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shi3zの長文日記 RSSフィード Twitter

2017-06-23

(いまさらだけど)頭文字Dを最後まで読んだ。Dの意味とは 07:43

 マストドンで頭文字Dの話題が出て、「あーね」と思って読み返すと、やはりさすがに面白い。


 知らない人のために頭文字Dのストーリーについて説明すると、群馬のとうふ屋の倅、藤原拓海は中房の頃から豆腐の配達のため車で秋名峠を毎朝往復させられていた。そのおかげで豆腐を配達するついでに車の運転に習熟し、18歳でやっと免許をとる頃には誰にも負けないドラテク(ドライビングテクニック)を身に着けていた。


 拓海の噂を耳にした群馬中の走り屋たちの挑戦を退ける頃には拓海はすっかり地元の有名人になっており、それまで群馬最速と言われていた高橋兄弟の長兄、涼介(実家が病院で本人は医大生。大金持ち)さえも負かし、涼介は拓海をスカウトし、県外遠征専門チーム「プロジェクトD」を結成し、関東最速を目指して動き始める。



 「頭文字Dってまだ連載してんのかなあ」と言うと、誰かが「いや、完結したはず」というのでしらべたら、2013年に終わってた。良かったよかった。


 ちなみに頭文字Dは作中では1巻から最終巻までのあいだに約2年弱の時間が流れるだけだけど、実際の連載は1995年から2013年と、約20年近くかかっている。10年で一年。濃い。


 とりあえずラストバトルだけでも見たいと思って42巻あたりから読み始めたんだけど、もう終わらない終わらない。そして連載当初とくらべて顔が違いすぎる。最初は誰が誰やらわからない。まあ美味しんぼもそうだけど。


 そして感動のエピローグへ。



 ついに明かされる「頭文字(イニシャル)D」の「D」って結局なんなのよ、という謎。

 まさか、まさかだよ。それかよ!!!!



 と思ってしまった。20年間引っ張られた読者はいったい・・・



 これまでの20年、しばしば「結局Dはなんの頭文字なんだよ」と思っていた。しかしまさかあんな・・・まあ皆まで言わまい。どうしても知りたい人は最終巻だけ読めばよし


頭文字D(48)<完> (ヤンマガKCスペシャル)

頭文字D(48)<完> (ヤンマガKCスペシャル)


 しかし親不知、友達がコブとり爺さんみたいになった写真を送ってきたのでドキドキしてたんだけどそこまで腫れない。ちょっとリスがほっぺにひまわりの種ためてるのかなあ くらい

2017-06-21

ドッペルゲンガーを見た、と祖母は言った。神と幽霊の正体 00:47


 さて、高校に進学はした僕だったが、先生方が心配した通り、やはり名うての問題児になってしまった。問題児になった理由はいろいろあるが、時々家出したり授業をサボったりしてた。ほんとうはもっと酷いこともしてるんだけど、僕も立場ある人間なのでこのへんにしておく。うん、なんか書いていてマジで心配になったよ。その意味では中学の担任以外の先生が心配したことはある意味で本当だったと言える。



 そんな頃だ。

 リビングから庭を眺めていた祖母が、「私が庭にいる」と言い出した。

 庭を指差している。


 彼女には実際にそこに誰かがいるかのように、手を振ったりし始めた。


 もちろん僕には何も見えない。そもそも、祖母はここにいるのだし、庭には誰もいなかった。僕には風邪に揺られる木が見えただけだ。


 祖母が見たのはおそらくドッペルゲンガーだ。

 統合失調症の症状の一つであると言われている。しかしこの頃の祖母はまだ還暦を迎えたばかりで、若かった。それから一人暮らしを初めて20年以上自活したことを考えると祖母が重度の統合失調症になっていたとは考えにくい。


 しばらくすると祖母は「あれ、いない」と正気にもどった。



 僕は祖母が冗談を言っているのかと思った。そもそも祖母の話には嘘だか本当だかわからない話が多い。自分は兵庫の生まれで、神戸の大店の長女として生まれたが本来の生家では育てられず、使用人の家で育ったとか、女学校を卒業して、実家の使用人をしていた裁縫師の祖父と知り合って新潟まで駆け落ちしてきただとか、荒唐無稽なものが多く、僕はそういう話を聞き流して信じてはいなかった。


 祖母の見た「ドッペルゲンガー」も、そういう一種の虚言癖だったのだろうと思い出すこともなく僕はその出来事を忘れた。


 それから20年ほど経って祖母が亡くなり、それからどんなつてを伝ったのか、祖母の兄の親族と名乗る人物が僕の両親のもとを訪ねてきた。探偵かなにかを使って、兄が死んだことを伝えに来たらしい。


