Hatena::ブログ(Diary)

英文学をゼロから学ぶ

2018-10-15

『イノセント』

この週末は、ブルーレイで『イノセント』を見た。

1976年のイタリアフランス合作映画。

監督は、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ

撮影は、『ロミオとジュリエット(1968)』のパスクァリーノ・デ・サンティス

主演はジャン・カルロ・ジャンニーニ、ラウラ・アントネッリ

共演は、『ラストタンゴ・イン・パリ』のマッシモ・ジロッティ

ヴィスコンティに関しては、多少の思い出がある。

僕が浪人していた頃、近所のレンタル屋の名作映画コーナーに、ヴィスコンティの作品が並んでいた。

二十数年前の町のレンタル屋にヴィスコンティが置いてあったとはスゴイが。

僕は、その中から『地獄に堕ちた勇者ども』と『ルートヴィヒ』を借りて来た。

ものすごくエラそうな映画だと思ったからだ。

しかし、どちらも、途中まで見て挫折。

確か、『イノセント』もあったと思うが、こちらは借りた記憶はない。

大学では、映画研究会なんぞに顔を出していた時期もあるから、「ヴィスコンティくらいは知らないと」というような空気もあったが、結局、見る機会はなく。

大人になってから、『ベニスに死す』をDVDで見て、絢爛豪華な映像と、詩的な表現に感激した。

で、この度、ブルーレイの廉価版が出たので、購入したのだが。

それにしても、ヴィスコンティの遺作が1500円で買えるなんて、いい時代になったものだが、こんなに作品の価値が低くてもいいのか、複雑な気持ちになる。

テクニカラーシネスコ・サイズ。

甘美なテーマ曲

僕はクラシックには全く詳しくないから、何の曲か分からないが、本作には、ショパンやらモーツァルトやらリストの曲が使われているらしい。

舞台は20世紀初頭のローマか。

時代ははっきりとは示されないが、馬車は走っているし、照明はロウソクだし、写真の代わりに肖像画が飾られている。

登場人物は皆、貴族だ。

衣装はものすごくきらびやかなものがとっかえひっかえ出て来る。

住まいなんかは、セットじゃなくて、実際の貴族の城かなんかを借りて撮ったのだろう。

僕の大好きな映画『バリー・リンドン』の美術も素晴らしいが、ヴィスコンティは平民のキューブリックと違って貴族出身なので、画面全体にそこはかと気品が漂っている(まあ、『バリー・リンドン』は平民が成り上がる映画だから、あれでいいのだが)。

で、フェンシングの稽古場へ、トゥリオ・エルミル伯爵(ジャンカルロ・ジャンニーニ)にお迎えがやって来る。

彼は、ピアノの演奏会に、愛人である未亡人の公爵夫人テレーザ・ラッフォ(ジェニファー・オニール)と同伴でやって来る。

前列には、トゥリオの妻ジュリアーナ(ラウラ・アントネッリ)がいる。

「あの人と一緒はイヤ」と、テレーザは、彼女に言い寄って来るステファノ・エガーノ伯爵(マッシモ・ジロッティ)と一緒に出て行く。

トゥリオはジュリアーナに声を掛けて帰る。

どこへ帰るかといったら、何とテレーザの所だ。

トゥリオは、テレーザに「妻との仲は表向きだ」と告げる。

しかし、テレーザは自由な女であった。

「私はエガーノと会うの」と彼女。

「いや、行かせない」とトゥリオ。

抱き合う二人。

何だかなあ。

有閑階級の色恋沙汰にしか見えんが。

ジュリアーナは、そんな夫の行動を不安がっている。

トゥリオは、明日から当分フィレンツェへ行くという。

彼はジュリアーナに「君は妹のような存在だ」と言い、妻に対して、テレーザのことを告白する。

「僕のわがままを聞いて欲しい」って、妻公認の浮気か。

当時の貴族は、結婚しても自由恋愛だったのか。

信じられん。

で、トゥリオは弟のフェデリコに「ジュリアーナと一緒にいてやってくれ」って。

弟に奥さんを押し付けるのか。

ジュリアーナは、不安で寂しくて、睡眠薬を飲んで倒れる。

フェデリコは、友人で作家であるフィリッポ・ダルボリオをジュリアーナに紹介する。

一方、テレーザと寝ていたトゥリオは、エガーノからの手紙を発見し、怒って破り捨てる。

更に、執拗にテレーザに言い寄るエガーノに、決闘を申し込む。

自由恋愛のくせに、嫉妬深いトゥリオ。

で、音楽を聴いているジュリアーナの基へ、トゥリオが戻って来る。

トゥリオがエガーノと決闘している間に、テレーザは出発してしまったのだという。

ジュリアーナに「彼女を忘れたい。力を貸してくれ」とトゥリオ。

「無理よ。私にはできないわ。」

何て都合のいい野郎なんだ!

トゥリオは、ジュリアーナへの献辞の入ったフィリッポの著書を発見。

フィリッポのことを罵倒する。

ジュリアーナはフィリッポの才能を称賛する。

競売に出掛けるジュリアーナ。

トゥリオは、彼女が香水を変えたことに気付く。

一方、トゥリオは競売でテレーザと会う。

ジュリアーナが帰宅すると、トゥリオはいない。

テレーザと抱き合うトゥリオ。

テレーザは彼に「奥さんはきっと浮気してるわ」と告げる。

自分の事は棚に上げて、不安になるトゥリオ。

トゥリオが帰宅すると、ジュリアーナはいない。

このすれ違い。

トゥリオがフェンシングの稽古場に行くと、フィリッポがいる。

二人の対決。

フィリッポがシャワーを浴びているのを眺めるトゥリオ。

この時、フィリッポのペニスが映る(無修正)。

一方、テレーザはトゥリオと外出したがる。

しかし、彼女がフィリッポのことを知っていると判り、不機嫌になるトゥリオ。

トゥリオは実家に帰ると、ジュリアーナがいる。

彼女は「部屋は別々に」と告げる。

トゥリオとジュリアーナは別荘へ行く。

ジュリアーナにキスをするトゥリオ。

抱き合う二人。

初心に戻ろうとする。

しかし、無理。

そりゃそうだろう。

実家へ戻る二人。

ジュリアーナは気分が悪い。

トゥリオの母は、「彼女はきっと妊娠しているわ」とトゥリオに告げる。

「なぜ?」とトゥリオ。

しかし、彼は目に涙を浮べている。

身に覚えがないんだな。

薬を飲んだジュリアーナ。

だが、何の薬か、トゥリオには隠す。

「妊娠したのは本当か?」

「本当よ。」

ジュリアーナは、「私が生きていられたのは彼(フィリッポ)のおかげよ」と言う。

「僕達は互いに自由な夫婦だった」と言いながら、彼女にキスをするトゥリオ。

しかし、気が立っている。

彼は、子供を堕ろさせようとするが、ジュリアーナは「できないわ」と拒む。

さあ、これからどうなる?

後半は、もちろん、ドロドロの展開になる。

とんでもない映画である。

トゥリオは無神論者で、これが作品のストーリーにも影響するのだが。

僕も無神論者だが、このオッサンには1ミリも共感出来ん。

本物のクソ野郎だ。

もしかして、無神論者の悲惨な運命というのもテーマなのか?

それにしても、貴族ってのは何をやっても罪に問われないのか?

どこが「イノセント」だ。

イノセントなのは赤ん坊だけじゃないか。

ヴィスコンティは、左半身麻痺の状態で、車椅子に座って、本作を演出したという。

その執念。

(セリフではなく)登場人物の表情の変化で心理を表現するのが素晴らしい。

人間性を深く描いた傑作だと言えるだろう。

シェイクスピアの『オセロ』じゃないが、人間はやはり嫉妬の生き物だということか。

登場人物には一切共感出来ないが。

貴族っちゅうのは、一体何をして暮らしているんだかねえ。

撮ったのがヴィスコンティじゃなくて、主人公が貴族じゃなかったら、ただのゲス不倫映画になってしまうところだが。

D

2018-10-08

『素晴らしきヒコーキ野郎』

この週末は、ブルーレイで『素晴らしきヒコーキ野郎』を見た。

1965年のイギリス映画

監督は、『史上最大の作戦』のケン・アナキン

編集は、『アラビアのロレンス』『レガシー』『エレファント・マン』のアン・V・コーツ

主演は、『史上最大の作戦』のスチュアート・ホイットマン

共演は、『史上最大の作戦』『007 ゴールドフィンガー』『チキ・チキ・バン・バン』のゲルト・フレーベ、『史上最大の作戦』『シシリアン』のイリナ・デミック、『チキ・チキ・バン・バン』のベニーヒル、『ナイル殺人事件』のサム・ワナメイカー

