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2008-07-06

ニコニコ現実」のプロトタイプとしての「ニコニコ大会議2008」

 7/4に開催され、大盛況だった「ニコニコ大会議2008」。僕は一応出演者の一人でもあったのですが、開演から出演直前まで、(そして出演後もあわせて)2階の観客席で観覧していました。どうしても、このイベントは会場で絶対にナマで見ないといけない、と思っていたからです。そして、その直感は間違っていなかったと思います。そのことに関連して、どうしても一つだけ、触れておかなければならない感想というか論考のメモのようなものを書きたくなりました。以下、推敲を全くしていないので、かなり荒れている文章ですが、お許しください。

 ちなみに、当日のイベントは、本当に会場の熱気と臨場感があまりに圧倒的で、言語化しようとすればその全てが言い尽くせずに零れ落ちてしまうような、すばらしいものだったと思います。特に、運営の皆様、本当にあれはお世辞でも社交辞令でもなく、すばらしかったです。また、あのようなイベントが開催される日が来ることを、「ニコ厨」の一人として、願っています。


 さて、今回のイベントについて、各ニュースサイトによる報道では、やはり「MAD問題」や「夏野氏の顧問就任」といったあたりが――いきなり横道にそれますが、西村博之さんと夏野剛さんというお二方が今回同じ場所に並んだということは、ある意味で「必然」というか、実に興味深いことのように思われます。というのも、その二者というのは、「インターネットを日本社会に適した形にフィットさせる」(あるタイプの理想を持った人からは「フィットさせてしまう」と苦々しく見えるはずですが)という点で共通しているからです。この論点については、最近脱稿した原稿*1で詳細に論じたので、ここではこれ以上触れませんが――中心的に取り扱われていました。

 しかし、個人的に一番今回のイベントでポイントになると考えていたのは、「ニコニコ大会議」は、僕が以前「ニコニコ現実」と呼んだような状況の、いわばプロトタイプのようなものになるだろうな、ということでした。つまり、現実空間そのものにコメントがつく、という状況です(ちょうど当日の会場で放映されていた「ニコニコ動画(夏)」のCMに、まさに「電脳コイル」のようなAR技術でコメントを付ける、というムービーが流れていましたが、あのイメージですね)。

 一応、まったく知らない方のために説明しておくと、今回のイベントでは、

  • ニコ動ユーザ1万人向けに、リアルタイムで会場の様子が実況中継放送されていた。その中継映像には、通常のニコ動と同じく、コメントをつけることができた。
  • 上の中継放送+コメント付きの映像が、今度はそのままイベント会場に中継されていた。具体的にいうと、ステージ両脇に大画面があって、そこにほぼリアルタイムで(数秒遅れで)、コメント付きの映像が投影されていた。いわば「二重中継」というか「再帰的中継」の状態だった。
  • そして会場の観客は、ほぼリアルタイムで、いま目の前体験している会場の様子を、「ニコ動」のフィルタを通して数秒遅れで追-体験していた
    • ちなみに会場からはけっこうな頻度で、まさにニコ動的なツッコミや野次が飛んでおり、会場自体も「リアルニコ動状態」と化していた。いや、というか本来は「野次」のほうがもとから存在する現象であって、ニコ動がそれをネットサービス化した、というのが正しいんだけど、もはやその図式は完全に転倒していた。普通のイベントで、あれだけ野次が飛んでいたら、それは「異様」だと思うはずなのに、当日はけっこう「ライト」に受け入れられていたのは、それが普段から見ている「ニコ動」と同じようだ、と感じてしまっていたからに違いない。