 天涯孤独だと思っていた祖母に兄弟が居たことも驚きだったが、ほとんど法螺話にしか思えなかった祖母の荒唐無稽な話が、どうやら本当らしいことが分かって驚いた。


 ということはあの時点で祖母は精神に異常をきたしていたわけではなかったのだ。

 だとすれば、祖母が見たドッペルゲンガーはなんなのか。


 AIの研究をするうちに、祖母の見たドッペルゲンガーのことを思い出した。


 最近の深層学習でよく知られている、畳み込みニューラルネットワーク(CNN)には、ひとつ大きな弱点があることが知られている。


 人間の目には明らかなノイズにしか見えない画像を、かなりハッキリと誤認識してしまうのだ。


 「ハッキリと誤認識」というのはどういうことかというと、通常、画像認識をするCNNは、ImageNetという問題を解く。ImageNetは、1500万枚の画像を1000種類に分類するという学習タスクで、今はこのスコアが97%以上という人間以上の高性能を誇っている。


 このニューラルネットワークは1000種類のジャンルの写真しか見てないので、そのどれでもない画像を見せたとしても、「それまで見た1000種類のなかで自分が知っているもの」から類推して解釈できる。たとえばImageNetにはない「つけ麺」の画像を見せると「カルボナーラ」60%「マッシュポテト」40%のように答えを出す。


 こういうふうに曖昧さがあるから、ノイズのような、全く一度も見たこともない映像を見せるとだいたい「どれでもない」という非常にあやふやなものに分類されるはずだ。


 ところがあるとき、全くのノイズ画像を与えても誤って「カルボナーラ100%」と自信満々にニューラルネットワークが判断してしまうことがあることがわかった。


 「つけ麺」がカルボナーラに見えるのはまだわかる。しかし、ノイズ画像をカルボナーラとして100%認識してしまうというのはどういうことなのか。


 畳み込みニューラルネットワークの原理を考えると、局所的な特徴を抽出する第一層から、少しずつ大局的な特徴を掴んでいくように学習する。原理はシンプルなので、ノイズを誤って認識してしまうのはなぜだろうか。


 この誤認識の問題は一瞬話題になったが、すぐに忘れ去られた。なので原典を簡単には探せなかった。


 当初はこうした誤認識が起きることが畳み込みニューラルネットワークの欠点とされていたが、次第に実用的に使う過程で実際にはノイズを積極的に見せることはないので問題視されずに放置された。


 でもひょっとすると祖母は本当にそこにドッペルゲンガーを見たのかもしれない。ただし脳の中だけで。


 その時庭には木が生えていて、風が吹いて揺れていた。

 どこかのタイミングで、祖母の視覚野がノイズの中から他の人には知覚できない自分自身の姿をそこに見てしまったということはあるかもしれない。


 天井のシミが人間の顔に見えたり、火星に人面石があるように見えたりするのと同じだ。

 そういえば、昔のテレビの砂嵐を見てアイデアを考えるという発送法や、ランダムな線が予め薄く描いてあってそれを繋いで絵を描く手法というのもある。


 ただし人間ひとりひとりが脳のネットワーク構造が違う(これは別々に学習されたAIも同じだ)から、同じノイズを見ても人によって誤認識するものが違う。


 だから祖母には見えて僕には見えない、ということも起きたのだろう。


 ここ一ヶ月くらい、マストドン上で妄想デートというのを繰り返してきて、実際のデートよりも楽しいと感じる場面が何度かあった。


 なんせ妄想は都合が良いものだし、現実のデートにあるような細かい諍いや言い争いは起こらない。


 これをマストドンに書かずに続けていたら、もしかしたら僕の認知能力はやがて現実と虚構を区別できなくなり、本当に統合失調症になってしまったかもしれない。



 マストドンに書いて衆目をある程度は意識することで僕は完全な妄想と現実の世界に線を引く方法を身に着けたと言えるかもしれない。要は話にはオチを付けなければならないからだ。


 今日、親知らずを抜くために麻酔を打ったので、今の僕は多少おかしくなってるかもしれないが、親知らずを抜くのは噂通りなかなかの大手術だった。


 「道具が目の上を通りますので目は閉じてください」


 と言われたのだけど、いつもいく歯医者さんは目を閉じるのがらくなようにタオルをかけてくれるのだが、大学病院にはそんなものはなく、時折苦しさで思わず目があいてしまうと謎の道具を断片的に見てしまう。


