情報化と監視社会

痴漢冤罪のニュースをよく見かけますが、一般に冤罪をなくすことはできるでしょうか?

痴漢が人ごみの中に隠れようとするように、犯罪者は捕まらないように無害なグループの中に自分を隠します。そのような状態では犯人を特定するのは難しくなるからです。このとき被害者が間違って無実の人を捕まえると冤罪ができてしまいます。また逆に、これを利用することもできます。痴漢の被害者のフリをして無実の人を犯人にし、賠償をとるといったようなことです。

前者では犯罪者は人ごみの中に隠れていることに対して、後者では犯罪者は被害者の中に隠れています。犯罪者が隠れる対象は違いますが構造は同じです。犯罪者はあるグループに隠れることで犯罪から得た利益を無償で得ることができます。その代償が冤罪ともいえます。


冤罪というのは本質的に害を与える人と与えられた人の区別に失敗している状態です。これは、もっと簡単にいうと「悪いもの」と「良いもの」の区別に失敗しているということです。あるグループから「悪いもの」をどのように区別するかということが問題ということです。

これは病気の治療にも似ています。病原体をどのようにあぶりだして攻撃するか。ワクチンは犯人の写真、名前が分かっているときに有効です。しかしながら、一般には犯人の特徴ははっきりしません。薬には副作用があります。現在の癌治療などは冤罪の人を巻き込みながら犯人を殺しているようなものかもしれません。


どのようにしてターゲットだけを攻撃するか、これは「犯人の特徴」をどの程度まで絞れるかに依存します。これは、つまり、ターゲットの振る舞いを観察してその振る舞いを判断するということです。観察の精度が上がれば上がるほど判断の精度も上がるとすれば、これを強化していく方向に進むと考えられます。


情報化社会においてはより多くの情報を扱うことが可能になります。それはより多くの情報を記録することができ、その記録を意味のあるものにすることができるということです。このため、情報化によって、病気のようなミクロレベルから、社会的な犯罪といったマクロレベルまで監視が進むのではないかと考えられます。監視というと悪いイメージが先行しますが、そのような超監視社会はこれまでよりもより多くの「悪」というのをあぶりだして冤罪を少なくしていくのではないかと思います。

自信過剰戦略は有効か?

自分の能力を実際より高く評価することが成功を招く場合のあることが、新たな研究で明らかになった。

このモデルではXとYという2名の人物を仮定し、さまざまな種類のリソースを奪い合う設定とした。

シミュレーションの結果によると、相手の本当の実力に不確定要素があり、争いの対象となる獲得物がもたらすメリットが争いのコストを大きく上回る場合にのみ、自信過剰な戦略をとった方が有利になるという。


人間の自信過剰は進化の置き土産?


自信過剰バイアスがかかる理由の進化論的な説明の記事がありました。この記事では一人が自信過剰、もう一人がそうでない場合の考察になっていてこの場合は自信過剰な方がより利益を得られるようです。ただし、この結果を自信過剰バイアスの説明にするのはちょっと早いと思います。自信過剰な人が一人の場合はその人が一人勝ちになるのは記事の結果からも予想されますが、2人以上になったときにその戦略の有効性に疑問があるからです。


これは鷹鳩ゲームとそのプレーヤー集合の関係に似ています。つまり、自信過剰戦略が増えると争いのコストが増えて結果的にその戦略のプレーヤーは損失が大きくなります。このため自信過剰戦略は常に有効ではなくなるので、それが人の性質に深く入っていく説明としては弱いと考えられます。


それでは何が自信過剰の元になっているかということですが、一種のポーカーフェイスのようなものではないかと思います。思考実験ですが、自信過剰というものがない世界を考えてみます。この世界では物事がうまくいく人、そうでない人を見分けることが容易です。その人が自信を持っているように見えるかどうかを見分ければよいからです。うまくいっている人は何らかの資産(実力なども含む)をもっているので、他者が関わりを持とうとして利益を得る機会が増え、さらにうまくいくという循環ができます。一方うまくいかない人はその循環からも取り残されるでさらに不利になります。


