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ドキドキ上海日記 RSSフィード

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【タイアップ】オペレーション ヘル アンド ヘブン 5月15日(金)〜31日(日)
何の前フリもなくこのお店の話題が出ることがあります。
ていうか、そればっかりです。

2016/11/24 (Thu)

菊地成孔3DAYS デュオ with 山下洋輔

於、新宿PIT INN

http://www.m-works.info/pitinn/night_detail.php?YEAR=2016&MONTH=11&DAY=24

3DAYSの3日目。なんで昨日(祝日)のソロじゃなくて今日にしたんだっけ……売り切れてたからか?

なんとなくジャズを聴くようになって以来、ジャズの現場にも一度くらい行ってみたほうがいいよなあ、とはずっと思っていた。

ジャズバーなら近所にもあるので、まずそういうところに行くべきなのかもしれないが、正直安くはないチャージを払って知らない人を聴きに行く気にもならん。

ところが、ちょっと調べてみると一時期ニューヨークでジャズメッセンジャーズのレギュラーメンバーだったような人がたまにうちの近所のジャズバーに来てやってたりするので、どういう世界なんだよと思いつつ、行くチャンスを窺っていたものの平日が多いのでなかなかタイミングが合わない。それに小さいジャズバーって大抵ほぼ全面的に店主の趣味でやってるので見るからに常連客以外は入り込めない雰囲気だったりして二の足を踏んでいた。

そこでなんで菊地成孔なのかというと、この話はかなり長くなりそうである(笑。

あえて一言でいうと『憂鬱と官能を教えた学校』という本がムッチャクチャ面白かったから。もともと映画美学校というNGO系の専門学校(?)で音楽理論の基礎を短期集中講義で教えるというのを菊池成孔大谷能生がやっていて、フジテレビ系のTV番組にもなり、講義録が本になったのがこれ。同じ二人が東大で講義した『東京大学のアルバート・アイラー』もかなり面白かった。特に『憂鬱〜』については昔mixiの日記にも書いたのだが、(俺にとっては)一度読んで内容が全部頭に入るような本ではないので今も折に触れて読み直している。読むたびに少しずつ理解が深まって、ようやくわかりかけてきたというところか。『憂鬱〜』は音楽理論の本だが、ジャズの革命であるビバップ、その「特定のルールに基づくゲーム的即興演奏」という側面を解析するツールとして極めて有効だったバークリー・メソッドという理論、が話の軸になっているので必然的にジャズの話になる。続編にあたる東大アイラーはずばりジャズ史。これらの本で「ジャズを語る菊池成孔」がべらぼうに面白いのである。その彼本人もジャズミュージシャンなのだから、じゃあやってる音楽も聴いてみようとなるのは自然な流れであろう。

ところが、これが全然わからないのである(笑。

俺がジャズとして聴けるのはビバップからせいぜいモードジャズくらいまでの、いわゆるジャズっぽいコテコテのジャズであって、フュージョンと呼ばれるのになるともうなんか違くね? という感じだしフリージャズはさっぱり意味わからんし、それ以降となると本当にジャズと認識できない。菊池成孔が今やってる音楽は(研究者らしく)ジャズと呼ばれるもののまさに最先端であって、俺の第一印象は「これヒップホップが入ってるよね?」という感じだった。いやヒップホップじゃなくてジャズが聴きたいんですけど、と思って、菊池成孔ソロ、バンド、各種ユニットなど手当たり次第に聴いてみたが俺の想定する「ジャズらしいジャズ」は一つもなかった(笑。もしかすると一番それに近いのはガンダムのサントラなのかもしれない。本編観てないので聴いてないんだけど。

文脈的には Robert Glasper 以後のいわゆる「今ジャズ」にはヒップホップ的要素が入ってるのは当たり前で、ごく大雑把にいうとジャズもヒップホップもブラックカルチャーが発祥という点で当然繋がっている、ということらしい。それは確かに菊地成孔が昔から言ってることとも一致している。