 以上のような状況を、下のAscii.jpの記事はうまく伝えていると思います。

 二番目の記事にもあるように、まさに「主役は「ニコ動ユーザー」」という趣きだったと思います。

「はだかの王様 2.0」現象

 さて、こうした「リアルニコ動状態」と化したイベントで、最も印象を強く残したのは、イベントの最後に、観客もはけ始めた質疑応答のシーンで、MAD動画について質問した女子――そもそもこの子がMADについて質問したのも、コメントで「MAD」について訊け、みたいな書き込みが大量に出ていたので、それを「代弁」したにすぎなかった――に「MAD美女」とコメントがついたり、おじさんっぽい見た目の方に「ハゲ」とコメントが付いたり、中学生〜高校生くらいの子には「ゆとり」とコメントがついたりして――まあ、要するに「お決まり」のコメントがついたわけですが――、会場も爆笑の渦になった、というものでした。まあ、ステージ上の出来事にコメントが入るのは、ある程度出演者側も「覚悟の上」だろうからよいとして、質疑応答をする一般人にまで、容赦なくそんなコメントが入ってしまうのはどうなの、ということで、一部で話題になっています。

 以下、その話題の引き金になった記事から、引用します:

誰もが思ってるけど言えないこと、言わないように顔に出さないように気をつけていることを、そうさせている「その場の空気」が介入しない人達、の介入によって、「誰もが思っていること」は「そこに表示されていること」へ同質化してしまう。

その場に居ない、名前も姿も見えない単なる「意思」が、「ハゲw」とモニターに表示させることは、同じ人間なのに、全く違う意味と効果を持っている。それは誰のものでもない、「ニコニコ動画に関わる"みんなの意思"」になるんだと思う。

会場の人達は、参加しながらも、いつも通りニコニコ動画を見るように笑っている。パソコンの前の人達は、いつも通りニコニコ動画を見ながらも、会場に参加していて、会場の人達と同じことを考えている。ただ違うのは、考えたことがそのまま文字という「大声」になってしまうところ。「大声」を発しても、誰にも変な目で見られない、「ネット」で保護されているから何も恐くない。脊髄反射的なネットからのコメント書き込みによって、会場の人達の頭の中を代弁する。会場の人達は、代弁されてしまった以上、もう黙って耐える意味もないので、笑ってしまう。いつもニコ動を見るときと同じようにゲラゲラと。

 また、事の真偽は分かりませんが、会場で「ハゲ」といわれたおっさん、と名乗る、はてな匿名ダイアリーエントリもあります。その真偽は横に措くとしても、描写も巧みで秀逸な記事になっていると思います。

ハゲ言われたおっさんです。

童話の「はだかの王様」って、せいぜい数百人の国民の前で、子供一人から「王様は裸」って言われただけじゃない?

こっちは10000人+2000人の前で、何十人から「おっさん」「ハゲ」呼ばわりされて、2000人から大笑いされたんだから、

これは王様より凄いんじゃね、と思う。

このリアルタイム性&匿名性を持った告発者の発言、実際に受けてみると、

率直に言ってかなり面白い。

別に強がりとか自虐とかでなくて。だって、考えてみてよ、可視化された率直な感想の、リアルタイムな集合体を、

芸能人や政治家みたいな有名人ではなく一般市民の立場で世界初で見ることが出来たんだよ。

パラダイムシフトが起きた瞬間を体験出来た人間が、世界中にどれだけ居ると思う? そのパラダイムシフト

体感出来たのは、世界でオレだけだと思うし、実際のところ見てて自分でも面白がれた。

 まさにあのときイベント会場で起こっていたのは、いってみれば「はだかの王様 2.0」的な集団心理的現象だったと思います。通常であれば、それこそ「空気」のようなものとして、つまり目に見えなければ口に出されることもないような「みんなの思い(意思)」が、コメントという形で目の前に可視化=現前化されてしまう。その瞬間、あたかも始めから、その場にいる誰もがそのように思っていたかのような状態が生み出される。本当は、別に誰もその認識対象を「美女」「ハゲ」「ゆとり」などとは思っていなかったかもしれないのに*2