なお、日本からは、我らが石原裕次郎が出演している(兄貴は右翼だが)。

細君は、「なぜ三船敏郎か丹波哲郎じゃないの?」と言っていたが、日本を代表する役者の一人であるのは間違いない。

日本代表が裕次郎であることから推すに、各国を代表する役者が出ているのだろう。

インターナショナルな映画である。

20世紀フォックス

カラー、ワイド(70ミリ)。

劇場風のイラストの真ん中の四角いスクリーンにモノクロの映像が映し出される。

古代から人間の夢は鳥になること。

コミカルな音楽をバックに、空を飛ぼうとして失敗した数々の人間の映像が流れる。

これが実に面白い。

初の長距離(と言っても、ほんの数十メートルにしか見えないが)飛行成功者はイタリアのポンティチェリ伯爵(アルベルト・ソルディ)。

1910年のことだった。

ここで、画面はワイド、カラーになる。

ようやくタイトル。

バックは戯画風のアニメ

テーマ曲は陽気な合唱。

飛行機が空を飛んでいる。

操縦しているのはイギリス人のリチャード・メイズ(ジェームズ・フォックス)。

恋人のパトリシア・ローンズリー(サラ・マイルズ)がバイクで後を追い掛ける。

「私も乗せて!」

パトリシアの父ローンズリー卿は新聞社を経営している。

彼は「大英帝国の愛国心を煽る」のがモットー。

リチャードはローンズリー卿に、世界各国、特にフランスアメリカの飛行技術はイギリスの先を行っていると訴える。

だが、「パトリシアを飛行機に乗せることは断じて許さん!」と告げられる。

それでも、ローンズリー卿は重役会議で世界各地の様々な飛行機を集めた競技会を自らの新聞社の主催で行うことを提案する。

パリとロンドン間で、賞金は1万ポンド

イタリアのエミリオ・ポンティチェリ、フランスのピエール・デュボアら、世界の飛行家に招待状が送られる。

ここから、世界各国の代表が描かれるが、はっきり言って、ステレオ・タイプな偏見に満ち満ちている。

要するに、イギリス人から見て、他の国の人間はどう見えているか。

現代では問題になる描写も多々あるが、まあ、コメディということで大目に見よう。

割り切って見ると、本作はなかなか面白い。

フランスのデュボアは、地上でヌードの絵のモデルになっている女性に見とれて、飛行機を衝突させてしまう。

彼女の名はブリジット(イリナ・デミック)。

つまり、フランス人は女ったらしだと言いたいのだろう。

そこへ、飛行機レースの招待状が届く。

賞金は25万フラン。

ドイツでは、マンフレッド・フォン・ホルスタイン大佐(ゲルト・フレーベ)が飛行機を木に衝突させていた。

大佐は、部下のランベルストロス大尉に飛行機に乗るように命じる。

ドイツ人はガチガチで融通の利かない頑固者として描かれている。

かなりバカにしていて、ドイツ人が見たら怒るだろう。

なお、本作に登場する各国のキャストは皆、何故か英語を話す。

アメリカでは、西部劇みたいな格好で幌馬車に乗っているオービル・ニュートン(スチュアート・ホイットマン)とジョージ・グルーバー(サム・ワナメイカー)が風で飛んで来た新聞の記事で飛行機レースのことを知る。

賞金は5万ドルとある。

イタリアのポンティチェリは、度重なる失敗に「飛行機は懲りた。二度と飛ばない」とうそぶいていたが、新聞を見て、レースへの出場を決意。

一方、日本では…。

この頃の英米人の日本のイメージはこんなだったのだろう。

珍妙な鳥居や五重塔やらのセット。

ヒドイね。

バックには琴の音。

飛んでいるのはヤマモト(石原裕次郎)。

ヤマモトって、どうせ山本五十六から取ったんだろう。

しかし、セリフは日本語。

まごうことなき裕次郎の声である(ただし、この後、イギリスに渡ると、セリフは英語になり、吹き替えになる)。

賞金は1万ポンド(円じゃないのか!)。

世界中からロンドンに続々と飛行家が集結する。

イギリスからもう一人の参加者が。

アメリカのオービルは、パトリシアの服を自転車に引っ掛けてしまうが、これをきっかけに彼女に「君を飛行機に乗せてあげる」と声を掛ける。

保守的なイギリス人と改革的なアメリカ人という対比か。

一方、ローンズリー卿はリチャードにパトリシアとの結婚を許可する(ただし、未だ彼女にプロポーズはしていない)。

ポンティチェリは家族連れでやって来る。

イタリア人には大家族のイメージがあるのか。

彼は、「イタリアが先頭でないと困る!」と主張する。

イタリアは着道楽なのか(まあ、ファッションの国だし)、ものすごく立派な衣装を身につけている。

彼は資産家である。

フランスのデュボアは、早くもナンパに成功したブリジットと一緒に飛行している。

ポンティチェリの飛行機は足漕ぎ式の人力で、なかなか飛べない。

アメリカのオービルの飛行機は木のプロペラである。

このレースには、飛行機に二人乗ってはいけないというルールがあるが、誤って二人乗ることになってしまったオービルの飛行機は汚水溜めに突っ込む。

オービルは、イギリスの格納庫にモンキーレンチを借りに来る。

ここで、リチャードと知り合う。

イギリスでは、モンキーレンチのことを自在スパナと言うという豆知識。

オービルはパトリシアに色目を使う。

夜のカフェ

デュボアは、店の店員であるドイツ女性マレーネ(イリナ・デミック)をナンパする。

一方、席に座っていたパトリシアに声を掛けるオービル。

彼は、この飛行機レースに出るためにアリゾナから借金してやって来た。

負けたら無一文である。

パトリシアが「私を同乗させて」と言うと、「いいよ」と答える。

しかし、そこへリチャードがやって来る。

彼は、恋人に近寄るヤンキーに動揺している。

今度はデュボアが飛行している。

隣に座っているのは、店でナンパしたマレーネ

とは言っても、イリナ・デミックが何度も名前を変えているだけだが(一人六役!)。

ドイツ機は、飛行前に尾翼が外れ、飛ばずに走り回る。

止まらない。

オービルが飛び乗り、燃料タンクをナイフで刺して停める。

オービルは、自らの飛行機に馬力を上げる仕掛けを施している。

そこへ、パトリシアがやって来て、「あなたが好き(I like you very much)」と告げる。

翌日、一行はロンドンからドーバーへ。

しかし、我らが日本は未だ到着していない。

ドーバーで乾杯するオービルとパトリシア。

リチャードはオービルに「彼女に近付くな」と。

オービルはリチャードの顔面に一発食らわせる。

そこへ、ヤマモトが飛行機で飛んで来る。

この飛行機には全体に、火を噴く獅子やら、菊の御紋やらが描かれていて、ものすごい外観である。

これが日本のイメージか。

飛ぶだけでも一苦労の各国は、ヤマモトがドーバーまで飛行機でやって来たことに驚愕する。

「これじゃあ誰も勝てない」と。

日本は技術力があるというイメージなのだろう。

一方、パトリシアはオービルに「私を(飛行機に)乗せて」と懇願。

その頃、デュボアとホルスタイン大佐はつまらないことから、気球に乗って決闘していた。

オービルとパトリシアは二人乗りバイクで飛行場へ向かう。

それを見付けたローンズリー卿は激怒。

だが、既にパトリシアを乗せたオービルの飛行機は飛んでいる。

その時、翼の支柱が折れる。

危機一髪。

オービルは、折れた支柱に自分のベルトを巻いて応急処置。

無事着陸したものの、ローンズリー卿は「あの男は失格だ!」と。

リチャードはオービルを殴る。

ローンズリー卿はパトリシアに「今後は飛行も車も許さん!」と言い渡す。

オービルはローンズリー卿の家へ出向き、「とにかく卿に会わせてくれ。このままじゃ破産だ」と懇願するが、取り付く島もない。

しかし、パトリシアが「私が父に話すわ」と。

一方、フランスドイツの決闘は失敗に終わっていた。

さあ、これからどうなる?

ここで「INTERMISSION」。

この後、イギリス人のずる賢いアーミテージ卿が部下のコートニーと共に他の参加者の妨害工作を働く。

我らが裕次郎には、下剤入りのワインを飲ませようとするが、裕次郎は「水割りしかやらないので」と断る。

さすがに、大スターを下痢にさせる訳には行かなかったのだろう。

しかしながら、アーミテージ卿の妨害で日本機はあっと言う間に墜落する。

裕次郎の出番がちょっとしかないのが残念だ。

まあ、色々と言いたいことはあるが、全体としては夢のあるエンターテインメントである。

撮影は大変だっただろう。

特に、スタントが。

人が死ぬシーンなどはないので、コメディーとして、安心して最後まで見ることが出来る。

今ではもう、こういう映画は作れないだろう。

最後に、「この時代に25時間11分かかったロンドン・パリ間は、今では超音速旅客機でわずか7分間である」と字幕が出る。

技術の進歩は恐ろしい。

D

2018-09-17

『ラストエンペラー』

この週末は、ブルーレイで『ラストエンペラー』を再見した。

ラストエンペラー [Blu-ray]

ラストエンペラー [Blu-ray]

1987年のイタリア・中国・イギリス合作映画。

監督は、『ラストタンゴ・イン・パリ』のベルナルド・ベルトルッチ。

撮影は、『ラストタンゴ・イン・パリ』『地獄の黙示録』『レッズ』のヴィットリオ・ストラーロ。

主演は、『キングコング(1976)』のジョン・ローン。

僕の母が彼のファンだった。

「好きな俳優は?」と訊かれたら、「ジョン・ローン!」と即答していた。

最近は見ないが、どうしているのだろうか。

共演は、『アラビアのロレンス』『天地創造』『007 カジノロワイヤル』のピーター・オトゥール。

僕はおそらく、本作を見るのは3度目だと思う。

最初は、実家にいた頃、テレビの洋画劇場で見た(ような気がする)。

当時、ものすごく話題になっていた。

でも、内容はほとんど覚えていない。

2度目は、大人になってから、DVDで見た。

それでも、やはり内容はロクに覚えていなかった。

情けない。

テクニカラーシネスコ・サイズ(テクノビジョン)。

中華風のエキゾチックなテーマ曲

1950年の満州(中ソ国境)から始まる。

汽車が駅のホームに入って来る。

降りて来る兵士達。

彼らは戦犯である。

その中に愛新覚羅溥儀(ジョン・ローン)がいる。

「口を聞くと厳罰」と言われ、誰も話さない。

街の建物の壁には革命の絵が描かれている。

(元)皇帝に気付いて、ひれ伏す人々。

収容所に着き、一人立ち去り、空き部屋にこもる溥儀。

手首を切る。

「Open the door!」と叫ぶ監視官。

本作は、中国人も全員、英語のセリフを話している。

これが、強烈な違和感である。

昔のハリウッド映画と違い、中国との合作なので、ちゃんと中国でロケして、中国人の役者が多数、出演している。

それなのに、何故セリフが英語なのか。

英語のセリフじゃないと、アカデミー作品賞は獲れなかっただろうが、映画の舞台とセリフの言語について、もっときちんと考えるべきではないかと思う。

映画の雰囲気は素晴らしいが、セリフを聞くと、興醒めなのである。

溥儀の回想で1908年の北京へ。

本作は、このように現代(1950年)の収容所の過酷な状況に置かれた溥儀と、皇帝時代の華麗な溥儀を自在に行き来することで、それぞれの対比を浮び上がらせると共に、長い作品にリズムを与えている。