そんなわけで純文学に興味ないのと同じで最新のジャズにも興味ないので、ジャズのリスナーとしての俺はやはり近所のジャズバーで古くさいジャズを聴いているべきなのだろうが、それとは別に「菊地成孔のライブ」も一度観ておくべきだろうと思い、さらに斯界のメッカともいえる新宿ピットインに行く機会でもある。

以上が行った理由の説明である。長い。

共演の山下洋輔は言うまでもなくフリージャズであり、昔何かのイベントで観たことがあるがやはり全然わからなかった。なので山下洋輔って時点で俺に「わからない」ことは確定なんだよなあ(笑。しかし、この二人の共通点として俺は山下洋輔の書いた文章も好きなのである。スタイルは友人でもある筒井康隆の文体の亜流だが、演奏活動に関するエッセイは無類に面白い。ジャズ関係者の文章という点ではとり・みき先生のエッセイにもちょっと通じるものがあるかもしれない。でも演奏を聴くとわからない、というところも菊地成孔と一緒だ。

そう、これも補足しておくべきかもしれないけど上に挙げた講義録は菊地成孔と大谷能生の共著であって、「書物としての主著者は大谷能生」と明言されている通りテキストとしてはむしろ大谷能生のものなんですね。だから菊地成孔の文章が好きというわけではないかもしれない、これは言っておく必要がある。というのも本人の文章は長いしすごい悪文でひたすら読みにくいのである。挙げ句「書いてもちゃんと読まれない、インターネット時代でみんな長文を読めなくなった」とか文句言うてるけどお前の文章がまずいんだよ! と言いたくなる。長い悪文て人のことは全然言えませんが。サブカル女子に大人気という菊地成孔の映画評も俺には期待した面白さではなかった。そもそも観たことある映画が全然ない。記憶に新しい『セッション』をめぐる町山智浩との論争も、世間的には「両者とも自分の専門領域における見識を前提にした主張に説得力があり、意義のある議論だった」みたいに評価されてたが、俺に言わせると明らかに町山氏に軍配が上がったと思う。しかもそこで終わっていればまだしも、菊地成孔はいまだに町山氏を「町山保安官」などと揶揄しており、彼が映画評論家としての業界での勢力を背景にして取り巻きをけしかけ自分を攻撃させたかのように示唆する中傷を繰り返している。そんな事実はないだろうしむしろあんまり相手にされてなかったような……。一連の論争が自分の「負け」だと考えているのなら都合の悪い過去をしつこく蒸し返すようなことはしないだろうし、本気でそう思ってるんだろうなあ。この点はみっともないし明確に菊池成孔の失点だなあと思った。最近は無料のインターネットから撤退するとか言ってブログもやめちゃいましたが。別に人格高潔であることを評価しているわけではないからいいんだけど。閑話休題。

俺の理解では菊地成孔の最近の(?)トレンドはダンスミュージックであって、「ポピュラーミュージックを座って聴くなんて」みたいなこともさかんに言ってるし、現場もそんな雰囲気で客にも変なノリが要求されるのかもと覚悟して行ったのだが(俺も変な幻想を抱きすぎである)、前のほうが椅子席だったので拍子抜けした。そういうのはそれこそ前日のソロでやってたのだろう。で、新宿ピットインてそんなに広くないのね。せいぜいキャパ200くらいかな。開演ギリギリに着いたので最初は全くステージが見えなくて難儀したが、1stセット後の休憩時間もずっとその場で頑張ってたら後半は見通しがよくなった。助かった。

