2012-02-09
■UEIはD2コミュニケーションズと資本提携して時価総額が約22億円になりました
今日も秋葉原業務ジャム(ADJ)をやっています。
今日は会議室を借りて、二日間に渡って新製品のプロトタイプを創りだすジャムです。
さすがにARCのメンバーはジャム慣れしてきたので、今回は他部署と共同でやっています。
新鮮なアイデアがどんどん形になっていく様をみるのは単純に楽しくワクワクしてきます。
さて、そんな日常を送っているところにニュースが入ってきました。
そう。D2コミュニケーションズとの資本提携です。
D2コミュニケーションズ(D2C)は、ドコモと電通、そしてNTTアドが共同出資して設立した合弁会社です。
D2Cという社名を聞いたことのある人は少ないと思いますが、モバイル業界の中では超有名企業です。
なぜなら、モバイル広告でぶっちぎりのトップシェアを誇っているからです。
また、世界初のモバイル広告代理店でもあります。
僕とD2Cとの関わりは実はかなり古いのです。
先日、D2Cの創業者である藤田明久さんとご飯を食べた時、藤田さんが鞄からおもむろに古びたプリントアウトを取り出しました。
それは西暦2000年のケータイウォッチの記事でした。
そこに映っている僕は、CEDEC2000において、ディーツーコミュニケーションズの創設に触れています。
実はこれが、「ディーツーコミュニケーションズ」の名前が初めてマスコミに出た記事だと、藤田さんは言うのです。
その真偽はともかくとして、このとき僕は、「将来、携帯電話ゲームは基本的に無料で配信されるようになり、広告によって収益を挙げていくことができるようなメディアとなっていく」という持論を持っていました。
というのは、携帯電話はユーザーに非常に近いところにあったし、ユーザーが夢中になって一日につい何度も見てしまうような中毒性を既に持っていました。
これがもっと広がって行けば、いずれケータイはテレビよりも強い広告媒体になりうる。と信じていたのです。
この予測は半分あたり、半分はずれました。
それから6年後、モバゲータウンは当初、広告収入をベースとした無料ゲームサイトとしてスタートし、大きな成功を収めました。グリーやmixiもその流れに追従していきました。そしてここまでは予測の範囲内でした。
しかしその後、広告収入よりも過金収入が上回り、今では広告はゲームのための広告しか掲載されなくなってしまいました(アフィリエイトは相変わらずありますが)。
ただ、2000年にD2Cが創設された当時、そんな具体的な未来像を持っている業界人はごくわずかでした。
そのときドワンゴに営業に来ていたのが、電通へ入社まもなくD2Cに出向していた、宝珠山さんでした。
宝珠山さんは大のゲーム好きで、僕たちはすぐに意気投合しました。
当時僕は23歳。宝殊山さんは28歳くらいだったと思います。
年は離れていましたが、一緒に「広告でゲームを運営するにはどうすればいいか」ともに頭を悩ませていろいろなクライアントを説得しようと頑張った時期もありました。
結局、そのときは上手く行かず、僕がドワンゴを離れたあたりから疎遠になってしまったのですが、2007年のインフィニティ・ベンチャー・サミットで再会し、再び親交が始まりました。
既にそのとき、宝殊山さんは出世して取締役COOになっていました。
広告媒体としてのモバゲータウンに注目し、かなりの投資をしていたのも宝珠山さんでした。
「いつかこんな時代が来るって清水さんと良く話していたよねえ」
と、宝珠山さんは嬉しそうに昔を懐かしむのでした。
宝殊山さんとは長い時間をかけて、いろんな話をしました。
いろいろと一緒に仕事をすることもありましたが、僕もあまり宝珠山さんから儲けてやろう、という気にはあまりなれず、宝珠山さんと仕事をするのは、単純にすごく自分が未来の社会にコミットしている気がして楽しいなあ、と感じていました。
それからしばらくして、僕が自分の会社の将来をどうしていくべきか考えたとき、やはりこれからの時代をうまくやっていくには資本を提携することを考えた方がいい、と思うようになりました。
しかし、資本提携は諸刃の剣です。
会社が人間だとすれば、資本提携は、いわば臓器を交換するようなものです。
あまり沢山の資本を受け入れてしまうと別人になってしまいます。
かといって、あまり少ないと提携した意味がありません。
そしてどうせ資本提携をするなら、自分が心から好きになれる会社がいいと思いました。
日本に、僕が好きな会社はいくつかありますが、そのうち一番良く知っていてなおかつ好きな会社は、NTTドコモと電通です。
NTTドコモは、人材の質はやはり日本の民間企業の中で最高レベルに高いです。
意識が高い、とはまさしくこういうことを言うのだ、という感じがします。
なにより彼らと仕事をしていると僕はどんどん元気になれます。
そして電通は、僕は一昨年から電通の社員教育に関わるようになり、さらによく知ることとなりました。
知れば知るほど、電通という会社がいかに素晴らしい人たちを育てて来たか、ということが解るようになり、益々好きになりました。
その電通とドコモ、僕の大好きな二大企業の合弁会社が、D2Cなわけです。
僕にとってはD2Cがどうのという以前に、宝珠山さんという人間を僕は好きだし尊敬しています。まるで兄貴のような存在です。
それと、本間さん。本間さんは本部長からジェネラル・マネージャになり、卓越したビジネスセンスと常人が真似できないほどの大胆な行動力を持ち合わせています。
どうせ資本提携するなら、そういう人たちがいる会社がいいなあ、と思っていました。
それで資本増強を考え始めた頃、ちょうど一年前でしたが、いの一番に相談に行ったのはまずD2Cでした。
宝珠山さんも本間さんも、二つ返事で資本提携を引受ける、と言ってくれました。まあここからがイバラの道だったわけですが。