辮髪の坊や(3歳の溥儀)が神輿に乗って紫禁城へやって来る。

実母が乳母アーモに溥儀を託してだ。

「I want to go home!」と溥儀が叫ぶ。

城に着くと、西太后が座っている。

西太后が溥儀を呼ぶ。

男性は、夜は紫禁城に入れない。

ただ一人、皇帝を除いては。

昨日、先代の皇帝が亡くなった。

溥儀を皇帝に指名し、西太后は亡くなる。

即位式で、退屈な溥儀は、コオロギを追って外へ走り出す。

そりゃそうだろう。

何も分かっていない坊やなのだから。

なお、これはラストにつながる重要な伏線。

城の広い庭に出ると、大勢の臣下達がひれ伏している。

溥儀はおウチに帰りたがる。

もちろん、そんな願いは聞き入れられない。

風呂に入れられる溥儀。

3歳児のおちんちんが無修正で写っている。

現代の日本の法律に照らすと、これは児童ポルノに当たる。

映画史上に残る名作を児童ポルノ扱いするとは、国家権力は断じて許せない。

ウンチまで観察される。

城へアーモが様子を見に来る。

思わず彼女に抱き付く溥儀。

寝床では、アーモが溥儀に絵本の読み聞かせをする。

幸福な幼児時代。

ビンタで叩き起こされ、現代(1950年)に戻る溥儀。

自殺を図ったが、裁判に掛けるために助けられたのだ。

収容所の同室に、実弟の溥傑が入って来る。

回想。

溥傑の少年時代、弟の溥傑が城にやって来る。

母親と7年ぶりの再会。

幼い子供が、母親や兄弟と何年も無理矢理離されて暮らさなければならないとは、異常である。

中国の皇帝制というのが、このような歪な状況を強いながら維持されて来たことが分かる。

同じことは、日本の天皇制にも言える。

現天皇の退位や、皇室の女子の結婚相手を巡っての大騒動等を見ると、天皇制というのが、如何に現代にそぐわない異常な制度であるかが分かるのである。

天皇は、即位を拒む権利も、自ら辞める権利もない。

生まれながらにして、天皇として生きることが運命付けられている。

日本国憲法は基本的人権を定めているのに、天皇には人権すらないのである。

日本でも、そろそろ憲法1条を改正して、現天皇を「ラストエンペラー」にすべきではないか。

僕は安倍政権を支持しないが、憲法改正論者である。

話しが逸れた。

城の周囲の人々は溥儀が通ると、背中を向ける。

一般人は皇帝を見てはいけないのだ。

おそらく、天皇が現人神とされた戦前の日本でも同じような状況だったのだろう。

いや、戦後の日本でも、ある時期(と言っても、僕が物心ついた後でも)までは、映画等で天皇の姿を写さず、玉座か後姿だけだった。

ハリウッド映画で、ある時期までキリストを直接的に描かなかったようなものか。

溥儀と溥傑は無邪気に「鬼ごっこ」と言って走り出し、部下が後を追う。

滑稽だが、映像的には優雅で美しいシーン。

アーモの乳を吸う溥儀。

ちょっとおかしい。

彼は当時、10歳位だろうか。

以前、AKBの誰だかの写真集で、少年が彼女の乳を両手で隠しているとして、「児童ポルノだ」と騒ぎになったが、10歳の少年に成人女性の乳を吸わせたら、現代では確実に児童ポルノ扱いになって、監督が逮捕されるだろう。

で、「兄ちゃんは皇帝じゃない!」と溥傑が溥儀に言って、大ゲンカになる。

溥儀が、「皇帝である証拠を見せる」と、部下に命じてインクを飲ませる。

幾ら皇帝の命令は絶対だからといって、こんな不条理が許されるのか。

だが、溥傑が城の外へ溥儀を連れて行き、共和国大統領の車を指し示して見せる。

城外の人々は、最早溥儀にひれ伏さない。

溥儀は、城内でのみ皇帝なのである。

まあ、現代日本の象徴天皇のようなものか。

中国は共和制になった。

アーモが城から連れ出される。

溥儀は、「朕の好きな女だ!」と叫び、アーモを追い掛けて走る。

少年が乳母に恋愛感情を抱くというのは、フィクションならともかく、現実世界では、どうなんだろう。

それくらい、愛情に飢えていたということだろう。

城の庭は、最早草ぼうぼうであった。

これは実に象徴的で、いいシーンだね。

現代へ。

ここは人民局の政治犯収容所である。

戦前は、日本軍の監獄だった場所だ。

所長は怒りの演説を行なっている。

続いて、所長は自室で『紫禁城のたそがれ』という本を読んでいる。

回想。

共和制中国は腐敗し、軍閥の時代へ。

「取消二十一條」の垂れ幕を持ってデモ行進する学生達。

軍隊と衝突する。

安保反対のデモを弾圧する安倍政権のようだ。

一方、紫禁城には、イギリスから家庭教師のレジナルド・ジョンストン(ピーター・オトゥール)がやって来る。

城の「毒味役」というのが出て来るが、これも理不尽な職業だ。

たとえ高給を積まれても、こんな仕事はしたくない。

福島の原発の作業員みたいなものだ。

溥儀は、世界の皇帝の暗殺話しをジョンストンに聞く。

城外で何かが起きている。

銃声と悲鳴。

溥儀は、何があっても紫禁城から出られない。

溥儀は、ジョンストンから自転車の乗り方を習う。

母親がアヘンを飲んで自殺した。

溥儀は、母と弟に会いに行くと自転車に乗るが、城門を閉められる。

「Open the door!」と叫んでも、誰も言うことを聞かない。

溥儀は、「(母親に会いに)行きたい!」と屋根の上で騒ぐ。

西洋人の医師から、「メガネを掛けないと失明する」と言われるが、保守的な周辺は、「皇帝にメガネなどいけません」と言う。

メガネも掛けられないのか。

裕仁だってメガネを掛けていたのに。

しかし、時代は変わった。

溥儀は、ジョン・レノンのような丸メガネを掛ける。

そんな皇帝が、今や囚人なのであった。

この悲哀。

溥儀のお后選び。

何人もの写真を見せられる。

「モダンな女がいい。英語やフランス語が話せて…」

いえいえ、あなたのセリフが、既に英語じゃないですか(とツッコミたくなる)。

「朕は逃げ出したい。オックスフォードへ行きたい。」

溥儀は、17歳の婉容(ジョアン・チェン)を皇后に、12歳の文繍(ウー・ジュンメイ)を第2皇妃に選んだ。

相手は、「結婚相手も自由に選べなかった」と言う。

まあ、これも現代では考えられないだろう。

結婚は、基本的に両性の同意に基づくのだから。

けれども、皇室では、相手が母子家庭だとか、借金があるからと、結婚にブレーキが掛かる。

僕なんか、皇室じゃなくて、本当に良かったよ。

で、溥儀は、初夜にもお付きの者が付く。

そんなところにまで他人がいるなんて。

AVの撮影じゃないんだから。

プライバシーなんて、どこにもない。

婉容は、「きっとあの人を好きになるわ」と言う。

このセリフも、最後まで見ると、悲しいのだが。

しかしながら、現代(1950年)に戻ると、溥儀は「囚人981号」なのであった。

収容所の所長(英若誠)に尋問されながら、「君は反逆者そのもの、反革命そのものだ!」と激昂される。

まあ、歴史を振り返ると、革命を経ると、その前の権力者は、大抵、無惨に処刑されるのだが。

革命と言っても、結局は、権力の移譲に過ぎない。

再び、回想。

溥儀は、「朕の辮髪を自分で切る」と。

溥儀というのは、世界史の教科書にイラストで載っていたように、満州人の象徴なのだが。

これを切る権利もなかったのか。

「前の皇帝は、改革を望んで殺された。」

やはり、近代化と天皇制とは相容れないのか。

溥儀は、眠る時もピストルを持っている。

イヤだね。

寝る時くらい、ゆっくりと落ち着いて寝たいね。

婉容と文繍が寝床に入って来る。

3Pかよ。

『王様と私』もそうだったが、本作でも、一夫多妻制に対する蔑視が伺える。

西洋では一夫一婦制だからなのだが。

もっとも、僕も一夫一婦制の方が、夫婦は円満だと思うが。

嫁同士で嫉妬が渦巻く世界なんて、考えただけで面倒臭い。

その時、保管庫に火事が起こる。

宦官達が放火して、自らの使い込みを隠蔽したのだ。

溥儀は、800人の宦官全員を追放する。

現代(1950年)へ。

所長から、日本との関係を追及される。

再び、回想。

ついに、共和国政権は崩壊へ。

溥儀らは、紫禁城から追放される。

余談だが、本作では、セリフは英語なのに、書き物は漢字である。

ますます違和感。

第2皇妃の文繍は離婚を望むが、皇帝には離婚の自由もない。

ジョンストンはイギリス大使館へ連絡して庇護を求めるが、国際問題になることを恐れ受け入れず、結局、溥儀に手を差し伸べたのは、日本だけだった。

ここまでが前半。

さあ、これからどうなる?

歴史に翻弄された男の物語。

大河ドラマ。

壮大なスケール。

素晴らしい美術と衣装と、各国の豪華な役者を揃えた超大作。

もう、こんな映画は作れないであろう。

で、後半、日本軍が登場するが、彼らは日本語を話す。

日本人が日本語を話しているのに、中国人が英語って、おかしいだろ。

溥儀は、『TIME』の表紙にもなったんだな。

本作では、日本は完全に悪者である。

まあ、歴史的に見て、仕方がないんだが、日本人としては複雑な気持ちになる。

あと、アヘン中毒の描写が恐ろしい。

最後の方に、文化大革命で、「造反有理」を叫ぶ紅衛兵が出て来る。

当時の中国は、現在の北朝鮮と全く同じに見える。

監督は、コミュニストだったらしいので、反帝政の立ち場で本作を作ったのだろうが。

かと言って、共産主義の実験は失敗したと思う。

では、これからの時代、我々はどうすればいいのだろうか?

