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1月2日(祝・月)〜5日(木)【4DAYS】巫女&和装DAY
何の前フリもなくこのお店の話題が出ることがあります。
ていうか、そればっかりです。

2016/12/30 (Fri)

真田丸

総集編は観てないんですけど書きかけの感想を仕上げる暇がなくてこのタイミングになった(笑。

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/

三谷幸喜の基本的なドラマツルギーに、「身分を詐称した男が本物以上の働きをする」というものがある。『合い言葉は勇気』のニセ弁護士、『ザ・マジックアワー』のニセ殺し屋、『THE 有頂天ホテル』にも役所広司が別れた嫁さんの前で見栄を張ってたまたまそこで発表やってた学会の代表のフリをするというシーンがある。最近でもTVドラマ『北別府さん、どうぞ』は小林隆が息子の前で医者に成りすますという話で、さすがに「またこのパターンか!」とツッコんだ。初期の代表作『12人の優しい日本人』にも弁護士を名乗ってた兄ちゃん(映画ではトヨエツ)が最後に本当は役者だったと明かすというオチがあった。

大阪の役に臨んで入城した左衛門佐の振る舞いは、これを極めて自覚的に洗練された形でやる主人公というスタイルとも解釈できる。

秀頼からの招聘に応じるか迷っていた左衛門佐に、きりが「行きたいんでしょ?」と言うんですよね。「徳川に二度勝った真田」は父の昌幸だし、北条との交渉も手柄はナントカ官兵衛に持っていかれた、お前自身は未だ何も成し遂げていないじゃないか、と。大河ドラマも40話前後になってそんなこと言われる主人公というのも衝撃ですが(笑、最後にやっと一旗挙げてブレイクする、という彼の人生のドラマ構造がここでハッキリするわけです。

で、大阪城に入った時点から左衛門佐は「徳川との戦で策を立てたのは全て自分、父は言う通り実行しただけ」「自分は戦に勝つためにここへ来た」「本当に負ける気が全くしないのです」などいきなりフカし全開モードになる(笑。 これを見て「こいつはもう気持ちよく戦をやって死ぬことしか考えてない! 信繁は『やり切ったペテン師』だったんだ!」と解釈していた人もいた。

それがどこまで本気なのかは周りにも、視聴者にも、もしかしたら本人にも分かっていない状態でドラマは進行する。毛利勝永には「(徳川との戦では)ただ旗を振っていただけとの噂もあるが?」とツッコまれる。周りの人間もやっかみもあって完全に騙されているわけではない。五人衆それぞれの本音を聞き出した左衛門佐にその毛利勝永が「そういうあんたは何をしにここへ来た?」と問うと、「私にもまだわからない」と答える。「勝つために来た」とは言わないのである。

冬の陣の緒戦で真田丸を防衛して戻ってきた左衛門佐は木村重成に「こんな大いくさは自分も初めてなのだ」てなことを打ち明ける。このへんは完全に偽者マインドですよね。

最期、小さな社の境内で佐助の介錯で腹を切るその直前の、「ここまでのようだな……」という左衛門佐はようやく完全に素に戻った姿に見えてなんかホッとした。その意味ではいい死に様だった。

主人公のドラマについてはそんな感じだけど、他はというと書き始めるとキリがないもののダラダラ書いてみる。

秀頼の器が大きかったからこそ家康は豊臣家を滅ぼすしかなかったという流れになってるとこまでは俺好みの解釈なんだけど、最終的に主人公である信繁のみにフォーカスして豊臣家の滅亡は消化不良に終わっていたのは少し残念だった。「だいたい淀の方のせい」というのもまあ、大蔵卿局が目立っていたとはいえごく普通の演出だし、淀殿の狂気と決定論的な運命観みたいなところをずいぶん早い時期から伏線的に見せていたのに活かし切れていないなあと。

少数のキーパーソンで話が進むのはいかにも三谷ドラマ的なのだが、大阪の陣といえばどうしても講談ベースで見てしまうのでもう少しキャラが欲しかったなーと。さすがに真田十勇士を出せとは言わないけど、塙団右衛門はもう一ランク上の扱いでいいし(これは司馬遼の影響かも)、岩見重太郎=薄田兼相くらいはフィーチャーしてほしかった! と思う。千姫救出の坂崎出羽守も出ないし。一方で織田有楽斎の使い方は非常に良かったし、毛利勝永は真田に並ぶ働きの割に知名度がないって昔から言われてるけどこれで再評価が進むといいですね。ちょうど『新撰組!』で山南敬助のメジャー度が上がったみたいに。仮面ライダーウィザードこと木村重成もよかった。三谷幸喜はああいう「チンピラどもの中にお坊ちゃんが一人」みたいなキャラがうまい。

