エル・ライブラリー<レアもの>資料紹介 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-04-06

イギリス労働史博物館の絵葉書

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この写真はかつてロンドンにあったイギリス労働史博物館"The National Museum of Labour History" が発行していた絵葉書です。

 写っているのは「マッチ工労働組合ストライキ委員会」の面々(1888年)。

 この絵葉書は、1982年当時ロンドン大学に留学されていた川田譽音(かわた・たかね)先生(龍谷大学社会学部教授。2012年3月31日で定年退職)から頂戴しました。川田先生からは、丁寧なお手紙つきで、さらにはこの労働史博物館のその後について、web検索結果も印刷して送っていただきました。

 この絵葉書について、解説すべき事柄は二つ。一つは、1888年イギリス・マッチ工ストライキについて。もう一つはイギリス労働史博物館について。

 川田先生に拠れば、この博物館のあった「イーストエンドの風景はもうずいぶん変わっていることと思いますが、展示というより古道具屋さんかと思えるようなごちゃごちゃした小さな空間は、人々の労働と生活の実態を蘇らせていました」とのことです。

 ロンドンイーストエンド労働者の町であり、移民の町です。この写真の争議もここで起きました。低所得者層が住むイーストエンドには「トインビー・ホール」という世界初のセツルメント(貧困層のための福祉施設)があります。トインビー・ホールはセツルメントの父と呼ばれるアーノルド・トインビー(有名な歴史家アーノルド・J・トインビーの叔父)を記念して1884年に設立された民間の社会事業施設です。

 労働史博物館はそのトインビー・ホールの近くにありました。この博物館のことは、いくつかのwebサイトからの情報しか入手できませんでしたので、詳細はわかりません。ご存じの方は是非ご教示下さい。

web検索の結果を総合すると、博物館の沿革は以下の通りです。

 1950年代に、ヘンリー・フライという人物が「社会主義歴史協会」を設立したのが発端です。1963年にフライが労働運動史の巡回展示を始め、その後、ウォルター・サウスゲートが参加して、巡回展示ではなく、箱物の博物館建設を構想するようになりました。ついに1975年5月19日に、ロンドンイーストエンドにあるライトハウス・タウンホールという古い建物の一室に労働史博物館をオープンしました。その後、博物館を拡張し、やがては建物の全部を使用するようになりました。

 しかし、1980年代半ばに地区評議会から資金援助を拒まれ、建物の返還を要求されて1986年にマンチェスターに移転しました。1990年にはマンチェスターで労働史博物館を再開し、1994年には「ポンプハウス民衆史博物館」を併設、2001年からは二つを合わせて「民衆史博物館」の名で再出発しました。その後2010年2月のリニューアルオープンを経て現在に至っています。

 次に、この絵葉書に写っている女子労働者について簡単に。

 この女性たちは、ロンドンイーストエンドにあったマッチ工場の女子労働者たちです。1888年7月に若き女子労働者たちはストライキを起こして、イギリス全土にセンセーションを巻き起こしました。

 この地区最大のマッチ製造工場であった「ブライアント・アンド・メイ」社では、株主へは23パーセントもの高配当を払っていたのに、女子労働者たちを低賃金・長時間の悪条件で働かせていました。このことを知った社会主義者のアニー・ベザントは週刊新聞『ザ・リンク』6月23日号に会社を非難する記事を書き、工場の門前で労働者たちに配布したのでした。ベザントら活動家労働者との離反を図った会社側に抗議して、7月5日、全工場がストライキに突入しました。工場を飛び出した1500人の女子労働者たちが隊列を組んで町を行進するのを見たイーストエンドの住民達も、続々と繰り出してストライキ支援のために結集しました。

 マッチ女工たちはマッチの成分である黄燐よる職業病にもさらされていました。前述のトインビー・ホールで活動していた4人の青年達がマッチ工場の労働実態調査に乗り出し、彼女たちの劣悪な労働条件について報告書を作成しています。これらの支援が功を奏し、各種新聞も労働者側に好意的な記事を書くようになり、世論の後押しによって7月17日、会社側は労働者の要求を飲み、待遇改善を約束しました。

