SF/評論研究会の愛と勇気の軌跡

=======SF/評論研究会の愛と勇気の軌跡========== 

3月1日(日)北とぴあ804A 笠井潔『機械じかけの夢』(ちくま学芸文庫) 
4月11日(土)北とぴあ804A ロラン・バルトロラン・バルト映画論集』(ちくま学芸文庫
5月16日(土)北とぴあ805A スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め』(紀伊国屋書店
6月27日(土)北とぴあ806 野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫
7月 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』
8月 未定 上野俊哉『人工自然論 サイボーグ政治学に向けて』(勁草書房
9月 未定 コプチェク「女なんていないと想像してごらん」
10月 未定 「定本柄谷行人集・第2巻 隠喩としての建築」岩波書店版(新版)

SF/評論研究会 6/27 レジュメ『物語の哲学』 藤田直哉

第六章 時は流れない、それは積み重なる
1、知覚的現在と想起的過去
・ 時間は流れではない、空間的な比喩ではいけない。
・ 時間には「幅」があり、それが「時間」と「歴史」を縫い合わせる。
フッサール「過去把持−原印象−未来予持」(知覚的現在に含みこまれている)
・ 「過去把持」=「第一次想起」 「再想起」=「第二次想起」
2、非連続の連続
・ 「知覚」と「想起」の非連続性
・ 歴史的時間と体験的時間が滑らかに連続しているために、「体験的過去」と「歴史的過去」とをともに「出来事の連鎖」として捉える必要がある。
・ 「出来事」には幅がある
・ 図柄が描かれているガラス板が積み重なるイメージ
・ 出来事の構造と連関こそ歴史家の関心事
・ 通時的整合性と共時的整合性を基準にして合理的に理解可能な過去を構成→これを「実在性」と考える
・ 過去把持の連続性に基づく「現象学的時間」ではなく、重層的に堆積した「解釈学的時間」
 3、八分半前の太陽
・ 太陽は八分半前に光を発しているのに、それを知覚している「今」とのパラドックス、過去が今現在に露出している
・ 「本物」と「像」の導入ではだめ。「像の牢獄」になる。大森荘蔵の「実物」でもだめ。「過去の牢獄」になる。
中島義道「『いま』は伸縮可能」しかし副詞的用法と名詞的用法を混同している
 4、物語り文と重ね書き
・ 「いま」と「八分半前」を切り離す
・ 「物語り文」の導入。ダントー「二つの別個の時間的に離れた出来事E1およびE2を指示し、そして指示されたもののうち、より初期の出来事を記述する」
・ 物語り文は「事後的」「回顧的」性格を持つ
・ 二つの時間的に離れた出来事の間には意味のネットワークがある
・ 「八分半前の太陽」は物理学理論で知っている。理論的構成体であるが、実在しないことやフィクションではない。
・ 時間的に隔たった二つの出来事を「物語り文」を通じて重ね描いている
・ 物語り文は「歴史的重ね描き」の装置である
 5、歴史的過去と死者の声
・ 歴史的過去も広義の「理論的出来事」
・ 歴史的過去に埋没した死者の声を掘り起こして知覚的現在に伝達する「精神のリレー」を可能にするのは語り手と聞き手の批判的共同作業である「物語り行為」
・ 歴史とはもはや聞こえなくなった「死者の声」を聞き取る能動的探求、不断の辛苦