実はD2C以外にもいくつかの会社からも資本提携をしたいというオファーもありました。
けど、僕らとしては、そもそも臓器を提供してもらうわけですから、あんまり面倒なことになると嫌です。
だから極力少ない株数でやってもらえないか、と考えていました。
けど、この「株数」とか「資本比率」とかって、わりといろんなところが、好きなことを言ってくるんですよね。
資本比率は、たとえば20%を超えるとその会社の子会社と見做されて連結対象になります。
そうするとどうなるか。
親会社から人が送り込まれて来て、「あれはどうなってるの?これはどうなってるの?」と言われることになります。
僕はいまさら説明する必要もないかもしれませんが、非常に自分勝手な人間です。
そのかわり、自分の判断には自信を持っていますし、責任はとります。
ベンチャー企業は、時には目先の利益を棄ててでも大胆な選択をしなければならないときがあります。
そういうときに、親会社の意向を伺わないとなにも行動できないようなことになるとすれば、これは大変な危機です。
特にenchant.jsなんて、ぜんぜん儲からないことをやっていると、「なにをやってるんだ!その人員でソーシャルゲームを作りなさい」なんて言われかねません。
さらに、親会社から出向してくる担当者の方というのは、ほぼランダムに決まります。
その人が有能で、きちんとこちらの意向を理解してくれる人ならいいですが、そうでないケースも非常に多いよ、と僕は先輩社長たちから口をすっぱくして言われていたのです。
こういうことが嫌なので、最初はJAFCOさんにお願いしました。
JAFCOはプロのベンチャーキャピタルです。
基本的に、会社がやろうとすることに下手に口出ししません。
また、口出しすることを求められてもいません。
彼らは自分がその分野に関しては素人であることを知っているからです。
判断を任せるために投資しているわけだから、下手に口を出して来たりしません。
ところが子会社、親会社の関係になると、子会社の業績が悪化するとすぐ親会社の担当者の評価が下がります。だから必死で目先の利益をおっかけるように議論を誘導する人も少なくないというのです。
というわけで、僕はベンチャーキャピタルが相手なら、5億円以下、事業会社が相手なら5%未満、という基準を決めていました。
そういう中で、UEIを非常に高く評価してくれたのはやはりD2Cでした。
資本比率に関してもこちらの要望を強く反映してもらうことができました。
いま、うちの会社にとっては一千万や一億というのはもはやさほど大きなお金ではありません。
重要なのは今後の戦略として、どんな会社と手を取って行くか、ということです。
宝殊山さんは去年、さらに出世してついに社長に上り詰めました。
不思議なことに、自分のことのように嬉しかったことを覚えています。
それから、「もう俺が社長だ。清水さん、なにか面白いことを一緒にやろう!未来のためになることを。金なら出すからさ」と声をかけて頂きました。
そうして始まったのが、青少年開発者育成を目指した9leap(ナインリープ)プロジェクトでした。
こんな、いつ、どこでどうなって自分たちの利益に跳ね返ってくるかわからないものに大金を賭けられるD2Cという会社は、恐ろしく懐の深い会社だと思いました。
それから、やはり決め手になったのは、やはり創業者の藤田さんのことでした。
ちょうど一年近く前、忌まわしい、あの大地震が起きたとき、僕は遠くテキサス州オースチンでなす術もなく呆然としていました。
とにかく、現地でもなにかできることやろう、ということで、頓智・の井口さんと一緒にテキサスで街頭募金活動を始めました。
二日目、電通からも応援が送られてくる、ということで待っていたら、やってきたのは藤田さんでした。
藤田さんは当時もうD2Cの社長を退任し、新たに設立された電通デジタルホールディングスという会社で、100億のファンドを預かる重役となっていました。
その藤田さんが、文字通り額に汗して、見たことも聞いたこともないようなアメリカのミュージシャン達に頭を下げて募金を募る様に、単純に心を打たれました。
テレビを牛耳り、広告を牛耳る嫌みなエリート集団と思うかもしれませんが、サイバーコミュニケーション、D2Cと二つもの成功企業を立ち上げた大ボスが、現場で頭を下げて一文の得にもならない募金活動をすすんでやる。そんな会社は素直に凄いと思いました。
こういう人が作ったのがD2Cという会社で、それは素敵な会社だろうなと思ったのです。
親の顔が見たい、じゃないけれども、会社というのは驚くほど創業者に似るものですから、そういう評価尺度もあると思うのです。
さて、かくして限界まで株を薄めないように資本提携をした結果、UEIの時価総額は22億円ということになりました。
時価総額22億円というのがどういうことか、就活生のみなさんにわかりやすく説明すると、東証一部上場企業のビリの方くらいということです。
幸い、上場してないのでしばらく株価は下がりません。
もちろん、もっと株価が上がらなければ、出資者であるJAFCOもD2Cも大損です。
だから彼らは全力で我々を応援してくれることになります。
強力な応援団を得て、UEIはもっと面白いことをやっていくつもりです。
乞うご期待
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2012-02-07
■ゲームジャムのスピード感で業務を効率化! 秋葉原業務ジャム(ADJ)開催
先日開催されたグローバルゲームジャムは、全世界1万人の開発者が48時間でゲームを開発するというビッグイベントだった。
僕も「どこでもいっしょ」の開発者である南治さんとともに「チームマル調」を結成し、実際にゲームジャムに参加してみた。
去年もゲームジャムっぽいイベントを何回か主催してみたんだけど、やると見るとじゃ大違い!
