― プロローグ 四国にて ―

1976年(昭和51年)夏、愛媛・大洲の神力寺を皮切りに、四国全体で第一次宗門問題が勃発。
K副会長(当時四国県長)談

―― 1978年(昭和53年)12月、高知研修道場(現土佐清水会館)の完成に伴い、池田会長(当時)が高知入りされました。
ある時、高知平和会館で、会合終了後青年部幹部と打ち合わせをしていたところへ、会長が着物姿で入ってこられ懇談となりました。

この時、
「私もいつか年をとる、また病気で倒れるときがあるかもしれない。また、追われるときがあるかもしれない。そうなった時、私の余生はこの四国で送りたいんだ」と言われました。
皆がびっくりして、不信のまなざしで池田会長を見ていると
「これは冗談ではないんだ。冗談ではないんだぞ!」
と念を押されました ―― 

翌、1979年(昭和54年)4月24日池田会長は、19年間務めた創価学会、第三代会長を勇退

この勇退より2年後、1981年(昭和56年)11月我が四国研修道場において

「もう一度、私が指揮を執らさせていただきます」との獅子吼とともに
「紅の歌」が誕生したのです。


― 師子身中の虫 ―

1977年(昭和52年)「仏教史観を語る」と題した池田会長の関西での講演を、日蓮正宗・宗門が一方的に問題視。当時若手僧侶の集まりであった、S信会の悪侶どもが学会批判を昂然と開始。
更には週刊誌をも巻き込んで、昭和53年になると、連日、学会を誹謗する記事が全国に満ち溢れました。
その裏には、当時創価学会の顧問弁護士であったY崎(当時教学部長のH島)等が、学会と宗門との離間工作を画策し、自らが宗門を牛耳りその権威を利用し学会を操ろうとしていたのです。

もともと宗門には、僧が上で信徒が下という僧侶の世界特有の歪んだ特権意識があり、そこにY崎等に付け入られるスキがあったのです。

Y崎は、当時の日蓮正宗法主日Tに取り入るために、法主に近い若手僧侶を酒、金、遊びで取り込んでいき、このルートを使い「学会はまもなく独立する」「もう本山には登山しなくなる」等といったデマを流したのです。それにより、宗門の反学会の若手僧侶(S信会)らの動きが、活発化していきました。

Y崎は、心臓に持病を抱えていた日Tに、有名な医者を紹介し最終的には、自分の事を「Y崎先生」と呼ばせるまでに信用させたのです。

最初は問題が起こるたび、池田会長が日Tと直接対話し、問題を解決していました。しかし、Y崎にそそのかされたF島(当時創価学会・副会長。後に退転)が九州の会合で宗門批判をしてしまったのです。
猊下法主のこと)に対し、誰もお慕いして近寄ろうとしない。猊下が通っても、どこのオジサンだ、という程度の感覚しかない」「葬式に赤いスポーツカーで来る坊主がいる」「カツラをかぶってスナックに出入りしている坊主がいる」等々。大牟田発言である。

この発言がくすぶっていた宗門内の反学会僧侶等の動きに再び火をつけたのです。

Y崎は「ある信者からの手紙」なる怪文書を作成。
「学会にとって宗門は邪魔であり、宗門を学会の外郭団体にする狙いがある」「このまま宗門は、学会に吸収されるか二つに一つだ」等の、デマを並べ、自分の息のかかった側近を使って日Tに届けさせたのです。
それが、宗門の若手僧侶の集会(S信会)で読まれました。坊主は池田会長に対し、狂ったように責任を取れと騒ぎ立て、宗門の態度は一気に硬化していったのです。

この、怪文書の成功に味をしめたY崎は、その後も怪文書、謀略文書を乱発し、宗門を手玉にとっていったのです。当時学会の顧問弁護士であったY崎は自分で、紛争の火種をまいておいて、思惑どうり火が回ると見るや、今度はその火消し役を買って出るということをしていたのです。

Y崎に踊らされ、「今こそ池田大作を亡き者にしよう」「そして、骨抜きとなった学会を宗門の手で支配しよう」と全宗門がこぞってその牙を剥き出しにしたのです。
その様は小さな傷口に薄汚れた爪を突っ込んで、力まかせに引き裂くようなやり方でした。坊主達のどす黒い本性が露呈したのです。

それでも池田会長は耐えられました。全創価学会員のために――。

手足を縛られた勇者にビンタをくらわせるように宗門は要求してきました。

「池田が会長を辞めれば水に流してやる」と――。

ところが会長勇退直後宗門は、「名誉会長という役職も要らない」と、強引にねじ込んできました。その後、名誉会長就任拒否は引っ込めたものの、宗門問題は終息するどころか、むしろ「この時とばかり」と、攻撃が始まりました。

