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shi3zの長文日記 RSSフィード Twitter

2008-05-08 天才とのつきあいかたは難しい

天才コンプレックス 02:40

告白する。

僕の「初恋」の相手は、22才の女性で、塾講師をしていた。

時に、僕は当時9歳である。プラトニックな関係だった。


なぜこんな話をするのかというと、彼女が僕にかけた呪いが、長きに渡って僕を苦しめ続け、僕は苦悩し、のたうち回り、運命を呪う羽目に成ったことと今日のテーマに関係があるからだ。



これまで、僕は天才というテーマのエントリをたくさん書いてきた。

天才と呼ばれる人や、それに近い人もたくさんみてきた。

なぜ僕がこんなに天才について興味があるかといえば、なんというか、まあ不幸な育ちに原因があると思う。


この話題について、僕は今まで意図的に避けてきた部分がある。

率直にいって、この話題を持ち出すのは怖いのだ。



正直に言おう。僕は20年以上の間、ひとつの強迫観念に侵されてきた。いまでも後遺症が強く残っている。このエントリは、僕の病理との戦いの回想録である。



僕が抱えている病理、名付ければ「天才コンプレックス」とでも言うべきものだ。



この場合のコンプレックスとは、劣等感という意味での日本語ではなく、心理学用語でいう"抑圧"を意味する。



でもよく考えたら、僕はもう30だし、いまさら人生なんてさほど激変しないだろうから、告白してもいいと思った。それに、きっと同じような体験をして、いまも苦しんでいる人はいるはずである。そういう人たちの一助になればいい。



だから自分が天才に対してコンプレックスを持ってないという人は、以下の文章を呼んでも無意味であるどころか、何を言っているのか理解できないのかもしれない。でもこれが僕という人間が20年以上の間悩み続けてきたことの本質なのである。

あまりにも僕の心の奥底にしまっていたことなので、気が向いたらすぐに消すと思う。






とはいえ、このまま読み進める方は、注意して欲しい。これから語られることは事実としては事実だが、語られる内容のなかに出てくる台詞が事実とは限らないということだ。しかし、確実に僕以外の人の身の上にも起きているはずのことである。


ことの発端は、こういうことだ。


 「りょうくん、落ち着いて聞いてね」


新潟の地方都市。城下町の面影が残る駅前の大通り。ずらりならんだビルヂング。

フルーツ屋の3階にある小さな塾で、ぼくの初恋の人は、その大きく潤んだ瞳で僕をじっと見据えて言った。


 「あなたは、天才なの」


そのとき僕がどう思ったかというと、「ああそうなんだ。やっぱりな」という感じであったと思う。

あとになってわかったことだが、子供というのは誰だって自分が特別な存在だと思って生きているものである。

時に9才。世の中の仕組みも、分別も、わかるはずもない。


 「あなたは100万人に1人の特別な才能を持った人間。でもそれは決してあなたが偉いんじゃない。それは神様があなたにくれた大切な贈り物なの」


 「そうなんだ。大切にしなきゃ」


 「そうよ。これから先の人生はあなたは自分自身のためではなく、あなた以外の大勢の人を幸せにして、みんなの未来をつくるのよ」


 「どうやって?」


 「先生はあなたのように特別ではないの。あなたが自分で勉強して、自分で考えるのよ。でもきっと、りょうくんがみんなを幸せにできれば、りょうくんにとっても幸せなはずよ」


台詞のディティールはともかく、こんな調子だったと思う。

最初はなにかいいことを言われたのかと思ったけれども、これは呪いの言葉だった。

その言葉とともに、僕は知能指数に関してのレポートを貰った。そこには200に少し届かない数字が書かれていた。

いま思い返すとあのテストの有効性自体もアヤシいものだ。しかしそれが夢や幻覚でない証拠に、そのご大層な知能テスト結果報告書はいまも実家にあるし、ビザの申請にも活躍した。

はじめ、身の回りに起きた変化は些細だった。

塾の学費が全額免除され、親は僕が興味を持ったものはなんでも買ってくれるようになった。最たるものは、パソコンだ。ファミコンすら買ってくれなかった父が、急に当時最新鋭のパソコンを買い与えてくれたのである。僕は事実上それを独占できた。僕にとってはかなりの幸福だ。


