Hatena::ブログ(Diary)

読み捨てられてゆく言葉たち このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2011-12-21

出版業界の現状をシニカル目線でちょっとだけマジメに考えてみる その1

また、まとまってもいないのにつらつらと勝手な思いつきを書こうと思う。

基本的にビジネスで今よりも「売り上げを上げたい」と思ったら、大きく分けて以下の3つのポイントしかない。

  • 商品単価を上げる
  • 顧客単価を上げる
  • 顧客の数を増やす

売り上げではなく利益を上げたい、という場合は「コストを下げる」という方法などもあるわけだが、それはまたベクトルが違うので、今回は割愛。


で、これ自体の考えについて一企業的な考え方というのはよくある話なんだけど、「業界」という全体像で捉えた話というのが、今の日本の産業界ではすごく必要になっていると思う。


代表的な例でいえば、自動車業界で「若者の自動車離れ」なんて言葉でいくら誤魔化しても当たり前だが売り上げは伸びないし、救われるわけではない。

上記3つのポイントでいえば、商品単価を上げてでも買ってもらえるような魅力的な商品を作るか(ただし、競合との価格競争は免れない)、やはりこれもまた魅力的な商品を早い回転で発表して、ユーザの買い替えサイクルを短くするか(現在の産業構造の大部分はここに依存していると個人的には感じる、それこそが疲弊構造を招いているとも思うがこれは余談)、若者にも自動車に乗ってもらえるようにするか、若者以外で新たな客層を獲得するか、といったことをしなくてはならないわけだ。

当然、自動車業界も色々考える。

商品単価に関しては業界全体で足並み揃えばできるけど、それはカルテルや談合になるし、競合との価格競争考えると簡単にはできない。ベンツとかロールスロイスくらいだろう。

顧客単価を上げる(購入サイクルを早める)ことと、商品の性能を高めることが矛盾するジレンマに陥る、という本質的構造もなかなか変え難い。ただし、「エコカー」という新規需要を生み出すことで、多少は改善された。

で、今最も業界(個の企業ではなく全体として取り組もう)としてを力を入れなくてはいけない部分として「顧客を増やす」というポイントが注目されているわけである。

自動車に関する税金を見直せという動きもそうだし、法律改正への動きもそう。もちろん業界全体だけじゃなく、会社ごとにも動きがあって、某社が若者を取り込もうとして訳のわからない意味不明のWebサイトとキャンペーンやっちゃうのもそう。周辺産業である自動車保険業界が外資のおかげで値段が安くなっているのも、自動車業界全体の流れのひとつだろう。

少ないパイを食い合って、互いに傷つけ合うだけではジリ貧だから、業界全体で頑張ろうね、という構造にようやく転換してきたわけだ。


ここまでは私のあくまでもイメージであって、ちゃんとした経済評論家の人から見たら「全然違うよ」という話だったらスミマセン。


で、非常に長かったですが、ここまでが前段です。

この自動車業界に負けず劣らず、業界としてシュリンクしているのが音楽業界と出版業界なわけで、音楽業界のことはよくわかりませんが、出版業界に関しては一応足を突っ込んでいるので、実情も含めて、個人的には危機感を非常に持っています。

では、3つのポイントについて出版業界としてはどういった動きがあるのか。

まあ、商品単価を上げる、ってのはなかなか難しいんですが、その上でさらに話がややこしいのが「再販制」の問題と、「本の値段のつけ方」というものがそもそもよくわからん、という2点のせいで単純にうまくいかない、ということが出版業界の場合はあるんですな。

この辺は話し出すと再販制を語るだけで長くなるので、ひとまず置いておき、それはそれとして、「価格が高い」商品については各社独自の判断で最近は多く出始めています。これは売り上げの問題も大きいですが、利益構造の変化という点についてのほうがおそらく貢献度は高い。

