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はてなビックリマーク

リテラシーと理解について考える

2018-05-15

「お好み焼きの戦前史」を読んで

 週刊誌やガイドブックでよく知られた料理の「発祥の店」という記事を目にすることがあります。
 「オリジナル」を作るその名店に一度行きたいと思う人も少なくはないでしょう。「町おこし」にも使われます。
        
 「歴史」という学問が有るのはご存知でしょう。
 
 人々の営みの中ではもともと、口伝えによる先祖や地域の昔語りというものがあり、過去に起きたことから何かを学び、自分たちが何者なのかを位置づけます。 
 自分たちがなぜこのようにあるのか、どのような権利があり責任があるのか、どんな成功をしたか過ちを犯したか、誰とどういった繋がりがあるか、等というものです。
    
 最初は神話や伝説、教典などの形でその目的に合う事象が選ばれ、意味づけられ、「なぜそうなったのか」についての推察がされ物語としての「歴史」が生まれます。
 多くの国々や社会で、その国や社会、一族や集団の共通の認識としての「歴史」が共有されます。 
 社会や「世界」の在りかたの説明や、個人や階層・集団の顕彰の役割も持ちます。

 文字が生まれ記録が作られ「国」が生まれそしてギリシャ中国では新たな「歴史」という考え方が形作られます。
 物語としての歴史から、より確からしい根拠に基づく「歴史」への探求を目指すという考えが見いだされ、神話や伝説、教典とは異なる「学問としての歴史」に向かう道筋が示されます。 
   
 「近代」の成立とともに、「学問としての歴史」と「物語としての歴史」の相克が明らかになります。
 実際、ほんの少し前、それこそ20年ほど前までは学問と物語の歴史は混同されてたといえる部分がありました。
   
 社会的動物としての人間は多分に「意味」と「物語」の生き物です。
 事象から「意味」を読み取りそれを「物語」として理解する部分があります。理解した「物語」はヒトの認知の一部となり、世界や自分を解釈しアイデンティティーを形作ります。
  
 現在でもナショナリズムイデオロギーアイデンティティーともかかわる形で歴史は理解され、語られる部分はあります。  
 一方では事実関係による確からしさから歴史を読み解こうとする学問としての歴史であるはずです。
   
 人間というものは思い込みや偏見、価値観や理想といったものを持ち、事柄を理解する時に人間であるという部分から離れて物を見ることはできません。
 「学問としての歴史」は自分が人間であることを認め、なおかつ可能な限り「客観的」に事象を読み解こうとする試みでもあります。
             
 少なくとも日本では政治や社会の歴史に比べ、ヒトの日常の営みである風俗・文化の歴史は美術などの一部を除いては学問的な重要度が小さいとされているように思えます。 
 特に近代の風俗史は、研究の少ない分野なのかもしれません。 
 どの時代でも「今現在生きている」人にとっては当たり前でしかないことが記録されず、のちには当たり前でなくなり、人がいなくなり記憶が失われ、実際に何が起きたかがわからなくなることがあります。
 
 日本では明治時代民俗学が生まれ、農村の「常民」の記録が残されるようになり、のちには考現学と呼ばれる試みも有りました。
 しかし一方では、ほんの少し前の出来事が記録されず残らなかったり、間違った伝承が共有されることも有ります。
     
 「お好み焼きの戦前史」は忘れられた「お好み焼き」の正体を「近代食文化研究会」(個人研究者)による「5年以上の時間をかけて収集した250以上の資料によって初めて明らかに」した論考です。
 https://www.amazon.co.jp/dp/B0794GC6TX/*1
    
 まず今では覚えている人もいない100年前の盛り場の景色、時代の風俗が語られます。
 そして「お好み焼き」が現れます。
     
 著者はそこから歴史をさかのぼり、江戸の駄菓子の歴史から、明治の露店屋台、開国から西洋食文化の移入と日本での変容と受容、産業社会構造の変化、驚くべきウスターソースの実像、「消えた」お好み焼きラーメンブームの原像、全国への伝播、そして「お好み焼き」とは何だったのかを描きだします。
    
 現在までの「お好み焼きの歴史」等の大衆食の歴史とされるものの多くが、過去に一部の人が短期間調べただけの少数の記録や利害のある関係者からの証言、憶測でつくり出された事実とは異なる「物語」であると明らかにします。
 著者は料理書だけではなく、当時の新聞、観光情報案内、広告、調査資料、随筆等を渉猟し、先行研究を検証し、失われた歴史を再現します。
  
 江戸明治大正の都市の風俗、子供たちのくらし、時代の意識、人々の生業、そこから思いがけない「お好み焼き」の歴史が現れました。
 食文化に興味のある人や大衆食を愛する人には驚きの事実が示されます。
 「ほんの百年前」には多くの人が知っていた、わざわざ書き残すことでもないはずの日常が記憶から消え去り、50年前までは聞けば分かった話を調べだすという事の難しさと面白さに驚くでしょう。
   
 一つの記録を確認するために複数の情報源から事実関係を確定し、より確からしい実像に迫る知的誠実さには目を見張ります。
 一方では甘い調査から「物語」を生み出した先行書については厳しく検討します。安易に伝承や古い経験談といったオーラルヒストリーに頼ることはありません。
 記憶違いや宣伝効果、記述者の物語の仮託によってつくられた「偽史」を排し、「歴史」を描こうとします。
     
 「生き残った老舗」や名前の知られた「伝説の店・料理人」は物語の主役になりえます。
 記述者や客や「老舗」自体、時には自治体などもその物語に乗り、利用します。すでに「物語」が産業や地域振興の名のもとに「偽史」として定着していることも有ります。
 「発祥の店」「発祥の地」というものにはそういったものも少なくはありません(後継ぎが先代などからホラを吹かれただけなのかもしれませんが……)。
    
 豊富な史料から時代の霧を晴らし、かすかな手がかりを多く積み重ね、事実に迫ります。
 巻末の膨大な資料集はそれだけでも価値があるでしょう。
 この本で示されるように近代にはあまりにも多くの資料が有ります。それを調べ上げ、整理するのは大変手間がかかります。
 しかし近年では情報機器の進歩で比較的には調査が容易になったともいえるかもしれません。
   
 しかし今現在でも凡百の書き手による食の蘊蓄本は良くて数冊の先行研究、場合によっては種本一冊からの孫引きだけで書かれているものも多いのが実情です。
 最低限の基礎知識すらないままに経験談と小耳に挟んだだけの関係者の話だけでも本になります。何の裏取りもなく種本が推測としているものを事実のように書くものもあります。
 重要な基本文献に全く触れずに書かれた本も有りました。学者でも畑違いのジャンルに思い込みの間違った記述が入ることも少なくないです。        
 食に限らず、何らかの事実に触れる場合は自分の知識を顧みることも必要です。

 「食」については誰でも毎日ふれるもののため、容易に「わかった」つもりになりやすいものです。
 「大家(たいか)」とされる作者が安易な誤認を書き、誰も指摘すらしないことも目にしました。カリスマになると批判すら許されないのでしょうか。
 何十年も前の情報が現在でも検証されずに定説とされることも少なくありません。

 専門家ではない「文化人」などが調べもせずに書き、同じく知識も興味もない別のジャンルの評論家が好意的なレビューを書くことも少なくありません。
 食の歴史を学ぶ同士で「ライバル」でもある自分としても「お好み焼きの戦前史」は価格以上の価値のある著作であると断言できます。
    
 このブログでは過去に
「新・とんかつの誕生 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20150922/1442901832
「戦前のお好み焼き http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20160314/1457940308
 で同じテーマに取り組んでいますが「お好み焼きの戦前史」はそこでたどり着けなかった答えを明らかにする快著です。これからの食文化史、風俗史の新たな基準となる素晴らしい研究です。
     
 読み物としても面白いのでお勧めです。
 ご興味のある方は、「お好み焼きの戦前史」を読み、その先に向かって行くことも出来るでしょう。ここから先にまだ調べることはたくさんあります。
 「国立国会図書館」「味の素食の文化ライブラリー」「女子栄養大学短期大学図書館」等に資料が多くあります。地域でも少し大きい図書館だと食文化の本や古い随筆も有ります。朝日新聞読売新聞などでは古い記事もネットで検索できます(これも図書館で可能な場合も有る)。
    
 例えば昭和50年代に突然登場し53年ごろには定着した「肉じゃが」の名称と概念、それが代表的な「おふくろの味」であることが一般したことについては今調べていますがわかりません。(海軍説はウソ)
 テレビドラマや映画又は料理番組やバラエティー番組等の影響かもしれません。ご存知の方がおられれば出来れば根拠を示して教えてください。
    
 近代食文化・風俗史は趣味としても面白いジャンルなので多くの方の参入を期待します。サブカルチャーの歴史もまだ調べることは多くあります。
 「お好み焼きの戦前史」はその道標になるでしょう。
    
 類書の風俗史としては
 創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書) 輪島裕介
 https://www.amazon.co.jp/dp/4334035906
  
 食文化史本は当ブログ「読メ」の「読書メモ抜粋」からどうぞ。
   
 近現代の「偽史」には
 江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書) 原田実
 https://www.amazon.co.jp/dp/4061385550
   
 近代日本の偽史言説―歴史語りのインテレクチュアル・ヒストリー 小澤実
 https://www.amazon.co.jp/dp/4585221921 
  
【関連記事】
 日本肉食史覚書
 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20120614/1339605334 
     
 関西に納豆食は無かったのか?
 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20170109/1483951797
 
 一汁三菜の正体
 http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20170310/1489122073   

*1:電子本kindleです。登録をすればコンビニなどで買えるギフト券で支払いが出来ます

近代食文化研究会近代食文化研究会 2018/05/17 03:16 摂津さん、こんにちは。

レビューいただきありがとうございます。
摂津さんのような知識と目利きの持ち主に評価されるのは何よりの喜びです。

それでは、「新・とんかつの誕生」のコメント欄の続きについて、河岸をかえて続けさせていただきます。

>生キャベツ千切りのより古い例「舶来穀菜要覧 明18.2」を書きましたが他にはご存じありませんでしょうか。本当に海外では無いのでしょうか?