しかしそれだけでは終わらなかった。

塾の理事長*1に呼び出され、国立大学附属小学校に転入するように強く勧められた。強要されたに近い。

何人もの人に取り囲まれて、それ以外の返事は許されないような雰囲気だった。きっと秋葉原で欲しくもない絵を買う人は似た気分だろう*2

転入するとすぐに知能テストを受ける。

そのあとすぐに担任の渡辺先生に呼び出された。


 「清水、いいか。テストの結果は人に自慢するもんじゃないぞ。自分の胸のうちだけにしまっておけ」


何度も念を押されてテストの結果を渡された。


 「清水、お前は特別だ。だがそれを他人に言ってはいかん」


特別というのはどういうことなのか。僕にはわからなかった。少なくとも同級生と目立った違いがあったわけでもない。

だがこんなふうに少しずつ、しかし確実に僕の周囲は変わって行った。

全ては彼女の台詞以降におきたことだ。

その台詞がなぜ呪いの言葉なのかというと、それ以降、僕はなにをしても、なにを成し遂げても、たいした満足感が得られなくなってしまったからだ。



それどころか、恐怖で眠れなくなる夜のなんと多かったことか。

そのとき以来、親父は僕に毎週のように伝記を買ってきては読ませた。

偉人の伝記はとても面白いものが多かったけれども、偉人はやはり偉大すぎるのだった。


高校の勉強では完全に落ちこぼれた。

もうなにもかも興味がもてなかったし、たまにまじめに勉強しようとしても全く授業についていけなかった。


 「おかしい、おれはできるはずじゃなかったのか」


焦りは毎日のように重なり、「知能指数が高いというだけでは天才ではないし、勉強せずしてテストで高得点がとれるわけがない」という当然の真理にたどり着く頃にはとっくに置いてかれていた。


先生の言う台詞も僕の感情を逆なでし続けた。


 「おまえはやればできるはずだ」


「おまえは」という言葉の裏に、勝手にいろんな言葉が聞こえてしまう。それは気のせいだったのかもしれないし、この先生は誰に対しても同じように言っていたかもしれないけど、僕には幼い日に受けた衝撃がトラウマとして残っていた。「おまえは特別だ」と言われる恐怖は、何十年も続くのだ。


そのうち、先生も諦めたのか、


 「おまえだってやればできるはずだ」


と言う台詞に変わった。これはこれで余計にプライドが傷ついた。

全てはあの日、人生の歯車が狂ったことにある。その後、受験勉強をしなくても入れる大学に入り、入った後は授業もろくに受けずにバイトに明け暮れた。高校の授業についていけない奴が、大学の授業などわかるわけがない。

実際のところ、試しにひとつふたつ受けてみたのだけど、全く理解できるものはなかった。特に集合論微分積分基礎。未だに教科書だけはとってあるが、開くと良く眠れる睡眠誘導材の役割でしかない。



結局、4年たってもまだ一年生だった。もうこれ以上学校に居る根性もないので辞めてしまった。

サラリーマンとなってからは、仕事でささやかな成功(と言って良いと思う)を収めたけれども、そのたびに空しさが募った。


 「20代のとき、ガウスは、ゲーデルは、アラン・ケイファインマンはどうだったであろうか。僕は足下にも及ばない。今までの人生はなんだったのか。僕は凡夫ならば凡夫らしく生きてきたかった。一日汗して働いて、五時に帰ってビール飲んで寝るような生活をしたかった。親父のような」


気がつけば、学校はすでになく、僕を天才と呼んでくれる人もいなくなった。

本職の研究者になりたかったけど、大学は僕を認めてくれなかったし、僕も大学に認められるような人間にはなれなかった。僕にできることといえば、せいぜい、ベンチャー企業の片隅で、給料泥棒とののしられながらも自分のささやかな研究もどきの自習を続けることくらいで、燻るしか無かった。


