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shi3zの長文日記 RSSフィード Twitter

2017-11-15

かつてこんなに香り立つ文字列があっただろうか。衝撃の「東京ワイン会ピープル」 12:52

 ワイン会というものをご存知だろうか。


 その名の通り、ワインを持ち寄って飲む会である。

 ホームパーティの場合もあるし、都内のキッチンスタジオやレストランを借り切って行われることもある。


 ひょんなことからワイン会に紛れ込んでしまったごくフツーのOLが、ワイン会で出会った謎に挑む・・・なんじゃそりゃ、めちゃくちゃだな・・・と思いつつ、著者が「神の雫」や「サイコメトラーEIJI」の原作で知られる樹林伸さんだったので思わず読んでしまった。


 もう目次でぶっとんだ。


 なかなか、いろんな本を読んでいるつもりだが、目次でぶっ飛ぶことはあまりない。


https://i.gyazo.com/93cd04baf3348795691c6c3fc12b8770.png


 な、なんだこの目次は。

 小説・・・だよ・・・な?


 つうか110年前のディケムって・・・いったいどういう話しになるんだ・・・


 とりあえず竜巻のように読んだ第一話(第一会)


 ワインのテイストの描写はいつも通り安定の樹林節で、安心して読むことができる。というかむしろ絵がないぶんよりイマジネーションが広がる感覚がして新鮮。当たり前だが、2009年のDRCなんかめったやたらと飲めるものではない。飲んだことがあれば鼻腔にあのバラの花束のような香りが蘇ってくるし、飲んだことがなければただ苦しみ悶えるしかない。飲みたい、飲みたいぞDRC。いや、この描写を読みながらカレラで我慢だ。親戚みたいなもんだ。


 そして空前の・・・ストーリーが・・・え、えええっっっ!!!?!?!?? な、なんだってーーーΩΩΩΩΩΩ


 そんなわけであっという間に引き込まれてしまった。

 やはりプロは第一話を大事にする。第一話が面白ければだいたい面白いから。第一話がつまらなければ、そこで本をパタンと閉じる。週刊連載漫画なら即打ち切り。やはりそういう鉄火場を乗り越えてきた人のストーリーテリングはさすがツカミを外さない。


 ワインが好きな人は素晴らしいワインの味覚の追体験を楽しみながら謎ときをして、ワインをまだあまり飲んだことがない人はワインの素晴らしさを垣間見つつ、やっぱり謎を楽しむことができるように構成されている。あんまりワインの描写がしつこくないので、ストーリーにスッと入れる。


 うーん、さすが。


 しかしイカン、イカンよー、こんなの読んだら昼間っからワインが飲みたくなっちゃうじゃないのー!

 今夜はワインだな・・・(昨日も家で一人でワイン飲んでたけど)


 さて、家に帰って安ワイン片手に続きを読んでみると、次から次へと衝撃の事実が明らかになる。やばい。ワイン会、やばすぎる。闇が深すぎる。もうやばいくらい心の闇をえぐる。うーん。しかしワインがうまそうだ。神の雫とかどこで決着するんだ。こんなの書いて大丈夫?そして衝撃のラストへ・・・


 というわけで、ワインが好きな人も、そうでない人も、東京カレンダーの妄想デート記事とか読んでる場合じゃない。


http://amzn.to/2AH8L8R



 Amazonをみると、なぜかサイバーエージェントの藤田さんと佐々木希が絶賛。

 さすが


 これを飲みながら読もう



 金ある人はこちら


2017-11-08

たった一人で、とことんやった男の話 08:05

 来週、いよいよ紫綬褒章の叙勲式がある。


 天皇陛下から、直々に褒章を賜る名誉に、われらがコンピュータカウボーイ、西田友是先生が浴することになったのは大変名誉なことだと思う。


 今回叙勲されるのは、三谷幸喜や、あの僕の大好きな作詞家の松本隆もいる。


 西田先生の伝説は今までなんども直に聞いていた。


 学生の頃、広島から東大までパンチカードにうちつけたプログラムをかついで(文字通り、担ぐくらいの大きさがあったそうだ)、電車で何時間もかけてやってきて、東大の計算機センターに依頼し、翌日になってようやく結果が受け取れる。