それから大角与左衛門が実在の人物だったことは全く知らなかったので最後は驚いた。

あの爺さんは太閤時代から大阪城にいて馬廻衆の頃の左衛門佐とも旧知なんですね。で、九度山から入城した左衛門佐に「あんたはきっと戻ってくると思っていた」てなことを言う。このシーンなにげにすげえ好きだったので、あのジジイが徳川に通じてたってどういうことだよと思ったのだが、ベースに史実のエピソードがあるならまあそうなるか、くらいの納得感になった。

あと俺は隆慶一郎史観に毒されすぎているので(笑)、ずっとボンクラだった秀忠が「徹底的に豊臣家を滅ぼせ」と強硬に主張するところで急に家康が「恐ろしい男に育った」みたいなこと言い出すのは違和感あったんだけど、最後に次の世代が乗り越えていくところまで描くのは最近の大河ドラマのトレンドなのかなーと思った。というのもナントカ官兵衛こと『軍師官兵衛』を思い出したから。正直すごく面白いドラマというわけではなかったけど、終盤の官兵衛と倅の長政との関係はおおっと思わされたんですよね。黒田家が秀吉に豊前へ封ぜられた時、元々の領主である宇都宮鎮房が本領安堵を反故にされたとゴネるのを酒宴に招いて謀殺したという、どう考えても大河ドラマの主人公らしからぬ事跡があったんですが、これを息子の長政が独断でやったことにしている。ただ、倅が勝手にやっちゃって良い人官兵衛は後悔、みたいな描き方はしておらず、そもそも約束を守らなかったのは秀吉なので板挟みになっていた官兵衛は長政に「よくやってくれた」というニュアンスで追認する。長政もこの頃からバカ息子ではなく「怪物」的な演出になっていたりする。ちなみにシンケンジャーの殿こと松坂桃李である。で、秀吉が死んだ後はいよいよ自分で天下を窺うか、とやる気になった官兵衛に対して、息子の長政は徳川家康に接近していく。長政は親父に対して「父上が太閤秀吉を天下人に押し上げたように、自分は徳川殿に賭けたのだ」てなことをハッキリと主張する。で、関ヶ原は長期戦になると踏んだ官兵衛はその隙に兵を挙げて隣国を切り取りながら京まで攻め上ろうという計画を立てるも、長政の調略もあって関ヶ原は一日で決着してしまいそれを知った官兵衛は愕然とする。その後、家康に直接「戦のない世を作ってくれるか?」と確認した官兵衛は彼を天下の器と認め、家康を選んで結果として自分を出し抜いた長政が父親を超えたと認める、みたいな感じで終わるんですよね。まあ官兵衛の後半生がぐだぐだだったから結果こんな流れになったんだろうけど、主人公の倅が自分を乗り越えたのを見届けて終わる、てのも悪くはないなと思ったわけです。でも長政と後藤又兵衛の確執とか全くなかったんだよな。

なぜか最後は軍師官兵衛のことを延々と書いてしまった。まあこんな機会でもなきゃわざわざ書くこともなかっただろうからいいか。

2016/12/10 (Sat)

国立劇場開場50周年記念12月歌舞伎公演 通し狂言『仮名手本忠臣蔵』第三部

http://www.ntj.jac.go.jp/50th/kabuki_chushingura/

八段目から十一段目。

第一部は判官切腹、第二部は勘平でそれなりに見せ場はあったが、やはり後半は圧倒的に見どころ満載だった。

八段目はまた「道行」の舞踊劇で、しかも登場するのは加古川本蔵の妻の戸無瀬と娘の小浪(大星力弥の許嫁)という史実に無関係なキャラなので興味なかったのだが、場の途中で背景がスクロール(違)して東海道の富士山から琵琶湖に変わるところ、そして街道の遙か遠景を嫁入りの行列が通るのが見えるなどの趣向は面白かったです(小学生並のry。

九段目『山科閑居』は一場なのにクソ長い。2時間近くあった。まず由良之助が例によって祇園の茶屋で夜通し遊んで朝帰りする、仲居と幇間が雪玉を転がしながらついてきて何やかんや、この下り「雪転し」は歌舞伎ではカットされることが多く30年ぶりの上演だそうな。それから前の段の戸無瀬と小浪がやって来て力弥と祝言を挙げさせてくれと頼み、由良之助の妻お石が拒絶する。小浪の父親である本蔵は判官が師直に斬りつけた際に羽交い締めにして止めた奴なので(史実では梶川与惣兵衛)、結婚したいなら引き出物に本蔵の首を持ってこいみたいな無理難題をお石が言うと、家の外をウロウロしてた虚無僧が出てきて、その正体は本蔵その人で、敢えて力弥の槍で突かれて本当に自分の首を引き出物にして、さらに高家屋敷の絵図面を土産に持ってきた、という無茶な展開になる。

