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読み捨てられてゆく言葉たち このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2012-11-14

「紙の本」という「デバイス」について考えてみる

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 Kindleの発売が発表され、さらにはあまり目立ってはいません(笑)が日本でもLideoの発売が発表されるなど、SONY Readerkoboといった既存の端末も含めて電子書籍の状況も「デバイス」という単位で議論されることが多くなってきました。

 また、電子書籍端末だけでなく、タブレット端末についても百花繚乱の時代に突入し、iPad miniNexus 7Kindle HDなどデバイス戦争は今後いっそうの激しさを増すことでしょう。


これらを比較検証した記事も多く出ていますし、ブログSNSでも各端末に対する感想や不満、要望もそこら中で散見されます。

 曰く、「持ち運ぶには重い、軽い」「液晶は目が疲れるからEインクがいい」「解像度が〜」「扱いやすさが〜」といった感じ。

 こと「電子書籍端末」もしくは「コンテンツを読むための端末」として考えた時に、使用環境使用者属性、そういったものも含めて様々な意見が飛び交うのが至極当然だと思います。万人に向けてベストのデバイスというものは存在しないと思うし、あとはターゲットシェアなどに左右される。その証拠にデバイスは、大きさや重さ、機能も含めてこれだけの種類が出ているわけで、メーカー各社は「最もベストに近い形」を探り中なのではないかと。

 で、電子書籍端末として、という視点でものを語ろうとすると、当然出版業界の方々は、特に一家言お持ちなので、ここ最近で私も多くの方の意見をお聞きしたわけです。ざっくりの意見から細かい意見まで色々とありつつも、皆それぞれに「こういう意図に従って最適化されるべき」という意見をお持ちなわけです。意見自体はそれぞれに違うわけですが、「もっとこうすべきだ」という意見をお持ちでない人は殆どいませんでした。そうした意見を聞く中で、ひとつの疑問を私は持ちました。


 じゃあ翻って、紙の本、というデバイスは「最適化」されてるのかい?


 皆さんご存知のように、紙の本、というものは大きく分けて以下のようになります。

 雑誌ムックコミックというジャンルにおいては上記以外の判型が適用される場合もありますが、それらに関してもある程度統一のルールはあります。コミックでいえば少年コミック青年コミックの判型違いなどがわかりやすい例でしょう。


 さて、ではこうした判型はデバイスとしてみた時に「最適化」されたものとして存在しているのか?個人的にはやや疑問である、というのが私の感想です。

 「いやそんなことはない。だってハヤカワ文庫がホンのちょっと他の文庫と大きさを変えたら、そこかしこから不満が噴出したじゃないか。だから少なくとも文庫最適化され、完成されたものだ」という意見もあるかもしれません。

 しかし、それについても「既存のものと大きさが変わったために、棚に入れにくくなった。ブックカバーが使えなくなった。見栄えが悪くなった。」といったものが殆どで、デバイス本来のユーザビリティという点で既存文庫に劣っているのか、という点についてはあまり語られていないと思います。


 「いやいやだから外的環境要因だって最適化の条件の一つだろう」という意見については私も同意します。というかほぼこの理由だけで、「紙の本」というデバイスはここ数十年の間、形を変えずにいるのだと思います。

 ページの大きさひとつとっても、元の紙の大きさ、印刷機の大きさ、裁断機の大きさ、製本機の大きさ、流通ダンボールの大きさ、書店の棚の大きさといった外的環境要因に依存しているからこそ、変化しない。

 四六、新書文庫といった三段構えに関しても、特に小説世界であれば、「新書落ち」「文庫落ち」という形を用いて、ひとつのコンテンツで3回商売ができる、というメーカー側から見た利点によるところが大きいでしょう。これに関しては、文庫書き下ろし、もしくは最近の京極夏彦の作品のように、各版型の同時発売、といった試みも行われているので一概には言えません。が、一度ならず「最初から文庫で出してよ」と思ったことがある人は多いはずです。


 私個人でいえば、先月末『ソロモンの偽証』を読んでいて、「この重さ、この厚さの本を毎日、それも第三部まであるので二週間持ち歩くのは正直拷問だ。」とぶっちゃけ思いました。宮部みゆきが好きだから買うし、読みますよ。でもね、カバンは膨れるし、重くて肩は凝るわ腕は疲れるわ、ハッキリいって辛かった。

