「紙の本」という「デバイス」について考えてみる

 Kindleの発売が発表され、さらにはあまり目立ってはいません(笑)が日本でもLideoの発売が発表されるなど、SONY Reader、koboといった既存の端末も含めて電子書籍の状況も「デバイス」という単位で議論されることが多くなってきました。
 また、電子書籍端末だけでなく、タブレット端末についても百花繚乱の時代に突入し、iPad miniNexus 7Kindle HDなどデバイス戦争は今後いっそうの激しさを増すことでしょう。


これらを比較・検証した記事も多く出ていますし、ブログやSNSでも各端末に対する感想や不満、要望もそこら中で散見されます。
 曰く、「持ち運ぶには重い、軽い」「液晶は目が疲れるからEインクがいい」「解像度が〜」「扱いやすさが〜」といった感じ。

 こと「電子書籍端末」もしくは「コンテンツを読むための端末」として考えた時に、使用環境や使用者の属性、そういったものも含めて様々な意見が飛び交うのが至極当然だと思います。万人に向けてベストのデバイスというものは存在しないと思うし、あとはターゲットシェアなどに左右される。その証拠にデバイスは、大きさや重さ、機能も含めてこれだけの種類が出ているわけで、メーカー各社は「最もベストに近い形」を探り中なのではないかと。

 で、電子書籍端末として、という視点でものを語ろうとすると、当然出版業界の方々は、特に一家言お持ちなので、ここ最近で私も多くの方の意見をお聞きしたわけです。ざっくりの意見から細かい意見まで色々とありつつも、皆それぞれに「こういう意図に従って最適化されるべき」という意見をお持ちなわけです。意見自体はそれぞれに違うわけですが、「もっとこうすべきだ」という意見をお持ちでない人は殆どいませんでした。そうした意見を聞く中で、ひとつの疑問を私は持ちました。


 じゃあ翻って、紙の本、というデバイスは「最適化」されてるのかい?


 皆さんご存知のように、紙の本、というものは大きく分けて以下のようになります。

  • 四六(ハードカバー、ソフトカバー)
  • 新書
  • 文庫

 雑誌やムック、コミックというジャンルにおいては上記以外の判型が適用される場合もありますが、それらに関してもある程度統一のルールはあります。コミックでいえば少年コミックと青年コミックの判型違いなどがわかりやすい例でしょう。


 さて、ではこうした判型はデバイスとしてみた時に「最適化」されたものとして存在しているのか?個人的にはやや疑問である、というのが私の感想です。

 「いやそんなことはない。だってハヤカワ文庫がホンのちょっと他の文庫と大きさを変えたら、そこかしこから不満が噴出したじゃないか。だから少なくとも文庫は最適化され、完成されたものだ」という意見もあるかもしれません。
 しかし、それについても「既存のものと大きさが変わったために、棚に入れにくくなった。ブックカバーが使えなくなった。見栄えが悪くなった。」といったものが殆どで、デバイス本来のユーザビリティという点で既存の文庫に劣っているのか、という点についてはあまり語られていないと思います。


 「いやいやだから外的環境要因だって最適化の条件の一つだろう」という意見については私も同意します。というかほぼこの理由だけで、「紙の本」というデバイスはここ数十年の間、形を変えずにいるのだと思います。

 ページの大きさひとつとっても、元の紙の大きさ、印刷機の大きさ、裁断機の大きさ、製本機の大きさ、流通用ダンボールの大きさ、書店の棚の大きさといった外的環境要因に依存しているからこそ、変化しない。
 四六、新書、文庫といった三段構えに関しても、特に小説の世界であれば、「新書落ち」「文庫落ち」という形を用いて、ひとつのコンテンツで3回商売ができる、というメーカー側から見た利点によるところが大きいでしょう。これに関しては、文庫書き下ろし、もしくは最近の京極夏彦の作品のように、各版型の同時発売、といった試みも行われているので一概には言えません。が、一度ならず「最初から文庫で出してよ」と思ったことがある人は多いはずです。