ラストは、非常に叙情的で、余韻があって、映画的である。

アカデミー賞作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣装デザイン賞、美術賞、作曲賞受賞。

1988年洋画興行収入1位(ちなみに、邦画の1位は『敦煌』。中国を舞台にした大作がヒットした年だったんだな)。

D

2018-09-09

『唇からナイフ』

この週末は、ブルーレイで『唇からナイフ』を見た。

1966年のアメリカ映画。

監督はジョセフ・ロージー。

撮影は、『旅情』『戦場にかける橋』『007/カジノ・ロワイヤル』のジャック・ヒルドヤード。

主演は、モニカ・ヴィッティ、『スーパーマン』のテレンス・スタンプ、『遠すぎた橋』のダーク・ボガード。

共演は、『アレキサンダー大王』『空軍大戦略』『スーパーマン』のハリー・アンドリュース、『ロミオとジュリエット(1968)』のロベルト・ビサッコ。

20世紀フォックス

カラー、ワイド。

眠っているモデスティ(モニカ・ヴィッティ)のアップから始まる。

時代を感じさせる主題歌。

原色のタイトル・バック。

本作の美術や衣装は、なかなか奇抜である。

色彩感覚が独特で、ちょっとゴダールみたいだ。

街を歩いている紳士。

ある家に着き、ステッキで呼び鈴を押すと、建物ごと爆発する。

イギリスの偉いさん達の会議。

要するに、イギリスは中東マサラ国の石油資源を獲得するための見返りとして、同国元首シークに5000万ポンドのダイヤを贈ることになった。

だが、イギリス秘密諜報部長タラント卿(ハリー・アンドリュース)は、このことを察知した国際ギャング団がダイヤを狙って暗躍し始めたという情報を得た。

そこで、タラント卿は、このダイヤを守るために、札付きの女賊モデスティを口説き落として、ダイヤ護衛に当たらせることにする。

つまり、毒を以って毒を制するという訳だ。

モデスティは、華麗なる引退生活で結婚したがっているようだが。

タラント卿は、マサラ王国の映像をモデスティに見せる。

そして、仕事の依頼をする。

モデスティは、「全ての情報を教えて」と言う。

もし裏切ったら、ダイヤを頂くと。

報酬は前払いで。

モデスティは、この件を引き受ける条件として、長年の相棒ウィリー(テレンス・スタンプ)を仲間として加えることを約束させる。

彼女はウィリーに電話し、「今すぐ来て」と。

モデスティはシークと会う。

モデスティとウィリーは、シークがマサラ国でクーデターを起こした時、この闘いに協力して、シークの絶大な信頼を得ていた。

敵の正体は未だ分からないが、シークは「ガブリエル(ダーク・ボガード)しかいない」と言う。

続いて、南地中海のとある島。

ガブリエル一味の拠点。

彼は、モデスティにまた邪魔をされることを危惧している。

そこへ、スペインで情報を売って捕まったピエロが到着する。

ガブリエルの妻は、ピエロを虐待し、絞め殺して、死体を海に投げ捨てる。

続いて、アムステルダム。

遊覧船に乗るモデスティ。

運河に機雷が仕掛けられている。

直前にそれに気付き、モデスティはナイフを投げて仕掛けを切り、助かる。

ハーレム通りのアパートへ。

モデスティはドアベルを押さずに室内へ入る。

一方、酒場ではパコのマジック・ショーが行われていた。

ウィリーは店内に入り、パコのアシスタントであるニコルに声を掛ける。

再び、モデスティのいるアパート。

住人のポールが帰って来る。

彼は、パリでまんまとモデスティに騙されたことがある。

ウィリーは店外でニコルと落ち合う。

モデスティはポールと大ゲンカ。

ポールの部屋に男達が忍び込み、ポールと、入浴中のモデスティを捕まえる。

ちょっとしたお色気コメディ。

拘束されて、止むを得ずウィリーを呼び出すハメに陥るモデスティ。

女から電話が掛かって来て、メイク・ラヴ中だったウィリーの恋人(ニコル)が泣く。

ウィリーは、タラント卿と共にアジトにやって来て、モデスティを助ける。

一方、ガブリエルは島から手下に指令を下す。

ニコルは男達に狙われ、刺される。

モデスティが彼女の傍に駆け寄る。

ニコルは、「黒幕はガブリエルとウィリーに伝えて」と言って、絶命する。

これで、もちろんモデスティも狙われることに。

さあ、これからどうなる?

話しがイマイチ読めないのだが。

要するに、泥棒同士の騙し合いだから、観客も付いて行くのが大変だ。

後半は、当然ながら、モデスティ・ウィリー対ガブリエルの闘いになる。

オシャレな映画なんだけど、面白いかと聞かれると、ちょっと微妙かな。

ヘンな秘密兵器がいっぱい登場するのは、まるで『007』のようだ。

如何にも60年代といった雰囲気は味わえる。

登場人物が皆、タバコをスパスパと吸いまくっているのが、現在では考えられない。

僕は非喫煙者(元喫煙者)だが、行き過ぎた禁煙ファシズムには断固反対だ。

D

2018-09-04

『王様と私』

この週末は、ブルーレイで『王様と私』を見た。

1956年のアメリカ映画。

監督はウォルター・ラング。

原作は、『サウンド・オブ・ミュージック』(作詞)のオスカー・ハマースタイン2世。

音楽は、『サウンド・オブ・ミュージック』(作曲)のリチャード・ロジャース。

主演は、『クォ・ヴァディス』『地上より永遠に』『007 カジノロワイヤル』のデボラ・カーと、『十戒』『荒野の七人』『ウエストワールド』のユル・ブリンナー。

王なのに、ユル・ブリンナーの名前の方が後に出て来るというのが、既にこの作品の立ち位置を示しているが。

共演は、、『雨に唄えば』『ウエスト・サイド物語』のリタ・モレノ。

20世紀フォックス

カラー、シネマスコープ。

勇壮なテーマ曲

舞台は1862年のシャム。

汽船に乗ってバンコクに到着するアンナ(デボラ・カー)と息子のルイス(レックス・トンプソン)。

船の召使いは皆、有色人種。

首相のクララホムがアンナを迎えに来る。

アンナは王家の家庭教師として招かれたのであった。

最初は通訳を通して話していたが、実はこのクララホムは一杯食わせ者で、英語が話せるのである。

と言うよりも、本作では、セリフは全編を通じて英語だ。

タイが舞台なのに。

まあ、ハリウッド映画だから仕方がないのか。

アンナは専用の家に住める約束だったが、王の宮殿に住まうように告げられる。

約束が違うと怒るアンナ。

バンコクの町には象が歩いている。

黄金の宮殿。

実に素晴らしく豪華なセットである。

今日は王(ユル・ブリンナー)の機嫌が悪いらしい。

偉そうな王である。

ちょうど、ビルマから貢ぎ物としてタプティム(リタ・モレノ)という娘が連れられて来たところである。

今日の謁見はこれまでと言われたが、アンナはそれを無視して、王の面前へ。

王が言うには、アンナはシャムの近代化の一環として、英語の家庭教師として雇われた。

王は英語を話す。

アンナは真っ直ぐなところが王に気に入られた。

それにしても、渡辺謙はユル・ブリンナーの演技をそのまま真似ているようだ。

王は家族をアンナに紹介する。

まずは、第一王妃であるチャン王妃。

彼女は、宣教師から教わったという『創世記』の一節を唱えながら登場する。

妻が何人もいるが、皆、少しは英語を話せる。

王は、「近代国家の女達は英語くらいは話せないと」と言う。

全く同じような言説が、現代の日本でも聞かれる。

これは、本作に秘められた深いテーマの一つでもあると思うのだが。

本作は、明らかに「西洋文化=進んでいる」「東洋文化=遅れている、野蛮」という価値観で描かれている。

原作者は進歩的なアメリカ人だから、そういう発想になるのだろう。

しかし、僕は東洋人だから、こういう見方に大いに反発を覚える。

確かに、この時代、日本も含めてアジアの多くの国々は、西洋に倣って、如何に近代化(=西洋化)を推し進めるかが課題であった。

日本は、近代化に成功したからこそ、現代のように発展したというのも事実だろう。

男尊女卑はいけないと思うし、人身売買のような制度は野蛮だとも思う。

究極的には、王制(天皇制を含む)も廃止すべきだと思う。

だが、「西洋化=善」ではない。

東洋には東洋のアイデンティティーがある。

大事なのは、イデオロギーよりもアイデンティティーだ。

どうにも、本作には、『ロビンソン・クルーソー』並みの傲慢さが感じられる。

「英語を話せること=近代化」ではない。

現に、日本人は英語を話せなくても、近代化を達成した。

一方、英米の植民地となって、英語が公用語になったのに、なかなか発展しなかったという不幸な国だって幾つもある。

本作の王のモデルになったラーマ4世も、如何に欧米列強に支配されないで自国を近代化するかに腐心したという。

もちろん、本作でも、王の葛藤は描かれているが、明らかに英米目線である。

タイでは、本作は不敬罪に当たるので、上演・上映が禁じられているという。

それもむべなるかな。

で、アンナは王から「宮殿に住め」と言われ、家の交渉は却下される。

王には子供が67人もいる。

タプティムは、アンナに「初級者向けの英語の読み物は何ですか?」と聞いて、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』を借りる。

まあ、本作は、英語学習の指針にはなるかな。

地理の授業でも、この国の世界地図は、シャムが異様に大きく描かれている。

アンナが子供達に、現実の世界地図を見せると、シャムは小さな点にしか過ぎないので、子供達はガッカリする。

アンナは、このクソ暑い国で、英国のドレスを着たままである。

シャムの子供達は、雪も氷も知らない。

それに対して、王は「見たことだけを信じるなら、学校は要らん!」と子供達に言う。

何しろ、イギリス本国には高い授業料を払っているんだ。

リンカーンの話しをアンナから聞いた王は、思わず、「奴隷制には反対だ」と言ってしまう。

奴隷制を導入しているのにもかかわらず、だ。

しかし、主人公がリンカーンを称賛しているというのが、如何にもアメリカ人の原作っぽい。

イギリス人は、リンカーンのことを褒めるのだろうか?