 しかもね『ソロモンの偽証』1冊で、タブレット端末の倍くらい重いし、koboKindle Paper Whiteと比べたら4倍くらいの重さがあるんですよ。紙の本派の私でも今回ばかりは「電子書籍で読みてえ」と切実に感じましたよ。


 私は別に「四六の本に意味なんてなくね?」という話をしているのではありません。四六には四六の存在意義はあってしかるべきなのかもしれませんが、それこそが「最適化されて提供されているものなのか」ということです。というかその結論がすぐ欲しいわけではなく、それを突き詰めて考えることで、紙の本というデバイスにもまだまだ可能性があったりするんじゃないのか?ということです。

 外的環境要因が全てではないはずですし、ユーザニーズや現在の出版ビジネス環境を考えた時、既存の外的環境要因を打ち破れるだけの新たな紙の本のデバイス、というものは本当に作れないのでしょうか?

 少なくとも現状は、出版社を含めた供給側の論理の方が強いと感じます。

 私自身は紙の本に関して、議論が尽くされたとも、実験・試行を繰り返してデータや結果が出ているとも正直思えないんですよ。そんな状況の中で「これからは電子時代だ。紙の本は終わる。」という結論が出てしまっている(ように見える)のが、とても残念。


 おそらく、「読書する」という行為に関して、デバイスとこれほどまでに真剣に向き合うことは、これまでの出版業界の中ではなかったのではないか、もしくはあったとしても、それはかなり昔のことで、現在の状況に沿ったものではないのではないか、と私は思うわけです。

 だからこそ、せっかくのこの機会(というのは業界人だけでなく、読者自身もデバイスというものと向き合う意識を持ち合わせていると思われるので)に、改めて「紙の本」というデバイスを考え直すことをしてもいいんじゃないだろうか、というのが大袈裟に言えば私の提言です。


 じゃあ、どうすれば、という話はここでは書きません(ここまで書いて既に疲れました)。ただ、この「紙の本というデバイス」という視点も含めて、出版業界は色々と変革を行う必要、というかチャンスが今まさに目の前に来ていると思うわけです。

 個人的には電子書籍、もしくは出版不況といった「表面的な大きな流れ」に流されるのではなく、改めて紙の本も含めた「読書とは」という点に立ち返って色々と試行錯誤していきたい、というのが今の自分の正直な気持ちであります。


 以下は、上記の論考にうまいこと含められなかった単品での話。余談、追記的なものとして呼んでいただければ。

 ここ最近、雑誌を多く出している、もしくは雑誌がメインの販売物となっている出版社の方とお話をすると、「雑誌の売り上げは厳しいけど、ムック好調である」という話を良く聞きます。これは、ユーザニーズがそれだけ「的をしぼった」ものになっているひとつの証左でしょう。色々なコンテンツが載っている「雑誌」というデバイスよりも、ひとつのテーマに絞られた「ムック」というデバイスの方が好まれるようになっている、ということです。また、なぜそれが「ムック」であって「四六」ではないのかといえば、そこにもターゲットデバイスの関係性が見えてくるはずです。

 「最適化」というのは決して、デバイス機能や性質を高めていくだけの話ではなく、既存デバイスの中でも行えるのではないか、というひとつの論拠として挙げさせていただきます。


 もうひとつの話は、小さい話ではありますが、印象深く今でも忘れられないので記しておきます。

 もう7年も前のことになりますが、東野圭吾の『容疑者Xの献身』が発売された時、その表紙について「指紋がベタベタつく上に目立ってしまってイヤだ」という意見が書店や読者から多く出た、ということです。

 版元側は当然、「この表紙が美しいし、作品に合っている」という気持ちで作ったと思いますし、それ自体は正しかったのかもしれませんが、それ以上に不満の方が大きかった、という点において、供給側の論理というのがユーザニーズとマッチしない、という一例として思い出されました。

 まあ、Web世界でも、あるサイトトップページを訪れたらひたすら重いFLASHが流されて、なかなか該当のコンテンツに辿りつけない、みたいなことがあるわけで、供給側とユーザニーズミスマッチというのはどこの世界にもあるんですけどね。

2012-11-01

なぜ、ももクロにハマるのか?

