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濱野智史の個人ウェブサイト@hatena

2009-09-07

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』論考

 7月頃、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 」に関する原稿を書いたのですが、諸事情につき刊行されない運びとなったとのことなので、せっかくなのでウェブサイト上にアップしたいと思います。約8,000字です。


 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(以下、『新エヴァ』と略す)の総監督である庵野秀明は、いまから約三年前にあたる二〇〇六年の九月に、同作品を制作するにあたって「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」と題された所信表明を公開している(注1)。そこでは次のように書かれていた。なぜいまエヴァの再映画化を手がけるのか。それは「疲弊しつつある日本のアニメーションを、未来へとつなげたいという願い。蔓延する閉塞感を打破したいという願い」を実現するためである。もちろん、いまさら十年以上も前の作品を映画化するのか、という思いはある。事実、「エヴァはもう古い、とも感じ」る。しかし、庵野はこうも断言している。「この一二年間エヴァより新しいアニメはありませんでした」と。

 旧エヴァンゲリオンがTV放映された一九九五年から、「エヴァより新しいアニメ」は存在しなかったということ。その命題の真偽についてはここでは問わない。ただし、「エヴァより新しいアニメが存在しない」ということが果たして何を意味するのかについては、もう少し具体化しておく必要があるだろう。それはとりわけ九五年以降の日本のサブカルチャーを席巻した二つの動向、すなわち東浩紀の用語系を参照するならば、物語形式としては「セカイ系」、消費形式としては「データベース消費」の二つを塗り替えるようなものが、およそこの十年間《ルビ:ディケイド》にわたって登場しなかったということを意味している(注2)。

 それはどういうことか。九五年以降、日本のサブカルチャーにおいては、程度の差こそあれ自閉性・内向性の強い(デタッチメントの度合いが高い)物語が好まれ(=「セカイ系」)、消費者たちは作中に登場する魅力的なキャラクターたちを二次創作的に組み替えることで、本来の物語とは無関係に膨大な平行世界を生み出し続けた(=「データベース消費」)。東が『動物化するポストモダン』で示した枠組みを再度借りれば、もはや虚構作品はイデオロギッシュな「大きな物語」を反映するための器としては機能しえず、現代の虚構作品は「大きな非物語としてのデータベースが、無数の小さな物語の生産流通体制《ルビ:プラットフォーム》として機能する」という二層構造として捉えられる。いうまでもなく「エヴァ」という作品は、そのような二層構造をきわめて明確に私たちの社会に顕現させた存在として記憶されている。

 しかしそれでは、庵野は今回の『新エヴァ』の制作によって、何をどのように刷新しようというのだろうか。ひとことでいえば、それはエヴァが全面化させたものであるところの「データベース消費」の形式を一手に引き受けることで、「セカイ系」の物語を終了させること、これである。それは手法的には、原作者(一次創作者)による「二次創作」という形で(注3)、かつての一次作品に込められた意味内容をすべて《反転》させるという手続きをとっている。

 その手続きを、ここでは二点にわたってより具体的に見ていこう。それは『旧エヴァ』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下、『エヴァ破』と略す)における、綾波レイ碇シンジの扱いの変化である。『エヴァ破』の終盤では、最強の使徒ゼルエルに飲み込まれたレイを、初号機に乗った碇シンジは救済へと向かう。ここで注目すべきは、エヴァ初号機の暴走を促す因子である。旧作ではユイに「取り込まれる」という形で初号機は暴走モードへと至るのに対し、今作では「僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい。だけど綾波は、せめて綾波だけは、絶対助ける!」という自らの「願い」を叶えるべくして、シンジエヴァ初号機を暴走させる(ちなみにこの一連のシークエンスでは、ミサトが「行きなさいシンジ君! 誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために」と実況しているが、ここでの「願い」という言葉は、ゼルエル戦前碇ゲンドウが追放されるシンジに向かって放つ科白、「自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現させるものだ。他人から与えられるものではない。シンジ、大人になれ」を明白に受けたものとなっている)。すなわちここには、エヴァの暴走というイベントが、旧作では「受動的」だったのに対し新作では「能動的」なものへと《反転》させられていることが確認できる(反転1)。