ステージは曲とインプロを交互にやる構成ということだったが、前半は「即興のつもりだったのに曲になっちゃった」というのが2回あり(そんなことがあるのか)、それぞれ『グガン』、『ミナのセカンド・テーマ』という山下洋輔の代表曲。エッセイによく出てくるのでタイトルは知ってるが聴くのは初めてである。山下洋輔の音源もアルバム1枚くらいしか聴いたことがない。即興というのはまず片方が何か演奏を始め、もう一人がそれに反応する、という形になるのだが、山下洋輔はもともとフリージャズの精神であらゆるコラボを受けて立ち、暗黒舞踏やら何やらどんな異ジャンルの表現とでも即興演奏で共演するというアントニオ猪木的なポリシーでありそのことはエッセイにも繰り返し書かれているので、俺はその線で理解に努めようとしてきたのだが、いくら聴いてもどこでどう共演者に反応しているのかわからん。もっと死ぬほど聴き続ければわかるようになってくるのか? ただ聴いてるだけではダメなのか? 全然わからんのにまだ聴こうとしている俺が一番スノッブなのかもしれない。だから演奏している両者の姿が目に見えていればまた何か伝わってくるものはあるのかなとも考えてみたのだが、そんなこともなかったぜ。わからん。全くわからん。大トリの『大きな古時計』なんか(これは曲だけど)エンディングのアドリブで明らかに両者の息が合わなくてなかなか終われないみたいな感じになってたし。それが感じられるようになっただけでも進歩というべきか。しかし『大きな古時計』という選曲もどうなんだ。なるほど誰でも知ってる曲ではあろうがなんか安直な感じがする。平井堅がカバーしてたせいか(笑。

しかし一方で、「曲」つまりスタンダード曲をアドリブ演奏するやつは意外とよかった。つまり俺が考えるところのジャズ的なプレーになっていた。 Charles Mingus の"Orange was the Color of Her Dress, then Blue Silk"、Duke Ellington の"Black and Tan Fantasy" とか。こういうのが聴きたかったんだよ。こうしてみるとピアノとサックスて俺の一番好きな組み合わせだし。今思ったけど山下洋輔トリオにいた時代の菊地成孔というのは聴いたことがない。それを聴くべきだったのか。今CD入手できるのかわからんけど。山下トリオのアルバムでスタンダード曲なんかやってないだろうけど。閑話休題。惜しむらくはあまり知らない曲ばかりだったので、もっとよく知ってる曲をやってくれればどんなもんか判断する基準になったのになーと思った。

あと即興部門(違)で、アルトサックスの最低音をなるべく太く出すてのを(たぶん)やってたんだけど、ピアノと合わせてこの感じなんか聴き覚えあるぞ、と思って必死に記憶を辿ったら、カウボーイビバップのサントラではないか、という結論になり、菊地成孔はVitaminlessにも参加してたじゃん! つながった! と思ったんだけどあとで確認したら曲が合わないので違ったみたい(笑。

2016/11/22 (Tue)

目が開かない系お姉さん

目の下にクマに続くマイナー属性、というかそれなりに定番なのに注目されてなさそうな属性に言及してみる。

男が糸目に描かれるのはほぼ全て「地味キャラ」の表現で、それどころかアジア人に対する人種差別的な表現とか言われてそれでポケモンのアニメからタケシは姿を消したなんて都市伝説(?)までありましたが、それと絵的な表現は同じでもヒロインになると美人として扱われているケースが多い気がする。あとお姉さんキャラが多い気がする。統計的根拠はなく印象のみで言ってますが。

例によって記憶に残ってるのを今思い出した範囲でピックアップしてるだけなので有名どころが漏れてたり逆にどマイナーなのが入ってたりすると思います。まあTVアニメ中心なので、そこまで普及した表現であるということで。

最古の例は何だろう? てところは今後も追っていきたいですね。

大河内紫乃(『かんなぎ』)

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みんなでカラオケに行った時に副部長だけ歌わなかったのはなぜ? と訊かれて、部長いわく「だって目が開いちゃったら大変じゃない!」みたいなオチになっていた。声は中原麻衣。

赤座あかね(『ゆるゆり』)

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あまり観てないのでよく知らんのですが、主人公の出来のいい姉というポジションなのでお茶目な美人という設定だと思う。堀江由衣だし。

宮内一穂(『のんのんびより』)

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名塚佳織。テンション低く寝ていることが多いので「眠そうな顔」という表現か。

