Hatena::ブログ(Diary)

英文学をゼロから学ぶ

2018-12-09

『ウンベルト・D』

この週末は、ブルーレイで『ウンベルト・D』を見た。

1952年のイタリア映画。

監督は、ネオレアリズモの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ

脚本は、デ・シーカと多くの作品で組んだチェーザレ・ザヴァッティーニ

音楽は、イタリアの巨匠アレッサンドロ・チコニーニ

主演は、カルロ・バティスティ。

共演は、マリア・ピア・カジリオ、リーナ・ジェンナーリ。

ヴィットリオ・デ・シーカと言えば、『靴みがき』『自転車泥棒』だ。

靴みがき』は、大昔に見たので、残念ながら記憶が曖昧だが、『自転車泥棒』は、これまでに3回見て、3回とも号泣した。

僕の人生で、こんなに泣いた映画は他にない。

敗戦後のイタリアの過酷な生活の状況が、もう気の毒で気の毒で。

ハリウッドを風刺した、ロバート・アルトマン監督の傑作『ザ・プレイヤー』の中でも、ティム・ロビンス演じるヤリ手映画プロデューサー名画座に『自転車泥棒』を観に行くシーンがある。

彼は「いい映画だけどね」と言う。

ザ・プレイヤー』が製作された90年代前半のハリウッドは、既に続編とリメイクの嵐で、スター俳優の組み合わせを変えて、似たような企画に押し込んでいるような状況で、『自転車泥棒』のような正統派の映画に客が入る余地はなかった。

ザ・プレイヤー』はそんな有り様を痛烈に皮肉っていたが、今のハリウッドは、当時よりも遥かにヒドイ事態に陥っていて最早、収拾不能だ。

それはさておき、マルチェロ・マストロヤンニソフィア・ローレン主演の『ひまわり』も名作であった。

戦争で引き裂かれた男女の運命は、本当に身につまされる。

ニーノ・ロータテーマ曲も涙を誘う。

ウンベルト・D』は、ヴィットリオ・デ・シーカの作品の中で現在、唯一廉価版のblu-rayで入手可能である。

余談だが、このblu-rayを出しているIVCのラインナップには、他にも素晴らしい作品が並んでいる。

脚本、音楽は『自転車泥棒』と同じ。

役者も、『自転車泥棒』と同様、演技経験のない素人を起用している。

そのことが作品に独特のリアリティを与えている。

実は、恥ずかしながら、僕は『ウンベルト・D』のタイトルは知っていたが、内容はよく知らなかった。

しかし、素晴らしい映画であった。

モノクロ、スタンダード・サイズ。

画質は良い(音は良くない)。

鐘の音。

悲愴なテーマ曲から始まる。

「この作品を父にささげる ヴィットリオ・デ・シーカ」という字幕。

「年金額を上げろ」とデモ行進をしている老人達。

これは、少子高齢化の日本の、近い将来の姿でもある。

どこかの宗教政党の大臣が「100年安心だ」などと言っていたが。

現在の日本の年金制度は、100年不安だ。

僕は団塊ジュニア世代だが、我々の時代には、絶対に年金制度は破綻している。

いや、そんな先まで到底持たないだろう。

ふざけるな。

で、デモ隊は警察ともみ合いになる。

「許可のない集会は認められん」と、警察のジープが来て散り散りになる。

しかし、デモの許可なんて、そもそも下りない。

安保闘争もそうだが、国家権力は常に民衆を弾圧する。

絶対に許せない。

愛犬フライクを連れた老人ウンベルト(マリア・ピア・カジリオ)は元公務員で、年金が少なくて家賃も払えない。

年金1万8000リラに対して、家賃が1万リラである。

しかし、デモに参加した老人の内部にも格差があるようで、ウンベルトほど困窮している者はなかなかいない。

デモに対しても、温度差がある。

切実でない者は、ただ誘われたからデモに参加しただけだ。

それにしても、現在の日本では、安倍政権の横暴に対して、どうして暴動の一つも起きないのだろう。

集まるのは、せいぜいハロウィンで仮装した若者(=バカ者)くらいだ。

日本人は、何と従順なのか。

パリの民衆も立ち上がったというのに。

で、身寄りのないウンベルトは、フライクを大変可愛がっている。

孤独な老人というのも、日本の将来(いや、現在でも)の姿だ。

これだけ生涯未婚率が上がっていたらなあ。

まあ、我が家も子供がいないので、僕か細君のどちらかが死んだら、同じことになるが。

で、ウンベルトは、施設に行って、食事をするが、こっそりとフライクを連れて入り、自分の分を分けてやる。

いや、ほとんど自分の分は食べていないと言ってもいい。

バレたら追い出されるのだが。

このワンコが実によく言うことを聞いて、可愛い。

と言うより、大変な演技派だ。

ワンコにここまで演技をさせるのは大変だっただろうが。

本作は、犬好きにはたまらんだろう。

動物と子供が出て来る映画にハズレはないと言うが。

自転車泥棒』の子供が、本作ではワンコに当たるだろう。

と言っても、そんなあざとい映画ではない。

魂に訴えかける。

ウンベルトは、身に着けている懐中時計を売ろうとするが、売れない。

本当は4000リラで売りたいのだが、何とか3000リラで買い手が付いた。

しかし、売った相手は、道行く人々に「お恵みを」と言っている。

今の日本では、さすがにこんな光景はあまり見掛けない。

3000リラというのは、現在の日本では幾ら位なのだろうか?

随分とたくさんのしわだらけの札だったが。

インフレなのだろう。

年金が1万8000に家賃が1万というから、今の日本円だと、年金が9万円に家賃が5万円位か。

ということは、3000リラの時計は、1万5000円位か。

まあ、今や皆、携帯を時計代わりにしているから、時計を持つ人も少数派だろうが。

で、ウンベルトがアパートの部屋に帰ると、何故か若いカップルがイチャついている。

女主人(リーナ・ジェンナーリ)が、1時間1000リラでラブホテル代わりに貸しているのであった。

ここに20年も住んだウンベルトは、家賃滞納を理由に、アパートを追い出されようとしていた。

ウンベルトには熱があった。

お手伝いのマリア(マリア・ピア・カジリオ)はウンベルトを気遣ってくれるが、彼女は「妊娠した」と言う。

女主人には言えない。

言うと追い出されるから。

恋人が二人いて、どちらの子なのか分からない。

これも、典型的な貧困の構図だ。

僕の知り合いのライターが、貧困のため性風俗で働く女性のドキュメントを書いているが、彼の本にもこんな話しばかり出て来る。

で、女主人はウンベルトに対し、「月末には荷物を放り出すよ」と告げる。

このアパートは、古くてボロくて、アリがいっぱいいる。

ウンベルトは、体調が悪くて、ノドの奥に白いブツブツがある。

彼は、マリアに家賃として3000ドルを託す。

「領収書をもらってくれ」と頼んだが、女主人には「1万5000リラ全額払え」と断られる。

ウンベルトはフライクを連れて散歩に出掛け、古本屋に想い出の本を売って、2000リラ作る。

マリアに5000リラを渡し、「残りは年金が出たら払う」と。

無学なマリアは、勉強する時間もない。

集団就職の少年が定時制に通うが、挫折するのを思い出した。

まあ、働いていたら、なかなか疲れて勉強なんて出来ない。

僕も夜学だったから、痛いほど分かる。

ウンベルトは公務員だったから、そこそこの学はあるのだろう。

マリアのことを気遣ってこう言う。

「不幸は無知に付け込む。文法を学んでおけ。」

正に、現在の日本でも、低学歴は貧困を生んでいる。

社会に出る前に、対処法を見に付けていないと、貧困から抜け出せない。

もっとも、現在の日本では、高学歴だからと言って高収入だとは、最早言えなくなっているが。

ウンベルトは、年金から家賃を払うと、食費も残らない。

しかし、意地の悪い女主人は、「耳を揃えて払わなければ立ち退いてもらう」としか言わない。

青木雄二の『ナニワ金融道』にもこんな話しがあったな。

青木雄二はマルクス主義者だったが。

しかしながら、こういうどうにもならない貧困に対して、保守政権は何をしてくれるというのか。

僕は共産主義者ではないが、弱者に冷たい現在の保守政権は到底支持出来ない。

と言うより、ニートフリーターが多数派の若者は、どうして軒並み自民党支持なのか。

連中は原発やらオリンピックやら万博やらの利権で儲けることしか考えていないぞ。

何万人もの労働者のクビを斬った経営者が、何十億もの報酬を受け取るなんて、どう考えても狂っている(逮捕が妥当かどうかは、また別問題だが)。

いかん、映画の話しなのに、今日はどんどん話しが逸れる。

それだけ本作のテーマが現実に寄り添っているということなのだが。

で、ウンベルトには38度以上も熱がある。

しかし、有閑マダムが仲間を呼んで、オペラか何かの練習をしているから、うるさくて眠れやしない。

おまけに、目覚まし時計が壊れて音が止まらない。

ウンベルトはとうとう、教会が運営する病院に電話をした。

救急隊がやって来たが、フライクは一緒に連れて行けない。

救急隊員に「フライクと遊んでやってくれ。遊んでいるスキに出て行く」と頼む。

このフライクは、実によくウンベルトになついているんだな。

そして、マリアにフライクのことを託す。

「すぐ戻るので」と言いながら、ウンベルトはタンカで運ばれて行く。

貧乏人は皆、病院に入院していた。

医者はウンベルトに対して、「明日には帰っても良い。若ければ扁桃腺を切るが、その歳で手術してもな」と告げる。

しかし、病院にいると食費が浮くのだ。

年金が出る月末までの1週間、ここに居れば助かるのだ。

ここには、そんな考えの貧乏人の常習者が仮病を使って大量に入院していた。

これも、近い将来の日本の姿ではないか。

マリアがバナナ1本をお見舞いに持って、病院にやって来る。

フライクは病棟には入れられないから、中庭に待っているという。

ウンベルトは、フライクのことが気になって仕方がない。

窓を開けてフライクを大声で呼んでみるが、気付かない。

マリアの話しによると、女主人は近々、恋人である映画館の支配人と結婚するから、ウンベルトのことを追い出したいのだという。

このまま行くと、ウンベルトは救貧施設に入るしかない。

だが、彼は「救貧施設にだけは入りたくない」と言う。

僕の実家も貧乏だったが、母は口癖のように「生活保護だけは受けたくない」と言っていた。

もちろん、自力で育ててくれた両親には感謝しているが。

生活保護は重要な命綱だろう。

昨今の日本では、ネトウヨを中心に、生活保護受給者を貶めるような連中がいるのがガマンならない。

で、ようやくウンベルトは退院した。

アパートに戻ると、ウンベルトの部屋は工事中であった。

おまけに、マリアもいないし、フライクもいない。

探しに行くと、マリアはいた。

フライクのことを尋ねると、「奥さんがドアを開けて、飛び出した」と言う。

ウンベルトは急いで保健所へ向かう。

保健所には、犬の引き取り手が多数来ていたが、450リラ払えないと、処分されるという。

それを払えないがために、愛犬を泣く泣く処分されてしまう人も。

ウンベルトは必死で保護された犬の中にフライトを探すが、見付からない。

さあ、これからどうする?