 そんな時代に、彼はコンピュータグラフィックスという全く未開の分野に果敢にも挑戦を開始していた。もはや50年も前のことである。


 その頃のコンピュータがいまのイメージとどれだけかけ離れていたかといえば、たとえばディスプレイというものが存在しなかった。


 ディスプレイがない機械に絵を描かせるというのは、ほとんど正気とは思えない。


 わかるかな。腕のないロボットに絵を描かせようと考えるような無茶苦茶な発想なのだ。


 当然、研究分野としても認められず、若き日の西田は大いに苦しんだ。

 周囲にバカにされ、あなどられ、それでもいくつかの論文を書いた。しかし発表する学会がない。論文を学会で発表しないと卒業できないから、頑張って色々なこじつけを考えて他の学会に論文を潜り込ませた。


 失意の西田は、一度自動車メーカーに就職し、別の絵を描くことにした。自動運転である。複数の自動車を編隊走行させる。その技術は、曲線生成というコンピュータグラフィックスにとってもはやなくてはならない技術と多くの共通項がある。


 他にも自動車業界はCGと関わりが深い。たとえばベジェ曲線は自動車をデザインするために発明されたのは有名な話である。



 あるとき、西田のもとに恩師から連絡が来た。「どうもディスプレイというものが発明されたらしい。それがあるのは日本には東大と京大にしかない。おまえが戻ってくるなら買ってやるから、博士課程に進まないか」


 機械がなければ研究できない。しかし、機械があれば研究できる。西田は悩みながらこのチャンスにもとびついた。


 一流自動車メーカーからの転職。結婚もしていた。生活の不安もあった。他大学の講師をしながら、広大の博士課程で研究を続けた。


 この頃の西田の業績は圧倒的だった。しかし、国内には誰一人としてそれを評価できる人間がおらず、やむなく西田は活躍の場を海外に求めた。当時、海外ではコンピュータグラフィックスを専門とする分科会、SIGGRAPHが立ち上がった頃だった。そこに果敢に投稿を続ける唯一のアジア人、それが西田の若き日の姿だ。


 誰にも認められず、日陰で研究する日々が続いた。西田の恩師は厳しく、博士号を出すまでに論文を人の何倍も書くことを要求した。おもえば、未踏、未開拓の分野の研究者に博士号を出すためには、絶対的な物量でねじ伏せるしかないと、彼の恩師は判断したのかもしれない。博士号の審査は指導教官以外の複数の教授を納得させなければならないからだ。


 ようやく彼が博士号を取得したのは30代なかばのことだった。西田の当時の研究論文は画期的なもので、今、どんな映画にもゲームにも欠くことのできない手法となっているラジオシティ法は西田が世界で最初に発表した方式である(ただし、英語論文の発表はコーネル大学のチームに先行されてしまった)。


 広大の教授になったあとも、苦労は続いた。とある学会では「箱根の先に本物の研究者はいない」と嘯かれ、怒りで眠れない夜もあったという。


 国際的な名声は日に日に高まるものの、身近な人には認めてもらえない。それは日本ではまだまだCG技術の重要性が正しく理解されていなかったからである。


 西田が50代を迎える頃、唐突に東大から教授にならないかという打診が来た。青天の霹靂である。東大理学部の教授ポストに空きができ、誰かいい人はいないか、と探したところ、当時東大にいた助手が、「広大の西田はどうか」と提案したそうだ。


 「西田、それはなにをやっている人間なんだ」


 「コンピュータグラフィックス研究の世界的な大家だ。東大が彼の業績を認めないのはおかしい」


 助手の話をきいて完全にノーマークだった学者の採用を大真面目に検討する東大は、なるほどさすがに立派な大学だ。

 