これはやったほうが圧倒的に面白い。
すごい体験をした、と思った。
あらゆることがスピーディに進んで行く。
アイデアを話し合い、具現化し、デバッグし、改良を繰り返すプロセス。
それがたっち48時間に凝縮されている。
48時間ぶっ続けなのかと思ったら、けっこうみんな帰る。
しかしこの「一旦帰宅する」という仕組みがまた実に良い。
帰宅するから、頭の中が一度さらっとリセットされて考えが整理される。
それに伴って新卒採用もゲームジャム化してみた。
普通のセミナーを開くと常に100人くらいやってくるのだが、さすがに長時間拘束されるとあって、40人弱しか集まらなかった。
さて、集まった面子で即席のチームを作り、テーマに沿ってゲームを開発するということになる。
実はこれがかなり難しい。
知らない人と話をするだけでなく、意見を戦わせてリーダーシップを握り、素晴らしい成果を生み出さなければならない。
実際にやってみると、就活ジャムにはいろいろと問題があることも解った。
プログラマーを職種としては希望していないが、実は書ける、というような学生がなかなか活躍できない場面が見受けられたのだ。
特にUEIでは、プログラマーではないけれどもプログラムが書ける人間というのは相当数に上る。
特に幹部候補や総合職はほぼ全員がプログラムを書ける。もちろん文系理系を問わない。
これをHTMLが書ける、まで広げるとほぼ全社員が書けるはずである。
営業でも簡単なプログラムやCSSなら書くことが出来る。
それが会社の強みなわけだから、こうした隠れたスキルを持っている人間がグループワークで活躍できないというのはやはりまずい。
そこで二回目の就活ゲームジャムでは、個人競技にすることにした。
全員がその場でテーマに沿ってプログラムを書き、最後に講評するのだ。
これも40人近くの学生が参加した。
すると面白いことが解った。
なんと一般職志望の学生の方が、総合職やプログラマー志望の学生よりも遥かに魅力的で独創的な作品を作り上げるのである。
また、プログラム的に最も凝っていてきちんとゲームになっていた作品を作ったのは、総合職志望の学生だった。
対して、プログラマー志望の学生は、どうしても学校で勉強している言語の知識に足を取られて、うまく実力を発揮できないようだった。こういうときに応用力の差が出てくる。
それに対して、一般職・総合職志望の学生は、与えられた道具をいかに上手に使って目的を達成するかということに注力していた。その結果、作品のクオリティが上がったのだと考えられる。
しかし、こうした、短期間のうちに与えられた課題に対して即席の小さなチームを沢山つくり、デモまで作り上げてしまう、というジャム形式は、特に新しい課題や革新的なアイデアを考えたりする場合に有効な形式なのではないかと僕は感じた。
そこでスタートしたのが、秋葉原リサーチセンター(ARC)で開始した、「秋葉原業務ジャム(ADJ;Akihabara Duty Jam)」だ。
ADJは、UEI/ARCが普段抱えている実際の業務に関してジャム形式でプロトタイピングを行う。
ARCの業務とは、主に顧客の問題解決だ。
例えば顧客がAという新しいサービスを考えていたとする。
そのAに関する要求仕様書(RFP)を顧客から貰い、RFPを出発点として複数のチームが同時に別々の経路で解決策を模索する。
このやりかただと、各チームが個性を出そうと奮闘するから、無難なものになりにくい。大胆なアイデアが次々と実現可能性も含めて議論されていく。
UEI/ARCの主なクライアントは大手携帯キャリアや大手電機メーカー、テレビ局やレコード会社などだ。そうした顧客の課題を正面から解決しようとすると、大胆だが無難なものになりやすい。
これまで顧客はそうしたもののユニークさを僕個人の知見に求めていた。
しかし僕にしてからが、この「無難さの罠」に嵌っていた。
ADJはこの罠を効果的に回避することができる。技術の多様性と実現可能性を、実際にやってみせるという、それ以上ない説得力で実現することができるのだ。
業務ジャムの中心となるのは、UEIの中でも特に選ばれたメンバーである。
独創性と多様な経験を持つ企画マンたちと、特に実装能力に定評のある若いプログラマー達が二人一組でチームを作る。
プログラマーと企画マンがセットというところがミソだ。
お互いに刺激とプレッシャーを与えながら、ゴールに向かって走って行く。
ただし、本物のゲームジャムのように48時間耐久とかにすると疲れすぎて他の業務に支障がでる恐れがある。
そこでADJでは作業禁止時間を厳密に設ける。
その時間帯は一切のADJに関する作業をしてはいけない。
たとえばジャムが二日間に渡る場合は、必ず定時に帰らなければならない、というルールを設ける。
こうするとなにがおきるかというと、一度わあっとアイデアを形にしているところで、いったんストップがかかる。それによって、逆にアイデアが頭の中で熟成され、より洗練されたアイデアへ昇華していくのだ。
何度かの中間発表などを経て、最終成果発表を行う。
これを各案件の担当者がまとめて、顧客への最終的な提案資料にまとめ直す。
実際にやってみると、意外なほど効果が高いことが解った。
最初は朝スタートして夕方まで約8時間で終わる形式でやってみたが、参加者が慣れてくると2時間30分という非常に短い時間であってもきちんとしたデモを作ることができた。
なぜこうした効果が得られるのか、実際にやってみた感想からいえば、やはり、集中力が違う、のだと思う。
ジャムでは、厳しい時間制限のもとものを作る必要がある。
しかも、企画発表や、α版発表、β版発表、最終成果発表と、細かくマイルストーンが決められている。
こうしたマイルストーンの中で、他のチームの進捗を目の当たりにすると、自分たちがなにに拘って作業が進まないのか明確になってくる。