宝島社を中心とした付録併売商品もそうだし、豪華本もそう。方法論的にはディアゴスティーニの週刊シリーズなんかもこれにあたる。

とはいえ、自動車業界の話とも同様、商品自体を変えないと価格もなかなか簡単には変えられない構造というのは致し方ない部分もあるわけです。


では「顧客単価を上げる」という点についてはどうなのか。これはある意味悪い方向に走っていると思います。要するに、今は本を「読む人」と「読まない人」の二極化が進んでおり、一人当たりの顧客単価は上がっているけど、顧客の数が減っている、ということです。

しかもそれがマズいのは、業界が狙ってそうしたものではない、という点。いつのまにかそうなっていたわけです。

イヤ別に顧客単価が上がっているのはいいことじゃね?という意見もあるかと思いますが、問題はここが徐々に飽和状態に近づいている、という点です。当たり前ですが、顧客の可処分所得には限界があるし、読む量にも限界があります。

私自身、年間20万近く書籍・マンガにお金を使いますが、これ以上増やすことは正直難しい。

しかも、意図してこの状況を作り上げたのなら、まだ「次のステップ」と考えられるかもしれませんが、そういうわけでもないので、手を拱いているような状態です。


では、出版業界として、現状の問題点がどこにあるのか、どういった手を打つ必要があるのか、というあくまでも私の勝手な自論をについて次回に述べたいと思います。 < こんだけ書いといて次回かよ!

2011-12-10

詭弁だけの会話

弁護士「彼らはゲームに精神を汚染され、ゲームの世界で行われている行為を現実の世界でも行ったのです。ゲームにはそれだけの影響力がある。だからゲームは危険だ。ただちにゲームを禁止すべきです。悪いのは彼らに影響を与えたゲームであって彼らではない。」

裁判長「反対尋問はありますか?」

検事「あなたの主張はよくわかりました。ところで弁護士、あなたはなぜ弁護士になろうと思ったのですか?」

弁護士「『アラバマ物語』を見て、主人公の弁護士アティカスに憧れたからだ。彼の正義を貫く姿に感動した。もちろん原作も読んだ。どちらも素晴らしい。今の私があるのは『アラバマ物語』のおかげだ」

検事「よくわかりました。つまり映画や本にも大きな影響力がある、つまり映画や本も危険だから禁止すべき、ということですね。」

弁護士「いや、それは…」

検事「以上です、裁判長」

2011-12-07

ポップカルチャーにおける蓄積と時系列と進化と成熟 〜ミステリ編〜

んでもって続き。といいつつまったくまとまってないが。


ミステリ者なら既にお分かりのことだと思うが、この「蓄積」と「時系列」ってのがミステリにおいては非常に大きな部分を占める。特に本格。要するにアレです、「トリック」というやつですね。

これに関してはミステリ界は非常に厳しい。既に使われているトリックなんか使った日にゃあコテンパンです。っていうかまず使えない。少なくともほとんど商業的には刊行されない。同じじゃなくとも似たようなトリックだというだけでも結構厳しいこといわれる。いわゆる「トリックの著作権」と呼ばれるものだ。


本線とはズレるんだけど、個人的にはこのことに関してはもう少し寛容でもいいのでは?と思ったりもする。同じトリックを使って全然違う話を書いて、そっちの方が面白いってことは充分ありうるわけだし、なによりこの「蓄積」と「時系列」がみな一緒なわけではないので、知らない人にとっては充分楽しめる作品になる可能性も高い。正直、「トリックはいいのに作品としてみるとな…」という作品もないわけではないし。

なにより使い回せないとなるとトリックは枯渇していく。実はこの部分にこそ本格冬の時代の一つの要因があるのではないかとも思っている。


それはそれとして、このミステリにおける「トリックを知っているか知っていないか」がどういったことをもたらすかというと、単純に同じ作品を読んでいても「蓄積」と「時系列」で楽しみが全然変わる、ということである。