 1888年のストライキは未熟練女子労働者たちを労働組合へと組織するための最初の試みとして有名です。

  写真の真ん中がアニー・ベザント、その左側の髭の男性がアニーの当時の恋人であったハーバート・バローズです。

 川田先生からは、この絵葉書以外にも、労働史博物館発行のものを頂戴しました。さらには、20世紀初頭のロンドンの貧しき人々を写した写真絵葉書を何枚も頂戴しています。記して謝意を表します。(谷合佳代子)

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<参考文献>

<参考サイト>

http://www.labourhistory.co.uk/#/national-museum-labour-history/4549881196

http://www.phm.org.uk/

http://en.wikipedia.org/wiki/People’s_History_Museum

2010-04-23

電電公社と労働組合の秘密協定

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 労働運動史研究家の久保在久(くぼ・すみひさ)氏から、日本電信電話公社(現在のNTT)の労働組合である全電通(全国電気通信労働組合)の労働協約書をいただきました。公社と労働組合が結んだ秘密協定文書です。

 この資料を「全電通労働運動の恥部」とみなして公開をためらわれるOBもおられるようですが、久保氏は「むしろ、公開することに意義がある」と、当館に寄贈してくださいました。 

 そこで今回は、資料の寄贈者であり、全電通組合員でもあった久保氏に本書の解説を執筆していただきました。以下に掲載します。なお、本書には奥付はもちろんタイトルもありません。書名は久保氏と相談のうえ、当館がつけました。


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 全電通労組、職場闘争の到達点(いわゆる「ヤミ協約」について)


 全電通労組は1965年の春闘において、4月20・23日の両日、運動史上初の「自宅待機」方式による全員半日ストを決行した。公労法(公共企業体等労働関係法)によってスト権が奪われていた全電通にとって、交渉の前進を期すために、ストライキは不可欠のものだとの判断によるものであった。

 これに対する報復として、電電公社は同年6月5日、解雇32名を含む、参加者全員15万5千余人に対する昇級延伸など実害を伴う大量処分を発令した。

 全電通はこれに対抗して、各職場で創意を凝らした「パルチザン闘争」を指令するとともに「未払い賃金請求」の本人訴訟いわゆる「マンモス訴訟」を起こし、組織的な抵抗運動が執拗に続けられた。

 これに音を上げた電電公社は、66年に至って、次のような和解案を提示してくるところとなった。

  1. 合理化について双方努力する。
  2. 大衆行動の制約
  3. 中央協約と異なる下部協約の整理
  4. 夏期手当の調整
  5. 60歳以上の昇給停止

 提案内容は、全電通にとっても団結阻害要因になる「毒素」が含まれているため、論議を巻き起こしたが、大量処分に伴う、減額賃金補填解雇者の生活保障など、全電通にとっても闘争資金の取り崩しや、組合費の臨時徴収など、経済面で追いつめられていたこともあり、66年6月25日、中央本部は組合員の実害回復を条件にこの提案に同意した。これを締結日にちなんで「6・25了解事項」という。

 この冊子は、この了解事項が結ばれたのを機に、全電通近畿地本と電電公社近畿電気通信局が作製した、3項の中央協約を上回る職場段階の労働協約の一覧である。表題はなく、「部外秘」とされ、一部の労務担当者、組合幹部以外には、配布されなかったものかと思われる。

 

 この冊子は、近畿地方の全電通の職場段階でどのような労働協約が結ばれていたのかが一見して分かると同時に、その内容は、勤務時間や作業量協定、労働組合活動に及ぶものまで多岐にわたり、360余頁に及んでいる。当時の電電公社における職場闘争の到達点を示す、貴重な記録といって差し支えないだろう。

 なお、4項の「夏期手当の調整」は電電公社当局の査定で、夏期一時金支給の際、「勤務成績優良者」に一定の額を加算するというもので、これの実施により、さまざまな悪弊が生じたことから、全電通は撤回闘争に取り組み、後年これを実現させた。その時期は1971年と記憶しているが、72年かもしれない(典拠となる文献不明)。