 この直後、シンジはレイを救済すべく、ゼルエルの内部でうずくまるレイに対し叫びかける。するとレイはその救済を、あの有名な言葉とともに一度は拒絶する。「いいの、碇君。私が消えても代わりはいるもの」と。レイの周囲を取り巻く、複数のプチ・レイたちもその言葉をリフレインする。しかし、シンジはその拒絶を即座にはねのける。「違う! 綾波綾波しかいない!」と。ここに込められた《反転》はいうまでもなく明らかである。そもそも綾波レイというキャラクターは、「虚構世界においてキャラクターの身体はいくらでも複製・変形可能である」という条件を露悪的なまでに具現化したものだった。レイの存在が画期的だったのは、たとえばテレビ版第弐拾参話で水槽に浮かぶ無数のスペアパーツとしてのレイたちに《不気味さ》を感じると同時に、現実世界では無数のレイの二次創作フィギュアといった派生的消費財《ルビ:スペアパーツ》を何の《不気味さ》も感じることなく享受することができるという、私たちの「ダブル・スタンダード」的な感受性をあからさまにした点にある。しかし、今作のシンジはレイの交換可能性を否定し、彼女の固有性を主張する。すなわちここには、旧作では「交換可能」で「複数的」だったものが新作では「交換不可能」で「固有的」なものへと《反転》させられていることが確認できる(反転2)。

 以上の二点を確認しただけでも、今作に込めた庵野の意図は明らかであろう。そこで遂行されているのは、旧作の意味内容を、ことごとく今作では《反転》させるという形式的な操作なのであり(よく知られているように、制作者側はその操作的意図を強調するべく、今作を「リメイク」ではなく「リビルド」と区別して呼んでいる)、旧作にはりめぐらされていた「セカイ系」的な物語の系列をすべて否定し、きわめてポジティブキャラクター像とその成長物語を打ち出すことが意図されている。繰り返せば、そこでは一次創作者自らが原作に張り巡らしていた諸要素を、二次創作を通じてマイナスからプラスへと一挙に変換するという価値転換が行われている。今作でのリツコの科白を使っていいかえるならば、いわばその庵野の形式的操作は、旧作と新作の両者をあたかも「相補性」の関係の下に配置することで、「エヴァ」という作品全体を十数年という時を超えて「凝縮体に変身させ」る試みということができるだろう。

 さて、しかし筆者の感想はといえば、今回「凝縮体」となるべくして制作された『新エヴァ』に、それこそ覚醒した初号機のような「神に近い存在」とでもいうべき凄みを感じることはなかった。それはなぜか。あまりにも今作に仕掛けられた操作が形式的で、単純なものに感じられたからだ。たとえば今作では、碇ゲンドウと冬月がセカンドインパクトの爆心地を見下ろしながら次のような言葉を交わしている。「私は人で汚れた混沌とした世界を望むよ」「カオスは人の印象に過ぎない。世界はすべて調和と秩序で成り立っている」。社会学的にいいかえれば、人と人の「ダブル・コンティンジェンシー(二重の偶有性)」こそがカオス、すなわち予見不可能で複雑な秩序をもたらす。しかし今回の『エヴァ破』にはそれがない。すなわち前作からの明白なまでの反転操作が施された結果、それは「すべて調和と秩序で成り立っている」との印象を禁じえないのである。

