俺が「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」を一ヶ月あまりで11回見た件に関する考察

なんか気づいたら11回見てたりして、いつの間に私はリピーターになっていたの?みたいな。
まあネット上では50回以上見たなんて人もチラホラいるようなので、自分なんか特に多いってわけじゃないんですけどね。封切り前は話題になった作品の新作だしとりあえず見とくか、くらいの気持ちだったのに、一回見たらはまってしまって、三日に一度は見ないと我慢できないように調教されてたりして、俺ってこんなにまどマギ好きだったっけ?状態なんだけど、とにかくリピートしまくっているのは事実なので、その理由について、いくつかの視点からまとめておきますよ。
 

・映像的な完成度の高さ
ある評論家がドラッグムービーと評したとおり、映像的な快楽が癖になる。ナイトメア退治やマミほむ戦のガンカタ、対魔女ほむの総力戦といったバトルの絵的な密度がとんでもないことになっていて大画面で何度も繰り返し見たくなる出来映え。変身シーンとかケーキの歌とか、単にカッコ良かったり可愛かったりするだけではなく、随所に何だコレと引っかかりを覚える部分があるんだけど、何回か見ているうちに、そこを見るのが楽しみになっていくという。
また繋ぎの場面でも、何気ないような描写が先の展開の前触れや(手回しオルゴールの歯車が落ちるのが、ほむら結界崩壊の予兆となっていたり)、人物の心理を反映(ゴンドラでほむらがまどかに押し倒されるところで、使い魔が花火を持って踊っていたり)となっていて細かいところにまで演出意図が張り巡らされており、何度見ても新しい発見がある。
何通りにもアレンジされて流れる「まだダメよ♪」の曲や、変身シーンにおける流れるようなBGMの繋ぎ方等々、音楽と映像の一体感も素晴らしい。
 

・起伏と意外性の効いたストーリー
夢と希望を運ぶ魔法少女生活みたいな導入、世界の違和感を巡るミステリー、真相が明らかとなり「犯人」を救うために魔法少女に加えて過去に倒した使い魔まで動員したバトル、そして救われて大団円かとおもった瞬間に訪れるどんでん返し、と起伏と意外性のある展開のおかげで飽きがこない。同じように起伏と意外性のあるTV版を経験しているとはいえ、明るく楽しい導入から、あのオチに至る流れは何度見ても引き込まれる。
二回目以降は、ほむらと杏子の見滝原脱出行あたりでちょっとダレたりもするんだけど、あまりに勢いばっかりだと見てる側も疲れちゃうので、静かな場面を入れて中休み的な感じになっているのかも。
 

・観客の反応
上映後の観客の反応が面白い。前に座ってたカップルの女の子の方が、終わった瞬間に何コレ(困惑)みたいな声を漏らしたり、どこからともなく乾いた笑いが聞こえてきたり、小学生くらい子供を連れた家族がどうにも気まずそうな雰囲気で席を立ったりと、映画館で何回も見るからこそ体感できるものがある。竹熊健太郎は「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の同時上映を26回見たそうですが、途中から「火垂るの墓」の時は外に出て、救いのない結末にダメージを受けて出てくる観客を観察することに専念していたとかで、そういう楽しみ方の一端が理解できましたよ。
 

・ほむらの行動に対する認識の変化
これがメイン。行動とはもちろん、救済拒否から世界改変、魔なる者としての覚醒について。初回では「なにやらかしてるんだ、ちょっと待て」となるんだけど、二回目では悪魔と言うほど悪いことしてなくね?となり、三度目以降は、ほむらという人物が救われるためには、ああするより他なかったんだという結論に至るわけです。
まどかによる救済は、願いを叶えた魔法少女が、戦いの中で絶望し魔女化するのを防ぐわけだけれども、ほむらの場合、まどかが救済に来た時点では願いが叶ってないんですよね。「まどかを守る自分になりたい」が願いだったわけだけど、対象であるまどかが円環の理となって手の届かないところに行ってしまったせいで。願いを完遂するためには、まどかを一度人間に戻すしかなくて、そのためにああいう行動をとって、世界を作り変えるしかなかったんだろうなと。
そこからさらに、どうせ世界を作り変えるなら、いかにも周囲から浮いている自分みたいな感じではなく、物語前半のようにみんなと仲良し設定にすればいいのに、とか考えてしまうわけですが、そういう疑問を持ちながら見ると、ループを繰り返すなかで積み重なったほむらの罪の意識がそれを許さず、まどかからも距離を置いて孤独に見守るしかないことに気付いてしまうという。
そして思うわけですよ。彼女が、まどかを守るという一点のために全てを捨てたにも関わらず、まどか本人はおろか作中の誰からも理解されないのであれば、せめて俺が側にいて見届けてやるしかない、と。
というわけで、見れば見るほどまた見たくなるというループにはまり込んでいくという。当然のことながら何度見ようが結末自体が変わることも架空の存在に対する思いが通じることもなく、その欠落感のために更に何度も見ることになり、挙げ句にこんな文章をネットに上げてしまうわけです。
 