第七章 物語り行為による世界制作
  はじめに
・ 物語り概念は「実体概念」(語られたもの、物語)と「機能概念」(語る行為または実践)として用いられている。前者を「物語」後者を「物語り」と呼ぶ。ここでは後者を扱う。
・ 「物語り」は経験を時間的に分節する言語行為であるとともに、存立構造を解明する一つの分析装置でもある。
・ 「物語り」には「真/偽」「良い/悪い」「事実/フィクション」はなく「優/劣」がある
  1、物語り論の系譜
・ 1968年のカーモード「歴史哲学は小説を教える人たちの仕事」
・ 1960後半〜70前半に歴史哲学の中に一定の地歩を占める
・ 「五月革命」 マルクス主義の退潮と構造主義の台頭という時代の中
・ バルトとストロース『野生の思考』
サルトルの『弁証法的理性批判』に対して、歴史的事実が「構成」「選択」されるものである。(『野生の思考』)
・ ドイツにおいてはドロイゼンの『歴史理論』 ダントー『歴史の分析哲学』 ダントーハーバーマス→バウムガルドナー
アメリカ 論理実証主義と物語り論 「統一科学」 歴史を生理現象や物理・化学的現象にまで還元→無理だろう
・ ヘンペル流の科学哲学からクーン流のそれへ
  2、物語り論の基本構造
・ 世界は事物ではなく出来事の集まり
・ 「視点」と「文脈」を与えるもの
・ 偶然的なものを因果関係により関係了解することによって受容可能な経験になる
・ 「経験の可能的性の条件」=「超越論的機能」(アプリオリとアポステリオリは相互に影響するという前提で)
  3、物語の内部と外部
・ 経験が物語りの内部でしか可能でないとすると、物語り自閉症になるのではないか?
・ 「ロウ・ナラティヴィスト」(外部がある)「ハイ・ナラティヴィスト」(外部がない)
・ カー 物語りの外部に「生きられた経験」
・ ロウ・ナラティヴィストは「過去自体」の実体化にはならない。求めているのは「実在への対照なき真実」あるいは「保証された主張可能性」「合理的受容可能性」
・ 外部とは「物語りえないもの」=「直接的経験」「異他的なるもの」「偶然的なもの」「理解不可能なもの」 パラダイム論の「変則事例」
・ 物語りの限界が世界の限界である
  4、物語りと人称的科学
・ ストーリーは記述、プロットは説明
・ 科学的説明は物語り的説明の特殊ケース
・ 科学的説明は直線、物語り的説明は曲線、人間科学は円錐曲線
・ 自然科学は「リアリティ」(もの、非人称性)人間科学は「アクチュアリティ」(行為、行動、人称性)
・ 人称的科学はなぜに答える。「誰が誰に向かって何を語るか」という発話のポジショナリティが問題になる。相互作用が物語り的説明を支える不可欠のファクター

野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫)

レジュメ作成:海老原豊

柳田国男=エリオット(70)

・ 野家のエリオット解釈は果たして妥当なものであるのか?
柳田とエリオットを並列に論じることへの違和感(あるいは、柳田もエリオットも近代帝国主義的主体であったともいえる)

音声言語:体感 直接的 現在的?
口承言語:通時性(歴史)と共時性(現前)
文字言語:視覚 歴史的 過去・想起的?
単なる二項対立を超えたところに「口承言語」をおく
歴史とは何だろうか? ある種の排除が働いている 自然化されてしまったもの
イデオロギー批判が必要なのではないか?

・ 〈小説〉への批判としての召喚される柳田的〈物語〉
〈小説〉 〈物語〉
密室 炉端、宴
独創性 反復、伝聞
起源=作者 話者

〈小説〉とは「個人」が個別に分割された「空間」(フーコー)で読む しかし、同じような読者を想像することができる(想像の共同体) つまり近代的主体が形成されるのに〈小説〉は一役買っている

・ エリオット「伝統と個人の才能」
詩を詩人から分離すること
「個性」ではない
芸術の情緒は非個性的である 〈伝統〉に宿る
⇒新批評(一派)の誕生

・ 3分で分かる現代批評史
ロマン主義形式主義が交互に出現する
意味と形式、発話と辞書、個人と伝統、ロマン主義と古典主義、行為遂行的発話と事実確認的発話
(新)古典主義・ロマン主義モダニズム・フォルマリスム・記号論構造主義・読者反応理論・マルクス主義批評・脱構築・ジェダー批評・多文化主義 

エリオットは詩的・感情的な主観性を客観的に分析する方法を求めた
20世紀初頭にあった主体=主観の自律性の危機を回避するための一つの方法(主体の温存)
New Criticismは作者の意図を封印した 作者ではなく作品の自律的宇宙を対象にした
⇒伝統は本当に非歴史的なもの(=客観的)であるのか? イーグルトン『文学とは何か』






* 「小さな物語」

・ 口承言語によって伝えられてきた「小さな物語」(78)
〈小説〉、国民国家は「大きな物語
小さな物語としての歴史(154)

・ 歴史の二面性(語る/語られる)と脱歴史的存在としての動物
コジューヴ(ヘーゲル) 歴史を語ること/歴史に語られること
コジューヴ→ラカン東浩紀「小さな物語」 
東的「小さな物語」 それが複数あるうちの一つであることを認識している(小さなものであると相対化している)が、没入する態度は絶対的なものと何ら変わりはない 相対化すること/没入すること
東の動物化 脱歴史、脱人間、脱労働 

・ 「小さな物語」をうまく接続できないか?
・ 歴史性批判に繋ぐことができないか?


歴史修正主義との関係

過去・想起 ⇔ 現在・知覚
永遠に過去を知ることはできない
過去は想起として、つまり物語として理解される
過去の想起には正しいあり方があるわけではない
想起したされたものが想起されたものであり、過去
?想起の仕方を限定することはできる(薬物によって感じられた幸福感は、幸福感である)

歴史とは過去=死者の声、何の媒介もなしに伝わることはない
死者の声が知覚的現在へ届ける 入手可能な証拠や痕跡から
?入手可能な証拠の隠滅・変形、痕跡の抹消
?語りの「騙り」も肯定されるのか
⇒嘘の語りでも言語行為論的には肯定される(真偽に焦点がないので)

語りは整合性を問うべきだ
「現在入手可能な最良の証拠群と整合的に構成された物語を合理的なものとして受容すべきである」
?整合性など容易に捏造できる
?整合性は合理性? 数の論理? 

スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』(紀伊国屋書店)

レジュメ作成:海老原豊

*日本語版への序文

*1章 空疎な身ぶりと遂行文 CIAの陰謀に立ち向かうラカン

☆ 重要概念
大文字の他者(とその起源)
・空しい身ぶり
象徴界は超越的な先験的存在(アプリオリ)ではない
・象徴的相互作用の宣言的次元

☆ 象徴的空間の規則
大文字の他者を単純化しないように

・3つの規則(27)
1 部分的に反省することができる(文法)
2 知らないうちに従っている(無意識)
3 規則と意味を知っているが、他人に知られてはならない(コミュニケーションの事実そのもの、手押し車)

大文字の他者の二面性(27)
実体・人格化・具象化・しっかりとした力⇔実体がない・脆弱・本質的に仮想存在

「<大文字の他者>が仮想的だということは、象徴的秩序が個人から独立して存在する何か霊的な実体などではなく、個人の持続的な活動によって支えられている何かだということである。」(30)

大文字の他者は超越的ではない
「これで明らかになったように、ラカンは、人間の知覚と相互作用を支配する<象徴界>を、一種の超越的な先験的存在(アプリオリ=あらかじめ与えられた、人間の実践の範囲を限定する形式的ネットワーク)として見なしているのではまったくない。彼が関心を寄せているのは、象徴化の身ぶりが集合的実践の過程といかに深く絡み合っているかということである。」(35-36)

大文字の他者の起源
「しかし、<大文字の他者>の起源はいまだに不明である。個人と個人が象徴を交換するとき、二人は一対一でやりとりしているだけではなく、つねに仮想的な<大文字の他者>に言及している。」(30)

・贈り物のやりとり 贈与の瞬間に樹立する関係 ⇒ 柄谷行人「絶望的な飛躍」

☆ 発話の宣言的次元(コミュニケーションのモノ性)
「人間のコミュニケーションを特徴づけているのは、それ以上還元不可能な再帰性であり、すべてのコミュニケーション行為は同時にコミュニケーションの事実を象徴化している。」(32)
コミュニケーションはコミュニケーションであるとともにコミュニケーションについてのコミュニケーションでもある(象徴化→記号として脱/文脈化されうる)

・空しい身ぶり
拒否されることになっている身ぶり(申し出) 伝達される意味内容はない 伝達そのものが伝達される

・社会病質者ソシオパス 言語を伝達の道具としてしかとらえない
・選択はすべてメタ選択
・象徴的機能は主体において二重の運動としてたちあらわれる
「すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているのかをも伝達するのである。どんなに現実的な対象や行動も、つねにそうした宣言的次元を含んでおり、それが日常生活のイデオロギーを構成している。」(37)
「実行性はつねに、意味としての実行性の主張を含んでいる。」(37)

・ファロス(後述)
「人間の発話に本来そなわっている、言表された内容と言表行為との間の、還元不可能な落差である。」(41)
つまらない同僚の話・アメリカの拷問・「ゲルニカ」・CIA・手押し車・??便器の話(こ、これはっ!?)

*2章 相互受動的な主体 マニ車を回すラカン

☆ 重要概念
・象徴的秩序
大文字の他者
・知っていると想定される主体
・ファロス
・欲望

(各章タイトルはおそらく翻訳者がつけたものと思われるが、いずれのものも微妙に論点がずれているような気がするのだがどうだろう? 本章は「相互受動的な主体」というタイトル。たしかに相互受動性について前半では熱心に論じていて、かつかなり刺激的な話もでてくるのだが、しかしなによりその相互受動性を確実なものにしているのは、背後にある象徴的秩序であるはず)

☆ 前半(48-55)

・相互能動性 いわゆる双方向メディアなど
・相互受動性 

(inter-を「相互」と訳すことは問題があるのでは? 間-能動性、間-受動性のほうが近い気もしないでもない。それぞれ主体が存在し、その間を結ぶものの関係を指しているからだ。"inter-nation-al"とは「いろいろな国家が存在している、その国家の間を線でつなぐ」という意味であるはず。いろいろな主体が存在していて、それら主体が能動/受動に切り替わり主体同士の間で関係が取り結ばれる。このときのありようとして間-能動性、間-受動性がある)

1) 一般的な間-主観性

+対象(作品=作者)
 ↓
−主体(読者)