この点についてはtwitterのほうで回答させていただきました。

結論としては「イギリスに生の千切りキャベツサラダレシピはあるが、19世紀末からの習慣かもしれない」ということです。

19世紀のイギリス料理書を中心に収集しているので、これ以上調べるには20世紀の料理書を収集するところからはじめなければなりません。私としても興味ある課題ですので、オムライス、ナポリタンも含め将来的な課題としたいと思います。

>江戸小鍋とは異なり、調理場で火にかけられ加熱済みの物が客に出されていたことがみえます

それは面白いですね。江戸でもなぜか葱鮪鍋は加熱済みのものを客に運んでいたようです(居酒屋の誕生 飯野亮一)

>難波橋台?(鴎)焼(285)

ありがとうございます!文字焼に関連するかもしれませんね。次に味の素図書館に訪問したときに花の下影を確認させていただきます。

>現在の「黒毛和牛」がそれほど古いものではなく戦後に人為的に再選択・戻し交配されたものなのがわかります。

それは驚きです。近江牛物語(滝川昌宏)には、DNA検査により現在の黒毛和牛は外国種の影響は少ないことがわかっているとありますが、戻し交配には長い年月がかかったのですね。

>東京の鉄道系食堂はおにぎり等の軽食堂はあったようですが洋食はどうなのでしょう。食堂車には洋食があったようですが。

以前twitterに書いた川端康成の浅草紅団に出てくる地下鉄食堂が、東武鉄道系の洋食レストランになります。
https://twilog.org/ksk18681912/date-180428

他にも昭和5年の「東京名物食べある記」に、京王電車地下室食堂、渋谷東横食堂が登場します。いずれも洋食を出しています。いずれも昭和初めの事例で、関西よりは遅いですね。

>少し興味深い話に長崎の製麺所瑞泰號製麺所が長崎ちゃんぽん(明治32年)に先立つ明治22年に創業し、

長崎の中華料理については全く知識がありませんが、早い時期から製麺業が興っていたのですね。

>ローラーで行うことも有るので、かん水等アルカリでコシの出しやすい中華麺の製法とは相性が良い

それは知りませんでした。中華料理に詳しい方によると、かん水を使った製麺は中国全土にあるわけではなく、広東はたまたまかん水を使う地方だそうです。いろんな偶然が重なって、日本のうどん蕎麦の製麺機で中華麺の製造が可能になったのですね。

>かん水細麺を乾燥させるのはそれほど難しくは無いはずです。

インスタントラーメンの歴史をまとめた即席めん(商品実務知識)日本食糧新聞社編によると、「戦前の乾麺は可也高度に発達していた」そうです。池波正太郎の目撃談は本に書きましたが、戦前には既に中華麺の乾麺が製造販売されていたようです。

ただし、現在のような縮れのある屈曲麺は昭和27年の特許なので、戦前の乾燥中華麺はマルタイの棒ラーメンのようなまっすぐのものだったのかもしれません。

settu-jpsettu-jp 2018/05/19 15:33 近代食文化研究会さん、こちらの都合に合わせていただきコメントありがとうございます。
 
 イギリスの19世紀、生の千切りキャベツサラダレシピのご紹介感謝します。
 少し前提を整理してみたいと思います。
 
 キャベツには大きく分けて2種類があります、生食用と加熱用です。
 生食用は日本では新キャベツ又は春キャベツといわれる葉のやわらかい水分も多い品種、加熱用は少し葉の硬い品種いわゆる普通のキャベツ、千切りは加熱用系に近いものでも生食するための技術ともいえます。
 そして生食千切りには塩水に漬け乳酸菌で発酵させるザワークラウトタイプ、酢やドレッシング類又はマヨネーズで漬けるか和えるコールスロー(マリネ系)、そのままで出され酢やドレッシング・マヨネーズ・ウスターソース等で食べる生の千切りキャベツ。最後の物がここでの課題でしょう。「ポタ二カルイラストで見る野菜の歴史百科」にもコールスローは古くからあるとされ、ザワークラウトとコールスローは昔から存在するとしてよいと考えます。
 
 「サラダの歴史 食の図書館 原書房」では34ページではコールスローと書かれた写真がありますが生の千切りキャベツにも見えます、そして54ページで「ジャーベス・マーカム イギリスの主婦 The English Huswife 1615」にキャベツのサラダが有るとし、69ページ「ハンナ・グラッセ The Art Of Cookery Plain Easy 1747」のサラモンガンディ(176ページにレシピ)にか少し太めの千切りが使われる場合があるとします。
 アメリカでは77ページに18世紀ペンシルヴェ二アにクリストファー・ザウアーの著作にキャベツのサラダがあるとし、79ページでは「アメリカの料理 アメリア・シモンズ」と155ページににコールスローがあり、153ページのグリークサラダ(ギリシャ風サラダ)のキプロス島の物にはキャベツが入るとします。
   
 「日本野菜文化事典 青葉高」によると結球キャベツは13世紀のイギリスには有ったとします。生千切りキャベツの日本での初出かもしれない「舶来穀菜要覧」の出版元「大日本農会三田育種場」は官営会社だったようで近代農作物の育種や導入、馬匹の改良に足跡を残します。特に果実の改良で知られる福羽逸人(のちに子爵)を輩出したことでも知られます。
 こちらのキャベツ(甘藍)の品種の説明を見ると基本的にはアメリカからの移入で、おそらくアメリカ系の情報に基づく記載だと考えられます。ここでの生千切りキャベツはアメリカ経由の可能性があります。
 編者である竹中卓郎は単著として「穀菜弁覧. 初篇 明22.6」も有り、ここでもキャベツの生食を紹介しています。最初のキャベツ移入である北海道開拓使に生食が無ければ彼が日本の生千切りキャベツの最初の紹介者かもしれませんが断言はできません。彼自身が札幌農学校関係者の可能性も有ります。
 
 論文に「日本におけるキャベツ生産地域の成立とその背景としてのキャベツ食習慣の定着-明治後期から昭和戦前期を中心として-清水 克志 https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj2002/81/1/81_1_1/_pdf/-char/ja」が有りました。近代史についてよく纏まったものですが一部ネットで読めない文献も載り、本文にも有るように生食への検討は足りないようです。日本では人糞堆肥のため公的には薦めていなかったのかもしれません。
 
 ただ「新・とんかつの誕生」にも書きましたが「木村毅の昭和14(1939)年刊行の随筆集『南京豆の袋』に収録された「トマトが初めて村へ来た頃」」の内容として「明治四十三年に上京したが、あの頃は洋食をたべに行つても、カツレツやビフテキにつくのが、キャベツの刻んだのだつた。」」が事実なら明治末には生千切りキャベツが広まっていた可能性があります。
   
 黒毛和牛については見島牛がおそらく純血で、但馬牛(近江牛・松坂牛を含む)がそれに続き、他の産地の黒毛和牛はそれより欧米牛の影響が大きいと考えられます。純血に近いものが小柄であるといえます。ただ日本の黒毛和牛は一般に種牛(スーパーエリート雄牛)の選択や血統の管理、肥育が外国の黒毛和牛系とレベルが違い、品質はかけ離れます。
 ただ「Wagyu」表示については黒毛以外の和種は欧米系等の影響の残る血筋なので定義があいまいで国内はともかく国際的には主張が難しい部分が有ります。
  
 すき焼きやももんじの味付けや切り方はいまだにわかりませんが「朝鮮通信使をもてなした料理―饗応と食文化の交流― 高正翎子」に朝鮮通信使の供応の獣肉食の調達や調理保存、味についても詳しく書かれ、高正氏は他にも「鯨料理の文化史」もあります。肉食史をお調べなら役に立つかもしれません。
   
 南海食堂については「絵はがきで読む大大阪 橋爪紳也」84ページに「創業は明治四十四年十一月にさかのぼる。鉄道会社が食堂を直営した前例はなく」とあります。電化された際に食堂(喫茶)車が廃止され、南海食堂が出来たそうです。知的な女性が接客し評判になったそうです。おそらく「開通五拾年 南海鉄道発達史(南海鉄道・昭和11年刊)」に書かれているようです。
   
 「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか 奥村彪生 角川ソフィア文庫」に書いてありましたが「日本の家庭に応用したる支那料理法http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849128/49?viewMode=」に「卵うどん」があり「支那乾物店」で買えるとあります。ヒロヲカさんの写真にあった全蛋麺ではないでしょうか。
 乾麺には日本の「大門素麺」のように(縮れに無い)直麺ですが丸く束ねられたものもあります。現在も中国麺でも同じタイプが輸入されています。
 この本では明治40年には東京又は横浜辺りではすでに専門店があり中華料理素材、卵うどん、粉絲(素麺とあるが春雨でしょうか)など乾物類も入手できたとされるのが興味深いです。
   
 少し話はそれますが関東では素麺は何種類ぐらい手に入るものなのでしょう。関西では三輪素麺、揖保乃糸(播州素麺)、島原素麺の他に半田素麺、島の光(小豆島素麺)、淡路島素麺もあり、鴨川(又は鴨方)素麺、大門素麺、白石温麺もときどき見かけ、河内素麺、灘(目)素麺、五島素麺、南関素麺は「幻」ですが有るらしいです。
 個人的には基本的に揖保乃糸派ですが、おすすめは比較的安価で、太目で食感もよく、冷製パスタ風にも使える半田素麺です。

 ウェディングケーキの話も楽しいですね。

近代食文化研究会近代食文化研究会 2018/05/23 06:16 摂津さん、こんにちは。

私の方でも前提を整理したいと思うのですが、キャベツのサラダの件は、トンカツなどについてくる「生の」千切りキャベツの由来に関する調査、ということでよろしいでしょうか。

ひょっとするとですが、19世紀のイギリスのサラダやコールスローのキャベツは、生のキャベツしか使わないと考えておられるのではないでしょうか?