・その他
ほむらのまどかに対するそれと、俺のほむらに対する満たされない思いが相似形になっていることにも気付いたりして、見るたびにほむらの内面への理解が深まる作りと合わせて、良くできた構成に改めて感心。
フィルムをはじめとする来場特典は、もらえればうれしいけれども、特典が切れても見に行ってるので、自分的には特典がないからと見ない理由にはならないかな。
 

・まとめ
映像的やストーリー面での完成度の高さもあるけれど、見る度にほむらという人物に対する感情移入が深まっていくあたりが、繰り返し見る上での大きな動機となっている。
先ほど、11回目を見て来た勢いでこれを書いてみたわけですが、書き上げたそばからまた見たくなってきたりして、やっぱはまりすぎだろ俺。
 


満たされない思いは物欲で昇華

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」における暁美ほむらは悪魔というほど悪いヤツじゃないよ、という話

時間ができたんで叛逆の物語をもう一度見てきましたよ。初見では密度の高い話について行くのがやっとだったけれども、二回目ともなると、いろいろと落ち着いて見れたりもして、ほむらが救済を拒む場面とか、来るぞ来るぞ・・・キター!!みたいな感じで、話が分かっているからこその楽しみもありました。
で、落ち着いたところで思ったんだけど、ほむらって悪魔と言うほど悪いことしてないんじゃね?っていうのがありまして。まさかの救済拒否と改変後の悪の女幹部的な容姿や言動のインパクトのせいで、なんとなく納得していたものの彼女がもたらしたものをよく考えてみると。

ほむらの世界改変により、
神となったまどかの一部が引き裂かれ、人間としての彼女が存在する世界を生まれた。結界内で語られたとおり、これはまどか自身の隠された願望でもある。
円環の理により消滅するはずだったさやかも復活。なぎさも登場していたことから、魔女となって消えるはずだった他の人物たちも存在してることがうかがえる。
円環の理は機能している。悪魔化したあとのさやかとの会話で、人間だったころの記録だけ奪ったと言ってるから。(ただし、さやかが消滅していないあたり、世界の改変に合わせた変化がありそう。)
と、まど神様にもできなかったことをやってのけているわけで、結果としてはむしろほかの登場人物たちにとって幸せな世界になっているという。

にもかかわらず、ほむらが自身を悪魔と呼ぶのは、
結界を作り出した人物を捜す過程における、まどかの祈りを悪用しているヤツがいる的な発言。神像を思わせるレリーフの前であることもポイントか。
また復活後のまどかに、ルールを破って自分の願望を叶えようとすることの是非を問い、ルール破りはよくないとの答えを引き出す。それに対してほむらは、いずれ対立することになるという予言めいた返答。
とこんな感じで、結局のところ悪魔であるとする理由は、まどかの倫理観と彼女を絶対視するほむら自身の価値観に反していることしかないわけですよ。

擦れたオッサンとしては、みんなハッピーなんだから細かいこと気にするなよ、とか思ったりもするわけですが、その思春期らしい純粋さこそが世界に変革をもたらす原動力でもあるわけで、そう簡単に割り切れる物ではないという。想いの力で世界が改変できるくらいだから、たいていの問題は解決できそうなもんだけれども、想いの数だけ理想の世界があるわけで、それはそれでややこしいことになってしまいました、と。
ともかく、悪魔と呼ぶにはあまりにも純粋なほむらが、このままじゃ救われなさ過ぎるので、どうにかしてあげて欲しいですよ。まどかとほむらがお互いの想いをぶつけ合えれば、お互いが幸せになれる方法も見つかるのかもしれないけれども、片方は記憶すらないのでそれも不可能なわけで。今作でほむらが自分の作った結界の中で、まどかの隠された願望を知ったように、まずはそれを可能にする舞台作りからですかね。

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」は正しいエンタテインメント作品である(ネタバレあり)