2) 相互能動性

+対象
 ↓↑
+主体

3) 相互受動性

−対象←(+大文字の他者
 ↓
−主体

・おっと!
「「おっと!」の機能は私の失態の象徴的登録(記号化)を実行することであり、私の失態を仮想的な<大文字の他者>に知らせることである。」(52)

・相互受動性は偽りの行動に似ている
「人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するためんい、つまり何一つ変わらないようにするために、行動することもある。」(53)

・相互受動性と偽りの行動
完全に受動である(誰かが代わりに決めてくれる)ことで、能動的になる
「我々は<大文字の他者>の不変性を支えるために働き続けるのである。」(55)
似非能動性・偽りの能動性・偽りの行動=能動に参加しなければならないという強迫観念、しかし何かを変えるわけではない、なにも変わっていない(大文字の他者=神は不変)

☆ 後半(55-73)
刑事コロンボ
精神分析家と患者の関係
・信じていると想定される主体(58)
「この信じていると想定される主体こそが象徴的秩序の本質的特徴である。」(58)
例)迷信、サンタ、信仰
「信仰がちゃんと機能するためには、素直に信じている主体が存在する必要はまったくないということだ。その主体の存在を仮定するだけでいい、その存在を信じるだけでいいのだ。それはわれわれの現実の一部ではない、神話的な創造者という形であってもいいし、人格を保たない役者であってもいいし、不特定の代理人でもいいのだ。」(59)
→ポスト・イデオロギー的時代(シニシズム、誰も信じていない共産主義の理想)

・象徴的秩序の非心理的な性質
「私は自分の内的な感情や信仰に関わる仕事を、それらの内的な状態を動員することなく、やり遂げている。」(61)
「私が自分の選んだ仮面(偽りの人格)を通じて演じる感情は、どういうわけか、自分自身の内部で感じていると思っている感情よりもずっとリアルだということである。」(62)

・象徴的去勢のシニフィアンはファロス
「私の直接的な心理的アイデンティティと象徴的アイデンティティ(私が<大文字の他者>にとって、あるいは<大文字の他者>において何者であるかを想定する、象徴的な仮面や称号)との間のこの落差が、ラカンのいう象徴的去勢であり、そのシニフィアンはファロスである。」(64)
「去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威をあたえてくれる象徴的記号との落差のことである。」(65)
「この落差がある以上、主体は自分の象徴的仮面あるいは称号とぴったり同一化することができない。」(65)

・人間の欲望は他者の欲望である(67) ラカンのもう一つの公式
正義⇔羨望

禁欲主義⇔快楽主義(現代の逆説)

例)カフェイン抜きのコーヒー・アルコールの入っていないビール・セックス抜きのセックス・戦争抜きの戦争・政治抜きの政治・他者性なき他者経験

・「私が欲するものから私を守って」(71)

*第4章 <現実界>をめぐる厄介な問題 「エイリアンを観るラカン

☆ たぶんこの章の目的=現実界が複雑なカテゴリーであることを紹介しつつ、その謎を解き明かすこと

☆ 重要概念
・ラメラ
対象a
・三つの現実界
現実界は物自体ではない

・3つの<現実界
ラカンのいう<現実界>は、永遠に象徴化をすり抜ける固定した超歴史的な「核心」という見かけよりも、ずっと複雑なカテゴリーだということである。」(115)
「前半はラメラの現実界、つまり恐ろしい無定形の<物>としての現実界、後半は科学的現実、つまり自然の自動的で意味のない機能をあらわす公式の現実界」(116)
「これら二つの<現実界>に、第三の、謎に満ちた「私はなんだか知らない」の<現実界>を付け加えなければならない。」(117)→対象a
現実界はカントの物自体ではない

1 <物>としての現実界
ラメラ=もっとも想像的な次元における<現実界>をあらわしている
ラメラ=スコットのエイリアン
ラメラの<現実界>は<現実界>の科学的側面と対立
ラメラは去勢=共通分母なきところ世界、象徴的規制の下に参入したときに失うものに形を与える
想像的次元ぎりぎりのところにある現実界
実体を伴う<物>としての現実界(127)
ラカンはこれを反転する

2 公式の現実界
象徴的次元における現実界
化学記号
科学の標的である「真の<現実界>」(114)
?全面的に脱実体化されている、象徴界の裂け目としての<現実界>??(126)

3 謎に満ちた現実界
対象a 欲望の対象=原因
「ボディー・スナッチャー」のエイリアン

対象a
普通のものを崇高な何かにかえる
とても気になるちょっとした細部
欲望の原因であり欲望の対象ではない
欲望の原因は、対象の中にある何らかの特徴であり、その特徴ゆえにわれわれはその対象を欲望する

・欲望の対象=原因
ななめからしか見えない(ジジェク『斜めから見る』)
正面からは見えない
どうしてそれをほしいのかが事後的に斜めから観ることで明らかになる

・もっともラディカルな<現実界
ラカンにとってもっともラディカルな<現実界>は全面的に脱実体化されているということである。それは象徴的ネットワークに捕まることに抵抗する外的な物ではなく、象徴的ネットワークそのものの内部にある割れ目である。」(126)→いろいろな現実界があるなかで「もっとも」ラディカル、という意味であるのか? だとしたら1から3のうちのどれか? 2か?