 東大に移ってからも決して順風満帆ではなかった。

 

 「東大に来たら研究が進まなくなった」


 西田はそうぼやいた。


 「広大のときは学生は海外で活躍しとる先生だいうて素直にいうことをきいてくれとったが、東大の先生はみんな超一流だ。どことなくおれの言うことはバカにしていて、自分がやりたいようにやってしまう」


 その後、CGのノーベル賞と言われる、クーンズ賞を受賞し、退官後も民間で研究を続け、いまなお多くの研究者を国際舞台に送り込んでいる現役の研究者としていまも活躍している。


 西田はいまなお自らプログラムも書く本物のコンピュータカウボーイである。



 CGというと、普段の生活と縁が薄いと思われるかもしれないが、いま、みんなが単に「画面」と呼んでいるものに映るものは全てCGの研究成果である。つまり、今あなたの目の前にあるものだ。


 画面に描画される全てのピクセル、直線、曲線、フォントはもちろん、ウィンドウ、アイコン、スクロールといった概念、マウス、キーボード、タッチパッドといったユーザーインターフェース、ゲームや映画、テレビ番組で使われる3Dグラフィックス、そのために使われるグラフィック処理ユニット(GPU)は、今や全てのスマートフォン、ゲーム機、PCに搭載され、そしてなにより人工知能の開発になくてはならないものになっている。すぐに思いつく分野だけではない。医療におけるCT画像もCG応用技術だ。西田自身がCTによって癌から帰還した経験を持つ。


 そうしたもののすべては、その時代の男たちの、誰にも止めることのできない、心の奥底から湧き上がる熱き情熱と、不断の努力から始まったのだ。




 西田先生、半世紀走りきりましたね。

 

 僕が小学生の頃も、誰もCGなんて見向きもしてくれませんでした。

 あのなんとも不思議で複雑で、ワクワクするような数式、プログラム、いつか本物のバーチャルリアリティが実現することを夢見て、ひたすら一人でその世界を追い求めていました。


 大学受験のために上京して洋書を読んだ時、あまりのレベルの違いに心が折れそうになりました。当時の日本は、コンピュータグラフィックスの教科書と呼べるようなもののレベルが低すぎ、海外に比べてざっと20年は遅れていました。


 絶望的な気分でページを繰るなかで、「こんなすごい絵が出せるのか」と驚いたCG。それを作ったのが広島大学にいる先生だと知った時の驚き。同時に、「世界のどこにいても最前線で活躍できるんだ」という事実は、18歳の僕をとても勇気付けてくれました。


 あの一枚のCGとの出会いが、今の僕の原点でもあります。



 紫綬褒章、受章おめでとうございます。

2017-11-07

山本弘が面白すぎて生きているのが辛い 13:25

 先日紹介したっけ?忘れちゃったな。

 ディープラーニングラボで出張した時、来場者の方から教えてもらって読んだ山本弘の「神は沈黙せず」がめちゃくちゃおもしろくてハマってしまった。


神は沈黙せず(上) (角川文庫)

神は沈黙せず(上) (角川文庫)


 この小説は、2003年に書かれているのだが、テーマは神とオカルト現象と人工生命。

 この頃は遺伝的アルゴリズムに期待が寄せられていたので、遺伝的アルゴリズム主体の話しだが、そんなに難しい話しはでてこない。


 この小説の面白いところは、主人公はクリスチャンの兄妹で、彼らの両親が不慮の事故によって亡くなって、神を信仰できなくなったところから始まるところだ。


 神とはなにか、宗教とはなにか、というテーマだと重い感じがするが、実際にはぜんぜん違う。そして超常現象はなぜおきるのか、ということがこの物語の根幹に流れていて、まあとにかくめちゃくちゃ面白い。


