同調者」にみえるが自分に同意する人は妥当な意見だから一致しただけだと思う。

 上手くいっている場合は自分の仲間とし、都合の良い事を言えば自分の主張を強化すると感じる他者が間違った場合には簡単に切り捨て、もともと仲間でもなく特に共通点もないとする。
 「我々」とは違う「あいつら」に対し「自浄能力がない」という人が「あなたたちこそどうなのか」と問われると「彼(ら)は自分の仲間ではない」という。
  
 自分が共感し自分の正しさを証明できる範囲と自分を近いものと感じ、許せないもの認めがたいものは自分と遠いと思い易い。
    
 社会的な動物であるにんげんはそういう認知を普通に持っているのだろう。