もうね、余りにもどうにもならない話しだから、涙ナシには見られません。

こういう魂を震わせるような名作が、昨今は余り省みられないのは残念だ。

老人と動物という点では、『ハリーとトント』(あちらはネコが登場)を思い出すが、こちらの方が悲愴だ(もちろん、『ハリーとトント』も名作だが)。

僕は、実家でニャンコを飼っていたので、どちらかと言うと猫派だが、そんなことは関係ない。

後半、フライクに帽子をくわえさせて物乞いをさせるシーンは、痛ましくて痛ましくて…。

D

2018-12-02

『さらばバルデス』

この週末は、ブルーレイで『さらばバルデス』を見た。

1973年のイタリア映画。

監督は、『荒野の七人』『大脱走』『シノーラ』『マックQ』の巨匠ジョン・スタージェス

製作は、『天地創造』『バーバレラ』『バラキ』『キングコング(1976)』の大プロデューサーディノ・デ・ラウレンティス

主演は、『荒野の七人』『大脱走』『ウエスタン』『バラキ』の大スター、チャールズ・ブロンソン

共演は、『バラキ』のジル・アイアランド。

巨匠と大スターがタッグを組んだ作品だが、僕は恥ずかしながら知らなかった。

まあ、ジョン・スタージェスと言えば、『荒野の七人』と『大脱走』かな(『OK牧場の決斗』も、恥ずかしながら未見)。

カラー、スタンダード。

画質は、最近のブルーレイにしてはやや粗い。

牧歌的なテーマ曲

荒れ地を馬に乗って進む少年ジェイミー(ヴィンセント・ヴァン・パタン)。

ふもとに一軒家を発見する。

訪ねると、中からインディアンと白人のハーフであるチノ・バルデス(チャールズ・ブロンソン)が出て来る。

「入れ。飯を食わせてやる」とチノ

怖い人ではなさそうと、ジェイミーは中へ。

チノは焼いた牛肉を食わせてくれた。

彼は野生馬を捕まえて飼い馴らす仕事をしていた。

ジェイミーは仕事を探している。

翌朝、チノは馬を慣らしている。

ジェイミーは目覚めて、自ら部屋の掃除などを始める。

それを見たチノは、「お前の馬は休ませてやれ。別の馬を貸してやる」と。

バックという名の荒馬は、ジェイミーとは相性が良かった。

ものすごいスピードで駆けるバック。

今日は、町へ馬を売りに行く日であった。

ジェイミーも着いて行く。

馬が10頭くらい、町の方へ向かって走って行く。

これは壮観な光景だが、撮影は大変だっただろう。

馬は200ドルで売れた。

しかし、カウボーイ野郎に「汚らしいインディアンめ!」と罵られたチノは、そいつを殴る。

そいつは銃を構えたが、駅馬車から降り立った男が止めに入る。

チノは、今日は町に泊まることにし、ジェイミーに小遣いを渡す。

しかし、保安官はジェイミーに「チノと一緒にいろ。面倒は掛けるな」と告げる。

チノバーへ行くと、店主は「改装したばかりだから、よそへ行ってくれ」と言う。

チノは厄介者扱いだった。

いきなり他の男達が入って来て、ケンカになる。

その場へ駆け付けた保安官は、「すぐに町を出ろ!」と命じる。

チノとジェイミーは牧場へ帰った。

ジェイミーはチノに認められ、彼の手伝いをすることになった。

とにかく、野生の馬がいっぱいいる。

これを放牧しているのだ。

母馬が出産し、子馬は無事だったが、母馬はヒドイ怪我をしている。

可哀想だが、チノは母馬を銃殺した。

競馬で脚を折った馬みたいなもんだな。

子馬を家へ連れて帰り、ミルクを飲ませる。

地主のマラルが設置した鉄条網に、馬の肉と毛が付着しているのをチノが発見する。

先の母馬は、これで怪我をしたのだろう。

チノはマラルの家に乗り込む。

応対したのは妹のキャサリン(ジル・アイアランド)。

チノはマラルに抗議するが、「俺の土地だ。文句を言うな」と言われてしまう。

キャサリンチノに興味を持ったようで、「あなたの馬を見せて」と頼む。

チノは「見に来ればいい」と。

しかし、チノは「俺の馬に婦人用の鞍は着けさせん」と言う。

要するに、女性はスカートをはいているから、横向きに座る鞍を着けるんだな。

チノは「服は自分で何とかしろ」と告げる。

ジェイミーはキャサリンのことを「気取った女だ」と言うが、チノは「女のことも知らんクセに」。

荒れる馬を手なずけていると、チノは肩をやられた。

心配するジェイミーに、チノは「昔、インディアンに馬を襲われ、取り戻しに行ったら馬に踏まれた」と、背中に傷跡を見せる。

キャサリンが馬を引き取りに来た。

彼女は何と、ズボンをはいて来たのであった。

しかし、チノは「その乗り方は女じゃ無理だ」と言い放つ。

キャサリンは、「バルデスさん、失礼な人ね!」と怒って去る。

チノはジェイミーに「ここにいろよ」と告げる。

喜ぶジェイミー。

ある日、チノの入浴中に訪ねて来るキャサリン

慌てるチノに、「あなたは馬よ!」

気の強い女だ。

キャサリンは、「コーヒーくらい飲ませて」と言う。

チノは、彼女のことを「馬乗りが上達する見込みがある」と言う。

それを聞いたキャサリンは喜ぶ。

自分の思いを素直に言葉に出来ない無骨なチノの性格が、非常によく描かれている。

チノキャサリンは、二人で馬に乗って散歩する。

余談だが、この二人(チャールズ・ブロンソンとジル・アイアランド)は、実生活でも夫婦だったらしい。

野生馬の大群を誇らしげにキャサリンに見せるチノ

今なら、全部CGだろう。

もう、こういう映画は撮れない。

本作は、馬の演技も素晴らしい。

人間と違うから、これだけたくさんの馬に言うことを聞かせるには、相当な準備期間と訓練が必要だったはずだ。

昔の映画というのは、それだけの手間をフィルムに記録したところに価値があったと思う。

今の映画は、デジタル技術だからな。

全く別物だ。

で、馬が交尾をしているその前で、キスをするチノキャサリン

ところが、二人が魅かれ合っているのを知ったマラルはチノの家にやって来て、「妹に手を出したら殺す!」と告げる。

さあ、これからどうなる?