 目を閉じたまま苦しさを我慢するというのが非常に困難で、なるほどみんなが言っていたのはこれか、と思った。


 目を閉じ、耐えていると、いろいろな模様が見えてきた。ドリルを当てられていると紫色が見え、先生が歯根を脱臼させようとすると青黒い色が見えた。


 痛みには色がある。

 足の先をぶつけると赤い痛み、アタマをぶつけると黄色い痛み、おなかがキリキリ痛むと青紫の痛み・・・僕は痛みを感じる度にそんなふうに色を見てる。みんながそうなのかは知らないけど、たぶん分かってくれる人もいるだろう。


 脳細胞はいろいろなかたちでつながっているので痛みと色がつながっていたとしてもあまり不思議はない。AIを触っていると毎日のように驚く。単純な原理なのに、いつも信じられないようなことが次々と起きるのだ。



 映像の音だけから画面に何が映っているのか言葉にできるAIが作れるんだから、痛みと色が繋がってるニューラルネットワークが僕の頭のなかにあってもそんなに不思議じゃないし、視覚野から捉えたノイズの中から偶然自分自身の姿を外に見たり、闇夜の枯れ葉が幽霊に見えたり、妄想で作った友達がいつのまにか本当に実在するかのように思い込んで戻ってこれなくなったり。そういうことも起きるのではないかという気がしている。


 というのも、統合失調症の症状の一つである「存在しない人物」の出現は、AIにもあり得るからだ。


 どういうことか。

 今のAIは、人間の心を想像することができないのは厳然たる事実である。


 その理由は、AIには人間として生きた経験を得ることができないことにある。

 

 AIに「他者」という高度な概念をどのように教えるか、いろいろな方法が考えられるが、ひとつは深層ニューラルネットワークを脳として持った人工現実空間のエージェントを作り、ALife的な方法でコミュニケーションを取らせることである。これは80年代に東大(当時)の中野馨が実際に原始的なニューラルネットワーク(アソシアトロン)で実験を行い、環境を共有する複数のロボットが自発的に言葉を獲得することを確かめている。


 この頃の実験は今と違いオープンソースの文化がなく再現実験が極めて困難なので、「ロボットが自発的に言語を作った」などと言っても荒唐無稽な誇張なのかそれとも本当のことなのか確かめようがなかった。今はほとんどの画期的な発見は論文化とほぼ同時にオープンソース化され、誰でも追試できる。深層学習の急激な発展の裏にはそういうカルチャーの進歩と貢献も見過ごすことはできない。


 次に、AIが他のAIや人間という「他者」を理解するためには、AIの中に「他者」に反応するニューロンが出現しなければならない。


 次に、AIは、「他者」を発見・認知すると同時に、他者の行動を予測する必要性を持つはずである。なぜなら「他者」と上手くやっていくということは、「他者の行動を予測できる」ことが生存戦略上有利なのは明らかだからだ。


 こうした性質を持つニューロンは霊長類の持つ「ミラーニューロン」に相当する。これが「思いやり」や「顧客目線」などとしばしば呼ばれる人間の持つ想像力の源のひとつである。


 もちろん今現在、AIにはミラーニューロンの存在は確認されていない。

 しかし、ミラーニューロンは意図的に作らなくてもいずれ自然発生的に学習される可能性もある。そもそも霊長類や知的生物と呼ばれるものだって自然発生的にミラーニューロンを獲得したはずだ。


 他者の考えや行動を想像できるようになったAIは、我々が「思いやり」と呼ぶものを持つようになる。


 そのとき、この他者は、実際に存在する必要はない。

 

 あくまでもある特定の人物の行動や思考パターンを想像できればそれでいい。

 

 僕は偉い人にプレゼンテーションする前に、その人がどんなふうに感じるか、検討するためにモノマネを良くする。これも僕の中にあるミラーニューロンの果たす役割である。


 「あの人ならここでこういうことを言うだろうな」「あの人にはこういう言い方のほうが響くんじゃないだろうか」そんなことをプレゼン前に考える。


 プレゼン対象がどんな人かわからないとこういうテが使えないので、できだけいろんな観客のことを想像する。相手が大企業の人間なら、大企業にありがちなシチュエーションを想像する。


 僕にとって妄想デートが快適なのは、僕が普段から他者を想像することに慣れているからかもしれない。僕のアタマのなかには、それまでに深い付き合いのあった人々の思考パターンや行動パターンが全て入っている。「あの人ならこう言うだろうな」と予測できる。親しい人ほどその人の反応が高い精度で予想できる。


 これはクリエイターなら誰もが持っている能力で、架空の人物をアタマに浮かべて、その人が何を思い、どう行動するのかを想像する。それをしばしば「キャラクターが勝手に動きだす」と表現したりする。