 少なくとも、僕の場合はそうでした。だってそうでしょう。電車に乗って、いちいちおっさんを見て毎回「あ、ハゲだ」とか心の中で思いますか? 思わないですよね。もちろん時と場合によるけれど、そんなこといちいちツッコミを入れたら疲れてしまう。まあ、かわいい子の場合は「あ、かわいい」とか思ってしまうかもしれないけれど(苦笑)。でも、誰かがそこに「ハゲ」とコメントをあらかじめつけてたらどうか? 思わず、吹いてしまうかもしれない。それこそ「空耳」のように、もう何があっても「ハゲ」のところにしか目が行かなくなってしまうかもしれない。……

#ちなみに、これはInterCommunicaitionの鼎談記事でもしゃべったことなのですが、僕がニコニコ動画を常々すごいと思っている点の一つに、「空耳」的なメカニズムの妙というか、なんとまあ人間が「文字」を認識する速度はすばやいのか、というものがあります。目の前の現実と、それを記述する文字が同時に(重ねて)表示されると、まず人は目や耳で現実を認識するよりも先に、一瞬でまず先に文字の側を解釈してしまって、その言語的ラベル(フレーム)に従って現実を認識してしまう。今回のイベントは、まさにそれが現実空間上で起きてしまった一例だったといえるでしょう。

ニコニコ現実」の到来に準備する

 こうした集団心理の可視化現象の「気持ち悪さ」については、すでに津田大介さんが簡潔なコメントをTwitter上で書かれています。

ニコニコ大会議おもしろかったけど質疑応答時、質問者を画面に映してその容貌がニコ厨から集中砲火されてる(そして質問者がそれをリアルタイムで見る)の見て気持ち悪くなった。トラウマになるよあれ。「それがネットの面白さだから」で済ませられるならネットなんて早くなくなってしまえと思う。

 トラウマになるかどうかまでは分かりませんので、ここで即断することは避けますが、ネガティブポジティブかはともかく、少なからず「強烈な印象」を残すことは間違いないと思います。ベタなことをいうようで恐縮ですが、言葉の力はすごいもので、何気ない冗談的コメントを付けられただけでも、人の心理には強烈に焼きつくものです*3

 むしろここで考えておきたいのは、「ネットなんて早くなくなってしまえ」といくら言い放ったところで、それは決してなくなることはないだろう、ということです(もちろん津田さんも、そのことは承知でおっしゃられていると思うので、これはあくまで修辞的なツッコミです)。むしろ、「「それがネットの面白さだから」で済ませられ」てしまうからこそ、ますますそのようなコミュニケーションシステムは人々に欲望され、いつまでも生き残ってしまう。もちろん、それこそ何らかの法的・政治的権力の介入を通じて、そのシステムの息の根がたたれることはあるかもしれませんが*4、一度植えつけられてしまった人々の欲望まで完全に抹消することはできない。だから僕には、いいか悪いかの判断は別として、もうそれは避けることができないと思っています。しかし、だからこそ、「ニコニコ現実」的な仕組みがいつか本当に訪れたとき、私たちはどうなるのか/どうすればいいのかを、いまからシミュレートして考えておいても、それほど無駄ではないと思うんですね。

 方法は、ざっと現時点で3つあると思います。

もちろんこのリストは網羅的なものではありません。以下、順に思いつくままに書いていきます。ただし、1点目と2点目は次項でまとめて書きます。

儀礼的無関心」論争を想い起こす

 「あ、かわいいな」「あ、ハゲてるな」「あ、なんかガキがいるな」みたいなことは、ふつう、心の中で仮に思ったとしても、口に出すことはしないものです。もちろんそんなことを直接いうのは《失礼》にあたるから、それこそニコ厨用語じゃありませんが、「自重」するように人はしています。仮に、相手に向かって聞こえるように言わないにしても、思ったことは直接口にはしない。それ自体が「ガキっぽい」ことだと思われるから(そしてそんなことを思われるのは、少なくとも「大人」であれば自分の評価や体面を著しく引き下げることに繋がるので)、そういうことは表に出さないようにするわけですね。