 さまざまな悪弊とは具体的には、同じ職場で同じ仕事をしている者の間に手当に差をつけられるということは、ごますり、競争意識など、組合運動にとって好ましくない傾向が持ち込まれることになり、そねみねたみなども生じる。組合は、当初、多く支給された人に頼んでその額を拠出させるようなこともしたが、協力を得られなかったり、反発を買って説得に時間を要したり、かえって余計なエネルギーが割かれることになった。

 いずれにしても、この「6・25了解事項」はその後の全電通労組の活動方向に大きな転機をもたらしたといって差し支えないだろう。「合理化に協力」「下部の問題協約の廃棄」の二点が、むしろ夏期手当の問題よりも大きなファクターであったかと思う。(久保在久)

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書誌情報

[近畿通信局と全電通近畿地本の廃棄された労働協約集 1967.5月締結 364p, 21cm

 請求記号 RL643/ キ91/

※この資料は研究目的に限って閲覧していただけます。利用申込書に必要事項を記入の上、メールまたはファクスにて送信してください。

 利用申込書はこちらからダウンロードしてください。

  • 電話 06-6947-7722
  • メール lib@shaunkyo.jp
  • FAX 06-6809-2299


 

2009-10-09

賀川豊彦フェア関連資料:神戸三菱・川崎争議の絵葉書

 エル・ライブラリーで開催中の「生協の父、賀川豊彦フェア」についてはメインブログをご参照ください。(賀川豊彦<1888-1960年>)

http://d.hatena.ne.jp/l-library/20091003


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 本日ご紹介するのは、戦前最大の労働争議と言われた「神戸三菱川崎造船所争議」(1921年)を支援するために創られた絵葉書です。

 「藤永田造船所争議」のエントリーにも書きましたが、

http://d.hatena.ne.jp/shaunkyo/20080723

 1921年は造船不況の年です。1918年11月に第1次世界大戦が終わり、造船不況がやってきます。1921年にはワシントンで海軍軍縮会議が開かれ、翌年には条約が結ばれて、ますます新造船の受注が減ることになります。そういう経済状況を背景に、造船各社で起きた馘首(かくしゅ・首切り=解雇)や賃下げに対して苛烈な闘争が繰り広げられました。

 1921(大正10)年5月から始まった大阪の藤永田造船所争議に続いて、6月25日には神戸三菱造船、川崎造船という2大造船所で大きな争議が起きます。労働組合側は組合加入の自由と工場委員制度を要求してストライキに入りましたが、会社側の弾圧に遭い、警官隊との衝突などにより、組合側指導者300人が逮捕される事態となりました。このときの指導者の一人が賀川豊彦です。

 ストに入った争議団員たちはたちまち生活費に窮することになります。行商団を組んで各地に石けんやタオルなどを売って回った労働者たちを支援するために作られたのが、写真の絵葉書です。第4版まで制作されたことが確認できています。当時大阪市にあった大原社会問題研究所が争議支援のために大量に買い込んだようで、現在でも法政大学大原社会問題研究所では何組かの絵葉書セットを所蔵しています。

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 写真では、争議団員の先頭に立って神戸市内をデモ行進する賀川豊彦が写っています(一番右)。このとき賀川豊彦は33歳、神戸のスラムで救貧活動に身を投じて13年目でした。

 この争議は結局、労働側の敗北に終わりました。この後、穏健なクリスチャンである賀川豊彦労働運動指導の第一線から退き、農民運動や労働者教育へと比重を移していきます。



<当館所蔵の参考資料>


書誌情報

 労働争議示威運動実写葉書 第1−第4  神戸発動機工場発行 8枚組

    (*原文は旧漢字。第4版のタイトルは「労働争議犠牲者団葬実写絵葉書」)


