「紙の本」という「デバイス」について考えてみる

 Kindleの発売が発表され、さらにはあまり目立ってはいません(笑)が日本でもLideoの発売が発表されるなど、SONY Reader、koboといった既存の端末も含めて電子書籍の状況も「デバイス」という単位で議論されることが多くなってきました。
 また、電子書籍端末だけでなく、タブレット端末についても百花繚乱の時代に突入し、iPad miniNexus 7Kindle HDなどデバイス戦争は今後いっそうの激しさを増すことでしょう。


これらを比較・検証した記事も多く出ていますし、ブログやSNSでも各端末に対する感想や不満、要望もそこら中で散見されます。
 曰く、「持ち運ぶには重い、軽い」「液晶は目が疲れるからEインクがいい」「解像度が〜」「扱いやすさが〜」といった感じ。

 こと「電子書籍端末」もしくは「コンテンツを読むための端末」として考えた時に、使用環境や使用者の属性、そういったものも含めて様々な意見が飛び交うのが至極当然だと思います。万人に向けてベストのデバイスというものは存在しないと思うし、あとはターゲットシェアなどに左右される。その証拠にデバイスは、大きさや重さ、機能も含めてこれだけの種類が出ているわけで、メーカー各社は「最もベストに近い形」を探り中なのではないかと。

 で、電子書籍端末として、という視点でものを語ろうとすると、当然出版業界の方々は、特に一家言お持ちなので、ここ最近で私も多くの方の意見をお聞きしたわけです。ざっくりの意見から細かい意見まで色々とありつつも、皆それぞれに「こういう意図に従って最適化されるべき」という意見をお持ちなわけです。意見自体はそれぞれに違うわけですが、「もっとこうすべきだ」という意見をお持ちでない人は殆どいませんでした。そうした意見を聞く中で、ひとつの疑問を私は持ちました。


 じゃあ翻って、紙の本、というデバイスは「最適化」されてるのかい?


 皆さんご存知のように、紙の本、というものは大きく分けて以下のようになります。

  • 四六(ハードカバー、ソフトカバー)
  • 新書
  • 文庫

 雑誌やムック、コミックというジャンルにおいては上記以外の判型が適用される場合もありますが、それらに関してもある程度統一のルールはあります。コミックでいえば少年コミックと青年コミックの判型違いなどがわかりやすい例でしょう。


 さて、ではこうした判型はデバイスとしてみた時に「最適化」されたものとして存在しているのか?個人的にはやや疑問である、というのが私の感想です。

 「いやそんなことはない。だってハヤカワ文庫がホンのちょっと他の文庫と大きさを変えたら、そこかしこから不満が噴出したじゃないか。だから少なくとも文庫は最適化され、完成されたものだ」という意見もあるかもしれません。
 しかし、それについても「既存のものと大きさが変わったために、棚に入れにくくなった。ブックカバーが使えなくなった。見栄えが悪くなった。」といったものが殆どで、デバイス本来のユーザビリティという点で既存の文庫に劣っているのか、という点についてはあまり語られていないと思います。


 「いやいやだから外的環境要因だって最適化の条件の一つだろう」という意見については私も同意します。というかほぼこの理由だけで、「紙の本」というデバイスはここ数十年の間、形を変えずにいるのだと思います。

 ページの大きさひとつとっても、元の紙の大きさ、印刷機の大きさ、裁断機の大きさ、製本機の大きさ、流通用ダンボールの大きさ、書店の棚の大きさといった外的環境要因に依存しているからこそ、変化しない。
 四六、新書、文庫といった三段構えに関しても、特に小説の世界であれば、「新書落ち」「文庫落ち」という形を用いて、ひとつのコンテンツで3回商売ができる、というメーカー側から見た利点によるところが大きいでしょう。これに関しては、文庫書き下ろし、もしくは最近の京極夏彦の作品のように、各版型の同時発売、といった試みも行われているので一概には言えません。が、一度ならず「最初から文庫で出してよ」と思ったことがある人は多いはずです。


 私個人でいえば、先月末『ソロモンの偽証』を読んでいて、「この重さ、この厚さの本を毎日、それも第三部まであるので二週間持ち歩くのは正直拷問だ。」とぶっちゃけ思いました。宮部みゆきが好きだから買うし、読みますよ。でもね、カバンは膨れるし、重くて肩は凝るわ腕は疲れるわ、ハッキリいって辛かった。
 しかもね『ソロモンの偽証』1冊で、タブレット端末の倍くらい重いし、koboKindle Paper Whiteと比べたら4倍くらいの重さがあるんですよ。紙の本派の私でも今回ばかりは「電子書籍で読みてえ」と切実に感じましたよ。


 私は別に「四六の本に意味なんてなくね?」という話をしているのではありません。四六には四六の存在意義はあってしかるべきなのかもしれませんが、それこそが「最適化されて提供されているものなのか」ということです。というかその結論がすぐ欲しいわけではなく、それを突き詰めて考えることで、紙の本というデバイスにもまだまだ可能性があったりするんじゃないのか?ということです。
 外的環境要因が全てではないはずですし、ユーザニーズや現在の出版ビジネス環境を考えた時、既存の外的環境要因を打ち破れるだけの新たな紙の本のデバイス、というものは本当に作れないのでしょうか?
 少なくとも現状は、出版社を含めた供給側の論理の方が強いと感じます。

 私自身は紙の本に関して、議論が尽くされたとも、実験・試行を繰り返してデータや結果が出ているとも正直思えないんですよ。そんな状況の中で「これからは電子の時代だ。紙の本は終わる。」という結論が出てしまっている(ように見える)のが、とても残念。