このようなとき、有利な循環に乗るために自信があるふりをするのは有効です。自信というのは感情を伴うので最初は「ふり」だけだったのが徐々に感覚的なものになりバイアスとして組み込まれていったのではないかと思います。ただし、このような「ふり」が増えてくると取引する側も自信をある程度割引する必要が出てくるので、行き過ぎない程度に自信のバイアスが上乗せされてきたと考えられます。


また、元記事でも指摘がありますが、「相手の本当の実力に不確定要素」があるときにだけ有効でしょう。ネット、コンピュータが発達して個人の実力がパブリックな記録として蓄積されていく中では自信過剰というのは逆に信用を落とす不利なものになるかもしれません。

理系と文系

理系と文系という分け方は人を分類するのによく使われます。高校、大学で何を中心に学んだかであるとか、何に興味を持っているか、といった軸での分類です。しかしながら、文系と言っても経済学のように数学を用いて構成されるものもあることを考えると、この分類は少しずれているような気もします。そういうわけで人を分類する上で以下の枠組みで考えてみます。

  • 理系 自然を理解するタイプ
  • 文系 人を理解するタイプ


ここでいう自然は広い意味でのものです。何らかの論理、法則に従うものを自然と呼んでいます。文系での人は人の集まりだったり、感情的なものを意味します。ここで重要なのは、この「自然」「人」は全く別のルールで動いていると言うことです。「自然」は論理が支配するのに対して、「人」は感情的なもので動きます。このため理系と文系の思考様式は全く違うものになります。理系は自然がどのような状態か、またどのように変化するかが主な興味になりますが、文系はある物事に対して人がどのように感じるかが主な興味です。理系は自然を操作するのに対して文系は人を操作します。


さらに、自然をいれて単純化すると、じゃんけんのような面白い関係になります。

  • (r1) 理系は自然よりも強い。
  • (r2) 文系は理系よりも強い。
  • (r3) 自然は文系よりも強い。


理系は自然をコントロールできますが、文系にはコントロールされます。理系も人だからです。ただし、文系には自然は理解できずコントロールは出来ません。

この力関係は社会の発展において重要な役割を持ちそうです。社会の形成には文系が必要ですが、自然を理解して発展していくには理系が必要です。社会において文系が権限を持ちすぎると自然のコントロールに失敗して社会を維持することが難しくなり、理系が権限を持ちすぎると社会を形成することが難しくなります。力関係を考えると、一つの社会の中では文系が有利になりますが、社会の単位で生き残るには理系が有利である必要があります。歴史的にはこの2つのタイプをうまく調和してきた社会が力を持ってきたものと考えられます。


現在でいうと、国、自治体、会社といった単位で競争が行われていると考えられますが、これらの競争では、理系と文系の権限を配分するシステムが非常に重要になってきます。システムは、理系、文系に対してどのように評価を行っていき、どのように権限を与えていくかを規定します。グループとしてまとまりがなければ文系の権限が弱い、グループの競争力が低い場合は理系の権限が弱いのだと思います。

プログラムの自動生成は可能か?

要求をインプットすればそれを実現するプログラムが生成できる、そのようなことが可能かどうかについてです。設計から自動的にプログラムのベースを出力したり、visualにマウスだけでプログラミングできるツールというものがあります。これらが発展していったときに最終的に自動的なプログラム生成ができるようになるかですが、これは基本的には不可能だと思っています。(もちろん、人間の思考をエミュレートするまで技術が発展したとすると話は別です。)


言語というのは世界モデル、概念を記述するためのルールセットです。人が通常使う自然言語のようにプログラム言語も世界を記述します。ある言語で世界を記述する場合、どのくらいの簡潔さで対象を記述できるかどうか、これが言語の言語としての優秀さであると考えられますが、どの概念も同じように簡潔に記述することは不可能です。そのため、どれを簡潔に記述可能にしてどれを犠牲にするかというトレードオフが発生します。このトレードオフに関する違いが言語の違いと考えられます。


何を簡潔に伝えられるようにするかは、何に価値を置くかとも考えられるので、言語の違いは価値観の体系の違いともいえそうです。プログラミング言語はコンピュータの概念を表しやすいように論理的な側面が強いものとなり、自然言語は人の感覚的なものを記述しやすいように進化してきたのではないかと思われます。