19世紀のイギリスのサラダやコールスローのキャベツは、加熱したものを使うことがあります。

まずサラダですが、twitterにて説明した如く、Encyclopedia of Practical Cookery by Theodore Francis Garrett(1891)の赤キャベツのサラダの(1)は加熱したキャベツを使っています。
https://twilog.org/ksk18681912/date-180517

他にも、加熱したキャベツを使ったサラダがありましたが、除外しtwitterには載せていません。また、生のキャベツを使うサラダでもsprout、つまりキャベツの芽をつかうケースは省いています。「生の」千切りキャベツの由来に関する調査という前提があると思っていましたので。

コールスローについても、1件だけレシピがありましたが、キャベツを加熱していたのでこれも省いています。

Encyclopedia of Practical Cookery1(1891)のコールスローレシピは、”Boil a firm head of white Cabbage of medinm size”茹でたキャベツを冷まして千切りにして使っています。

もし「生の」千切りキャベツの由来に関する調査、という前提ならば、「サラダの歴史 食の図書館 原書房」の事例の一つ一つについて、生であるのか加熱してあるのか、生の場合はsproutを使用しているのか「大人」のキャベツを使っているのかを確認する必要があります。

次に、19世紀イギリスやアメリカのサラダを考える場合、以下の区別はあまり意味を持ちません。

>酢やドレッシング類又はマヨネーズで漬けるか和えるコールスロー(マリネ系)、そのままで出され酢やドレッシング・マヨネーズ・ウスターソース等で食べる生の千切りキャベツ。

なぜなら、卓上の調味料で自分好みに味をつけるのが当時のイギリスの流儀であり、イギリスに影響されたアメリカの流儀だからです。前もってドレッシングがかかっていようがいまいが、自分好みに調味料をかけるのです。

こちらはアメリカ人が書いた卓上調味料を使ったサラダの食べ方。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849150/16

料理書の場合、「ただ切っただけのキャベツ」がレシピに載ることはありません。なので、イギリスやアメリカで生キャベツをドレッシングであえるレシピが一般的であった場合、切っただけの生キャベツを出す習慣も一般的であったと想定すべきと考えます。この2つを区別する意味はあまりないので。

料理書以外の資料、例えば小説やエッセイで「切っただけの生キャベツを出す」事例が見つかればそれにこしたことはありませんが、それを探すのは非常に困難です。

「生の」千切りキャベツの由来に関する調査、という前提で話をすすめさせていただきますが、その後20世紀のイギリスの料理書を集め始めていて、Project Gutenbergに面白い料理書を見つけました。1909年のReform Cookery Book (4th edition)です。
http://www.gutenberg.org/ebooks/11067

ここのサラダ(SALADS)の解説で真っ先に上がってくるのが生キャベツ(Raw Cabbage)の千切り、つまり、20世紀初頭には千切り生キャベツは代表的なサラダ用の野菜になっていた可能性があります。

また、コールスローについては

Cold Slaw is a favourite American salad. Shred the cabbage as above and sprinkle liberally with salt. Allow to remain for at least 24 hours, turning occasionally. Drain and use with lemon juice or salad dressing.

とあり、生のキャベツを使ったアメリカのサラダ、とあります。どうりでイギリスの料理書ではほとんど見かけないはずです。

というわけで、私の方では19世紀末から20世紀のイギリスで、それまで加熱して食べていたキャベツを、生で食べる習慣が生まれたという仮説に大きく傾いています。アメリカについては引き続き調査します。

次にキャベツの品種改良ですが、現在見つかっている生食用のレシピに使われているのはwhite cabbage,red cabbageという従来種です。

Encyclopedia of Practical Cookeryには新種のsavoy種、the Little Pixie, Sprouting Ulm, Drumhead Globe ,Golden Globeが紹介されていますが、いずれも生食用には使っていません。

>ただ「新・とんかつの誕生」にも書きましたが「木村毅の昭和14(1939)年刊行の随筆集『南京豆の袋』に収録された

すっかりと見落としていました。好食つれづれ草で獅子文六が大正11年頃には千切りキャベツの付け合せが一般的であった、と書いていますが、こちらのほうが古いですね。

高正翎子さんの名前はしりませんでした。今後読ませていただきます。ありがとうございます。

>南海食堂については「絵はがきで読む大大阪 橋爪紳也」84ページに「創業は明治四十四年十一月にさかのぼる。

すると南海食堂が日本初というわけですね。

昭和13年の「江戸と東京」新年号P28には、大正十三年開業の浅草の五十番という店が生材料を使った中華の始まりとあります。それまで、多くの店は乾物や缶詰ばかり使っていたそうです。

ただ、中華麺に関しては大正時代には浅草を中心にして製造業が立ち上がっているので、割高な輸入乾麺を使うのは本格的な高級中華店だったのかな、と想像します。

>少し話はそれますが関東では素麺は何種類ぐらい手に入るものなのでしょう。

一般的なスーパーだと揖保乃糸ぐらいしか見ないですねえ。成城石井とか、凝った品揃えの店ではちがうのでしょうが。しかし、そんなにそうめんに種類があるとは驚きです。

半田素麺、もし見つけたら買ってみます。ありがとうございます。

settu-jpsettu-jp 2018/05/26 15:32 近代食文化研究会さん、こんにちは。
  
>私の方でも前提を整理したいと思うのですが、キャベツのサラダの件は、トンカツなどについてくる「生の」千切りキャベツの由来に関する調査、ということでよろしいでしょうか。
 
 はい、その通りです。
 「サラダの歴史」についてはキャベツサラダの項目を書きだしただけです。「サラモンガンディ」についてはレシピに生のように書かれていたのですが原文を読まないと確認できませんね。
 「マリネ系」については「漬物」状にしんなりとさせ軟らかくしたもののつもりです。基本的に調味の有無ではなく、「調理」されていない「生」の状態であるかの意味です。
 ややこしい書き方ですみません。
  
 「ロンドン 食の歴史物語」の84ページに18世紀の初めジョン・イーヴリン「アセリア、サレットについて(サラダ図鑑)」に「生のキャベツを食べるのはオランダ人だけ」とありました。
 「舶来事物のネーミング」によると「一九〇九年版ビートン夫人の家政書」に「キャベツは酢漬けだと消化するのに四時間もかかるのが茹でると三時間半ですみ、はるかに胃にやさしい」とあり、生の千切りキャベツは20世紀に一般化したものだと思われます。
 イギリスは泥炭石炭の利用が早く、木炭中心の日本より加熱調理のコストが低いからでしょうか、何でも長時間加熱していたようです。
 時期から見ると生野菜サラダの普及は水道水の品質向上と関係が有るのかもしれません。
   
 「高正翎子」は「晴子」の旧字です。機種依存文字でした。
   
 福神漬などの話は大変興味深いですね。ここまで深くお調べなのは驚きました。凄いですね。
 漬物史も纏まったものは覚えがないのでまだまだ調べることは多くあるのでしょう、キムチ史は有るのですが……。
  
 少し漬物の話を調べると天保7年(1836)に「四季漬物鹽嘉言小田原屋主人」がありすでに商業化された有名漬物店が有るのがわかります。
 その「小田原屋主人」は明治大正時代を通じ、漬物の漬け方を書籍雑誌で指導していますが昭和5年(1930)で名前が見えなくなります。100年以上続いた名店が失われたのでしょう。
 現在の福島県の小田原屋はそちらで修行された方のお店ですでに創業80年だとか。
 「聞き書きふるさとの家庭料理 8 漬物」で奥村彪生は「四季漬物鹽嘉言」にもある「阿茶蘭漬」が福神漬の祖型となったものだとします。
 あちゃら漬けや福神漬のような塩漬けを醤油等で漬けなおした調味付けは贅沢品ですから「商品」として開発されたものも少なくはないのでしょう。
   
 たしか「砂糖の通った道《菓子から見た社会史》八百啓介」に江戸の下層民は白米のご飯に砂糖を掛けて食べていたと書かれていた記憶が有ります。少なくはない輸入砂糖が都市下層民の「嘗めもの」として消費されたようです。そりゃあ江戸煩い・脚気にもなりますなあと思えます。
 
 「チコちゃんに叱られる!」は他にも「やぶ医者」の語源や熱の伝わりかたでも「やらかし」ているようです。NHKは「幕末銃器生産事情  http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20150308/1425744598」に書きましたが面白半分で雑な検証をしています。
 
 それとご存知かもしれませんが「浮世絵に見る江戸の食卓」48ページに歌川豊国(三代)両国夕景一ツ目千金安政2年(1855)に牡丹鍋の絵が有りました。http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail111.html
  
 もう一つ、トマトソース(ピューレ)ですがカゴメの主張 http://www.kagome.co.jp/statement/health/tomato-univ/literature/debut.html、http://www.kagome.co.jp/company/about/history/1899/とは齟齬があるトマトソース史を見つけました。
 「中外商業新報 1930.9.11-1930.9.12(昭和5) 愛知県産のトマト加工品http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00493143&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA」(神戸大学附属図書館)、カゴメの創業者蟹江一太郎が「源吉」を名乗った話は有りませんし養父も甚之助とされますhttp://www.fuhounavi.com/article_c.php?a=view&id=9269、栽培開始時期も蟹江源吉の方が早いので裏のある話のでしょうか。
   
 ウスターソースやS&B エスビー食品のカレー粉の歴史と同じく、調べなおさないといけないかもしれません。

近代食文化研究会近代食文化研究会 2018/05/31 03:43 摂津さん、こんにちは。

>「マリネ系」については「漬物」状にしんなりとさせ軟らかくしたもののつもりです。基本的に調味の有無ではなく、「調理」されていない「生」の状態であるかの意味です。

私が誤解していました。申し訳ございません。

Encyclopedia of Practical Cookery1(1891)のコールスローレシピは、塩をふって最低24時間以上置くとあるので、日本で言えば浅漬けに当たりますね。将来的にはアメリカの料理書を収集して、他のコールスローレシピも確認したいところです。


>「サラモンガンディ」についてはレシピに生のように書かれていたのですが原文を読まないと確認できませんね。

The Art Of Cookery Plain Easy 1747年版は所有しているのですが、「サラモンガンディ」の英字綴りが想像もつかないので、サラダの歴史を図書館で借りて確認してみます。

>「舶来事物のネーミング」によると「一九〇九年版ビートン夫人の家政書」に「キャベツは酢漬けだと消化するのに四時間もかかるのが茹でると三時間半ですみ、はるかに胃にやさしい」とあり、生の千切りキャベツは20世紀に一般化したものだと思われます。

これは面白いです。同じ1909年度版のReform Cookery Book (4th edition)には逆に、生のほうが消化が早いとあるのです。

Raw Cabbage, for example, digests in little over an hour, while cooked it takes 3 to 4-1/2 hours.