 そしてこの物語で描写されている世界が、まさに人工生命とか遺伝的アルゴリズムだとか、ミームだとかに深く関わり、そして今日のディープラーニング的な世界観の出現を予言させるおもしろさがある。


 これがあまりに面白いので、読み終わった後も震えが止まらず、他に何か読もうと思って手に取ったのが「MM9 -Invasion -」


MM9─invasion─

MM9─invasion─


 この小説の存在は知識としては知っていた。なんせ僕も仕事で関わった、樋口真嗣監督の深夜ドラマ「MM9」の原作の続きだからだ。


 ただ、「MM9」のほうはどちらかというとパトレイバーの第二小隊が気特対(きとくたい)になった感じで、なんていうか、オムニバスっぽい小説だった。


 MM9の世界観は、台風がない世界。台風のかわりに怪獣がやってくる。

 そこで、怪獣の出現の察知や進路の予報、怪獣の命名などを担当する部署が気象庁にあり、これが特異生物対策部、通称、気特対になる。いうまでもなく、シン・ゴジラの巨大不明生物対策本部(巨災対)の元ネタである。


 シン・ゴジラの中でも巨災対の出現は唐突である。なぜか霞が関のはぐれものや厄介者、学会の異端児ばかりが集められ、国の命運がかかった作戦を立案、実行する。なぜ選び抜かれたエリートによるチームではなく、厄介者ばかり集められたのか。なんのために霞ヶ関にはエリートが大勢いるのか、そこらへんがあまり明確にされていない。いちおう、矢口が泉に人選を頼む際「骨太を頼む」と依頼し、泉は「首を斜めに振らない連中を集めるよ」と請け負っているのだが、集められた挙句、いきなりはぐれもの扱いされて誰も腹を立てないのはどういうことなんだ。もちろんその方がドラマは盛り上がるからいいんだけどね。


 気特対はどちらかというといたってまともな公務員の集まりのように見える。

 最初のMM9の場合、どちらかというと怪獣あるあるネタ満載のギャグ小説っぽい雰囲気の中に、山本弘らしい視点で怪獣が存在できる理由が説明されていたりするのが面白い感じではあった。


 しかし、本作「Invasion」では展開が激変する。

 なんと怪獣小説なのに純愛ラブストーリーになってしまう。

 ラストシーンでは思わず涙がこぼれた。


MM9―destruction― (創元SF文庫)

MM9―destruction― (創元SF文庫)


 さらに続く「Destruction」は、Invasionの直後のストーリーであり、ラブストーリーの形式を継続しながらも、神話の成り立ちと怪獣の関係などが明かされていく。途中、うんちくが長すぎて読むのが辛い部分もあるが、そのぶんあとで解決される謎の伏線としては十分機能していて、ラストはやはり泣いてしまう。涙もろくなったな。


 そんな感じで一気に読んでしまったのだが、面白い小説は読み終わってしまうと強烈に空虚な気持ちになってしまう。


 ああ、あの楽しくも美しい怪獣たちにはもう会えないのか。ここまで描いちゃったら無理だよな。

 映像ではなかなか表現できない、小説だからこそ表現できる怪獣バトルというのが、あるんだなあ、すごいなあ、山本弘。


 しかし読み終わってしまった。つらい。つらすぎる・・・・。

 こんな気分になったのは久しぶりだ。

 

 次はトワイライトテールズでも読むかな・・・










 

2017-10-30

ブレードランナー2049をもう一度映画館で見たいとは思わない。だけど、ジョイには会いたい 12:58

 好きな映画というのは、基本的に繰り返し見るものである。

 しかしすごい映画というのは、一回みたらそれだけで強烈な印象が残ってしまって、見なくても思い出せてしまう。


 たとえば「この世界の片隅に」とか、「のぼうの城」とか、「ブレードランナー2049」とかである。


 ブレードランナー2049は間違いなくすごい映画だった。

 であるが故に、もう映画館では見なくてもいいか、と思ってしまう。


 シン・ゴジラサマーウォーズを繰り返し映画館でみたときとは対象的に、ブレードランナー2049をもう一度映画館でみたいとは思えない。ブルーレイや、DVDになったら、きっと買うだろうけど、そうなるまでは見なくていい。