後半には、インディアンの暮らしも出て来る。

こういうのも、今では撮れないんじゃないか。

そして、結末は、まあタイトル通りなんだが。

ジェイミーの目線から見れば、少年の成長を描いた映画とも言える。

D

2018-11-25

『いとこ同志』

この週末は、ブルーレイで『いとこ同志』を見た。

1959年のフランス映画。

製作・監督・脚本は、『美しきセルジュ』の巨匠クロード・シャブロル。

撮影は、『美しきセルジュ』のアンリ・ドカエ。

主演は、『美しきセルジュ』のジェラール・ブランとジャン・クロード・ブリアリ。

ヌーヴェルヴァーグを代表する作品と言えば、ゴダールの『勝手にしやがれ』、トリュフォーの『大人は判ってくれない』、そして、この『いとこ同志』である。

怪獣で例えれば(普通は例えないが)、ゴジラ、モスラ、ラドンに当たるだろう。

僕は、本作を10年位前に一度、DVDで見たのだが、その時はワインを飲みながらだったので、途中で寝てしまった。

終わってから、細君が「スゴイ話しだったよ」と言ったのだが、レンタルだったので、そのまま返してしまったのだ。

残念なことをした。

という訳で、今回はシラフで見た。

本作では、主演のジェラール・ブランとジャン・クロード・ブリアリの演じる役柄が、『美しきセルジュ』とは全く逆になっている。

しかも、全く違和感がなく、見事にその役になり切っている。

これを見ると、本当に「役者やのう」と思う。

モノクロ、スタンダード。

画質は良い。

ヌーヴェルヴァーグの代表作が、こんな高画質で見られるとは、いい時代になったものだ。

駅を降り立つ青年シャルル(ジェラール・ブラン)。

田舎からパリへ上京して来たのだ。

タクシーに乗る。

穏やかなテーマ曲

タクシー到着。

いとこのポール(ジャン・クロード・ブリアリ)の部屋へ。

ポールは怪しい口ひげを残して、如何にも遊び人風である。

純朴そうなシャルルとは対照的(これが本作の基軸なのだが)。

部屋にはポールの仲間のクロヴィス(こいつがまた、とんだ一杯食わせ物)がいる。

彼は無職だが、どうやって食っているかは「今に分かる」という。

クロヴィスが格好を付けて英語を話したりすると、ポールは「外国語ならドイツ語を使え!」と叫ぶ。

ポールの伯父は愛人とニューヨーク〜マイアミ間を飛行中。

ポールの上京の目的は大学入学。

大学の手続きは済ませた。

ポールにジュヌヴィエーヴから電話が来る。

ポールがもう捨てた女だ。

何故か分からないが、クロヴィスが荒れている。

ポールはドイツかぶれらしく、何かにつけてドイツ語(の詩か何か)を唱えている。

ややマザコンの気があるシャルルは、部屋で母親に近況報告の手紙を書く。

まあ、僕が上京したばかりの時も、さびしくて、よく実家に電話をしたりしていたから、この気持ちは分かる。

この時代のフランス映画は、登場人物全員がタバコをスパスパ吸っている。

今の日本では考えられない光景だ。

ジュヌヴィエーヴがポールを尋ねて来る。

どうやら彼女は妊娠しているらしい。

ポールはクロヴィスに堕胎費用を渡す。

もう、このただれた雰囲気が、根岸吉太郎監督の映画『狂った果実』(1981年)みたいだ。

僕は、この映画が大好きなのだが。

なお、中平康監督の『狂った果実』(1956年)は、実際にヌーヴェルヴァーグに影響を与えたらしい(ウィキペディアにも書いてある)。

確かに、遊び人の兄(石原裕次郎)と純真な弟(津川雅彦)というのが、本作の設定と似ている。

まあ、どちらも映画史上の重要な作品だが。

で、翌朝、ベッドで寝ていたシャルルは、ポールに起こされ、車でぱり見物に出掛ける。

凱旋門なんかの辺りをドライヴする二人。

二人はカルチェ・ラタンのクラブへ。

チャラ男のポールは、道行く女の子にも片っ端から声を掛ける。

クロヴィスはポールに「女の件は片付けた」と耳打ち。

反吐が出るね。

このクラブの地下を、ポールは「売春窟」と呼んでいた。

人前でイチャついている男女が何組も。

連中の中に、不器用なフィリップがいる。

ポールはマルティーヌに声を掛ける。

マルティーヌはこれから、「講義に出る」という。

シャルルはブリッジ(カード)に誘われる。

連中から「ポールと従兄弟なのに似ていない」と言われる。

シャルルはフローランスという娘が気になり、ポールに紹介してもらう。

シャルルは、出て行った彼女を追って、カード・ゲームはそっちのけで外へ。

しかし、見失う。

傍にあった古本屋へ入るシャルル。

バルザックを探し、『ゴリオ爺さん』を見付ける。

店主との会話で、「僕は読書ばかりだ」と打ち明けるシャルル。

シャルルを気に入った店主は、彼にタダでバルザックを与える。

この店主が、『大人は判ってくれない』の担任の教師ではないかと思うのだが。

で、シャルルが店を出るとポールがいて、「カードを抜け出したので、連中が怒っている」と告げる。

シャルルが母親に手紙。

「驚いたことに、大学では皆、ノートを取らずに、講義録をコピーしています」と。

日本の大学生は勉強しないなどとよく言われるが、大学生が勉強しないのは古今東西共通ということだろう。

ポールが自宅で友人とパーティーを開く。

フィリップはシャルルに、「僕はみんなに嫌われている。君もそうなる」と告げる。

モーツァルトのレコードを掛けるポール。

遊び人だが、金持ちのボンなので、ドイツ語を話したり、クラシックを好んだりするのだろう。

フィリップの元恋人フランソワーズ(ステファーヌ・オードラン)は別の男とやって来る。

シャルルは田舎者なので、明らかに場の雰囲気に馴染めない。

そこへフローランスがやって来る。

緊張するシャルル。

彼女に声を掛け、「本気なんだ」と告げる。

フィレンツェからやって来たアルカンジェロ伯爵が、黒人の青年を追い出す。

貴族だか何だか知らないが、人種差別はイカンよ。

そこへ、ジュヌヴィエーヴもやって来る。

モーツァルトを止めて、今度はワーグナーを掛けるポール。

『地獄の黙示録』かと思った。

電気を消して、ロウソクを持ち、ドイツ語の詩を暗唱するポール。

シャルルはフローランスにキスをする。

電気が点くと、フィリップが女性を巡ってケンカを始める。

飛び出すフィリップ。

シャルルとフローランスも外へ。

キスをする二人。

彼女は「あなたが世界一好きよ」と言うが、純情なシャルルは「好きだ」と口に出して言えない。

ウジウジと心情を吐露する。

おまけにマザコン。

どう見ても、恋愛にはマイナス。

彼女は詰まらなそう。

「ドライヴしよう」とシャルル。

彼が車のカギを取りに部屋へ戻ると、乱痴気騒ぎが繰り広げられている。

伯爵が酔っ払って、「女を寄越せ」などと悪態を吐いている。

おまけに、空のピストルを振り回している(これが、ラストへの重要な伏線)。

クロヴィスは瓶を割りまくる。

シャルルが「カギを貸してくれ」と言うと、ポールは「みんなでドライヴへ行こう!」と。

全員ヘベレケである。

皆で外へ。

フローランスは一人、待ちぼうけ。

彼女は、ポールの車に乗せられる。

ポールは「180キロ出すぞ!」と叫ぶ。

究極の飲酒運転である。

当時は、車の量が少なかったから、大丈夫だったのか。

フローランスは怒った表情。

車はどんどん出発する。

朝、シャルルとポールは車で帰宅。

部屋に戻ると、兵どもが夢の跡。

眠っているユダヤ人の青年を、「ゲシュタポだ!」とドイツ語で脅すポール。

飛び起きる青年。

何て悪趣味なんだろう。

まだ戦後十数年しか経っていないから、当時の記憶も生々しいだろうに。

恋愛慣れしていないシャルルは、フローランスの電話番号を聞き忘れた。

しかし、彼女から電話が掛かって来る。

「一緒に授業に行こう」と約束する。

しかし、何故か彼女は時間を間違える。

ポールの部屋に来たフローランス。

シャルルはいない。

ポールは彼女に色々と吹き込む。

クロヴィスも参戦。

要するに、彼女は、実はこれまでも男関係が色々あり、純情なシャルルとは絶対にうまく行かないと。

で、あろうことか、とうとうポールとキスしてしまう。

もう、この後は悲劇でしかないのだが。

僕もシャルルみたいに不器用だったから、彼には感情移入してしまう。

まあ、もう少し大人になれば、必ずしも遊び人が成功する訳ではないと分かるのだが。

もう、スゴイ力でグイグイと最後まで見せる。

ロシアン・ルーレットを最初に効果的に使った映画は『ディア・ハンター』だと思っていたが、本作だね。

ラストは、絶望的に救いがない。

ベルリン国際映画祭金熊賞受賞。

D

2018-11-18

『美しきセルジュ』

この週末は、ブルーレイで『美しきセルジュ』を見た。

1958年のフランス映画。

製作・監督・脚本は、ヌーヴェルヴァーグの旗手クロード・シャブロル。

撮影は、『恋人たち』『シシリアン』『チェイサー』のアンリ・ドカエ。

主演は、ジェラール・ブラン、ジャン・クロード・ブリアリ。

『いとこ同志』で名高いクロード・シャブロルのデビュー作。

僕が本作を知ったのは、大学1年の時。

僕の在籍していた学部には、1年次の教養演習で「ヌーヴェルヴァーグ研究」という授業があった。

人気の授業で、抽選だったが、僕は当選して、登録することが出来た。

ヌーヴェルヴァーグの主要作品十数本を鑑賞して、学生が討論し、先生が批評するという内容だった。

最初のガイダンスで、先生が「クロード・シャブロルと言えば、『いとこ同志』が有名ですが、この授業では、『美しきセルジュ』を取り上げたいと思います」と言った。

僕が『美しきセルジュ』という映画を知ったのは、この時が初めてで、その後も、人の口から、このタイトルを聞いたことがない。

僕は当時、極めて怠惰な学生で、この授業にも、最初の1回しか出席しなかった。

だから、『美しきセルジュ』も見なかった。

本作の日本初公開は1999年らしいから、当時はビデオでしか出ていなかったのだろう。

今にして思えば、ヌーヴェルヴァーグの代表作を何本もタダで見て、先生の解説まで聴けるのだから、この授業に出なかったことを本当に後悔している。

しかし、こんな作品が、今ではブルーレイで見られるのだから、いい時代になったものだ。

アイ・ヴィ・シーというメーカーは、ヨーロッパ映画の名作を廉価で提供してくれて、素晴らしい。

モノクロ、スタンダード。

画質は良い。

最初に、字幕で「この作品はクルーズ県サンダンで撮影された」と出る。

フランスの地理は全く分からないが、シャブロルの故郷らしい。

野道を走るマイクロ・バス。

牧歌的なテーマ曲

若い男フランソワ(ジャン・クロード・ブリアリ)がバスから降りる。

里帰りだ。

旧友ミッシェルが迎えに来ている。

遠巻きに見掛けた、かつての親友セルジュ(ジェラール・ブラン)に声を掛けるフランソワ。

ミッシェルによると、このところ、セルジュはアル中でへべれけらしい。

余談だが、セルジュの革ジャンの着こなしは、先日、新宿区長選挙の時に神楽坂の駅前で見掛けた(そして、記念写真を撮って頂いた)自由党の山本太郎共同代表とソックリだ。

山本太郎さんは、政治家としても尊敬しているが、役者としても素晴らしかった。

『光の雨』の熱演は、今でも脳裏に焼き付いている。

さて、フランソワが故郷に戻って来たのは12年ぶりだ。

セルジュはイヴォンヌ(ミシェル・メリッツ)と結婚したという。

フランソワとミシェルはカフェへ。

その上がフランソワの下宿だ。

フランソワは、結核の療養のために故郷へ戻った。

しかし、タバコは吸う。

さすがフランスである。

ミシェルがフランソワにセルジュのことを語る。

セルジュは大学にも受かっていたが、イヴォンヌが妊娠したので結婚し、今はトラックの運転手だ。

当のセルジュは、義父グロモーと朝から飲んだくれている。

カジュアルなガラスのコップになみなみとワインを注ぐ。

そこへフランソワがやって来る。

旧友との再会に男泣きするセルジュ。

グロモーは、次女のマリー(ベルナデット・ラフォン)と二人暮らし。

この町は、吉幾三もビックリの、牛が道を歩いているようなのどかな所だ。

翌朝、フランソワはミシェルに尋ねて、セルジュの家を訪ねる。

セルジュは未だ寝ている。

妻のイヴォンヌは、彼に水をかけて起こす。

家にはマリーもいる。

セルジュは、昨日のことを覚えていない。

典型的なアル中だな。

マリーはフランソワに色目をつかっている。

セルジュは朝から酒を飲む。

セルジュ、フランソワ、マリーが出掛ける。

セルジュは、トラックを無茶苦茶に運転する。

今なら、飲酒運転で即刻逮捕だな。

セルジュは、ガソリンスタンドでワインを仕入れ(何でそんなものを売っているんだ?)、ラッパ飲みしながら運転する。

まあ、セルジュの荒れっぷりはよく出ているが。

マリーはフランソワに「送って」と言う。

二人は一緒に歩く。

マリーは17歳だという。

実年齢は分からんが、17歳とは到底思えない色気がある。

フランソワはたまらず、彼女にキスをする。

今なら、淫行条例違反で即刻逮捕だな。

マリーの家へ行くと、父親はいない。

マリーの初めての相手はセルジュだったらしい。

田舎の人間関係は狭いな。

と言うより、マリーがメチャクチャなのだが。

マリーは、グロモーは実の父親じゃないが、グロモーはそのことを知らないと告白する。

一方、セルジュは仕事を終えて、トラックから降りる。

ワインが1本、空いている。

ロンドンで逮捕された日航の副操縦士も真っ青だ。

余談だが、例の副操縦士は、ワイン1.5リットルとビール1.8リットルを飲んだらしい。

スゴイ量だ。

僕も試してみたのだが、ワイン1.1リットルとビール1リットルを飲むと、次の日は一日中、胃がムカムカして大変だった。

ワインは、飲んでいる時は気持ちいいのだが、残るんだな。

だから、セルジュの飲み方は、異常としか思えない。

まあ、フランス人は、ワインをジュースのように飲むらしいが。

それにしてもヒドイということを、本作は描いている。

で、セルジュは自宅へ。

妻に悪態を吐く。

「フランソワが戻った。オレはヤツに何を自慢出来る?」と。

セルジュは家を飛び出す。

そして、フランソワを見掛ける。

フランソワは教会へ。

神父に挨拶する。

フランソワは、教員資格試験をフイにしたという。

本作の登場人物は皆、何らかの形で挫折している。

神父曰く、「村人は昔と変わった。全てに無気力だ。若いミシェルもセルジュも、最早神を信じない。万聖節なのに、教会には6人しか来ない」と。

僕は京都の郊外の出身だが、高校卒業後、小学校(地元の公立)の同窓会で旧友達と再会して、文化の違いに驚いた記憶がある。

何というか、皆荒れているのだ。

本作の登場人物と重なるというか。

ハロウィンで渋谷に集まる若者達も、こんな感じなんだろう。

若者が集まるのなら、革命を起こさなければ意味はない。

コスプレなんかしてどうする?

立ち上がれ!