実際、僕もグローバルゲームジャムに参加しているとき、企画発表やα版発表の出来はさんざんなものだった。
時間までに終わらせるべきことが終わっていなかったし、アイデアもまとまりがなかった。
他のチームの進捗を見ているうちに、「なるほど、こういう落としどころでいいのか」と自分の中の落としどころが見えて来た。
落としどころが見えると、作業はサクサク進めることができる。
一緒に開発するパートナー(チームメイト)がいるということも、集中力を高める上で重要なポイントになった。
自分一人ではダラダラとしてしまうところを、他のチームメンバーに迷惑をかけまいとして良い意味での緊張感が持続し、休憩はしっかり休み、作業時間は集中して働く、ということができた。
また、やはり同じ場所に他のチームが居るということも刺激になった。
これは、いわば高校生にとっての模擬テストのような緊張感ある時間だ。
隣の学生のペンの音が気になる、という感覚。
僕が高校生のとき、模擬テストほど緊張感のあるイベントはなかった。
僕はぜんぜん大学受験を真面目にやろうとはしていなかったが、その時間はまるで時が止まったかのようにみんなが答案に集中するため、僕も仕方なく、答案に向き合うふりくらいはしなくてはならなくなった。
そしてそういうときほど、意外といいアイデアが浮かんだりするのだ。
社会人になるとこうした緊張感はいともたやすく喪失されてしまう。
それこそ電通のように、新入社員はもとより、中堅社員も社内の研修施設できちんと教育する機会を設けることが出来る大企業ならいいが、うちのような中小企業ではどうしても日々の業務に追われてそうした緊張感を欠いてしまう。
ところが業務ジャムではそうした緊張感を実際の業務で持続することができる。
これまで、顧客への新しいアイデアの提案やそのためのプロトタイプ開発といったことは、小数の担当者だけが行っていたが、これには膨大な時間がかかっていた。
リサーチに数ヶ月かかることもざらではなく、プロトタイピングにはさらに数ヶ月を要することもあった。
けれども業務ジャム形式なら、最初のプロトタイプは一日か、遅くとも二日以内にできてしまう。
そのかわり人月工数としては一気に20人日掛かったりするので、トータルでは得をしていないが、それでも時間という、お金ではかけがえのないものを得ることが出来る。
同じことを二人チームで半月やったとしても、これほどの成果を得ることはできないだろうから、そういう意味では業務ジャムは、UEI/ARCのような大手企業の研究委託事業をメインにしているような部署にとっては効果的な方法のような気がして来た。
ただし、業務ジャムは非常に集中力を要求するので、連続してはやるのは難しい。
いわばプロ野球の試合みたいなものである。
そこでジャムに関わる人間を入れ替えながら目的に応じてジャムの規模を決定することになる。
こうした業務形態を実現するには、いつでも自由に好きな開発に投入できる、優秀な遊軍プログラマーが必要だ。これは幸い、ARCには山ほど居る。
彼らはHTML5とenchant.jsのような効率的な開発環境(jQueryを使う者も居た)、WebGL、NodeJSといった最先端のWeb技術に精通していて、彼らが各事業部門の企画スタッフとチームを組んで、新しいコンセプトを超短時間で実装する。
実際にうごくところまで作ると、アイデア段階ではわからなかった欠点や利点が解るようになる。
そうした体験からのフィードバックは実際の製品開発へのステップが大きく前進することになる。
業務ジャムはかなり盛り上がるので、ブレストで盛り上がってもいまいちアウトプットに結びついてない会社さんにはお勧めです。
2012-01-25
■就活において、総合職や企画職、プログラマーは「なにができるか」を百の言葉で綴っても意味はない。大事なのは、「なにが出来たか」ということだけだ
実はUEI新卒向け会社説明会第三回を、今週金曜日に行います。
会社の説明をするという本当の意味の「説明会」はもう二回やったので、次はどうしようかな、と思ったところ、そういえばグループワークという手があったな、と思いました。
そこで、第三回目の会社説明会はグループワークとし、その場で即席のチームを作って制限時間内にゲームを一本作ってもらうことにします。
こういう形式の開発スタイルは「ゲームジャム」と言って、短いものでは1時間、長いものでは、世界で4000人の開発者が48時間ゲーム開発に没頭するというイベントもあります。
プログラマーの能力を見るのはもちろん、総合職や企画職といった職種を希望する人たちの実際的な「結果を出す」能力、そして現場でのリーダーシップやチームワークを遂行する能力を評価するにはまさに打ってつけだと思います。
実際の仕事がどのようなものになるのか、という質問も多かったので、それを先に体験してもらうのが一番良いでしょう。
ソフトウェア開発という仕事の、一番面白く、苦しい部分がまさにこうしたゲームジャムには集約されているからです。
ソフトウェア開発の世界では、どんな学歴も資格も、意欲の高さも愛社精神も、ほとんど紙くず同然です。
大事なのは、どんなソフトウェアを作ったのか。ただそれだけ。
この「作った」には、当然、プログラミングだけでなく、企画、グラフィック、プロモーション、プレゼンテーションといった要素を含みます。
全く見ず知らずの人と即席のチームを組んで、その場で全員の性格と自分の立ち位置を確認し、全員が全力で課題の達成に当たる。その上で素晴らしい作品を作り上げるできるか、できないか。
そういうことをこのグループワークを通して学び、自分にはそれができるのだと証明していただけたらと思います。
2012-01-24
■クォータニオン
まっすぐな道をひたすら走る。
僕は運転が好きな方で、いつも遠出となるとウキウキ、ワクワクするものだったが、この日はそう楽しい気分でもなかった。