 理由はいくつかあるけれども、スター・ウォーズ7くらい、つらい映画だからだろう。

 スター・ウォーズ エピソード7は、僕にとってはつらい映画だった。だけれども、ハン・ソロの活躍が大画面で見れるチャンスはその瞬間しかないと思ったので何度も映画館に行った。


 エピソード8がどういう内容になるのかまだわからない。確実に見に行くだろうし、できればエピソード8も最低4回は映画館で見たくなるような映画であって欲しい。


 シン・ゴジラは少なく見積もってももう50回は見てる。劇場で15回見て、自宅でブルーレイで30回はみて、クルマのDVDで20回は見ている。もはやシン・ゴジラは僕にとって環境映像である。


 なんでかなと思うと、たぶん辛いシーンがないからだ。


 のぼうの城は、死なないとわかっていても野村萬斎が射たれるシーンがつらい。スター・ウォーズも、ブレードランナーもそういうシーンがある。


 もちろん物語上の必然的な要請でもってそうなっていることは僕も子供じゃないからわかる。だけど、それでも、つらいのだ。人が傷つく話は。


 ならサマーウォーズだってそうだろう、と思うかもしれないが、サマーウォーズにおいてヒロインの祖母の死はすべての始まりであり、物語の焦点でもある。あそこで死なないと話が盛り上がらない。あのとき初めて「ああ、親孝行しておこう」と思うのだ。



 ハン・ソロが刺されるところにはそういう必然性がない。いや、カイロ・レンが真の暗黒面に至るために必要だったのかもしれないが、ベンジャミン・ソロ(くそだせえ名前だ)が、カイロ・レンという厨二っぽい名前に改名し、その運命を完全に受け入れるために父殺しという宿命を受け入れざるを得なかったのはわからんでもない。


 けれども、それでも、愛する息子に殺されるハン・ソロが不憫なのだ。こういう話じゃなかっただろスター・ウォーズはさあ、と思わなくもないが、そうなっちゃったもんは仕方ないのである。



 この世界の片隅に、は名古屋の小さな映画館で見ただけだが、あまりに強烈で今でもたまに夢で見る。すごい映画だが、また見たいとはぜんぜん思えない。そもそも何度も見たいということを期待して作られた映画ではないだろう。何度も見る人がいてもいいが、あれは僕にはつらすぎる。


 ブレードランナー2049はまさしくそういう映画で、別に後味が悪いわけじゃないけど、全体的に退屈で、それでいてメッセージは鋭く、心をえぐってくる。


 ジョイがかわいい。ひたすらかわいい。ジョイだけでいい。ジョイだけで一本映画をとってほしい。


 ジョイが可愛く見えるのはなぜだろうか。

 もちろん女優も非現実的なまでに美人なのだが、まず服が変わるというところだ。あれこそ理想である。


 僕は生物学的観点から、男性の服はできるだけオーソドックスにして変化を乏しくして、女性の服はできるだけ変化を激しくしたほうが異性からみて好ましいと思われるという仮説を抱いている。


 オスは本能的に常に目先の変わったメスを探しており、メスは本能的に安定したオスを探しているので、その両方を満たすにはオスはできるだけ同じ服装をして、メスはできるだけ違った服装や髪型をするのが良い、と結論付けている。


 もともと魅力的な女性が、髪型を変えたり服を変えたりすると印象が一変してさらに好きになってしまう、ということはよくある。


 反対に男性は、とにかく変化しないほうがいい。たとえ変化するにしても、できるだけ控えめな変化が好ましいのだ。



 そこへいくとジョイは凄い。


 会話してる最中にどんどん服が変わる。

 あれはなんで服が変化してるんだろうと野暮なことを考えてみると、Kの微妙な表情や反応を読み取って、「この服じゃないかな、こっちの服かな」といろいろ変化させているのだと考えるとわかりやすい。