話しが逸れた。

セルジュは、教会の前で神父と対立する。

フランソワはセルジュの家へ。

だが、セルジュはいない。

イヴォンヌはフランソワに「私達のことは放って置いて!」と訴える。

セルジュは、カフェでワインを飲んでいる。

彼は、子供達にもバカにされている。

フランソワの下宿へ行く。

「フランソワに会いたい」と、彼を探してさまようセルジュ。

彼は墓地を通る。

ここが近道なのだ。

セルジュは、死産した最初の子を恨んでいる。

一方、フランソワはマリーとデートだ。

セルジュは、酔っ払って倒れるように眠る。

朝、大家さんがフランソワに「あの娘はやめなさい」と、カフェオレを注ぎながら告げる。

本場のカフェオレは、鍋でコーヒーとミルクを温めて、同時にカップに注ぐんだな。

フランソワはセルジュと会い、「奥さんと別れるべきだ」と言う。

セルジュは、マリーのことを「あばずれだ」と。

で、この後、フランソワは酔っ払ったグロモーに「娘に近付くな」と絡まれ、売り言葉買い言葉で、マリーは本当の娘じゃないと口走ってしまう。

そうしたら、グロモーはマリーを強姦するのだ。

もう、ヒドイね。

さあ、これからどうなる?

本作の人間関係は狭い。

特に大事件が起きる訳ではないが、グイグイと最後まで引っ張る。

セルジュのどこが「美しい」かは分からなかったが。

本作の原題は「Le Beau Serge」だ。

「beau」というのは、英語の「beautiful」の語源だ。

英語の日常語は大抵ゲルマン語起源なのだが、これはフランス語起源の珍しい例。

僕は大学1年の時、フランス映画に憧れて、フランス語の授業を取ったのだが、最初の1時間で挫折してしまった。

今からでも、勉強してみるかな。

しかし、僕はもう英語とドイツ語とラテン語だけで手一杯だ。

『美しきセルジュ』は、時期的には、『大人は判ってくれない』や『勝手にしやがれ』よりも前に発表されているんだな。

正に、「ヌーヴェルヴァーグの発火点」と言える作品かも知れない。

D

2018-11-05

『マックQ』

この週末は、ブルーレイで『マックQ』を見た。

1974年のアメリカ映画。

監督は、『荒野の七人』『大脱走』『シノーラ』の巨匠ジョン・スタージェス

音楽は、『十戒』『荒野の七人』『アラバマ物語』『大脱走』の巨匠エルマー・バーンスタイン。

主演は、『赤い河』『ホンドー』『アラスカ魂』『史上最大の作戦』『西部開拓史』『大列車強盗(1973)』『オレゴン魂』の大スター、ジョン・ウェイン。

共演は、『史上最大の作戦』のエディ・アルバート、『アニー・ホール』のコリーン・デューハースト、『ブレージングサドル』のデヴィッド・ハドルストン、『ゴッドファーザー』『ゲッタウェイ』のアル・レッティエリ、『大アマゾンの半魚人』のジュリー・アダムス。

ダーティハリー辺りと、似たような雰囲気が漂っている。

西部劇のイメージが強いジョン・ウェインに、刑事をやらせてみようということだろう。

ワーナー・ブラザース。

テクニカラー、パナビジョン。

舞台はシアトルらしい。

車の中にサングラスの男。

銃を持っている。

走り出す車。

夜明けの港である。

如何にも70年代風のテーマ曲

男は、車の中から警官を撃つ。

続いて、駐車場でまた警官を撃つ。

車を降りる男。

通り過ぎるパトカー。

男は行き付けらしいカフェに入り、カウンターでミルクを頼む。

マックQ(ジョン・ウェイン)の同僚だと言っているから、刑事なのだろう。

しかし、彼は、今度は車の中から他の男にライフルで撃たれる。

テンポ良く進むが、謎めいた展開。

マックQは何故かヨットの上で暮らしている。

寝ていると、電話で起こされる。

「スタンがやられた。死んではいない。目撃者はいない。」

マックQは、車上荒らしの男を見付け、「待て」と声を掛けるが、今度は別の男から銃で狙われ、その男を撃つ。

この男は、殺し屋のサミュエルズらしい。

マックQがスタンの病室へ行くと、彼は重体だという。

スタンの妻ロイス(ダイアナ・マルドア)が病室にいる。

彼女によると、昨夜、スタンに電話があったらしい。

彼は、麻薬の摘発で狙われているのであった。

マックQが警察署へ戻ると、課長がマックQを呼んでいるという。

その日は、過激派が多数、検挙されていた。

その中の一人がマックQに、「撃てるものなら撃ってみろ」と挑発する。

マックQは、そいつにケリを入れる。

課長が言うには、今回の事件には、悪名高き麻薬王マニー・サンチャゴ(アル・レッティエリ)が絡んでいるという。

ただし、マックQには、「君はスタンの親友だから、担当させない」と言う。

マックQは、正義感から勝手に動いて、自分で犯人を処罰した過去があった。

今、警察がそんなことをしたら、直ちにマスコミの餌食だが。

70年代の刑事ドラマにはありがちな感じだ。

しかし、マックQはそんなことは無視。

港へ赴き、サンチャゴの会社を張る。

サンチャゴは、お抱えの悪徳弁護士に「オレじゃない。昨夜は飛行機に乗っていた」などと話している。

マックQは、一眼レフに装着した望遠レンズで様子を伺っている。

なお、カメラはニコンだ。

サンチャゴは車でカフェへ。

TVのニュースで「スタン死亡」と告げている。

マックQも後を追って、その店へ。

親友の死を知って、逆上したマックQは、電話中だったサンチャゴをボコボコにする。

そのことを知った課長は激怒。

市のエライさんの面前で、マックQに「操作から外れろ!」と命じる。

何か、いよいよ『ダーティハリー』っぽいな。

マックQは警察を辞める。

彼は、私立探偵のピンキーに「仲間にしてくれ」と頼む。

どうしても、スタンの犯人探しを諦められないのであった。

本作は、事件がどんどん降り掛かって来るが、それが全体のストーリーの中でどういう位置付けなのかは、先に進んでみないと分からないように作られている。

まあ、刑事モノにありがちな展開かな。

マックQは、別れた妻エレインを訪ね、「5000ドル欲しい」と言う。

別れた奥さんにカネの無心をする神経が信じられないが。

でも、エレインは、今は金持ちと再婚していて、旦那があっさりと「いいよ」と言う。

バスケの会場で、マックQは黒人の情報屋に声を掛ける。

彼によると、サンチャゴが絡んでいるという。

で、今度は夜道でコカインを飲み込んだ男を捕まえ、そいつのコカインを奪う。

一般人のクセに、やりたい放題。

で、そのコカインを持って、ヤク中のウェイトレス、マイラ(コリーン・デューハースト)を訪ねる。

彼女は、生前のスタンといい仲であった。

彼女は、ヤクを持って行けば、何でも話してくれたという。

最初は、「スタンには話すけど、あなたは嫌いだから話さない」なんて言っていたが、「ヤクがコカインなら話す」となり、とうとうマックQと寝る。

何だかなあ。

こういうアンチヒーローものは、どうも女にだらしないというのが相場だ。

で、彼女が言うには、「今回は殺し屋が雇われた。街一番の麻薬倉庫は青い制服(=警察)だ。行けば分かる」と。

マックQは警察署へ行く。

そして、警察が押収した麻薬の行方を追う。

本来なら、極秘に焼却処分されるはずだが…。

さあ、これからどうなる?

この後も、ストーリーは二転三転。

何度もどんでん返しがある。

カー・チェイスに銃撃戦と、見せ場は盛り沢山なのだが。

最後まで見ても、今一つ腑に落ちない。

何だろう。

ジョン・ウェインは貫禄十分なんだけどね。

アメリカは銃社会だということは分かる。

D

2018-10-29

『脱走特急』

この週末は、ブルーレイで『脱走特急』を見た。

1965年のアメリカ映画。

監督は、『大地震』のマーク・ロブソン。

音楽は、『猿の惑星』『パットン大戦車軍団』『トラ・トラ・トラ!』『パピヨン』『チャイナタウン』『オーメン』『エイリアン』『スタートレック』の巨匠ジェリー・ゴールドスミス。

主演は、『錨を上げて』『踊る大紐育』『地上より永遠に』の大スター、フランク・シナトラ。

共演は、『第三の男』『空軍大戦略』『スーパーマン』『ガンジー』のトレヴァー・ハワード、『史上最大の作戦』『遠すぎた橋』のヴォルフガング・プライス、『荒野の七人』のブラッド・デクスター、『ウエストワールド』のジェームズ・ブローリン。