軽快なはずのMスポーツハンドルも、なぜか重く感じられる。
アクティブ・ステアリングの調子が悪いわけじゃない。
気分が乗らないのだ。
15年も前の話だ。
僕は生意気にも、日本のゲーム業界は重大な危機を迎えると直感していた。
その頃はゲームといえば3Dのリアルなグラフィックスが最重要とされていた時代だった。
しかし肝心の3Dに関する知識も教養も、日本の開発者には足りていなかった。
そしてゲーム性という、ゲームにとって最も重要なファクターはむしろ軽視され、進化が止まっていた。
ゲームの論理的構造を解説した教科書は存在すらしていなかったし、企画者向けに書かれた本はどれも根性論かエッセイ集の出来損ないみたいなものしかなかった。
誰も真面目にゲームという現象を捉えず、即物的に消費される単なる消耗品としてゲームが認識されていた。
それは当のゲーム開発者にとってさえ、そうだった。
その裏側で、アメリカではゲーム性の解体とゲーム開発技術の構造的研究が活発に為されるようになっていた。その集大成とも言えるのがCGDC(コンピュータゲーム開発者会議)であり、現在のGDCだ。
シムシティの開発者であるウィル・ライトらが中心となって始めた勉強会だったが、そこで行われている議論の高度さに僕は舌を巻いた。
日本語を使う人に比べて、英語を使う人は10倍は居る。
英語で書かれた論文や本も日本語でかかれたそれよりも圧倒的に多い。
日本では絶対に必要不可欠と言えるような3Dプログラミングに関する知識が明らかに不足していた。
たとえば、クォータニオンだ。
クォータニオンは四元数と呼ばれる数学上の特殊な概念で、1995年の日本には少なくともクォータニオンを解説した書籍はひとつもなかった。大学の図書館で何度検索しても見つからず、結局、秋葉原の書泉ブックタワーで、一万円もする分厚い洋書を買って、そこにほんの2ページばかり載っていただけだった。
それを必死で辞書とにらめっこしながら解読し、ようやく使い方を覚えたのだが、これは一度使ってみると、なぜそれまで使わなかったのかわからなくなるほど重要な概念だった。
当時、日本語で書かれた3Dプログラミングの教科書は、今から考えると笑っちゃうくらいにレベルが低かった。
学生が、あやふやな専門知識で書いた本(そのうち一冊は僕が書いた。今でも申し訳なく思っている)が大半で、正しい知見によって書かれた本は本当に数えるほどしかなかった。
数少ない例外が、東大の西田教授の本だった。しかし大学の授業向けに書かれているためか、僕が本当にやりたいことについては情報が欠落していた。
それまでに僕は大学の図書館や過去の雑誌の記事を含めて、ありとあらゆる3Dプログラミングの本を読んで来たつもりだった。しかし洋書だけは上京するまでは手が出なかった。
3Dプログラミングで最も難しい概念のひとつ、姿勢制御において、クォータニオンほど完璧なやり方はなかったというのに、当時はどの本にも掲載されていなかった。
そして僕が1万円出してやっとの思いで買った洋書、「Computer Graphics:Principles and Practice」にはクォータニオンとともに西田教授の研究が掲載されていて、しかも発行日が僕の誕生日より前だった。
これじゃあ当時、日本語の範囲でどれだけ勉強したとしても、洋書に書かれている20年も前の当然の前提知識が不足しているということになる。僕は日本人に産まれたことに絶望した。
その頃の日本のゲーム開発者たちは、たいした根拠もなく、海外でなにが起きているか見向きもせずに自分たちが世界の王者だと思い込んでいた。
確かにスーパーファミコンまではそうだったのかもしれない。
そういう幻想は確かに心地よいし、なにも英語や数学なんか今更勉強したくもない、という人たちは想像以上に多かった。
とはいえ、これに危機感を感じた人が日本にもいないわけではなかった。
とりわけ当時、CESAの事務局にいた緒方泰治と、Microsoftのテクニカルエヴァンジェリストだった森栄樹はそうだった。
CESAは日本の代表的なゲームメーカーらが集まって作る団体だ。
いわば日本のゲームメーカーの社長同士の集まる連絡会であり、社交界を代表していると言える。
東京ゲームショウなどのイベントを仕切るのもCESAの役割だ。
緒方泰治は理事の反対をうまくかわしながら、日本版GDCを立ち上げる構想を持っていた。
当時のゲーム会社の社長はおしなべて了見が狭く、「なぜうちの企業機密を商売敵と共有しなければならないのか」と強く反発する社長も少なくなかった。
反対に「日本はこのままでは沈没していく」と考える経営者も少なからず居た。
彼らの陰ひなたの支援を受けながら、どうにかこうにか、東京ゲームショウに併催するという形で、CESA GAME DEVELOPERS CONFERENCE、通称CEDECが立ち上がった。
僕は最初のCEDECのプログラム企画の約半分ほどを担当し、1/3のセッションについては丸一日司会を勤めた。
なぜならCESA事務局にはゲーム開発の経験者は存在せず(緒方はゲーム関係の出版社の営業出身だった)、CEDECの企画を担当する非公認組織CEDEC SWATには当初現役のプログラマーが居なかった。
それからしばらくして、ドリキャス版バーチャファイター3の開発者である(株)元気の砂塚開発部長(当時)や、Microsoftの新しいテクニカルエヴァンジェリストとなった川西裕幸が加わり、ようやくエンジニア向け企画を立てる仕事から僕は開放された。
当時の僕は、3D技術に関してはアメリカに追いつくのは不可能か、ほとんど不可能という結論を出しており(その見解は今でもあまり変わっていない)、自力でエンジンを作るよりもミドルウェアを効果的に利用して、「奇麗な画面のゲーム」ではなく、本質的に「面白いゲーム」を作るための方法を模索すべきだ、という持論を持っていた。