TV版の放送終了から2年半を経て、ほむほむが更に重い愛を抱えて帰ってきましたよ。
まどかのいない世界で戦い続けた末に疲弊した彼女が救済されてめでたしめでたしで終わるのかと思いきや、そこからシリーズ全体をひっくり返す大どんでん返しに至るという驚きの結末。続編となる劇場版が発表されたときは、あれだけ綺麗に終わらせた話の続きを作っても蛇足になるだけなんじゃないかとか思いましたが、そんなありきたりな予想を見事に上回る出来映えとなっておりました。

上映開始前の関連記事では、今回は賛否両論になりそうみたいな話が関係者から漏れていたわけですが、自分として全面的に賛意を示したいところで、それはエンタテインメントとして観客を楽しませることに誠実な作品となっているから。
前半はオーソドックスな魔法少女ものっぽくキャラクターの活躍させて分かりやすい楽しさを描きつつ、中盤からそれが偽りであるとして誰が何のためにという疑念を呼び起こす方向へと傾斜。真実が明らかとなって障害が排除され、偽りの世界を作り出した人物が本当に待ち望んだ結末が訪れるのかと思いきや、救済される本人が約束された救済を拒んで自らの願望のために世界を改編して、かりそめの安息の中で新たな対立を匂わせて終わるという。観客の見たいものを見せた上で予想外の方向へと展開させることで、物語に新たな広がりがもたらされ、期待通りになる楽しさと、それを上回る驚き、そして新しい期待と、どれも高い水準で達成されたエンタテインメント作品でしたよ。特にTV版で一度完成された世界を破壊して、再び物語に広がりを持たせることはなかなかできることじゃないなと。
いくつか気になった点を挙げるとすれば、情報量が多くて咀嚼する前に話が次へと進んでることなんだけれども、これは何回も見直したくなるという意味では利点になるのかな。あとほむらが世界を改変する手法がちょっと強引だったことで、TV版でまどかが宇宙を作り替えた時はインキュベーターの語る宇宙の法則として作中で示された設定の中で世界を改変されたのに、今回では一途な愛が呼んだ奇跡ぽくて後付け感があったかなと。まあこれもまどかによって改変された世界だからこそ起こることなのかもしれませんが。
と、まあそんな感じで、気になるところも贔屓目に解釈したくなったりして、じっくりと何度でも見直したくなる作品となっておりました。BD待ちきれなくて、あと何回か劇場に見に行っちゃうかも。
 

以下余談。
パンフレットのインタビューで興味深い解釈の違いがあったので引用してみますよ。
ほむらの結界内のまどかについて、新房昭之が語った部分

今回登場するまどかは、神様になった記憶を置いてきた本物のまどかなんです。決して偽物や作り物じゃないんですね。(P14)

同じく、虚淵玄が語った部分

今回、まどかは、ほむらにねつ造されたキャラクターとして登場します。ほむらによって都合の悪い記憶を摘み取られている状態ですね。(P16)

記憶が改変されているという点では一致しているものの、総監督は「本物」と語り、脚本家は「ねつ造」と語るという真逆の発言。
キャラクターをもう一度活躍させたいと言う新房と、続編を作るつもりはなかったと言う虚淵のスタンスの違いが端的に現れているのかなぁと思うわけですが、中心となるスタッフの間でもこんな解釈の違いがあるんだから、見る人によっていろんな解釈があるのは当然なんだろうなと。この作品に限らず創作物全般に言える話として。

[雑記]アニメ版「神のみぞ知るセカイ」女神編の最終回でせつなさ炸裂

何ともせつない話でしたよ。
女神たちを目覚めさせヴィンテージの野望を阻止するという点で、大局的には大団円となっていましたが、桂馬とちひろにとっては心に傷を残すという終わり方で、結局のところ女神や地獄云々は単なる背景でしかなく、二人のすれ違いが物語の中心なっておりました。ラストのライブで、ちひろがステージの中心で歌い、他の女の子たちは周りで見ていたりバックで演奏したりで、アイドルのかのんでさえも一歩引いた場所にいたのが、それを象徴していましたよ。
ライブの途中で女神たちが羽根を広げて、ちひろとの立場の違いを明確にする演出も印象的。ちひろが特別な存在でない自分を改めて認識して涙を流すわけですが、桂馬からすれば、女神たちは目的のために攻略していただけであって、むしろ普通の女の子であるちひろを心ない言葉で傷つけたことを悔やんで、彼もまた涙を流すという。女神の件がなければ、また違った結末を迎えていたんじゃないだろうかと思えて、ヒリヒリとする余韻を残してくれました。
この作品を一期二期、そして今回の女神編と見て来たわけですが、正直なところ桂馬という人物があまり好きになれなかったんですよね。駆け魂を出すとか女神を覚醒させるとか、それなりの事情があるにせよゲーム感覚で女の子を弄んでる感じがして。まあこの作品自体、ギャルゲーをリアルでやったらみたいなパロディ的な面もあるので野暮なツッコミだとは思うんですが。
でも今回の結末で桂馬が、女の子の攻略を成功させるハッピーエンドだけでなく、攻略を優先するあまり取り返しのつかないバッドエンドを迎えたことで、キャラクターとして大きく掘り下げられたんじゃないかなと。屋上で一人後悔する姿を見て、少し彼のことが好きになれそうな気がしましたよ。