なぜ、ももクロにハマるのか?を含むブックマーク

 友人から紹介された以下のサイトの文章を読んで触発されたので、私も自分自身の心の整理のためにももクロについてちょっと書いておこうと思う。

問.ももいろクローバーはAKB48とどこが違うか。


 私の知人友人は既にご存知の通り、この1ヵ月半の間に、自分でも驚くほど激烈炸裂強烈破裂爆裂もーれつ*1スピードももクロにハマりました。

 高校生時代原田知世さんのファンになったという経験はあるものの、いわゆるアイドルヲタ的な要素は自分にはないと思っていただけに、なによりも自分自身がビックリするほどのハマりぶりで、手に入る全ての楽曲を入手することはいうまでもなく、ライブやTV番組のDVDブルーレイを買い、冠番組を欠かさず見、YouTube動画を手当たり次第に見、それに飽き足らず南海キャンディーズ山ちゃんプロインタビュアー吉田豪ももクロについて語るラジオPodcastまで聞き、ついにはライブに直接足を運ぶところにまで来ています。

 これたったの1ヵ月半の間に起こったことです。


 自分がここまでももクロにハマったことは、自分精神状態なども要因としてありますが、「ではなぜ他のアイドルではなく、ももクロなのか?」ということは一考に値する題材だと思い、ここに私なりの分析を書いておきたいと思います。


 そもそも論から入って恐縮ですが、ではいったいアイドルとはなにか、という話です。

 そして同時にももクロアイドルなのか、という話です。

 2つ目については実は容易で、ももクロアイドルではない、少なくともこれまでの定義で語られてきたアイドルではない、というのが私の結論です。


 それはなぜか。というところで1つ目の話になります。

 アイドル定義論争にはしたくないので、ここで肝となる象徴的事象についてのみ語りたいと思います。

 実は「アイドル」という職業は存在しません。

 彼女、彼らは、俳優でありアーティストであり、バラエティタレントであり、もしくはそれら全てであり、それらを職業とする、「若くて見栄えのする」存在のことです。

 もちろん、その中でも「アイドル」という存在に変遷はありました。

 そして、おニャン子クラブに始まり、モーニング娘。AKB48のように、その存在は徐々に近しいものになってはいきましたが、本質的には俳優であり、アーティストであり、バラエティタレントであり、その職業という範疇の中ではアイドル以外の存在と同義の存在でした。

 つまり、出自個性といった違いこそあれ、同一線上で語ることができる存在である、ということです。

 もし、ももクロがこの範疇に入るのであれば、私がももクロにハマった理由は単純で、そもそもアイドルヲタとしての素養があり、たまたまその中で一番好みだった、というだけのことです。

ただ、自分としては決してそうは思えなかったので、今こうしてその理由を書いているわけですけれども。


 ではももクロは他のアイドルとどう違うのか」。

 細かい部分は色々とありますが、私がハマった最も大きな理由(と思われるもの)、そしてももクロを他の存在と同一線上で語ることのできない最も大きな要因が、「楽曲」です。そしてもっと言ってしまえば、その「歌詞」にあります。


 モノノフももクロファンのこと)にとっては解説するまでもありませんが、ももクロ楽曲歌詞の多く、それもシングルで発表される歌詞の殆どに、「彼女たちの自己紹介」もしくは「彼女たちの名前」が入っています。

 これまでもアイドルの曲、もしくはアイドル以外のアーティストの曲でも遊びとしてそうした「自己紹介曲」が作られ、歌われることは多くありました。

しかし、発表される楽曲楽曲の殆どでしつこいほどに「自己紹介」が語られる、ということはかつてなかったでしょう。


 より実証的にいえば、これまでのアイドルも含めた多くの楽曲というのは共感性」というものが大きなキーワードになっていました。

 どういうことかというと、同性であれば歌に歌われている同性の気持ちになって共感し、異性であれば歌に歌われているような異性を求めたりすることが、少なくとも日本という国では必須といってもいい要素だったのです。