脱走モノの好きな僕も、恥ずかしながら、本作のことは知らなかった。

20世紀フォックス。

カラー、シネマスコープ。

「1943年8月、イタリア。連合軍が迫り、戦争に疲弊したイタリアは、ドイツ陸軍の占領下で戦いを続けていた」というクレジット。

街にイタリア軍がいる。

なお、本作に登場するイタリア人やドイツ人は、ハリウッド映画なのに、きちんとイタリア語やドイツ語を話す。

大戦末期だというのに、日本の戦争映画に見られるような悲壮感は、あまり感じられない。

突如、アメリカ軍の飛行機が墜落して来て、爆発炎上する。

上官から状況を尋ねられたイタリア兵士は、「操縦士は死んだ」と報告した。

が、実はパイロットのライアン大佐(フランク・シナトラ)は生きていた。

彼はかくまわれて、イタリア軍の捕虜収容所へ。

ここには英米軍の捕虜達がいた。

ライアンが到着すると、それまでの英米のリーダーが亡くなって、遺体が埋葬されているところであった。

ライアンは、イタリア人で英語が出来る通訳を通して面会した収容所長に、「そんなんだから負けるんだ!」と挑発的な態度を取る。

「アメリカ軍がイタリア本土に上陸した」と聞いて、大喜びする捕虜達。

彼らは、汚らしい格好をしていた。

彼らが何度も企てた脱走計画に対する制裁で、服や薬を支給されないのであった。

捕虜達の間では、マラリアや壊血病が流行っていた。

でも、それでも脱走計画は続けるという。

ここでは、多数派のイギリス兵と、少数派のアメリカ兵が対立していた。

イギリス兵のリーダー、フィンチャム少佐(トレヴァー・ハワード)は強行に脱走計画の遂行を主張するが、ライアンは「もうすぐ終戦だ。脱走よりも薬の方が大事」と言う。

しかし、ライアンは捕虜達の統率については、階級的には格下のフィンチャムに任せる。

ライアンは、夜中にイギリス兵に呼び出される。

フィンチャムは、アメリカ兵が脱走用の物資(薬)を盗んだので、処罰して欲しいとライアンに頼む。

だが、ライアンは「処罰は許さん! 薬は病人に配れ」と告げる。

ライアンはフィンチャムに、「今後は私が指揮を執る」と言う。

収容所長はライアンに、「捕虜が反抗を続ければ、指揮官の責任だ」と言うが、ライアンは「今後は今までのようなことはさせない」と。

ライアンは、オレがいる限り脱走は許さんと言うが、真の目的は捕虜達の待遇改善であった。

イタリア人の通訳は、ちょっとクセ者で、収容所長にライアンの意図をきちんとは伝えなかったが。

ライアンは、捕虜達に「服を燃やせ! 下着もだ」と命じる。

下半身までスッポンポンになった捕虜達を見て、さすがの収容所長も、新しい服を提供しない訳には行かなかった。

その代わり、ライアンが懲罰房行きを命じられた。

懲罰房は、狭いコンテナであった。

ところが、イタリアがついに降伏し、ライアンは外へ出られた。

捕虜達は、収容所長に復讐するべく、自分達で裁判を始めていたが、ライアンが止めさせる。

「絞首刑はダメだ。懲罰房にブチ込め!」

リンチはイカンということだな。

まあ、収容所長も、所詮は仕事でやっていたのだから。

軍人なんて、なるもんじゃないね。

そこへ、ドイツ空軍機が来襲する。

捕虜達は、イタリア人通訳に導かれるままに、「海岸まで32キロ。皆で移動だ!」と、集団で歩き出す。

その夜、収容所にドイツ軍がやって来た。

中はもぬけの殻。

だが、懲罰房の中から所長の助けを求める声が。

所長は、ようやく狭いコンテナの中から助け出される。

「捕虜が逃げた。」

その頃、捕虜達は、「船の用意をする」と言っていなくなった通訳が戻って来るのを待っていた。

そこへドイツ軍がやって来て、捕虜達を捕まえた。

逃げようとすると、容赦なく銃殺される。

捕虜達は最初、通訳が裏切ったと思うが、裏切ったのは所長であった。

捕虜達は貨物列車に乗せられる。

捕虜達の中のケガ人は、一箇所に集めて銃殺された。

列車はローマへ向かう。

ローマ帝国時代の遺跡がたくさん出て来て、なかなか趣き深い。

捕虜達は列車から降ろされる。

通訳が「私はイタリア人だ」と申し出るが、冷酷なドイツ兵は釈放しない。

短時間で物資の補給を終え、再び列車は走り出した。

各車両の上には、銃を持った兵が見張っている。

ライアン、フィンチャムら将校5人は前の車両に乗っていた。

ライアンは、床に穴を開けて脱走するという。

床板は、木がモロくて、すぐに崩れた。

夜、走る列車の床穴から抜け出したライアンとフィンチャムは、屋根に登り、護衛の首を絞め、銃と軍服を奪う。

列車が停車した時に、捕虜達は闇に紛れて外に出、集団で屋根の上から護衛に飛び掛かり、銃を奪う。

何という鮮やかな展開。

こうして、彼らはこの列車を奪うことに成功した。

ここまでが前半。

さあ、これからどうなる?

後半も見せ場の連続。

スケールが大きく、アクションや爆破シーンも多数。

登場人物のキャラクターもきちんと描き分けられている。

特に、ライアンの軍人としての正義感と葛藤。

今では、こういう映画はもう撮れないだろう。

しかも、ラストが驚きである。

そして、プッツリと幕を閉じる。

これは傑作だ。

1965年の洋画興行収入8位。

ちなみに、この年の洋画1位は『007/ゴールドフィンガー』、2位は『マイ・フェア・レディ』、3位は『サウンド・オブ・ミュージック』。

邦画の1位は『赤ひげ』。

映画史上の名作、傑作が目白押しである。

スゴイ時代だ。

D

2018-10-21

『若者のすべて』

この週末は、ブルーレイで『若者のすべて』を見た。

1960年のイタリア・フランス合作映画。

監督は、『イノセント』の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ。

脚本は、『イノセント』のスーゾ・チェッキ・ダミーコ。

音楽は、『ロミオとジュリエット(1968)』『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPART II』『ナイル殺人事件』の巨匠ニーノ・ロータ

撮影は、『天地創造』のジュゼッペ・ロトゥンノ。

主演は、『シシリアン』『フリック・ストーリー』『チェイサー』の大スター、アラン・ドロン。

共演は、『ピンクの豹』『ウエスタン』の大スター、クラウディア・カルディナーレ。

モノクロ、ワイド。

不安げなテーマ曲

前奏から哀愁漂う歌に。

ミラノ駅に列車が到着する。

母親ロザリア・パロンディ(カティナ・パクシヌー)とその息子シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)、ロッコ(アラン・ドロン)、チーロ、ルーカが降りて来る。

長男のヴィンチェンツィオは迎えに来ていない。

彼らはイタリア南部からやって来た。

見るからに貧しい田舎者である。

バスに乗ってヴィンチェンツィオの家に向かいながら、ミラノの都会ぶりに驚いている。

ヴィンチェンツィオは恋人ジネッタ(クラウディア・カルディナーレ)との婚約パーティの真っ最中。

ヴィンチェンツィオはもう貧しい故郷に戻るつもりはない。

都会での生活を選んだ。

ロザリアが息子達を連れてミラノへ出て来たのは、夫が亡くなったからであった。

ロザリアはヴィンチェンツィオの結婚の話しを知らなかった。

兄弟達は、ミラノでの仕事を見付けなければ、泊まる部屋もない。

で、このパーティの席上、ロザリアはジネッタの母親と大ゲンカを繰り広げ、家を飛び出す。

成り行きで、ヴィンチェンツィオまで出て行くハメに。

ヴィンチェンツィオは知人の家を訪ねる。

そこで、まずアパートを借り、家賃を滞納して、立ち退きになったら施設に入れるという方法を教えられる。

翌日、家族でアパートへ。

雪が降って、家族は大騒ぎ。

南部から来たから、雪を知らないのだろう。

そして、雪が降ると、兄弟達は雪かきの仕事にありつけるのであった。

もう、このアパートでの暮らしが本当に貧しそうである。

寒いのに、みんな裸足だ。

ヴィンチェンツィオはジネッタと再会するが、彼女を「ものにする」と言って、ビンタされてしまう。

ヴィンチェンツィオは、父親とケンカをして家を飛び出したというナディア(アニー・ジラルド)という娘と知り合い、家へ連れて帰る。

ナディアは、雪が降っているのに、半袖で超ミニスカートである。

兄弟達はミラノに出て来て1ヶ月経っても定職が見付かっていない。

ナディアにはボクシングをやっている知り合いがいる。

チャンピオンになれば大金持ちだ。

しかし、ロザリアはナディアに対して、「商売女!」と激怒する。

ナディアは警官がやって来ると、窓から逃げて行った。

ヴィンチェンツィオが通っているボクシング・ジムに、シモーネとロッコが見学に来る。

着替えろと言われたが、衣装がないので、下着姿で出て来て、居合わせた者達にさんざん笑われる。

こういう描写を見ていると、僕も上京したばかりの頃に、カネがなくて悲惨な思いをしたことを思い出した。

ヴィスコンティは貴族出身なのに、底辺の庶民の暮らしを実にリアルに描いている。

ヴィンチェンツィオが働いている工事現場に、ルーカがやって来る。

「アパートに家賃の取り立てが来た」と。

ヴィンチェンツィオは、(家賃を滞納して立ち退きになり、施設へ行けるように)「うまくやれよ」と弟にアドバイスする。

シモーネはジムで「ボクシングをやるなら禁煙しろ」と言われる。

そこへ、有名ボクシング・ジムであるチェッリのところから、モリーニ(ロジェ・アナン)という男がシモーネを引き抜きに来る。

ロッコは素質はあったが、気立てが優しいので、本当はボクシングには向いていないと思っていた。

このロッコの優男っぷりが本作のキモで、後半、それが際立って行く。

まるで、『ニキータ』のジャン・ユーグ・アングラードのようだ。

対戦ではシモーネが勝利する。

その夜、外で大勢の殴り合いが起きていた。

ヴィンチェンツィオやらジネッタやらロッコやらルーカやらも交えて大騒ぎになっていたが。

シモーネはモリーニから「メシでも食いに行くか」と誘われていたが、例のナディアがシモーネに近付き、シモーネはモリーニとの約束をブッチする。

シモーネはナディアの部屋へ。

彼女は貧しい生い立ちであった。

本当に、貧困はロクなことがない。

今の日本も他人事じゃない。

僕の知り合いに、格差や貧困をテーマに風俗嬢を取材しているライターがいるが。

その人のルポを読むと、この映画の描いている世界と大差ない。

ルーカはチーロに、夜間学校の案内を持って来る。

しかし、彼らは小学校も出ていないのか?

