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shi3zの長文日記 RSSフィード Twitter

2008-03-11 Web文具論 - ネット企業のライバルはMSでもGoogleでもなくコクヨだろ

Web文具論 - ネット企業のライバルはMSでもGoogleでもなくコクヨだろう 10:13

最近モレスキンというノートに出会って極めてはまっている。既に発売されているうち、自由罫のものは全て購入。2万円する専用の革カバーも買ってしまった。そして肌身離さず持ち歩いている。最近凝っているのはペンの方だ。太いボールペンの方が僕の使い方には合っている。

Moleskine Classic Notebook, Pocket, Plain, Black, Hard Cover (3.5 x 5.5) (Classic Notebooks)

Moleskine Classic Notebook, Pocket, Plain, Black, Hard Cover (3.5 x 5.5) (Classic Notebooks)

それにひきずられるように、「ほぼ日手帳」やそれと真逆の自己啓発手帳「フランクリン・プランナー」も一通り買って、手帳関連の本もいくつか読んでみた。

知識ゼロからの手帳術 (幻冬舎実用書―芽がでるシリーズ)

知識ゼロからの手帳術 (幻冬舎実用書―芽がでるシリーズ)

結局モレスキンがいいという結論になったのだけど、手帳というのは改めて見直すと夢のある文具である。

特にフランクリン・プランナーなんかは、もってるだけで仕事ができそうな気がしてくる。

おっとっと、それは激しく錯覚だ。

びっくりするくらい錯覚なのだ。

よく考えてみると、僕はなんどかシステム手帳というやつにハマッたことがあるし、それはもう小学校の頃からだったから筋金入りだ。

いまの子供はシステム手帳なんか珍しくもなんともないだろうが、僕が子供の頃は最先端のビジネスアイテムだった。

FilofaxやBindexとか、そういうのを遠藤諭さんが月刊アスキーで何度となく特集するものだから、僕もつられてハマってしまったのだ。因果なモノである。

しかし手帳のフォーマット道りにモノが書けた試しがない。

まあこれは、多分に性格の問題だろう。

きちんと使いこなしている人の方が多いのは知ってる。

僕の努力が足りないのだ*1

だからノートも手帳も自由罫。要するにまっさら真っ白なノートしか使わない。

よほどの時、たとえば「いますぐノートが欲しいけど、田舎のコンビニにはキャンパスノートしか売ってない」という状況でもない限り、使い続けない。

そして会社を作って5年。「よほどの時」以外でノートを使うことは無かったから、久しぶりにモレスキンの自由罫ノートを使って、驚くほどアイデアが溢れていることに気がついた。

熊本出張で行ってから帰ってくるまでに、実に20ページも埋まっていた。

しかもどれもが新しいアイデアである。

人間って実に多くの時間を無駄にしていたのだということに気がついた。

UBiMEMOというサイトをかれこれ4年もやっている。これは携帯用メモツールだ。

これはこれで極めて便利。横罫のノートに書くようにとてつもなく長い文章をどんどん入力できる。

けれども絵が描けない。図が書けない。それが欠点といえば欠点だった。

罫線は思考を規定し、紙というハードウェアの上で動くアプリケーションとなる。

罫線があるとないとでは思考の自由度が違う。

人間の心にはまだ埋められていないものを見ると、それを埋めたくなる、ツァルガルニック効果というものがある。

自由罫を見て「なにか埋めたくなる」のはその傾向が高くて、クリエイティブな人だ。

逆に僕の行きつけのバーで働いてる女の子なんかは、真っ白なページを見て途方にくれると言う。

たいていの人は、罫線がないとなにも書く気にならないらしい。だから罫線の入ったノートが圧倒的に多く売られているのだろう。

どこになにを描いて良いのか、自分で判断できないというわけだ。

ジャポニカ学習帳のページを眺めると、あまりに多様な罫線があって驚く。

成長の段階にあわせて同じ科目でもマス目の大きさや十字線など、さまざまに工夫して描きやすくしている。一見の価値有りだ。

子供の頃は当たり前のように使っていたが、いま振り返ってみると実に多様なフォーマットが用意されていたことに驚く。


僕は複数のブログエンジンを定期的に渡り歩いている、自他ともにみとめるブログドリフターだ。


ブログも、実は思考をある程度規定する。

本文を書くところにあまり大きな違いはないが、サイドバーやレイアウトの設定はエンジンごとにかなり違う。

はてなの場合、本文にもかなりちがいがある。はてな文法という文法で書かないといけない。

エディタもそうだ。

Mac上で、僕はいつも複数のエディタを使っている。

文章を書くときはJEditXソースコードEclipse、サーバ上の設定ファイルはvi、Lispを書くときはEmacs、メールを書くときはMail、メモもMail。