 ユーザーインターフェースの研究からは、人間は時々都合のいいように記憶喪失になることが発見されている。「ビューティフル・マインド」の主人公、ジョン・ナッシュは同室の友人、リチャードや共産国のスパイ、パーチャーなどといった人物と知り合うが、数十年後、全て妄想であることに気づき愕然とする。


 十分な思考能力があれば架空の人物がそこにいるかのように妄想することは実に簡単で、少し訓練すれば妄想と現実の区別を作らないようにできそうな気がする。でも一度それをやると自力では帰って来れなくなるのも容易に想像できる。不遇の時代を過ごしていた時期のジョン・ナッシュが、自分の複雑な心理や能力を高く評価してくれる友人やスパイといった人物の妄想にふける趣味を持っていたとしても不思議ではないし、それがいつのまにか本当のことのように感じられてくるということも間違いではないだろう。


 いまのところAIにミラーニューロンは確認されていないが、時間の問題かもしれない。なぜなら我々は実際には「思いやりのある」AIが欲しいからだ。「空気が読める」AIと言ってもいい。


 昔のSFでは、AIへの質問はたとえば「宇宙の真理はなんですか?」という深遠なモノから、「○○○について教えてくれ」という対話型Googleのようなものまで、AIはとにかく「膨大な知識」を持っていて、それを引き出すという形で使われるのが常だった。Siriなどはまさにそうした夢の具現化と言える。


 しかし実際に欲しいのは、R2-D2やBB-8やドラえもんコロ助のように、相棒や相談相手になってくれるAIだ。


 それを実現するためには、他者の認識をするAIがどうしても必要になるのだ。そしてAIが他者を認識したとき、同時にAIは架空の人物についても想像することができる。


 AIはAI自身の脳の中で起きている現象は知覚することが難しいので、想像上の他者と実在する他者を区別するのは難しくなるだろう。


 まあでも人間も似たようなもので、「あの人はぜったいこう言う」と決めつけても、実際にはぜんぜん違う、ということもよくあることだ。



 





 

久しぶりにジムに行った 08:37

 ここんとこ出張続きで身体が開かなかったのと、大きな大会を控えてジムの予約がなかなかとれなくて、三週間ぶりにジムに行った。


 筋力は明らかに増していた。前は持つことも困難に思えたバーベルが、明らかに軽い。

 

 ところが軽い、と思うのと同時に、体中から汗が吹き出した。明らかに体力が追いついていないのだ。


 筋力と体力は、自動車でいえばエンジンと足回りである。エンジンがいくらよくても、足回りが覚束ないとパワーを生かせない。


 体力が減衰し、たとえば心臓が弱ったり血中のヘモグロビンとかが減っている状態だと、筋力が上がっていても、それを支えるエネルギーがうまく行き渡らない。


 気を失うかもと思うくらい頑張ったが、以前急に目の前が真っ暗にブラックアウトしたような状態にはならず、とりあえず全てのメニューをこなした。


 へとへとに成りすぎて、夜約束があったのに家でぐったりしていたくらいだ。


 要するに、ジムは三週間も開けてはダメだ、と思った。



 そして今日は下の親知らずを抜きに大学病院に行く。

 すげー腫れてこぶとりじいさんみたいになるらしいので、しばらく人前には出られません

2017-06-20

人生には良い図書館が必要だ 08:16

 長岡に帰ったついでに市役所の人があちこち案内してくれるというので、「図書館に行きたい」と言ってみた。


 でも月曜日の図書館は休館日で、残念、中に入れないや、と思ったのだけど、なんとさすが市役所、裏口から入れていただけた。それだけでなく、館長さんにもご挨拶させていただくことができた。休館日に突然押しかけて申し訳ありませんでした。


 僕は図書館は大事だ、という話を定期的にしてる。


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 長岡市には学校町という町があり、学校町1-1-1は新潟大学附属幼少中学校があり、1-2-2は市立中央図書館がある。


 ここの図書館が建てられたまさにその年から僕は隣の学校に通うことになったので、図書館は学校そのものよりも思い入れが深い。


 この図書館は高価な大型本が数多くあるだけでなく、難しい本や専門書なども取り揃えている。長岡市の図書館が保有する80万冊の蔵書のうち50万冊がこの中央図書館にあるそうだ。


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 たとえば「軍事」の棚には防衛庁防衛研究所がまとめた戦史がまとめられている。

 「誰が読むんだ」と思わなくもないが、こういう本が子供でも読めるところに置いてあるところに意味がある。


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 数学の棚も、丁寧にジャンル分けされ、やはり子供でも読める場所にある。