この段の加古川本蔵は特に難しい役とされているんだそうで、第二部まで由良之助を演じていた松本幸四郎が本蔵をやっている(今回の由良之助は中村梅玉)。最後に絵図面が手に入ったことで討ち入り決行のため鎌倉下向するというので、本蔵が変装に着ていた虚無僧装束を由良之助が受け取って着る。ここで本蔵から由良之助に役が受け継がれるという意味にもとれるんですね。

十段目はこれも有名な天川屋義平。有名なわりに上演されるのはレアと思われるので観たかったやつである。討ち入りの武器調達を頼まれた元塩谷家出入りの廻船問屋・天川屋はことが露見しないように妻を実家に帰し奉公人もほとんどクビにしていたが、押し込んできた武士に子供を人質にとられ討ち入り計画への関与を白状しろと脅される。女子供なら人質作戦は効くかもしれないが「天川屋義平は男でござる!」と武器を隠した長持に腰を下ろして大見得切った義平は逆ギレして刀を奪い自分で子供を刺し殺そうとする、とそこに止める声がかかり由良之助登場。実は暴漢どもは天川屋の信義を試そうとした由良之助配下の浪士達であった、と形としては最後丸く収まるんだけど、試すようなマネしてお前結局疑ってたってことじゃねえかよ由良之助! といまいち釈然としないエピソードである(笑。さらにその後、去り状を書かれた義平の妻お園が子供に会いにやってくる。お園の父は斧九太夫に仕えていた医者で(またこのパターンか)、娘に金目当ての再婚をさせるため義平に離縁状を書かせたのだが、義平に追い返されたお園は暴漢に襲われて髷を切られて離縁状も奪われる。ところがこの暴漢も実は由良之助の手の者で(笑、髷を切るつまり落飾すれば再婚させられることもあるまいし、髪が伸びる頃には一件も片付くから元の鞘に収まればよかろう、てことなんだけどそれにしたっていきなり女を路上で襲って髪を切るなよ! と思いました。この衝撃の展開→ハッピーエンド、を物語上最小限の手順で実現するために善玉のはずの側がムチャクチャなことやってるというの、歌舞伎特有のロジックと当時の人も割り切って理解していたのかどうか、そのへんの感覚がどうだったのかは気になる。

そして十一段目。仮名手本忠臣蔵って必ずしも討ち入りシーンを最重要視してないよね、とか思ってたけどそんなことはなかったぜ。もっともこの辺は元の浄瑠璃とは全然違うらしいですが、今回焼香のシーンは浄瑠璃から拾ってきて再現した、歌舞伎的には新趣向らしい。『高家表門討ち入りの場』『高家広間の場』『高家奥庭泉水の場』『高家柴部屋本懐焼香の場』そして『花水橋引き上げの場』の五場構成でした。でも全部で45分くらい。幕が上がるといきなり表門前に四十六士が勢揃いしてる絵面でテンション上がる。そのシーンは5分もなくて陣太鼓を打ちながら暗転、廻り舞台が回転してる間も次の場まで太鼓が鳴っているという。で、陣太鼓に始まって広間では師直の息子の師泰が意外と奮戦したってところから女子供や茶坊主は斬らずに逃がす、庭の池では小林平八郎が大立ち回り、炭小屋ならぬ柴部屋(浄瑠璃準拠)では矢間重太郎(史実では間十次郎)が一番槍からの師直発見、呼び子笛、と討ち入りシーンのエッセンスは押さえている感じがした。で、一度幕が引かれてから再度開いて五場だった。引き上げの場は途中で桃井若狭之助(塩冶判官の同役で最初に師直に嫌がらせされてた人。史実だと伊達左京亮か)に会って、面々の名前を覚えておきたいので教えてくれと言われて一人ずつ名乗るだけ。ある意味カーテンコールみたいなやつだから一度幕を引いたのか。ちなみに桃井若狭之助役の市川左團次は「来年で役者生活70年、ずいぶんいろんな役をやったな〜とか思ってたら今回初めての役でしたw」みたいなコメントしてた(笑。

あと斬り合いを始める時に二人が、

A「いざ!」

B「いざ!」

A&B「「いざいざいざ!」」

A&B「「い〜〜〜〜ざ〜〜〜〜!」」

みたいなのが何度もあって楽しかったです。

2016/11/24 (Thu)

菊地成孔3DAYS デュオ with 山下洋輔

於、新宿PIT INN

http://www.m-works.info/pitinn/night_detail.php?YEAR=2016&MONTH=11&DAY=24

3DAYSの3日目。なんで昨日(祝日)のソロじゃなくて今日にしたんだっけ……売り切れてたからか?