現実界>をヴェールに包まれた怪物のような<物>として考えるな(疑似餌)
実体をともなう<物>としての<現実界>に関してラカンが行った反転(→つまり、現実界を脱実体化したということ??)

空間に物がある→空間がゆがむ
ゆがんでいる空間→物がある(反転)

物がある→それが歪めるのが(手のところにあるのが)現実界
現実界がある→物がゆがみとして生じる

「狼男」のトラウマ 最初はゆがみをゆがみとして認識することができない のちにトラウマとして蘇生された
アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。」(129)

現実界まとめ
3つある<現実界>は現実界の異なる側面
外部にある手の届かない<物>ではない
ラカン現実界を全面的に脱実体化する
象徴界ネットワークそのものの中の裂け目
<物>を伴う場合、それは現実界のゆがみ

*第6章 「神は死んだが、死んだことをしらない」 ボボークと遊ぶラカン

☆ 重要概念
・「もし神が存在しなければ、そのときはすべてが禁止される」⇔「もし神が存在すれば、そのときはすべてが許される」
・「神は無意識である」
ドストエフスキー(を解釈するバフチン)批判
グノーシス主義サイバースペースモナドジー

☆ 前半(神のある/なしと自由/禁止)

・自由と禁止の逆説
「抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止をあらたに生む。」(160)
古風で権威主義的な父親と非権威主義的でポストモダンな父親、それぞれが発する息子への禁止命令
やりたくないことをやらなければならないが、内的な自由、権威に反抗する力⇔要求を飲むのみならず、それを自発的、自分の意図に基づいたものとして行う(偽りの自由選択は猥褻な超自我の命令)

・タネであると信じる男
・商品のフェティシズムというマルクス主義理論
「もちろん私はそれ(わたしはタネではないこと)を知っていますよ。でも、ニワトリはそれを知っているでしょうか」
「もちろんわかっています(商品は社会的諸関係の表現にすぎず、魔術的なところはまったくない)。でも、わたしが扱っている商品はそれをしらないようなんです」

マルクスのおさらい>
商品が帯びる不思議な力(魔術的な力)
社会的諸関係が表現されたもの
モノが市場にでることで商品となる
商品とはモノでありつつもモノ以上のものでもある
これはヒトとヒトとの関係と類似している
マルクスの偉いところ>
商品の物神崇拝(形而上学)を我々の認識のありようではなく、われわれの社会的現実そのものの中に位置づけた

公に信じるふり(信じなければならないという抑圧的命令)===公の確信を猥褻に揶揄していた心の奥底
ブルジョワ的主体
↑↓
懐疑的、快楽主義的、リラックスした自己===確信の厳しい禁止
マルクス主義

??実はいまいちマルクス主義およびフェティシズムの例の意義がわかっていない

ドストエフスキー「ボボーク」
バフチンの解釈 神と霊魂の不滅がなければすべてが許される→ジジェクドストエフスキーの誤り」
アル中患者の幻聴・死者(肉体が滅びるまで)たちの供宴
自分たちが現世の諸条件から完全に自由であることを知って、生きていたときのことを話して楽しもうとする

ドストエフスキーが描いている場面が神なき世界ではないことを忘れてはならない。話す死体たちは(生物学的な)死の後の生を生きている。このこと自体が神の存在の証である。そこには神がいて、死後も彼らを生かしている。だからこそ彼らはなんでもいえるのだ。」(169)

語れなかったことを何でも語ろうというのは、自由な気持ちではなく、超自我による猥褻な命令である
自分たちの行動に没頭しなければならない

ドストエフスキーが描いているのは神なき世界ではない
グノーシス主義的幻想である
↓邪悪で猥褻な「神」についての世界

グノーシス主義
サイバースペースイデオロギー
モナドジー

真理の外在性を拒否する姿勢
真理は外的な外傷的遭遇であるというユダヤキリスト教とは異なる
自己の再発見
ライプニッツモナド=外的現実に向かって直接開かれた窓はないが、それ自体は全宇宙の鏡像
サイバースペースには我々を悩ますものがいない

☆ 残り(↓全体の中で、どうしてハラスメントについて論じているのかが、よくわからない。グノーシス主義的世界での具体例であることはわかるのだが。神は死んだ、ということは見かけ以上に大変で、ドストエフスキーや現代の世界では、神は死んだという宣言文は、どうしてもグノーシス主義的になってしまう、ということだろうか??? となると現代はグノーシス主義的世界ということになる。これが、ポストモダン的父親が発する禁止の命令を受けた子供の、強制された自由となにがどう関連してくるのか???)