 こうした「自重」の心理は、社会学者A.ゴフマンの「儀礼的無関心」と呼ばれるものにあたります。街中や電車の中といった公共空間(不特定多数の人がいる空間)では、人は互いに目線を合わせない(合ってもすぐにそらす)というように、「互いが互いに関心を持っていないんですよ」というポーズを儀式的に取るようにしている。つまり、なるべく思ったことは表面に出さない。あくまで無関心を装うのが礼儀である、と。

 この言葉を出したのは理由と背景があります。「儀礼的無関心」というのは、かつてブログ上の「無断リンク問題」をめぐる論争で、まさに同じような文脈で使われた言葉です。しばしばネット上の論争や議論というのは、「その歴史が蓄積される」ということ自体が難しいし無理なんだ、ということがいわれてしまうのですが、個人的には、「儀礼的無関心」論争はとても重要な論争事例として、記憶されるべきものの一つだと思っています*5

 「儀礼的無関心」という言葉が提起された背景は、こういうものでした。あるところに、ひっそりと書かれていた日記サイトのようなものがあったとする。で、別の人が、「この日の日記が面白いんだよ」ということで(無断で)リンクを貼ってしまう。つまり、思わず口に出してしまう。すると、そのリンクされたことに気づいた側は、ひっそりと書いていたつもりなのに、たくさんの人に読まれるのはいやだということで、その日記を消してしまう。あるいはサイトを閉鎖してしまう。……これはあまりハッピーじゃないので、「儀礼的無関心」、つまりリンクを自重するという作法が僕たちには必要じゃないですか、という問題提起が行われたわけです。ただし、結果としては、こうした作法が現在広く共有されるようになったとは、もちろんいえません。

 ちなみに、この論争の数ヶ月後にあたる2004年2月にmixiが登場したことは、僕には単なる偶然には思えなかったりもします。なぜならそれは、「足あと」機能を有した、すなわち無断リンク(一方方向的なリンク)」の存在に、リンクされた側もすぐさま気づくことができるアーキテクチャだったからです。つまり「儀礼的無関心」ならぬ「強制的関心」型のアーキテクチャとでもいえるでしょう*6。いいかえれば、「儀礼的無関心」という規範的作法は、人々の間に共有(内面化)されたのではなく、むしろアーキテクチャに埋め込まれたのだ、と。

 さて、そのような昔話をすることがこのエントリの目的ではありませんでした。本題に戻りましょう。今回の「ニコニコ大会議」における、MAD美女/ハゲ/ゆとりコメント問題は、僕の考えでは、遠くない将来、こうした無断リンク禁止問題と同様の構造を持つことになると思います。要するに、現実空間で「そんな失礼なコメントを付けるな」という「儀礼的無関心」型規範を主張する側と、「いや、仕組み上は、コメント付けられるのがもはや当然なんだから文句いうな」と主張する側の対立です。

 もちろん、まだニコニコ現実という仕組みは現実には存在しません。WWWは、確かにリンクを付けるということが当たり前にできる、というかそれをやるためにつくったようなものだから、「無断リンクなんて、してナンボがWWWなんだから文句いうな」という主張を通すことが、むしろ「自然」に見えるところがあった(環境自体がそういう仕組みになっているんだから、それに文句をいうな、という主張に正当性が宿りやすかった)。でも、ニコニコ現実はそうじゃない。現実空間にいきなりその場でコメントをつける、などという仕組みは、少なくともいままでの現実には存在しません。

 しかし、今回のイベントは、まさにそのテストベッドのようなものだった。そして、そこで何が起きるのか、あのイベントに参加した「私たち」――という限定的な言い方になってしまうことをどうかお許しください――は「知ってしまった」。その圧倒的で魅惑的なまでの面白さを「知ってしまった」。