 おそらく、「読書する」という行為に関して、デバイスとこれほどまでに真剣に向き合うことは、これまでの出版業界の中ではなかったのではないか、もしくはあったとしても、それはかなり昔のことで、現在の状況に沿ったものではないのではないか、と私は思うわけです。
 だからこそ、せっかくのこの機会(というのは業界人だけでなく、読者自身もデバイスというものと向き合う意識を持ち合わせていると思われるので)に、改めて「紙の本」というデバイスを考え直すことをしてもいいんじゃないだろうか、というのが大袈裟に言えば私の提言です。


 じゃあ、どうすれば、という話はここでは書きません(ここまで書いて既に疲れました)。ただ、この「紙の本というデバイス」という視点も含めて、出版業界は色々と変革を行う必要、というかチャンスが今まさに目の前に来ていると思うわけです。
 個人的には電子書籍、もしくは出版不況といった「表面的な大きな流れ」に流されるのではなく、改めて紙の本も含めた「読書とは」という点に立ち返って色々と試行錯誤していきたい、というのが今の自分の正直な気持ちであります。


 以下は、上記の論考にうまいこと含められなかった単品での話。余談、追記的なものとして呼んでいただければ。

 ここ最近、雑誌を多く出している、もしくは雑誌がメインの販売物となっている出版社の方とお話をすると、「雑誌の売り上げは厳しいけど、ムックは好調である」という話を良く聞きます。これは、ユーザのニーズがそれだけ「的をしぼった」ものになっているひとつの証左でしょう。色々なコンテンツが載っている「雑誌」というデバイスよりも、ひとつのテーマに絞られた「ムック」というデバイスの方が好まれるようになっている、ということです。また、なぜそれが「ムック」であって「四六」ではないのかといえば、そこにもターゲットとデバイスの関係性が見えてくるはずです。
 「最適化」というのは決して、デバイスの機能や性質を高めていくだけの話ではなく、既存のデバイスの中でも行えるのではないか、というひとつの論拠として挙げさせていただきます。


 もうひとつの話は、小さい話ではありますが、印象深く今でも忘れられないので記しておきます。
 もう7年も前のことになりますが、東野圭吾の『容疑者Xの献身』が発売された時、その表紙について「指紋がベタベタつく上に目立ってしまってイヤだ」という意見が書店や読者から多く出た、ということです。
 版元側は当然、「この表紙が美しいし、作品に合っている」という気持ちで作ったと思いますし、それ自体は正しかったのかもしれませんが、それ以上に不満の方が大きかった、という点において、供給側の論理というのがユーザニーズとマッチしない、という一例として思い出されました。
 まあ、Webの世界でも、あるサイトのトップページを訪れたらひたすら重いFLASHが流されて、なかなか該当のコンテンツに辿りつけない、みたいなことがあるわけで、供給側とユーザニーズのミスマッチというのはどこの世界にもあるんですけどね。

なぜ、ももクロにハマるのか?

 友人から紹介された以下のサイトの文章を読んで触発されたので、私も自分自身の心の整理のためにももクロについてちょっと書いておこうと思う。

問.ももいろクローバーはAKB48とどこが違うか。


 私の知人友人は既にご存知の通り、この1ヵ月半の間に、自分でも驚くほど激烈炸裂強烈破裂爆裂もーれつ*1なスピードでももクロにハマりました。
 高校生時代に原田知世さんのファンになったという経験はあるものの、いわゆるアイドルヲタ的な要素は自分にはないと思っていただけに、なによりも自分自身がビックリするほどのハマりぶりで、手に入る全ての楽曲を入手することはいうまでもなく、ライブやTV番組のDVD、ブルーレイを買い、冠番組を欠かさず見、YouTube動画を手当たり次第に見、それに飽き足らず南海キャンディーズの山ちゃんやプロインタビュアー吉田豪ももクロについて語るラジオやPodcastまで聞き、ついにはライブに直接足を運ぶところにまで来ています。
 これたったの1ヵ月半の間に起こったことです。


 自分がここまでももクロにハマったことは、自分の精神状態なども要因としてありますが、「ではなぜ他のアイドルではなく、ももクロなのか?」ということは一考に値する題材だと思い、ここに私なりの分析を書いておきたいと思います。


 そもそも論から入って恐縮ですが、ではいったいアイドルとはなにか、という話です。
 そして同時にももクロはアイドルなのか、という話です。
 2つ目については実は容易で、ももクロはアイドルではない、少なくともこれまでの定義で語られてきたアイドルではない、というのが私の結論です。


 それはなぜか。というところで1つ目の話になります。
 アイドルの定義論争にはしたくないので、ここで肝となる象徴的事象についてのみ語りたいと思います。

 実は「アイドル」という職業は存在しません。
 彼女、彼らは、俳優でありアーティストであり、バラエティタレントであり、もしくはそれら全てであり、それらを職業とする、「若くて見栄えのする」存在のことです。

 もちろん、その中でも「アイドル」という存在に変遷はありました。
 そして、おニャン子クラブに始まり、モーニング娘。AKB48のように、その存在は徐々に近しいものになってはいきましたが、本質的には俳優であり、アーティストであり、バラエティタレントであり、その職業という範疇の中ではアイドル以外の存在と同義の存在でした。
 つまり、出自や個性といった違いこそあれ、同一線上で語ることができる存在である、ということです。