轟八千代(『WORKING!』)

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アニメではごく稀に目が開きかける描写があるものの瞬間的なもので、ほぼ完全に糸目オンリーです。いつもニコニコしてるイメージでもある。キタエリ。

趙雲子龍(『一騎当千』)

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これは明らかに「目を瞑っている」という表現なのでここに入れるのは違う気もしますが。

しかも聖闘士星矢における乙女座のシャカ的なやつですよねこれ。小宇宙を高めている的な。

TVアニメしか観てないので目が開いたことがあるのかどうかは知らない。

小平先生(『あんハピ♪』)

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この人は「常に笑顔」というニュアンスが強いですね。なので表情が変わる際はわりと簡単に(?)目が開きます。原由実。

後手キルカ(『灼熱の卓球娘』)

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この人も食えないキャラなのでデフォルト笑顔という感じ。本気の片鱗を見せると目が開きます。

2016/11/20 (Sun)

『聖の青春』

http://satoshi-movie.jp

予告を観た段階である程度わかっていたけど、原作が全て実名なのに対して、村山と羽生、師匠の森信雄以外の関係者は名前を変えてある。私小説風にモデルが分かる名前にはなってるけど。

というのも、登場人物を整理するために村山に関わった複数の人物の逸話をまとめて一人のキャラにしてるんですね。名前的には明らかに先崎学がモデルの「荒崎学」も、泥酔した村山を新車に乗せたら車内でゲロを吐かれたという逸話は佐藤康光のもの。ちなみに荒崎の役は柄本Jr.でビジュアル的にも全然先崎じゃないw 先崎と村山の関係も天才肌同士で一脈通じ合っていた部分はあったはずなのだが、荒崎は村山の周囲で振り回される俗物の一人になっている。まあ、そこは映画として羽生との関係にフォーカスする上では焦点がズレるのでオミットしていいけど、手法が完全にフィクションのそれなのでさすがに一線を超えてしまっているなあ、と感じた。最後に「原作『聖の青春』を元にしたフィクションです。事実と異なる描写があります」という文言が出るのも、ひょっとして関係者から何か申し入れがあったのかしら。

上記の荒崎と、ヤスケンの橘正一郎七段(おおよそは滝誠一郎七段がモデル)、染谷将太の弟弟子・江川(奨励会退会が決まった日に酔った村山と殴り合いを演じるエピソード以外は存在そのものがフィクションに近い)の三人が主に村山に関わるキャラになってます。

それから、村山が羽生を定食屋デートに誘うという有名な逸話も、たまたま関西に来ていた羽生と将棋会館の近くでバッタリ会ったのを、行きつけの店に連れて行った、という流れであって、そのデティールの全てが大事だと思うんだけど、この映画ではあろうことかタイトル戦の終局直後に対局者同士が二人で酒を飲みに行くという展開になっている。第一にそこまでシチュエーションを変えたらエピソードの意味も変わっちゃうし、第二に将棋界の常識からしてありえない。いかに盤上を離れれば勝負は関係ないゲーム感覚と言われた羽生世代とはいえ、ちょっとした事件である。

いつもの原作至上主義と言われるだろうが、その範疇に収まらない問題を含んでるよなあこれは。原作がノンフィクションではあるし。というわけで絶賛するには至らなかった。原作を読んだほうがいいです。

松山ケンイチの村山聖は文句なしだった。東出昌大も黙っていれば対局姿は羽生に見える瞬間もあるのだが喋ると台無しだった。つまり全て予想通りだった。あと、田丸昇九段にソックリな人が出ていて、なにも田丸九段をそこまで完全再現しなくてもいいのに、と思ってたら本人だった(笑。

2016/11/19 (Sat)