なんとなくジャズを聴くようになって以来、ジャズの現場にも一度くらい行ってみたほうがいいよなあ、とはずっと思っていた。

ジャズバーなら近所にもあるので、まずそういうところに行くべきなのかもしれないが、正直安くはないチャージを払って知らない人を聴きに行く気にもならん。

ところが、ちょっと調べてみると一時期ニューヨークでジャズメッセンジャーズのレギュラーメンバーだったような人がたまにうちの近所のジャズバーに来てやってたりするので、どういう世界なんだよと思いつつ、行くチャンスを窺っていたものの平日が多いのでなかなかタイミングが合わない。それに小さいジャズバーって大抵ほぼ全面的に店主の趣味でやってるので見るからに常連客以外は入り込めない雰囲気だったりして二の足を踏んでいた。

そこでなんで菊地成孔なのかというと、この話はかなり長くなりそうである(笑。

あえて一言でいうと『憂鬱と官能を教えた学校』という本がムッチャクチャ面白かったから。もともと映画美学校というNGO系の専門学校(?)で音楽理論の基礎を短期集中講義で教えるというのを菊池成孔大谷能生がやっていて、フジテレビ系のTV番組にもなり、講義録が本になったのがこれ。同じ二人が東大で講義した『東京大学のアルバート・アイラー』もかなり面白かった。特に『憂鬱〜』については昔mixiの日記にも書いたのだが、(俺にとっては)一度読んで内容が全部頭に入るような本ではないので今も折に触れて読み直している。読むたびに少しずつ理解が深まって、ようやくわかりかけてきたというところか。『憂鬱〜』は音楽理論の本だが、ジャズの革命であるビバップ、その「特定のルールに基づくゲーム的即興演奏」という側面を解析するツールとして極めて有効だったバークリー・メソッドという理論、が話の軸になっているので必然的にジャズの話になる。続編にあたる東大アイラーはずばりジャズ史。これらの本で「ジャズを語る菊池成孔」がべらぼうに面白いのである。その彼本人もジャズミュージシャンなのだから、じゃあやってる音楽も聴いてみようとなるのは自然な流れであろう。

ところが、これが全然わからないのである(笑。

俺がジャズとして聴けるのはビバップからせいぜいモードジャズくらいまでの、いわゆるジャズっぽいコテコテのジャズであって、フュージョンと呼ばれるのになるともうなんか違くね? という感じだしフリージャズはさっぱり意味わからんし、それ以降となると本当にジャズと認識できない。菊池成孔が今やってる音楽は(研究者らしく)ジャズと呼ばれるもののまさに最先端であって、俺の第一印象は「これヒップホップが入ってるよね?」という感じだった。いやヒップホップじゃなくてジャズが聴きたいんですけど、と思って、菊池成孔ソロ、バンド、各種ユニットなど手当たり次第に聴いてみたが俺の想定する「ジャズらしいジャズ」は一つもなかった(笑。もしかすると一番それに近いのはガンダムのサントラなのかもしれない。本編観てないので聴いてないんだけど。

文脈的には Robert Glasper 以後のいわゆる「今ジャズ」にはヒップホップ的要素が入ってるのは当たり前で、ごく大雑把にいうとジャズもヒップホップもブラックカルチャーが発祥という点で当然繋がっている、ということらしい。それは確かに菊地成孔が昔から言ってることとも一致している。

そんなわけで純文学に興味ないのと同じで最新のジャズにも興味ないので、ジャズのリスナーとしての俺はやはり近所のジャズバーで古くさいジャズを聴いているべきなのだろうが、それとは別に「菊地成孔のライブ」も一度観ておくべきだろうと思い、さらに斯界のメッカともいえる新宿ピットインに行く機会でもある。

以上が行った理由の説明である。長い。

共演の山下洋輔は言うまでもなくフリージャズであり、昔何かのイベントで観たことがあるがやはり全然わからなかった。なので山下洋輔って時点で俺に「わからない」ことは確定なんだよなあ(笑。しかし、この二人の共通点として俺は山下洋輔の書いた文章も好きなのである。スタイルは友人でもある筒井康隆の文体の亜流だが、演奏活動に関するエッセイは無類に面白い。ジャズ関係者の文章という点ではとり・みき先生のエッセイにもちょっと通じるものがあるかもしれない。でも演奏を聴くとわからない、というところも菊地成孔と一緒だ。