 だから、「未来」の視点からこう語ってしまうことだってできる。これまで、私たちの社会は、端的に「ニコニコ現実」のような仕組みを持っていなかった。つまり公共的空間において、思わず「思ったことを表面化してしまう」という行動を取ってしまうことは、比較的、自重=抑制しやすかった。なぜなら人は、口の音声出力能力も、耳の音声入力能力も、皆だいたい同程度で近距離範囲に限定されていて、とりあえず押し黙って目線を向けなければ、それだけで「儀礼的無関心」と呼ばれるようなモードを実現することができた。でも、その公共空間の自然条件(環境条件)とでも呼ぶべきものは、もはやニコニコ現実的システムによって崩されてしまった――というような近未来を想像することができる。

 それでも、もし「儀礼的無関心」なる慣習を残そうとするのであれば、たとえばコメントをこっそり書き込む=口に出すことが難しいと感じるようなアーキテクチャ(環境)を、別途配備する必要が出てくるでしょう。ここではこれ以上のシミュレーションは行いませんが、あの日の体験を下に、こういった思考をめぐらしておくことは、無駄ではないように思います。それこそ、先日の秋葉原の事件のようなことが起きた際に、単にリアルタイムで実況中継が行われるだけではなくて、リアルタイムで見る側がコメントを付けるようになる日は、それほど遠くないように思うのです。

芸人化社会の到来?

 さて、最後に、3番目の「人格システムをいじる」という点についても若干触れたいと思います。要は、何かぐさっと来るコメントを受けて「トラウマ」になるくらいなら、先にそうならないような防衛的機構を心理上に走らせる、というパターンですね。端的にいってしまえば、「解離」の作法が、ますますプラグマティックなものとして浸透するのではないかと思います。精神分析はもちろん詳しくないので、適当な物言いになってしまいますが、いわゆる多重人格(解離)は、幼少期に受けたトラウマが原因となっている、などともいわれます。「あれは『自分』が受けた仕打ちではないのだ」と自分を複数に切り離してしまう、というわけですね。それと同じことで、「何をいわれたとしても、それは本当の自分についていわれたのではなく、自分がコメントを付けられるようにつくっておいた『キャラ』に言われたことなのだ」「普段の自分は別のところにいるのだ」と自分の中に距離をつければいいのだ、というのがこの3番目の対策法です*7

 これは、要するに分かりやすくいってしまえば、(そして寒々しく聞こえることを恐れずにいえば)「総芸人化社会」のようなものといえるのかもしれません。まあ、別に「ニコニコ現実」などなくても、すでに前から日本社会はそうなっているフシがあると思いますし、だからこそ2chもテキストサイト文化もニコニコ動画も生まれてきたのだ、というほうが事の順序としては正しいのでしょう。たとえば……必ず、「キャラ」をつくって、なんらかの場に臨む。望むことは、より多くのリアクションとツッコミが入ることであって、一番避けねばならないのは無反応。むしろ叩かれるのは「オイシイ」ことであって、場がシラけるよりは、いっそ炎上するくらいのほうがいい(「炎上マーケティング」なんて言葉も一時期ありましたが)。……ここでは、そういった感受性一般のことを指しています。「お笑い芸人」という職業は、それこそプライバシーの切り売りという側面*8も強いわけで、ライフログ時代の人格システム運用法をいち早く実践してきた職業(梅田望夫風にいえば「ロールモデル」?)だとすらいえるのかもしれない。

 ちなみに、蛇足ですが、今回僕は「ちょw」Tシャツなどという、まあ、大変に「ばかげた」ものを作成したわけですが、パネルトークの冒頭では、ひろゆきさんから「なんでそんな若手芸人みたいなことするんですか!」とツッコミが入りました。でも、これはまさにそういうことなんだと思うんですね。ニコ動的空間の前に現われるということは、あらかじめツッコミが入ることを想定した上で、ボケを仕込むという振る舞いへと人をいざなう(そもそもひろゆきさんと夏野さんのトーク自体が、「これってどんなお笑いライブ?」状態だったわけですし)。また、僕も普段からよく見ている、優れた作品を制作する「P」たちの中には、あらかじめどのようなコメントが入るのかを想定した上で、それを逆手に取って動画を制作するようなスタイルが見られます。今回僕は、そうしたニコ動に作品をアップする人たちの心理を自然トレースしてように思います。