 もし、ももクロがこの範疇に入るのであれば、私がももクロにハマった理由は単純で、そもそもアイドルヲタとしての素養があり、たまたまその中で一番好みだった、というだけのことです。
ただ、自分としては決してそうは思えなかったので、今こうしてその理由を書いているわけですけれども。


 ではももクロは他のアイドルとどう違うのか」。
 細かい部分は色々とありますが、私がハマった最も大きな理由(と思われるもの)、そしてももクロを他の存在と同一線上で語ることのできない最も大きな要因が、「楽曲」です。そしてもっと言ってしまえば、その「歌詞」にあります。


 モノノフ(ももクロファンのこと)にとっては解説するまでもありませんが、ももクロの楽曲の歌詞の多く、それもシングルで発表される歌詞の殆どに、「彼女たちの自己紹介」もしくは「彼女たちの名前」が入っています。
 これまでもアイドルの曲、もしくはアイドル以外のアーティストの曲でも遊びとしてそうした「自己紹介曲」が作られ、歌われることは多くありました。
しかし、発表される楽曲楽曲の殆どでしつこいほどに「自己紹介」が語られる、ということはかつてなかったでしょう。


 より実証的にいえば、これまでのアイドルも含めた多くの楽曲というのは「共感性」というものが大きなキーワードになっていました。
 どういうことかというと、同性であれば歌に歌われている同性の気持ちになって共感し、異性であれば歌に歌われているような異性を求めたりすることが、少なくとも日本という国では必須といってもいい要素だったのです。
 これは「私小説文化」と呼ばれる日本に顕著な事例であることもさることながら、カラオケという文化の影響も大きいと思われます。
 つまり、彼女、彼らたちの楽曲は、イコール「聴き手自身」の楽曲になるからです。
 だから聴き手は彼女、彼らたちの曲を気持ちをこめて聴くことも歌うこともできる。それゆえに多くの人の共感を得た楽曲が売れる。そういう仕組みです。
それはそれでまったく悪くはない。


 ところが、これがももクロになると話は変わってきます。
 前述したように彼女たちの楽曲にはまさしく彼女たち自身が歌詞として存在し、彼女たち自身の言葉として発せられるのです。
このことは当然「共感性」の欠如をもたらします。だって、聴き手は彼女たち自身ではないのですから。これまでの多くの楽曲で「私は」「僕は」という言葉で語られてきたものが、「ももいろクローバーZ」として、「百田夏菜子」「玉井詩織」「佐々木彩夏」「有安杏果」「高城れに」(&早見あかり)として語られてしまうのです。


 しかし、この共感性の欠如は同時に「強いメッセージ性」を持つことになります。
 「どこの誰とは知らぬ人」から送られてくるメッセージではなく、ももいろクローバーZという明示的な存在、それも「いま会えるアイドル」という身近さを持つ存在が聴き手に対して語ってくるわけです。
 これはメッセージを受けた側にとっては非常にインパクトがあります。


 AKB48はその革新的なプロモーションシステムで業界を席巻していますが、しかし彼女たちの楽曲、少なくともシングルカットされる曲の多くは、AKB48からのメッセージではなく「共感性」をもたらすものであり、システムを除いた「存在」としての彼女たちは、これまでのアイドルと同一線上に語ることができます(パワーは桁違いかもしれませんが)。


 ももクロの楽曲というと、ヒャダイン前山田健一)提供のものをはじめとして、現代風のアレンジやコミックソングと間違えられそうな歌詞に注目が集まりがちなのですが、私自身がハマった経緯から考えても、実はこの「明示的な個から個へと送られるメッセージ」という部分が最も重要なのではないかと考えています。


 そして、そんな彼女たちから送られるメッセージがまた明確です。
 「全力・笑顔・元気」突き詰めてしまえば、これだけ。
 象徴的なのは、彼女たちが6人から5人になった時に、心機一転発表された『Z伝説 〜終わりなき革命〜』の歌詞でしょう。

わたしたち 泣いている人に何ができるだろう それは力いっぱい 歌って 踊ること!

 そうです。彼女たちはまさしくこの歌詞の通りのことを体言しているのです。
 ももクロの楽曲の歌詞を紐解けばそこかしこに「笑顔」「元気」という言葉が出てきます。もしくはそれに類する言葉の雨嵐です。
 なので、「今ちょっと元気ない」「頑張りたいけど頑張れない」というような人にとっては、ピンポイントで突き刺さります。しかも、それを若くて可愛い女の子が自らの存在をかけて自分に伝えてくれるのです。
 しかも、一度でもライブを見ればわかりますが、それを言葉だけでなく彼女たちは全身で全力をもって表現します。
 それで心が動かない方がどうかしている。オレはライブ見ると毎回泣くよ。


 この「楽曲の独自性」が、私がももクロを「アイドル」という範疇に置かない大きな理由です。
 まあ、彼女たち自身は歌詞の中で「われらはアイドル」と歌っているんですけどね。少なくとも他のアイドルたちと同一線上では語れない、とは言っていいと思います。
 もちろん、彼女たちの楽曲の中にも「共感性」がメインに据えられている曲もあるし、「強いメッセージ性」がない曲もあります。
 ただ「一見ひたすら単なるバカっぽい曲」であっても、それこそが「笑顔を作る」ということを体言しているから油断できない。