ロッコはクリーニング屋で働いていたが、字が読めないようで、客の名前を間違える。

もちろん、他の店員は「まさか」と思っているのだが。

戦後のイタリアに、未だ文盲がいたのか。

僕の友人に、中卒で、アルファベットが読めない者がいる(日本語は読める)。

今の日本でアルファベットが読めなければ、生活出来ないだろう。

義務教育を受けているはずなのに(中学時代はロクに学校に行かなかったらしいが)、どうしてこんな状態で彼を社会に放り出したのか。

安倍政権なんか、庶民の暮らしを全く見ていないよな。

怒りが込み上げて来る。

で、シモーネがロッコの店に訪ねて来て、ロッコに「カネを貸してくれ。旅に出る」と。

そして、店に置いてあった高給そうなシャツを盗む。

もう、この辺からシモーネはおかしくなっている。

ロッコはシモーネのジムへ行く。

モリーニは、突然シモーネがいなくなったので、激怒している。

ロッコに、シモーネのお目付け役になれと言う。

チェッリは「変な連中と付き合わせるな」と。

ボクサーになりたければ、女、タバコ、酒は禁止だ。

その頃、シモーネはナディアと旅行していた。

しかし、どうやら彼女は本気ではないようだ。

まあ、商売女だからな。

シモーネは、ロッコの働くクリーニング屋に盗んだシャツを返しに行く。

クリーニング屋の女店主は激怒する。

しかし、シモーネは彼女にキスし、今度は胸のブローチを盗む。

この一件で、ロッコは店に居づらくなる。

夜、ヴィンチェンツィオを訪ねてナディアが家へやって来るが、いないのでロッコが応対する。

ナディアは、シモーネがクリーニング屋の店主から盗んだブローチを返しに来る。

あろうことか、彼女にプレゼントしていたんだな。

もちろん、彼女は曰くありの品だと気付いた。

で、「(シモーネに)ナディアは消えた」と伝えてと。

シモーネが帰宅する。

ロッコはクリーニング屋を辞めたという。

なぜなら、召集令状が来たからだ。

イタリアは徴兵制なんだな。

まあ、今の日本も、このまま安倍政権が続いたら、徴兵制の導入とか言い出しかねないが。

ロッコはシモーネにナディアのことを告げる。

当然、シモーネは激怒する。

で、ロッコは軍隊へ。

ロザリアから手紙が来る。

「シモーネは試合に勝った。チーロは夜学を終えてアルファロメオへ。ヴィンチェは結婚して出て行った。給料が出たらお金を送って」と。

兵隊に取られている息子に、最後にカネの無心をする母親というのが、本作における貧困の深刻さを物語っている。

この母親は、ものすごい肝っ玉母ちゃんなのだが、やはりカネだけはないんだな。

チーロがアルファロメオというのがスゴイ。

真面目に勉強していたからな。

現在では考えられないだろうが。

僕の母も、中卒だったが、某大手企業から内定をもらったらしい。

まあ、1950年代の話しだ。

で、ロッコは町で偶然ナディアと出会う。

彼女は、刑期を終えて出て来たばかりだと。

まあ、売春をしていたからな。

ロッコは都会に馴染めない。

ナディアから「私のこと、どう思う?」と聞かれ、最初は「別に」と答えていたが、話す内に、「君のこと、気の毒で」「僕を信じて」と言う。

優し過ぎるのは、本当に罪だよ。

本作を最後まで見たら、きっと誰でもそう思う。

ナディアはロッコに「帰ったら連絡くれる?」と言う。

ロッコは兵役を終えて、家に帰った。

ロザリアだけがいる。

兄弟達は、ヴィンチェンツィオの子供の洗礼式に出掛けていた。

ロザリアは行かないのだが。

ジネッタの家がヴィンチェンツィオを入れてくれないらしい。

まあ、最初のパーティの大ゲンカが未だに尾を引いているのだろう。

シモーネは明日が試合であった。

ジムで練習相手にロッコを指名する。

いい相手であった。

ロッコは素質を見出される。

軍隊でもボクシングをやっていたらしい。

一方、ロッコはナディアとも会っていた。

ナディアは優しいロッコと付き合って更生し、タイプ学校へ通っていた。

シモーネは試合で黒人ボクサーにやられる。

チェッリは激怒し、ロッコに代わりをやれと命じる。

シモーネは、ロッコとナディアが付き合っていることを知らなかった。

悪い仲間からそのことを聞いたシモーネは、連中と現場を押さえに行く。

二人が会っているのを見たシモーネは、嫉妬にかられ、ロッコに「謝れ!」とビンタする。

そして、ロッコの目の前でナディアを強姦するのであった。

ヒドイね。

ヒド過ぎて、言葉も出ない。

泣くロッコ。

ナディアも泣く。

ナディアは去る。

ロッコはシモーネに「人間のクズめ」と。

そりゃそうだろう。

そして、殴り合いになる。

ボクサー同士の殴り合いだから、悲惨だ。

倒れるロッコ。

さあ、これからどうなる?

3時間の長い映画だが、ものすごい力強さで最後まで引っ張る。

兄弟愛がテーマなんだろうけど、ロッコのは行き過ぎている。

僕は兄弟がいないので、分からないが。

結局、ロッコが優し過ぎて、悲劇を生んだとも言える。

一方、貧困が人間をここまでダメにするというのもテーマだろう。

しかし、そんな貧困の中でも、立派に生きている兄弟もいる。

いずれにせよ、これは傑作だ。

イタリア映画はスゴイね。

ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞受賞。

D

2018-10-15

『イノセント』

この週末は、ブルーレイで『イノセント』を見た。

1976年のイタリア・フランス合作映画。

監督は、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ。

撮影は、『ロミオとジュリエット(1968)』のパスクァリーノ・デ・サンティス。

主演はジャン・カルロ・ジャンニーニとラウラ・アントネッリ。

共演は、『ラストタンゴ・イン・パリ』のマッシモ・ジロッティ。

ヴィスコンティに関しては、多少の思い出がある。

僕が浪人していた頃、近所のレンタル屋の名作映画コーナーに、ヴィスコンティの作品が並んでいた。

二十数年前の町のレンタル屋にヴィスコンティが置いてあったとはスゴイが。

僕は、その中から『地獄に堕ちた勇者ども』と『ルートヴィヒ』を借りて来た。

ものすごくエラそうな映画だと思ったからだ。

しかし、どちらも、途中まで見て挫折。

確か、『イノセント』もあったと思うが、こちらは借りた記憶はない。

大学では、映画研究会なんぞに顔を出していた時期もあるから、「ヴィスコンティくらいは知らないと」というような空気もあったが、結局、見る機会はなく。

大人になってから、『ベニスに死す』をDVDで見て、絢爛豪華な映像と、詩的な表現に感激した。

で、この度、ブルーレイの廉価版が出たので、購入したのだが。

それにしても、ヴィスコンティの遺作が1500円で買えるなんて、いい時代になったものだが、こんなに作品の価値が低くてもいいのか、複雑な気持ちになる。

テクニカラー、シネスコ・サイズ。

甘美なテーマ曲

僕はクラシックには全く詳しくないから、何の曲か分からないが、本作には、ショパンやらモーツァルトやらリストの曲が使われているらしい。

舞台は20世紀初頭のローマか。

時代ははっきりとは示されないが、馬車は走っているし、照明はロウソクだし、写真の代わりに肖像画が飾られている。

登場人物は皆、貴族だ。

衣装はものすごくきらびやかなものがとっかえひっかえ出て来る。

住まいなんかは、セットじゃなくて、実際の貴族の城かなんかを借りて撮ったのだろう。

僕の大好きな映画『バリー・リンドン』の美術も素晴らしいが、ヴィスコンティは平民のキューブリックと違って貴族出身なので、画面全体にそこはかと気品が漂っている(まあ、『バリー・リンドン』は平民が成り上がる映画だから、あれでいいのだが)。

で、フェンシングの稽古場へ、トゥリオ・エルミル伯爵(ジャンカルロ・ジャンニーニ)にお迎えがやって来る。

彼は、ピアノの演奏会に、愛人である未亡人の公爵夫人テレーザ・ラッフォ(ジェニファー・オニール)と同伴でやって来る。

前列には、トゥリオの妻ジュリアーナ(ラウラ・アントネッリ)がいる。

「あの人と一緒はイヤ」と、テレーザは、彼女に言い寄って来るステファノ・エガーノ伯爵(マッシモ・ジロッティ)と一緒に出て行く。

トゥリオはジュリアーナに声を掛けて帰る。

どこへ帰るかといったら、何とテレーザの所だ。

トゥリオは、テレーザに「妻との仲は表向きだ」と告げる。

しかし、テレーザは自由な女であった。

「私はエガーノと会うの」と彼女。

「いや、行かせない」とトゥリオ。

抱き合う二人。

何だかなあ。

有閑階級の色恋沙汰にしか見えんが。

ジュリアーナは、そんな夫の行動を不安がっている。

トゥリオは、明日から当分フィレンツェへ行くという。

彼はジュリアーナに「君は妹のような存在だ」と言い、妻に対して、テレーザのことを告白する。

「僕のわがままを聞いて欲しい」って、妻公認の浮気か。

当時の貴族は、結婚しても自由恋愛だったのか。

信じられん。

で、トゥリオは弟のフェデリコに「ジュリアーナと一緒にいてやってくれ」って。

弟に奥さんを押し付けるのか。

ジュリアーナは、不安で寂しくて、睡眠薬を飲んで倒れる。

フェデリコは、友人で作家であるフィリッポ・ダルボリオをジュリアーナに紹介する。

一方、テレーザと寝ていたトゥリオは、エガーノからの手紙を発見し、怒って破り捨てる。

更に、執拗にテレーザに言い寄るエガーノに、決闘を申し込む。

自由恋愛のくせに、嫉妬深いトゥリオ。

で、音楽を聴いているジュリアーナの基へ、トゥリオが戻って来る。

トゥリオがエガーノと決闘している間に、テレーザは出発してしまったのだという。

ジュリアーナに「彼女を忘れたい。力を貸してくれ」とトゥリオ。

「無理よ。私にはできないわ。」

何て都合のいい野郎なんだ!

トゥリオは、ジュリアーナへの献辞の入ったフィリッポの著書を発見。

フィリッポのことを罵倒する。

ジュリアーナはフィリッポの才能を称賛する。

競売に出掛けるジュリアーナ。

トゥリオは、彼女が香水を変えたことに気付く。

一方、トゥリオは競売でテレーザと会う。

ジュリアーナが帰宅すると、トゥリオはいない。

テレーザと抱き合うトゥリオ。

テレーザは彼に「奥さんはきっと浮気してるわ」と告げる。

自分の事は棚に上げて、不安になるトゥリオ。

トゥリオが帰宅すると、ジュリアーナはいない。

このすれ違い。

トゥリオがフェンシングの稽古場に行くと、フィリッポがいる。

二人の対決。

フィリッポがシャワーを浴びているのを眺めるトゥリオ。

この時、フィリッポのペニスが映る(無修正)。

一方、テレーザはトゥリオと外出したがる。

しかし、彼女がフィリッポのことを知っていると判り、不機嫌になるトゥリオ。

トゥリオは実家に帰ると、ジュリアーナがいる。

彼女は「部屋は別々に」と告げる。

トゥリオとジュリアーナは別荘へ行く。

ジュリアーナにキスをするトゥリオ。

抱き合う二人。

初心に戻ろうとする。

しかし、無理。

そりゃそうだろう。

実家へ戻る二人。

ジュリアーナは気分が悪い。

トゥリオの母は、「彼女はきっと妊娠しているわ」とトゥリオに告げる。

「なぜ?」とトゥリオ。

しかし、彼は目に涙を浮べている。

身に覚えがないんだな。

薬を飲んだジュリアーナ。

だが、何の薬か、トゥリオには隠す。

「妊娠したのは本当か?」

「本当よ。」

ジュリアーナは、「私が生きていられたのは彼(フィリッポ)のおかげよ」と言う。

「僕達は互いに自由な夫婦だった」と言いながら、彼女にキスをするトゥリオ。

しかし、気が立っている。

彼は、子供を堕ろさせようとするが、ジュリアーナは「できないわ」と拒む。

さあ、これからどうなる?

後半は、もちろん、ドロドロの展開になる。

とんでもない映画である。

トゥリオは無神論者で、これが作品のストーリーにも影響するのだが。

僕も無神論者だが、このオッサンには1ミリも共感出来ん。

本物のクソ野郎だ。

もしかして、無神論者の悲惨な運命というのもテーマなのか?

それにしても、貴族ってのは何をやっても罪に問われないのか?