僕にとって「面白いゲーム」を見つけ出す鍵となるのは、携帯電話だった。
なにしろ当時の携帯電話というのは、ほとんど文字しか出せなかったし、リアルタイムな反応をさせるためのJavaすら搭載されていなかった。
そのうえで面白いゲームを開発することができれば、その知見は必ずやコンシューマゲームにも応用できると考えていた。
本家GDCにはゲーム設計(デザイン)に関するセッションやラウンドテーブルが充実していて、科学的な分析が行われているのに日本ではそのあたりの議論がまともに為されていなかった。
だから僕はCEDECでゲーム設計(デザイン)のセッションを入れたがったし、次なる世代の中心的存在として携帯電話ゲームのセッションを増やして行くべきだと主張した。西暦2000年のことだ。
この主張に真っ向から反対したのがMicrosoftの川西裕幸だった。
彼は生粋の3Dプログラマーだった。
Microsoftのエヴァンジェリストなのに、対抗勢力であるOpenGLを信奉しているという変わり者だ。
これがMicrosoftという会社の善くも悪くも懐の広いところである。
彼とは完璧に意見があわなかった。ふたまわりも年が離れていたのもあるが、根本的にはある種の同族嫌悪だった。
僕も3Dプログラマーとして三角形に命を賭けた時代があった。けど僕は3Dを棄て、よりピュアなゲーム性を追求するために、携帯電話の世界へ行った。僕に言わせれば、彼はゲームに対してなんの愛着も持っていない。ゲームは彼にとって3Dプログラミングで飯を食うための手段でしかなかった。少なくとも僕にはそう思えた。
毎年、CEDECが終わった後に次のCEDECではなにを中心に据えるべきか、という話になる度に衝突した。
「最新の3Dプログラミングなんか教えても無駄だ」
あるとき、僕はこう主張したことがある。
暴論だった。
「最新の3Dプログラミングの話題は、基本的な知識がない人には難しすぎ、知識がある人にとっては古すぎる。ただのエンターテインメントだ」
事実、そうだと思っていた。
アメリカで発売される著名なリアルタイム3D解説書である「GPU Gems」は、かなり頑張っても翻訳された本がでるのに1年のタイムラグがあった。
真面目にやるつもりがあるなら英語の原著をそのまま読まなければ間に合わない。
それにしても、遅すぎるのだった。原著を書いた連中は、さらにたっぷり一年は進んでいるだろう。本を書くほど余裕があったのだから。
そういうのはSIGGRAPH*1の論文集が読めるレベルの人がやればいいのであり、そういうレベルの人は日本のゲーム業界に数えるほどしかいなかった。
一方、川西裕幸はこう言う。
「電話なんかゲームの堕落だ。あんなアルバイトみたいな小遣い稼ぎの話をしてどうなる。ゲームの本流はあくまで3Dグラフィックスだ」
確かに当時の携帯電話ゲームは今ほど儲かっていなかった。
ずっとこんな感じで、常にCEDEC SWATの会議は、川西裕幸と僕の対立構造というのが産まれるようになっていた。
それから僕が渡米することになって、CEDEC SWATを引退した。
川西裕幸は煙たいのがいなくなってせいせいしたのか、まるで水を得た魚のようになって、無邪気に3D関連のセッションをドカンと増やした。
それからも、ときどき、いろんなイベントで川西裕幸と会う度にお互い憎まれ口を叩き合うのだった。
とはいえ、その僕でさえも川西裕幸の果たした業界への貢献を無視するわけにはいかなかった。
彼はゲーム開発の基礎的なアルゴリズムを解説した非常に重要な書籍である、「Game Programming Gems」の翻訳を始め、いくつか日本のゲーム開発者にとって非常に重要な指針となる本の翻訳や、翻訳の指導を担当した。数学や物理の本も数多く監修していた。そのなかには、もちろんクォータニオンへの言及があった。御陰で日本にはクォータニオンを含めて、欧米と知識水準において差がでない程度に参考書が揃って来た。
東大在学中に早くも天才的なプログラマーとして知られていた狩野智英を抜擢し、世界中の展示会につれていった。そして彼を技術書の翻訳者として鍛え上げ、狩野にも重要な訳本を何冊か任せた。
彼ら二人によって書かれた訳本は、全て僕の本棚にある。
献本なんてしおらしいことを彼らは絶対にしない。
しかし買わずにはいれないのである。それくらい、本当に必要な本を必要なだけ、訳した。この仕事は率直に言って日本のゲーム業界にとってCEDECそのものもよりも遥かに大きな貢献をしていると思う。
それから幾年露。
去年のCEDECは、まるで冗談のようにどこもかしこも携帯電話ゲームのセッションで持ち切りだった。
帰りがけ、元気を退職した砂塚佳成と、ゼビウスとドルアーガの開発者として知られる、遠藤雅伸にばったり出くわした。
ふたりはしきりに「こんなにアウェイ感のあるCEDECは初めてだ」と漏らした。
しかし明らかに、時代はモバイル・ソーシャル・ゲームへと動いている。
僕は西暦2000年のCEDECの講演で、いずれゲームはサーバ上に構築されるライトユーザー向けのブラウザゲームが主流になり、広告と都度課金モデルによって運営されるようになるだろうと予言したが、まさにそのようになった。
もっとも、ソーシャルという要素までは予想できなかったので、完全に予言通りとは行かなかったが、少なくともモバイルがメインストリームになる、という予想は外れていなかった。
これはさぞかし川西裕幸は悔しがっているだろうと思って会場で探してみたが、残念ながら姿が見えなかった。
3Dの話なんかしてる人はもう殆どいない。
それがゲーム開発者にとって楽しいかどうかはともかくとして。
いまの多少なりとも違和感のある状況というのは、ゲームが新たな段階へと脱皮し、生まれ変わるために必要な儀式なのだ、と思う。