 これは「私小説文化」と呼ばれる日本に顕著な事例であることもさることながら、カラオケという文化の影響も大きいと思われます。

 つまり、彼女、彼らたちの楽曲は、イコール「聴き手自身」の楽曲になるからです。

 だから聴き手は彼女、彼らたちの曲を気持ちをこめて聴くことも歌うこともできる。それゆえに多くの人の共感を得た楽曲が売れる。そういう仕組みです。

それはそれでまったく悪くはない。


 ところが、これがももクロになると話は変わってきます。

 前述したように彼女たちの楽曲にはまさしく彼女たち自身が歌詞として存在し、彼女たち自身の言葉として発せられるのです。

このことは当然「共感性」の欠如をもたらします。だって、聴き手は彼女たち自身ではないのですから。これまでの多くの楽曲で「私は」「僕は」という言葉で語られてきたものが、「ももいろクローバーZ」として、「百田夏菜子」「玉井詩織」「佐々木彩夏」「有安杏果」「高城れに」(&早見あかり)として語られてしまうのです。


 しかし、この共感性の欠如は同時に「強いメッセージ性」を持つことになります。

 「どこの誰とは知らぬ人」から送られてくるメッセージではなく、ももいろクローバーZという明示的な存在、それも「いま会えるアイドル」という身近さを持つ存在が聴き手に対して語ってくるわけです。

 これはメッセージを受けた側にとっては非常にインパクトがあります。


 AKB48はその革新的なプロモーションシステム業界を席巻していますが、しかし彼女たちの楽曲、少なくともシングルカットされる曲の多くは、AKB48からのメッセージではなく「共感性」をもたらすものであり、システムを除いた「存在」としての彼女たちは、これまでのアイドルと同一線上に語ることができます(パワーは桁違いかもしれませんが)。


 ももクロ楽曲というと、ヒャダイン前山田健一提供のものをはじめとして、現代風のアレンジやコミックソングと間違えられそうな歌詞に注目が集まりがちなのですが、私自身がハマった経緯から考えても、実はこの「明示的な個から個へと送られるメッセージという部分が最も重要なのではないかと考えています。


 そして、そんな彼女たちから送られるメッセージがまた明確です。

 「全力・笑顔・元気」突き詰めてしまえば、これだけ。

 象徴的なのは、彼女たちが6人から5人になった時に、心機一転発表された『Z伝説 〜終わりなき革命〜』の歌詞でしょう。

わたしたち 泣いている人に何ができるだろう それは力いっぱい 歌って 踊ること!

 そうです。彼女たちはまさしくこの歌詞の通りのことを体言しているのです。

 ももクロ楽曲歌詞を紐解けばそこかしこに「笑顔」「元気」という言葉が出てきます。もしくはそれに類する言葉の雨嵐です。

 なので、「今ちょっと元気ない」「頑張りたいけど頑張れない」というような人にとっては、ピンポイントで突き刺さります。しかも、それを若くて可愛い女の子が自らの存在をかけて自分に伝えてくれるのです。

 しかも、一度でもライブを見ればわかりますが、それを言葉だけでなく彼女たちは全身で全力をもって表現します。

 それで心が動かない方がどうかしている。オレはライブ見ると毎回泣くよ。


 この「楽曲独自性」が、私がももクロを「アイドル」という範疇に置かない大きな理由です。

 まあ、彼女たち自身は歌詞の中で「われらはアイドル」と歌っているんですけどね。少なくとも他のアイドルたちと同一線上では語れない、とは言っていいと思います。

 もちろん、彼女たちの楽曲の中にも「共感性」がメインに据えられている曲もあるし、「強いメッセージ性」がない曲もあります。

 ただ「一見ひたすら単なるバカっぽい曲」であっても、それこそが「笑顔を作る」ということを体言しているから油断できない。


 また、この「楽曲の持つ独自性」がこれまでのももクロの歩みにも大きな影響を与えています。

 それは決していいことばかりではなく、「共感性」を排除したがゆえに、広く一般に売れる、ということができにくくなった、ということがひとつ。

 そして同時に、私のようにハマる人は一瞬にして、とてつもなく深くハマる、ということです。

 モノノフ歴1ヵ月半の私が言うのもなんですが、今年に入ってからももクロブレイクしているのは、単純に知名度の浸透、というだけでなくこうした「ハマっている」ファンを徐々に徐々に上積みしてきた結果だと思います。