国立劇場開場50周年記念11月歌舞伎公演 通し狂言『仮名手本忠臣蔵』第二部

http://www.ntj.jac.go.jp/50th/kabuki_chushingura/

前回に続き第二部。

第二部は五段目から七段目。五段目と六段目はお軽と勘平だし七段目は祇園の茶屋。三部構成の二部なんてこんなもんかーと思ってたけど、さすがにそれなりのスペクタクルはあるね。ていうか一般的には五段目六段目は大人気なのね。

五段目の道行なんて興味ゼロだったが、腹を切ろうとしたのを止められて刀を手放した状態で鷺坂伴内に襲われた勘平が素手で伴内&子分の花四天を蹴散らす立ち回りはなんか違和感あった。女に現を抜かしてるくせにそこは強いのかよ、と。つか史実の萱野三平は小身だからそのイメージだったけど、仮名手本の早野勘平って百五十石なのね。

あとは有名な猪暴走シーン(笑)と、斧定九郎。定九郎はもともと普通の山賊の格好でつまらん役だったのを、初代中村仲蔵がスタイリッシュな色悪として造形して演じたのが一躍人気キャラになって定着した、という噺が落語の『中村仲蔵』で、五代目志ん生がやってたので聴いたことがあった。登場シーンで稲叢から腕だけ出して財布を掴むところ(これはまた別の役者が工夫した型)がすごいって触れ込みだったのでそこに注目してたのだが期待したほどのインパクトはなかったなあ。

2016/10/08 (Sat)

国立劇場開場50周年記念十月歌舞伎公演 通し狂言『仮名手本忠臣蔵』第一部

http://www.ntj.jac.go.jp/50th/kabuki_chushingura/

普通、通し狂言といってもやらない段があったりするんですが、今回は上演可能なシーンは全部やるというガチの完全通し狂言ということで滅多にないチャンスなので行ってきました。

「口上人形」

 大序「鶴ヶ岡社頭兜改めの場」で幕を開ける『仮名手本忠臣蔵』。開演時刻は午前11時ですが、その10分前にはご着席を。開演前に幕の外に「口上人形」が出て来て、【第一部】の役人替名(やくにんかえな:配役)を「エヘン、エヘン」と言いながら告げていきます。 

 天王立下り羽(てんのうだちさがりは)という荘重な音楽と、「四十七」回打たれる柝の音とともに幕が開きますが、舞台上の人物たちは「人形身(にんぎょうみ)」と言って、始めは皆うつむいてじっとしていて、各々、義太夫に役名を語られて初めて動き出します。

 どちらも原作の人形浄瑠璃に対する敬意の表れと言えます。

 『仮名手本忠臣蔵』に独特な舞台挨拶「口上人形」もどうぞお見逃しなく!

こんなのもやってた。

第一部は四段目、判官切腹までだけれどもその四段目も切腹の前の「花献上」の場とか、浄瑠璃ではやっても歌舞伎では普通やらないシーンまでちゃんとやる。

お軽と勘平とかは個人的にはどうでもいい部分なんだけど、三段目の「足利館門前の場」いわゆる「文使い」のシーンを見ると、顔世御前はこの文(高師直への返歌)を、判官のお務めが無事終わってから届けろというニュアンスで「急がずともよい」と指示するんだけど言われたお軽は早く勘平に会いたいがためにすぐ持ってきてしまって、そのせいで文が最悪のタイミングで判官から師直に渡されて読まれ、刃傷の一因となる、という流れになってるんですね。初めてちゃんと理解した。加古川本蔵が最後(九段目)虚無僧になって絵図面を持ってきて力弥に討たれるとかもほとんど意味不明と思ってたけど(笑、二段目を踏まえて観るとわかるようになっているのか。俺はどっちかというと仮名手本ヲタではなくて史実ベースに戻していろいろエピソードも増やした忠臣蔵が好きなんだけど、『仮名手本〜』もこれはこれで凄く完成度が高い(当たり前だ。