 また、この「楽曲の持つ独自性」がこれまでのももクロの歩みにも大きな影響を与えています。
 それは決していいことばかりではなく、「共感性」を排除したがゆえに、広く一般に売れる、ということができにくくなった、ということがひとつ。
 そして同時に、私のようにハマる人は一瞬にして、とてつもなく深くハマる、ということです。
 モノノフ歴1ヵ月半の私が言うのもなんですが、今年に入ってからももクロがブレイクしているのは、単純に知名度の浸透、というだけでなくこうした「ハマっている」ファンを徐々に徐々に上積みしてきた結果だと思います。
 私の周囲には4人のモノノフがいますが、そのうち3人が都内在住でありながら、全国各地のライブに参加しています。どんだけ強烈にハマってるねん、と思いますが、ももクロファン、モノノフたちの多くはそんな感じでしょう。


 さて長々と書いてきましたが、もちろんこの「楽曲の独自性」以外にもももクロの魅力は数多あり、「楽曲の独自性」などとは関係ない理由でモノノフとなっている人も多くいることでしょう。
 (それこそ吉田豪のいう「プロレス性」とかも要因として大きいのでしょうが)
 ただ、少なくとも私にとっては、「彼女たちのメッセージ」が今の自分にとっては大袈裟に言えば生きる糧であり、彼女たちの言葉があるから、こうして彼女たちを追いかけることに結びついています。


 そして最後にもうひとつ、付け加えるならば、「元気をくれた彼女たちに、お返しにオレらも元気をあげたい」という、文面にするとややエモい思いの等価交換もまた、ももクロにハマる大きな理由のひとつである、と言っておきましょう。


 たぶん、あとで冷静になって読んだらファンの超キモイ文章以外の何物でもないと思いますが、それもまた自分ということで。

『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』飯田一史(青土社)

 友人(?)に薦められて読んだわけだが、思った以上に良書だったので、レビューを。
 特に、出版業界関係者は必読。ライトノベルを読んでいなくても大丈夫。私もほとんど読んでない(俺妹だけだ)。それでもこの本は「自分は出版業界の人間である」と思う人なら読んだほうがいい。個人的には自分のクライアントには配って歩きたいくらいだ。


 本書は大きく分けて2つのパートに分かれている。
 ライトノベルを業界として捕らえ、総論や環境分析を語っている第1部、および第4部(と「はじめに」と「終わりに」)。
 そして、ベストセラーライトノベルタイトルをそれぞれ作品ごとに細かく分析している第2部と第3部、という具合である。


 個人的にはそれぞれのパートによって、ターゲットと語られる本質が異なっていると思うのだが、それがまたそれぞれにまったく違う面白さに繋がっていて興味深い。
 つまり、第1部・第4部に代表される業界分析は出版業界関係者に向けて、第2部・第3部で語られる作品分析はライトノベル作家に向けて、読まれるべき内容となっている。作品分析パートは実際の作品を知らないとやや苦しいかもしれないが、知らずに読んでも頷かされる点は多々ある。
(もちろん、どちらの立場でも両方読むことがベストであることは言うまでもない)


 本書にはいくつかの特長があるが、私が思う本書の最大の特長は、「ライトノベル」というエンタテインメントについて、ベストセラーを生む要因がどこにあるのか、外的・内的要因について定量的・定性的な考察からアプローチしている、ということである。


 通常、「この本がなぜ売れたのか」という点について印象論によって語られることはあっても、定量的・定性的な考察からアプローチされることはほとんどなかった。
 それは「面白さ」を定量的・定性的に語ることなどできない、という諦めにも似た前提があったからである。


 しかし著者は本書で、「面白さ」という軸ではなく「なぜ売れたのか」という軸をとことん突き詰めることによって、可能な限り定量的・定性的に語っている。それが面白い。
 すべてがうまくいっている、というわけではなく、印象論に近い部分もあるし、定性的な部分に関しては、やや強引な部分も目立つのだが、それを差し引いても真正面から取り組んだ姿勢と、それによって生み出された説得力には素直に拍手を贈りたい。


 そして、その説得力を生み出しているもうひとつの要因が、マーケティングフレームワークに代表される、様々なフレームワークおよびビジネス的な概念の活用だ。
 本書の中には、4Pや5フォーシズといったマーケティングフレームワークをはじめとして、KBFやKSFといった指標、チームビルディングといったマネジメント概念がふんだんに盛り込まれている。
(この辺はいかにも「グロービス経営大学院」という感じだ)


 こうした用語や考え方に慣れていない読者にとっては、逆にとっつきづらい面もあるかもしれないが、個人的にはまさしくこうした知識やスキルこそがこの業界に最も足りない部分であるとも思っているし、これまで多くの業界関係者たちにこうした話をしても、それこそ自分たちの業界からは遠い話としてしか捉えてもらえないことが多かった。
 なので、自分たちの業界をマーケティング的に見たら、こうなるのか、ということを知ってもらうためにも是非読んで欲しい。
ライトノベル作家志望者にとっては必要な情報というわけではないが)


 こうした考察に関しては、引用したい部分が多々あるのだが、ありすぎて困る。
 なので、今回はあえて引用はせず、「まあいいから読め、読めばわかるさ」というに止めておく。


 本書で書かれている内容は当然だが「ライトノベル」についてである。
 だからといって「自分は業界関係者だがライトノベル担当ではない」とか「そもそも文芸じゃない」とかそういう理由で本書を手に取らないのはハッキリいって愚かな行為だ。
 せっかく著者が、環境分析から市場分析、様々なフレームワークを使っての考察を教えてくれているのだから、それを自分たちのエリアで活かすべきである。文芸だろうが、ノンフィクションだろうが、学術書であろうが、こうしたフレームワークが役に立たないということはありえない。
 この期に及んで「売り上げとか関係ないです。文化なんで。」とか言ってる場合であれば読む必要はないし、「理由なんかなくても売れりゃあいいんだよ」とか言ってるんであれば、おそらく本書を読んでもその価値は理解できないだろう。