 あるいは建築家クリストファー・アレグザンダーの言葉を使えば、『エヴァ破』は「セミラティス」ではなく「ツリー」として構成されているといってよい。つまりそこにはアーキテクトが意図した以上の要素間の結合ないしは集合関係が存在せず、諸要素の関係は整然とした二項対立として、トップダウン式に設計されてしまっている(真希波・マリ・イラストリアスという新キャラクターの存在も、『エヴァ破』ではセミラティス的な結合には至っていない)。よって今作には、各要素は予見も理解も不能だが、その要素の数ホップ先には「何か」があると感じさせるようなコンティンジェンシーの豊富さ・濃密さを感じることはない。

 もちろん、『新エヴァ』シリーズはまだ二作の新作を残しており、次に予定されている『急/Q(Quickening=胎動)』以降の展開を待たなければ、その正当な評価を下すことはできない。ただその一方で筆者が興味深いと考えるのは、『新エヴァ』における「庵野秀明」という固有名/アーキテクトの機能とでもいうべきものである。

 すでに述べたように、旧作と新作の間で、庵野は物語の意味内容を反転させている。おそらく『エヴァ破』の観客の多くは、先に紹介したシンジがレイを救うシーンに心を揺り動かされたことだろう(実際、ウェブ上にはその種の感想が溢れている)。しかし、そこで生じている感動は、庵野という固有名によって構造的に支えられている。というのもそこでの感動の内実とは、「あの一次創作者であるところの(そしてシンジの分身であったところの)庵野が、ついにレイという一人の不幸な少女を、固有性なき交換可能で酷薄な世界から救い出してくれた」というものであり、いいかえれば「しょせんファンどうしの二次創作では救いきれなかったレイの魂が、ついに新作フィルムという固有の形で補完されるに至った」というものだからだ。つまりそこでの感動は、ラジカルな価値反転を遂行した主体としての作者の存在によって支えられている。おそらくその情動の大きさは、一次作品から二次作品が産出される過程で、どれだけ多くの価値要素がラジカルに反転させられているかの度合いによって、ほとんど初等算数レベルの数式で表すことができるだろう。その限りにおいて本作は成功しているし、東のいう「データベース消費」、あるいは筆者の言葉を使えば「N次創作」の全面化した現代社会、つまりあらゆるのものが「MAD」可能なものとして受け止められる状況において、いかに作者の固有性を発露させるかという戦略の一パターンとして把握できる(注4)。

 しかし、筆者が本稿で最後に検討してみたいのは、それとはまた別の議論である。『新エヴァ』が「セカイ系」的なものを破り捨てたとして、そこには何が残ったのか。「セカイ系」のもともとの定義を参照したとき、果たしてそこにラカン精神分析がいうところの「象徴界」的な社会性の復活があったのかといえば、無論そうではないだろう。では何があったのか。それは筆者が専門とする情報系のタームを使えば、「繋がりの社会性」(北田暁大)であったということができる(注5)。

 とりいそぎ表面的な確認をしておけば、今回の『エヴァ破』が従来のエヴァシリーズと顕著に異なるのは、携帯電話というメディアの存在である。『エヴァ』の世界では、セカンドインパクトによって地球生態系は致命的なまでに破壊されているが、携帯電話を通じたコミュニケーションのエコシステムは全く破壊されていないどころか、むしろ私たちのこの現実世界と遜色のないレベルで復旧されている。たとえば冒頭近く、シンジがゲンドウに電話をかけてみるシーン(ここでゲンドウは電話に出ることはないが、そもそもシンジがあのゲンドウの番号を知っているということは驚愕に値する)。あるいはアスカがレイとシンジたちの食事会を慮って、参号機へ搭乗する意志を伝えようとするシーン。またはアスカが参号機に搭乗する前にミサトに秘匿回線で通話するシーン。ここでは、アスカケータイを通じてあまりにもたやすく社会性を発揮していることが確認できる。あるいはシンジネルフおよびミサトの家から離れるとき、トウジたちからの不在着信が残ったケータイを置き捨てていくシーン。ここでは、シンジがこれまで背負っていたものとしての友情関係が、ケータイというメディアを通じて極めて客観的に示されている。これまでのエヴァ作品では、シンジであればウォークマンアスカであれば人形やゲームといった「自己内閉的」なメディアに耽溺していたのに対し、今作では登場人物たちを社会性へと導くための劇中装置として、ケータイが重要な役割を果たしているのである(ちなみに『エヴァ序』では、ラミエル戦に挑むシンジに、トウジをはじめとするクラスメイトたちからICレコーダーで応援メッセージが伝達されるが、この時点では「ケータイ」というメディアはまだ登場していなかった)。