全国の寺院で激しい学会批判がなされていったのです。
坊主が厳粛であるべき学会員の結婚式や、葬儀の場で、声を荒げ、池田名誉会長を誹謗中傷、罵(ののし)り狂ったように学会批判を繰り返す。晴れがましい人生の門出を祝福すべき立場にありながら、また、遺族が悲しみのドン底に沈んでいる、永久(とわ)の別れの場を土足で踏みにじるような、坊主の非道ぶりに、心の底に一生消えない、深い傷をつけられた会員の方が、全国におられたのです。

マスコミが学会を中傷する記事を連日掲載。悪侶や脱会者等がそれら週刊誌を片手に学会を批判、組織を切り崩そうとし、マスコミがまたそれをネタにする。

純真な学会員と池田名誉会長の師弟の絆を断ち切ろうとする行為が数年にわたってつづいたのです。


― 四 国 ―

愛媛県大洲の「神力寺」の坊主の態度が変わってきたのは、1976年(昭和51年)の夏ごろの事でした。
突然、「供養が少ない」と、経済苦に悩んでいるメンバーにまで供養を強いるように…。
そのうち、池田会長の事を呼び捨てにしはじめ、やがて週刊誌を片手に反学会キャンペーンの記事を読むようにまでなっていったのです。
そのうえで、寺の内装改築や畳替え等、平気な顔をして学会に要求していたのです。
その動きは、四国内の正宗寺院に広がっていきました。
■ここに、学会員をいじめぬいた坊主の所業を紹介する。
・週刊誌の話をしはじめた時に手を挙げて質問をすると、「講義の邪魔をした」と言う坊主。
・下を向いていると、「聞いていない」と言う坊主。
・目を見て聞くと、「生意気だ」と言う坊主。
・自分を「お上人様」と呼ばせ、普段着に絹の着物を常用する坊主。
・葬儀の際、軽自動車で迎えに行くと「こんな車には乗れない」という坊主。
・葬儀の際、絹張りの座布団にしか座らないと怒り出す坊主。
・御受戒時、勤行の途中で席を立ち掃除をはじめる坊主。
・御受戒時、勤行の途中で席を立ち、終わる頃まで出てこない坊主。
・「在家の者に指導を受けるのはおかしい」と言う坊主。

打ち込みながら、怒りで手が震えます。
(この中には、第二次宗門問題時に私が経験したものも入っています。)

その一方で、坊主たちは多額の供養をする会員にはやさしくし、「寺につけば、別に活動や勤行をしなくてもいい。それで成仏できる」などと、言葉巧みに脱会をすすめ檀徒にしていったのです。
旧習の根深い、四国の地で多くの創価学会会員が坊主にたぶらかされ、脱会していったのです。

K副会長談

当時は折伏をして、お寺に御受戒(入信の儀式)に連れて行くと

「お前は、日蓮正宗に入るのか、それとも創価学会に入るのか」と

衣の権威を振りかざした坊主どもの陰険な会員いじめがありました。会員さんが池田先生のことを語ればいじめる。池田先生はすばらしいと言えば、まだそんな事を言っている会員がいると池田先生を批判する。池田先生が会員を守ろうとすれば難癖をつける。

当時の学会メンバーは、手も足も縛られて、「池田先生に御迷惑がかかってはいけない」との思いで、みんな襟首を立てて身を縮めて、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかったほど、魔は執拗に攻めてきました。
折伏も一世帯も進みませんでした。それこそ、ただじっと耐えて、励ましあうしかない状況が続いたのです。

風化させてはいけない歴史。嵐の中闘いつづけた先輩皆様に大感謝。今、自分が戦えるのは、そのおかげです。感謝…感謝…。


― 御虫払法要 ―

そうした逆風に次ぐ逆風の中、池田先生は誠意に誠意を重ねられて、僧俗和合のための指揮を執られていました。
御聖訓に照らし、学会には一点の誤りもないにも関わらず、折れるところは全て折れ、退けるところは全て退き、下げる必要のない頭をも先生は下げたのです。
1979年(昭和54年)4月6・7日 大石寺で御虫払法要が行われました。

この時先生は「婦人部は来なくていいよ。皆いやな思いをしなくてはならないだろうから、私がいって来る」と本山へ向かわれました。
その夜遅く、当時総合婦人部長であったA山さんのもとへ電話が「すぐ本部に来るように」と、本部へ駆けつけると…。

「君か、良く来た。本山へいって来たけど、会長を辞めると言って来たよ。辞めないでと一言ぐらいあるかと思っていたけど。私が引くしかないと思ったから会長を辞めますと言うと「あっ、そうですか」と一言だったんだ。会長に就任して二十年目を迎えるあと、1年頑張って下さいの一言も無かった。冷たい言葉だったよ」
と言われたそうです。

それまで、先生は同志を守るため、広宣流布のため、学会員を守るため、僧俗和合の道を探り続けていましたが、これ以上学会員が苦しみ、坊主にいじめられる事だけは、絶対に防がねばならない。
戸田先生が「命よりも大切な組織」と言われた学会である。その思いから、会長を辞めることを決めたのです。


― 随筆『新・人間革命』 ―

ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。「私が会長を辞めれば、事態は収まるんだな」。
沈痛な空気が流れた。やがて、誰かが口を開いた。
「時の流れは逆らえません」
沈黙が凍りついた。
わが胸に痛みが走った。

―たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。
また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
しかし、時流とはなんだ!問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。
宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き元弁護士たちである。
それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。
情けなく、また、私はあきれ果てた。
戸田先生は遺言された。
「第三代会長を守れ!絶対に、一生涯、守れ!そうすれば、必ず広宣流布できる」と。
この恩師の精神を、学会は忘れてしまったのか。
なんと哀れな敗北者の姿よ。
ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神はどこにあるのか!