もちろん、どんなポップカルチャーでも個人差ってのはあるわけですが、ことミステリに関しては(それも特に本格では)顕著であるということ。

ある本格ミステリを読んでいたとして、「蓄積」が多い人は、それまでの蓄積から多くの推理を排除していくことができる。つまり、「前に読んだから(著作権に関わるから)、このパターンはないな」とか考えられるわけである。

対して、「蓄積」が少ない読者は、色んな推理を働かせる。比較材料がないからどんな手でくるかまったく持ってわからないわけだ。

当然、真相がわかったときの衝撃度も違う。熟練者には熟練者の楽しみがあるし、初心者には初心者の楽しみがあるので、こうした「読み方の違い」が別に悪いわけではないと思うわけだが、個人的にはここに多少の引っ掛かりを感じている。


またまた余談になるが、この「蓄積」による楽しみ方の違いを、作品でうまく生かしたのが米澤穂信の『インシテミル』である。感想についてはこちらを参照していただくとして、ミステリの熟練者、初心者、両方をお互いの立場で楽しめるように書かれているところが素晴らしかった。これはその「ミステリ界の暗黙のルール」を逆手に取ったうまいやり方である。


閑話休題。

で、なにが引っかかるのかというと、こうした「蓄積」や「時系列」が非常に大切なミステリというジャンルにおいて、「蓄積」と「時系列」をフォローする部分があまりにも少ないのではないかということだ。

MYSCONのスタッフとして、MYSCONで多くのミステリ強者の方々とお会いしたり、その方々から色んな話を聞いたり、MYSCONに参加することで自分がミステリ者として「蓄積」を深めていったことは間違いない。

その際に思ったことは、こうした知識の「蓄積」が今まで自分の知らなかったミステリの楽しみ方を教えてくれ、ミステリの世界が更に広がった、ということだった。

熟練者が初心者に戻ることはできないが、初心者が熟練者に近づくことはできる。別に無理に近づくことはないのだけれど、よりミステリを楽しみたい、という思いがある読者を熟練者に近づけてあげる手段とか場はあるに越したことはない。

そして同時にそういう手段や場がなければ、ミステリという市場自体が萎んでいく可能性も大いにあると思う。

ミステリを楽しみたい奴は自助努力で頑張ればいいんじゃねーの、という意見もあるかもしれないが、それこそ読書という行為自体が、他のエンタテイメントに押されている現状を見るにつけ、ジャンル自身を盛り上げるということなくして、ジャンルの衰退は免れないのではないかと勝手に危惧しているわけである。と同時に、それがなくてはジャンルの「進化」と「成熟」もないのではないか、とこれまた勝手に悲観しているのである。


じゃあ、いったいどうすんのさ、という声が聞こえてきそうだが、ひとつ考えているのはミステリ版「マンガ夜話」みたいなものができないかということだ。

BSマンガ夜話」がもたらした功績というのは非常に大きいと私は思っていて、それまでは単なる「消費物」であったマンガというジャンルを、「考察に値すべき」存在に引き上げたこと、マンガを語る、という行為を認めさせたこと、そしてかつての名作を、まだ読んでいない読者に対して「読んでみたい」という気にさせたこと、という点でマンガ界に大いに貢献したと思っている。

同じようなことをミステリというジャンルでできないか、ということだ。というかやってみたい。

他にも色々と考えなくてはいけないとは思うし、実際考えてもいるわけだが、自分自身がミステリ強者ではないので、自分ひとりでは動けない部分がもどかしい。

ただ、来年からはこうした「ミステリというジャンルを盛り上げる」運動に少しずつ関与していきたいなあ、と思っている。

周りであおりを食う人がいたらスミマセン、が、よろしくお願いいたします。


まあ、そもそも長々と書いたこのエントリに「首肯できんなあ」という人も沢山いるのだとは思いますが、もしコメントなどいただければ、そうした意見の遣り取りすらも私自身はジャンルの盛り上げに一役買うのではないかと期待しています。