※この資料は予約していただければ閲覧可能です(貸出不可)。

 電話 06-6947-7722 またはメール lib★shaunkyo.jp(★を半角@に変えて送信してください)でどうぞ。

2009-07-24

公安関係のマル秘資料

 今回ご紹介する資料については、実は調べ切れていません。参考文献も未読のものがあるため、今後、記事を訂正する可能性がありますが、とりあえずは専門家研究者、関係者等)の教えを請うためにこちらに掲載しました。

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 まず、表紙ですが、タイトルも何も書いてありません。マル秘という印が押してあるのみです(写真参照)。背も同じく記載なし。もちろん奥付もないので正確な発行年月日や作成者がわかりません。作成者が公安調査庁なのか、警視庁公安部なのか、他の機関なのかも不明です。ただ、「はじめに」には「1978年4月 調査企画室」という「日付と署名」が付記してあるので、この当時、「調査企画室」という部署を持っていた機関であることは間違いありません。


 そもそも、書名のヨミすらわかりませんでした。標題紙にあたる部分には「左風」とあります。「ヒダリカゼ?」「サフウ?」。昔よく、「左傾学生逮捕さる」などと新聞記事を賑わせていた、あの「サケイ」と同じニュアンスで、「サフウ」と読むようです。


 内容は、日本共産党に関係する調査リストです。マスコミ関係者の誰が共産党員なのかシンパなのか、氏名・生年月日・新聞社名・部署・自宅住所まで調べ上げて掲載されています。


 「外部団体名簿」には、「党員が連絡アジトとして利用する各施設及び各店名」として、東京23区内と三多摩地区の旅館・ホテル・喫茶店・飲み屋などの名称と住所、利用状況がズラリ(写真参照)。

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 巻末に「日本民主青年同盟」「新日本婦人の会」などの団体名簿が58団体、1団体に1ページを割いて組織人員・役員名などとともに記載されています。


 折り込みの表があり、「日本共産党組織の全貌」と題された表には、中央委員会以下の組織図と人名が手書きで書かれています(写真参照)。

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 この資料については個人情報保護の観点から利用制限をつけさせていただきます。貸出・複写は禁止します。閲覧についてはご来館前に予約いただき、住所・氏名・所属を明らかにし、利用希望理由書を添えて申し込みをしてください。利用をお断りすることもありますのでご了承ください。

 お問い合わせは lib※shaunkyo.jp まで(※を半角@に変えて送信してください)。

 この資料に関する情報を提供してくださるかたもご連絡いただければ幸いです。


書誌情報の詳細は 『左風:分析』をクリックしてください。 

 請求記号  309.021/ サ55 (資料コード 201055225)

2009-06-09

ろくろ旋盤の手作り工具

(2012年8月3日追記:下記調査について、映像をYoutubeに公開しました)

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 エル・ライブラリーは図書館ですから文献資料を紹介するのは当然のこととして、これまで、手書きの嘆願書や旗など、通常図書館では扱わないような資料をレアものとしてご紹介してきました。今回はなんと、工具です。

 国立産業技術史博物館構想が頓挫して、廃棄されてしまった産業資料二万点。そのうちの文献資料以外にも、小物機械など拾ってこれるだけのものを当館も救出したことはすでに何度もブログでお知らせしている通りです。

http://d.hatena.ne.jp/l-library/searchdiary?word=%2a%5b%bb%ba%b6%c8%bb%f1%ce%c1%b5%df%bd%d0%ba%ee%c0%ef%5d

 そのうち、大阪にあった仲津製作所と道上製作所が旧蔵していた手作り工具が「ろくろ旋盤」用の工具であることが判明したため、使用法についてエル・ライブラリーで聞き取り調査を行いました。

 産業技術史学会の先生たちも「これらの工具については使い方がわからない。これから研究していかねば」とおっしゃっていましたが、町工場で使われていた手作り工具というのは実際に使っていた職人でないと理解できないもののようです。ろくろ盤についての教科書もなく、職人の手作りによる工具であることがよくわかります。