それぞれ、同じ「テキストを入力」というゴールは一緒でも、フォーマットが微妙に異なる。

Eclipseは顕著で、コード補完をしたり、ヒントが表示されたり、色分けされたりするし、viは設定項目を検索して部分的に書き換えてセーブする、という役割には軽くて早い。Emacsは便利だが、どちらかというとけっこう長いものを書くときに使う。起動が重いのだ。

メールを書くときは見た目の様式からして違う。

タイトル、宛名、CC、BCC、差出人アカウント、署名、そして本文、添付ファイル、と続く。まさに"様式"だ。

この様式、フォーマットは、手紙のフォーマットと酷似している。手紙を模倣してつくられたのだから当然だ。


しかし依然として、手紙は毎日会社の郵便受けに届く。

こちらから手紙を送ることは滅多にないが、それでも届くのである。

電子化というのは、実を言うと良いことばかりでもない。

目に見えなくなるから「書いた」という満足感がとても少ない。

「今日はこんなに手紙を書いた」という疲労感はあっても、物理的な量で満足することは少ない。これはもう1970年代うまれの人間としてのノスタルジーでしかないのかもしれないが。

それ以外に、実はみんな、見えない横罫に従って文章を書くことを強要されている、という問題がある。

僕が自由罫のノート以外使わないのと対象に、僕はPCの世界では見えない横罫に縛られている。

ポインティングデバイスとしてのマウスは、ポインティングデバイスとしての万年筆にはまだ及ばない。

先日、液晶ペンタブレットを買って、とりあえずデザイナーに使わせてみたのだが、「つるつるして書きにくい」と不評だった。まあそれは、紙に慣れた人がいきなりペンタブレットを使えば仕方がないだろう。そのうち、ペンタブレットでしかお絵かきをしたことがない人の方が多くなると思う。


ただ、いまのところ残念ながらペンタブレットは物理的にでかい。

小さいデバイスもいくつか出てきたとはいえ、まだ満足できるレベルには遠い。

それでもコンピュータによるOA(オフィス・オートメーション)化はかなり進んできたし、1970年代の「蘇る金狼」をいま見ると、びっくりするくらいパソコンが机の上にないわけだ。


ネット企業が目指すべきは、既に電子化されてしまった分野ではなく、まだ電子化できていない分野をいかに電子化し、本当の意味でのペーパーレスを実現できるか、ということに尽きるだろう。

もちろんペーパーレスとはならずに、かわりにペーパーディスプレイを使うのでも良い。

そして、そのうえで動くアプリケーションというのは、要するにコクヨの用意する数だけ用意しろということなのだ。

GoogleDocsだけでもMicrosoft Wordだけでもダメで、それまで表計算といえばExcelしかなかった時代のほうが、むしろ異常なのである。

いまはまだNumbersで作ったデータをExcelの人に送ってコラボレーションするのはやや難しいが、データフォーマットのオープン化によっていずれその問題も最小化されていくはずで、マイクロソフトもGoogleも、実を言うと自分たちが唯一無二のサプライヤーになれるとは思っていないのかも知れない。

Excelは第一世代の電子化された紙であり、Webは第二世代の電子化された紙で、その先になんども紆余曲折があって21世紀最強の文具メーカーが誕生するのかもしれない。

しかし確実なのはコンピュータ産業のメインストリームはコンピュータの文房具化という方向を好むと好まざるとに限らず、意識しなくてはならないということだ。

文房具としての前提のないコンピュータなど有り得ないという時代が来るかも知れない。

ノートPCの表面に革を貼ったのはASUSが世界で最初だが、いつのまにかそれが当たり前になるかもしれない。

いま、機能的な差別化がないから、そういう装飾やデザインに凝るしかない。

美しいデザインのMacbook AiriPhoneが注目を浴びるのも、要するにそういう理由だろう。一昔前なら、一線で働くプログラマがPCでなくてMacを買うという選択肢は、そもそも存在しなかった。

22世紀頃に振り返ってみると、「なんであんなに飾り気のない、無骨なものをみんな有り難がったんだろうね」と述懐するかもしれないし、1000年後にiPhoneが発掘されたら、「黒くて薄くて林檎の模様がかかれた石版」としか認識されないだろう。

コンピュータ=文具という考え方は、もちろん僕のオリジナルではない。

東大の坂村健氏が20年前に提唱したTRONプロジェクトの、派生プロジェクトでBTRONというOSがあり、そのBTRONを搭載したノートPCのキャッチフレーズが「電房具」だった。名コピーだと思う。

ともあれ、文具としてのコンピュータを今一度考えてみる、ということを僕の今年のテーマにしたい。

*1:それとも僕ADHD気味だから、という逃げ口上を使ってもいいものか