どこが「イノセント」だ。

イノセントなのは赤ん坊だけじゃないか。

ヴィスコンティは、左半身麻痺の状態で、車椅子に座って、本作を演出したという。

その執念。

(セリフではなく)登場人物の表情の変化で心理を表現するのが素晴らしい。

人間性を深く描いた傑作だと言えるだろう。

シェイクスピアの『オセロ』じゃないが、人間はやはり嫉妬の生き物だということか。

登場人物には一切共感出来ないが。

貴族っちゅうのは、一体何をして暮らしているんだかねえ。

撮ったのがヴィスコンティじゃなくて、主人公が貴族じゃなかったら、ただのゲス不倫映画になってしまうところだが。

D

2018-10-08

『素晴らしきヒコーキ野郎』

この週末は、ブルーレイで『素晴らしきヒコーキ野郎』を見た。

1965年のイギリス映画。

監督は、『史上最大の作戦』のケン・アナキン。

編集は、『アラビアのロレンス』『レガシー』『エレファント・マン』のアン・V・コーツ。

主演は、『史上最大の作戦』のスチュアート・ホイットマン。

共演は、『史上最大の作戦』『007 ゴールドフィンガー』『チキ・チキ・バン・バン』のゲルト・フレーベ、『史上最大の作戦』『シシリアン』のイリナ・デミック、『チキ・チキ・バン・バン』のベニー・ヒル、『ナイル殺人事件』のサム・ワナメイカー。

なお、日本からは、我らが石原裕次郎が出演している(兄貴は右翼だが)。

細君は、「なぜ三船敏郎か丹波哲郎じゃないの?」と言っていたが、日本を代表する役者の一人であるのは間違いない。

日本代表が裕次郎であることから推すに、各国を代表する役者が出ているのだろう。

インターナショナルな映画である。

20世紀フォックス。

カラー、ワイド(70ミリ)。

劇場風のイラストの真ん中の四角いスクリーンにモノクロの映像が映し出される。

古代から人間の夢は鳥になること。

コミカルな音楽をバックに、空を飛ぼうとして失敗した数々の人間の映像が流れる。

これが実に面白い。

初の長距離(と言っても、ほんの数十メートルにしか見えないが)飛行成功者はイタリアのポンティチェリ伯爵(アルベルト・ソルディ)。

1910年のことだった。

ここで、画面はワイド、カラーになる。

ようやくタイトル。

バックは戯画風のアニメ。

テーマ曲は陽気な合唱。

飛行機が空を飛んでいる。

操縦しているのはイギリス人のリチャード・メイズ(ジェームズ・フォックス)。

恋人のパトリシア・ローンズリー(サラ・マイルズ)がバイクで後を追い掛ける。

「私も乗せて!」

パトリシアの父ローンズリー卿は新聞社を経営している。

彼は「大英帝国の愛国心を煽る」のがモットー。

リチャードはローンズリー卿に、世界各国、特にフランスとアメリカの飛行技術はイギリスの先を行っていると訴える。

だが、「パトリシアを飛行機に乗せることは断じて許さん!」と告げられる。

それでも、ローンズリー卿は重役会議で世界各地の様々な飛行機を集めた競技会を自らの新聞社の主催で行うことを提案する。

パリとロンドン間で、賞金は1万ポンド。

イタリアのエミリオ・ポンティチェリ、フランスのピエール・デュボアら、世界の飛行家に招待状が送られる。

ここから、世界各国の代表が描かれるが、はっきり言って、ステレオ・タイプな偏見に満ち満ちている。

要するに、イギリス人から見て、他の国の人間はどう見えているか。

現代では問題になる描写も多々あるが、まあ、コメディということで大目に見よう。

割り切って見ると、本作はなかなか面白い。

フランスのデュボアは、地上でヌードの絵のモデルになっている女性に見とれて、飛行機を衝突させてしまう。

彼女の名はブリジット(イリナ・デミック)。

つまり、フランス人は女ったらしだと言いたいのだろう。

そこへ、飛行機レースの招待状が届く。

賞金は25万フラン。

ドイツでは、マンフレッド・フォン・ホルスタイン大佐(ゲルト・フレーベ)が飛行機を木に衝突させていた。

大佐は、部下のランベルストロス大尉に飛行機に乗るように命じる。

ドイツ人はガチガチで融通の利かない頑固者として描かれている。

かなりバカにしていて、ドイツ人が見たら怒るだろう。

なお、本作に登場する各国のキャストは皆、何故か英語を話す。

アメリカでは、西部劇みたいな格好で幌馬車に乗っているオービル・ニュートン(スチュアート・ホイットマン)とジョージ・グルーバー(サム・ワナメイカー)が風で飛んで来た新聞の記事で飛行機レースのことを知る。

賞金は5万ドルとある。

イタリアのポンティチェリは、度重なる失敗に「飛行機は懲りた。二度と飛ばない」とうそぶいていたが、新聞を見て、レースへの出場を決意。

一方、日本では…。

この頃の英米人の日本のイメージはこんなだったのだろう。

珍妙な鳥居や五重塔やらのセット。

ヒドイね。

バックには琴の音。

飛んでいるのはヤマモト(石原裕次郎)。

ヤマモトって、どうせ山本五十六から取ったんだろう。

しかし、セリフは日本語。

まごうことなき裕次郎の声である(ただし、この後、イギリスに渡ると、セリフは英語になり、吹き替えになる)。

賞金は1万ポンド(円じゃないのか!)。

世界中からロンドンに続々と飛行家が集結する。

イギリスからもう一人の参加者が。

アメリカのオービルは、パトリシアの服を自転車に引っ掛けてしまうが、これをきっかけに彼女に「君を飛行機に乗せてあげる」と声を掛ける。

保守的なイギリス人と改革的なアメリカ人という対比か。

一方、ローンズリー卿はリチャードにパトリシアとの結婚を許可する(ただし、未だ彼女にプロポーズはしていない)。

ポンティチェリは家族連れでやって来る。

イタリア人には大家族のイメージがあるのか。

彼は、「イタリアが先頭でないと困る!」と主張する。

イタリアは着道楽なのか(まあ、ファッションの国だし)、ものすごく立派な衣装を身につけている。

彼は資産家である。

フランスのデュボアは、早くもナンパに成功したブリジットと一緒に飛行している。

ポンティチェリの飛行機は足漕ぎ式の人力で、なかなか飛べない。

アメリカのオービルの飛行機は木のプロペラである。

このレースには、飛行機に二人乗ってはいけないというルールがあるが、誤って二人乗ることになってしまったオービルの飛行機は汚水溜めに突っ込む。

オービルは、イギリスの格納庫にモンキーレンチを借りに来る。

ここで、リチャードと知り合う。

イギリスでは、モンキーレンチのことを自在スパナと言うという豆知識。

オービルはパトリシアに色目を使う。

夜のカフェ。

デュボアは、店の店員であるドイツ女性マレーネ(イリナ・デミック)をナンパする。

一方、席に座っていたパトリシアに声を掛けるオービル。

彼は、この飛行機レースに出るためにアリゾナから借金してやって来た。

負けたら無一文である。

パトリシアが「私を同乗させて」と言うと、「いいよ」と答える。

しかし、そこへリチャードがやって来る。

彼は、恋人に近寄るヤンキーに動揺している。

今度はデュボアが飛行している。

隣に座っているのは、店でナンパしたマレーネ。

とは言っても、イリナ・デミックが何度も名前を変えているだけだが(一人六役!)。

ドイツ機は、飛行前に尾翼が外れ、飛ばずに走り回る。

止まらない。

オービルが飛び乗り、燃料タンクをナイフで刺して停める。

オービルは、自らの飛行機に馬力を上げる仕掛けを施している。

そこへ、パトリシアがやって来て、「あなたが好き(I like you very much)」と告げる。

翌日、一行はロンドンからドーバーへ。

しかし、我らが日本は未だ到着していない。

ドーバーで乾杯するオービルとパトリシア。

リチャードはオービルに「彼女に近付くな」と。

オービルはリチャードの顔面に一発食らわせる。

そこへ、ヤマモトが飛行機で飛んで来る。

この飛行機には全体に、火を噴く獅子やら、菊の御紋やらが描かれていて、ものすごい外観である。

これが日本のイメージか。

飛ぶだけでも一苦労の各国は、ヤマモトがドーバーまで飛行機でやって来たことに驚愕する。

「これじゃあ誰も勝てない」と。

日本は技術力があるというイメージなのだろう。

一方、パトリシアはオービルに「私を(飛行機に)乗せて」と懇願。

その頃、デュボアとホルスタイン大佐はつまらないことから、気球に乗って決闘していた。

オービルとパトリシアは二人乗りバイクで飛行場へ向かう。

それを見付けたローンズリー卿は激怒。

だが、既にパトリシアを乗せたオービルの飛行機は飛んでいる。

その時、翼の支柱が折れる。

危機一髪。

オービルは、折れた支柱に自分のベルトを巻いて応急処置。

無事着陸したものの、ローンズリー卿は「あの男は失格だ!」と。

リチャードはオービルを殴る。

ローンズリー卿はパトリシアに「今後は飛行も車も許さん!」と言い渡す。

オービルはローンズリー卿の家へ出向き、「とにかく卿に会わせてくれ。このままじゃ破産だ」と懇願するが、取り付く島もない。

しかし、パトリシアが「私が父に話すわ」と。

一方、フランスとドイツの決闘は失敗に終わっていた。

さあ、これからどうなる?

ここで「INTERMISSION」。

この後、イギリス人のずる賢いアーミテージ卿が部下のコートニーと共に他の参加者の妨害工作を働く。

我らが裕次郎には、下剤入りのワインを飲ませようとするが、裕次郎は「水割りしかやらないので」と断る。

さすがに、大スターを下痢にさせる訳には行かなかったのだろう。

しかしながら、アーミテージ卿の妨害で日本機はあっと言う間に墜落する。

裕次郎の出番がちょっとしかないのが残念だ。

まあ、色々と言いたいことはあるが、全体としては夢のあるエンターテインメントである。

撮影は大変だっただろう。

特に、スタントが。

人が死ぬシーンなどはないので、コメディーとして、安心して最後まで見ることが出来る。

今ではもう、こういう映画は作れないだろう。

最後に、「この時代に25時間11分かかったロンドン・パリ間は、今では超音速旅客機でわずか7分間である」と字幕が出る。

技術の進歩は恐ろしい。

D

2018-09-17

『ラストエンペラー』

この週末は、ブルーレイで『ラストエンペラー』を再見した。

ラストエンペラー [Blu-ray]

ラストエンペラー [Blu-ray]

1987年のイタリア・中国・イギリス合作映画。

監督は、『ラストタンゴ・イン・パリ』のベルナルド・ベルトルッチ。

撮影は、『ラストタンゴ・イン・パリ』『地獄の黙示録』『レッズ』のヴィットリオ・ストラーロ。

主演は、『キングコング(1976)』のジョン・ローン。

僕の母が彼のファンだった。

「好きな俳優は?」と訊かれたら、「ジョン・ローン!」と即答していた。

最近は見ないが、どうしているのだろうか。

共演は、『アラビアのロレンス』『天地創造』『007 カジノロワイヤル』のピーター・オトゥール。

僕はおそらく、本作を見るのは3度目だと思う。

最初は、実家にいた頃、テレビの洋画劇場で見た(ような気がする)。

当時、ものすごく話題になっていた。

でも、内容はほとんど覚えていない。

2度目は、大人になってから、DVDで見た。

それでも、やはり内容はロクに覚えていなかった。

情けない。

テクニカラー、シネスコ・サイズ(テクノビジョン)。

中華風のエキゾチックなテーマ曲

1950年の満州(中ソ国境)から始まる。

汽車が駅のホームに入って来る。

降りて来る兵士達。

彼らは戦犯である。

その中に愛新覚羅溥儀(ジョン・ローン)がいる。

「口を聞くと厳罰」と言われ、誰も話さない。

街の建物の壁には革命の絵が描かれている。

(元)皇帝に気付いて、ひれ伏す人々。

収容所に着き、一人立ち去り、空き部屋にこもる溥儀。

手首を切る。

「Open the door!」と叫ぶ監視官。

本作は、中国人も全員、英語のセリフを話している。

これが、強烈な違和感である。

昔のハリウッド映画と違い、中国との合作なので、ちゃんと中国でロケして、中国人の役者が多数、出演している。

それなのに、何故セリフが英語なのか。

英語のセリフじゃないと、アカデミー作品賞は獲れなかっただろうが、映画の舞台とセリフの言語について、もっときちんと考えるべきではないかと思う。

映画の雰囲気は素晴らしいが、セリフを聞くと、興醒めなのである。

溥儀の回想で1908年の北京へ。

本作は、このように現代(1950年)の収容所の過酷な状況に置かれた溥儀と、皇帝時代の華麗な溥儀を自在に行き来することで、それぞれの対比を浮び上がらせると共に、長い作品にリズムを与えている。