生のキャベツは1時間あまり、加熱したキャベツは3から4.5時間消化にかかるとあります。本当かな、と思うのですが、生のほうが消化が良いという(誤った?)知識が広まりるともに、生で食べる習慣も広がったたのかなと思っていました。

ビートン夫人の家政書は1909年度版はもっていないので1907年度版を確認してみましたが、該当の記述は見つかりませんでした(見落としかもしれません)。

しかし、1861年の初版にはなかった生の赤キャベツのサラダを発見しました。やはり、19世紀半ばにはなかった生のキャベツを食べる習慣が、20世紀初めに定着したように思います。

また、コールスローのレシピもありましたが、こちらも調味料とあえてすぐ出す生のタイプでした。

>時期から見ると生野菜サラダの普及は水道水の品質向上と関係が有るのかもしれません。

たしかに。東京の場合水道水の普及と生の千切りキャベツを食べる習慣が、時期的に一致しますね。

もう一つ、肥料と寄生虫の問題がこの頃解決し、清浄な野菜を栽培できるようになっています。

日本農業史(木村茂光)によると、日露戦争の勝利により大豆粕が満州から流入、第一次世界大戦後にはさらに安価な化学肥料硫安がこれにとってかわります。

中央区史によると 第一次大戦の好況で東京の農地が住宅地に変わり、化学肥料の普及もあいまって糞尿の汲み取りが停滞、東京市は大正8年以降次第に汲み取りが有料制になっていきます。(銀座には川と橋があった 長谷川桂)

三軒茶屋というど田舎に住んでいた山本七平の家でも、昭和14,5年ごろには「汲取券」を買って処理するようになったそうです。(昭和東京ものがたり 山本七平)

もともとキャベツは結球しているので、内部まで寄生虫卵が侵入しにくい特性があるのですが、大豆粕や硫安など安価な肥料の普及で、より安全なキャベツが栽培可能になったのかもしれません。

漬物でいいますと、農民が漬物をつけるようになったのは江戸時代のいつごろだろう、という疑問が前からあります。何か、ご存知でしょうか?

なにせ、樽も塩も購入しなければなりませんし、樽を置く家屋のスペースも必要です。手前味噌や手前醤油もそうですが、相当の資産の蓄積がなければ、手を出せない領域だと思うのですが。

阿茶羅漬に関しては2日後ぐらいにtwitterで触れます。

白飯に砂糖と言えば、明治35年の東京風俗志(平出鏗二郎)には、東京の人間は味噌汁に砂糖を入れることもあるとあります。多分に誇張しているとは思いますが、幕末から大正時代頃までの江戸=東京人が甘い味好きだったのは確かなようです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992087/98

>それとご存知かもしれませんが「浮世絵に見る江戸の食卓」48ページに歌川豊国(三代)両国夕景一ツ目千金安政2年(1855)に牡丹鍋の絵が有りました

幕末日本図絵(アンベール)にも、日本絵画の模写と思われるL・クレポン画のももんじ屋の絵があります。

こちらにコピーされていますね。
http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/edo-reference16.html


話はももんじからずれてしまいますが、秘伝!NHK時代考証資料と謳った「考証要集」(大森洋平)という本に

>鍋料理 [なべりょうり】ゆめゆめ江戸時代劇で貧しい長屋の住人たちに、親睦のために 鍋料理を食べさせてはいけない。

と、江戸時代の人は鍋をつついて食べなかったいうデマが載っており、その反証のために、上の2つの絵を含めて複数人数で鍋をつついている絵を収集していたことがあります。

相撲取り4人が同じ鍋をつついている勧進大相撲八景酒盛ノ図とか
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313329
古い絵ですと安永4年の繪本世都之時
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266577/69

他にも「考証要集」の

>卓袱台 【ちゃぶだい】 明治になって出来る。時代劇では一切NG。

というデマに対し江戸時代の卓袱台の絵を集めたりしていました。

あと、前におっしゃっていたように江戸末期には鍋焼きうどんがあったのに

>鍋焼きうどん(なべやきうどん】ゆめゆめ江戸時代劇に出してはいけない。

とあったり、

>鰹(かつお] 日本人が常食するようになったのは鎌倉時代後半からという。

という一体どこから持ってきたのかわからないようなデマが載っています。これが、NHKの時代考証担当が書いた本だというのだから呆れます。

トマトソース史、今後の展開が楽しみです。

近代食文化研究会近代食文化研究会 2018/06/01 04:51 さらっと書かれているので見逃してしまいましたが。

>S&B エスビー食品のカレー粉の歴史と同じく、調べなおさないといけないかもしれません。

ええっ?カレー粉の歴史には詳しくないのですが……

settu-jpsettu-jp 2018/06/02 10:48 近代食文化研究会さん、お忙しい中コメントいただきありがとうございます。
 漬物とご飯の話盛り上がっていましたね。勉強になります。
    
 今の日本でも生の千切りキャベツを「コールスロー」と呼ぶ場合も有ります。英語でも区別されているのかはよくわかりません。
 個人的には前記の通り日本の生の千切りキャベツはアメリカ系の可能性が高いとは「思っています」が イギリスの方が早い可能性は否定できません。この先の調査、楽しみにしています。
 個人的な考えとしてはザワークラウトタイプは馴ずし、マリネ系は押しずし、サラダは握りずしに当たるという認識です。ちらしずしなどにカッテージチーズ、稲荷ずしをサラダ菜等レタス類にくるんでもおいしいですよ。
  
 人糞堆肥問題ははアメリカ進駐軍の話で戦後まで普通だったと思っていましたが早い時期からも有ったのですね。日本農業史(木村茂光)は読みましたが覚えていませんでした。
 ただ、寄生虫卵は乾燥状態での風での移動、空気感染も有るはずなので、結球キャベツは兎も角 、戦後の清浄野菜まではリスクはあったといえるでしょうね。

>漬物でいいますと、農民が漬物をつけるようになったのは江戸時代のいつごろだろう、という疑問が前からあります。何か、ご存知でしょうか?
 
 これは難問で、知っている限り同時代の文献史料はありません。
 ナショナリストの小泉武夫でも「漬け物大全」では「日本の漬け物が記録上最初に現れるのは天平年間(七二九〜七四九)の木簡で、そこにはウリや青菜などの塩漬けの事が記載されている」と都市圏の史料から始め、「室町期」に「香の物」の表記が「南嶺遺稿」「四方の硯」「庭訓往来」にあるとだけしか書けず江戸以前の農民の漬物は示せません。
 
 より過激なものだと、佐々木道雄は「キムチの文化史」84ページから「江戸前期の農民は、漬物を食していなかったとみられる」とし、「塩、味噌」のみで「ご飯」を食べていたとし、成蹊大学民俗研究所編「日本の食文化(1990)」では「(1870年頃)」「一年を通じてほとんど味噌の味をもってし、漬物を使うことはなかった」と書きます。
   
 ですが個人的には漬物は稲作と共に移入され広く伝来していたと考えます。
 「斉民要術」にも多くの漬物は見られ、米などのご飯を塩分無しで食べることは難しいと認識しています。そして文化人類学の成果や栄養学の理解では野菜類がない稲作文明は考えにくいです。子孫が残るだけの野菜と塩の摂取は有ったといえます。
  
 「日本食生活史 渡辺実」の137ページに14世紀の「高山寺縁起」の「街道沿いの小売店」でも「菜園が見られる」とし野菜は自家消費レベルではあったといえます。
 もちろん山菜や野草も食されていたはずで、端境期も有るでしょうから、多くとれた野菜を塩漬にしたものは有ったはずです。当時は農民レベルでは野獣食や果実・堅果も食されていたとされていますが文献資料はあまりありません。当たり前のことは書き残されないものです。
 ウリや大根・蕪、葱・韮が栽培され、塩が有るのに漬物がないとは考えにくいです。樽以前には甕や壺など須恵器からの焼き締め陶器も有りました。近年備前の大甕での酒造を再開した蔵も有ります。
    
 甕や壺は土に埋めて用いることも出来ます。蓋をすればスペースはとれます、朝鮮半島でも壺漬けは多くあります。
 大豆の栽培が増えたとされる鎌倉時代以前は塩だけ食事をしていたとは考えられません。煮炊きの燃料のコストも高いはずです。
 漬物の存在が延喜式などの献上品や商品だけだったとするのは無理があるでしょう。山菜や野草・果実でも塩蔵していた可能性は高いと思います。
   
 可能性があるのは江戸初期には成立していたとされる農書「清良記」で、漬物の例があるとされますが改稿の可能性がある写本らしく同時代史料かはわかりません。後は「農事全書」辺りでしょうか、「日本農書全集」に農書がまとめられているはずですがいずれも実物を見たことはありません。
  
 関係するものとしては野菜史概論だと青葉高「野菜の日本史」各論だと「日本の野菜文化史事典」。
 近世農村史だと深谷克己、渡辺尚志、田中圭一、筑波常治などがおられます。
 後は町村史レベルの証文などの古文書、「藩」大名家や代官などの文献をこまめに探せば……。
  