 私の周囲には4人のモノノフがいますが、そのうち3人が都内在住でありながら、全国各地のライブに参加しています。どんだけ強烈にハマってるねん、と思いますが、ももクロファン、モノノフたちの多くはそんな感じでしょう。


 さて長々と書いてきましたが、もちろんこの「楽曲独自性」以外にもももクロの魅力は数多あり、「楽曲独自性」などとは関係ない理由でモノノフとなっている人も多くいることでしょう。

 (それこそ吉田豪のいう「プロレス性」とかも要因として大きいのでしょうが)

 ただ、少なくとも私にとっては、「彼女たちのメッセージ」が今の自分にとっては大袈裟に言えば生きる糧であり、彼女たちの言葉があるから、こうして彼女たちを追いかけることに結びついています。


 そして最後にもうひとつ、付け加えるならば、「元気をくれた彼女たちに、お返しにオレらも元気をあげたい」という、文面にするとややエモい思いの等価交換もまた、ももクロにハマる大きな理由のひとつである、と言っておきましょう。


 たぶん、あとで冷静になって読んだらファンの超キモイ文章以外の何物でもないと思いますが、それもまた自分ということで。

通りすがったjiji通りすがったjiji 2013/01/08 10:15 はじめまして。
ももクロちゃんの中毒性はホント酷いですね。また、自分への言い訳なのか「なぜ好きなのか」を語りたくなってしまう対象でもあります。困った娘たちです。
このページを起点に、他の記事もこれから拝見させていただきますね。

(以下、業務連絡)
当方のブラウザはIE8です。複数のブラウザで確認しているわけではないことが前提です。このページもそうですが、いくつかのページが表示画面内で改行されず、下端のスクロールバーを操作しないと文書を読めません。
右側の時計やカレンダが表示される箇所が定義されていないせいでしょうか?
とりあえず、連絡のみ。

z007815z007815 2013/09/16 06:23 通りすがりのももクロファンです.これまでのアイドルとは,これを演じていることにアイドル自身もファンにも暗黙の了解がありました.だから台本通りに喋って歌うだけ.お人形さんみたいな娘もいました.

でも,ももクロはあんなに激しく歌って踊る.声も乱れるし息づかいも聞こえる.それは生きている人間なら当たり前のこと.

決まり切った台本じゃなくて,揺らぎが自分達の予想を裏切る.モノノフはこれを期待してさらに裏切られて,そして目が離せなくなるのではないでしょうか.

ちなみに私が初めて怪盗少女を見た時,何も知らなかったのに泣きそうになりました

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2012-08-30

『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』飯田一史(青土社)

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 友人(?)に薦められて読んだわけだが、思った以上に良書だったので、レビューを。

 特に、出版業界関係者は必読。ライトノベルを読んでいなくても大丈夫。私もほとんど読んでない(俺妹だけだ)。それでもこの本は「自分出版業界人間である」と思う人なら読んだほうがいい。個人的には自分クライアントには配って歩きたいくらいだ。


 本書は大きく分けて2つのパートに分かれている。

 ライトノベル業界として捕らえ、総論や環境分析を語っている第1部、および第4部(と「はじめに」と「終わりに」)。

 そして、ベストセラーライトノベルタイトルをそれぞれ作品ごとに細かく分析している第2部と第3部、という具合である。


 個人的にはそれぞれのパートによって、ターゲットと語られる本質が異なっていると思うのだが、それがまたそれぞれにまったく違う面白さに繋がっていて興味深い。

 つまり、第1部・第4部に代表される業界分析出版業界関係者に向けて、第2部・第3部で語られる作品分析ライトノベル作家に向けて、読まれるべき内容となっている。作品分析パートは実際の作品を知らないとやや苦しいかもしれないが、知らずに読んでも頷かされる点は多々ある。

(もちろん、どちらの立場でも両方読むことがベストであることは言うまでもない)


 本書にはいくつかの特長があるが、私が思う本書の最大の特長は、「ライトノベル」というエンタテインメントについて、ベストセラーを生む要因がどこにあるのか、外的・内的要因について定量的・定性的な考察からアプローチしている、ということである。