「風立ちぬ」が宮崎駿の私小説だった件

まあ零戦の設計者である堀越二郎という人物が主人公ということで、もちろん宮崎監督自身が出てくるわけじゃないんだけど、主人公に共感し自身を重ねていることが端々にうかがえるという意味において。
例えば、何度か繰り返される「飛行機が兵器となるのは分かっているけど、美しいものを作りたいだけなんだ」という意味のセリフ。ミリタリーマニアでありながら平和を訴える監督自身の姿勢が反映されているようでしたよ。また、震災や不況近づく戦争の気配といった現在にも似た状況で、主人公がひたすら飛行機の設計に没頭するあたりもしかりで、ひたすらアニメを作り続けてきた監督の姿が重なって見えました。主人公が会ったこともない異国の設計者と夢の中で語り合うくだりは、監督が「雪の女王」や「やぶにらみの暴君」に感銘を受けたことを反映しているんでしょうか。
まあ共感して自分を重ねるのはいいんですけどね。飛行機を設計する覚悟を決めた結果が語られるだけで、そこに至るまでの葛藤が描かれるわけじゃないのでドラマ性に乏しかった印象。震災や戦争の気配といった時代、そして病身の恋人でさえ、飛行機作りにすべてをかける主人公の脇をただ通り過ぎていく背景のようで不気味な感じすら受けました。
老境を迎えた宮崎監督が自身を振り返り、堀越二郎という人物に重ねた結果がこれで、そういう意味では作家性が強く出ているのかもしれませんが、娯楽性を犠牲にしてまでそういうものを見せられてもなぁという。
庵野秀明が担当した主人公の声はCMで何度か聞いていたけど、やっぱり年齢不詳な印象。宮崎監督が特番で「主人公は戦前のインテリで、彼らは何を考えてるのかよく分からないしゃべり方をしていた」みたいなことを言っていたので、狙い通りなんだと思いますが、この映画の不気味さにも一役買っている感じ。
自身から逃げ惑う人々や街の喧噪といった、何十人もの人々が動き回る画面は見応えがあり。今時、この密度の作画を手描きで見せてくれるはジブリ作品くらいなもんだろうなと。主人公とヒロインが逢瀬を重ねる場面での漫画映画的な動きは、淡々とした雰囲気の作品の方向性からちょっと浮いているように思いました。