そんな感じで観て初めてわかることも多かったが、むしろ通し狂言を観るより先にちゃんと戯曲を読んでおくべきだった。歌舞伎のやつはあまり手軽に読めるのがないんだよな。

浄瑠璃本は岩波文庫のを持ってるが浄瑠璃の詞章って台本形式にすら全然なってないしとても素人が読めたもんじゃないんだよね。

なので今回上演台本が売ってたのに(しかも安い)完売しちゃってたのは惜しかった。

2016/09/21 (Wed)

『君の名は。』

新海誠監督というと昔『ほしのこえ』を観て正直あまり感心しなかったのでそれっきりだったのですが、先日、今回の映画の特番でTV放送した『秒速5センチメートル』を録画して観たら個人的に刺さったので、観てきましたよ。すごい評判ですね。平日夜だってのに俺の定位置・最前列中央の両隣も埋まってほぼ満席。なかなかないことだ。

俺は秒速5センチメートルの主人公である「昔のことをずーっと引きずったまま人生を棒に振りかけている男」にムチャクチャ感情移入したままの状態だったので(笑、今回終盤の展開に「秒速じゃん! 秒速のハッピーエンディングバージョンじゃん!!」てなった。俺たちは救われた。ありがとう新海監督ありがとう。三葉ちゃんかわいい。

『ゴールデンタイム』が『とらドラ』のテーマを発展させながら引き継ぎつつ前作のやり残しを拾い上げて描いたように、『イリヤ〜』の幻の最終章「南の島」を次回作『ミナミノミナミノ』が実現する(はずだった)ように、『秒速〜』は『君の名は。』によって救われたのだ。

それこそいつか見た夢のように、映画の原風景はどこか各作品で共通していて、ある部分で前作(ではないが)を克服したりしなかったりする、そういうタイプの作家なのであればやはりフィルモグラフィーを追って観るべきなのだろう。

でも俺個人の鑑賞体験としてはおそらく秒速→君の名はがピークになるだろうという気はする……。つか秒速を観たの本当につい最近なので、むしろこれ観るの早すぎたというか、もっとあの気分を引っぱってから観るべきだったな(笑。

2016/09/03 (Sat)

『アイアムアヒーロー』(映画のほう)

原作は未読。

ゾンビ映画ってほとんど観てないのでわからんのですが、感染したけど発症しきらず半分だけゾンビみたいな状態になるのって最近流行ってるというか当たり前なのかな。『がっこうぐらし』にも一人いたよね。このネタはいつ頃からあって最初にやったのは誰だろう、とジャンルを全然知らないのにそこが気になった。

『幽幻道士』で自爆して死んだメンバーがキョンシーとして仲間(?)に戻ってくる展開があったなあ、と思ったがそれは趣旨が違うし遡りすぎですね、たぶん。

『太陽』

原作が戯曲なんだそうで、元がどんな芝居だったかありありと目に浮かぶというか、それをそのまんま映画で見せられた感じ。

三谷幸喜の初期の映画にも顕著だったけど、舞台だからこそ成り立つノリをそのまま映画でやっちゃうと浮き上がること甚だしい。

決してつまらない映画ではないが、ジャパンの芝居っていまだにこんなノリなのか……というのを胸ヤケするほど味わってげんなりした。

なんか演技まで舞台ノリで、「感極まった人物が喚きながら覚束ない足どりでふらふらよろめいて歩き回る」みたいな舞台特有の(陳腐な)動きをそのままやってた。別に舞台役者を使ってるわけじゃなし、わざわざそういう演出をつけたのかしら。舞台じゃなくて普通にいわゆるダメな邦画の特徴でもあるのだろうか。

あとディストピアって、未来は本当にこうなっちゃうかもなぁという不安要素が現実にあるからこそ怖いのであって、ディストピア像は時代を反映するというか、「いや、こんな未来にはならないってことはもうハッキリわかったよね?」みたいな古くさいディストピア観を今やられると死ぬほど興醒める。現在恐るべき未来はもっと他にあるでしょうよ。俺がノイタミナの某近未来SF警察ものアニメを当時全力でdisったのも同じ理由である。別に古い作品に価値がないわけではないし、「時代を反映」とか自分で言ってても嘘くさくてイヤなんだけど、どういうわけかディストピア像が古いのだけは大嫌いなのだった(笑。