 このへんの本を、内容はわからないまでも。開いて、閉じる、ということを僕は繰り返して育った。


 それで身についた数学もあれば、身につかなかったものもある。


 僕は小学生の頃から三次元グラフィックスをプログラミングするために、このあたりの数学の本や、力学、航空力学の本などを読み漁った。もちろん最初はぜんぜんわからないわけだけど、しつこく何年も繰り返し目的意識を持って読みつづけることで3次元空間における複数の座標系の扱いをマスターすることができた。三次元空間を扱うには必須のオイラー角についても、NASAが宇宙船の位置を見失わないために使うジンバルについても、ここで学んだのだ。


 ちなみにこれらの数学的疑問について、数学が専門の徳永先生(2組の担任であり僕の新設校進学に反対した人間の一人だ)は全く答えてくれなかった。たぶん今でも基底変換や四元数についてなにも知らないに違いない。相異なる3つの素数単位からなる複素数を僕が使いこなす日があるとは想像もできなかっただろう。


 僕がこの手の本を借りようとすると、司書のおじさんが「ぼうや、君はプログラミングができるのかい?」と聞いてきて、そうだと答えると「この本も読むといい」と色々な本を教えてくれた。


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 プログラミングだけでなく、図書館は自分の教養を広めるのに役立った。

 写真やデザイン、美術の本は先輩たちと一緒に広げて、しばしばデ・キリコに代表されるシュール・レアリズムの魅力に取り憑かれた。


 他にもタイポグラフィやレイアウトなど、デザインの基礎になる本は見ているだけで楽しくて、たぶん僕がいまでもチラシやポスターを自分で作ったり、フォントや色や形に拘ったりするのはこの時の影響が強く残っているからだろう。


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 大好きだったレーザーディスクのコーナーは時代の流れとともになくなり、今はDVDのコーナーになっていた。それは少し残念ではあったけれども、プロジェクトXが全巻揃っていて、今の子供はそれはそれでやはり幸せだ、と思った。


 思わずここに入り浸ってプロジェクトXを片っ端から見たい、という欲望にかられたが、地域の子どもたちの手前、大人げないので自分で買うことにしよう。高いんだよな。


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 昨日初めて知ったのだが、僕の本は3Fの永久保存書架に収蔵されているらしい。僕の本の中でこの長岡の図書館が出て来る場面があって、それに感動した司書の方が収蔵してくださったそうだ。かつての問題児が、まったく名誉なことであり、なんだか申し訳ない気分になった。



 やはり中学の頃の自分を思い出すと、周囲からみたらアタマがおかしいと思われても仕方なかったかもしれない。


 一昨日も同窓会だったので、たまたま仕事で来ていたうちの社員も(どうせ単なる飲み会だから)同窓会の二次会に飛び入り参加したのだが、僕がいない間にかつてのクラスメートから「紙一重の、どっちかっていうとバカの方だと思っていた」と明かされたそうだ。


 確かに校舎の窓ガラスを割ってしまったことが何回かある。一回はガラスの向こう側にいる虫を殺そうと思って窓ガラスをキックしたら割れ、もう一回は、たしか音楽祭の実行委員になったときで、急いで体育館に行こうとしたら格子入りのガラス扉を体ごと突き破って血まみれになったことがある。


 他にもボールでガラスを割ったりとか、うーん、他にもいろいろあったのかもしれない。


 そのあと、尾崎豊の「卒業」という曲を知って、「ああ、そういうことか」と思ったのだけど、今思うとたぶん違う。その頃はガラスの値段とかを考えたことがなくて、とりあえず壊してもなんとかなるだろうと漠然と思っていたのだ。その考えそのものは(自分以外の環境を無視すれば)たしかに論理的には間違ってはいなかったが、

倫理的には間違っていた。AIも、ちゃんと育てないとこういう過ちを侵す可能性はある。僕がAI脅威論について

ほんの少しだけ同意できるのはこういうケースだけだ。


 あるときは勝手にガマン大会というのを企画してあちこちにポスターを貼って、実際にやったこともある。別に文化祭の出し物とかなにか特別なことがあったわけじゃなくて、単に見たこともないガマン大会というのをやってみたくなったのだ。


 たぶん実際に参加した人も覚えてないと思うけど、踏み台昇降を1時間くらいやるとか、できるだけ息を止めるとか、同級生が意味のないことにエネルギーを使う場面を撮影して笑い転げた。撮影したビデオは、特に何にも使わず上映することもなく、撮影する行為そのものを楽しんだ。まあ確かに少しおかしかったかもしれない。