 ただ、「舞台裏を明かす」という意味では野暮なことをいうと、一応あれは笑いを取るだけが目的ではなくて、「ちょw」という文字に「ちょw」というコメントが付く(そして少なくない人がそれに「ちょw」と思ってしまう)という、いわば《再帰的「ちょw」状態》(?)を作り出すことで、「ニコニコ現実」的状況を端的に示せればいいな、と思ってあれをやりました。「ちょw」というコメント自体が受けてしまうというのは、おそらくニコ動を見ない人から見れば、全く面白くもなんともない、かなり気持ちの悪い「内輪ウケMAX」の光景だったはずで、そういう光景がつくれれば、なんらか「ニコニコ現実」に対する批評的な一石を投じることができるかなあ……などという、訳の分からないことを考えていたりもしたのでした。……蛇足にて申し訳ありません。

追記(7/7 04:12)

 上の記事をざっと読んでみて、けっこう否定的あるいは悲観的なニュアンスが強めで読まれてしまうかもしれないと思ったので、基本的な僕のスタンスについて改めて書いておきます。僕は基本的に、今回のイベントはとてもすばらしいものだったと思っています。ニコニコ現実という話にしても、僕はあくまでそれを基本的には肯定的に受け止めたいからこそ――なんていうと、オプティミストのバカだなどといわれてしまいそうですが――、いまから積極的にこの問題を考えておきたい、という立場から発言をしています。

 また、ネットの一部では、すでにこの件を「いじめ」として断じる人たちも次々と出てきているようです。しかし、これはあくまで個々の主観的な印象によってブレが出てきてしまうので、永遠にこの手の論争には決着がつかない、ということはじゅうじゅう承知の上でいえば、当日この会場にいた主観的な印象では、ちょっと「いじめ」と呼ぶのは少し言葉が強すぎるのではないかと思っています。これは大変にセンシティブでややこしい問題で、本来の「いじめ」問題にも同様の問題がまとわりつくわけですが(いわゆる、《周りはいじめているつもりはなくても、いじめられている側は著しく傷付いていた》といった解釈のズレをめぐる問題のことを、ここでは指しています)、基本的に当日の雰囲気は、「いじめ」というよりは、お笑いでいうところの「いじり」くらいの感覚に近く、少なくとも「いじめ」という言葉が一般にはらんでいるような、過剰で息苦しいまでの陰湿な雰囲気とでもいうべきものは、当然ではありますが、この質疑応答のときには流れていなかったです。基本的には、「笑って流せる」ような雰囲気だったということです(そして実際に笑って流されていった)。しかしもちろん、もともとの議論の出発点は、「本質的には『いじめ』なのに、それを笑って済ませてしまうような雰囲気があったからこそ、なおさら『気持ち悪い』のだ」という問題提起だったわけで、その見解もよくわかります。ただ、当日の会場は、決してすべてを笑って済ませようとするお笑いファシズム的空気が蔓延していたというわけでもなくて、ちゃんとコメントの中には、「そんな失礼なこというなよ!」と普通にたしなめる良心的なコメントもあったことは、改めてこの場で強調しておきたいと思います。