 私個人でいえば、先月末『ソロモンの偽証』を読んでいて、「この重さ、この厚さの本を毎日、それも第三部まであるので二週間持ち歩くのは正直拷問だ。」とぶっちゃけ思いました。宮部みゆきが好きだから買うし、読みますよ。でもね、カバンは膨れるし、重くて肩は凝るわ腕は疲れるわ、ハッキリいって辛かった。
 しかもね『ソロモンの偽証』1冊で、タブレット端末の倍くらい重いし、koboKindle Paper Whiteと比べたら4倍くらいの重さがあるんですよ。紙の本派の私でも今回ばかりは「電子書籍で読みてえ」と切実に感じましたよ。


 私は別に「四六の本に意味なんてなくね?」という話をしているのではありません。四六には四六の存在意義はあってしかるべきなのかもしれませんが、それこそが「最適化されて提供されているものなのか」ということです。というかその結論がすぐ欲しいわけではなく、それを突き詰めて考えることで、紙の本というデバイスにもまだまだ可能性があったりするんじゃないのか?ということです。
 外的環境要因が全てではないはずですし、ユーザニーズや現在の出版ビジネス環境を考えた時、既存の外的環境要因を打ち破れるだけの新たな紙の本のデバイス、というものは本当に作れないのでしょうか?
 少なくとも現状は、出版社を含めた供給側の論理の方が強いと感じます。

 私自身は紙の本に関して、議論が尽くされたとも、実験・試行を繰り返してデータや結果が出ているとも正直思えないんですよ。そんな状況の中で「これからは電子の時代だ。紙の本は終わる。」という結論が出てしまっている(ように見える)のが、とても残念。


 おそらく、「読書する」という行為に関して、デバイスとこれほどまでに真剣に向き合うことは、これまでの出版業界の中ではなかったのではないか、もしくはあったとしても、それはかなり昔のことで、現在の状況に沿ったものではないのではないか、と私は思うわけです。
 だからこそ、せっかくのこの機会(というのは業界人だけでなく、読者自身もデバイスというものと向き合う意識を持ち合わせていると思われるので)に、改めて「紙の本」というデバイスを考え直すことをしてもいいんじゃないだろうか、というのが大袈裟に言えば私の提言です。


 じゃあ、どうすれば、という話はここでは書きません(ここまで書いて既に疲れました)。ただ、この「紙の本というデバイス」という視点も含めて、出版業界は色々と変革を行う必要、というかチャンスが今まさに目の前に来ていると思うわけです。
 個人的には電子書籍、もしくは出版不況といった「表面的な大きな流れ」に流されるのではなく、改めて紙の本も含めた「読書とは」という点に立ち返って色々と試行錯誤していきたい、というのが今の自分の正直な気持ちであります。


 以下は、上記の論考にうまいこと含められなかった単品での話。余談、追記的なものとして呼んでいただければ。

 ここ最近、雑誌を多く出している、もしくは雑誌がメインの販売物となっている出版社の方とお話をすると、「雑誌の売り上げは厳しいけど、ムックは好調である」という話を良く聞きます。これは、ユーザのニーズがそれだけ「的をしぼった」ものになっているひとつの証左でしょう。色々なコンテンツが載っている「雑誌」というデバイスよりも、ひとつのテーマに絞られた「ムック」というデバイスの方が好まれるようになっている、ということです。また、なぜそれが「ムック」であって「四六」ではないのかといえば、そこにもターゲットとデバイスの関係性が見えてくるはずです。
 「最適化」というのは決して、デバイスの機能や性質を高めていくだけの話ではなく、既存のデバイスの中でも行えるのではないか、というひとつの論拠として挙げさせていただきます。


 もうひとつの話は、小さい話ではありますが、印象深く今でも忘れられないので記しておきます。
 もう7年も前のことになりますが、東野圭吾の『容疑者Xの献身』が発売された時、その表紙について「指紋がベタベタつく上に目立ってしまってイヤだ」という意見が書店や読者から多く出た、ということです。
 版元側は当然、「この表紙が美しいし、作品に合っている」という気持ちで作ったと思いますし、それ自体は正しかったのかもしれませんが、それ以上に不満の方が大きかった、という点において、供給側の論理というのがユーザニーズとマッチしない、という一例として思い出されました。
 まあ、Webの世界でも、あるサイトのトップページを訪れたらひたすら重いFLASHが流されて、なかなか該当のコンテンツに辿りつけない、みたいなことがあるわけで、供給側とユーザニーズのミスマッチというのはどこの世界にもあるんですけどね。