 このことを指摘したのは、『エヴァ』という作品世界の分析から離れて、『新エヴァ』という作品がいまどのように消費され、受容されているのかという文脈へと視野を移してみたいからだ。そこでの筆者の主張を端的に要約すれば、いまや『新エヴァ』という作品自体が、人々の「繋がりの社会性」を満たすための媒介として機能しているように思われる。

 たとえばその一例として、『エヴァ破』が公開された直後に「ニコニコ動画」に投稿されたMAD作品の存在を挙げておこう。ここでは、その中でもとりわけ多くの再生数を獲得した、「ヱヴァンミフィヲン新劇場版:兎」(注6)と題された作品について触れる(図1)。このMAD作品では、『ミッフィー』というファンシーキャラクターの映像を再構成することで、「エヴァ」の緊張感溢れるシークエンス(テレビ版第一九話のゼルエル戦)が再現されるものとなっている。エヴァ初号機使徒の肉体を貪るシーンは、ミッフィーがスープを飲むシーンに置き換えられており、このMAD動画を見るユーザーたちは多くの「W(笑い)」のコメントをつけている。同作品には「シンクロ率400%」というタグが付与されているが、そこで起きているのは、表面上は全くかけ離れた同作品の映像を「だいたいあってる」ものとして認知しうることを通じて、「これほどまでにかけ離れた映像に同一性を発見できる《私たち》」なるものを立ち上げること、いいかえれば『エヴァ』という作品を通じた「解釈学的共同体」ならぬ「認知科学共同体」を創出・維持することに他ならない。

 ここでは、もはや『エヴァ』という作品の物語内容は消費対象とはなっていない。もはやアスカやレイといった「萌え要素」すら必要とされていない。ただ『エヴァ』という作品の巨大な認知度だけが、ウェブ上での「繋がりの社会性」を確認するためのリソースとして消費されている。そこでは、「セカイ系」を脱する云々という物語内容の水準に込められた庵野のメッセージは、いわずもがなスルーされざるをえない。

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図1 「ヱヴァンミフィヲン新劇場版:兎」

 このことがある種皮肉にも思われるのは、かつて『エヴァ』という作品が閉鎖的なオタク文化に対する自己批判として創られていた、という事実を想起したときである。『エヴァ』はオタク的なものの閉鎖性を内側から食い破るべく創られた。結果、それはオタク的なコミュニティをはるかに超えた横断性を、つまりは幅広いファンを獲得した。しかしその結果生じたのは、もはや物語内容を経由することなく(あるいは「萌え」というオタク的欲求の回路すら経由することなく)、ただひたすら形式的に同作品が消費されるという事態なのである。

 いまここで筆者が述べた事態は、決して『エヴァ』というアニメ作品に限ったことではない。オタク系文化(≒マンガアニメゲーム)の中でも、特にアニメというジャンルは、いまや若い世代が幅広く利用できるコミュニケーション資源として受容/需要されているからだ。

 その現状を理解するには、まず、俗に「テレビ離れ」が進みつつあるといわれる、若者のメディア接触動向の変化を踏まえておく必要がある。それは次のように説明することができる:かつてテレビというメディアは、人々に共通の話題を提供する装置として機能していた。たとえば「教室の休み時間に、前の晩に見たテレビ番組についておしゃべりを交わす」という振る舞いを想起すればよい。そこではテレビが「コンテンツ」を提供すると同時に、それに関する「コミュニケーション」を支えていたと表現することができる。