まあ、近代化というのは、王制とは相容れないな。

イギリスは王制だが、色々と矛盾がある。

日本の天皇制だって同様だ。

で、首相のクララホムは、近代化には反対の立ち場だ。

「この国には無理だ」というのである。

もっともな意見だ。

アジアの多くの国が、このような葛藤を経て、近代化の波に巻き込まれて行ったんだな。

アンナは、夜中に王に呼び出される。

王は、寝そべりながら、分厚い聖書を読んでいる。

王曰く、「モーゼはこの世は6日で出来たと言っている。大阿呆だ!」

英米人にとっては、キリスト教が唯一絶対だから、この王の発言を「この人は何を言っているんだ」という感じで受け止める。

言語の押し付けと共に、宗教の押し付けも絶対にやってはいけないことである。

ロビンソン・クルーソーは、それを平然とやってしまったのだが。

王は「リンカーンに手紙を書く」と言い出す。

アンナに口述筆記をさせる。

彼女は、王にひれ伏すのはお断りだと言う。

でも、王に雇われているんだから、その態度は失礼じゃないか?

どうにも、東洋人を下に見ているような気がしてしまう。

王は、戦いには象が必要だとして、リンカーンへの手紙に「象を何頭か送りましょうか」と書かせる。

ここで、観ている者を笑わせようとしているのだろうが。

そりゃ、失礼だろう。

異文化に対して、もっと敬意を払えよ。

国が違えば、戦争の仕方も違うんだよ。

で、タプティムは、彼女を連れて来たビルマの使者の若者と恋仲であった。

若者は、夜中に秘かに彼女に会いに来た。

隣の国から、一体、何日掛けてやって来たのであろうか。

ビルマ人なのに、セリフは英語である。

それはさておき、現場を見たアンナに手引きを頼む若者。

「見付かったら殺される。私は力になれない」とアンナ。

しかし、タプティムを連れて来る。

恋愛の自由がないというのも大変だ。

AKBか。

で、この王はいつも本を読んでいる。

非常に勉強家である。

首相のクララホムは、王に対して、「英国はいつか侵略して来る」と告げる。

王は、この国の行く末を真剣に案じている。

だが、王が考え事をしている時に、子供達の大きな歌声が聞こえて来る。

「うるさい!」

王はアンナの音楽の授業に怒る。

アンナは、家の約束を守って欲しいと王に迫る。

王は、「召使いの分際で、家の約束はない!」と激怒。

アンナは、「私は召使いではない!」

続けて、近代国家の仲間入りをしたいなんて大嘘。

実態は旧態依然。

全て国王の意向次第とまくし立てる。

「それ以上は申すな!」と王。

アンナは、「言いたいことは言いました! 帰国します!」

帰国の準備を始めたアンナを、第一王妃が引き留めに来る。

さあ、これからどうなる?

本作は、セットや衣装はものすごく豪華なのだが。

仏(フランスではない)に対して、英語で祈ったりする。

西洋人にとっては、異国趣味もあるのかも知れないが。

クライマックスの、『アンクル・トムの小屋』の翻案劇はスゴイ。

有名な「Shall We Dance?」(周防正行の映画ではない)を始め、音楽も良い。

でも、どうなんだろう。

根底では、東洋文化を見下しているような気がする。

アカデミー賞主演男優賞(ユル・ブリンナー)、美術賞、衣装デザイン賞、作曲賞、録音賞受賞。

D

2018-08-27

『パピヨン』

この週末は、ブルーレイで『パピヨン』を見た。

パピヨン [Blu-ray]

パピヨン [Blu-ray]

1973年のアメリカフランス映画。

監督は、『猿の惑星』『パットン大戦車軍団』のフランクリン・J・シャフナー。

脚本は、僕の大好きな映画『スパルタカス』のダルトン・トランボと、『コンドル』『キングコング(1976)』のロレンツォ・センプル・ジュニア。

音楽は、『猿の惑星』『パットン大戦車軍団』『トラ・トラ・トラ!』『チャイナタウン』『オーメン』『エイリアン』『スタートレック』の巨匠ジェリー・ゴールドスミス。

撮影は、『パットン大戦車軍団』『タワーリング・インフェルノ』のフレッド・J・コーネカンプ。

主演は、『荒野の七人』『大脱走』『華麗なる賭け』『栄光のル・マン』『ゲッタウェイ』『タワーリング・インフェルノ』の大スター、スティーブ・マックイーンと、『卒業』『真夜中のカーボーイ』『大統領の陰謀』『マラソンマン』『クレイマー、クレイマー』『トッツィー』『レインマン』の名優ダスティン・ホフマン。

共演は、『オレゴン魂』のアンソニー・ザーブ、『タワーリング・インフェルノ』のグレゴリー・シーラ。

本作は、10年位前に一度DVDで見たのだが、先日、高校時代の友人と会った時に、彼が見たい映画の1本として挙げていたので、再見することにした。

僕は、脱獄映画が大好きである。

傑作の多いジャンルであり、パッと思い付くだけでも、『抵抗』『穴』『大脱走』『暴力脱獄』『ミッドナイト・エクスプレス』『アルカトラズからの脱出』『ショーシャンクの空に』と枚挙に暇がないが、『パピヨン』は、それらの中でも、指折りの大傑作である。