そう、これも補足しておくべきかもしれないけど上に挙げた講義録は菊地成孔と大谷能生の共著であって、「書物としての主著者は大谷能生」と明言されている通りテキストとしてはむしろ大谷能生のものなんですね。だから菊地成孔の文章が好きというわけではないかもしれない、これは言っておく必要がある。というのも本人の文章は長いしすごい悪文でひたすら読みにくいのである。挙げ句「書いてもちゃんと読まれない、インターネット時代でみんな長文を読めなくなった」とか文句言うてるけどお前の文章がまずいんだよ! と言いたくなる。長い悪文て人のことは全然言えませんが。サブカル女子に大人気という菊地成孔の映画評も俺には期待した面白さではなかった。そもそも観たことある映画が全然ない。記憶に新しい『セッション』をめぐる町山智浩との論争も、世間的には「両者とも自分の専門領域における見識を前提にした主張に説得力があり、意義のある議論だった」みたいに評価されてたが、俺に言わせると明らかに町山氏に軍配が上がったと思う。しかもそこで終わっていればまだしも、菊地成孔はいまだに町山氏を「町山保安官」などと揶揄しており、彼が映画評論家としての業界での勢力を背景にして取り巻きをけしかけ自分を攻撃させたかのように示唆する中傷を繰り返している。そんな事実はないだろうしむしろあんまり相手にされてなかったような……。一連の論争が自分の「負け」だと考えているのなら都合の悪い過去をしつこく蒸し返すようなことはしないだろうし、本気でそう思ってるんだろうなあ。この点はみっともないし明確に菊池成孔の失点だなあと思った。最近は無料のインターネットから撤退するとか言ってブログもやめちゃいましたが。別に人格高潔であることを評価しているわけではないからいいんだけど。閑話休題。

俺の理解では菊地成孔の最近の(?)トレンドはダンスミュージックであって、「ポピュラーミュージックを座って聴くなんて」みたいなこともさかんに言ってるし、現場もそんな雰囲気で客にも変なノリが要求されるのかもと覚悟して行ったのだが(俺も変な幻想を抱きすぎである)、前のほうが椅子席だったので拍子抜けした。そういうのはそれこそ前日のソロでやってたのだろう。で、新宿ピットインてそんなに広くないのね。せいぜいキャパ200くらいかな。開演ギリギリに着いたので最初は全くステージが見えなくて難儀したが、1stセット後の休憩時間もずっとその場で頑張ってたら後半は見通しがよくなった。助かった。

ステージは曲とインプロを交互にやる構成ということだったが、前半は「即興のつもりだったのに曲になっちゃった」というのが2回あり(そんなことがあるのか)、それぞれ『グガン』、『ミナのセカンド・テーマ』という山下洋輔の代表曲。エッセイによく出てくるのでタイトルは知ってるが聴くのは初めてである。山下洋輔の音源もアルバム1枚くらいしか聴いたことがない。即興というのはまず片方が何か演奏を始め、もう一人がそれに反応する、という形になるのだが、山下洋輔はもともとフリージャズの精神であらゆるコラボを受けて立ち、暗黒舞踏やら何やらどんな異ジャンルの表現とでも即興演奏で共演するというアントニオ猪木的なポリシーでありそのことはエッセイにも繰り返し書かれているので、俺はその線で理解に努めようとしてきたのだが、いくら聴いてもどこでどう共演者に反応しているのかわからん。もっと死ぬほど聴き続ければわかるようになってくるのか? ただ聴いてるだけではダメなのか? 全然わからんのにまだ聴こうとしている俺が一番スノッブなのかもしれない。だから演奏している両者の姿が目に見えていればまた何か伝わってくるものはあるのかなとも考えてみたのだが、そんなこともなかったぜ。わからん。全くわからん。大トリの『大きな古時計』なんか(これは曲だけど)エンディングのアドリブで明らかに両者の息が合わなくてなかなか終われないみたいな感じになってたし。それが感じられるようになっただけでも進歩というべきか。しかし『大きな古時計』という選曲もどうなんだ。なるほど誰でも知ってる曲ではあろうがなんか安直な感じがする。平井堅がカバーしてたせいか(笑。

しかし一方で、「曲」つまりスタンダード曲をアドリブ演奏するやつは意外とよかった。つまり俺が考えるところのジャズ的なプレーになっていた。 Charles Mingus の"Orange was the Color of Her Dress, then Blue Silk"、Duke Ellington の"Black and Tan Fantasy" とか。こういうのが聴きたかったんだよ。こうしてみるとピアノとサックスて俺の一番好きな組み合わせだし。今思ったけど山下洋輔トリオにいた時代の菊地成孔というのは聴いたことがない。それを聴くべきだったのか。今CD入手できるのかわからんけど。山下トリオのアルバムでスタンダード曲なんかやってないだろうけど。閑話休題。惜しむらくはあまり知らない曲ばかりだったので、もっとよく知ってる曲をやってくれればどんなもんか判断する基準になったのになーと思った。