本題のプログラム生成についてですが、これを考えるにあたり「要求が何か」を明確にする必要がありそうです。要求とはビジネスを機械に実行させることです。このことは以下の2つに分けることができます。

  • (1) ビジネスを論理的な形式で書き下すこと(論理モデルを構成すること)
  • (2) (1)のモデルを機械で実行可能にすること。

(2)に関しては機械語のような低レベル言語からスクリプトなどの高級言語への構成によってほぼ自動化することができますが、(1)に関しては「ビジネスとは何か」ということを明らかにする必要があります。英語翻訳はどのようにすればよいか、商品の価値をどのように測ればよいか、ある機能は将来どれくらい使われそうか、例えばこのようなことを論理モデルによって構成することが(1)には必要です。


高級言語によって論理モデルをプログラム言語で記述することは非常に容易になっていますが、ビジネスの論理モデルを記述することは難しいままです。それは日本語のような自然言語でも同じように難しいことです。それはビジネスそのものを意味していて同程度の記述の難しさがあります。もしもプログラムの自動生成ができるシステムができた場合、それに入力すべきデータは高級言語でのプログラミングと同様のものになると思います。

規則性と複雑さと理解

「同じ著者の小説をつなげてzip圧縮したら、複数の著者の小説をつなげて圧縮するよりも圧縮率がいいから著者推定に使える!」って論文が見つかった。


http://twitter.com/kikuzone/status/17729447701


二つの文字列A,Bが「近け」れば「近い」ほど(A+B)の圧縮率が高くなるというのは、昔からありそうでない新しい見方に思います。単純に文字列を比較するときは、編集距離(レーベンシュタイン距離)が思い浮かびますが、自明でないパターンを共通項にもつような場合はこの「近さ」は向かないかもしれません。


圧縮による「近さ」が面白いのは、いろいろな形式のデータに適用可能であるということです。テキストはもちろん、画像形式や音楽ファイルなどにも適用できるかもしれません。特に人が似ていると感じるときに(脳内で)処理されていると思われる不可逆圧縮にまで広げると面白い結果になるのではないかと思います。


集合において距離という量は重要です。距離によって「近さ」が定義でき、似たようなグループを構成することができるからです。距離は構造化、抽象化をする上で根本的なものだと思います。人が世界にあるものを構造化して理解するプロセスでは何らかの類似性の判断に基づいて概念形成をしていくと考えると、特定の圧縮アルゴリズムと概念形成は対応していると考えることができます。


ここで圧縮についてですが、この操作は複雑さを計算しているといえます。規則性が強い文字列は圧縮率が高く、ランダムであるほど圧縮率が低くなるからです。複雑さといえばコルモゴロフ複雑性がありますが、これは、以下の面白い性質を持っています。

コルモゴロフ複雑性に関する計算理論上の興味深い帰結のひとつは、コルモゴロフ複雑性が実効的に計算できないということである。

また、コルモゴロフ複雑性が計算不能であるという事実は、すべての文字列 x に対してコルモゴロフ複雑性がしめす究極の圧縮を実現するプログラムを作ることが原理的に不可能であるということを意味している。


コルモゴロフ複雑性


つまり、世界の完全な理解(=究極の圧縮アルゴリズム)は計算不可能と言えます。プログラミングで言うと名前空間の設計がそのまま対応しそうです。逆にいうと、どれが最適解かが分からないので理解の仕方にはどれも可能性があって、多様なものの見方、考え方が重要であるともいえます。

殺し合いの構造

3つの異なる民族(セルビア,クロアチア,ボスニア)の友人のグループが民族紛争に巻き込まれていく話です。

ある事件をきっかけにして、クラスの席が民族ごとに別れるようになり、大人同士が喧嘩をするようになり、そして十分に下地ができてくると、突然、民兵となって殺し合いが始まります。そういう状況でもこっそり会っていた友人たちは殺し合いに巻き込まれて、民兵に殺されていきました。

筆者は、友人たちを殺した民兵と対立する民兵に助けてもらいますが、彼らもまた他の民族に対しては同様の振る舞いをしていました。絶対的な悪であると思っていた民族も他の民族から同様の被害を受けていたようです。