2016/08/19 (Fri)

『アクセル・ワールド INFINITE∞BURST』

まず言いたいんですけど新宿ピカデリー、予告篇長すぎね? いやピカデリーでもいつもはそれほど感じないが今回は常軌を逸していた。本編が短い映画だとチャンスとばかり予告の尺を長くとってたりするんだろうか。『真田十勇士』なんて中村勘九郎がナビする劇場専用の予告と通常の予告と二回流れたやないか。

めんどくさいのでもうここからネタバレ無制限にします。

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2016/07/30 (Sat) 池波先生すみません

久しぶりに早稲田松竹からバルト9へのハシゴという無茶をやってしまった。

『マネー・ショート』

サブプライムローン崩壊の可能性(というか必然性)を事前に予測して儲けようとした投資家たちの話。

金融商品としての住宅ローン債がおかしいだけでなく市場そのものが正常に機能していないのでローンが焦げ付いても債権の格付けも価格も下がらないという、ゲーム全体がインチキだったことが判明して主人公の(予測は的中したにも関わらず)目論見が外れピンチに陥る展開は鮮やか。融通が利かず筋が通らないことは糾弾せずにはいられない性格のマーク・バウムもいい。この物語になくてはならないキャラだ。

もっと話の流れをちゃんと追ってみたいので原作も読んでみよう。

しかし毎度文句言ってるが『マネー・ショート』という邦題はいかがなものか。原題 "The Big Short" のショートは「空売り」の意味であってマネーショートじゃ意味不明じゃないの。マネー・ボールと同じ原作者で同じブラピ製作だから無理矢理マネーつながりにしたのか。アホか。

『スティーブ・ジョブズ』(2015年、ダニー・ボイル監督)

ジョブズってあんまり好きじゃなかったんですけど(Apple嫌いだし)、自分の中にある完璧なビジョンを実現するために一切妥協せず最終的に周りの人間全員とケンカ別れするというスタイルには非常に共感できた(笑。

一応この映画の原案ということにもなっている伝記も読んでみようっと(今更。

『シン・ゴジラ

「シン」てカタカナで書いちゃう相変わらずのセンスだけはどうしても好きになれない。

少なくとも最初のゴジラの設定は引き継いだ、'84年のゴジラに近いスタンスなのかと思っていたので完全リブートだったのにはちょっと驚いた。そのへんは東宝側の意向でもあるんだろうけど。

ゴジラの存在以外は荒唐無稽なものを極力排して現実的に描く。必然的にデキる若手政治家を中心とした政府の対応がメインの展開になる。ゴジラ映画の一つの理想型ではあるけど、庵野秀明がこれを作ってくるとは予想もしなかった。予備知識一切なかったので、いわばタランティーノ的な、過去のゴジラ映画へのオマージュを切り貼りして演出をカッチリ仕上げたみたいなやつかと漠然と考えていた。庵野監督は大人になったのだなあ……。

ただやっぱりポケモンじゃないんだから「進化」て言葉は使うのやめてほしかったよね。劇中でもあくまで一個体で云々みたいな補足はしてたけど、「変態」もしくは「(個体)発生」でいいじゃん。「マグマダイバー」でマグマという語用は正確ではないとツッコまれ「マグマって言わなきゃ普通の人はわからないよ」と一蹴した庵野イズムふたたびか。

それから作戦最終段階の特殊建機を使った凝固剤の経口投与、量を真面目に計算すると「流し込む」しかないってのはわかるんだが、画的にもあまりにも地味だったので、『〜ビオランテ』の権藤一佐とは言わないけどもう一つ何か派手なギミック的見せ場がほしかったかも。でもそれやると忽ちバカ映画に逆戻りしちゃうんだろうな。難しい。