大人になる過程で、僕にだって解ってきていた。

人間、誰しも、分というものがある。持って生まれた役割というものがある。

そして測定とか計量とかいうものが、いかに信用ならないかということ。

僕が知能テストを受けてその結果を知らされたのはあの時が最後で、そのあとは学校が定期的に行う知能テストしか受けていなかったし、そもそも知能テストが本当に知性の善し悪しを測るのかどうかも疑わしい。


しかし僕のそれまでの人生、少なくともあの時点から20年間に渡る人生というのは、それを前提、自分が天才であるのだという告知を前提として組み立てられてきたものだ。

幼い子供に、どうしてそれが詭弁であるとか、欺瞞であるとか、錯覚であるとかが想像できただろう。まわりの大人達は常にそう振る舞ってきたのだ。


 「どうもおれは偽物らしい」


そういう自覚が芽生えたのは、悲しいかな、就職してしばらくしてからだった。

なにしろ同僚に水野君に布留川くんが居た。彼らには逆立ちしようが棒高飛びしようがかないっこない。


それから独立して会社を作る時に、僕は誰にもいわなかったけれど、ひとつの決意を秘めていた。

それは、「天才を肯定する」ということだ。

僕はそれまで、天才と呼ばれる人や自分自身がそう呼ばれることを、半ば意図的に避けてきた。

天才という言葉そのものに嫌悪感を持っていた。

僕はよく泥酔するが、ときどき、本当に最悪なレベルまで泥酔して自分の境遇を愚痴ることがあった。

上司は取り乱した僕をよく理解し、温かく受け止めてくれた。それにどれほど救われたか知れない。



自分が天才として育てられ、自分を天才と思い込み、苦悩し、葛藤しながら生きてきた一人の凡夫にとって、真の天才とはまばゆいばかりの輝きを放つ宝石のようだった。

僕のような偽物の天才、たとえるならライカに対するコンタックスというか、持たざる者が持つ者に対して抱くもやもやというのは思春期の恋愛のようなもので、言語を絶するような激情である。

だからそれまでの僕は、天才と呼ばれる人を見る度に片っ端から否定するか、無視していた。


たぶん僕は小野和俊さんのインタビュー記事を20代の前半に呼んだことがあったはずだけど、そのときは本当にストレートに嫌悪していた。当時の小野さん(いまでもかもしれないが)は「天才技術者が起業家へ転身」のような論調で語られていた。

今検索すると、こんなスレッドもでてくる

Access denied | money6.2ch.net used CloudFlare to restrict access

ストレートに自分を天才と認められること、成人しても天才と周囲に認められていることが、とても率直に言うと、羨ましかった。妬んでいたんだと思う。

未踏ソフトウェアもそうだ。「なにが天才プログラマーだ。恥を知れ」と思っていたのだ。結局、天才とは認められるものであって、立候補するものではないと思っていたからである。



それからしばらくして、僕が初めて小野さんに逢ったのは、自分が「天才を認める」という決意をして会社をつくった後で、そのときはそれほどの嫉妬というか緊張感はなかった。

実際のところ、小野さんというのは、最高にチャーミングで面白くてフレンドリーで、ときどき鼻持ちならない*3けど、決して嫌味ではないナイスガイだった。抱かれてもいい(嫌だけど)。


小野さん、楠さん、鈴木健さん、中島謙互さんと初めて飲んだ夜は今でも忘れられない。


 「清水さん、僕はあなたが書いた雑誌記事を呼んでいたよ。それで今は、どんなコードを書いて人類社会の発展に貢献しようとしているんだい?」


同世代の彼らから、誰ともなしにこんなことを聞かれて、僕は自分がさらに恥ずかしくなった。

その当時、会社をつくったばかりで食べるのにすら困っていた僕はせこいことしか考えてなかったし、そのとき書いていたコードは、グラビアサイトの編集者に頼まれて作った、ケータイを開くたびにアイドルの壁紙が変化するという、およそ人類の堕落にこそ貢献すれ、進化にはまったく貢献しないであろうアプリだったからだ。

そして僕はひとつの安心を得た。


 「ああ、この人たちは本当の天才なんだ。きちんと一流大学を卒業して、コードも書けて、会社まで経営してる。こういう人たちが本物で、僕は自分が天才だと勘違いして生きてきたマヌケなんだ。けれども僕は人類への貢献という重圧を、もう自分で意識するほど背負わなくて良いんだ」