 とはいえ、この問題は結局、次のような問題に帰着します。「当日の会場の雰囲気」などという文脈情報は、その場に(同期的に)参加していなければ感受・共有できないもので、言葉で表現したとたんにこぼれて落ちてしまう、という問題のことです。「いじめって雰囲気でもなかったですよ」とどれだけ言葉で明示的に言いつくしたとしても、絶対にそれは総体的かつ確定的に記述できない。これは、別に今回の件に限らず、おおげさにいえば、言葉を使う人間社会に一般にみられる問題です。ただ、今回の「ニコニコ大会議2008」が新しかったのは、改めて確認しておけば、「当日の会場の雰囲気」という文脈情報が、常に数秒遅れのコメント付き実況画面で、常に言葉を使って顕現化されていた、ということです。つまり、これまでの社会であれば「言葉にならないもの」だったはずのもの(雰囲気や空気)が、「言葉」によって常に前面化していたということで、これは十分に考えるに値する出来事です。これはおおげさにいえば、「言葉」や「社会」といったもの条件そのものを、大きく変えてしまう可能性を示唆しているように思われるからです。

 また、こんなことをいうと炎上必至かもしれませんが、少なくとも僕から見れば、今回の件を、あの場に参加もしていないにも関わらず、どこかそのへんのレポート文章を読んだだけで、「いじめ」として即座に断じてしまう人々の側こそが、「いじめ」と同じカスケード的構図に加担しているようにも見える、ということは、あえていっておきたいと思います。いや、さすがにこれは僕の側からも、ちょっといいすぎだとは思うのですが、あえてこんなことを言いたいのはなぜかといえば、もしこう言われたことでムッとされた方がいたとしたら、それだけ「いじめ」という言葉は強い否定的なレッテルを張るイメージを喚起するのだ、といったようなことをできれば理解してほしいと願うからです。また、僕から見れば、「いじめ」とまではいかなくても、ほとんど今回の件を断じる声というのは、「PTA的ヒステリー」というか、「テレビのバラエティは『いじめ』を助長するから放映するな!」とヒステリックに叫ぶ大人たちと、同じ振舞いをやっているように見えてしまうところがあります(ニコ動のコメント文化は、明らかに日本のバラエティ番組のテロップ作法から引き継いでいるものが多々あるので、これはあながち的外れな比喩でもないのかもしれまんせんが)。そして僕は、そんなにニコ動文化圏を「いじめ」て、楽しいんですか、と思ってしまいます。少なくとも僕は、上の文章を、ニコ動文化圏を否定したくて書いたのではありません。どれだけ、ニコ動文化が、くだらなくて低能で能天気なものにしか見えなかったとしても、僕は基本的にそれを擁護するつもりです。そのつもりがなかったら、こんな文章はアップしないですし、そもそも件のイベントにも出演していないでしょう。

 とはいえ、何も僕は「いじめだ!」と今回の件を断じている皆さんに向って、ケンカを売りたいのではありません。もちろん、その主張は十分にわかる。わかりすぎるくらいです。わかるからこそ、今回のエントリのように、長々と反応した次第です。ちょっとあまりに感情的すぎる追記になってしまったかもしれませんが、とりあえず以上で終わります。

*1:8月末刊行(予定)の某誌に掲載予定です。詳細はまた後日。

*2:ちなみに、僕の考えでは、ニコニコ動画の(疑似)同期的コミュニケーションは、こうした「共通知識」≒「第三者の審級」(大澤真幸)の立ち上げを実現してしまう儀式的体験装置なのだ、ということはWiredVisionの同期性考察編でも論じたとおりです。

*3:さらに適当なことを書いてしまいますが、もともとはただの動物に過ぎない人間は、常に(物理的な意味での)「鏡」を見ながら自己チェックをして生きていくわけにもいかないので、「自己」(一貫した自分)というものを自分で自分に(内語的に)語りかけることでチェック&コントロールしている、と考えることができます(お好みであればそれを「再帰性」といってもいいのですが…)。で、問題は、その内語システムの中に他人の言葉が入ってくると、いきなり自己イメージがゆらいでしまうということです。よくマンガアニメだと、ぐわんぐわん頭の中を文字がうごめいて……という描写がありますが、まさにあれです。他人の言葉と自分の言葉は、ある任意の心理システムの内部において、ネットゲーのアイテムのようには、明確なプロパティ(所有権なり装備可能条件なり)を区別することはできない。だから、自分の言葉と他人の言葉は、容易に、がんがん混ざってしまう。むしろその言語が混ざってしまうというところが、精神分析的には人間の条件をクリティカルに条件付けているともいえるでしょう(いわゆる「無意識言語のように構造化されている」)。