・嫌がらせ(ハラスメント)
欲望・恐怖・快感をもった他の現実の人間が過度に近づいてくることに対する批難
「他者が実際に侵入してこないかぎり、そして他者が実際に他者でないかぎり、他者はオーケーである。」(173)
寛容(自由)=その対立物(禁止)
例)フェミニストタリバン女性・禁煙・セックスのないセックス、脂のない肉・(カフェイン抜きのコーヒー)・子供たちへの禁止

・現代の快楽は命令である
・?現代の快楽はモナドサイバースペース的である?

ロラン・バルト『ロラン・バルト映画論集』(ちくま学芸文庫)

レジュメ作成:海老原豊

主に最初の3つの論考について考えたい。

1. 第三の意味

映画の3つの意味伝達のレヴェル
(1) 情報伝達のレヴェル コミュニケーションのレヴェル
(2) 象徴的(サンボリック)なレヴェル (全体として)意味作用のレヴェル
(3) 第三の意味 
 
・ この第三の意味を考える
「これら二つの顔には、なにか、それも心理、逸話、職務を超えた、要するに意味を超えた何かがあるが、しかしそれは人間のどんな肉体もが示す存在の頑固さに帰着するものでもない。コミュニケーションと意味作用というはじめ二つのレヴェルとは対立するこの第三のレヴェルは、意味形成性(シニフィアンス)のレヴェルである。」(15)

・ 鈍い意味の例
写真5(23)
写真7(25)
写真9 束ねた髪(27)など

「くりかえしておこう。〈鈍い意味〉は言語の中にはない(シンボルのなかにさえない)。〈鈍い意味〉を取り除いてみれば、そこにはメッセージと意味作用が残り、循環し、通過する。またそれがなくても、やはり私は語ったり、読んだりすることができる。だが、〈鈍い意味〉はパロルの中にあるというわけでもない。」(32)

サンボリック 自然な意味 
 第三の意味 鈍い意味
「〈鈍い意味〉は構造的に位置づけられているわけではなく、意味論が記者はその客観的な実在を認めるわけではない。」(34)
「〈鈍い意味〉は〈意味されるもの〉のない、〈意味するもの〉である。」(34)
「〈鈍い意味〉を叙述することができないのは、それが〈自然な意味〉とは反対に、何もコピーしないからである。何も再現していないものを、どのようにして叙述するというのか? 言葉の絵画的な描写は、ここでは不可能なのである。」(35)
「〈鈍い意味〉が(分節化された)言語活動の外にあるが、しかし(あなたと私の)対話の内側にあることを意味している。」(35)

 〈鈍い意味〉が反=物語(レシ)であることは明らか
 変化も発展もない主題である〈鈍い意味〉は現れたり消えたりしながらのみ、動くことができる

「映画的なもの」(41)とは何か?
映画の中にあって描写することのできないもの、表現されない表現

・ バルトは何を映画から見出そうとしているのか?
「映画的なもの」なのだろうが、それはいったい何なのだろうか? 言語的分節化の外にあるって何?

・ フォトグラム…?
映画を構成する写真 写真の中にあり、映画の中では消えてしまうもの
「映画的なものは動きの中にはなく、はっきりと分節されない第三の意味のなか、すなわち単なる写真も具象的な絵画も、物語的な地平や、前に述べた布置の可能性をかいているために引き受けることのできないような、そういった第三の意味の中にあるとすれば、そのとき一般に映画の本質とされている動きは活気、流動、可動性、生命、再現性などでは全然なく、ただ置き換え可能な展開の骨組みにすぎないのである。」(44)


2. 映画における意味作用の問題

メッセージの送信者 映画の作者
メッセージの受信者 大衆(知的エリートではない!)

I 意味するもの(シニフィアン) 舞台装置、服装、風景、音楽、身振り
 I-1意味するものの不均質性 異なる二つの感覚に訴えかける
 I-2 意味するものの複数機能性 多義(意味されるものの複数)と類義(意味するものの複数)
  映画では多義性よりも類犠牲
  多義性を可能にするのはシンボルコード(東洋の演劇)←→類似性=アナロジーを基本とする芸術(西洋?の映画)
 I-3 意味するものの結合関係性 シンタックス 要素の組み合わせで意味を生み出す
II 意味されるもの(シニフィエ) 概念、思想
 「映画は意味されるものによってのみ作られるものではないことは明瞭である。映画の本質的名稲生は、認識の次元にはない。映画における意味されるものは、付随的、断続的で、しばしばマージナル(副次的)な要素でしかない。映画の意味されるものについて、あえて次のような大胆な定義が引き出せるかもしれない。映画の外にあるものすべてと、映画の中で現実化する必要のあるものすべてが、意味されるものである。」(64)
 「意味作用は映画に内在するものではない。それは映画に外在するものなのだ。それゆえ、意味作用とは、あるシークエンスの中心に位置するものでは決してなく、ただマージナルなところに位置するだけなのである。」(65)