この飲み会以前の僕というのは、もの凄く暗かった。

「人類に貢献しろといわれたけど、100万人に1人って、1億人に 100人も居るじゃないか。60置に6000人。それだけ居れば、僕なんかどうってことない。けど、100人しかいないとも言えるし、この業界に本当にそんなに人は居るのか。そいつは僕と同じ暗いに若いのだろうか。しかし僕はとても天才的と呼ばれるようなことはなにひとつできていない。アイドルサイトのオマケアプリを作ってアパートの家賃が払えるか払えないか、そんな生活をしている奴が、人類に貢献できるわけがない」

けれども、本当に天才と呼ばれる同世代の人たちに逢って、僕はとても安心できた。それどころか、それまでの人生で出会った誰よりも、彼らを好きになった。

そりゃ、サラリーマン時代には、中本伸一さんや西田先生、森田和郎さんや桝田省司さんや遠藤雅伸さんや内藤貫さん、オットー・バークス*4、ジョン・ロメロ*5、古川亨さん、altyさん、恋塚さんにも逢っている。そのときに天才というもののその片鱗くらいは理解できてれば良かったんだけど、そういう人は僕にとって既に偉人であって、いまひとつ実感として湧かなかった。

けど同世代の人々が真に天才として活躍しているのを眼前にして、僕はやっと安心できたのだと思う。

僕がやらなくても、彼らがなんとかしてくれる、という安心だったのかもしれない。

だからそれからいっそう「天才」というものを直視できるようになった。

これは大きな前進だったと思う。

その御陰で身近な天才にも気がつくことができた。布留川くんや水野くん、そしてシン石丸だ。


それから、世の中には天才といってもいろいろなタイプがあり、彼らのぜんぶがぜんぶ、小野さんや中嶋さんのようにたくましく生きられるという訳でもないことが解った。

だから僕は、残念ながら自分は天才としては偽物だったけれども、天才を最も理解した凡人の経営者になろうと思った。


天才とは、F1カーでいえばエンジンである。エンジンはレースの要だが、それを受け止めるシャシーと、恐れを知らずにアクセルを踏み込み、絶妙なタイミングでコントロールするドライバーが必要だ。そしてそのドライバー、メカニック、その他もろもろのスタッフを監督するコンダクターが必要で、僕はエンジンにはなれないけれども、自分が生涯を通して感じてきた「天才」なるものへのあこがれと嫉妬の歴史をコンダクターとして活用することはできるのではないかと考えた。

要するに僕は「逆みにくいアヒルの子」だ。白鳥の群れにまじっていたアヒル、というわけである。

それでも白鳥の世界には誰よりも精通したアヒルというのは、そういう人間以外にはいまい。

そういう心の葛藤があって、それから僕は初めて堂々と、ぼくは「君は天才だ」と言えるようになった。

とても屈折した感情だけれども、それがいまは僕の最上級の褒め言葉になった。

そして僕は自分が本当の天才になれなかったかわりに、「天才を研究し、天才に貢献する人」という自分の分、役割、使命を見つけた。

幼稚園の理事長先生には少し申し訳ない気もするけど、これが僕の領分というやつで、これにしたって時折手に余ることがある。

けれども僕はビル・ゲイツエリック・シュミットと違って、社長はぜんぜん天才ではないけれども、天才の良き理解者としての立場や仕事というものに、大きなやりがいを感じている。


それに考えようによっては、自分自身が天才であるよりも、数多くの天才の偉大なる仕事をたくさん手伝った方が、より効率的に人類に貢献できるではないか。

そういう意味では僕は初恋の人との約束を守っていることになる。

*1:そして彼女は僕の幼稚園の理事長でもあった

*2:あとから聞いたら、そのとき通っていた公立の小学校の担任がさじを投げたのだと言う話もあった。従っていまとなっては僕が転入する羽目になったのは自分の意思だったのか、それとも学校で問題をおこしたせいなのか(問題は数多く起こしていたのでどれが決定打だったのかわからない)、全く解らない。

*3:かっこ良すぎるしモテすぎて

*4xboxの設計者の一人

*5:DOOMのゲームデザイナー