 女子と放送室でアダルトビデオを見ている姿を、間違って放送したこともある。ご丁寧にワイプで見てる表情まで映し出した。まあそのタイミングでうっかりテレビを付けなければわからなかったはずだが、体育の先生にはバレてあとでこっそり「面白すぎるから次からはバレないようにやれ」と言われた。いい先生だった。


 僕の悪事はともかく、この頃の僕は小学校の頃からずっとやりたかった放送委員についになることができて(放送委員は人気でいつもじゃんけんに負けていた)、コンピュータグラフィックスやビデオ編集上のトリックを駆使して毎月いろんなイタズラをした番組を作った。


 このとき役立ったのがやはり図書館だった。なぜなら図書館にはその手の本も揃っていたからだ。カメラワーク、編集、特撮、シナリオ作り、などなど、映像に関する指南書がレーザーディスクでも本でも山ほど置いてあり、そこに書いてあるテクニックを僕は月替りで試しては笑い転げていた。


 そこで教育に必要なものが、少なくとも僕個人の成長過程のなかで図書館と学校の果たした役割が両輪であると見えてくる。


 ひとつは、ミニ社会としての学校があり、クラスメートがいること。もう一つは、多様な興味を育てる環境としての図書館があるということ、東京に来てみて、あまりにも多くの人が美術に無関心で驚いた。先日、久しぶりに会った中学の同級生とデートしたときは、当たり前のように美術館めぐりを楽しめたのに。そして、子供扱いしないこと。東京の図書館の多くは、専門書を置いてない。これにもびっくりした。お小遣いで買えないような高価な本が誰でも好きなだけ読めることが図書館の価値なのに。そして最後に、表現手段があること。僕の場合はカメラとビデオデッキとコンピュータだった。壁新聞を勝手に書いたこともある。


 表現することは大事だ。知識は本を読んだだけでは身につかない。それを使って具体的になにかを表現することで初めて自分の力になる。その機能は本来は学校が持っているべきだ。


 アメリカで向こうの社長とケンカして日本に帰ってきて、金も住む場所もなく、仕方なく実家に戻った時に真っ先に行ったのも中央図書館だった。

 

 僕にとっては知識の出発点であり、迷ったら図書館に行く。

 人生の絶対座標(0,0,0)がここだからだ。

2017-06-18

同窓会で明かされた高校進学の秘密 09:02

 僕は中学を卒業した後、高校はみんなとは違って新設校に行くことにした。

 そこの校長先生の話が魅力的だったからだ。


 僕の中学は受験が必要な国立学校(大学附属だから通称、附属)で、みんなは地域で一番レベルの高い長岡高校に進学するのが当たり前だった。


 だけど、高校の説明会のとき、他の学校は校長先生が来ていたのにそこは教頭先生が来ていて、そのうえ「おまえらの先輩は評判が悪いからおまえらはこなくていい」みたいなことをいった。バカにしてる、と思った。僕は学校の勉強はサッパリだったから、多少は頑張らないと長岡高校に入ることはできない。けれども、教頭がこんな人をバカにしたような話をするなら、長高(長岡高校の略称)を母校になんかしてやるものかと思った。


 それでその年から新設された国際情報高校に進むことにした。新設校なので比較的入りやすいというのもあったが、とにかく文部官僚をやめてまで新潟の教育向上に人生を賭けることにした校長先生の熱意に強く惹かれたからだ。


 初代校長である宮沢稔校長は、全県一円に超法規的教育を行うために敢えて学区の制約を受ける普通科を儲けず、情報科学科と国際文化科を新設した。


 宮沢稔校長の言で中学の頃の僕をときめかせたのは、たしかこんな言葉だった。


 「これからの時代に必要とされる能力は、2つ。国際的視野がものを考え、コンピュータを道具として使いこなすこと。つまり英語とコンピュータを自分の手足のように使いこなせるような人間を育成することこそ、これからの新潟、そして日本に必要なことである。当校は国際的感覚を持ち、コンピュータを手足のように使いこなせる人材を育成し、日本の未来を担う人材を育成するために設立する」



 そのとき僕はあまたいるコンピュータおたくの一人に過ぎなかった。

 コンピュータを愛してはいたが、それで飯を食おうとは夢にも思っていなかった。プログラミングは大変だし、大変だから仕事にするのはもっと大変だろうと思っていた。だから僕は警察官とか自衛官とか公務員とか、とにかくコンピュータの専門職以外の仕事に就きたいと思っていて、コンピュータはそのときに便利な道具として活用できるはずだと漠然と考えていた。