 もちろんマーケティングは、すべてを良い方向に導く魔法のツールではない。
 しかし、それを知っていて使わないのと、知らないから使えないのでは大きな違いがある。
 と、同時に「売りたい」と口ではいうのに、何の行動にも出ないのは怠慢と同時に愚かなことである。
 だからこそ、自分たちが今おかれている環境・状況を把握することは大切だし、そのための知識・スキルは必須だ。その上で、自分たちになにができるのか、なにをするべきなのかを見出す必要がある。
 出版業界は勝手に息を吹き返しもしないし、電子書籍は金の卵でもない。生き残るためには戦略が必要だ。


 引用はしない、と書いたが、一文だけ本書から引用しておこう。

「戦略がないことは、不幸である」
(本書 P.306)


 だからこそ、本書は業界関係者に読んでもらいたいし、その上で、自分たちには戦略が、そのための知識とスキルが必要である、ということを感じてもらいたい。


 おまけ:
 個人的には、これまで色々なところでばらばらに聞いていた電撃文庫の個別の戦略についてまとめられていたのが非常に面白かった。
 電撃文庫の戦略について、キチンと取材して書けば一冊の本になりそうだし、企業経営者の精神論主体のビジネス本なんかよりもよっぽど売れそうだと思った。
 これまで出版業界自身のマーケティングやビジネスモデルについて、他業界が学ぶ・真似する、ということは滅多になかったわけだが、電撃の戦略には他業界が学ぶべき要素もありそうだし、ホントに売れるんじゃないだろうか。
 私自身が取材して書きたいよ。

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

指導者によるスポーツの進化と発展、それがもたらすもの

 今回のオリンピック、その中でも特になでしこの躍進と、柔道、シンクロナイズドスイミングの低迷を見て思い浮かんだことについてつらつらと書いてみる。


 昨日(本日早朝)の女子サッカー決勝について、国内のメディアはもちろんだが、海外のメディアもこの試合の内容の素晴らしさ、そしてもちろんなでしこ達が披露したサッカーについて賞賛を贈っていた。
 同時に、サッカーの聖地・ウェンブリースタジアムで、この試合が80,000人以上の観衆を集めたこともまた、エポック・メイキングな出来事であったと言えるだろう。


 誤解を恐れずにいえば、一昔前の女子サッカーというものは、基本的にフィジカルの戦いであった。各チームごとの戦術といったものはほとんどなく、例えばブラジルでいえば、「戦術はマルタ」という突出した個人に依存するものであったし、その他のチーム、それこそ日本でさえ、「戦術は澤」に近いものだった。
 一人のサッカー好きである私ですら、オリンピックやワールドカップ女子サッカーは積極的に見たいと思うようなものではなく、見たとしても、これまた非難を覚悟で言えば「女子であれだけのシュートが打てるのはスゴイな」というような「男子と比較しての上から目線」的な見方であったり、それこそ美人選手を見つけては楽しむといった、とてもじゃないが純粋に女子サッカーというスポーツを楽しむこととは程遠いものだった。
 皆が皆そうであったわけでは当然ないが、それでも私と同じような視点でしか女子サッカーを見ることができなかった人は多くいたに違いない。


 それが今回、サッカーの母国イングランドが舞台だったことを差し引いても、女子サッカーの決勝が80,000人以上の観客を集めるだけのコンテンツとなり、あまつさえ世界中から注目を浴びるようになったことは、間違いなく女子サッカーというスポーツが決してフィジカルだけのものではなく、その試合内容までもが魅力的なものへと変貌した証左である。
 そして、その最も大きな役目を担ったのがなでしこ達だった、といっても決して言い過ぎではないだろう。
 彼女たちは、これまでのフィジカル中心の女子サッカーに、パスサッカーという新たな戦術をもたらし、それを実践し、トップの地位まで上り詰めることに成功した。

 そして彼女たちのサッカーを世界中のチームが模倣し、さらにそれぞれのチームにふさわしい戦術へと昇華させていったのである。
 その過程でアメリカは失敗もしたし、カナダやフランスは一定の成功を収めている。逆に、それに取り残された感のある中国、ドイツ、スウェーデンといったかつてのフィジカルサッカーの中での強豪たちは遅れを取ることになった。
 今の女子サッカー、とりわけ今回のベスト4に残ったチームの試合は、決して男子の劣化版でも廉価版でもなく、女子サッカーというコンテンツとしての魅力を十分に持っていたと思う。


 そんな状況の中で、なでしこの監督である佐々木則夫監督の勇退のニュースが流れた。男子サッカーに関わりたい、という本人の要望によるものだ、ということらしく、古巣である大宮アルディージャに戻ることがほぼ確定らしい。

 しかし、このニュースを見て私が思ったのは、佐々木監督がもし海外、それもアメリカやフランス、カナダといった強豪国に招聘されたとしたら、さらに女子サッカーのクオリティは高まり、面白くなるのではないか、ということだった。もちろん、佐々木監督でなくともよい、現在のなでしこの基盤を築いた大橋監督でも構わない。彼らが世界に出ていくことで、女子サッカーは切磋琢磨され、さらなる発展を遂げるのではないか。そして、その発展の礎を築いたのが日本のサッカーであり、日本人指導者である、などという未来が来たとしたら、私は日本人のサッカーファンとして、とても誇らしい気持ちになるだろう。
 男子サッカーでいう、ミケルスやサッキ、クライフのような指導者のレジェンドとして日本人が語られる日が来る、そんな夢を思い描いてしまったのである。