今回、再見して、改めてその思いを強くした。

ワーナー・ブラザース。

テクニカラーシネスコ・サイズ。

時代は、作品中ではっきりと明言されないが、原作者のアンリ・シャリエールが形を宣告されたのは1931年らしい(実話)。

舞台はフランス領ギアナの刑務所。

なお、フランスなのに、セリフは英語である。

囚人達を前に、「刑期を終えても、8年以上の者はギアナに属する。お前達は祖国に見捨てられたのだ!」と演説する刑務所長。

公道を銃を突き付けられながら歩かされる囚人達。

哀れみながら眺める沿道の人々。

パピヨン(スティーブ・マックイーン)に「帰れるわ」と声を掛ける女性。

しかし、パピヨンの隣の男は「帰れるもんか!」と吐き捨てる。

護送船に乗る。

ナイフを隠し持つパピヨン。

紙幣を丸めて尻の穴に隠す。

パピヨンには胸にチョウの刺青がある。

彼は終身刑。

しかし、囚人の半分は最初の1年で死ぬ。

刑務所は沼地の真ん中だから、逃げようがない。

船内に、ニセ札作りの名人、ルイ・ドガ(ダスティン・ホフマン)がいる。

朝、起床。

船外は嵐。

ドガの隣に座るパピヨン。

パピヨンは殺人罪だが、無実だと主張する。

金庫は破ったが、人は殺していないと。

パピヨンはドガに「俺が守ってやる」と告げる。

船内には、既に病気の者もいる。

パピヨンは脱走を企んでいる。

だが、バレたら独房行きである。

囚人達は本当にヒドイ扱いを受けている。

が、それを過剰演出することなく、淡々とした描写が続く。

それで、十分にこちらには伝わって来る。

ドガはパピヨンに、逃走に必要なカネを用意すると告げる。

ただし、逃げるのはパピヨンだけだ。

船内で就寝中、二人の男に切り付けるパピヨン。

捕まって拷問を受ける。

島へ到着。

ここでは、泳いでも流れが早くて押し戻される。

早くも脱走を図った若い囚人は、その場で銃殺される。

サン・ローラン刑務所へ。

脱走を企てた者は2年間の独房行き。

2度目は5年。

それ以上はギロチンだ。

見せしめの公開処刑も囚人達の前で行われた。

つい数十年前には、こんな野蛮な死刑が実施されていたんだな。

もっとも、現在の日本も絞首刑だから、同じようなものだが。

強制労働あるいは島送りから逃れるために、パピヨンとドガは看守を買収しようとする。

ところが、担当の看守は運悪く、ドガの作ったニセ国債で破産したという。

パピヨンとドガは「キロ40」に送られる。

「キロ40」とは、ワニのいる川での強制労働だ。

パピヨンとドガは、生きたワニを捕まえるように命じられる。

このワニは本物である。

捕まえたワニの腹を割く。

本作は、動物の(いや、人間も含めて)生々しい描写が多い。

強制労働の余りのキツさに、自殺者も出る。

ドガはモルフォ蝶を捕まえる。

モルフォ蝶は、ドル札の染料になるので、高く売れるという。

パピヨンは、(カネで)看守に脱走用ボートの手配を交渉する。

ドガは、「逃げるなら、俺も連れてってくれ。ここに残っていたら死んじまう」とパピヨンに告げる。

パピヨンは「好きにしろ」と答える。

ドガは死体を見て嘔吐する。

それを見た非情な看守に殴られる。

パピヨンは止めに入り、思わず看守に、そこにあった熱湯を掛けてしまう。

パピヨンは逃げようとして、ボートの手配を交渉した看守のところへ。

ところが、銃を突き付けられる。

ハメられたのだ。

パピヨンは独房送りになる。

最初に、所長から「ここでは沈黙しろ。危険人物は無害にする」と告げられる。

食事はゴキブリ入りの食器に、まずいスープ。

「何でも食ってやるぞ!」と誓うパピヨン。

ドガから、「体力を付けろ」と秘かにココナッツの差し入れが始まる。

隣の独房の者も、いつの間にかいなくなった。

隣の部屋の者に自分の様子を聞くと、ウソでも「元気そうだ」と答えるのである。

コウモリが飛んで来て、足を噛まれる。

とうとう、ココナッツの件が所長にバレる。

「ココナッツを誰にもらったか言わないと、食事は半分、半年間明かりナシにしてやる!」

それでも、パピヨンは白状しない。

パピヨンは夢を見た。

「お前は罪を犯している。人間として最大の罪、人生を無駄に過ごしている」と、夢の中で裁かれる。

まずいスープの量が半分になった。

パピヨンはムカデを入れて食う。

だんだん狂って来て、目が据わって来る。

もう、このシーンの、マックイーンの鬼気迫る演技がスゴイ。

「何としても生き抜いてやる!」という強烈な執念が伝わって来る。

描写の一つ一つから、環境の苛酷さが突き付けられているので、説得力がある。

あらゆる脱獄映画の中で、これほどの極限状況を描いた作品は、他に知らない。

半年振りに明かりが入れられる。

まぶしくて目が潰れる。

最初は白かった囚人服も、真っ黒に汚れている。

しかしながら、それでもパピヨンはココナッツが誰からの差し入れだったか言わない。

「では死ね!」と所長。

栄養失調で歯が抜ける。

パピヨンは所長に、「ボケてしまって、差し入れたヤツの名前を忘れた」と言う。

また、パピヨンの夢。

死んだ仲間の方へ走って行くパピヨン。

日本で言えば、三途の川を渡るような感じなのだろう。

済んでのところで目が覚める。

ついに、2年間の刑期満了。

「クソ野郎め!」と吐き捨てて、倒れるパピヨン。

パピヨンが刑務所に戻って来る。

涙ながらにパピヨンを抱き寄せるドガ。

ベッドに横たわっているパピヨンに、ドガから肉入りの熱いスープが届けられる。

あれほど悲惨な食事を散々見せられた後だから、これがどんなにうまそうか、こちらにも痛いほど伝わって来る。

ドガはパピヨンに「女房と弁護士にお前の減刑を頼んでおいた」と告げる。

だが、それでも3年は掛かるという。

「長過ぎる!」

パピヨンは、そんなことよりも、ボートを用意してくれとドガに頼む。

ここまでで半分。

後半も、手に汗握る展開で、画面から目が離せない。

現在なら難しそうな、ハンセン病患者の描写も出て来る。

現地人の描写も、今なら問題になるだろう。

明らかに児童ポルノに該当しそうな、現地女性のヌードも出て来る。

今では、こういう映画は撮れないだろう(ホメ言葉です)。

パピヨンは、まるで川口浩のように色んな場所を巡る。

でも、それよりも遥かにカネが掛かっている。

本作には、安っぽいところが微塵もない。

全編、ものすごいロケである。

唯一、ラストシーンが残念だと言われる(有名だ)が、そんなことは気にならないくらい、全体の完成度が高い。

ラストは、写ってはいけないものが写ってしまっていて、現在のデジタル技術なら簡単に消すことが出来るだろうが、作品に敬意を払って、そのままにしてあるのだろう。

題材は脱獄なんだけど、結局、パピヨンとドガの男の友情に心を打たれる。

映画史に残る大傑作である。

つい最近、本作のリメイクが作られたそうだが、見るまでもなく、オリジナルは越えていないだろう。

1974年洋画興行収入3位(1位は『エクソシスト』。邦画の1位は『日本沈没』。スゴイ時代だ。面白い映画に客が入った幸福な時代だったのだ)。

D

2018-08-16

『サクリファイス』

お盆休みには、ブルーレイで『サクリファイス』を見た。

サクリファイス [Blu-ray]

サクリファイス [Blu-ray]

1986年のスウェーデン・イギリスフランス映画。

監督は、『ストーカー』の巨匠アンドレイ・タルコフスキー。

主演はエルランド・ヨセフソン。

お盆休みに2本連続でタルコフスキーの作品を見るのは、なかなかの苦行であった。

カラー、ワイド。

画質は良い。

バッハの宗教音楽で始まる。

舞台はスウェーデンのゴトランド島(しかし、はっきりと場所が示されている訳でもない)。

湖畔で枯れ木を植えるアレクサンデル(エルランド・ヨセフソン)。

彼は「美しい木だ。日本の生け花のようだ」と言う。

この構図は、確かに枯山水のように見えなくもない。

今日はアレクサンデルの50歳の誕生日。

傍にいるのは幼い息子。

アレクサンデルは彼に、修道僧が枯れ木に3年間、毎日水をやって、花が満開になったという昔話をする。

そこへ、郵便局員オットーが祝電を届けに来る。

そこには、「リチャード派」と「白痴派」があると書かれている。

どうやら、シェイクスピアとドストエフスキーを指している様だ。

アレクサンデルは評論家であり、大学教授でもある。

彼は無神論者で、暗い顔をしている。

僕も完全な無神論者だが。

オットーはニーチェの永劫回帰について語る。

喉の手術をしたばかりの息子は口が聞けない。

本作のセリフは、とにかく観念的だ。

僕は昔、『ツァラトゥストラかく語りき』を読んだが、よく分からなかった。

延々と繰り広げられる哲学的な会話を、息子は全く聞いていない。

アレクサンデルは「Words, words, words」と、ハムレットのセリフを持ち出す。

「やっとハムレットが分かった」と。

息子の姿が見えなくなる。

突然、息子はアレクサンデルに頭突きを喰らわす。

倒れるアレクサンデル。

映像はものすごく美しい。

まるで絵画のようだ。

だが、セリフはさっぱり分からん。

モノクロで、廃墟と化した無人の街が一瞬写る。

誕生日ということで、アレクサンデルの家に家族や友人が集まって来る。

アレクサンデルは、友人である医者のヴィクトルから贈られたイコン画集をめくりながら、「素晴らしい」と。

アレクサンデルは、かつて舞台俳優で名を成した。

それに憧れて彼と結婚した妻のアデライデは、そのことを後悔している。

あと、家にはアレクサンデルの娘マルタと、小間使いのジュリア、召し使いのマリアがいる。

オットーは、自転車で17世紀のヨーロッパの大きな地図をプレゼントとして持って来る。

アレクサンデルが「高価だから」と固辞すると、犠牲がなければプレゼントではないとオットーが言う。

もう、とにかくアレクサンデルの観念的な独り語りがずっと続き、さっぱり話しが展開しない。

オットーは、第二次大戦中に息子が戦死した人をたくさん知っている等と語っていると、突然倒れる。

そこへ、震動と轟音。

未だ何事かは分からない。

白夜の戸外。

急に姿が見えなくなった息子を探していたアレクサンデルは、自宅そっくりの小さな模型の家を見付ける。

マリアは、それは(アレクサンデルの)息子が父の誕生日プレゼントとして作ったのだという。

息子は自宅の2階のベッドで眠っていた。

ラジオ(ブランドはJVC)が、何やら我が国が核攻撃を受けたが、パニックになるなというようなことを告げている。

アレクサンデルが階下に降りると、居間にあるテレビも非常事態を告げていて、家族みんながじっと見ている。

やがて、テレビ放送も停まる。

停電で家の中は真っ暗。

「私はこの瞬間を待っていた」と意味不明なことを言うアレクサンデル。

アデライデは取り乱し、「みんな何か言ってよ!」と英語で叫びながら、泣き崩れる。

息子は何事もなかったかのように眠っている。

ほぼ部屋の中の出来事なので、舞台を観ているようである。

医師であるヴィクトルは、アデライデに鎮静剤を打つ。

彼女は、これまでいつも自分の願望と逆のことをして来たと嘆く。

外も真っ暗。

電話もつながらない。

アデライデは眠っている息子を起こそうとするが、ユリアに止められる。

そりゃそうだろう。

子供にわざわざ怖い思いをさせる必要はないからな。

アレクサンデルは、ヴィクトルのカバンの中にピストルを見付ける。

その頃、隣室ではマルタが服を脱いでヴィクトルを誘っている。

何だろう?

みんなパニックに陥っているということか?

で、ここで、無神論者だったアレクサンデルが初めて神に祈る。

「家も子供も家族も言葉も捨てるので、愛する人々をお救い下さい」と。

これが「サクリファイス」ということか。

僕には宗教心がないので、さっぱり分からない。

いや、僕だけではない。

日本人のほとんどが理解出来ないだろう。

アマゾンのレビューなんかを見ると、皆さん、難しい言葉を使って色々なことを述べていらっしゃるので、スゴイなと思う。

この後の展開は、極めて荒唐無稽である。

僕には、信仰ではなくて、ただの精神異常にしか見えない。

まあ、オウム真理教を見れば分かるように、宗教は狂気と紙一重である。

いや、紙一重と言うより、狂気そのものである。

人間が作った神を、人間自身が信じて崇拝しているのだから。

僕は日本人なので、核戦争と信仰なら、核戦争の方が重大事だと思うが、キリスト教圏の人は違うらしい。

本作は完全な宗教映画である。

しかも、キリスト教の。

仮に日本人で宗教を信じている人でも、クリスチャンじゃないと本当のところは分からないのではないか。

最後に奇跡が起こるしね(ネタバレ)。

タルコフスキーが日本びいきだというのは分かった。

最初に植えた枯れ木だけでなく、ラジオはJVCだし、和服のような服をアレクサンデルが着ているし、彼も息子も「日本が大好きだ」とはっきり言及される。

音楽は尺八を使った邦楽だし、最後の家が炎上するシーンは、黒澤の『乱』みたいだ。

実際、タルコフスキーは黒澤を尊敬していたらしい。

まあ、映像が芸術的に美しいのは認める。

しかし、信仰というのは、自分が救われるためのものではないのか。

その信仰のために、自分を犠牲にするのは、本末転倒ではないのか。

こう思う僕には、この映画を理解することは、未来永劫、不可能だろう。

カンヌの審査員は全員、クリスチャンなんだろうな。

だから、心の底から感動したんだろう。

カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ受賞。

D

2018-08-14

『ストーカー』(1979)

お盆休みには、ブルーレイで『ストーカー』を見た。

ストーカー [Blu-ray]

ストーカー [Blu-ray]