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 インタビュイーは谷合実(たにあい・みのる)、当館館長谷合佳代子の実父です。ここに写っている手作り工具は父が作ったものではありませんが、往時を知る旋盤工として父が工具を見ながら使用法を解説しています。


 産業技術史学会の会員立ち会いのもとに行われた聞き取り調査についてはビデオ撮影しました。また、当日のメモを廣田義人氏(大阪工業大学)が作成してくださいましたので、以下に転記いたします。

 なお、この資料について閲覧利用ご希望の方は事前に予約相談してください。今後、どのような形で資料を展示公開していくかについては現在検討中です。(谷合佳代子)

<当日配布資料>

参考文献『実地工作法見習から機械師になるまで』吉原鉄夫著 知進社 1941

    『基礎旋盤の多能作業法』大河内忠勝著 日本工業書院 1941

    『実地旋盤工作法 :附ねぢの切り方』南野政延著. 太陽閣, 1940

谷合実作成、ろくろ旋盤作業図

廣田義人氏作成記録

聞取り調査

谷合 実 氏(ミノル金属製作所)

日時 2009年6月7日15:00-17:00

場所 大阪府立労働センター内エル・ライブラリー

出席者 産業技術史学会関係者8名、エル・ライブラリー2名

道上製作所旧蔵ろくろ盤工具について

・金属の切削加工用(主として黄銅の加工に用い、鋼も加工可能)

・加工サイズ φ(直径)20−25mm 長さ50mm

・2m程度のバー(棒)材を加工する。1個加工しては、ステッキ(刃物の一種)で溝を入れて、切り落としていく。

・回転数500−600rpm(回転/分)(回転数固定)

・ペダル操作で正回転、逆回転可能

・加工精度0.05mm程度、あまり高い精度は出ない

・加工ロットサイズ 1000個程度の中量生産に使用

・現在でも水栓部品などの加工に使われている

・ろくろ盤には親ねじはなく、ダイスやタップをレバーで素材に押し当てて、おねじ、めねじを加工していた。

・工具は市販品にハイス(高速度鋼)を半田付けして、職人が手作りしていた

半田付けなので刃物は取替え容易

・工具は共用していたが、自分独自の工具を持って工場を渡り歩く職人もいた

・入職した当初は油差しなどをさせられ、見よう見まねで2年ほどでろくろ盤を使わせてもらえるようになる。

・ろくろ盤の職人は出来高払いで仕事をしていたので、ろくろの回転を止める間もなく仕事していた。

・上面が傾斜した木製の刃物台は不定形の鋳物部品の加工に用いた。刃物台上にきさげ(スクレーパ)を手で保持して加工するが、熟練を要した

・ツイストドリルを用いて穴をあけようとすると、切り屑(切り粉)の排出のためにドリルを出し入れする必要があったので、半月錐(はんげつきり)を用いた。穴の底を直角にする必要がある時は平錐を用いた。

・櫛歯のようにひとつの工具に複数の刃物を半田付けした工具を工夫する職人もいた。

・複写機の三田工業など、ろくろ盤と4尺旋盤を併用していた工場もあったが、ろくろ盤加工専門の中小企業も多かった。

・ろくろでは管用ねじ3/8(さんぶ、直径16.662)まで、1/2(よんぶ、直径20.955)以上は旋盤で加工した

・昔はローレット加工済み材料がなかったので、ローレットで加工していた。

・水用の配管継手はろくろ盤で加工するが、空気用の配管継手は精度がいるのでろくろ盤ではだめ。

・仕上がり寸法は、主に現物合わせでチェックしていた。ノギス、マイクロメータ、パスは使っていたが、リミットゲージは高価なので、客先から支給されない限り用いることはなかった。

・ろくろ盤は市販されておらず、自作であった。

・ろくろ盤は油圧式自動旋盤に代わり、さらにNC旋盤に代わって行く。

・津上製作所がクリダン(仏)から技術導入したねじ切り旋盤は精度がよかった。

カム式で親ねじは使用せず、部品は市販の規格品ではなかったので津上から取り寄せる必要があった。

 ロクロ旋盤