*4:MIAUのinflorescenciaさんにコメントをいただいたので、追記注釈でリファーしておきます。→http://inf.tumblr.com/post/41186583 引用すると、「いや、その「法的・政治的権力の介入を通じて、そのシステムの息の根がたたれる」というのがリアルに起こりかけたのが数ヶ月前の青少年ネット規制法だったわけで…(しかもサービス単位でなくインターネットの息の根)。あれは素案のまま通過していたら、18歳未満の見るネットはもう私たちの知る「インターネット」じゃなくなっていたかもしれないんだよ? 」とこの部分にコメントをいただきました。いまさらこんなことをいっても詮無いかもしれませんが、もちろん、僕は、ここでそのことを念頭に置いて書いていました。でも、ここでは少しぼやかしたような(直接かの件には触れないような)書き方をしてしまったので、直接この問題について真摯に取り組まれている方からみると、僕のこのような書き方は、それこそ能天気で危機感がないものに見えてしまったかもしれません。その点は率直に申し訳ないというか、ふがいないと思う次第です。/inflorescenciaさんも引用されているように、津田さんがTwitter上で例のエントリの後に続けて、「結局はそのへんも匿名トレーサビリティーもしくはID一義性とコミュニティの湯加減をどうするのかって話に行き着くんだろうけど。ここから3年間が大事なのに、ああいうのが台頭してくるようになるとネット規制したい側の思う壺だよなぁとも思った。壺カルチャーだけに壺になるという話か。」とつぶやかれていますが、それこそ「思う壺」にしないために、僕も一連のエントリは書いているつもりです(なんか意図表明ばかりで申し訳ない)。それに、これはイベントの場でもいったのですが、僕はニコ動を「壺カルチャー」=つまり、まだ世の中にぜんぜん知られていない、とひしひしと思うと同時に(まさに今回の件がはからずもそれを象徴してしまった)、なんとかしてそれを外の世界に「開きたい」――といっても、それはみんなニコ厨になればいい、などということではまったくなくて、なんとか社会と折り合いをつけて、それはそれとして受容されていけばいい――と思っています。もちろん、それはまだこれからの課題だから、ここですぐにどうのこうのいえる問題ではないとは思いますが。

*5:興味はあるけど当時のこの論争を知らないという方は、北田暁大さんの『意味への抗い』に収められている論文をあたるとよいと思います。

*6:あるいは、「日記の公開範囲」機能で、誰からリンクされるか(読まれるか)を制御可能という点を挙げてみてもいいでしょう。たとえば鈴木謙介さんは、この問題について、当時次のように整理していました(現在サイトは閉鎖されているので、リンクは割愛します):「Blog等に関する「リンクトラブル」の原因は、Webでプライベートな日記を公開している人が「誰にリンクされるかを選びたい」というケータイ的なネットワーク感覚で公開しているにもかかわらず、blogなどのアーキテクチャがそのニーズに適切に応えられない点にある。」ちなみにこの文章には、「儀礼的無関心」という規範=ルールを共有するという方向性は、基本的に無理だよ、アーキテクチャで解決するしかないよ、という意味も込められていたのですが、いま上の文章を読めば、どこからどうみてもこれはmixiの登場を予言しているようにしか見えない、と思うのは僕だけではないはずです。

*7:たとえば、ひろゆき氏自身は、『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか』の中で、メディアに叩かれることについて、まさに上のような「対策」(という言い方はしていませんが)を取っていると自ら語っています。

*8:太田省一『社会は笑う』によれば、それはひょうきん族の明石家さんまから顕著になったらしい。

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