 自衛隊たくあんの缶詰や胡瓜のキューちゃんなどの現代の加熱漬物の技術は
「ダイコンの予備加熱による硬化現象機構について 真部孝明 https://www.jstage.jst.go.jp/article/nskkk1962/27/5/27_5_234/_pdf」
「野菜の硬化とその機構 香西みどり https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1995/35/4/35_387/_pdf」
「野菜の加熱による軟化速度と硬化速度 香西みどり https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1995/30/1/30_62/_pdf」
の応用でしょうか。
  
 「考証要集」は読みましたが自信満々な割にゆるい本でした。NHKでも水戸コルト「幕末銃器生産事情」は磯田道史先生が悪いとは思います。
 「卓袱台」は江戸時代からあったのですか、知りませんでした。名前は違うのでしょうか。鰹食は縄文時代から有ったような……。
    
 それと「戦前のお好み焼き」に中国からの鶏卵輸入についてお書きでしたが、「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 中外商業新報 1924.8.20 (大正13)三井大倉日東三社提携して支那卵の輸入http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10063784&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA」には「天津卵」「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 神戸新聞 1926.9.7-1926.9.16 (大正15)輸入支那卵 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10064622&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA」には「支那卵が一名上海卵と呼ばれる」とあります。
    
 「芙蓉蟹」を麺やご飯に乗せる「天津麺・丼・飯」とは「中国卵料理」の事ではないでしょうか、貝類の丼や炊き込みご飯を「深川丼・飯」といい、産地ではなく集積地の栗「天津甘栗」が有るように、大正期に「芙蓉蟹」を俗称通称で中国卵集積輸出地の「天津」と呼んだのだと考えます。
 中国に「天津丼・飯」がなく天津料理でないことから見て、ほぼ間違いないと思います。
 来々軒や大正軒より古い「食行脚東京の巻」大正14年の「天津麺(かにたまごそば)」との時代的整合性も有ります。
 
 カゴメはより古い史料としては「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 大阪朝日新聞 1916.10.1 (大正5) 知多郡で出来るトマトソース 一箇年に四合瓶が十万本 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00209609&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA」が有りここでは蟹江市太郎氏は「日清戦役後に入営中トマトソースの味を覚え」としカゴメにあるトマトの栽培を始めたとは異なります。より古いものですからこちらの方が確からしいでしょう。
 愛知県のトマトソースの開発者は蟹江源吉か蟹江市太郎かは確証が有りません。年長の源吉が「手柄を横取り」した可能性も有ります。
 トマト栽培は戦後に蟹江市太郎が先輩の成果を自分の実績に取り込んだのでしょう、成功した年寄りにはよくある話です。
 
 いずれにしろ大正5年段階で愛知県では「愛知トマトソース合資会社(カゴメ)」以外にもトマトソース生産者が3軒あり、最大手で4合瓶(720ml)で年間10万本を超えるトマトソースが作られケチャップも含めれば相当な量が流通していたといえます。他の産地や輸入品もありますから大量の既製品のトマトソース類が有ったのは間違いありません。
 これはおそらく業務用が多かったはずでしょうから、安い洋食店・チャブ屋では既製品が使われていたと考えられます。上記記事には昭和5年には合わせて80万箱(容量本数は不明)にもなります。
 上の中国卵の輸入増大の時期とも重なりますからこの流れで「オムライス」が出来たというシナリオも妥当性があるでしょう。トマトソース(ピューレ)よりコントロールのしやすいケチャップに向かうのも当然かもしれません。
   
 保温ジャーも無い時代、冷や飯を使える中華の炒飯の技術は安い洋食店には有用な技術だったのでしょうから炒めご飯のチキンライスやピラフが有ったと思われます。「略式」の洋食が作られたはずです。炒めナポリタンにもつながるはずです。
 ただこのシナリオにはまだ証拠が不足はしています。これを否定するものであっても、何か見つけられたら教えていただければ有りがたいです。
  
 「S&Bカレー粉の歴史 http://www.sbcurry.com/history/currypowder/」で「1923(大正12)年に、国産初のカレー粉の製造に成功したS&B」とし、それに対し「ハチ食品の歴史 http://www.hachi-online.net/history.html」では「1905年(明治38年)、日本で初めて国産カレー粉を製造し」としますが「新製造 水野正義 丸川書籍店 明23.11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847706/73?viewMode=」には「「カレー」粉製造篇」がすでにあります。
 もちろん「S&Bカレー粉」はもともと「C&B(クロス&ブラックウェル)カレー粉」の類似商品です。

近代食文化研究会近代食文化研究会 2018/06/09 05:30 摂津さん、こんにちは


そろそろ次作の執筆準備に入っておりましてレス遅延申し訳ございません。

素麺ですが、比較的品揃えが豊富な成城石井でも、あまり種類はありませんでした。

そういえばお中元でもないかぎり素麺を食べたことはあまりなく、子供の頃から食べ慣れていたのはひやむぎでした。東京と素麺発祥の地関西では文化がちがうのでしょうか。

サラダの歴史のサラモンガンティ、結局わからずじまいでした。The Art Of Cookery Plain Easy の目次は読みましたが、似たような文言は出ておらず、あとは本文中に紛れ込んでいる可能性もありますが、すべて読むのは骨が折れるのでお手上げです。

>個人的な考えとしてはザワークラウトタイプは馴ずし、マリネ系は押しずし、サラダは握りずしに当たるという認識です。

それは言い得て妙ですね。確かにザワークラウトとふなずしは乳酸菌発酵です。

本来の糠漬けの沢庵も乳酸菌発酵でして、液体(ヨーグルト、日本酒)の乳酸菌発酵とちがってこれら個体の乳酸菌発酵が難しい点は、空気に触れさせると腐敗菌が繁殖しやすいという点なんです。

ザワークラウトは自家製を試したことがありますが、上に外葉をかぶせてぎゅうぎゅう押して、水が出るのを待って空気を遮断します。沢庵も似たような感じで、水が上がってくるまで重石を乗せます。

ふなずしも、「すしの本」「再考ふなずしの歴史」などを読むと、樽の上に水を張ったり、樽ごと水につけたりして空気の遮断に苦労するようです。

乳酸菌発酵の生馴れ寿司も同様でして、和歌山から鯖のナレズシ(実際は生なれで、ご飯も食べます)を取り寄せたことがあるのですが、羊羹みたいにご飯粒が潰れていました。空気を抜くためですね。おかげで、食べごたえがありました。

その名残で、戦前までの握り寿司も固く握ってたんです。江戸時代の握り寿司の絵を見ると山のように積んだり、楊枝で刺して食べていますが、あれは固く握っているからできるのです。なれずし時代の名残ですね。

>ちらしずしなどにカッテージチーズ、稲荷ずしをサラダ菜等レタス類にくるんでもおいしいですよ。

え… ちらし寿司にチーズはタコライスの例もあるので想像できますが、いなり寿司をレタスで包んで食べるのですか。

>ただ、寄生虫卵は乾燥状態での風での移動、空気感染も有るはずなので

うわーそれは嫌な話を聞いてしまいました。北海道の馬糞風なみに嫌な話です。


江戸時代の農民の漬物に関していろいろ教えていただきありがとうございます。漬物と日本人(小川敏男)によると室町時代に塩田が発達してから漬物が盛んになったそうですが、農民まで普及したのがいつかは書かれていません。

壺という可能性は全く頭にありませんでした。確かに、樽以前の漬物は壺で漬けていましたね。

ただ不思議なのは、鹿児島など一部地域をのぞいて、壺漬けの漬物が見当たらないことです。樽の漬物に代替され消えてしまったのかもしれませんが、それにしても残らなすぎだなあと思います。

中国韓国の漬物は樽漬けではなく壺漬けですが、小川浩によると、高度な防水性を持った樽の技術は、中国にはないとのことです(桶と樽 小泉和子 所収)。

以前杉の香りと日本酒について話されていたかと思いますが、日本酒の場合必ず新品の樽を使います。中古の樽は回収され再利用されますが、その中古の樽が農村に出回ったのではないかと推測しています。

酒樽の数は、江戸に送られた下り酒だけで寛政2年で72万樽、文化14年に100万樽(江戸の食生活 原田信男)。樽はメンテナンスすれば長持ちするので、これらの樽は蓄積していきます。

塩の日本史(廣山堯道)によると江戸時代中期から製塩業は過剰生産に悩まされ、藩をこえたカルテルで生産調整をしていたとか。

佐々木道雄の「江戸前期の農民は、漬物を食していなかったとみられる」は大げさだとしても、それまで壺で小規模に漬けていたものが、江戸中期以降樽と塩の価格低下に伴い大規模に普及した、のかもしれません。

青葉高は読んでいるのですが、

>近世農村史だと深谷克己、渡辺尚志、田中圭一、筑波常治などがおられます。
 後は町村史レベルの証文などの古文書、「藩」大名家や代官などの文献をこまめに探せば……。

ここまで読むとかなり時間がかかりそうなので……
せっかくご紹介いただいたのに申し訳ございません。

>自衛隊たくあんの缶詰や胡瓜のキューちゃんなどの現代の加熱漬物の技術は

自衛隊は謎ですねえ。twitterに燻製の沢庵をつかっている、とのコメントがありました。確かに低温の温燻であらかじめ芯まで殺菌しておいて、缶詰の加熱は短時間にする、という可能性がありますが、裏の取れない情報なので。

>「卓袱台」は江戸時代からあったのですか、知りませんでした。名前は違うのでしょうか。

https://www.syokubunka.or.jp/gallery/nishikie/
直リンクできないのですが、味の素浮世絵ギャラリーにも
・〔ふきや〕町 市村座大入り あたり振舞 楽屋之圖
・花あやめ五人揃
・一陽新玉宴
・やつしげんじ 雨夜のしな定め

など、いくつか卓袱台風の円形テーブルが登場します。描かれている場所は楽屋や遊里なので、いずれもおそらく台の物(デリバリー)と思われます。名前は、わかりません。

食卓文明論(石毛直道)によると、富山の一部や幕末の長崎の市部といった特定地域、僧坊や遊女の食事もテーブルで行われていたようです。

>鰹食は縄文時代から有ったような……。

鰹の歴史の本については「鰹節」(宮下章)一択なのですが、古くから天皇家そして宮中で、海の魚としては例外的に珍重されてきました。

中世の鰹については徒然草第119段ぐらいしか資料がないのですが
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure100_149/turedure119.htm