 映画記号の特殊で歴史的な性格(67)
 意味するものと意味されるものは類似的(アナロジー
  恣意的ではなく動機付けられている
  意味するものと意味されるものの間に極めてわずかな距離しか持たない
  シンボルではなくアナロジー
  どのようなコードにも依存していない
  観客(=大衆)を先天的に教養を持たないものとして考えている
  意味されるものの完全なイミテーションを提示しようとしている
  映画監督は彼が凡庸な作品を制作するのと容認した場合にのみ、レトリックに頼ることができる(68)
  現代芸術(映画)において、レトリックは信用されず、他の芸術(中国の演劇)では約束事が尊重される

??「われわれの国では、泣いているのを表すには、泣かなくてはならない。われわれの記号学の方法は、自由と自然さの外観のもとに、真の同語反復的な拘束、それもその内部では創意が義務でもあり、同時に制限でもあるような拘束を創作者のために作り上げることである。それでもやはり、慣例を拒否[→本当の自然さ]することは、自然への厳格な重視をもたらすだろう。わが観客の記号学のもつパラドックスとは、以上のようなものである。だが、抽象を不可能とする、普段の新語の使用が強いられるだろう。」(68)
 拘束(アナロジー的なイミテーション)であり自然であるというパラドックスが映画記号学を取り巻いている

3. 記号のもつ《ショッキングな単位》

・ 「ショッキングな単位」とは何か?
記号学の方法論 最小単位の抽出
 映画の通時性←→分析のシステム、安定性
 ?観客の経験←→分析の対象化

「映画において、意味作用の現場、形式、効果とはどんなものか? さらに、より正確に言うとすれば、映画にあってはすべてが意味をもつのか、あるいは反対に、意味するものの諸要素は不連続なものなのか? 映画の意味するものをそれらの意味されるのもに結びつける、関係の性質はどんなものか?」(74)
「意味するものの単位」(75) 

 ソシュール言語学を超えた意味論の例としてパントマイムを出している
 パントマイムとは比較的単純な記号的なシステムである
 身振りをその意味されるものに結びつける関係とは、伝統的なレトリックの中で、コード化され、理解されている
 映画は全ての西洋芸術と同じく、徹底した類似の関係によっている(自然のままの芸術への神話)
 ?「言ってみれば、映画はロゴス(言葉)ではあるが、言語活動ではない。われわれの分析が位置づけられねばならぬ認識論上の限界とはそのようなものである。」(76)

 シークエンス、単位、常識的な境目
 人間関係の戦略的な位置、映画の構造は登場人物の周りに組織される
「映画の意味されるものは、映画とは別の言語と言う意味論的なシステムの外部で自らを表出することはできない」(79)

「心的外傷(トラウマ)」(80)って何??

 意味されるものが確定すると、意味するもの(ショッキングな単位)を正確に見つけ出すことができる
方法1 態度、身振り、行動を切り離し、再構成する
方法2 細かい部分を変える(視線の長さ)

支え(視線)+持続(長い/短い)(85)
「言葉は意味そのものであり支えにはなれない」(87)


4. その他

ロラン・バルトとはどういう批評家か?

・ この評論がどのような歴史的文脈において登場したのだろうか?
映画について論じることの意義(特に、アカデミズムの文脈における)
 大衆という言葉の使い方 アナロジーとレトリックという対立軸

・ 映画を論じる言葉は文学を論じる言葉とは異なるのか(批評とは何か)