戦争の体験談を語るわ その1
戦争の体験談を語るわ その2
戦争の体験談を語るわ 完結


この話を読むと、起こっている紛争が解決のしようのないどうしようもない問題に思えてきます。互いの人たちは平和を望んでいるのに全体としては殺し合いになってしまい、それを認識していても止める手立てが無いからです。この問題は以下の要因が絡まっているように思います。

  • (1) 一般に協力する規模が大きいほど利益が大きく、そのグループの形成に民族、宗教が作用する
  • (2) 悪人が他グループに作用したときに他グループからは悪人のグループ全体からの攻撃と認識される
  • (3) 以下引用にあるように相手が自分を殺す可能性を潰さざるを得なくなる

試しに、ちょっとした思考実験をやってみよう。ある無人島に2人の人間が漂着したとしよう。

自分が「確実に」生き残るための唯一の方法は、相手を殺すことだ。相手が自分を殺そうとしているという疑念を100%払拭する方法が存在しないからだ。馬券と違って自分の命はかけがえの無いものなので、例え確率が低くても殺される可能性があるなら、自分が先手を打って殺してしまった方が良い。だから、ふたりがどれだけ平和を願っていたとしても、その彼ら自身が凄惨に殺しあう可能性は高い。というより、上の条件から導かれる唯一の結末は、無人島に着くなり互いに殺し合いを始めることなのだ。ふたりは自分たちの置かれた状況を考慮して「今後無人島で生活していく間に相手が自分を殺そうとする確率はゼロではない。それなら先手必勝だ」と瞬時に判断し、同時にナイフを抜くわけだ。

平和主義を唱える人たちへ


ちなみに、この話はフィクションであると言うことが以下にありますが、印象的な文があったので引用します。

戦争の体験談を語るわ 後日談


どうしようもない避けられない理不尽に対して

神が相手を許せと言うなら、相手を許さずに同じ事をする僕達を許せ
そして神は結局何も出来ない。神の意志でこの苦難を起こしているのだとしたら、
神は僕にとって悪魔だ


その理不尽を受けた人の内側

何故多くの戦争体験者が死が近くなった時になって体験を語るのか。
何故、亡くなった後に手記が見つかるのか。
何故、一部の体験者しか世に体験を広めようとしないのか。


リアルとされていることについて

どちらが正しいかなんて、自分で判断するしかない。
なぜなら、プロパガンダを流す側にとっては、それが正しいからだ。
そして片方にとっては、その正しいことが間違いなんだ。

CDが売れなくなった理由

日本のCDが売れなくなっているそうです。コピーがネットに出回ってCDを買う人がいなくなったという意見もあるようですが、もう少し大きい変化が背後にあると思います。


ネットが使われ始めて世界の情報に簡単にアクセスできるようになりました。情報の転送速度は増えて海外の情報は文字だけでなく音声、映像など大きな容量を必要とするファイルもやり取りできるようになっています。その結果、世界中のコンテンツにアクセスできるようになり、ネット上に大量のコンテンツが集まるようになりました。


ネット以前では、日本人は日本で作られた音楽を消費してきました。輸入版もありますが、日本のものと比べアクセスが難しい状態だったと思います。それが突然、大量の良質な音楽があふれるようになるとどうなるか。一人の人が消費できる音楽には上限があります。つまり、今まで消費していた日本の音楽に向けられる関心、時間が少なくなるということです。これは、もしも個人のCDにかける金額が昔と変わらなくても、情報がグローバルになることで日本でのCDの売り上げが落ちることを意味します。


これはCD売り上げの競争が日本内でのものから世界レベルでのものになったことを意味します。情報と物の本質的な違いはコピーコストにあります。低コストで高品質な情報が増える方向にバイアスがかかります。音楽を作る側がとるべき戦略は成功したソフトウェア企業がとってきたものと同様です。とにかく高品質なものを最高の人材を集めて作り低コストで世界中にばら撒くことです。


音楽は日本語などのローカルなものに縛られにくく、人間の感覚的な嗜好を基盤とするため比較的早くグローバルな競争に入っているのではないかと思います。もしも言語などのようなローカルな壁が壊されたときにどうなるか。そのときには世界レベルでの「モノを作り出すシステム」の競争になるのだと思います。