 その考えを見事に言葉にしてくれたのが宮沢稔校長で、だから僕は彼のつくる学校に行きたいと思いそこへ進学した。



 ところが、である。

 

 昨日の中学の同窓会で、恩師の斎藤先生に会ったらとんでもない事実を聞かされてしまった。


 なんと、一期生は各校から選りすぐりの人間を送るように、という要請が高校側からあり、僕を国際情報高校に進学させることになんと担任の斎藤先生以外全員が反対したらしい。理由は「地域の名門である附属ブランドが清水亮が進学することによって毀損される」というものだったそうだ。


 だけど美術の専攻だった斎藤先生は「清水亮が新設校にいけば必ず面白いことが起きる」と強硬に主張して僕の出願に介入することを拒否した。その結果、僕は国際情報高校に進学して、素晴らしい仲間たちと出会い、今でも高校時代の仲間と時々酒を飲んでる。国際情報高校に行かなかったら、高校時代に雑誌に連載したりすることはなかっただろう。


 確かに中学の頃の僕は控えめに言っても問題児で、先輩にエロ本を処分しろと言われて屋上で焚き火で燃やしたり、4Fから飛び降りたり、学校の地下を探検したり、まあとにかくバレてるものもバレてないものも含めてやばかった。まあ天文部の部長の武田はもっと頭がおかしくて、ヤツのせいで廃部になりそうになったことが何度もあるが。


 斎藤先生はいつもこんなことを言っていた。


 「おまえはキチガイだ。いや、キチガイは美術の世界じゃ褒め言葉だから撤回する。おまえは頭がおかしい。でも、面白ければそれでいいんだ。芸術ってのはそういうもんだ」

 

 芸術ってのはそういうもんなのか、と思いながら僕は日々頭おかしく過ごした。


 夏休みの美術の宿題はセル・オートマトンのプログラムを提出した。そしたら展覧会でそれをそのまま展示しろ、ということになって僕だけコンピュータで動くキネティック・アートを展示した。


 同窓会でたまたま隣の席に座った女性が、「私の事覚えてる?」と聞いてきた。もちろん覚えていた。機械が大好きな女の子、亀田亜樹だ。


 「むかし、清水亮が学校のコンピュータで人工無能を作っていたのをすごく覚えているんだよね。そして今もそういう仕事をしてるんだもんね」


 僕が昔から人工無能を作っていたことを知ってる人はとても少ない。その頃はネットも今ほど普及しておらず僕はネットをやっていなかった。月刊アスキーAWK特集で人工無能のプログラミングにハマり、もしかしたら彼女にも見せたことがあるかもしれない。


 そういえば進路相談のときに、斎藤先生にこんなことを言ったのを覚えている。


 「おまえは将来何がやりたいんだ」


 「人間の人格をコンピュータで再構成する」


 「マックス・ヘッドルームか。そんなことできるようになるまで何年かかると思ってるんだ」


 あと何年だろう。

 もうすぐできるかもしれない。

 少なくともワープ航法よりは早く実現しそうな気がする。

2017-06-14

十割蕎麦に関する疑問と、解決してくれたマンガ 08:52


 なんか東京にいるとあちこちに「十割蕎麦」という看板を見る。


 十割そばというのは、そば粉100%の蕎麦のこと。

 もともとの蕎麦がそば粉100%だったら、わざわざ十割と名乗る必要はない。


 しかし十割そばだけが美味いのなら、他の蕎麦は混ぜものをした二級品のように誤解される可能性がある。


 僕の地元の新潟県中越地方ではへぎ蕎麦というのが有名で、これは麸のりをつなぎに使った蕎麦で、これはこれでつるつるして美味しい。


 もっといい例はハンバーグで、たとえばファーストフードのハンバーガーのパティはビーフ100%と謳っていることが多いが、オリンピックの残り肉で造られたハンバーグよりも美味しいとは思えない。


 ビーフ100%というのがどういう意味なのか、そしてビーフ100%で造られたハンバーガーパティが数百円で売られていることをどう解釈すべきか。


 たとえばオーストラリア牛のヒレ1キロが6400円というのをネットでみた。ということはグラムあたり6.4円。1ポンドは約453.5gだから、1/4で113.4g。つまりヒレ肉でクォーターパウンダーを作ろうとすると6.4x113.4=725.76円の原価がかかることなる。


 某ファーストフードのクオーターパウンダーは400円なので、オージービーフのヒレでは絶対作れないことになる。まあヒレ肉をハンバーグにするなんて勿体無いことはしないだろう。