あと即興部門(違)で、アルトサックスの最低音をなるべく太く出すてのを(たぶん)やってたんだけど、ピアノと合わせてこの感じなんか聴き覚えあるぞ、と思って必死に記憶を辿ったら、カウボーイビバップのサントラではないか、という結論になり、菊地成孔はVitaminlessにも参加してたじゃん! つながった! と思ったんだけどあとで確認したら曲が合わないので違ったみたい(笑。

2016/11/22 (Tue)

目が開かない系お姉さん

目の下にクマに続くマイナー属性、というかそれなりに定番なのに注目されてなさそうな属性に言及してみる。

男が糸目に描かれるのはほぼ全て「地味キャラ」の表現で、それどころかアジア人に対する人種差別的な表現とか言われてそれでポケモンのアニメからタケシは姿を消したなんて都市伝説(?)までありましたが、それと絵的な表現は同じでもヒロインになると美人として扱われているケースが多い気がする。あとお姉さんキャラが多い気がする。統計的根拠はなく印象のみで言ってますが。

例によって記憶に残ってるのを今思い出した範囲でピックアップしてるだけなので有名どころが漏れてたり逆にどマイナーなのが入ってたりすると思います。まあTVアニメ中心なので、そこまで普及した表現であるということで。

最古の例は何だろう? てところは今後も追っていきたいですね。

大河内紫乃(『かんなぎ』)

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みんなでカラオケに行った時に副部長だけ歌わなかったのはなぜ? と訊かれて、部長いわく「だって目が開いちゃったら大変じゃない!」みたいなオチになっていた。声は中原麻衣。

赤座あかね(『ゆるゆり』)

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あまり観てないのでよく知らんのですが、主人公の出来のいい姉というポジションなのでお茶目な美人という設定だと思う。堀江由衣だし。

宮内一穂(『のんのんびより』)

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名塚佳織。テンション低く寝ていることが多いので「眠そうな顔」という表現か。

轟八千代(『WORKING!』)

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アニメではごく稀に目が開きかける描写があるものの瞬間的なもので、ほぼ完全に糸目オンリーです。いつもニコニコしてるイメージでもある。キタエリ。

趙雲子龍(『一騎当千』)

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これは明らかに「目を瞑っている」という表現なのでここに入れるのは違う気もしますが。

しかも聖闘士星矢における乙女座のシャカ的なやつですよねこれ。小宇宙を高めている的な。

TVアニメしか観てないので目が開いたことがあるのかどうかは知らない。

小平先生(『あんハピ♪』)

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この人は「常に笑顔」というニュアンスが強いですね。なので表情が変わる際はわりと簡単に(?)目が開きます。原由実。

後手キルカ(『灼熱の卓球娘』)

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この人も食えないキャラなのでデフォルト笑顔という感じ。本気の片鱗を見せると目が開きます。

2016/11/20 (Sun)

『聖の青春』

http://satoshi-movie.jp

予告を観た段階である程度わかっていたけど、原作が全て実名なのに対して、村山と羽生、師匠の森信雄以外の関係者は名前を変えてある。私小説風にモデルが分かる名前にはなってるけど。

というのも、登場人物を整理するために村山に関わった複数の人物の逸話をまとめて一人のキャラにしてるんですね。名前的には明らかに先崎学がモデルの「荒崎学」も、泥酔した村山を新車に乗せたら車内でゲロを吐かれたという逸話は佐藤康光のもの。ちなみに荒崎の役は柄本Jr.でビジュアル的にも全然先崎じゃないw 先崎と村山の関係も天才肌同士で一脈通じ合っていた部分はあったはずなのだが、荒崎は村山の周囲で振り回される俗物の一人になっている。まあ、そこは映画として羽生との関係にフォーカスする上では焦点がズレるのでオミットしていいけど、手法が完全にフィクションのそれなのでさすがに一線を超えてしまっているなあ、と感じた。最後に「原作『聖の青春』を元にしたフィクションです。事実と異なる描写があります」という文言が出るのも、ひょっとして関係者から何か申し入れがあったのかしら。

上記の荒崎と、ヤスケンの橘正一郎七段(おおよそは滝誠一郎七段がモデル)、染谷将太の弟弟子・江川(奨励会退会が決まった日に酔った村山と殴り合いを演じるエピソード以外は存在そのものがフィクションに近い)の三人が主に村山に関わるキャラになってます。

それから、村山が羽生を定食屋デートに誘うという有名な逸話も、たまたま関西に来ていた羽生と将棋会館の近くでバッタリ会ったのを、行きつけの店に連れて行った、という流れであって、そのデティールの全てが大事だと思うんだけど、この映画ではあろうことかタイトル戦の終局直後に対局者同士が二人で酒を飲みに行くという展開になっている。第一にそこまでシチュエーションを変えたらエピソードの意味も変わっちゃうし、第二に将棋界の常識からしてありえない。いかに盤上を離れれば勝負は関係ないゲーム感覚と言われた羽生世代とはいえ、ちょっとした事件である。