 通常、「この本がなぜ売れたのか」という点について印象論によって語られることはあっても、定量的・定性的な考察からアプローチされることはほとんどなかった。

 それは「面白さ」を定量的・定性的に語ることなどできない、という諦めにも似た前提があったからである。


 しかし著者は本書で、「面白さ」という軸ではなく「なぜ売れたのか」という軸をとことん突き詰めることによって、可能な限り定量的・定性的に語っている。それが面白い。

 すべてがうまくいっている、というわけではなく、印象論に近い部分もあるし、定性的な部分に関しては、やや強引な部分も目立つのだが、それを差し引いても真正面から取り組んだ姿勢と、それによって生み出された説得力には素直に拍手を贈りたい。


 そして、その説得力を生み出しているもうひとつの要因が、マーケティングフレームワークに代表される、様々なフレームワークおよびビジネス的な概念の活用だ。

 本書の中には、4Pや5フォーシズといったマーケティングフレームワークをはじめとして、KBFやKSFといった指標、チームビルディングといったマネジメント概念がふんだんに盛り込まれている。

(この辺はいかにも「グロービス経営大学院」という感じだ)


 こうした用語や考え方に慣れていない読者にとっては、逆にとっつきづらい面もあるかもしれないが、個人的にはまさしくこうした知識やスキルこそがこの業界に最も足りない部分であるとも思っているし、これまで多くの業界関係者たちにこうした話をしても、それこそ自分たちの業界からは遠い話としてしか捉えてもらえないことが多かった。

 なので、自分たちの業界マーケティング的に見たら、こうなるのか、ということを知ってもらうためにも是非読んで欲しい。

ライトノベル作家志望者にとっては必要な情報というわけではないが)


 こうした考察に関しては、引用したい部分が多々あるのだが、ありすぎて困る。

 なので、今回はあえて引用はせず、「まあいいから読め、読めばわかるさ」というに止めておく。


 本書で書かれている内容は当然だが「ライトノベル」についてである。

 だからといって「自分業界関係者だがライトノベル担当ではない」とか「そもそも文芸じゃない」とかそういう理由で本書を手に取らないのはハッキリいって愚かな行為だ。

 せっかく著者が、環境分析から市場分析、様々なフレームワークを使っての考察を教えてくれているのだから、それを自分たちのエリアで活かすべきである。文芸だろうが、ノンフィクションだろうが、学術書であろうが、こうしたフレームワークが役に立たないということはありえない。

 この期に及んで「売り上げとか関係ないです。文化なんで。」とか言ってる場合であれば読む必要はないし、「理由なんかなくても売れりゃあいいんだよ」とか言ってるんであれば、おそらく本書を読んでもその価値は理解できないだろう。


 もちろんマーケティングは、すべてを良い方向に導く魔法のツールではない。

 しかし、それを知っていて使わないのと、知らないから使えないのでは大きな違いがある。

 と、同時に「売りたい」と口ではいうのに、何の行動にも出ないのは怠慢と同時に愚かなことである。

 だからこそ、自分たちが今おかれている環境・状況を把握することは大切だし、そのための知識・スキル必須だ。その上で、自分たちになにができるのか、なにをするべきなのかを見出す必要がある。

 出版業界は勝手に息を吹き返しもしないし、電子書籍金の卵でもない。生き残るためには戦略が必要だ。


 引用はしない、と書いたが、一文だけ本書から引用しておこう。

戦略がないことは、不幸である」

(本書 P.306)


 だからこそ、本書は業界関係者に読んでもらいたいし、その上で、自分たちには戦略が、そのための知識とスキルが必要である、ということを感じてもらいたい。


 おまけ:

 個人的には、これまで色々なところでばらばらに聞いていた電撃文庫の個別の戦略についてまとめられていたのが非常に面白かった。

 電撃文庫戦略について、キチンと取材して書けば一冊の本になりそうだし、企業経営者精神論主体のビジネス本なんかよりもよっぽど売れそうだと思った。

 これまで出版業界自身のマーケティングビジネスモデルについて、他業界が学ぶ・真似する、ということは滅多になかったわけだが、電撃の戦略には他業界が学ぶべき要素もありそうだし、ホントに売れるんじゃないだろうか。

 私自身が取材して書きたいよ。

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

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