 しかし、この一〇年間にわたる情報環境の変化、とりわけ動画共有サイトケータイの登場と普及は、こうしたテレビによる「コンテンツコミュニケーションカップリング」をばらばらに分離してしまう。なぜなら「コミュニケーション」に対する欲求は、絶えずケータイメールを交わすことによって満たされ、一方の「コンテンツ」に対する欲求は、動画共有サイトでいつでも自分の望む映像を視聴することで満たされてしまうからだ。あるいはニコニコ動画であれば、「コンテンツ」を視聴すると同時に(筆者の言葉を使えば「擬似同期的な」)「コミュニケーション」を取り交わすことが可能であり、それはテレビよりも極めて効率的な「コンテンツコミュニケーションカップリング」を実現しているのである。

 それだけではない。さらに重要なのは、アニメという映像ジャンルこそ、とりわけ動画共有サイトというコンテナーに載りやすいコンテンツだったという点である。それには様々な要因が考えられるが、ここでは形式的な特徴にのみ着目しておこう。というのも、アニメ映画のようなリアル系映像コンテンツ(現実の光景がカメラで撮影された映像作品)に比べて、色数が少ない・動きが少ない・変化が少ないといった形式的な特徴を備えており、それゆえデジタル化した際の圧縮効率が高いことで知られているからだ(注7)。圧縮率が高いということは、ファイル容量が効率的に縮減されるということであり、ネットワークを介した転送効率が高い(アップロードダウンロードしやすい)ということを意味している。もちろんこれだけが理由ではないが、少なくともマクロに見ればこうした構造的要因から、ネットワーク上ではアニメというコンテンツがとりわけ多く流通するようになったということができる。

 こうしてテレビの代わりにコミュニケーション資源の提供装置となった動画共有サイトは、若者たちにアニメ的なものに接する機会を多く与えるようになった。その結果現われたのが、昨今「ライトオタク」と呼ばれるような、非常に「緩くて」「薄い」オタクたちの存在である。ライトオタクたちは、動画共有サイトを通じて、ワンクリックで瞬時にアニメ的なコンテンツを消費する(しかもMADムービーという「要約的コンテンツ」を視聴すれば、アニメ本編をすべて視聴するコストすらも軽減できる)。そのアクセシビリティの高さとコストの低さゆえに、いま若者たちは、《オタク》というキャラ属性を瞬時に身にまとってコミュニケーションすることが可能になった。

 そこでは、かつて見られた「オタククラスタオタク的なコンテンツを消費する」という(消費集団と消費対象の間の)一貫性は、緩やかに崩壊しつつある。宮台真司の整理によれば、かつてオタクという若者クラスタは、とりわけコミュニケーションスキルが低く、社会領域(特に恋愛領域)から引きこもり的に撤退する人間のことを指していた(注8)。しかしいま(ライト)オタク系文化は、コミュニケーションから撤退するためのコクーンツールであるどころか、むしろ「繋がりの社会性」を広範に獲得するためのリソースとして受容されている。いいかえれば、かつてオタク系文化がコミュニケーションスキルの低いものたちにとっての夢想的な空間だったとするならば、ライトオタク系文化は、コミュニケーションスキルの格差を「無関連化(in-differentiation)」するための――アニメさえ見ていれば誰もがオタクとしての「繋がり」を確認できるかのような――極めてプラグマティックなツールとしての様相を呈しているのである(注9)。

 そのことの当否や是非はここでは問わない。しかし、改めて確認するならば、庵野がかつて苛立ったような自閉的なオタクたちはもはや存在しないように思われる。むしろそこには、徹底的に軽く、薄く、オープンな、コミュニケーションの連鎖だけが存在しており、そしていまや『新エヴァ』という作品は、そうした「繋がりの社会性」をより大きく束ねるための器――巨大化した綾波レイのように、とでもいおうか――と化している。ある意味では「オタク補完計画」の行き着いた先ともいうべきこの状況に対し、果たして今後の『新エヴァ』シリーズは、そして今後のアニメ作家たちはいかなるインパクトをもたらすのか。それだけが筆者に残された期待であり、希望である。