>鰹(かつお] 日本人が常食するようになったのは鎌倉時代後半からという。

という考証要集の内容とは全く違います。一体どこから出てきたデマなのか見当がつきません。

ちなみに徒然草の、最近高貴な人間も食べるようになった、というのは間違いで、実際には古くから宮中で珍重されていました。吉田兼好は、江戸時代から既にこの点について批判を受けています。

宮下章さんによると、吉田兼好のいう鰹は魚のことではなく、「武士階級」の隠語ではないかとのことですが、面白い説だと思います。

>大正期に「芙蓉蟹」を俗称通称で中国卵集積輸出地の「天津」と呼んだのだと考えます。

それは思いもよりませんでした。戦前は中国産の牛を青島牛(せいとうぎゅう)といいましたが、それは日本領青島(ちんたお)に集積して検疫の上輸出していたからですし、卵=天津=天津丼は非常に説得力がありますね!これは面白い。

>トマト栽培は戦後に蟹江市太郎が先輩の成果を自分の実績に取り込んだのでしょう、成功した年寄りにはよくある話です。

なるほど。たしかによくある話です。

>いずれにしろ大正5年段階で

これほど普及していたとは思いませんでした。

>上の中国卵の輸入増大の時期とも重なりますからこの流れで「オムライス」が出来たというシナリオも妥当性があるでしょう。

>「略式」の洋食が作られたはずです。炒めナポリタンにもつながるはずです。

なるほど。トマトソースがそれほど普及していたならば、日本で生まれた可能性もありますね。

残念ながら、今の所オムライス、ナポリタンともに非常にマイナーなメニューで、出現例がほとんどありません。今後も注意して、発見したら報告させていただきます。

>S&Bカレー粉

私もおかしいとは思っていたのです。

twitterのほうで洋食の大衆化について書きましたが
https://twilog.org/ksk18681912/date-180419
明治30年代には洋食の屋台や格安洋食店で安くカレーライスが食べられていました。

まさか、高い輸入カレー粉を使っているとは思えません。国産化が進んでいたとするならば納得です。

明治33年までウスターソースは普及していなかった、という明治屋の嘘に我々は長い間騙されてきました。ひょっとするとS&Bも?

settu-jpsettu-jp 2018/06/29 02:20 (操作ミスで二つ上のコメントを消してしまったので再掲2018/6/15)
  この前の拙コメント、思いついたので慌てて書いてしまいました、急かしたようになって申し訳ないです。
  
 次作は牛丼の話ですか。楽しみにしています。全く調べていないので知らない話が多いでしょうから楽しみです。
 
 こちらはほんとにのんびりでかまいません。コメントいただけるだけでうれしいです。
 拙コメントの全部のことは書いていただかなくともかまいませんよ。ご興味のある話なら「○○の話はこの次に」とかでも書いていただければ全く問題ありません。  
    
 素麺はあまり揃わないのですか、東京は実は関西と同じく「一地方」で他の地域と同じく、食文化は独自性が有りますね。北海道から九州までスーパー・百貨店、市場を見て回り、食事もしましたが何処も細かな部分では違うことが多いですね。野瀬泰申氏の研究は面白いです。
  
 NHKのラーメン話、燃えましたね。私はなぜか札幌のあとから来た中国料理人を山東人だと思い込んでいました、修正できて有りがたいです。
 変な「まぜっかえし」も出てましたが直接相手をしないのが吉ですね。
 カタカナの「シナ」は「チャイナ」と同じなので中国も容認するらしいですが、漢字の方は気分が悪いそうです。だから「東シナ海」は問題ないそうです。漢字のご本家ですから仕方ないでしょう。
   
 先日、数年ぶりに「現存する最古のラーメン店」とされる尼崎の「大貫本店 http://www.daikan-honten.com/」に行きました。独得な自家製たまご麺とスープの中華そば、黒い焼き飯をいただきました。ここのチャーシューが好きなのですが、少し味が濃いのと焼き飯の油が多いので注意です。
 浅草来々軒の創業からすぐできた店とされるので来々軒元祖説では少し無理が出ます。
  
 「日本の漬物文化 : その変遷と特色」は良くまとまっていました。勉強になります。
 福神漬けは開国幕末から、日本の戦争、消費社会の発展、戦後の栄養の改善までを描く素晴らしいエピソードでした。大変面白かったです。
   
 握りずしは明治以降の高級化と繊細化が進んだのでしょうね。高級江戸料理の衰退との関連も考えられます。
  
 酒樽の話は興味深いです。リサイクル社会での文化の変容は面白いです。日本の製鉄史も中国からの鋳鉄鍋輸入が絡むはずですが、あまり研究は進んでいません。リサイクルしやすい鉄は原型すら残らないことも多いのです。
    
 で、オムライスなのですが祖型の文献としては村井弦斎の「食堂道楽」の「米のオムレツ」が初出とされますが、これはおそらく「弦斎夫人の料理談 : 手軽実用. 第2 村井多嘉子 実業之日本社出版 明40-43 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849019/46?viewMode=」にある「御飯のオムレツも美味しいものですが、それは先ず御飯を大匙一杯ほどのバターでいためて置いて、玉子二つと牛乳一杯の中へ前の通りに混ぜて焼きます。」とあるものでしょう。
 それに対して煉瓦亭説では明治30年ごろに「まかない」として出され、明治33年ごろにメニューとして出したとします。煉瓦亭説を認める側では弦斎が煉瓦亭で食べたのだろうとします。

 この話でおかしいのは明治30年に洋食店の「まかない」で当時高価だった「玉子」が使われたという部分です。
 庶民の日常食が漬物中心だったこの時代、そんな「まかない」が出るとは考えにくいです。
 レシピを確認するために「あのメニューが生まれた店 (コロナ・ブックス)」を確認しましたが、玉子は2個以上が使われていて肉や玉葱も入っているようです。村井弦斎のレシピとは異なります。
 
 いずれにしろ手間もコストも「まかない」では考えにくいです。当たり前ですが煉瓦亭説は認められず、現在確認されている米(御飯)のオムレツの初出は「食道楽」とすべきでしょう。
 またいつかでよいですが、米のオムレツは英米メニューにも有りましたら教えていただくとありがたいです。
 他のご飯のオムレツはこちら「食通の喜ぶ豆腐と玉子の珍料理 服部七郎 坂本書店 大正15 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/917610/91?viewMode=」。
   
 で、「あのメニューが生まれた店」を久しぶりに読むと、ポテトコロッケの形を小判型にしたと称する肉屋さんや、広島のお好み焼きの重ね焼きを開発したとするご老人、三越お子様ランチやニューグランドホテルナポリタンなど言いたい放題、特に煉瓦亭……。(レストランガイドとしては面白いのですが)
 そして興味深いのは今まで木田元次郎は2代目とされ初代はその「おじ」とされていたのが、おじは開業してからは店にかかわらなかったとし、木田元次郎が初代とされていました。
 「設定」が変わったようです。いただいた資料だと最初は「親父の兄貴分」ともされますね。
  
 一応現在では明治28年に銀座で「煉瓦亭」は創業し、昭和7年に今の場所に移ったと主張しています。最初の店を「旧煉瓦亭」、昭和7年以降を「新煉瓦亭」とします。
 今まで調べた範囲では明治大正の洋食・西洋料理店の案内で「煉瓦亭」の名前を見た覚えがありません。
 例えば「明治37年西洋料理店 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801441/61?viewMode=」「明治40年西洋料理店 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763840/25?viewMode=」。
 
 確か今まで見た煉瓦亭の初出は「国文学者の池田弥三郎が『私の食物誌』(1965年、新潮社)の中で、「大カツ」と題し<食い盛りのわたしたち学生を大いに満足させた> http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/10686?page=5」で池田は昭和6年に慶應大学に入り、12年に卒業しています。おそらく新煉瓦亭でしょう。池波正太郎は池田より年下です。
 いただいた資料の「食いものずき 狩野近雄」も昭和8年です、新興の大衆洋食店に見えます。
   
 疑問なのですが「旧煉瓦亭」や「料理人木田元次郎」は実在したのでしょうか。もし実在したとして年代の根拠はあるのでしょうか。
    
 現在の松屋銀座(大正15年創業)辺りとされますが、まだ地図などは調べていません。もしあったという資料があれば教えてください。または料理人木田元次郎の存在を証明するものもあるのでしょうか、いただいた資料でも最初は創業年にぶれがあります。なぜか関東大震災のエピソードも有りません。
 もし「旧煉瓦亭」が存在したとしても、創業年や創業者、経営者なども裏が取れないと事実関係を認めがたいです。
    
 ここまでくると疑心暗鬼で戦前の新煉瓦亭が戦後の現煉瓦亭「木田家」の経営なのかかすら疑ってしまいます……。
 
 天津卵の話は確認すると「中国の食文化研究 天津編 横田文良」に戦後大正軒説でも書かれていました。厳密には自分のオリジナルの説とは言えないようです(残念)。
 
 少し細かい蘊蓄を言うと兼好法師は吉田姓ではない卜部一族だったらしく「吉田兼好」は血縁関係も遠い吉田神道の吉田兼倶のねつ造とする説があります(兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)小川剛生)。

 S&B食品は「コピー商品」からの発展なので、公式史としては無理のあるこじつけがいろいろ有るようにおもえます。
 ハチ食品も「現存する最古のカレー粉製造業者」なのかもしれません。

settu-jpsettu-jp 2018/06/29 02:28 settu-jp 2018/06/16 15:00 ×「兼好法師は吉田姓ではない卜部一族」
  ○「兼好法師は吉田家ではない卜部一族」
settu-jp 2018/06/29 01:56 お忙しそうなので中間報告を、またお暇があればコメントをいただければ有りがたいです(急ぎません)。
  