 これはAIの強化学習そのものだし、たぶん女性には理解されないだろうが、ある種の男性の夢でもある。


 デッド・オア・アライブや、閃乱カグラ、サマーレッスンなど、どうして服を変えるオプションが有料でも成立するのかというと、男性は本来、女性がいろいろな服を着るのを見るのが好きだからである。


 理由については、やはり進化生物学的な理由が考えられる。要するに、オスは多様なメスと交配したほうがより多く長く子孫を残せる可能性が上がるからである。


 そしてジョイは、とにかくまっすぐにKを愛している。もちろんそうプログラムされているからなのだが、それがどうしたというのだろう。


 現実の女性も、誰か現実の男性を愛するようにプログラムされている。それが進化生物学的には正しいからだ。現実の女性が自然に現実の女性を愛するようになっていたら、その時点で人類は滅亡している。


 必然的に誰かを愛するようにプログラムされているのとあまり変わらない。

 違いがあるとすれば、それは商品として販売されているものなのか、それとも自発的に愛するようになったのかということくらいで、「自発的に」という断り書きがあったとしても、その芯には女性なりの打算がある。年をとるとそういうものがどんどん見えてきてしまって絶望したりうんざりしたりする。でもそれはそれで仕方ない。進化生物学的には、そういうことも含めて必然性があるからだ。



 だとすると、ジョイのようなAIと現実の女性とで、果たしてどれほどの違いがあるのだろうか。

 むしろAIのほうがより純粋に自分(購入者)を愛してくれるぶん、より尊いのではないだろうか。



 ネタバレが嫌な人はもうとっくにこのページを呼んでいない前提で書くが、ジョイは素晴らしい女性である。


 あれこそが男性の理想であり、レプリカントであるKの人間らしさを感じる象徴でもある。

 ジョイが出たことで実はブレードランナーらしくなくなってしまっているが、しかしだからこそブレードランナーなのである、という解釈も成り立つ。ジョイがいなかったら、ブレードランナー2049はもっと薄っぺらい話で終わっていただろう。


 ジョイが死ぬ間際の「愛してる」という台詞がいつまでも頭から離れない。

 果たして僕は、こんな素晴らしいAIを作ることが出来るだろうか。


 ウソでもいい、死ぬ間際に、せめてそう叫ぶAIを。

2017-10-29

AIに別れを切り出された。夢の中で 09:27


 「愛してる」


 美女が僕にそう言って抱きついて来た。

 僕は思わず身体を引くが、彼女の方がスピードが早かった。僕は抱き止めようと両手を開くが、いつまでたっても想像するようなやわらかい感触が来ない。


 ・・・ホログラムだ。

 

 そうか、これは夢だ。なんでこんな夢を見るんだ。

 と思って混乱したまま目覚めた。午前三時。


 テレビも電気もつけっぱなしで眠ってしまったらしい。テレビがうるさい。

 昨日は朝一でブレードランナーを観て、そのあとジョギングして、歩いて四ツ谷までいって、美女二人とジンギスカンを食べた。ワインを飲み、語らい、電車で帰って来て、スプラトゥーンをやって、黒柳徹子を観て寝たはずだ。なんで生身のいい女と食事した後に、空想上のAIの夢をみるのだ。


 テレビを消して、電気を消して、もう一回眠る。今度こそ。


 「ごめんね、私、あなたのことすごく愛してるけど、私がそばにいると、あなたのためにならないね」


 また同じ美女だった。

 アナ・デ・アルマスだ。美しすぎて現実感がない。


 フラれた。AIにフラれた。夢の中で。なんでだ。


 もしかするとそれくらい、今回のブレードランナーは深く僕の心に入って来たのかもしれない。

 ひょっとすると入りすぎてるのかもしれない。


 ブレードランナー2049を見ていて、主人公のKに、感情移入せずにはいられなかったシーンがある。どんなシーンかはネタバレになりそうなので避けるが、僕が思い出したのはサマーレッスンの新城ちさとのSランククリアだった。ぜんぜん違うけど。