 ただ、世界のサッカーが進化すると同時にそれは日本代表が苦しむことになることもまた意味する。
 そのことを痛感させられたのが柔道とシンクロナイズドスイミングである。


 いうまでもなく柔道は長い年月をかけて世界へと広まり、今では国別の柔道人口では日本は決して上位には入らないような状況になってしまった。これまでの間に、どれだけの日本人指導者が世界へと旅立ち、その中で各国の柔道を強化してきたか。それは容易に想像できることである。
 その中で柔道は「JUDO」として進化し、今では母国である日本を苦しめることになってしまった。しかし、そのこと自体は日本人にとっては残念なことだが、柔道というスポーツから見たら悪いことばかりではないはずだ。


 同じことを最も端的に表したスポーツ、それがシンクロナイズドスイミングである。一時期はロシア以外に敵なし、という一時代を築き、おかしな言い方だが銀もしくは銅メダルは確定されていた時代があった。それは全然遠い昔の話ではなく、小谷実可子から奥野史子、2大会前の立花・武田コンビに至るメダル獲得の歴史からもわかることである。
 しかし、そのシンクロナイズドスイミングに大きな変化が訪れる。日本のシンクロナイズドスイミングの黄金時代を気づいた井村雅代コーチが日本を離れ、中国のコーチとして就任したこと、そしてもうひとりの日本人・藤木麻祐子がスペインのコーチに就任したことから生まれた。
 二人の指導はそう時間をかけることなく結果に結びつく、北京オリンピックでスペインはデュエットとチームで銀メダル、中国はチームで銅メダルを獲得する。その結果メダル圏外へと弾かれたのは誰あろう日本なのだった。


 競技の成果としての目安であるメダル、というものは日本から離れていってしまった。しかし、井村、藤木という日本人指導者の名声は高まった。それはすなわち日本という国におけるシンクロナイズドスイミングの競技レベルの高さを意味するし、結果としてそれまではロシア、日本、アメリカ、カナダによって独占されていた上位に、中国とスペインが割ってはいることで競技全体のレベルの底上げにも貢献したのである。
 おそらく、数年・数十年経ったとき、シンクロナイズドスイミングの歴史を語る上で井村と藤木に代表される日本人指導者の名前が忘れられることはないだろうし、中国とスペインにとって、二人はこの競技の母親のような存在として語り継がれるだろう。
 私は日本人としてそのことが誇らしい。


 考えてみればサッカーの世界においても、競技の発展と自国の低迷という、当事国にとっての二律背反はしょっちゅう起こっていることなのである。
 今まさに世界のサッカーを牽引するバルセロナのサッカー、そして彼らを中心としたスペイン代表のサッカーは、オランダ人であるクライフによって提唱されたものだ。
 しかし、その結果がもたらしたのは皮肉なことに、オランダがワールドカップでクライフが決勝への切符を獲得した1974年の西ドイツ大会以来、36年ぶりに決勝へと進出した南アフリカ大会でオランダ初優勝の夢をスペイン代表が打ち砕く、といったものであった。


 逆に、日本に目を向ければ他の競技、例えば卓球であれば中国人のコーチを招聘するし、バドミントンやフェンシングでも海外のコーチを招聘する。サッカー日本代表ザッケローニが率いるザックジャパンだし、冬季でいえばモーグルの日本代表チームのコーチはかつての世界チャンピオン、ヤンネ・ラハテラである。


 こうした状況を鑑みたとき、スポーツの世界において、日本人が競技者としてではなく、指導者として世界に進出し、そのスポーツを発展させることに貢献できるのであれば、個人的にはどんどんと世界に出ていってほしい。
 競技者としてチャンピオンになることはもちろん最高に素晴らしいことだが、そのスポーツの発展に貢献する、ということもまた同時に素晴らしいことであり、これまでその立場に立つことができた日本人は決して多くはない。
 私としては、前述したように、ミケルスやサッキ、クライフのような存在として日本人が語られる日がもしくるのであれば、競技者としてのチャンピオンを語るのと同じくらい嬉しく、誇らしい気持ちになると思う。

なぜ、そうしたいの?[murmurBrain]

 たまたまそういう依頼がかぶったせいもあるし、前々から思っていたことについて書いてみる。


 仕事柄クライアントからは、「こういうことがしたい」という依頼をよく受ける。
 それは「こういう機能を追加して欲しい」とか「デザインを変えたい」とか、もっと具体的に「このバナーを張りたい」とかそういう類のもの。


 それ自体は何の問題もない。
 ただそこで気になるのは、「それはなんのために、誰のために、なぜ、そうしたいの?」ということだ。
 もちろん、直接聞く場合もあるのだが、既に方法論ありきで話が進んでしまっていることが多々ある。
 その場合の多くは、クライアントのさらに先にクライアントがいて、そこから「こうしたい」という依頼が来た、というものだったりする。
 そうなると、クライアントのクライアントの意見までは遡ることができず、結果的には要望にはこたえる形にはなるのだが、それが本来の「目的」に合致したものなのかどうかはわからないままの仕事になってしまう。
 それがなんかしっくりとこない。


