男子部と

大変だ!
男子部の本部で行っている、人材グループを壮年部の私が担当することになった。
本部長1人、部長0人という現状を考えると、何かやれることがあるのではないかと考えたからだ。
それに、この男子部U本部長のますっぐな目で訴えられると、断ることなんてできない。(笑)
週に一回、我が家に集ってくださるとのこと。
真剣勝負だ!
創価の熱き魂」を学びあい、共に成長の歴史を刻んでいきたい。

最高協議会


日蓮大聖人の仏法は、「一人の人間革命」を成し遂げ、ついには全人類の宿命の転換をも可能にする「希望の大法」である。
しかし、せっかく、この大仏法にめぐりあいながら、何か起こると、心ゆらぐ弟子もいた。
いくら大聖人が弟子たちのために真剣に祈られても、弟子のほうが「不二の心」でなければ、祈りはかなわない。
御書には、こう仰せである。
「あなたがたはそれぞれに、日蓮の大切な味方である。ところが、私が頭を砕くほど真剣に祈っているのに、今まで明らかな現証がないのは、この中に心の翻る人がいると思われるのである。思いの合わない人のことを祈るのは、水の上に火をたき、空中に家を建てるようなものである」(御書1225頁 通解)
御書には、信心退転の者の末路が、いかに悲惨であるか、繰り返し述べられている。
それは、断じてそうなってはならないとの厳愛の御指導と拝せよう。
身は退転していなくても、心が退転している者。
自分が退転するだけでなく、同志を悪道に転落させる者。
あろうことか、師匠を誹謗し、広宣流布を破壊する者。
そうした人間の姿が、御書に厳然と留められている。
少々長くなるが、心して拝したい。
法華経を経文のように持つ人々であっても、法華経の行者を、あるいは自分の貪り・瞋り・癡の三毒煩悩のために、あるいは世間的なことに寄せて、あるいはさまざまな行動を見て、憎む人がいる。この人は、法華経を信じていても、信ずる功徳はない。それどころか、かえって罰を受けるのである」(御書1247頁 通解)
「この法門についた人は数多くいるけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年、二年はついてきたものの、後々には、皆、あるいは退転し、あるいは反逆の矢を射た。また、あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、あるいは心は堕ちなくても身は堕ちてしまった」(御書1180頁 通解)
「初めは信じていたのに、世間の迫害が恐ろしくて、信心を捨てた人は数知れない。そのなかには、もとから誹謗していた人々よりも、かえって強く誹謗する人々もまた多くいる。仏(釈尊)の在世にも、善星比丘などは、はじめは信じていたけれども、あとに信心を捨てたばかりでなく、かえって仏を誹謗したゆえに、仏の大慈悲をもってしても、いかんともしがたく、無間地獄に堕ちてしまった。」(御書1088頁 通解)
日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのような大難(=佐渡流罪)にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分のほうが賢いと思っている。このような歪んだ心の者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちたままになることは、不憫としか言いようがない」(御書960頁 通解)
「(歪んだ心の者たちが)『日蓮さんは私たちの師匠ではあられるが、あまりにも強引だ。(師匠と違って)柔らかに法華経を弘めましょう』と言うのは、ホタルの光が太陽と月を笑い、蟻塚が崋山(約2000〓の中国の名山)を見くだし、井戸や小川が大河や大海を軽蔑し、小鳥のカササギが偉大な鸞鳥と鳳凰を笑うようなものである、笑うようなものである」(御書961頁 通解)


いまだ勝れた法を得ていないのに、それを得たと思い上がる。
この「増上慢」を仏法は厳しく戒めている。
開目抄」には「知恵がない者は、増上慢を起こして、自分は仏と対等だと言う」(御書226頁 通解)との摩訶止観の言が示されている。
惰性になるな!
我見になるな!
増上慢になるな!
この大聖人の叫びを、断じて忘れてはならない。


日々、御書を拝することだ。
民衆よ強くなれ!
民衆よ賢明になれ!
そうした悲願が、御書には脈打っている。
人権の確立も、社会の改革も、その根本の指標は御書の中にある。
21世紀は、しんできた民衆が、晴れ晴れと歴史の主役に踊り出る時である。
御書の利剣を高々と掲げ、新しい時代を切り開いていきたい。
私の心には、恩師の力強い声が響いている。
「私が打てる手は、全部、打っておいたぞ。あとはお前が、思う存分、戦いまくれ!
勝って勝って、勝ちまくれ!」
未来の勝利をつくるのは今である。
いよいよ次の人材を育てながら、異体同心で、永遠の発展の道を築いてまいりたい。

【最高協議会 2006.2.27付 聖教新聞

私は、わがままで我が強いほうだが、日々戦っているメンバーと語り合っていると、自然に謙虚になっていく。
同じ同志から、大変なことにあっていても、戦いつづけている人がいる。宿の嵐の中、懸命に戦っている人もいる。まっすぐに信仰を貫いている大先輩がいる。
そんなメンバーを見て、慢心を起こせるはずがない。少しの想像力があれば、自分の戦いに手を抜くことなんてできない。
真剣にならないほうがおかしい。


私は教学は、得意ではない。こんなことを、先生に報告したら「じゃあ、得意になればいい」と言われそうだ。


先生はすべての手を打って下さっている。
自分はどうだ!これぐらいでいいのか!
常に自分自身に問え!因をつむ事ができているか!
慢心はないか!妥協はないか!
日々御書を拝し、日々前進だ!