・ バルトの映画論を実際に、自分の批評の中で使うとしたらどのように援用することができるか

SF/評論研究会 2009 3/1 笠井潔『機械仕掛けの夢』レジュメ

                                   藤田直哉

1、 この時期の笠井思想について

 この『機械仕掛けの夢』はSF評論でありながら、私的な個人史が大きく挿入されている。それは大雑把に言って、マルクス主義ヘーゲル主義者であった過去の自分から、連合赤軍事件などを経て、「転向」していく過程が書かれている。
 「近代における物語の発生史」を語ると言う目的を持って書かれたこの本は、「観念の発展史」という形で『テロルの現象学』に展開されたのだと語られている。(筑摩版あとがき)では、この80年代前半の笠井思想とは一体いかなるものなのか。『機械仕掛けの夢』にもそれは顕著に出ているが、『テロルの現象学』を大雑把かつ暴力的にまとめてみようかと思う。
 『テロルの現象学』は四章構成である。自己観念、共同観念、集合観念、党派観念の発生史が述べられている。革命という輝かしいものが、何故連合赤軍のような事態に至ったのかについてが通底する問いとしてある。基本的にはこのような流れだ。人は世界を所有しようとして所有できないルサンチマンと疎外感を解消するために、受苦的な現実を「観念」の中で解消しようとする。かくして自己観念が発生する。それは「外部」を想定しない、肉体憎悪や民衆憎悪に繋がるものである。さらに、「民衆」や「肉体」という外部すら観念と化してしまうものである。それを解消するのは「集合観念」における、群集の励起の、霊的でバタイユ的な「体験としての神」である。この考え方はほぼ、『機械仕掛けの夢』と共通している。
 ここで笠井が述べる「観念」とは、ほぼ収容所国家化したマルクス主義と重ね合わせて考えられている。「産業主義、国家主義弁証法による知の全体主義」が、「観念」によって身体や民衆憎悪に陥っていく過程が書かれ、それを乗り越えるのは霊的な「体験としての神」を顕現させる集合観念である。笠井にとって、近代とはマルクス主義的なものに帰結するものと捉えられており、それと対抗するのは「霊的な力」である。そのために、『機械仕掛けの夢』では(笠井の考える)「近代的なもの」と「霊的な力」について、SFというジャンルを素材にして思考されている。


2、『機械仕掛けの夢』 見取り図
 序説から、「聖なるものの探求」「神話」「群集」などのキーワードが出てきている。脱魔術化した近代(労働)と、神話的な、聖なるものの侵入としての「探偵小説」「SF」「幻想小説」という見取り図が語られる。俗界から霊界へ至るのが〈アール技術〉であり、近代におけるその後継者が〈アール芸術〉だと語られる。
『SFとは何か』によると、笠井はSFを、「修辞としてのSF」と「主題としてのSF」と捉えている。「修辞としてのSF」は、語り方を疑似科学的に説得力を持たせることであり、「主題としてのSF」とは理性・科学と言う主題である。SFとは、「機械」に象徴される近代科学を「仕掛け」として活用する、近代人の「夢」のある独自な領域であると笠井は言う。そしてSFは近代科学を内在的に自己弁護するのでも外在的に非難するでもない細い道にあるのだと言う。
 以下、ヴォークト、クラーク、小松左京、ルグィンなどを、近代=観念=「ひからびたもの」と、その世界における霊的なものを求める心性を中心にして考察がなされる。それは「外的」な科学テクノロジーから、社会科学・人間科学に主題を移していったSFの、その主題が人間の無意識や神話的なものを通じて〈より深い私〉を探求する〈秘教〉として発達していったことを追う。

3、『機械仕掛けの夢』細部
 全体にわたって興味深い箇所や議論は多いのだが、長大なために、いくつかの部分を抜き出して引用することにする。

「(ハイファンタジーの系譜は)現実の幻想性ではなく、逆に幻想の現実性に作品世界の根拠を見出そうとする」(p54)
「人々は、科学技術の無限発展による人類の進歩と幸福の増大というような近代神話を、もうあまり信じないようになってきた」(p59)
「科学が二重に存在している」(p74)数学・物理学と生物学・進化論、自然科学と社会科学、近代科学と人文学
「レトリックを「うまく」使おうとする職人的感覚が、科学にたいする距離をおいた態度が、いわば「他人の関係」の自覚がSFをSFたらしめている」(p82)
「むしろ、小松左京にとっての真の問題は、近代精神と日本的伝統との不可避的な対立と相克をどう解きうるか、という点にあったというべきであろう」(p155)
「〈進歩〉ではなく〈進化〉」(p162)
「人間存在は事実性と超越性とに引き裂かれているが、同時に個体性と類体性とにも分裂している」(p182)
「今日見られるのは、一切のレアリテと切断された諸現象の数学化による知の形式的首尾一貫性の追求であるか、または知の技術化による悪無限的な功利的有用性の追求であるか、あるいは両者の癒着した姿であるか、これらのいずれかであるしかない」(p195)
「私が全体を獲得するのではなく、全体が私を獲得するのだ」(p260)
「なんらかの麻薬が生理的自動性において人に超越体験を保証するわけではない。問題はあくまでも技術なのである」(p276)
「神話は生の意味そのもの」(p298)
「この二項対立を前提にしたとき、たとえ従属的な第二項のサイドに立ち、支配的な第一項を批判するような身振りを演じようとも、それはついに自己循環的な内部の意識であるに過ぎない。
 内部的な自閉からは、しばしば倫理主義的な自己強迫の意識が生じる。そこから観念的力の沼地までは、ほんの一歩に過ぎないのだ」(p381)
「意味としての言葉は透明だが、半面、言葉には意味から逸脱していく混濁した物質性=肉体性があるのだともいえる」(p392)