いつもの原作至上主義と言われるだろうが、その範疇に収まらない問題を含んでるよなあこれは。原作がノンフィクションではあるし。というわけで絶賛するには至らなかった。原作を読んだほうがいいです。

松山ケンイチの村山聖は文句なしだった。東出昌大も黙っていれば対局姿は羽生に見える瞬間もあるのだが喋ると台無しだった。つまり全て予想通りだった。あと、田丸昇九段にソックリな人が出ていて、なにも田丸九段をそこまで完全再現しなくてもいいのに、と思ってたら本人だった(笑。

2016/11/19 (Sat)

国立劇場開場50周年記念11月歌舞伎公演 通し狂言『仮名手本忠臣蔵』第二部

http://www.ntj.jac.go.jp/50th/kabuki_chushingura/

前回に続き第二部。

第二部は五段目から七段目。五段目と六段目はお軽と勘平だし七段目は祇園の茶屋。三部構成の二部なんてこんなもんかーと思ってたけど、さすがにそれなりのスペクタクルはあるね。ていうか一般的には五段目六段目は大人気なのね。

五段目の道行なんて興味ゼロだったが、腹を切ろうとしたのを止められて刀を手放した状態で鷺坂伴内に襲われた勘平が素手で伴内&子分の花四天を蹴散らす立ち回りはなんか違和感あった。女に現を抜かしてるくせにそこは強いのかよ、と。つか史実の萱野三平は小身だからそのイメージだったけど、仮名手本の早野勘平って百五十石なのね。

あとは有名な猪暴走シーン(笑)と、斧定九郎。定九郎はもともと普通の山賊の格好でつまらん役だったのを、初代中村仲蔵がスタイリッシュな色悪として造形して演じたのが一躍人気キャラになって定着した、という噺が落語の『中村仲蔵』で、五代目志ん生がやってたので聴いたことがあった。登場シーンで稲叢から腕だけ出して財布を掴むところ(これはまた別の役者が工夫した型)がすごいって触れ込みだったのでそこに注目してたのだが期待したほどのインパクトはなかったなあ。

2016/10/08 (Sat)

国立劇場開場50周年記念十月歌舞伎公演 通し狂言『仮名手本忠臣蔵』第一部

http://www.ntj.jac.go.jp/50th/kabuki_chushingura/

普通、通し狂言といってもやらない段があったりするんですが、今回は上演可能なシーンは全部やるというガチの完全通し狂言ということで滅多にないチャンスなので行ってきました。

「口上人形」

 大序「鶴ヶ岡社頭兜改めの場」で幕を開ける『仮名手本忠臣蔵』。開演時刻は午前11時ですが、その10分前にはご着席を。開演前に幕の外に「口上人形」が出て来て、【第一部】の役人替名(やくにんかえな:配役)を「エヘン、エヘン」と言いながら告げていきます。 

 天王立下り羽(てんのうだちさがりは)という荘重な音楽と、「四十七」回打たれる柝の音とともに幕が開きますが、舞台上の人物たちは「人形身(にんぎょうみ)」と言って、始めは皆うつむいてじっとしていて、各々、義太夫に役名を語られて初めて動き出します。

 どちらも原作の人形浄瑠璃に対する敬意の表れと言えます。

 『仮名手本忠臣蔵』に独特な舞台挨拶「口上人形」もどうぞお見逃しなく!

こんなのもやってた。

第一部は四段目、判官切腹までだけれどもその四段目も切腹の前の「花献上」の場とか、浄瑠璃ではやっても歌舞伎では普通やらないシーンまでちゃんとやる。

お軽と勘平とかは個人的にはどうでもいい部分なんだけど、三段目の「足利館門前の場」いわゆる「文使い」のシーンを見ると、顔世御前はこの文(高師直への返歌)を、判官のお務めが無事終わってから届けろというニュアンスで「急がずともよい」と指示するんだけど言われたお軽は早く勘平に会いたいがためにすぐ持ってきてしまって、そのせいで文が最悪のタイミングで判官から師直に渡されて読まれ、刃傷の一因となる、という流れになってるんですね。初めてちゃんと理解した。加古川本蔵が最後(九段目)虚無僧になって絵図面を持ってきて力弥に討たれるとかもほとんど意味不明と思ってたけど(笑、二段目を踏まえて観るとわかるようになっているのか。俺はどっちかというと仮名手本ヲタではなくて史実ベースに戻していろいろエピソードも増やした忠臣蔵が好きなんだけど、『仮名手本〜』もこれはこれで凄く完成度が高い(当たり前だ。