(了)


【注釈】


注1:http://eva.yahoo.co.jp/gekijou/big_message.html

注2:もちろん『ゼロ年代の想像力』の著者、宇野常寛の見方に立てば、「エヴァより新しいアニメはこの十年間存在しなかった」という庵野の事実認識自体が批判に値するものであろう(アニメ以外の領域では、「セカイ系」以後のパラダイムが明確に出現している、というのが宇野の主張である)。ただしここでは、「セカイ系」という物語形式だけが問題とされているのではなく、「データベース消費」のような市場環境にもたらしたインパクトも含めて、この十年間、エヴァに匹敵するような作品は現われなかった、という意味で庵野の発言を受け止めておくことにしたい。

注3:原作者による二次創作という点については、たとえば社会学者稲葉振一郎も同様の指摘を行っている。http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba /20090630/p1およびhttp://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090709/p1

注4:現代の作者性をめぐる問題については、福嶋亮大の一連の論考、『神話社会学』と「ホモ・エコノミクスの書く偽史」(『思想地図Vol.3』所収)が大いに参考になる。村上春樹や『東方』のZUNの戦略は、一見すると無意味にも見えるモノ的な記号(装飾)やメタデータ群を、現代の「データベース消費」をめぐるエコノミーに投入し、「原作=起源のまま二次創作の海を素通りする」(「ホモ・エコノミクスの書く偽史」)ことが志向されている。いうまでもなくこれは「新エヴァ」の作者性の戦略とは大きく異なっており、「虚構作品のセミラティス性を確保するためにいま作者は何をなすことができるか」という観点からも示唆を与えてくれる。

注5:「繋がりの社会性」については、北田暁大広告都市・東京』『嗤う日本の「ナショナリズム」』などを参照のこと。あるいは本点に関していえば、レイのコミュニケーションの変化を見てもよい。今作では、あの非人間的だったはずのレイが「おはよう」「ありがとう」といった挨拶的言葉を発するようになった、という描写がある。これはケータイこそ利用していないものの、それはメッセージ抜きの、繋がっていることをただ確認するためのコミュニケーションという点において、やはり「繋がりの社会性」を象徴するものといえる。

注6:http://www.nicovideo.jp/watch/sm7588593

注7:たとえば「MPEG」というエンコーディング方式の場合、映像を構成する各コマの中で「特に変化した箇所」を検出することで、効率的なデータの圧縮を行っている(変化のない箇所は「変化なし」として記録することで、無駄なデータをカットすることができる)。またこれは蛇足だが、認知科学の知見によれば、人間の視覚システムも、こうしたエンコーディング方式とほぼ同等の情報処理メカニズムを有しており(動かないオブジェクトは視界から消えてしまうという錯覚現象が知られている)、それゆえ人間の視覚システムアニメという映像コンテンツは「情報効率」という点で相性がよいという可能性が考えられる。

注8:宮台真司『制服少女たちの選択―After 10 Years』(朝日文庫、二〇〇六年)。この書籍の中では「ネクラ的ラガード」などと表現されている。

注9:宮台真司が指摘する、日本のサブカルチャーにおける「無関連化」の機能(実際には存在する差異や落差を、あたかも無きものとして処理することで、心理システムのホメオスタシスを維持する作用)については、『思想地図Vol.3』に掲載された、宮台真司東浩紀の「北米講演旅行レポート」(報告者、河野至恩)を参照のこと。ちなみに同レポートでは、「無関連化」ではなく「中和化」という表現が使われている(「無関連化」は、七月一一日に上智大学で行われたワークショップにて、宮台本人が用いていた表現)。