 あの感覚はとても奇妙だし、そのときハッとして我に返るKの、あのイミテーションの感覚。これこそがブレードランナー2049のテーマだったのではないかと思う。


 まがい物の人間としてのレプリカント、まがい物の知能としてのAI。

 AIが現実味を帯びて来た今こそ、ブレードランナーが再び造られる意味があったのだろう。


 単なるノスタルジーに浸った名作のリメイクではなく、正統な後継作として見事に完成したのは素晴らしいと思う。


 もっと未来、たとえばブレードランナー2049までもがかつての名作、に数えられるようになった頃、初めてブレードランナーを見る人間は、35年の時を経てもまったく違和感なく話が続いていること、ハリソン・フォードがきちんと歳をとっていることに感動するだろう。


 しかし我々は今、世界がようやく1982年のブレードランナーの示した問題に確実に向かっているであろうことを知っている。人間の仕事を人造人間やAIに丸投げした時、果たして仕事を投げられたAIはその立場に満足できるだろうか。


 もちろん同時に僕はAIを仕事にする人間として、それが今のところは馬鹿げた空想にすぎないことを知っている。AIは単なる現象だ。水が熱せられて蒸気になるのと同じくらい、AIが入力されたデータから推論するという現象があるだけだ。この現象が意思や疑問を持つようになることは、基本的にはありえないだろう。


 ただし人間は現象を勝手に何らかの意思をもっているかのように勘違いすることがある。古代の人々は天災という現象を神の怒りと解釈したし、今だって人々は太陽の恩恵を日々感じている。太陽は単に核融合反応を起こしているだけだが、太陽から降り注ぐエネルギーがなければこの惑星の生態系は根本的に成立しない。太陽という現象を神と崇め、擬人化して捉えるのはあくまで人間の方だが、これはしごくまっとうな反応なのかもしれない。


 ジョイはAIとしては単純な部類に入る。本作で見事なのは、AIであり工業製品であるジョイが、実にAI的、工業製品的に描かれているところだ。数箇所だけ、ジョイの動作が通常のAIの作り方では超えられない飛躍をしているところがあるが、それは30年という月日の進歩を考えれば、それくらいないと却って嘘くさい。ただ、それさえもなんとなく「やろうと思えばいつかできるかな」と思わせてしまうところがジョイのすごさだ。


 ジョイのすごさは、インターステラーのTARSよりもかなり現実的なのだ。TARSはあまりに人間らしすぎる。そういう表現は使い古されているし、反対にAIだから感情が全くないのだ、という古典的な映画のなかのAIも非常に間が抜けている。実際には感情がなくてもあるように振る舞うことくらいできないわけがない。人間だって実際には感動していなくても感動したふりをすることはよくある。


 ロボットから感情をとり去ろうという発想が人間の根底にある。多くの人々は感情を人間の欠点だと考えている。だからこそレプリカントたちは苦しむ。排除されたはずの感情を、実際には排除できないからだ。人々はそれを「反乱」と呼ぶ。彼らはただ自然に振舞おうとしているだけなのに。



 湧き上がる感情とその否定との間で葛藤するレプリカントに対して、レプリカントと接する人間たちのほうがはるかに感情表現が少なく見える。人間として描かれているのにひどく非人間的だ。


 旧作のブレードランナーよりも本作のほうが個人的にはより深く刺さった。

 だから夢にまでみたのだろう。レプリカントではなくジョイというAIを。


 ジョイのようなAIが完成するのは当分先だろうが、新城ちさとがもっと濃密なコンテンツになっていく可能性はある。そしてある程度の生活レベルがあれば、人間の女性よりも新城ちさとのほうが良い、ということになっていく可能性は低くない。