 クリティカルシンキングの世界では「なぜ?を五回唱えろ」という言葉があるが、そこまで言わずとも、「なぜ」と一度は振り返って欲しいと思うし、私の仕事のひとつはクライアントに振り返らせることであるとも思う。
 というか、むしろどうして先に方法論(こういう風にしたい)というものが出てくるのかがなかなか理解できない。まあ、単に「やりたいだけ」っていうのも立派な理由ではあるんだけど。
 大概は、そういう方法論を先に見てしまい、それが良さげに見えるからやってみたくなるんだろうなあ。
 実際にやろうとすると、目的が違うことに気づかず、方法論に無理に合わせようとするんだろうけど。


 決して文句とかそういう話はないし、もちろん相手を小馬鹿にしての話でもない。
 自戒も含めて、「こういうことがしたい」と思ったときには、それと同時に「なぜ、そうしたい?」という言葉を一度は唱えようよ、という話でした。

金をかけて良いものを作っても、それを買ってくれるのは誰?

 BLOGOSで紹介されていた以下の記事と、その記事からリンクされた佐久間氏の元記事を読んで色々と考えさせられた。
というよりも最近自分が考えていた内容に欠けていた部分を指摘されたように感じたし、またそれがなぜ欠けたのかについて考えさせられる結果になった。


音楽プロデューサー・佐久間正英氏が語る「音楽業界の危機的状況」


 佐久間氏の言う、「いい音楽を作るのには金がかかる」という言葉をじっくりと考えてみると、確かにそれはそうで、無駄にコストをかければいいという話ではないけれども、改めて言われれば大いに理解できる言葉であった。


 例えば、これが小説やマンガなどの出版物の場合でも、著者が自分一人で書いて校正して、印刷して製本して「本」という形にすることはできる。実際、コミケではそういった作品が多く販売されているわけだ。
 しかし、商業的に「いい作品」を作って売ろうとした場合、著者には編集者がつき、校正者がつき、印刷では組版が行われ、そこでも赤字が入り、紙もインクも吟味され、製本が行われる。さらにいえばそこから不良品ははじかれる。
 同じ「本」という商品でも、個人制作とプロの商業制作ではお金も時間もかけ方がかわるのだ。
 もちろん、各工程でのコストの削減、といったものは世の現状から行わざるを得ないわけだが、それにも限度がある。


 考えてみれば当たり前のことなのだが、最近の自分の視点からはこの部分が抜け落ちていることが多かった。
 それはなぜか。


 大元の要因としては昔と違って、素人とプロの間の「商品としてのクオリティ」の差が縮まっている、ということだ。
 この「クオリティ」とは作品の「内容」とは関係がない。要するに制作に使われる機材や、商品のパッケージ部分のクオリティが上がった、ということだ。
 これはいうまでもなくデジタル技術の進歩による恩恵と、大量生産技術の向上、そしてデフレによるものである。


 例えばニコニコ動画で自身の音楽を発信して、何百万回と閲覧されるノンプロによる楽曲は、当然だがほぼPCで制作されている。スタジオも使われず、高価な楽器も使われてはいない。それでも多くのユーザを獲得することができる。
 写真やイラスト、そして小説やマンガにおいてもそれは同様か、もしくは音楽よりも差が無くなっているといっていい。「内容」は別としても、カメラやソフトに関してはプロとアマの差は限りなく近くなっているし、オフセット印刷のクオリティもかつての比べればかなり向上している。
 正直、テキストであれば製本以外(しつこいけど内容は除くよ)では商品としてのクオリティの差別化ができないほどだ。


 この結果を受けて、ユーザが「クオリティの高さを求めなくなってきている」ということもある。
 改めていうが、ここでいうクオリティとは「内容」とは別のものである。
 求めていない、というと言い過ぎな面もあるが、プロとアマの差が縮まった中で、その「クオリティの差」をユーザが「そこまでの違い」として求めていない、という方が正しいだろう。
 レスポールフェンダーの高価なギターで奏でられ、一流の機材とミキシングによって作られた音楽と、PCの中で作られた音楽、そこには確かに違いはあるのかもしれないが、ユーザにとってその違いが「決定的」な差として認識されていない。
 128kbpsのMP3で聴いていれば、その差はさらにわからなくなる。
 写真やイラスト、テキストであればなおさらで、PC上で見る分には、プロとアマの差は限りなく狭い。


 こうした状況が進めば進むほど、実は内容以外の「クオリティの差」というものがユーザにとっての「商品価値」として認められる割合は低くなっていく。


 では、内容で差別化をはかる、ということになるわけだ。
 だが、これに関しては、非常に個人的な感想になってしまうが、実はその「内容」こそが問題なのではないかと思っている。
 もちろん、プロの商品として素晴らしいものは沢山あるが、同時に粗製濫造が進んできたのもまた事実なのではないだろうか。
 要するに「内容」の部分についてもプロとアマの差が縮まり、もっといってしまえば逆転現象が起きている部分すらある


 前述した内容以外のクオリティに関しては、実は逆転現象はほぼ起こりえない(なぜならそこにはコスト構造とノウハウが働くから)が、内容に関してはこの逆転現象が起こりうる。それは純粋に才能といったものに左右されるからで、このこと自体は昔からありえた。全ての才能がプロとして掘り起こされていたわけではないから、それは当然のことだ。
 しかし、粗製濫造の結果、この逆転現象、もしくは同等レベルと認識される現象が増えてくる。そうなるとユーザ心理として、プロとアマの差がさらに狭まってしまう。