そんな感じで観て初めてわかることも多かったが、むしろ通し狂言を観るより先にちゃんと戯曲を読んでおくべきだった。歌舞伎のやつはあまり手軽に読めるのがないんだよな。

浄瑠璃本は岩波文庫のを持ってるが浄瑠璃の詞章って台本形式にすら全然なってないしとても素人が読めたもんじゃないんだよね。

なので今回上演台本が売ってたのに(しかも安い)完売しちゃってたのは惜しかった。

2016/09/21 (Wed)

『君の名は。』

新海誠監督というと昔『ほしのこえ』を観て正直あまり感心しなかったのでそれっきりだったのですが、先日、今回の映画の特番でTV放送した『秒速5センチメートル』を録画して観たら個人的に刺さったので、観てきましたよ。すごい評判ですね。平日夜だってのに俺の定位置・最前列中央の両隣も埋まってほぼ満席。なかなかないことだ。

俺は秒速5センチメートルの主人公である「昔のことをずーっと引きずったまま人生を棒に振りかけている男」にムチャクチャ感情移入したままの状態だったので(笑、今回終盤の展開に「秒速じゃん! 秒速のハッピーエンディングバージョンじゃん!!」てなった。俺たちは救われた。ありがとう新海監督ありがとう。三葉ちゃんかわいい。

『ゴールデンタイム』が『とらドラ』のテーマを発展させながら引き継ぎつつ前作のやり残しを拾い上げて描いたように、『イリヤ〜』の幻の最終章「南の島」を次回作『ミナミノミナミノ』が実現する(はずだった)ように、『秒速〜』は『君の名は。』によって救われたのだ。

それこそいつか見た夢のように、映画の原風景はどこか各作品で共通していて、ある部分で前作(ではないが)を克服したりしなかったりする、そういうタイプの作家なのであればやはりフィルモグラフィーを追って観るべきなのだろう。

でも俺個人の鑑賞体験としてはおそらく秒速→君の名はがピークになるだろうという気はする……。つか秒速を観たの本当につい最近なので、むしろこれ観るの早すぎたというか、もっとあの気分を引っぱってから観るべきだったな(笑。

2016/09/03 (Sat)

『アイアムアヒーロー』(映画のほう)

原作は未読。

ゾンビ映画ってほとんど観てないのでわからんのですが、感染したけど発症しきらず半分だけゾンビみたいな状態になるのって最近流行ってるというか当たり前なのかな。『がっこうぐらし』にも一人いたよね。このネタはいつ頃からあって最初にやったのは誰だろう、とジャンルを全然知らないのにそこが気になった。

『幽幻道士』で自爆して死んだメンバーがキョンシーとして仲間(?)に戻ってくる展開があったなあ、と思ったがそれは趣旨が違うし遡りすぎですね、たぶん。

『太陽』

原作が戯曲なんだそうで、元がどんな芝居だったかありありと目に浮かぶというか、それをそのまんま映画で見せられた感じ。

三谷幸喜の初期の映画にも顕著だったけど、舞台だからこそ成り立つノリをそのまま映画でやっちゃうと浮き上がること甚だしい。

決してつまらない映画ではないが、ジャパンの芝居っていまだにこんなノリなのか……というのを胸ヤケするほど味わってげんなりした。

なんか演技まで舞台ノリで、「感極まった人物が喚きながら覚束ない足どりでふらふらよろめいて歩き回る」みたいな舞台特有の(陳腐な)動きをそのままやってた。別に舞台役者を使ってるわけじゃなし、わざわざそういう演出をつけたのかしら。舞台じゃなくて普通にいわゆるダメな邦画の特徴でもあるのだろうか。

あとディストピアって、未来は本当にこうなっちゃうかもなぁという不安要素が現実にあるからこそ怖いのであって、ディストピア像は時代を反映するというか、「いや、こんな未来にはならないってことはもうハッキリわかったよね?」みたいな古くさいディストピア観を今やられると死ぬほど興醒める。現在恐るべき未来はもっと他にあるでしょうよ。俺がノイタミナの某近未来SF警察ものアニメを当時全力でdisったのも同じ理由である。別に古い作品に価値がないわけではないし、「時代を反映」とか自分で言ってても嘘くさくてイヤなんだけど、どういうわけかディストピア像が古いのだけは大嫌いなのだった(笑。

2016/08/19 (Fri)

『アクセル・ワールド INFINITE∞BURST』

まず言いたいんですけど新宿ピカデリー、予告篇長すぎね? いやピカデリーでもいつもはそれほど感じないが今回は常軌を逸していた。本編が短い映画だとチャンスとばかり予告の尺を長くとってたりするんだろうか。『真田十勇士』なんて中村勘九郎がナビする劇場専用の予告と通常の予告と二回流れたやないか。

めんどくさいのでもうここからネタバレ無制限にします。

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