モバイル・ソーシャル・ゲームも、当初の「なんでこんなにウケてるの?」という状況から、二年経過して、「ここを直したらもっとウケる」と確信を持って行動できるレベルにまで進化している。
この傾向は今後どんどん加速していき、おそらく現在のPlayStation3などで提供されるようなゲーム体験をも上回るものになっていくだろう。
結局、人が集まるところには金が集まり、金の力はさらにものごとを進化させていくのである。
10年前に僕はゲーム性を進化させるためには3Dを休まなければならないと思ったが、今はその目に見えない「ゲーム性」が日に日に進化している時代なのだ。
こんなときこそ、逆に2Dや3Dのゲームがもっていた、シンプルな操作性の面白さなんかを追求すべきだと思った。天邪鬼なのだ。
それでenchant.jsなんてものに力を入れて、2Dゲームの作り方を極限までシンプルに現代風に作り替えている。古くからの開発者にはまだとっつきにくいらしい(島国大和さんが苦戦してるらしい。まあ彼はJavaとJavaScriptの区別をつけるところから出直すべきだと思うが)けど、少なくとも僕の目線では恐ろしくうまくいってるように見える。
それまでのゲーム開発とは全く異なるロジックでゲームを開発できる。
昔ならセンパイ*2に「バカヤロー」と頭を殴られてしまうようないい加減なコードでもちゃんと動くゲームが作れる。そういう時代になった。
それからずっと3Dにすることを考えていて、ようやくWebGLに対応したgl.enchant.jsというのが出来た。
2Dゲーム並の手軽さで3Dゲームが開発できるという、中学時代の僕が見たら鼻血出過ぎて失神しちゃいそうなくらいのライブラリだ。
WebGLは最新のヴァーテックス・シェーダーとピクセル・シェーダーが使える。
つまりPlayStation3やXbox360と同等の水準でブラウザ上の3Dグラフィックスを表現することができる。
しかもなんと、AndroidやiPhoneでも動作する(まーちょっと細工は必要だが)
僕も昔採った杵柄で、久しぶりにピクセルシェーダーでも書いて川西裕幸に自慢しにいこうかな。それで「ほら、あんたの嫌いな電話ゲームでも完璧なシェーダーが動いてるぜ」って嫌がらせしてやろう。
そんなふうに思っていた矢先だった。
川西裕幸が逝った。
交通事故だったそうだ。
通夜はさっぱりしたもので、坊主もいなけりゃ線香もなし。
ただ献花をするだけだった。実に彼らしい。質素な式だった。
宇都宮でやっているとは思えないほど多くの人が来ていてちょっと驚いた。
しくしくやってる男たちに囲まれて、僕はじっと座って考えていた。
僕は川西裕幸に色んなことを教わった。
衝突も多かったが、偉大な男だった。
彼なりにゲーム業界に貢献したいと本気で思っていただろうし、だからこそ衝突を繰り返した。
男は本気で殴り合った相手としか、結局は解り合えない。
それで僕は、このさっぱりとした式で彼が望んでいることはなんだろう、と思った。
それから献花を済ませると、僕は席には戻らず、そのままクルマを運転して東京に戻った。
道中も涙は出なかった。僕はこういうのが何週間か経ってからポロっとくるタイプなのだ。
会社に戻って、プログラムを書いた。
朝になるとgl.enchant.jsの開発者、高橋諒君がやってきて(奇しくも川西裕幸の息子さんと同じ名前で同じ年齢だった)、今日も目をきらきらさせながら「次はどんな機能を付けますか?」と聞いて来た。
僕は
「そうだな。じゃクォータニオンをサポートさせようか。あれがあるといろいろ便利だしねえ」
と言った。
すると高橋君はちょっと恥ずかしそうにして
「クォータニオンですか。僕、あれちょっと難しくて・・・」
僕は微笑んで本棚に立った。
一冊の分厚い本を手にとり、高橋君に開いてみせた。
「ほら、この本を呼んでごらん。実にわかりやすく解説してあるよ」
「本当だ。やってみます」
僕はキラキラした目でその本のページをめくる少年を見つめて、それから窓際に立った。
眼下には見慣れた秋葉原の町並み。
それから雪が降って来た。
2012-01-19
■ギョーカイ人はなぜ「○○ちゃん」と相手を呼ぶのか?その意外な理由
いわゆる「ギョーカイ人」は謎が多い。
まず、「ギョーカイ」ってのはどこなのか。
そもそも社会人なら誰もがなんらかの「業界」に属しているものではないのか。
むかしむかし、僕が先生と呼ばれていた頃、生徒さんの一人が「なんとしても業界に入りたいです」と熱弁していて、吹き出したことがある。
もちろんこのとき彼が言っていた「業界」は「ゲーム業界」のことだったのだが、そんなの説明されなきゃわからないのだ。
それはそうと、いわゆる「ギョーカイ」とは、芸能関係のことを指すのが普通だろう。
高校生とかが「ギョーカイ人」と言うとき指すのは、とりわけ、テレビやラジオのプロデューサー、ディレクター、ADといった構造を意味する。これに映画や広告代理店、もしかすると雑誌や音楽プロデューサーなんかも加わって、なんとなく「ギョーカイ」の全体像が出てくる。
本当は広告代理店は広告業界、音楽プロデューサーは音楽出版業界、テレビ局はテレビ業界に属していて、ビジネスモデルも目的もぜんぜん違うのだけど、このへんが主にいわゆる「芸能人」を媒介として渾然一体となって織りなしているのがいわゆる「ギョーカイ」であり、それはどこにもあるようでどこにもない、という不思議な存在に感じられる。少なくともその「ギョーカイ」の外に居る人間としては。
ただ、東京に暮らしていると知人の何人かはいわゆる「ギョーカイ」のあちこちに居て、僕もまあ深夜の単発番組をプロデュース*1させてもらったり、社員にM1出場経験者が居たり現役の放送作家が居たりと、ギョーカイ周辺をチョロチョロ動き回っているので「ギョーカイ」にまるで疎いわけでもない。