【嵐の「4・24」『断じて忘れるな!学会精神を』 1999.4.27 随筆「桜の城」53P】


― 激励のピアノ ―

1980年(昭和55年)5月岐阜県で撮影されたもの。
私くすのきも、四国研修道場の池田講堂(今はありません)にて、池田先生のピアノをお聞きしたことがあります。うまいとかではなく、音の躍動感をすごく感じた事を覚えています。

↓ グラフSGI 2003年3月号 ↓


この頃より、すでに宗門より指導してはいけないと言われていた池田先生は、

「どうしたら、会員の皆さんに喜んでもらえるだろうか?」と、考えに考えられて、ピアノを習い、時間を見つけては、家で奥様と夜遅くまで練習し、一生懸命にピアノに向かって、どこへ行ってもよくピアノを弾かれたそうです。

「私の指は、太くて短いので、ピアノを弾くには向いていないんだ。しかし、会員の皆さんに、少しでも喜んで頂ければ、と思って練習しているんだ。私は、プロの様に上手(うま)くは弾けない。しかし、私には会員の皆さんを思う真心があるんだ」と…。

「このピアノの音色は忘れるな。精一杯の私の激励だよ」と…。

池田先生は、指導もスピーチも何もかも制約され、それを傍観する学会最高幹部等のいる中で、会員の方一人一人の心の中に、師弟の絆を結ぶための激励として弾かれていたのです。


― 辞任発表 ―

1979年(昭和54年)4月24日(火)全国統一地方選を大勝利で終え、新宿文化会館で県長会が行われました。
全国から嬉々として師の下(もと)に集ったこの会合は、大歓喜の内に始まり終わることを誰一人疑う者はいませんでした。

「今日は会長交代だよ」との池田先生の一言で、会場は水を打ったような静けさに一変しました。
全幹部が、一瞬、何かわからなくなったのです。誰もが聞き間違いだと思いました。

「次ぎの会長は北条さんだよ」皆、初めてこの事態を呑み込みました。

池田先生は「だけど、何も変わらないんだよ!」と…。いつもと変わらぬ姿がそこにはありました。
場内のあちこちですすり泣く声が漏れ。その光景を慈しまれ、師は弟子に向かって。

「泣くやつがあるか。大難が来たんだ。これほどの喜びはないじゃないか」と言われ、会合終了後、エレベーターの前で、参加者全員と握手し、激励されました。

その後、池田先生は「学会は私を裏切ったな。しかし、私は学会を裏切らないから安心しなさい。私は何も変わらない。恐れるな!私は戸田先生の直弟子である!正義は必ず勝つ!」と言われました。

その後、会長勇退記者会見のため聖教新聞社に向かわれました。

新宿文化会館5階よりエレベーターに乗った池田先生は、その扉が閉じる寸前に。
「もう、ドラマは終わってしまったよ――」と…。
そして1階で止まるなり、
「さあ! 新しい時代の幕開けだよ!」と。

エレベーターの扉は無限の空間の前に開かれ、そこから傷だらけで、血まみれになっても尚、戦うことをやめぬ、真実の戸田門下生の壮絶な死闘が開始されたのです。

その後、聖教新聞社において、会長勇退が発表。

宗門からは、4項目の要求が出されました。

一、全ての会合において、出席し指導してはならない。
二、聖教新聞に、名誉会長の記事を載せてはいけない。
三、信徒の団体で、師弟という考えはない。
四、名誉会長を、会員に先生と呼ばせない。

池田先生は、これを受けて。

一、個人指導をしていこう。
二、聖教新聞に別の形で、いろいろな記事を載せていこう。
三、人生の師弟でいこう。

と決められたのです。

この日の、池田先生の日記には

「あまりにも 悔しき  この日を 忘れまじ  夕闇せまりて 一人歩むを」

とあります。

池田先生は、生命を削って、日本の平和、世界の平和、全民衆の幸福のために戦ってこられました。また、宗門を守ってこられました。
その答えが、師弟を忘れた最高幹部と、ドス黒い欲望と権威に凝り固まった、坊主共の裏切りだったのです。

弟子であるならば、この師匠が受けた屈辱を、断じて、断じて、忘れる訳にはいかない!
学び、語り継いでいかねばならない歴史。怒りをもって、断じて悪を許してはいけない歴史だ!


「紅の歌」 2 「嵐の中」