 先ずオムライスですが、村井弦斎の「食道楽http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/886115/103?viewMode=」では「第三十六 米のオムレツ は手軽にすると普通のオムレツを焼いて中へ御飯を入れて塩胡椒を振って柏餅かしわもちのように合せますがそれでは味がありません。玉子の黄身三つへ御飯を大匙二杯入れて塩胡椒を振って能よく混ぜておいて別に三つ振ぶりの白身を泡立てて加えて、バターの溶かしてあるフライ鍋へ注ついで箸はしで一面によく掻き混ぜます。下の方が狐色になった時双方から柏餅に合せるとよく出来ます。」とありこれも煉瓦亭のライスオムレツとは異なります。
  
 「食道楽」には「第二十九 ハム飯 と申すのは手軽で美味しいお料理ですが上等のハムを小さく切って玉葱も細かく切って御飯と一所に塩胡椒を振ってバターでジリジリといためたものです。その品々の分量は見計みはからいでようございます。このお料理を原語でジャンボンライスと申します。」もあり洋風炒めご飯もこのころには有ったといえます。
 「ジャンボンライス」についてもご存知でしょうか。もしあればご教示いただければありがたいです。英米の炒めご飯はどうなのでしょう。
  
 煉瓦亭についてはガイドブックや覚書では「松崎天民 銀座 昭和2」「銀座解剖図1変遷史, 石角春之助 昭和10年」「明治の銀座職人 1983(明治末から大正初期の覚書)」にも見えず、初出は「松崎天民三都喰べあるき 昭和7年9月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1111307/21?viewMode=」に見えるトンカツが美味しい店として現れます。
 「名店」や「元祖」「本家」又は「洋食の革新者」だとはされていません。
   
 しかし電話帳で見ると「職業別電話名簿. 東京・横浜 日本商工通信社 日本商工通信社 大正11 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950545/622?viewMode=」に現れ、それ以降「同 大正12年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950546/719?viewMode=」「大正14年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950548/675?viewMode=」に煉瓦亭が見えます。
 それより古いものだと東京都立図書館「東京の電話帳https://www.library.metro.tokyo.jp/search/research_guide/tokyo/telephone_directory/index.html」に「東京横浜職業別電話帳 弘益社 大正6〜7年」が有りますがネットでは読めません。「

 大正11年に銀座四(丁目)ノ一二に木田元次郎の経営する「煉瓦亭」が有ったのを確認できました。
   
 地図を見ると大変詳細なものが東京都中央区立図書館 地域資料検索に「東京亰橋区銀座附近戸別一覧図 明治35年http://www.chuo-museum.jp/webmuseum/detail.do;jsessionid=BA6964D4CFA536827E689EFAA0945BAB?fword=&stype=0&startNo=171&ftype=0&hfword=&inputkeyword=&classes=history&classes=archeology&pageNo=76」としてあります。
 家の持ち主、屋号。業種まで書かれたものです。
 こちらの銀座4丁目12には煉瓦亭はありません。
   
 続いて「東京市及接続郡部地籍地図. 上卷 東京市区調査会 大正1 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079/180?viewMode=」は少し情報量は少ないですが料亭やパン店も書かれていますが、こちらにも煉瓦亭はありません。(地図は「銀座四百年 都市空間の歴史」を参考)
   
 現時点では旧「煉瓦亭」は大正元年以降11年までに創業した可能性が考えられます。
 昭和の初めにはトンカツで有名な店になり、現在の銀座三丁目に移転したものだと考えられるでしょう。
 多くの「洋食」の発明の時期とは整合性のない可能性があります。
   
 それと「札幌のラーメン店」ですが竹屋食堂が「最初の店」だというのは妥当でしょうが、そこから戦後の「札幌ラーメン」まで直接つながるのでしょうか、昭和初期や戦後闇市に東京から屋台系ラーメンが別に入ってきて、そちらから現在の札幌ラーメンになる、という線は無いのでしょうか。戦前の札幌のラーメン事情が気になります。

近代食文化研究会近代食文化研究会 2018/06/29 07:00 摂津さん、ご無沙汰しております。

いろいろとありまして20日もあけてしまいました。

とりあえず、煉瓦亭に関してのみレスさせていただきます。

こちらの手持ちの煉瓦亭に関する証言をスプレッドシートにまとめてみました。
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1EMTGuaw2aCkJf7wAa5pm2b7xYQ9wtpGJANMekF5ZSLw/edit#gid=0

例によってしばらくしたら非公開にしますので、申し訳ありませんがダウンロードしてください。

まとめますと
・大正時代の煉瓦亭に関する証言は私のほうではみつけていません
・昭和のはじめに「大きいとんかつ」で有名になりました
・本店は4丁目三越裏にありました
・支店は3丁目に息子(孝一?)が出店→これが現在の煉瓦亭
・支店の初出は昭和8年の大東京うまいもの食べ歩き
・何かを発明した、というのはこの一覧にはありません。ただ、大きなとんかつが有名なだけの店だったようです

近代食文化研究会近代食文化研究会 2018/06/29 07:29 追記です
・池波正太郎の証言はいろいろあるのですが、これといった情報がないので割愛してあります
・角田猛の「東京の味」に、震災後に蓬莱軒やぽんち軒とともに「のしてきた」とあるので、大正時代末にあったことは確からしいです

電話帳や地図は盲点でした。これは東京在住の私のほうが情報にアクセスしやすいですね。いずれおちつきましたら・・・

近代食文化研究会近代食文化研究会 2018/06/30 02:21 追記です

>「現存する最古のラーメン店」とされる尼崎の「大貫本店」

そんな店があるのですね。横浜だと明治17年創立の聘珍樓が最も古く、かつては柳麺(ラーメン)を出していたという未確認情報があるのですが、こちらは今はラーメン店とはいえませんね。

関西といえば神戸にも中華街がありますが、神戸発祥の中華料理というのをあまり聞かないのが不思議です。

陳舜臣とか神戸出身者の自伝は重点的に読むようにしているのですが、ただでさえ少ない横浜中華街の情報よりもさらに少ない、というかほとんど情報がないので、戦前の神戸中華街はまるでブラックポックスです。

>庶民の日常食が漬物中心だったこの時代、そんな「まかない」が出るとは考えにくいです。

たいめいけんよもやま噺(茂出木心護)によると、昭和元年から奉公していた洋食屋泰明軒のまかないは、

・朝は味噌汁と前日の冷や飯
・昼はおかず1品と飯
・夜は漬物と飯

と完全に和食だったそうです。

同じ著者の「洋食や」によるとカツレツが食べられるのは旦那の誕生日だけだったそうです。

煉瓦亭はとびきり従業員を大切にする店だったのでしょう(棒)


>またいつかでよいですが、米のオムレツは英米メニューにも有りましたら教えていただくとありがたいです。

まったくの盲点でした。ちょっと検索しただけでrice omeletがたくさん出てきます。

1849年のA Handbook of Foreign Cookery 玉子にライスを混ぜてオーブンで焼く

1883年のCassell's Dictionary of Cookery 玉子にライスを混ぜてオーブンで焼く

1885年のMiss Corson's Practical American Cookery and Household Management 玉子にライスを混ぜてオーブンで焼く

1887年The White House Cook Book玉子にライスを混ぜてフライパンで焼く

1893年のEvery-day Helps玉子にライスを混ぜてオーブンで焼く

このほかの料理書にもありますが、いずれ整理します

現在の印象だとイギリス料理ではなくアメリカ料理のようです。私はイギリスの料理書しか読まないので、どうりでしらなかったわけです。

これで、煉瓦亭の主張は完全消滅ですね。

オムレツでライスを包む方式のオムライスについても、調査してみます。

settu-jpsettu-jp 2018/07/04 01:20 近代食文化研究会さん、お忙しい中コメントありがとうございます。
 
 鰻丼の話、興味深いです。
 大昔、四万十川の上流に天然鰻を食べに行ったことがあるのですが、やはり150〜180グラムぐらいの小さなもので、鰻2尾と同じく天然鮎1尾(塩焼き)で5千円程度だったと思います。脂が軽く上品な割に味が濃く、地焼きなのに柔らかで美味しいものでした。
 別の機会に市場で500グラムぐらいの天然大鰻を見ましたが、皮が硬く食べにくかったそうです。これは地焼きではなく、蒸しにかける必要があるでしょうね。
   
 牛丼の話も、モツ煮込み(大坂でいうホルモン焼又は煮)や朝鮮牛、青島牛の話も出てくるのでしょうね。
 「どんぶり」の語源にも近づけたのでしょうか、サイズの変化、くらわんか碗との関係等、楽しみにしています。

 日常用の割りばしは手作業の時期は竹の物が先行していた可能性も有るのかもしれませんね。作りやすく裂きやすい筈です。孟宗竹は江戸時代に入ってから移入されたのではなかったでしょうか。
 
 さて「食道楽」の「ジャンボンライス」のジャンボンはフランス語、ライスは英語ですね。ためしに「jambon riz」で検索すると現在のフランスでは炒めご飯のハム飯が有るようです。「Ham rice」でも見つかります。バターライスも炒めご飯も有ったようですから、洋風炒めご飯が中華からの転用だと思っていましたが修正します。
  
 フランスの「omelette riz」も調査したいところです。村井弦斎はアメリカ留学組の英語話者のはずですから、言葉の混用に見えるのはどういうことなのでしょう。料理を教わった調理人の訛りなのかもしれません。
アメリカのケチャップライスなどのケチャップ料理も多いのでしょうね、「チャプスイ」もケチャップ料理とされることもありますね。(英語版Wikipediaの「オムライス」も煉瓦亭の「情報汚染」を受けています)
 「玉子まかない」は発想が昭和っぽいので、つくり話は孝一氏の仕業だと思います。

 あと「食道楽」のhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/886120/144?viewMode=には「鶏のハイシ」がウスターソース煮で出てくるので、「ハヤシ」も、もう少し調べてみたいと[思います(煉瓦亭案件でもあります)。
  