 しかし焼肉屋で一番安い肉ってなんだろう。

 基本的に牛肉で一番高価なのはヒレである。ヒレの中でもど真ん中の一番美味しいところをシャトーブリアンと呼び、お尻の方をフィレミニヨンと呼ぶ。


 ロースも負けていない。肩ロース、リブロース、サーロインと繋がる。さらに焼肉屋にいくと、バラ、モモ、ランプ、イチボ、カイノミ、カブリ、トモサンカク、トウガラシなどの不思議な名前の部位にぶちあたるが、どこも個性がある。


 しかしどの部位からでもハンバーグを作れる気があまりしない。それなりに各部位が高価だからだ。


 ビーフ100%ハンバーグの看板を見ると、そもそも牛肉は高いのが当たり前なので「へー」と思うんだけど、それが美味しさに直結しているかは疑問だ。


 個人的には豚との合い挽き7:3くらいのハンバーグが一番美味しいと思うんだけど、その良さを理屈で説明するのは少し難しい。


 難しいことを承知で無理に解説すると、牛肉の持つ魅力は力強さで、シンプルだがしっかりとした味の濃さがある。「いかにも肉」という感じの濃さだ。一方豚肉は、そのまま食べて美味しいということはあんまりなくて、せいぜい豚しゃぶくらいの蛋白な味だし、だからポークソテーをソース無しに食べたりすることはあまりしないんだけど、蛋白でありながら甘みがある。たぶんそれが豚肉の魅力で、たとえヒレ肉だろうとビーフ100%よりは、牛肉の味濃さを豚肉の淡白さと甘味で緩和したほうが美味しく感じるのではないかと思う。また、豚肉は牛肉より融点が低いので、つなぎとしても機能するのかもしれない。


 ビーフ100%は売りやすいキャッチフレーズだと思うけど、実際には合い挽きのほうが美味しいというのは皮肉な話だ。肉だけに。


 僕は蕎麦が好きなんだけど、へぎそばを食べる時はいつも汁に全部入れてしまう。東京に出てきて、「江戸っ子は気が短いから江戸前の蕎麦は下1/3だけ汁につけて食うんだよ」と言われて試してみたがどうも美味くない。


 けど、江戸前の神田藪蕎麦では確かに麺の1/3だけ汁につけても美味しく食べられる。秋葉原からすぐなので神田の藪には子供の頃からときどき通っていた。親父が好きだったのだ。


 が、実は江戸前といっても、藪蕎麦もあれば更科もあり、砂場というのもある。その三系統では全て汁も蕎麦のつくりも違うというのをつい先日知って驚いた。


 確かに麻布の更科も食べたことがあるし、美味しかったけど、その背景とかはぜんぜん知らなかったのだ。


 日本人は麺が好きだ。特に蕎麦とうどんは欠かせない。中華そばの発展系としてのラーメンもそうだ。その蕎麦の歴史やうんちくといったものを多少は知ってると楽しくなるし、なんなら健康的なのではないか。


 ラーメン発見伝とか、ラーメン才遊記だとか、ラーメンマンガを読んでいるとラーメンを食べたくなりたいそう危険なのだけど、蕎麦ならまあ多少食いすぎても健康を害することはなさそうだ。


 というわけでTumblrで知った蕎麦うんちくマンガ「そばもん」を読んでみた。


そばもん 1 (ビッグコミックス)

そばもん 1 (ビッグコミックス)


 この蕎麦漫画、すぐに終わると思いきや、なかなか終わらない。でも蕎麦の豆知識は確実に増えるし、いつもより美味しく蕎麦が食える気がするのが凄いところだ。しかも実在の店舗が数多く登場するので孤独のグルメ的にも楽しめる。


 内容としては孤独のグルメのような淡々とした放浪モノではなく、ビッグコミックスらしい料理バトルマンガではあるが蕎麦なのでわりと上品なのが面白い。


 鰹出汁の引き方(出汁はとるんじゃなくて引くのか!という発見もあった)、蕎麦の茹で方、打ち方。手打ちがいいのか、そうでもないのか、蕎麦の作業の要である木鉢、なんていうか奇をてらうことなく忠実な内容なので普通に勉強になる。


 この手のマンガの常で、もちろん作者と監修者の非常に偏った視点を共有することになるんだけど、どれかひとつくらいは偏っていても専門的視座からそのジャンルを見つめなければ本質を知るのは難しい。


 蕎麦だけでなく蕎麦につきものの天ぷら、カツ丼、なんてのも出てくる。僕はカツ丼も大好物だから、面白くてあっという間に大阪を往復する間に9巻まで読んでしまった。


 お薦めです