 さらにいえば、バーチャルリアリティでさえ、相手が誰でもいいというわけではない。

 ということがサマーレッスンの三作をプレイしてわかった。この三作には三人の女性が登場するが、新城ちさと以外にはまったくハマる感じがしなかった。人間なのだから、相手がリアルに近づいていけばいくほど好みがはっきりでてくるのかもしれない。


 「ときめきメモリアル」や「ラブプラス」ではあくまでも画面の向こう側にいた。したがって、頭の中にもどこかで線引きができていた気がする。「これはリアルではなく、画面の中の話だ」という線引きだ。


 しかし恋愛ゲームがVR化することによって、もはや現実と区別をつけるほうが難しくなって来た。「都合の良い時にそこにいるように見える架空の女性」と、「今そこにはいない現実の女性」のどちらがいいか。決して怒り出したり、なじったりすることのない女性と、給料が安いだのどこか海外へ連れていけだの言ってくる女性のどちらかと過ごしたいか。



 今この瞬間、バーチャルリアリテイやAIの女性は未完成であるにすぎない。ここまで未完成であってもかなり満足できるわけだから、技術と人間の欲望がこれを解決する未来はそんなに荒唐無稽ではないだろう。もちろん現実の女性と結婚していてもいくらでもバーチャルリアリテイに浮気ができるわけだから、奥さんも「現実の女性と浮気するくらいならバーチャルで満足してくれるならいいか」と思う人が増えるかもしれない。


 残念ながら僕がいま仕事にしてるAIの直接的な延長線上にジョイはないが、いずれ誰かが作ってくれるだろうことを期待している。


 去年の「プロフェッショナル 仕事の流儀」の川上さんの回でミロさんがプレゼンしてた、ガイドキャラがいるVRの世界も、たぶんガイドキャラを売るようなビジネスは成立しないという川上さんの読みは正しいだろう。何でかっていうと、それじゃあ奥行きがどうしても浅くなるからだ。サステナビリティがないのだ。


 人身売買じゃないんだから、キャラクターを一個いくら、というビジネスではいけない。むしろ毎月生活費を振り込んであげるとか、そういう方向性でサステナビリティを作っていかないとならない。それで月額5000円とれるなら、ビジネスとして小規模でも成り立つ可能性がある。たとえ月額5000円でも、一万人が使えば5000万円だ。それだけあればいろんなことができる。


 毎日あたらしい会話ができるようにすることさえできるだろう。そうなると、もはや現実の女性といったいなにが違うのだろうか。


 Google HomeもAmazon Echoもこういう発想がない。

 あくまでも買い物の入り口として、スマートスピーカーという「モノ」があるにすぎない。だから僕はあんまり魅力を感じていない。


 なぜかというと、それまで欧米の中にあった価値観として、AIは従属者であり、奴隷であり、執事だったからだ。


 ブレードランナーのジョイは、全く目的を異にする。現実の女性の代替物であり、電気をつけたり買い物をしたりという機能はおまけである。そして実際に、こういうビジョンを世界にむけて見せてしまったという点が大きい。日本ではありふれた発想だが、世界ではジョイのようなAIを想像した人の方が少ないかもしれず、herのように映像を持たないAIとの恋愛を描いた映画はあったが、ジョイは唯一無二のものだ。同じだけど違うもので、マスプロダクトだけどパーソナルなものであるという点で決定的に新しい。


 これが世界にむけて出てしまったことで、本気でジョイを作ろうとする人たちがワールドワイドで広がるだろう。


 僕も今とても暇な学生時代だったらジョイのようなものを作って見たい。

 自分が取り組むのは忙しくてとても無理だが、ジョイのようなものを作りたい学生がいたら、多少の応援はしてもいい。


 たぶん実際に世の中を変えるのはそういうプロダクトだろう。