 神戸の中華料理はあまり調査が進んでいないようです。有名店の牡丹園(本館、別館)や第一楼も戦後の店で、神仙閣や東天閣もあまり古くは無いはずです。
 最初は広東と福建が混住していたそうですが後に広東人中心になったそうです。
 しかし北京料理なども有るので料理は混沌としています。営業的な理由も有るのでしょう。

 それと明治の横浜や東京と違い、基本的に高級な本場風「中国料理」が多く、日本化した「中華料理」はあまり盛んではなかったのでしょうか。老祥記や一貫楼の「豚まん」(大坂蓬莱の豚まんも)も戦後の物だと思います。
 横浜だけではなく香港や台湾とも感覚的に近いので独自の進歩はあまりないのかもしれません。個人的に行く店も一駅東の春日野道の椿苑で香港風広東料理です(お高いですが)。
 今の神戸中華「食堂」系の安い店は台湾系の店が多いような気がします。

近代食文化研究会近代食文化研究会 2018/07/19 05:49 摂津さん、ご無沙汰しております。

その後、オムレツでライスを包む方式のオムライスについて探しているのですが、どのような検索ワードで検索してもでてきません。

やはり、アメリカの料理書を収集するところから着手しないといけないようです。

鰻問屋の知り合いに聞いたところ、天然鰻は泥臭いのでありがたがってもしょうがない、と話していました。とはいえ、四万十の清流で育った鰻ならば、臭みもなく美味しいことでしょう。

鰻の養殖は大正時代から本格化するのですが、当初は養蚕の副産物の蛹を食べさせていたので、「蛹臭い」と敬遠されたそうです。

>牛丼の話も、モツ煮込み(大坂でいうホルモン焼又は煮)や朝鮮牛、青島牛の話も出てくるのでしょうね。

はい。ところで、戦前の大阪の内臓食って、被差別部落を除けば「どて焼き」しか資料に出てこないのですが、戦前の(どて焼き、被差別部落以外の)大阪あるいは関西の内臓食って何かご存知でしょうか?


>「どんぶり」の語源にも近づけたのでしょうか、サイズの変化、くらわんか碗との関係等、楽しみにしています。

丼という食器は多角形の形状が多いので、八角形の食器を上から見ると「井」の字に見え、その中心に料理をぽつんと置くと「丼」になるのかな、と思いましたが、実際の丼はどうも六角形が多いようなのでボツです。

くらわんか碗は、よくわかりません。ここらへんは考古学の範疇ですが、私が元ネタにしている神崎宣武や寺島孝一の本にくらわんか碗が出てこないので、お手上げです。


>日常用の割りばしは手作業の時期は竹の物が先行していた可能性も有るのかもしれませんね。作りやすく裂きやすい筈です。孟宗竹は江戸時代に入ってから移入されたのではなかったでしょうか。

たしかにそうですね。竹ではなく杉というあたりに、割箸の儀式性を感じます。祝箸も杉が使われますし。

孟宗竹は江戸時代後期ですね。京都では1000年前から孟宗竹があると主張する人がいるようですが、ガセでしょう。

>「玉子まかない」は発想が昭和っぽいので、つくり話は孝一氏の仕業だと思います。

オムライスをはじめ、トンカツと付け合せキャベツ以外は全て孝一氏の創作だと考えています。


>あと「食道楽」のhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/886120/144?viewMode=には「鶏のハイシ」がウスターソース煮で出てくるので、「ハヤシ」も、もう少し調べてみたいと[思います(煉瓦亭案件でもあります)。

これは19世紀イギリスのhashed beefを調べる必要があると考えています。現在の英米のhashはコンビーフとじゃがいもの炒めものですが、19世紀イギリスのhashed beefはハヤシカレーのルーに似ています。

軽便西洋料理法指南のハヤシビフは、当時のイギリスのhashed beefによく似ています。パンの揚げ物(sippet)をかけるあたりが紛れもないイギリス風です。ただ、イギリスにはない「スチウのソース」が曲者ですが。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849016/20

>神戸の中華料理はあまり調査が進んでいないようです。
>それと明治の横浜や東京と違い、基本的に高級な本場風「中国料理」が多く、日本化した「中華料理」はあまり盛んではなかったのでしょうか。老祥記や一貫楼の「豚まん」(大坂蓬莱の豚まんも)も戦後の物だと思います。

うーむやはりわかりませんか。

「お好み焼きの戦前史」に書きましたが、戦前の支那料理は東京で発達する一方で大阪京都はいまいちでした。これは、豚肉の供給が一つの原因だと考えています。

昭和3年5月号の雑誌食道楽に、大正15年の東京の一人あたり年消費量594匁に対し、大阪では39匁とあります。

東は豚肉、西は牛肉というのは大正時代からあったようです。豚肉への不慣れが、神戸の中華料理が関西の日本人に広まらなかった原因かもしれません。

settu-jpsettu-jp 2018/07/26 02:44 近代食文化研究会さん、新作楽しみにしていますが暑いなかあまり根を詰めすぎないでください。
 うちはパソコンが絶不調でインターネットが10日ほどつながりませんでした……。
  
 田楽、おでんの分類はも勉強になりました。
 カウンターの握りずしは屋台と関西割烹の影響なのでしょうか。
   
 オムレツの柏餅タイプはフランス辺りの技法なのでしょうか、スペインも卵液を流しておいてから焼いて固めるタイプですね。
 ライス・米を使うオムレツだとイタリアかスペイン、もしかするとトルコやギリシャにも有るのかもしれませんね。
   
 蚕の蛹を使うのは鯉も有ったように思います。韓国などでも人が食べる食用にもなったリ、日本でも今でも長野では食用で売られていますhttps://www.excite.co.jp/News/net_clm/20170222/TriviaNews_5742228.htmlhttps://www.excite.co.jp/News/net_clm/20170222/TriviaNews_5742228.html。
 イナゴほどは美味しくはないようですが「蛹臭い」は好き嫌いの範疇かもしれません(個人的には養殖魚のえさに昆虫を用いるのは将来には普通になると考えています)。
 いろいろ本も出ていますので気が向かれれば日本の近現代昆虫食も将来的には調べてみてください(笑)。
    
 関西の牛内臓食は土手焼きなどの味噌煮の他だと背脂や小腸とそれについてくる脂で揚げ、ヘットをとった残りを「あぶらかす」「いりかす」や「煮凝り」やミノのすき焼きも有るようです。戦前に合ったかははっきりとした資料は知りません https://teppay.wordpress.com/2014/10/27/%E3%80%8C%E8%B7%AF%E5%9C%B0%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%A3%9F%E3%81%B9%E7%89%A9/。

 「屠場文化―語られなかった世界」ではその他にも「耳株」「ウラシマ」「ツラミ」「舌」「センマイのゆでもん」「肺」「コマ炊き」「レバーの付け焼き」「心臓のすき焼き」も近年の聞き書きとして書かれますが戦前についてははっきりわかりません。
  
 「台所用具の近代史 古島敏雄」によるとP99明治20年第四次農商統計表で当時日常磁器の最大の産地で有る岐阜では最も安い茶碗で2厘1毛、平均で3厘2毛で2445万個が作られ、それに対し丼は10倍近い2銭9厘で26万670個が作られたと推計します。
 価格の差は丼は業務用で絵付け等に違いが有ったのかもしれません。「丼に蓋が付き物」だったという事はあるのでしょうか、わかりません。
  
 四半世紀ほど前に骨董屋と付き合いが有り、旧家の膳の揃いものを見せてもらったりした事も有りましたが大正以前、明治期や江戸末の茶碗や酒器は現在の物より小さく、今の日本料理店では「使い物にならない」と感じたことを覚えています。
 大正後期から昭和中期まではデザインが「ダサい」とも感じました。今の器はセンスが良いですよ。魯山人も前期中期は良いです。
  
 同書P89明治7年府県物産表ではしの類の生産量として杉はし4000万膳、竹はし949万膳、塗りはし765万膳、檜はし370万膳、一位はしと石南はし2万膳、榊はし1万3000膳とします。
 杉の白木のはしが多くつかわれていたように見えます。割りばしは別にも書かれているのでバラの白木のはしであったようにも読めます。飲食店では割りばし以前には使われていたのかもしれません。(使いまわしが有った可能性も)
 割りばしやそれ以前の外食のはしはわかりにくい部分がありますね。
   
 「ハヤシライス」は珍説が多いので困りものですが、hashed beefと日本ライスカレーの融合だと考えるのが比較的妥当性が高いようだと思います。「発明者」が特定できるかはわかりません。
   
 神戸の南京町は中国人集住地というより「食品市場」に近い物だったようです、「神戸物語 陳舜臣」「神戸の花街盛り場考」などにありました。
 比較的豊かな華僑が多く、神戸では「華人街」の様なものは出来ず、広く分かれて住んでいたようです。一方では団結力も有ったとされます。
 差別も有りましたが比較的高い華僑の地位も中華料理の日本化が進まなかった理由かもしれません。
  
 戦前の神戸の中華はご存知「三都喰べある記 松崎天民 誠文堂 昭和7」http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1111307/74?viewMode=が最もわかりやすいでしょうか。
 現在はJR神戸の東、三宮が盛り場ですが戦前は新開地、花隈、元町位までが盛り場で南京町や旧居留地、異人館(北野)は少し外れます。
 旧川口居留地については書かれていませんね。もう少し調べてはみます。
 
 一例としては「神戸と華僑 この150年の歩み」によると戦後の神戸華僑の大物、陳徳仁の父、陳達文が宝塚で1924年まで広東料理店を経営し、1924年に浅草に移転、しかし一年で神戸に戻り、1931年ごろに南京町に広東料理店「博愛酒家」を開業、40年代まで繁盛とありました。宝塚での開業は阪急電車との関連でしょうか。
  
 町中華(大衆日本中華)は基本的に関東で発展したものでしょうか。戦前の豚肉は品質にばらつきがあったと認識しています、関西の豚肉受容も調べてみます。

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