あと、冒頭から海上で消息を絶った科学者が結局最後まで登場しないのはちょっとパトレイバーっぽいと思った(笑。

2016/06/25 (Sat) 早稲田松竹。

『オデッセイ』

もっと限られたリソースで爪に火を灯すように生き延びる話かと思ったら、前の計画で残していった探査機とか次の計画のための物資が先着してたのとかふんだんにあっていろいろ使って何とかする話だった。アメリカ的である。具体的にはジャガイモ栽培をもっと延々と試行錯誤する話がメインかと思ってた(笑。さすがサー・リドリー。

しかしオデッセイて何なのよ。『火星の人』とは言わずとも『マーシアン』でええやん。『ゼロ・グラビティ』よりはマシかもしれないけど脈絡がないという点ではこっちも酷いよなあ。

地球からの情報伝達手段が「静止画カメラを向ける角度の操作」しかない状況で、カメラの向きに16進数を割り当ててASCIIコードで通信するくだりなど、これは『ゼロ・グラビティ』もそうだったけどあちらの宇宙関連映画はハイリテラシーな描写を平気でやるよなあ、とそこが羨ましい。こっちは原作小説がそうなってるからだろうけど。

そしてこれもゼロ・グラビティと同じだがまた中国が助けてくれる展開なのね。ジャパンが景気よかった頃はすげえ嫌われてたのに(向こうが貿易赤字だったからだが)、チャイナ市場が活況→映画の内容もチャイナ市場向けに媚びる→チャイナのイメージアップ、ってなるのなんか納得いかねえ。こういう映画の影響力って結構バカにならないと思うんだよなー。

『ザ・ウォーク』

1974年にWTCのツインタワーの間を綱渡りで横断した男の実話。ロバート・ゼメキス監督。

主役なんか見たことあると思ったらインセプションとかダークナイトライジングに出てた奴(Joseph Gordon-Levitt)だった。髪染めてたから気づかなかった。あんまり主役張るような顔してないなと思ってたし(失礼。

「手に汗を握る」という言葉がありますけど、観てて気づいたら手のひらにすごい汗かいてた。映画観てこんななったの初めてですわ。俺は自分で思ってる以上に高所恐怖症なんだと思う。3Dで観なくてよかった(笑。 予告篇ではワイヤーの上で片足を踏み外しそうになるシーンをフィーチャーしてたけど、それよりワイヤー張ったり準備してる場面がやばい。しかも手伝ってる仲間が高所恐怖症という。

元の話は何となくは知ってたけど、全高400メートル超のビルの屋上間、40メートル以上ある距離にワイヤーを張り渡して渡るという計画を、完全に無許可、非合法で数人の同志だけで一夜にしてゲリラ的に実行したということは知らなかった。本人は"coup"(クーデター)と称してるがムチャクチャである。

あと、そんなことやってのける人間の心理が所詮常人に理解できるはずはないのだが、一番ありえないと思ったのは、一度完全に渡り切ってからもう一度綱渡りで戻る(!)というところ。こっちは手が汗だらけになってるのに「もうやめて!!」って言いたくなったわ(笑。しかもその場で思いついたみたいなノリでやってるし。まあ邪魔が入れば即失敗という計画だから最初から往復まで考えてたなんてことはありえないにしろ、一度渡り切って、そこでやり切った感とか安堵とかそういう心理はないのか? たとえば世界記録の更新を狙うみたいな気持ちで片道より往復ならもっとすごいと思ったとか、そういう感じでもないし、「恐怖心はなかった」とか本には書いてるかもしれないけど、いや言うても実際はあるでしょ? とどうしても思ってしまうのだが、一度ツインタワー間を渡り切るという偉業を達成した直後にもう一度渡る! これを実際にやってるわけだから、ああこいつはホントに恐怖とか何もなくて全くそんなのとは無関係な境地にいるんだなという何よりも雄弁な証明になっている。そこが一番すごいと思った。本人が書いた原作本も読もうっと。

随所でロバート・ゼメキスっぽいなーと感じたけど単に音楽がアラン・シルヴェストリだったからかもしれない(笑。