1979年のソビエト映画。

監督は旧ソ連の巨匠アンドレイ・タルコフスキー。

主演はアレクサンドル・カイダノフスキー。

僕が学生だった1990年代は、タルコフスキーの死後だったが、彼の作品を理解しない者は映画を語るな、というような雰囲気があった。

僕が大学で少しだけ籍を置いていた映画研究会でも、特撮好きやら日本映画好きに混じって、タルコフスキー好きもいたような気がする。

もう少し上の世代になると、ゴダールやらフェリーニやらを信奉していたようだが。

僕は小学生の頃から『2001年宇宙の旅』が好きだったので、SF映画の名作として、『惑星ソラリス』の名前は知っていた。

もっとも、タルコフスキーは『2001年』を酷評していたらしいが。

で、僕は情けないことに、『惑星ソラリス』は未見である。

学生の時、タルコフスキーの作品を少しは見ておかないとイカンだろうと思って、レンタル屋で『ノスタルジア』を借りて来た。

しかし、これが映像はものすごくキレイなのだが、冗長かつ難解な作品で、半分位で挫折してしまった。

その後、大人になってから、DVDで『ローラーとバイオリン』を見た。

これはタルコフスキーの習作(国立映画大学の卒業制作)なのだが、瑞々しい感性の傑作だと思う。

僕が今までにちゃんと見たタルコフスキーの作品は、恥ずかしながら、これだけである。

最近になって、キングレコードからタルコフスキー作品のブルーレイが幾つか出たが、その内の1本が、この『ストーカー』である。

「ストーカー」と言っても、女性アイドルの偏執的なファンが彼女を追い掛けて殺してしまう、というような作品ではない。

本作が公開された頃には、未だ現在のような「ストーカー」の意味はなかった。

カラー、スタンダード。

静かなテーマ曲で始まる。

タイトル・バックは酒場。

画面はセピア調のモノクロで、文字だけがカラー。

最初に字幕で説明がある。

「隕石の落下か宇宙からの生命体か? ある地域に奇妙なことが起きた。それがゾーンだ。軍を送ったが戻って来ない。それで立ち入り禁止にした。」

これで最小限の設定だけ観客に知らせる。

半開きの扉の奥。

部屋があり、ベッドがあり、妻と娘と男が眠っている。

犬もいる。

カメラはゆっくりと進み、音はない。

起き上がる男。

仕度をして、出て行こうとする。

妻は「どこへ行くつもり?」と問い質す。

男は「すぐに帰る」と。

男は「ゾーン」への案内人「ストーカー」であった。

どうやら、立ち入り禁止のゾーンへ行くと、逮捕・投獄されるようだ。

「今度牢に入ったら10年よ!」

しかし、男は出て行く。

泣き崩れる妻。

外。

オカルト話しに興じる男女。

男は大学教授。

女性はゾーンに行きたいという。

そこへ、ストーカーがやって来る。

「あなたがストーカー?」と作家が尋ねる。

だが、ストーカーは女性に対して「お引き取りを」と言う。

車で去る女性。

冒頭のタイトル・バックの酒場に男3人が集まっている。

ストーカーと教授と作家だ。

酒を飲みながら話している。

要するに、ゾーンには「部屋」と呼ばれる場所があって、そこへ行けば願いが叶うという。

「♪そこへ行けばどんな夢も叶うというよ」って、『ガンダーラ』か。

教授と作家は、ストーカーに「部屋」に連れて行ってくれと依頼する。

ストーカーは飲み屋のマスターに「家族を頼んだぞ」と言い残し、教授と作家を連れて出て行く。

ジープに乗る3人。

警察が来ると隠れる。

巨大な機関車が走っている(ロシアの鉄道は線路の幅が広い)が、「機関車は監視所までしか来られない」とストーカーは言う。

ジープで走る3人。

機関車の後、線路の上をジープで走る。

ムチャクチャだ。

警察に銃撃されながらも、それをかいくぐって走る。

辺りは工業地帯のようなイメージだ。

設定上はSFなんだろうけど、よくあるSFのような近未来的なイメージではない。

油でギトギトの重い工場、労働者階級のイメージで全編が貫かれている。

軌道車に乗る3人。

走る。

延々と。

本当に延々と走ると、突然画面がカラーになる。

軌道車が停まる。

どうやらそこがゾーンのようだ。

静かで美しくて何もない場所。

3人の会話は観念的過ぎて、さっぱり分からない。

ストーカーの娘は足が不自由で、「ミュータント」だという。

まあ、この意味は最後に分かるが。

ストーカーの先輩で「ジカブラス」という男は、死んだ弟を蘇らせるために「部屋」に入ったが、ゾーンから戻って得たのは莫大な札束だった。

自分が本当に欲しかったものがそれだったという事実を「部屋」に突きつけられたジカブラスは、1週間後に首を吊ったという。

20年前、ここに隕石が落ち、村は焼かれた(ツングースか?)。

ここに来た人は誰も戻らない。

「隕石ではないのでは?」と、立ち入り禁止になる。

ゾーンに行けば願い事が叶うという噂が立ち、警備が強化される。

人々が集まって来るだけなら、放っておけば良いと思うのだが、それを国家権力によって排除しようというのが、如何にも旧ソ連的な発想だ。

まあ、最近の日本も、国家権力の統制は強まっているが。

ゾーンには、車や戦車の残骸が多数、転がっている。

ゾーンがどんな所か、文章で書くより見た方が早いが、ただの森や野原のような所である。

「部屋があるのはあそこです」とストーカーは指差す。

「何だ、手の届くところじゃないか。」

確かに、距離的にはすぐそこなのだが、ストーカーは「手を触れてはいけない。ゾーンは神聖な場所で、罰せられる。まっすぐ行くと危険だ」と言う。

何だかさっぱり分からないが、予想のつかない謎の現象で命を落とす可能性があるらしい。

だから、わざわざ遠回りをすると。

作家はストーカーが止めたが、真っすぐ行く。

だが、「止まれ、動くな!」と止められ、結局、戻って来る。

ゾーンは罠のシステムで、はまれば死ぬ。

人が来ると活動を始める。

それでも、教授と作家は「部屋」に行くことを決める。

ここまでが第1部。

この後、部屋を目指す旅(?)が続くのだが。

彼らの話している内容が観念的過ぎて、さっぱり分からない。

宗教のイメージもある。

聖書の引用も出て来る。

パステルナークの詩を暗唱したりもする。

映像はキレイだが、被写体は全然キレイじゃない。

何か、廃墟とか油とか汚水みたいな所ばかり。

こんな所で演技しなきゃいけない役者も大変だ。

撮影は大変だったと思う。

劣悪な環境だ。

よくこんな撮影場所を幾つも見付けたものだ。

で、結局、ゾーンとは何か、部屋とは何かは、さっぱり分からない。

ストーカー自身は、部屋の中に入ったことはないらしい。

それは禁忌なのだとか。

タルコフスキーには熱狂的な信者がいて、批判すると怒られそうである。

そして、信者以外の人も、タルコフスキーを批判すると、「映画が分かっていない」と言われそうなので、皆、よく分からないままに褒める。

まあ、しかし、分からんのは事実だ。

僕は完全な無神論者なので、宗教的な話しをされても、感情移入出来ない。

それに、見ていると眠くなる。

上映時間が長い(2時間40分もある)。

このストーカーは、大学教授や作家といったインテリを嫌悪している。

住んでいる部屋は貧しそうだし、労働者階級風なのだが、巨大な本棚と大量の本が最後に出て来て、驚かされる。

D

2018-07-30

『脱出』(1944)

この週末は、ブルーレイで『脱出』を見た。

(※リンクはDVD版。)

1944年のアメリカ映画。

監督は、『三つ数えろ』『赤い河』の巨匠ハワード・ホークス。

脚本は、『三つ数えろ』のウィリアム・フォークナー(あの有名な小説家のフォークナー)。

原作はアーネスト・ヘミングウェイ。

音楽は、『フランケンシュタインの花嫁』『レベッカ』『サンセット大通り』『裏窓』のフランツ・ワックスマン。

主演は、『カサブランカ』『三つ数えろ』『潜行者』『キー・ラーゴ』『麗しのサブリナ』の大スター、ハンフリー・ボガートと、『三つ数えろ』『潜行者』『キー・ラーゴ』のローレン・バコール。

共演は、『荒野の決闘』『赤い河』『西部開拓史』のウォルター・ブレナン。

余談だが、1972年にジョン・ブアマン監督で『脱出』という映画があった。

あちらも傑作だったが、本作は全くの別作品である。

ワーナー・ブラザース。

モノクロ、スタンダード・サイズ。

勇ましいテーマ曲で始まる。

1940年夏、ヴィシー政権下にあるフランス領マルティニーク島(西インド諸島の一部)のフォール・ド・フランスが舞台。

本作はまず、ナチス・ドイツフランス侵攻でフランスが敗北したという時代背景を知らないと、理解するのが難しい。

アメリカ人のハリー・モーガン船長(ハンフリー・ボガート)は港で、釣り客を乗せて一時航行する許可を得る。

酔っ払って寝ている運転手エディ(ウォルター・ブレナン)を、バケツの水をかけて起こす。

エディはアル中だが、モーガンとの付き合いは長く、信頼も厚い。

客のジョンソンを乗せて、船は出港する。

船と言っても、釣り船なので、大型のモーター・ボートだ。

ジョンソンが魚釣り用の竿を海に落としてしまったので、モーガンは代金825ドルを請求するが、ジョンソンは「現金がないので、明朝、銀行で下ろして支払う」と言う。

港に着いて、ジョンソンとモーガンが話している。

会話の中に、何気なく「ヴィシー」という単語が出て来る。

すると、二人は、白いスーツの男に「ヴィシー政権の悪口を言っている」として尾行されるハメになる。

要するに、ヴィシー政権というのはヒトラーの傀儡だから、フランス人には反発を食らっているという訳だ。

今の日本で例えれば、トランプのポチである安倍政権の悪口を言うと、警察に狙われるようなものだ。

で、モーガンはアメリカ人、つまり、この地では外国人だから、ドイツフランスの確執など知ったこっちゃない立場にいる。

モーガンがホテルに戻って酒を飲んでいると、ホテルの主人フレンチーが、反政府活動家の密航に協力して欲しいと頼んで来た。

上述のように、そんなことに関わり合いたくないモーガンは、それを拒否する。

モーガンが部屋に戻ると、隣の部屋の美人がマッチを借りに来る。

ジョンソンと共にトリニダッドから飛行機で来たアメリカ人マリー・ブロウニング(ローレン・バコール)だ。

マリーはタバコに火を点けて、マッチを床に投げ捨てる(!)。

当時19歳のバコールが映画の中でタバコをスパスパ吸って、それで大スターになるというのは、現在では考えられないだろう。

モーガンはマリーのことが気になる。

マリーは、ホテルで歌をうたっている。

モーガンはそれを見ている。

彼が部屋の前で彼女に声を掛けると、マリーはジョンソンから財布をスッたという。

モーガンが中を確認すると、現金60ドル、1400ドルの小切手、午前6時半発の飛行機のチケットが入っていた。

銀行が開くのは10時だから、ジョンソンは銀行が開く前に飛行機に乗る。

つまり、モーガンにウソを吐いていたということだ。

モーガンは、1400ドルの小切手を没収する。

そこへ、例の反政府勢力の連中が押し掛けて来る。

「何度来ても同じだ」とモーガンは断る。

モーガンとマリーは、ジョンソンに財布を返す。

モーガンはジョンソンを脅して、取り立てに成功する。

そこで、突然銃撃戦が始まる。

フレンチーはモーガンとマリーに「警察には何も話すな」と告げる。

ジョンソンは流れ弾に当たって死ぬ。

国家権力の手先・秘密警察のルナール警部(ダン・シーモア)が乗り込んで来る。

モーガンとマリーは、参考人として警察署に連行され、事情聴取を受ける。

ルナールは、マリーの頬を殴るという非道さであった。

直ちに彼女を庇うモーガン。

国家権力の横暴許すまじ!