辮髪の坊や(3歳の溥儀)が神輿に乗って紫禁城へやって来る。

実母が乳母アーモに溥儀を託してだ。

「I want to go home!」と溥儀が叫ぶ。

城に着くと、西太后が座っている。

西太后が溥儀を呼ぶ。

男性は、夜は紫禁城に入れない。

ただ一人、皇帝を除いては。

昨日、先代の皇帝が亡くなった。

溥儀を皇帝に指名し、西太后は亡くなる。

即位式で、退屈な溥儀は、コオロギを追って外へ走り出す。

そりゃそうだろう。

何も分かっていない坊やなのだから。

なお、これはラストにつながる重要な伏線。

城の広い庭に出ると、大勢の臣下達がひれ伏している。

溥儀はおウチに帰りたがる。

もちろん、そんな願いは聞き入れられない。

風呂に入れられる溥儀。

3歳児のおちんちんが無修正で写っている。

現代の日本の法律に照らすと、これは児童ポルノに当たる。

映画史上に残る名作を児童ポルノ扱いするとは、国家権力は断じて許せない。

ウンチまで観察される。

城へアーモが様子を見に来る。

思わず彼女に抱き付く溥儀。

寝床では、アーモが溥儀に絵本の読み聞かせをする。

幸福な幼児時代。

ビンタで叩き起こされ、現代(1950年)に戻る溥儀。

自殺を図ったが、裁判に掛けるために助けられたのだ。

収容所の同室に、実弟の溥傑が入って来る。

回想。

溥傑の少年時代、弟の溥傑が城にやって来る。

母親と7年ぶりの再会。

幼い子供が、母親や兄弟と何年も無理矢理離されて暮らさなければならないとは、異常である。

中国の皇帝制というのが、このような歪な状況を強いながら維持されて来たことが分かる。

同じことは、日本の天皇制にも言える。

現天皇の退位や、皇室の女子の結婚相手を巡っての大騒動等を見ると、天皇制というのが、如何に現代にそぐわない異常な制度であるかが分かるのである。

天皇は、即位を拒む権利も、自ら辞める権利もない。

生まれながらにして、天皇として生きることが運命付けられている。

日本国憲法は基本的人権を定めているのに、天皇には人権すらないのである。

日本でも、そろそろ憲法1条を改正して、現天皇を「ラストエンペラー」にすべきではないか。

僕は安倍政権を支持しないが、憲法改正論者である。

話しが逸れた。

城の周囲の人々は溥儀が通ると、背中を向ける。

一般人は皇帝を見てはいけないのだ。

おそらく、天皇が現人神とされた戦前の日本でも同じような状況だったのだろう。

いや、戦後の日本でも、ある時期(と言っても、僕が物心ついた後でも)までは、映画等で天皇の姿を写さず、玉座か後姿だけだった。

ハリウッド映画で、ある時期までキリストを直接的に描かなかったようなものか。

溥儀と溥傑は無邪気に「鬼ごっこ」と言って走り出し、部下が後を追う。

滑稽だが、映像的には優雅で美しいシーン。

アーモの乳を吸う溥儀。

ちょっとおかしい。

彼は当時、10歳位だろうか。

以前、AKBの誰だかの写真集で、少年が彼女の乳を両手で隠しているとして、「児童ポルノだ」と騒ぎになったが、10歳の少年に成人女性の乳を吸わせたら、現代では確実に児童ポルノ扱いになって、監督が逮捕されるだろう。

で、「兄ちゃんは皇帝じゃない!」と溥傑が溥儀に言って、大ゲンカになる。

溥儀が、「皇帝である証拠を見せる」と、部下に命じてインクを飲ませる。

幾ら皇帝の命令は絶対だからといって、こんな不条理が許されるのか。

だが、溥傑が城の外へ溥儀を連れて行き、共和国大統領の車を指し示して見せる。

城外の人々は、最早溥儀にひれ伏さない。

溥儀は、城内でのみ皇帝なのである。

まあ、現代日本の象徴天皇のようなものか。

中国は共和制になった。

アーモが城から連れ出される。

溥儀は、「朕の好きな女だ!」と叫び、アーモを追い掛けて走る。

少年が乳母に恋愛感情を抱くというのは、フィクションならともかく、現実世界では、どうなんだろう。

それくらい、愛情に飢えていたということだろう。

城の庭は、最早草ぼうぼうであった。

これは実に象徴的で、いいシーンだね。

現代へ。

ここは人民局の政治犯収容所である。

戦前は、日本軍の監獄だった場所だ。

所長は怒りの演説を行なっている。

続いて、所長は自室で『紫禁城のたそがれ』という本を読んでいる。

回想。

共和制中国は腐敗し、軍閥の時代へ。

「取消二十一條」の垂れ幕を持ってデモ行進する学生達。

軍隊と衝突する。

安保反対のデモを弾圧する安倍政権のようだ。

一方、紫禁城には、イギリスから家庭教師のレジナルド・ジョンストン(ピーター・オトゥール)がやって来る。

城の「毒味役」というのが出て来るが、これも理不尽な職業だ。

たとえ高給を積まれても、こんな仕事はしたくない。

福島の原発の作業員みたいなものだ。

溥儀は、世界の皇帝の暗殺話しをジョンストンに聞く。

城外で何かが起きている。

銃声と悲鳴。

溥儀は、何があっても紫禁城から出られない。

溥儀は、ジョンストンから自転車の乗り方を習う。

母親がアヘンを飲んで自殺した。

溥儀は、母と弟に会いに行くと自転車に乗るが、城門を閉められる。

「Open the door!」と叫んでも、誰も言うことを聞かない。

溥儀は、「(母親に会いに)行きたい!」と屋根の上で騒ぐ。

西洋人の医師から、「メガネを掛けないと失明する」と言われるが、保守的な周辺は、「皇帝にメガネなどいけません」と言う。

メガネも掛けられないのか。

裕仁だってメガネを掛けていたのに。

しかし、時代は変わった。

溥儀は、ジョン・レノンのような丸メガネを掛ける。

そんな皇帝が、今や囚人なのであった。

この悲哀。

溥儀のお后選び。

何人もの写真を見せられる。

「モダンな女がいい。英語やフランス語が話せて…」

いえいえ、あなたのセリフが、既に英語じゃないですか(とツッコミたくなる)。

「朕は逃げ出したい。オックスフォードへ行きたい。」

溥儀は、17歳の婉容(ジョアン・チェン)を皇后に、12歳の文繍(ウー・ジュンメイ)を第2皇妃に選んだ。

相手は、「結婚相手も自由に選べなかった」と言う。

まあ、これも現代では考えられないだろう。

結婚は、基本的に両性の同意に基づくのだから。

けれども、皇室では、相手が母子家庭だとか、借金があるからと、結婚にブレーキが掛かる。

僕なんか、皇室じゃなくて、本当に良かったよ。

で、溥儀は、初夜にもお付きの者が付く。

そんなところにまで他人がいるなんて。

AVの撮影じゃないんだから。

プライバシーなんて、どこにもない。

婉容は、「きっとあの人を好きになるわ」と言う。

このセリフも、最後まで見ると、悲しいのだが。

しかしながら、現代(1950年)に戻ると、溥儀は「囚人981号」なのであった。

収容所の所長(英若誠)に尋問されながら、「君は反逆者そのもの、反革命そのものだ!」と激昂される。

まあ、歴史を振り返ると、革命を経ると、その前の権力者は、大抵、無惨に処刑されるのだが。

革命と言っても、結局は、権力の移譲に過ぎない。

再び、回想。

溥儀は、「朕の辮髪を自分で切る」と。

溥儀というのは、世界史の教科書にイラストで載っていたように、満州人の象徴なのだが。

これを切る権利もなかったのか。

「前の皇帝は、改革を望んで殺された。」

やはり、近代化と天皇制とは相容れないのか。

溥儀は、眠る時もピストルを持っている。

イヤだね。

寝る時くらい、ゆっくりと落ち着いて寝たいね。

婉容と文繍が寝床に入って来る。

3Pかよ。

『王様と私』もそうだったが、本作でも、一夫多妻制に対する蔑視が伺える。

西洋では一夫一婦制だからなのだが。

もっとも、僕も一夫一婦制の方が、夫婦は円満だと思うが。

嫁同士で嫉妬が渦巻く世界なんて、考えただけで面倒臭い。

その時、保管庫に火事が起こる。

宦官達が放火して、自らの使い込みを隠蔽したのだ。

溥儀は、800人の宦官全員を追放する。

現代(1950年)へ。

所長から、日本との関係を追及される。

再び、回想。

ついに、共和国政権は崩壊へ。

溥儀らは、紫禁城から追放される。

余談だが、本作では、セリフは英語なのに、書き物は漢字である。

ますます違和感。

第2皇妃の文繍は離婚を望むが、皇帝には離婚の自由もない。

ジョンストンはイギリス大使館へ連絡して庇護を求めるが、国際問題になることを恐れ受け入れず、結局、溥儀に手を差し伸べたのは、日本だけだった。

ここまでが前半。

さあ、これからどうなる?

歴史に翻弄された男の物語。

大河ドラマ。

壮大なスケール。

素晴らしい美術と衣装と、各国の豪華な役者を揃えた超大作。

もう、こんな映画は作れないであろう。

で、後半、日本軍が登場するが、彼らは日本語を話す。

日本人が日本語を話しているのに、中国人が英語って、おかしいだろ。

溥儀は、『TIME』の表紙にもなったんだな。

本作では、日本は完全に悪者である。

まあ、歴史的に見て、仕方がないんだが、日本人としては複雑な気持ちになる。

あと、アヘン中毒の描写が恐ろしい。

最後の方に、文化大革命で、「造反有理」を叫ぶ紅衛兵が出て来る。

当時の中国は、現在の北朝鮮と全く同じに見える。

監督は、コミュニストだったらしいので、反帝政の立ち場で本作を作ったのだろうが。

かと言って、共産主義の実験は失敗したと思う。

では、これからの時代、我々はどうすればいいのだろうか?

ラストは、非常に叙情的で、余韻があって、映画的である。

アカデミー賞作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣装デザイン賞、美術賞、作曲賞受賞。

1988年洋画興行収入1位(ちなみに、邦画の1位は『敦煌』。中国を舞台にした大作がヒットした年だったんだな)。

D