あるとき、ちょっとしたTVCMキャンペーンの企画を手伝うことになって、弱小広告代理店のブレーンというか、まあ用心棒としてチームに参加したことがある。
そのときの体験がいわゆる「ギョーカイ」って奴を肌で体験した最初のものだった。
「清水さん、今回のクライアントはケータイ業界だから僕たちにはぜんぜん解んないんだよね。ちょっといっちょ噛みしてよ」
当時ヒマを持て余していた僕は、軽い気持ちで引受けたんだけど、さあ企画会議だってんで東京湾を見下ろす某ビルヂング*2の会議室に通されたとたん、数秒前まで「清水さん」と僕を読んでいた長年の知己である企画マンはこう言った。
「ハイ注目!この人が今回の用心棒、シミちゃん。はいシミちゃん挨拶して」
おいおいいきなり「ちゃん」付けかよ、と驚いた。しかしもっと驚いたのはそこに居た人たちの反応だ。
「ちぃーす、シミちゃん。よろ」
誰だよ君たち。
チーマーか。
なんだその慣れ慣れしさは。
それがまともな社会人が初対面の相手に対してやることか
面食らったのは間違いない。
ちょっと余談になるけどプレゼンの当日、なぜ僕が「用心棒」と呼ばれていたのか解った。
プレゼン会場に通されると、知った顔が座っていたのだ。
「あれー?清水さんなにしてんの?」
「なにもしてないよ。君こそなにしてんの?」
「おれこの会社の役員なんだよね」
「それは知らなかったなあ。おめでとう」
「そっか、ここは清水さんいるのかー。なら安心だなあ」
その一言で、我々チームは電通や博報堂、東急エージェンシーといった強豪代理店を向こうにまわしてあっさりとウン億円って仕事をもぎ取ったのだけど、なるほど用心棒だ、と思った。企画の内容はほとんど関係なかったんじゃないかな。どうせ頼むなら知ってる顔に頼みたいのが人情というものだ。
広告代理店でコネ入社が重視されるわけである。
その後、テレビ番組にも出たし、制作にも何度か関わったり、今でも月に何回かは電通に通っているんだけど、あんまり「ギョーカイ」っぽい喋り方する人には会ったことがない。
そう思ってたんだけど・・・。
その日、僕は六本木のバーで薄い水割りをやっていた。
そうそう。僕の友達はアイドルオタクが多い。
アイドルオタクと言っても、ドラマの「電車男」に出てくるような中途半端なやつじゃない。
アイドルが好きすぎてアイドル雑誌の編集者になったり、プロのカメラマンになったり、タレントのマネージャーになったり・・・もう病気って言っていいレベルの重度のアイドリアンが僕の身の回りにはなぜか多い。
彼らはなにか僕に同じ匂いを嗅ぎ付けてやってくるのだろうか。
僕もアイドルは好きな方だが、とても人生をアイドルに捧げるようなことはできない。
しかし某大手出版社のお偉いさんが、実は有名大学のアイドル研究会の創始者だったりとか、アイドリアンシンジケートはばかにできない。
その日は、まあやっぱり病的にアイドルが好きすぎて東証一部上場企業の役員を辞めてタレント事務所の経営に乗り出した変わり者と飲んでいた。彼とは良く飲む。
高校時代からレコード会社に足しげく通い、名門高校なのに同級生が軒並み東大に進学するなか、敢えて二流私大に進学して勉強しない時間を全てアイドルに捧げるという知能犯だった。
僕と年は少し離れているんだけど、それくらいの人のほうが友達としてはちょうどいい。
「ねえ、なんかギョーカイ人って○○ちゃんって呼ぶじゃん。あれって気持ち悪いよね」
すると彼は意外なことを言った。
「あれはねー、ギョーカイ人が上下関係をなくすために導入した呼び方なんだよ」
「え、そうなの?」
「○○ちゃん、って言うとさ、上下関係ないじゃん。男女も関係なくなるし。遠い関係の人でも、滅多に会わなくても、親しみを持って聞こえる。そういうところが、実は意外とけっこう、大事なのよ。清水ちゃん」
「よせやい、僕のこと清水ちゃんなんて呼んだことないじゃん」
「そりゃギョーカイの人じゃないからね」
「そりゃそうだな。つまり○○ちゃんってのは、承認でもあるわけか。"ボクは君をギョーカイ人として扱ってるよ"っていう」
「そうかもね。あと、もっと親しくなると逆にして呼んだりするよね。"ちゃんシミ"とか」
「さん付けすることはないの?」
「それはスポンサーとか、外部の人とかはさん付けするんじゃないかな」
「てことは○○さん→○○ちゃん→ちゃん○○という順にギョーカイに深くなって行くわけか」
「あと○○選手ってのもあるね。これも年齢とか性別とかを無くす呼び方。だけどやや下に見てる感じかな。清水選手、とか」
「選手ねえ。確かにADはそう呼ばれてるの見たことあるな」
つまり、ちゃん付けは「ギョーカイ」の内と外をわけるキーワードらしいのだ。
その意味では確かに僕がギョーカイの内側に居た、つまり広告代理店における広告企画の仕事をしたのは一回こっきりだから、それ以来、シミちゃんと呼ばれないのは道理かもしれない。
「まあでもね、本当に仲がいい人は普通にさん付けで呼ぶよ」
「あれ?そこで戻っちゃうの?」
「ギョーカイ人としての関係性、じゃなくて人と人との関係性、だったらそれはそれで呼び方変わるじゃん。だから僕は君を清水さんと呼ぶことにしてるしね」
「なるほどねえ」
テレビにしろ広告にしろ、いわゆるギョーカイにはアドホックなその場限りの関係が多い。
必要に応じてチームが招集されて、バババッと仕事して、はいお疲れ、で別れる。
今回タレントさんはこの人、カメラマンはこの先生、で、仕切りは電通、局はCX、作家さんは吉本興業、制作会社はスウィッシュ、とかなんとか。
仕事を繰り返していると、同じ顔が出て来たり、出てこなかったりする。
一緒に仕事をしたことがあっても忘れてることもよくある。
だからこそ、その場のアドホックな関係性としての「○○ちゃん」が必要とされるのだろうか。