 同時に、ネットの発達により、一億総発信者になると、眼に見える才能の数も増えてくる。
 市販されているコンテンツより面白いコンテンツがネットで無料で見つかり、面白いだけでなく自分によって有用な情報が実はプロではないものの方から提供されることが多くなる。。このあたりはメディア論的な部分になるので割愛するが、こうした現象が進む中で「プロが作り出す商品の価値」というものが重要視されなくなってしまった。
 その結果が現在の状況なのではないだろうか。


 しかし、このこと自体がいいことだとは言い切れないし、佐久間氏が言うように、「いい音からしか生まれない」ものもあるだろうし、そうした中で培ってきたノウハウなどが失われてしまうことは非常に問題である。
 大雑把な言い方にはなってしまうが、クオリティでいえば「高・中・低」というレベルが存在した時に、「低」から「中」の作品が増えていき、「高」が減っていく、ことになりかねない、というよりも既になっている。そうなると当然我々が受容できるクオリティも下がっていく、という悪循環が発生することになり、ますます商業作品とそれ以外の作品の差が縮まっていき、ビジネスとして成立させることが難しくなっていく。
 ビジネスとして成り立たなくなること自体がマズイ、という話ではなく、「高」のレベルの商品が消えていく、そのこと自体がマズイのではないか、という話である。


 ぶっちゃけ、ビジネス的に業界が苦しんでいるのは、自らが行ってきた粗製乱造による影響がデカイわけで、彼らの断末魔に対してなにを救いを伸べる気も、そんなアイデアも技術もないわけだが、ユーザ側から見た時に、「高」レベルのものが手に入らなくなる、入りにくくなる、というのは問題だなあ、と。


 ただ、このこと自身が示唆することもあって、それは商品のレベルによって商品自体の価値、つまり価格を変えていく必要があるのではないか、ということである。
 このことに関してはまた別の機会に述べたいとは思うが、要するに高い価値のあるものは高く、そうでもないものは安く(フリーも含めて)、というやり方が今後は必要になるし、それが現状から見て適した方法なのではないかということだ。


 と同時に、業界に対して思うのは、そうした「クオリティの違い」を理解し、それに対して対価を払ってくれるようなユーザを「育ててこなかった」ことにも大きな原因はある。
 これまでの文中、ずっと「ユーザ」という言葉を使ってきたが、実はコンテンツ産業は「ユーザ」に向けて物を売ってこなかった。
 では誰に売ってきたのか、それは「消費者」である。
 ユーザとしてコンテンツを愛で、楽しむ人たちにではなく、消費する人に対して物を売り続けてきた結果が、この状況を招いていると思う。
 これについてもまた別の機会に述べられたらいいですな。

バレーボールが資金難ってマジですか?

 『Number』最新号(806号)の「Number Eyes」を読んでいて愕然としたことがあったので書き記しておく。

 記事はロンドンオリンピック出場権を逃した男子バレーボールに関する記事であった。その中で監督人事について語られた部分があるのだが、全敗で終えた北京五輪後に協会は監督を公募したらしい。外国人監督の名前も挙がったということだが、結果的にそれを諦めたのは「財源がない」という理由だというのだ。


 これが他のマイナースポーツならその言葉は大いに理解できる。プロスポーツとして成立していないスポーツなら尚更だ。
 しかし、ことはバレーボールである。


 皆さんもご存知のように日本でのバレーボール贔屓は異常な事態である。
 ワールドカップは日本での永久開催が決まっており、その他にもグラチャンや××大会といったありとあらゆるバレーボールの大会がなぜか日本で行われる。
 そしてそこには必ずジャニーズが付いて回り、代々木体育館は満杯だ。
 しかも試合は地上波で必ずゴールデンタイムに放送される。つまり放映権が買われているということだ。
 これだけ恵まれたスポーツが日本で他にあるのか?
 というか素人目にも多くの利権が絡んでいることは明らかだ。
 もちろんプレーする選手たちに責任があるわけではないから、試合自体を否定する気持ちはさらさらないが、ルールですらおかしなことになってしまったのは周知の事実である。


 そうした状況下において「財源がない」という発言がまさか協会から発せられるとは思いもよらなかった。
 いったい協会の収支予算はどうなっているのか?記事の内容よりもむしろそちらの方が気になって仕方がない。
 そして、その状況の中で強化委員長が雑誌のインタビューに対して「財源がない」といってしまう。
 つまり自分たちは本気で財源がない、と思っているということなのだろう。彼らはその矛盾を感じてすらいないのだ。もしくは金銭感覚が麻痺しているかだ。


 もし協会に金が入ってきていないなら、それまでに生み出された金がいったいどこに消えているのか(電通?)。
 協会に入ってきているなら、代表監督人事よりも優先されるなににその金が使われているのか。


 正直、日本でのバレーボールの扱いについてはその異常性を認めつつも、スポーツに還元される形なのであれば良いことだと思っていた(思うようにしていた)。
 しかし、それが外国人監督一人を雇うこともできないほどの「資金難」と聞いて驚くとともに、スポーツ自体にに還元されておらず、別の誰かの懐に入ってしまっていることを知り、とても空しくなった。


 私自身はスポーツが好きだし、アーティストやクリエイターと同じくらい自分を感動・興奮させてくれるアスリートに対して、何らかの形で還元できればといつも思っている。
 しかし、恵まれた存在だと思っていたバレーボールがこれでは、他のスポーツのアスリートたちはいったいどれほどの苦労をしているのか…。

 記事の本題とは別に、強く心に残った。