二人は、所持品を金銭もろとも没収されてしまう。

解放された二人は、店に入るが、文無しだ。

マリーがスリを働き、酒を買って、モーガンの部屋に持って来る。

彼女は、自分の国に帰りたいと強く願っている。

彼女からモーガンにキスをする。

モーガンは、文無しになってしまったので、結局、反政府勢力の密航の仕事を引き受けることにする。

翌日、ホテルのレストランにいるマリーの基へ、モーガンがやって来る。

「君の分の切符を取って来た」とモーガンはマリーに渡す。

モーガンが港で船を出そうとしているところへ、エディがやって来る。

「今日は連れて行けない」と、モーガンはエディにカネだけ渡す。

長年の相棒を、危険な仕事に巻き込みたくなかったのだ。

しかし、エディは船に潜入していた。

さあ、これからどうなる?

前述のように、政治的背景を知らないとストーリーは理解出来ない。

だが、主役の二人は外国人なので、客観的に見ている。

政治的プロパガンダ映画ではないので、娯楽作品として楽しめるようになっている。

登場人物のキャラクターが、実に巧みに描かれている(特に、エディ)。

今見ても、十分面白い映画だろう。

D

2018-06-26

『ウエスト・サイド物語』

この週末は、以前DVDで見た『ウエスト・サイド物語』をブルーレイで再見した。

1961年のアメリカ映画。

監督は、『地球の静止する日』『サウンド・オブ・ミュージック』『アンドロメダ…』『スタートレック』のロバート・ワイズと、ジェローム・ロビンス。

音楽は、『波止場』のレナード・バーンスタイン、『サウンド・オブ・ミュージック』『チキ・チキ・バン・バン』のアーウィン・コスタル。

主演は、『幽霊と未亡人』『理由なき反抗』のナタリー・ウッド、『史上最大の作戦』のリチャード・ベイマー。

共演は、『雨に唄えば』のリタ・モレノ、『サムソンとデリラ』『西部開拓史』のラス・タンブリン。

監督のロバート・ワイズは、本作と『サウンド・オブ・ミュージック』で映画史上に残っている。

『地球の静止する日』や『スタートレック』も監督して、SFからミュージカルまで、守備範囲は広い。

が、この監督の作風は余り好きではない。

もっとも、『サウンド・オブ・ミュージック』はスゴイ映画だと思うが。

本作で助演のジョージ・チャキリスは、僕の母が好きだった。

僕が小学生位の頃、どんな流れだかは忘れたが、しきりにジョージ・チャキリスのことを話していた。

僕は彼の名を全く知らなかったが、珍しい名前なので、記憶に残った。

もう少し詳しく聞いておけば良かった。

本作は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を元にしたミュージカルである。

シェイクスピアの現代化というのが如何に難しいかを痛感させられる。

ユナイテッド・アーティスツ。

カラー、70ミリ。

序曲が流れた後、タイトル・バックは現代のニューヨークを航空撮影。

約半世紀前だが、既に摩天楼が林立している。

画質は良い。

指を鳴らす若造ども。

バスケをする。

踊る。

最初は、ミュージカルなのに、歌わない。

ポーランド系アメリカ人で構成されるジェット団という少年ギャングだ。

「見ろよ、臭う」「失せろ」という、昨今のヘイト・スピーチのような言葉を合図に、対立するグループとケンカが始まる。

対立するのは、プエルトリコ系アメリカ人のグループ・シャーク団だ。

ペンキを頭からかけたりして、大乱闘になる。

そこへ、警察が来る。

「この街はお前らチンピラの街じゃない。殺し合いならオレの管轄外でやれ!」と、シュランク警部補(サイモン・オークランド)。

彼らの対立の理由が、地元の唯一の広場である運動場の占有権を巡ってとか。

実に下らない。

中世が舞台なら、名家の対立も受け入れられるが、法治国家である現代のアメリカでは、チンピラ同士の対立に置き換えるしかない。

レオナルド・ディカプリオの『ロミオ+ジュリエット』もそうだったが、チンピラの対立なんて、一般市民には迷惑なだけだ。

到底、感情移入出来ない。

この時点で、主役の二人は名門の子供から、貧困にあえぐ下層階級になってしまう。

で、ジェット団は「シャーク団を掃除する」なんて物騒なことを言って、全員で決闘することになった。

今夜10時にダンス場で挑戦状を叩き付けると。

ジェット団リーダーのリフ(ラス・タンブリン)は、元リーダーで親友のトニー(リチャード・ベイマー)に声を掛ける。

トニーはこの1ヶ月、コカ・コーラの瓶を運ぶ仕事をしている。

一方、シャーク団リーダーのベルナルド(ジョージ・チャキリス)の妹マリア(ナタリー・ウッド)は、ダンス・パーティーに着て行く洋服を選んでいる。

彼女はシャーク団のチノ(ホセ・デ・ヴェガ)という男に言い寄られていたが、彼には何も感じないという。

「白いドレスなんて私だけよ(本当は赤色に染めたい)」と言いながらも、「今夜は私のアメリカ娘としての第一歩よ」と、ダンス・パーティーへ出掛ける。

案の定、ジェット団とシャーク団の対立が起こる。

まあ、それはともかくとして、ダンスは、山手線のように内回りと外回りで回転しながら、止まった相手とペアになって楽しく踊ることになっていた。

お約束どおり、トニーとマリアは出会い、一緒に踊り、早くも惹かれ合って、キスをする。

ベルナルドは激怒して、「手を出すな!」と、トニーとマリアを引き離す。

で、ベルナルドはリフから決闘を申し込まれる。

詳細はドク(ネッド・グラス)の店で決めることになった。

もう足を洗ったから争い事なんて巻き込まれたくないトニーは、今夜出会ったマリアの名前を唱えながら帰る。

ベルナルドは「今夜でカタを付ける!」と息巻く。

ベルナルドの嫁のアニタ(リタ・モレノ)は「アメリカがいい」と。

移民の人達は色々と大変だろう。

昨今のアメリカでは、ロクでもない大統領が移民を排斥しようとしているが。

新天地を夢見てアメリカにやって来た人達にとって、ここは天国のように映るのだろう。

トニーはマリアのアパートの下へ。

二人は愛をささやき合う。

邸宅のバルコニーが、貧民アパートの階段だよ。

ロミオとジュリエット』は、アメリカの高校では全員が読まされるらしい。

だから、誰もがストーリーを知っているという前提で、この物語が作られているようだ。

話しの運びが大雑把なのは、ミュージカルだからだろうか。

マリアはトニーに「明日午後6時に、ルシアの婚礼衣装店(彼女が働く店)にいるわ」と言う。

夜、ジェット団が集会をしている。

そこへ、警察がやって来る。

「すぐに散れ!」「今度は捕まえるぞ!」

容赦ない国家権力。

ドクの店にジェット団がいる。

そこへ、ベルナルドらがやって来る。

「女は出て行け。」

そして、ドクも出て行く。

リフとベルナルドは、決闘の詳細について話し合う。

決闘は全員で行うことに。

「国へ帰れ!」なんていう、ヘイト・スピーチまがいの言葉が飛び交っているが。

場所は高架の下。

そこへトニーがやって来る。

彼は「素手でケンカをしてみろ」と提案する。

そこへ、警部補が来る。

連中は、サッと打ち合わせを止める。

「オレにはバッジがある。分かったら失せろ! プエルトリコ人め!」

何と人種差別的な!

プエルトリコ系のシャーク団は帰る。

残ったジェット団の連中から、警部補はケンカが行われる場所を聞き出そうとする。

しかし、連中は誰も口を割らずに出て行く。

トニーは最後まで残っていたが、やがて、店主と一緒に店を去る。

ここで「Intermission」。

ここまでで約1時間20分である。

展開が非常に遅い。

それから、当たり前だが、原作を端折っている所も多い。

辻褄を合わせるために、改変されている所もある。

例えば、「仮死状態になる薬」なんて、現代にはそんな物はないから、出て来ない。

結末も違っている。

そんなことはさておき、やはりシェイクスピアの現代化は無理があると思う。

ディカプリオの『ロミオ+ジュリエット』なんて、セリフまで原作のままだし。

まあ、セリフを変えてしまっては、シェイクスピアと言えるかどうかは微妙だが。

『蜘蛛巣城』や『乱』のように、舞台を日本の戦国時代に置き換えるというのなら、やりようもあろうが。

本作を、映画史上の傑作だと言う人は多いし、ミュージカルの傑作だと言う人も、同様に多い。

でも、僕は、そうは思わない。

ミュージカルでも、本作よりもっと面白い(明るいとか、笑えるという意味ではなくて)作品はたくさんある。

アカデミー賞作品賞、監督賞、助演男優賞(ジョージ・チャキリス)、助演女優賞(リタ・モレノ)、脚色賞、撮影賞、編集賞、美術賞、衣装デザイン賞、録音賞受賞。

1961年洋画興行収入2位(1位は『荒野の七人』。邦画の1位は『椿三十郎』)。

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