俺がガハマさんこと「俺ガイル」の由比ヶ浜結衣を好きすぎる問題。 ――オッサンになったオタクとキャラ萌えについて――

一昔前なら萌え、ちょっと前ならブヒるとでも言っとけばいい話で、改めて書くほどのことじゃないのかもしれないけど、個人的には久しぶりに大きく気持ちが揺り動かされたりして、オタクとしての自分の今後のあり方について考えが大きく変わるほど出来事なので、とりあえず文章としてまとめておきますよと。
まあ自分オタクの端くれとして、これまでもそれなりにキャラ萌えとかして来たわけなんですよね。ときメモの片桐さんだったり、To Heartのマルチだったりと、って例が古くて既に知らない人もいるんだろうけど、やっぱり自分の中では別格なので。
この二人のあとにも、ハマったキャラクターというのもいろいろいるんですが、その子のことを考えるだけで一日潰せるレベルになるとちょっと出てこない。特に30歳を過ぎてからはハマること自体なくなってきて、まあ架空の存在とはいえ、下手すりゃ親子ほど歳が離れてる相手に萌えとかいうのは難しくなってきてるのかなぁとか、こうしてあとはオタクとして緩やかに死んでいくのかなぁ、などと漠然と考えていたわけですよ。
でも。久しぶりに来てるんですよね。架空の存在に夢中になるあの高揚感が。ヒマさえあればその子のことを考えてるという。
ガハマさんの何がいいって、アホで真っ直ぐで、それでいてこちらの駄目なところを含めて全部受け入れてくれそうな包容力があるところなわけで、主人公である八幡のダメなところも受け入れた上で好きでいてくれる包容力は、この歳になると沁みるものがありますよ。こう、仕事で失敗したとかいう話をして、ただ側にいていつも通りに接してくれる感じ。変わらないといえば原作7巻の冒頭、悪意に晒されて凹んでる八幡にいつものようにそっと声をかけるところとか、さりげないガハマさんの優しさが描かれていて名場面集のベスト3に入るレベル。他の二つはハニトーの時の「こっちから行くの」とか、文実で八幡の尻を叩きながら書類を書かせるところ(なんでアニメでカットしたし)とか、新幹線で寝てる八幡の横にいつの間にか座ってるところとか、その後のボディタッチとか、お化け屋敷で手をさしのべられて驚いちゃうところとか。いやはじめから三つ絞るとか無理でしたな。とにかくたくさんあって原作に付箋貼り付けて寝る前に読み返してニヤニヤするまである、と。
なんかもう自分で読み直してみてもけっこうキモイわけですが、とにかくこうやって表に出したくて仕方がない状態で、ああ昔ハマった時もこんな感じだったなぁと、自分の中に架空の存在に対するこの手の感情が、未だに残っていたことに自分自身で驚いております。
ここら辺、主人公が八幡という人物の卑屈でヒネてていろんなことを諦めているくせに、それでいて妙な行動力があるキャラクターであり、だからこそ彼に惚れるガハマさんも魅力的な人物となっているんだろう、とも思うわけですが、今回の趣旨から外れそうなので詳しくはまた別の機会に。
結局のところ、年齢を重ねたからとかではなく、優れた作品と出会えるかどうかという問題なんだろうなと。これからも良い作品に出会うためにアンテナを広くとっていきたいところです。
 
というわけで今日はまだ6月18日。ガハマさん誕生日おめでとう。

「はたらく魔王さま!」EDのマネキンの意味をいろいろと妄想してみる


6話目にしてようやくEDも完成ですかね。
ほぼちーちゃんの一人舞台となっていて、いろいろなシチュエーションでコスプレをするといった趣向になっているわけですが、全体的に憂いを帯びた映像となっているのが印象的。とりわけ真奥たちエンテ・イスラ関係者の衣装を着たマネキンを、ちーちゃんが眺める最後のカットは、地味ながらも意味深な画面となっていておりました。こういう意味深な絵を見せられたら、やっぱりその意味を探りたくなってしまうわけで、完成したEDについて、いろいろと妄想を膨らませてみることにしましたよ。
 
何かを待つようであったり


 
旅をしているようであったり


 
誰もいない舞台で一人で舞台で踊ったり

と、このEDでのちーちゃんは、本編とは印象が異なり、何かを待ちわびる孤独な女の子といったところ。
ほぼ全体に渡って現れる時計は時間が経過していることを繰り返し強調しているかのようであり、また帽子で顔の一部を隠すあたりは、彼女自身もまた何かを隠しているかのような雰囲気がありました。


 
で、これらの印象からこのEDで描いているものを妄想してみると、
 
・妄想1「真奥たちと出会わなかった世界線説」
マネキンがショーウィンドウによって隔てられているのと同様に、ちーちゃんと真奥たちが関わることはない。
時計はただ過ぎていく時間を暗示。
 
・妄想2「真奥たちと別れた後説」
何らかの理由で真奥たちと別離し、待ったり探したりしたけれども結局再会はできない。
時計は過ぎ去った時間を、マネキンを眺める最後のカットは過去の思い出となったことを暗示している。
 
・妄想3「真奥たちと出会う前説」
時計は約束された時が近づいていることを暗示。
真奥たちの衣装を着たマネキンは、その衣装を身につけた人物が近く現れることを示している。
マネキンが並ぶ様子はそのまま、ちーちゃんがエンテ・イスラ関係者に迎え入れられるOPのこのカットに繋がる、と
 
作品の方向性や個人的な願望としては妄想3を推したいところですが、実際のところはこれからの展開次第でしょうか。
ともあれ、描かれているものの意味をいろいろと考えて妄想を膨らませてみたくなるよいEDでしたよ。